「常に喜び、絶えず祈り、万事に感謝せよ」
聖書:第一 テサロニケ 5章16節~19節
牧師:佐藤勝徳

【はじめに】

私達の教会は、2月22日の総会において、Ⅰテサロニケ5章16節~18節の御言葉を、今年の教会の歩みの為の標語聖句とする事を取り決めましたので、改めて、その御言葉の意味をご一緒に学び、その御言葉を単に標語聖句に留まらせず、お互いが実践できるように神さまの助けを祈り求めたいと思います。

「常に喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝せよ」という御言葉ほど、創造主の神さまとの関係において人に正しい生き方を明確に教えている聖句は他に無いように思います。もし、この御言葉を日々実践すればその人は必ず幸せな日々を送ること間違いありません。なぜなら、その実践を創造主の天の父なる神が、キリストにあって全ての人に求めておられる愛のリクエストだからです。「常に喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝する」事は、私たちへの神の愛のリクエストです。神さまはは愛に満ちたお方ですので、その愛のリクエストを実践すれば必ず、その人を祝福し喜びと平安とで満たし、その人を最高に幸せな人生を送れるようにして下さる事間違いありません。もし、あなたが最高に幸せな人生を送りたければ、「常に喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝せよ」と言う、キリスト・イエスにあっての父なる神のリクエストに喜んでお答えして日々実践すれば良いわけです。その実践の秘訣を学ぶ為には、まず、そのリクエストがキリスト・イエスにあっての父なる神の求めだという事を理解しておく必要があります。

Ⅰなぜ、父なる神さまは常に喜び、絶えず祈り、万事に感謝する事をお求めか
1、父なる神について
 まず、私達はキリストの父なる神さまの事を正しく理解しておく必要があります。聖書は開口一番「初めに神が天と地を創造された」と、教えているように、現在の天地万物は全て神が創造された事を教えています。つまり、神は愛と正義と力と知恵によって天地万物を創造された創造主であり、聖なるお方だという事を聖書は一貫して教えています。人間の神経は全部繋ぎ合わせると約100万キロもあると言われています。地球と月の間を2往復半もあります。日本の全ての電線の長さは約9万キロと言われていますが、神経の長さはその約10倍もあるのですその神経が体中に張り巡らされて、体のあらゆる器官に必要な情報を送り、又、情報を受け取って各器官が健全に働くようにしています。私達人間が肉体的にも精神的にも幸せを感じながら生きて行く上で、100万キロの神経がからだ中に見事に、神の知恵によって精密に、緻密に張り巡らせられています。また、人の血管は約10万キロもあります。地球を2周半する長さです。人間の命の保持に血は欠かせません。人間の身体は100万キロもある神経と10万キロもある血管が張り巡らせ見事なネットワークによって人間の身体を保持しているのです。そのような、神経や血管が果たして、進化論者が教えるように、目的意識をもってデザインしたり、知恵を働かせたり、力を働かせたり、愛を働かせることが一切ない「偶然」が、生み出すことができるでしょうか。目的意識をもってデザインしたり、知恵を働かせたり、力を働かせたり、愛を働かせることが無い「偶然」は無秩序と言う混乱と混沌しか生み出すことが出来ません。そのような偶然は、人間の身体の健康の為と言う明確な目的意識をもってデザインされ、知恵を尽くして張り巡らされている神経や血管を生み出す事はあり得ません。聖書は、人間を含め天地万物は、創造主が、一番良い事、最高に幸せな事として、創造されたのです。旧約聖書の創世記1章において、神が天地万物を6日間で創造された事が教えられています。6に間の創造を終えられた時、神はその全てをご覧になって「はなはだ良かった」と、大変感動された事が教えられています。
◆「創1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」
2、御子なる神さまが天地万物を直接創造された
しかし、父なる神が直接天地万物をお造りになったのではなく、ひとり子の御子なる神さまが、父なる神がデザインし設計された天地万物を、父なる神の命令に従って創造されたのです。私達や天地万物は、御子なる神であるイエス・キリストが直接お造り下さった創造主なのです。
◆「コロ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
3、創造主の父なる神さまは天地万物の存在を保っておられる
 神が創造された天地万物が失われずその存在が保たれているのは、父なる神さまのご指示に従っている御子なる神さまであるイエス・キリストの言葉の力によっていると聖書は教えています。私達の住んでいる天地万物は、放置されたままだと、エントロピーの法則(形あるものは崩れ、破壊されていく。熱いものは冷める)によってたちまち滅びてしまいますが、そうならないように、父なる神さまは御子なる神さまであるイエス・キリストによって保持されているのです。
◆「ヘブル神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」
4、父なる神さまは天から御子なる神さまによって天地万物を愛と正義によって統治されている
◆「詩 47:2 まことにいと高き方【主】は恐るべき方。全地を治める大いなる王。」
◆「詩 103:19 【主】は天にご自分の王座を堅く立てその王国はすべてを統べ治める。」
 全宇宙と全知を治める主権を父なる神は御子なるキリストに与え、御子が天地万物を実際に愛と正義によって統治されています。
◆「ローマ9:5・・・このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」
5、父なる神さまの万物に対する内在性(普遍性)、貫き性、超越性
父なる神さまは天におられるだけでなく、万物の中に内在され、万物を貫かれ、万物を超越されながら、御子によって天地万物を保持し、統治されている無限の神さまです。
◆「エペ 4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」
以上の、父なる神さまが万物の中におられるという事は、空気の中に、自然の草花、樹木、山、川、海、月、太陽、等全ての星、人間の神経や血管や全ての器官、頭の中にもおられる事を意味しています。つまり、私達は、愛と正義に満ちた創造主に空気のように囲まれながら、生かされているのです。パウロはそのその事実を次のように教えています。
◆「使17:27・・確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」
私達全てのものは、愛と正義と知恵と力に満ちた良きお方の中に生かされ、動かされ、存在させられているのです。
パウロが、何故いつも喜び、絶えず祈り、全ての事を感謝する事が、キリスト・イエスにあって神が全ての人に求められているのか、その根本的な理由は、愛と正義と知恵と力に満ち、いつも喜ばしき最善のみをなされている神さまが天地万物を創造し、天地万物を保持し、天地万物を統治し、更に、万物の中に内在し、万物を貫き、万物を超越され、私達はその方の喜ばしき愛と正義と知恵と力の中で生かされ、動かされ、存在する事が出来ているという事実によるのです。私達は、私たちを創造し生かして下さっている創造主の父なる神さまによっていつも喜び讃えるべき最高最善の出来事に包まれ、覆われて生かされているので、パウロは「いつも喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝しなさい」と教えたのです。
次に、私たちが知らなければならない真理は、父なる神さまは、キリスト・イエスにあってその事を求めておられるという事実です。

Ⅱ キリスト・イエスにあっての意味
 「キリスト・イエスにあって」と言うのは、キリスト・イエスに結びついてと言う意味があります。つまり、聖書が教えている通り「2000年昔、神の子が聖霊によって母マリヤによってユダヤのベツレヘムに生まれ、ナザレの村でお育ちになり、多くの奇跡によって病人を癒し、愛と正義の神の言葉を語り、愛と正義に満ちた罪なき生涯を歩み、最後がエルサレムのゴルゴダの丘で全人類の罪を背負って十字架にかかり、父なる神から罪に満ちた人類の身代わりに刑罰をお受けになり、尊い罪なき血を流され、葬られ、三日目に永遠に朽ちない栄光の体で甦り、天に昇り、今も天において生きて、全人類の為にとりなしの祈りを捧げておられる、イエス・キリスト」を自分の罪から救い主、つまり、父なる神さまの裁きから永遠に救って下さる救い主だと信じる事が、キリスト・イエスに結び付き、キリスト・イエスにある者となるという事です。
キリストを信じて、父なる神によって永遠に罪が赦され、聖霊により実際に良心の呵責から解放された人は、永遠に安心して、平安と平和の中で、愛と正義に満ちた偉大なる創造主である天の父なる神さまと生きた愛の交わりの中に生きる者となり、いつも喜び、絶えず祈り、万事に感謝する土台を得た事になります。もし、神さまによって罪がゆるされなければ、いつも良心の呵責によって心が落ち着かなくて、いつも喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝する事が出来ません。 いつも喜び、絶えず祈り、万事に感謝するという、幸福な人生を手に入れるには、十字架のキリストをわが救い主と信じてキリストと結ばれ「キリストにある者」となる事が必要です。 いつも喜び、絶えず祈り、万事に感謝を捧げると言う実践を妨げる最大の原因は、良心の呵責にありますので、是非、キリストを信じて、聖霊により実際に良心のから解放されるという救いの恵みに与っていただきたいと思います。

Ⅲなぜ、十字架のキリストを信じなければ罪が赦されないのか
 では、なぜ十字架のイエス・キリストを信じなければ罪が赦されないのか、その根本的な理由をお伝えいたします。
1, 人間はみな罪びとだ
 人間には、全ての人に罪を罪として認識させる良心と言う機能が、心の中にあります。人から、非難されたり、指摘されたりする前に、良心がその人に働いて内部から自分の罪を知らされています。その良心の働きによって、人は全て自分が罪びとだと知らされています。多くの人は聖書が指摘する罪を学ぶと、納得します。それは、良心を通して罪とは何かを知らされているからです。キリストは罪について次のように教えられました。
◆「マタ15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。 15:17 口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。 15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。 15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。 15:20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
私は、クリスチャンになる前の18歳の時、キリストの罪に関する教えを聖書によって知らされた時、わたしは、自分の心が如何に罪に満ちているのかを知らされ、もし、私の心の罪を映画のスクリーンのように映像で示されたら、私は終わりだと思いました。顔を上げて歩く事が出来ないと、初めて自分に絶望した事を覚えています。
ある人は、パウロの指摘する罪の殆どが自分にあてはまる事を知って、罪深い自分に絶望し、イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じたと証をされていました。パウロは人類の罪を次のように指摘しています。
◆「ロマ3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
如何でしょうか。キリストやパウロが教える私達罪びとの罪の目録を見れば、多くが自分に当てはまるとお感じになるのではないでしょうか。私達は、罪や言葉の罪や行いの罪等、多くの罪を犯しているので良心の呵責で苦しんでいるのではないでしょうか。良心の鋭さは、人によって異なりますが、それでも全ての人は間違いなく、良心によって自分は裁かれるべき存在だという事を知っています。それ故に、一人なった時に、静かにしていると色々な罪を思いだして、再び良心の呵責に襲われて、心が暗くなったり、心がうつ状態になったりしているのではないでしょうか。しかし、良心の呵責に苦しむ自分を誰が自分を裁くのか、それを正しく認識している人は少ないかもしれません。何となく人間を超えた方、神さまが裁かれるのではないかと心のどこかにかすかに思っている方が多いのではないかと思います。先日、置き薬の営業マンが教会に来られました。その営業マンは受けつけの壁に飾っている聖句を見て次のように言われました。「『愛を多くの罪を覆う』はいい言葉ですね。私は、なんとなくですが、人間を裁く神さまがおられるように思うんです。自分が、調子に乗っていると、不思議に悪い事が起きるんです。その時、神さまがおられると思うんです」と。私は、「そうですね、人間には良心があって人間を裁く神さまがおられる事が示されていますね」と返事し、新約聖書をや教会の文書を3~4つ差し上げました。良心を通して裁く方がいるという事をなんとなく知らされている「そのお方」について学びたいと思います。誰が、人類を裁くのか、自分を裁くのか、その事を深く考えてみましょう。

2、誰が裁くのか
① 愛と正義において完璧なお方
 まず、裁く方は、罪のない正義のお方、愛に満ちた愛情豊かなお方でなければなりません。もし、正義にかけ、愛情にかけていれば、その方は、人の罪を裁く資格がありません。泥棒が、泥棒に向かってお前盗むなと裁く事が出来ないと同じです。裁く方は、正義と愛において完璧でなければなりません。正義と愛において完璧なお方は、一体どこにおられるでしょうか。それは聖書に啓示されている創造主の神さま以外に存在しません。
② 全知のお方
 次に、人類の全ての罪を全て知っている、全知の方でなければなりません。そうでなければ、間違った裁きをする可能性があります。間違った裁きをしない方、全人類の全て罪を知っている、全知のお方はどこにおられるでしょうか。それは、聖書が啓示する天地万物を創造された全知の神さまです。
◆「ヘブル 4:13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」
③ 全能の主権者
 全知であっても、その裁きを正しく実行できる全能の力と権威が無ければ、誰かに邪魔をされて裁きを正しく執行する事が出来なくなる危険性があります。そのような、全能の方で主権に満ちたお方はどこにおられるのでしょうか。それは聖書が啓示している、王の王、主の主である主権者の全能の神です。愛と正義において完璧なお方、全知のお方、主の主である全能の神さまだけが、人類の罪、一人一人の罪を正しく裁く資格がある唯一のお方です。
3、 誰が罪びとを赦すのか
① 人類の罪を裁く唯一のお方だけが人の罪を赦す事が出来る
 私達の罪を裁かずに、赦す事が出来るのは、罪を裁くことができる唯一の愛と正義に満ちた全知全能の父なる神さまだけです。罪を裁くことができる唯一のお方が「赦す」と宣言すれば、当然誰もが赦されるのです。人の罪を裁く事が出来る唯一の全知全能の神さまは、愛のお方ですので、ご自身の最後の審判で誰ひとり裁かれる事を喜ばれません。パウロは、そのお方を次のように教えました。
◆「Ⅰテモ2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」と。預言者のエゼキエルも同じことを教えています。
◆「エゼ 33:11 彼らにこう言え。『わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」「わたしは決して悪しき者の死を喜ばない」。
全知全能の創造主の神さまは、「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と言う聖書の言葉は、罪に厳格な正義のお方は、同時に愛と赦しに満ちたお方だと私たちに教えています。
② 神さまが設けられた赦しの為のご計画
 では、愛と正義に満ちた神さまが、私達の罪を赦す為にどのような事をご計画されたのでしょうか。それは、神が神であるという事を失わない方法、つまり、ご自身の栄光が損なわれない方法によって人の罪を赦すという事をお考えになったです。
正義と言うのは、罪を厳しく指摘し、責めるだけでなく、罪を正しく裁く事です。人間の犯す罪は、全て神の正義の前には「死罪に価する事を神さまは人の良心を通して教えておられます。パウロが次のように教えています。
◆「ロマ1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」
パウロは全ての人間が、自分の犯す妬みの罪や恨みの罪や憎しみの罪、傲慢の罪、無情の罪など様々な罪が「死罪に価する事を知っている」と、教えています。 人間の、死罪に価する罪が赦される為には、どれほど、難行苦行を行っても、どれほど、善行を積んでも、どれほ、ど多くの献金をしても、どれほど、礼拝に熱心に集っても、どれほ、ど聖書を多く読んでも、それらは、いずれも死罪に価する罪の償いにはならないのです。それらの善行は、善行として良い事ですが、死罪に価する罪の償い、贖罪には、役に立たないものです。
ある人が盗みの罪で、警察に逮捕されました。彼は、逮捕されるまで、罪の償いの為に、一生懸命善行を重ね努力をし、公職にも付き、町の人々から深い尊敬と信頼を受けていました。そうした自分の真面目な生活の故に、逮捕された時に、警察官に次のように弁明しました。「私は、泥棒をした事を悔い、二度と泥棒をしない事に務め、又、その為の償いとして真面目に働き生きてきましたので、それで赦してくれませんかね」と。警察官は答えました。「あなたが罪を悔い改めて立派に生きてこられた事には感心します。しかし、私達の国には、泥棒を働けば、その罪が赦される為に法律がありますので、その法律に従って罪を償ってもらわないと、あなたの罪は赦されないのです」と答えたというのです。その警察官が答えたように、私達の死罪に価する罪が赦されるには、人を裁く事が出来る神さまが決められた償いの方法に従う以外にないのです。神さまは死罪に価する罪を、死以外の償いの方法で赦す事は神の正義に反しますので、死以外の償いでは人の罪を赦す事が出きません。しかし、死罪に価する罪を犯している罪びとが全部死刑にされて裁かれてしまえば、神の罪びとを赦し祝福したいという、神の愛が損なわれてしまいます。そこで、父なる神はご自身の正義と愛が損なわれない方法で、私達罪びとをお許し下さる方法をお考え下さったのです。それが、罪びとの全ての死罪の罪を御子なる神であるイエス・キリストに負わせて、ご自身が決められた時と決められた十字架で身代りに裁くという方法でした。その事が、旧約聖書の特にイザヤ書53章で預言されました。十字架と言う言葉はありませんが、死刑によってキリスト(メシヤ)の死が預言され、その死が人類の罪を償う為の身代わりの刑罰だと教えられています。

「イザ53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

このイザヤの預言を引用して使徒ペテロも次のように教えました。

◆「Ⅰペテ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」
ペテロの教えによれば、キリストは十字架で私やあなたが一生涯において犯す全ての死罪に価する罪を全部負われた事になります。あなたや、私が、生まれてから今日まで犯してきた思いの罪、言葉の罪、行いの罪、死罪に価する罪は、あなたから取り除かれて、2000年昔のエルサレムのゴルゴダの丘で十字架にかかれたキリストの上に置かれたのです。私達の死罪に価する罪を負われたキリストは、父なる神から身代わりの刑罰をお受けになりましたので、人類の全ての死罪に価する罪の償い、罪の贖いがその時に完了したのです。2000年、昔、あのゴルゴダの丘のキリストが十字架で死なれた時に、父なる神は「あなたの罪を赦された」と、宣言されていたのです。キリストは、罪なきお方として、私達の罪を全部負って下さったので罪びととして神さまから裁かれ、身代わりに死の刑罰を受けられ、それによって、私達の死罪に価する罪の償い、贖いが完成しました。キリストは、その事を十字架で死なれる直前に宣言されました。
◆「ヨハ 19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」
完了したという言葉は、商業用の言葉で、借金を全部返済した時に使用されたことばでした。ギリシャ語で「テテレスタイ」と言います。直訳では「完済」となります。

③ あなたの罪の償いは2000年前に実現した
キリストは、あなたや私の一生涯の死罪に価する罪を全部私たちから取り除き、その罪を全部十字架で背負って下さって、身代わりの刑罰を受け、罪を完全に償い、私たちを死の刑罰から完全にお救い下さったのです。キリストの十字架の死によって私達の全ての罪は神の御前から完全に取り除かれたのです。誰が何と言おうとも、それは神が私達の為になされた救いの御業です。ヘブル書で次のように教えられています。
◆「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」
あなたの罪は、いつ神の御前から取り除かれ、償われましたか。あなたはいつ永遠の裁きから解放されましたか。それは、あなたが、生まれるはるか2000年前の、あのエルサレムのゴルゴダの丘のキリストの十字架の死によって、既に実現していたのです。それは、あなたが生まれる前、あなたの信仰に関係なく、神の愛と憐れみと恵みの意志によってなされた神の救いの御業です。それが、神のなされた歴史的救いの御業、救いの事実なのです。あなたは、その事実を事実として信じるだけで言いのです。その信仰は正しいので、神さまはその信仰を持つ人を「永遠に義人」と認め、聖霊を働かせて、心を苦しめている良心の呵責から実際に救って下さるのです。それによって、心は神さまに罪赦された喜びと平安が支配し、神さまの御言葉を実践する意欲と力が与えられるのです。下の図がその事を教えています。


私たちが、神のリクエストである「いつも喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝せよ」という御言葉を実践するには、2000年昔の、キリストの十字架によって、既に自分の罪が神の御前から永遠に取り除かれ、永遠に赦されている事を信じる信仰に働く聖霊によって良心の呵責から完全に解放されておく事です。その人は、偉大なる全知全能の創造主の神さまと何の遠慮もなく仲良くお付き合いが出来、ますます、聖霊の働きを受け、聖霊の力で御言葉を実践する人にされるのです。
神さまによって、永遠に罪が赦された事を確信する人は、いつでも、どこでも、どんな時でも何の遠慮もなく偉大なる父なる神さまに大胆にお近づきして、いつでも神さまと仲良くお付き合いができるのです。永遠に罪赦されたキリスト者がいつでもどこでもどんな時でも何の遠慮もなく父なる神さまとキリストに大胆に近づくことができる事を教えている聖句を紹介します。
◆「エペ 3:12 私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。
◆「ヘブル 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
◆「ヘブル 10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」
もし、あなたが、愛をもって空気のように私たちを取り囲んで下さっている、偉大なる全知全能の愛に満ち溢れた霊なる天の父なる神さまと、何の遠慮もなく、いつでもどこでも、どんな時でも永遠に仲良く楽しくお付き合いして、お交わりができれば、誰も、あなたに敵対する事は出来ません。なぜなら全知全能の偉大なる神さまが味方であるからです。パウロが次のように教えています。
◆「ロマ8:31・・神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
【終わりに】
キリスト・イエスにあるというのは、十字架にかかられたイエス・キリストを自分の救い主だと認めて、神さまから、永遠に罪赦されて、神さまと永遠に仲良くお付き合いできる者とされているという事です。
全ての人は目をつむって下さい、2000年昔、イエス・キリストが十字架で自分の罪を全部背負って身代わりの刑罰を受けられたので、自分の一生涯の罪は既に償われ、神さまによって既に永遠に赦されている事実を認める人は、その場で神さまに向かって手を挙げて下さい。