2026年5月31日礼拝メッセージ
「キリストの御体なる教会」
聖書: エペソ1章17節~19節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
兄弟姉妹方のお祈りにより、先週のペンテコステの礼拝と午後の映画会が大変祝福されましたことを感謝します。
2000年昔のユダヤの五旬節の時、つまりペンテコステの日に、天からキリストが約120名のご自身の弟子たちに聖霊を降され、ご自身の御体なる教会を誕生させられました。午後は、久米小百合さんが旅人なって長崎の原爆によって被災されたカトリックの信者さんの苦しみの痕跡と、長崎の迫害を受けた隠れキリシタンの苦しみ痕跡を辿る神の沈黙と言うタイトルのDVDによる映画を鑑賞しました。私たちにはカトリックのようにマリア信仰はありませんが、キリストが救い主だという信仰は同じです。色々な違いあっても、十字架で人類の罪を背負って身代わりの刑罰をお受け下さったという信仰においては一つに結ばれています。教会と言うのは、聖霊降臨以後から、キリストの空中再臨迄の時代の間、十字架のキリストを救い主だと信じる全てのキリスト者によって構成されているキリストの御体なる教会を意味しています。聖霊降臨以降、世界に多くのキリスト者が生まれ、多くの教会が誕生してきました。教会と言うのは、建物や組織の事ではありません。キリストを中心としたキリスト者の集まり、つまりキリスト信徒の集合体を意味しています。教会堂や組織の規約と言うのは、キリスト信徒の集合体が集合体としてキリストに聖霊によって仕える為に存在しています。ですか建物や組織の規約はその為に大事ですが、それ以上ではないのです。もし、建物や組織の規約がキリスト信徒の集合体の交わり、つまり御霊に聞き従う事を損なうような事があれば、排除しなければなりません。
1、普遍的教会
聖霊降臨によって誕生したキリストの御体なる教会と言うのは、主の空中再臨迄の過去現在未来の教団教派を超えた全てのキリスト者、時場所空間を超えた全てキリスト者、全世界の全てキリスト者によって構成されているのです。その教会を神学的には目に見えない「普遍的教会」と呼んでいます。普遍と言うのは、遍く、あらゆる場所の普遍です。私たちは、米子復活教会と言う一つの地域教会に所属していますが、同時に普遍的教会の一員となっているのです。私たちは、教団教派によって、異なる教理がありますが、どれだけ異なる教理があっても、十字架に掛かられ、三日目にご復活をされたイエス・キリストを救い主と信じているならば、どんな教団教派のキリストとも、キリストの御体なる教会のお互い一員である事を認め合って、喜び合って主にあっての交わりを楽しむ事が重要です。教団主義、教派主義、地域教会主義となって、狭い交わりにこだわらない注意をしましょう。一つの教団教派及び一つ地域教会に所属していながらも、過去現在未来の全てキリスト者、全世界の全てのキリスト者、なくなって天に旅立ち、霊において天に召された全てのキリスト者、迫害で殉教し天に召されたキリシタンの方々も含めてキリストの御体なる教会は構成されているのです。
2、教会の頭であるキリスト
パウロは、エペソ1章20節から23節でキリストの御体なる教会の頭であるキリストについて次のように教えています。「1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、 1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
教会の頭であるキリストについてパウロ教えを箇条書きにすると以下のようになります。
①神の全能の力で甦った
②天上の父なる神の右の座に着いた。
③今の世から後の世までの万物の永遠の王となった。
キリストを頭とする教会についてのパウロの教えを箇条書きにすると以下のようになります。
①全てを足の下に置き、全ての物の頭となったキリストを頭とするところである。
②キリストのからだである。
③全てのものを全てのものによって満たすキリストが満ちておられるところである。
3、キリストの御体なる教会に所属するキリスト者は聖徒である
私達キリスト者は、キリストの御体なる普遍的な教会に属し、また、地域教会と言うキリストの御体なる教会に属しています。人数は関係がありません。人数は多かろうが少なかろうが関係ありません。その事をキリストは「二人三人が私の名によって集まる所にわたしはいる」と、教えられました。私達にとって大事な認識は、自分は普遍的なキリストの御体なる教会の一員であり、同時に、地域教会の一つキリストの御体なる教会の一員として召されているという認識と自覚です。教会と訳されているギリシャ語は「エクレシア」と言い、その意味は召された者の集まりと言う事です。十字架で死に三日目に甦られたキリストを唯一の自分の救い主だと信じている人は、全てが天地万物を創造された偉大なる聖なる神さまによって召された聖徒です。色々な長所や欠点があるがままで、そのキリスト者は神に召された大変尊い聖徒なのです。
パウロは、あいさつ文で、異邦人のエペソの地域教会に所属するキリスト者の事を「聖徒」と呼んでいます。
◆「1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」
パウロは、聖徒の前に「忠実な」をいれて、エペソのキリストたちへ深い尊敬の念を抱いている事を挨拶で示しています。
4、なぜ聖徒なのか
ではなぜ、パウロはエペソのキリスト者を「聖徒」と呼んだのでしょうか。パウロはその理由を1章節~6節教えています。
◆「1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
以上の理由を箇条書きにすると次のようになります。
【理由】
①既に、全てのキリスト者は天にある全ての霊的祝福で祝福されている。
この聖句の意味を以前にもお伝えした事がありますが、全てのキリスト者は天にある全ての霊的祝福で既に永遠に祝福の中におかれているという事です。 それは、永遠の昔から天地万物が創造される前から祝福の中に永遠に置かれているという事です。現在の地上のキリスト者がどのような欠点があろうとも、そのキリスト者は神の祝福の中に存在し生かされているのです。天にある全ての霊的祝福と言うのは、具合的にはパウロは教えていませんが、この地上からは天の祝福は見えませんので、「霊的祝福」と呼んでいます。キリスト者は天にある全て霊的祝福で祝福されているので、パウロはキリスト者を「聖徒」と呼びました。私たちは、お互いに神の祝福の中に存在し生かされている神の聖徒だと認め合って尊びあって喜び合いましょう。
②天地万物の創造前から神の御前に聖く傷の無いものとなるように、キリストにあって選ばれている
第2番目の理由は、キリスト者は天地万物が創造される前、つまり世界の基が置かれる前から聖く、傷の無い者となるように選ばれていた事です。神さまのビジョンは、この世界にイスラエルを通して、神の似姿を回復した人物で満たすという事ですが、神の似姿を回復した人物が「心が聖く、傷の無い人」の事を意味しています。私達キリスト者は、そのような人物になる事を願って天地万物が創造される前から神さまによって選ばれた者です。それ故に、パウロは、全てのキリスト者を「聖徒」と呼んだのです。私たちがキリストを信じて罪が永遠に赦され永遠の命と永遠の神の聖なる性質に与った目的は「聖く、傷の無い者」となる為です。神さまはその為に、キリストによってパウロがローマ書5章12節から8章39節において教えている「聖化の福音」が与えられているのです。残存している私たちを苦しめる邪悪な古き我はキリスト共に十字架で死に、キリストと共に甦って新しい人となり、キリストのように聖く正しく愛と赦しに満ちて生きる者とされました。そのきよめの福音に日々安んじ歩めば、聖霊様によって心に御霊の実を結びながら歩むという事を主は体験させて下さるのです。日々、そのきよめの福音に立って、聖霊の細き御声に聞きしたがう時、霊なる主は聖霊によって「私たちを栄光から栄光へ主と同じ姿に変えて下さる」という、漸進的聖化の恵みに与らせて下さり、天の父の御心である「聖く、傷の無い者」とされて行くのです。
全てのキリスト者は、天の父によって、天地の造られる前から「聖句、傷の無い者」となるように願って選ばれているので、パウロはキリスト者の事を「聖徒」と呼びました。私たちキリスト者は、どんなに欠点があってもお互いは天地万物の創造の前、永遠の昔に、父なる神によって「聖く、傷の無い者」となる事を願って選ばれた聖徒同士だと認め合い、尊敬し合い、喜び合いましょう。
③キリストにあって、ご自分の御心に従ってご自分の子にしようと愛をもって定められた。
第3番目の理由は、天の父は、天地万物の造られる前に、全てのキリスト者をご自分の御心で判断された事に従って、ご自分の子にしようと愛をもって定めておられた事です。「聖く、傷の無い者」になるように選ばれたという事は、天の父の「子ども」になる事でした。天に父は天地万物が創造される前から愛もって、全てのキリスト者を神の子と定めておられたのです。ですから、キリストを信じた全てのキリスト者の心には「アバ父よ」と呼ぶ御子の霊が与えられ、キリスト者をすべて神の子とされたのです。どんなに欠点があっても、キリスト者は互いに「神の子」だと認め合い、喜び合い、尊敬し合いましょう。
5、聖徒となった目的
以上が、キリストが聖徒と呼ばれている理由です。キリスト者が聖徒された目的を6節が教ええている。それはキリストを通してキリスト者に与えられた恵みの栄光が褒め称えられる為です。
6、恵みの栄光とは
キリスト者に与えられた恵みの栄光とはなんでしょうか。以前に、恵みの福音には11あると、お伝えしました。永遠の罪の赦し、新生、三位一体の神の内住、聖化と栄化の恵み、体の贖いの恵み、キリストの御体なる教会の一員となる恵み、天に国籍を持つ恵み、万物の所有権の恵み、天の全ての祝福で祝福されている恵み、メシヤ的王国の住民となる恵み、黙示録の新天新地の住民となる恵みの11の福音です。その11の福音の恵みは全てのキリスト者に与えられています、その一つ一つの恵みが神の栄光を現しているのです。キリスト者が日々その一つ一つを喜び感謝し希望として歩む事が、神の栄光を顕し、多くの人々から神がほめたたられることに繋がって行くのです。
以前、表で表しました「11の福音の全体像」を、是非、暗記していただき、日々神様に11の福音を喜び感謝を捧げていただきたいと思います。
7、何故選ばれたのか
では、なぜ全てのキリスト者は天地万物の造られる前から、神の子として選ばれ、キリストの御体なる教会の一員として選ばれたおのしょうか。他の人に比較して、何かすぐれていたのでしょうか。選ばれる資格があったのでしょうか。決してそうではありません。パウロは、キリストを信じて救われる前のエペソの聖徒達の事を次のように教えています。
◆「2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
【救われる前のエペソのキリスト者の実態】
救われる前のキリスト者の実態を以下に纏めました
①過失の罪と故意の罪を多く犯し、創造主との交わりがない状態であった。死んでいたというのは「創造主との交わりが無い」と言う「霊的死」を意味しています。
②多くの罪を犯しながら、この世の流れに生きていた者であった。この世の流れと言うのは。神の御心に合わない悪魔が植え付けた哲学や宗教や世界観や価値観に流されて生きていた者であったという事です
③空中に住んで、空中から不従順なものを支配している、霊である悪魔に従って歩んでいた者であった。
④自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままに行っていた者であった
⑤生まれながら御怒りを受けるべき子らであった。
キリストを信じて救われる前の全ての人は、「生まれた時から、神の怒り受ける定め」にあったものです。全ての人は罪の性質を遺伝によって受け継いでいる古き人として生まれたので、多くの恐ろしい罪を、思いにおいて、口において、行いにおいて毎日犯しています。人間は誰もが生まれながらにして罪を犯す罪びとです。嘘を親は教えないのに、なぜか、子どもは自然と嘘をつくのです。喧嘩を教えないのに、子どもは小さい時から自然と喧嘩をするのです。聖書は、人は幼い時から多くの罪を犯していると教えています。又、その原因は、アダムの堕落により、罪の性質を持って生まれている事にあると教えています。
エペソのキリスト者だけでなく、キリストの御体を構成している全てのキリスト者は、選ばれる資格のない罪びとであったのです。天地万物の創造の前から神の子として選ばれたのは、、又、キリストの御体なる教会の一員となる為に、キリストを信じる事が出来たのは、ただただ神の憐れみと恵みによったのです。キリスト者は、選ばれたからと言って誰も自分を誇る事は出来ません。ただただ心を低くして神の憐れみに感謝するばかりです。
◆「エペ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
8、御霊に聞き従って生きる
全てのものを全てのものによって満たすキリストが満ちておられるところである、キリストの体なる教会が、この地上で日々、全てのものを全てのものによって満たされるという、祝福の中を地域教会が歩む秘訣は、先ず、全てのキリスト者と既に、キリストにあって互いに愛しあう者、赦し合う者、助け合う者、支え合う者となっている事実に目が開かれて安んじる事です。次に安んじながら、日々、キリスト者の心に神の子の証印となって内住されている、聖霊の導きの御声に日々聞き従う事です。キリスト者と御霊の関係についてパウロは次のように教えています。
◆「1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。 1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
エペソのキリスト者が神の選びにより、救いに導かれた理由は、キリストにあって真理のことばをである救いの福音を聞き、信じた事だと教えています。その救いの内容は、約束の聖霊により心に証印が押された事だと教えています。その聖霊の証印の目的は、①御国を受け継ぐ保証 ②キリスト者が体の贖いを受ける為 ③神の栄光がほめたたられる為だと教えています。
ペンテコステに約120名に注がれた聖霊は、キリストを信じたエペソの聖徒にも、①御国を受け継ぐ保証 ②キリスト者が体の贖いを受けるの保証として注がれていました。現代の私達キリスト者にも同様に注がれているのです
パウロは、ガラテヤ書で、御霊の実をキリスト者が心に結びながら歩む秘訣を「御霊によって歩む」事だと教えています。
【終わりに】
私は、昨日、お腹がすいたので、近くの数寄屋で牛丼を食べに行こうとしました。しかし、車に乗った時に、隣りの喫茶店の看板が目に入り、これは主だと感じて、隣りの喫茶店でカレーを食べる事にしました。その時、クリスチャン新聞6月号を渡そうと思いましたが、受付の本棚のギデオン協会の聖書が目に入り、その聖書を渡す事にしました。カレー食べ、レジで支払いする時、聖書のお話が出来、新約聖書をお渡しする事が出来ました。私の中におられる聖霊は、隣りの喫茶店の方に聖書を渡すよう導かれたのです。感謝です。
天地万物の頭となっているキリストが、間違いなく教会の頭となって下さっています。肉体と頭は非常に親密な一致の関係の中にあり、肉体は頭から発信される情報を神経によって受けて、その情報に従って動いています。そのように、パウロは、体なる教会と頭なるキリストは既に完全な一致の中におかれている事を教えています。頭なるキリストは日々必要な情報を聖霊によって私たちに発信を続けておられます。キリスト者の一人一人が、聖霊によって発信される頭なるキリストの情報をいつも受けています。肉体の場合は、その情報に自動的に従いますが、私達の場合は、自分の意志でその情報に聞き従うという選択をしなければなりません。これは主だと、聖霊によって情報をキャッチすれば、喜んで日々聞き従いましょう。それによって、御体であご自身の教会を、キリストがご自分の体としてこの地上で働かれる事を体験的に知る事が出来るのです。クリスチャン一人一人は、生活の場所は異なりますが、それぞれが置かれた場所で、日々御霊に聞きしたがう時に、その教会はキリストの体として使命果たすので。キリスト者が日々御霊に聞き従う為の最も重要な事は、いつでもどこでもどのような時でも「いつも喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝する」事です。その生き方を習慣化しましょう。その生活習慣に聖霊がいつも働いて祝福して下さるのです。
