「愛の実践の秘訣」
聖書:Ⅰコリント13章1節~13節
牧師:佐 藤 勝 徳
「Ⅰコリ13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。 13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。 13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
【はじめに】
これまで、2回にわたって原始コリント教会が愛の教会に改革される事を願って、パウロがコリントの乃徒達に教えた「愛」について学んで来ました。先ず、愛を動機としないキリスト者のいかなる言動も全ては神の栄光の為には何の役にも立たない無価値で空しいものだという事学びました、次に、愛の具体的な実践内容を学びました。①寛容 ②親切 ③妬まない ④自慢しない ⑤高ぶらない ⑥礼儀を重んじる ⑦自分の精神的利益、物質的利益を求めない ⑧人から受けた悪を思わない ⑨不正を喜ばない ➉真理を喜ぶ ⑪がまんする ⑫邪推を否定し全てを肯定的受け止め信じる ⑬全てを肯定的に捕らえ未来に期待する ⑭全てを耐え忍ぶ。以上の14項目の具体的な愛の実践を学びました。キリストの空中再臨により、教会が完成した時に、御霊の賜物である預言、異言、知識は要が無くなり、すたれて行くが愛は決して廃れない。愛は永遠に絶える事が無い。いつまでも残る永遠性のものは、信仰と希望と愛であるが、その中で最も大いなる愛であるという事を学びました。
その、愛の実践についてもお伝えしましたが、今朝は、更に愛の実践の秘訣を学びたいと思います。
1、永遠に絶える事が無い愛の源
①人間の愛
人間は罪に堕落していますが、限定的な意味では愛をもっています。キリストが「あなた方悪い者であっても自分の子どもには良い事をするではないか」と教えられました。親は子を、子は親を、兄を弟を、弟は兄を、姉は妹を妹は姉を、夫は妻を、妻は夫を、友人同士、同僚同志など、時には喧嘩をしたり、言い争ったりしますが、おおむね、仲良く愛し合って過ごしている人たちはこの世界には多くおられます。聖書の中にも、人間同士の愛が教えられています。アダムは、エバに一目ぼれでした。アブラハムはイサクを愛しました。イサクの嫁探しをしたアブラハムの最年長の僕はアブラハムを愛しました。ヤコブはラケルを深く愛しました。ボアズは姑ナオミに優しい異邦人のモアブルツを深く愛しました。ダビデとヨナタンは男同士の深い愛で愛し合っていました。ヨナタンのダビデへの愛は自分を愛するほどに、また、女の愛に優った深い愛であったと聖書は教えています。「Ⅰサム20:17 ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」
「Ⅱサム1:16 私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。」
たとえ罪に堕落したものであっても、苦難の中にある人を助けたり、悩みの中にある人を慰めたり、その時その時、必要な愛の行動をとります。そうした人類一人ひとりが現わす愛が、この社会に息づいて、社会生活が成り立っています。せんじつ、私はクリスチャンではないある人と話をしていて、とても深い慰めを感じました。深い幸せを感じたのです。罪に堕落した罪びとは、神の形に似せて道徳的造られていますので、その形は歪んでいても、神の似姿としての善意や愛を表す事が出来るのです。隣、喫茶店のオーナーは、非常に素敵な笑顔で応対し、先日私がカレーの代金を払うと200円値引きして下さるのです。多分、教会の牧師だからだという事だと思います。教会の庭にレンガを並べましたが、素敵ですねと褒めて下さるのです。しかし、人類の愛は非常に限定的で、全ての人への愛、敵をも愛する愛という無限の愛ではないのです。しかし、例え限定的であっても、人間の愛でお互いに愛し合うという事は、非常に重要な人間の営みです。しかし、人はそれだけでは本当の幸福を手にする事が出来ないのです。パウロが教える「永遠に絶える事が無い永遠の無限の愛」で互いに愛しあう事がプラスされて初めて本当の幸せを手にする事が出来るのです。
②神の愛
パウロが教えた愛は、全世界の全ての人に分け隔てなく平等に向けられる平等の愛、無条件の愛、敵をも愛する愛です。その愛が永遠に絶える事が無いのです。そのような愛は、天地万物を創造された父なる神、御子なるキリスト、別の助け主の御霊である三位一体の神さまのみがお持ちの愛です。第Ⅰヨハネ4章7節でその無限の愛、永遠の愛は神から出ているのですと教えています。「Ⅰヨハ4:7愛は神から出ているのです。」
私たちは、神の永遠の愛、無限の愛で人を愛する為には、先ず、自分が神から無限の愛で永遠の愛で愛されている事を信じて日々喜びの中に生きる事が求められます。愛の定義の愛という言葉に変えて「神」を入れて読んで見ましょう。「13:4 神は寛容であり、神は親切です。またねたみません。神は自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
神さまは全ての人に対して寛容であり親切です。神さまはあなたの欠点や弱点や罪を犯す傾向性などを含めてあるがままのあなたに対して、いつも寛容で広い広い大きな大きな心で受け入れいつも喜んでおられます。それが神の寛容です。イザヤはその神の寛容な愛がイスラエルに向けられていた事を教えています。「イザヤ書43章3節で「あなたは我が目に高価で尊い」と。神さまは、ご自分に背くイスラエル民族を「我が目に高価で尊い」存在として深く喜び広い心で受け入れられていたのです。その広い心と言うのが「無条件の愛です。神さまはイスラエルを愛する事に条件を付けられなかったのです。その様に、異邦人の私たちをもあるがままで、まるで高価な宝石のように尊い存在として喜び愛して下さっているのです。無条件の愛程大きな広い心である寛容は他にありません。神は寛容です。
次に神は親切です。神さまは、私達がいつも幸福であるように、神の祝福の中を生きるように、その為に、必要な大変優しい親切な心で一人一人を愛されています。その優しさ、親切の具体的なあらわれが、多くの恵みをいつも与えて下さっている事です。本来は、私達は誰も生きる資格がありません。心において、言葉において、行いにおいてどれほど恐ろしい多くの罪を犯してきたか計りしれません。私たちはどれほど人を憎むと言う罪をどれほど多く犯してきたか計り知れません。聖書では、神のみ前には「憎しみ」は殺人罪に価すると教えられています。
神のみ前に死罪に価する憎しみ、恨み、蔑み、傲慢などの罪の故に、私たちは永遠の火の池に投じられるべき有罪判決を受けていた死刑囚でした。皆さんは、自分が死刑囚だったという自覚がありますか。恐ろしい罪を犯してきた死刑囚は、神さまから生かされるという恵みに与る資格はありません。直ちに裁かれて、直ちに火の池に投じられたしかるべき者なのです。しかし、親切で優しい神さまは、死刑囚であった私達が裁かれて永遠の異火の池に投じられることを決して願われませんでした。罪が赦されて永遠の裁きから救われる事を願い続けて下さったのです。その優しい親切な心をキリストは「私は柔和で心へりくだっている」と、教えられたのです。親切とは優しい柔和な心で心を低くされながら、全ての人が幸福になり祝福に与るように願いつつ、恵みを注ぎ、最善をなされている事を意味しています。神は親切です。次に神は「自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 13:6 不正を喜ばず」と、神さまは、善そのもののお方だと教えています。神さまには、否定的な側面、人から非難される側面は一切ありません。善そのものお方ですので、悪意から出る「自慢、高慢、礼儀違反、利益追求、怒り、人の悪を思い続け赦さない心、不正は一切ありません。聖書は神が善だと教えています。神の聖なる御性質は善そのものですので、何処から切っても善しか出てきません。その御思い、御心、御言葉、ご計画、行動、裁き、怒りの全てが、人類を愛する善からなされています。その事を、パウロは知っていましたので、いつも神を喜びつつ、神のみわざを喜びつつ万事に感謝する事がキリストイエスにあっての神のリクエストだと教えました。愛は、善そのものです。神は愛です。神は善です。
次に 神は、「真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶお方」です。神さまそのものが真理ですので、神はご自身から出る真理をいつも喜ばれています。又、神は、この地上におけるすべての苦しみをまるでご自分の苦しみのように受け止め、その苦しみをがまんしながら、神の真理を実現されています。神さまにがまんできない苦しみは無いのです。次に神は、全てを信じて肯定的に受け入れられています。神さまは、罪びとの罪を悔い改める可能性を信じて、罪を悔いあらためるチャンスを与えて悔い改めを迫って下さいます。キリストがその事をイスラエル民族に示されました。イスラエル民族が、やがてご自分を十字架に付けて殺すという事をご存知でありながら、イスラエル民族がご自分をメシヤとして受け入れる可能性を信じて「神の国は近づいた。福音を信じなさい」と、御国の福音を伝える宣教にはげまれました。矛盾しているようなことですが、当時のイスラエル民族がご自身をメシヤとして受け入れる事を願って、奇跡をなしつつ「御国の福音」を宣べ伝えられていたのです。イスラエルがご自分を最後はご自分をメシヤとして受けれず拒否して十字架に付ける事をご存知であれば、「御国の福音」を宣教する事は無駄のように思えます。そうですキリストは、無駄とお分かりになりつつ、矛盾でありつつも、愛ゆえに彼らにも悔い改めの可能性があると信じて宣教をなされたのです。全てを信じるというのは、悪に満ちたこの世界においては大変矛盾していますが、神さまはその矛盾を抱えつつ、全てを信じて行動されているのです。キリストや神さまには邪推はありません。全てをご存知でありながら、信じるという行動をとられるのです。
次に神さまは全てを期待されています。神は、全てを信じるお方ですので、全ての事に期待もされるお方です。神さまは、あなたや私が、神の栄光を現し、愛に生きる者となると期待して愛をもって日々必要な恵みを注ぎ続けておられます。
最後に神は全てを耐え忍んでおられます。パウロは、聖化の道から逸脱し堕落したコリントの教会の人たちの事を霊的にキリストにある幼子と呼び、又、肉の人と呼びました。パウロはそのような彼らが、改善され改革され、イエス・キリストのような人格者になる事を神は願って忍耐されている事を知ったのです。その事を通してパウロは「神は全てを耐え忍ぶお方」だと理解したのです。その、神の忍耐を教える聖句が第Ⅱコリント書にあります。
◆「Ⅱコリ3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
神は忍耐を持って、私達キリスト者が栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行く漸進的「聖化の道」を歩み始めるのを待っておられるのです。
私が、個人的に聖化の道を聖霊によって諭され歩み始めるまで、クリスチャンになって何十年も過ぎてからでした。神さまはその時が来るのを忍耐をもって待ってくださっていたのです。
私たちが、神の永遠の愛、無限の愛で隣人を愛するという実践の秘訣はまず自分が、神さまから永遠の愛で、無限の愛で愛されている事を信じ、愛されている喜びを日々心に持つ事です。それが、永遠の愛で生きる実践の土台です。
2、神の愛の啓示
①自然啓示
以上の神さまの人類への永遠の愛である平等の愛、無限の愛、無条件の愛は先ず自然の中に啓示されています。それを神学的に自然啓示と言います。神さまは美味しい食べ物を沢山創造して、私達が楽しみながら食事が出来るようにして下さっています。私達が舌やにおいで味を楽しみ、又、歯で楽しみながら嚙み、色々な色や形を見分ける目で見て楽しみながら食事が出来るように神さまは大変細かい配慮をされています。舌、鼻、歯、目、耳などの感覚で、食事だけでなく、美しい自然や楽しい動物等も楽しむくことが出来るようにして下さっています。創造主の神さまは、とにかく、私達が神の僕として楽しく生きてほしいと願って、その為に、万物を創造されました。
大空、風、太陽、月、星、大宇宙は、本来は全て私達人類が楽しく生きる為に、備えられたものです。しかし、人類が罪に堕落して、多くの楽しみを失い、又、楽しい事も楽しいと思わない堕落した感性を持つようになってしまいました。しかし、多くの楽しみを失い、苦を体験するようになった人類をなお神さまは愛して、それでも人類が神の僕として楽しく幸せに生きる事を願って自然を通して多くの恵みを平等に与えておられます。それがキリストの有名な「マタ5:45天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」と言うみ言葉で教えられています。天の父は平等に罪びとの人類に愛と恵みをもって太陽を昇らせ、雨を降らせて下さっているのです。私たちを取り囲んでいる自然、万物は、私たちを創造された創造主の天の父が「幸せであれ」「楽しくあれ」と、願って創造された愛の作品です。愛の作品である万物を聖書は被造物と呼んでいます。その被造物の一つ一つに目に見えない神の愛と正義と知恵と力と言う神の聖なる神性が示されているとパウロはローマ2章20節で教えています。
◆「ロマ1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのである」
私たちを取り囲んでいる宇宙のその中にある万物は、全て、私達を愛して造って下さった神さまの愛の作品です。その愛の作品がどれだけ素晴らしいか、悟らせるために神さまは、音楽を作るという知恵を人間に与えられました。自然の素晴らしさを感じた人の中に、音楽で表現する音楽がこの世界にはたくさんおられます。また、その喜びを、歌にしたり、詩にしたり、文書で表したりする知恵を神さまは人間に与えて下さって、自然の素晴らしさを共有できるようにされています。
私は、一昨年亡くなった長男が残していた音楽のCDを今、教会の行き帰り車の中で聞いています。讃美歌ではないのですが、讃美歌にしても良いような、私の感性にはとても心地よいもので、深い慰めを感じています。息子は、このような音楽を楽しんでいたのかと、私の知らなかった息子の一側面を知って感謝しています。神さまは罪に堕落した人類に、ヨブも告白していますように、苦も最善の事として多く与えておられますが、それ以上に、人生を楽しく、幸せに生きるための、多くの恵みを自然を通して、万物を通して与え、人類への平等の愛、無限の愛、無条件の永遠の愛をを示し続けておられます。
②特別啓示
1) 66巻の旧新約聖書
神さまの人類への永遠の愛である平等の愛、無限の愛、無条件の愛は、自然だけでなく、聖書66巻を通して啓示されています。聖書は不思議な書物だと思います。15世紀にドイツのグーデンベルグが活版印刷を発明してから、ずーっと世界のベストセラーを続けています。現在は4007の言語に翻訳されていると言われています。そんな本は他に存在しません。その聖書の中で、この地上に誕生するキリスト出現の預言が50程ありますが、全て預言通りに実現しました。預言が全部実現したという事は、聖書は絶対に信頼できる絶対の書だという事を教えています。聖書は、世界を祝福する民族として創造主の神さまによって選ばれたユダヤ人によって書かれました。その聖書66巻は、約1600年間かかって完成した書です。異なった時代に生きた約44人のユダヤ人が、何の打ち合わせもなく、それぞれ、個々に書いたものです。それが、まるで、66の部屋がある一つのビルディングが一人の大工さんによって建てられたかのように見事に調和と統一性を持って完成しているのです。それも大変不思議な事実です。その不思議な絶対信頼できる聖書を、キリストは神による絶対の書だと教えられました。又、使徒パウロもペテロも、預言者が神の聖霊に支配され、聖霊によって書いた神の霊感の書だと教えています。
◆「マタ 5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法(聖書)の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(キリストの聖書観)
◆「Ⅱテモ3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(使徒パウロの聖書観)
◆「ペテ 1:21 預言(聖書)は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」(使徒ペテロの聖書観)
創造主の神さまは聖書によって、御自身の人類への永遠の愛である平等の愛、無限の愛、無条件の愛を啓示されているのです。
2) キリストのご生涯と十字架の死と復活
特別啓示はもう一つあります。それは、キリストのご生涯と十字架の死と復活です。キリストのご生涯は人類が罪を赦され、神の裁きから救われ、永遠の命が与えられ、永遠の幸福、永遠の楽しみを与えて下さる為のご生涯でした。キリストは私を見たものは父を見たのだと教えられたように、キリストは当時の人々の病を癒す奇跡、悪霊から解放する奇跡などを多く行い、そのご生涯を通して目に見えない父なる神の永遠の愛である平等の愛、無限の愛、無条件の愛を目に見えるように啓示されたのです。その事を、ヨハネは次のように教えています。
◆「ヨハ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
◆「Ⅰヨハ 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
自然と、聖書と更にキリストのご生涯と十字架の死には、人類が神の僕として幸せに楽しく生きてほしいと願う神さまの永遠の愛が詰まっているのです。その事を信じて心を喜びと慰めで満たしましょう。その信仰から来る喜びと平安が、愛の実践への秘大きな否決であり、土台となるのです。
3、健全な自己愛
愛の実践の第2番目の秘訣は、健全な自己愛を持つ事です。欠点や罪深い自分を、健全に愛する事が出来る人は、欠点のある全ての人を自分のように愛する可能性を持つのです。健全な自己愛は、神が自分をどのように愛されているか、神の愛の視点で自分を見る事です。神が、あなたを「我が目に高価で尊い」と喜ばれている事を知ったならば、あなたは、大胆に自分は神と人の前に高価で尊い存在だと自信を持つようになるのです。神さまは、二つの理由であなたを高価で尊い存在だと喜んでおられます。一つは、神があなたを、あなたのお母さんの胎内で愛をこめ心を込めて神の形に似せて、個性豊かに創造された愛の傑作品だからと言う事です。神さまは、あなたを御自身の愛の最高の傑作品として創造されたのです。自分の個性ある顔、背丈、姿、性質は神さまの愛の傑作品だと認め大いに喜びましょう。
生まれ時、両腕が無く、左腕が右腕の半分と言う重度の障害者として生まれたスウエーデンの歌姫レーナ・マリアさんは、自分の重度の障害のからだは神さまの愛の作品だという聖書の教えを両親から教わって育ったので、一度も自分のからだを悲しく思った事はなく、自己卑下した事無く、それどころか、また、生まれるとしたら同じからだで生まれたいと証をされています。レーナさんはその喜びを与えて下さっている神さまの愛、キリストの愛を歌う讃美歌手として全世界で活躍をされています。
あなたは、神さまの愛の作品である故に、神さまはあなたを「我が目に高価で尊い」と非常に深く喜んでおられるのです。また、あなたの人生における過去現在未来の全ての罪が赦されるために、イエス・キリストがご自分の命を十字架に犠牲にして捧げられた事によって、あなたの存在は、キリストの命に匹敵する尊い存在、キリストに匹敵する尊い存在となりました。その事を一番ご存知の、父なる神さまは、多くの欠点があり、罪深くても、あなたを「キリストのように尊い存在」として永遠に尊ばれ喜ばれているのです。
キリストのように尊いあなたは、神さまによって、あなたを家庭においても、職場においても、教会においても、地域社会においても、無くてならない最高最善の喜ばしき存在として生かし、遣わしておられるのです。健全な自己愛は、先ず神さまが自分を愛の傑作品だと喜んで下さっている事と、神がさま自分をキリストのように尊い存在だと喜んで下さっている事、そして、その自分を家庭において、学校において、職場において、地域社会においても、教会においても無くてならない最高最善の喜ばしき存在として生かし遣わして下さっているという事実を信じて安心し喜ぶ事です。兄弟姉妹の皆さんは牧師の私にとって最高最善の尊い兄弟姉妹です。あなたは、家庭の中で、最高最善の夫であり妻であり、最高最善の親であり子どもなのです。又、職場においてあなたと同僚は共に最高最善の喜ばしき存在です。学校では、あなたと同級生は共に最高最善の喜ばしき存在です。健全な自己愛は健全な隣人愛へと私たちを導く否決であり、又、土台です。
欠点の多い罪深い自分が、神の愛の作品として、また、キリストのように尊い存在として父なる神によって尊ばれ喜ばれていること信じて、自分の心を神に愛されている喜びで満たす健全な自己愛を持ちましょう。
4、一日一生の如く
私たちが、愛を実践するもう一つの秘訣は、自分の人生は今日で終わる可能性があるという、事実に基づいて、一日をまるで一生のように思って、日々を大切にする事です。妻との生活、夫の生活、子ども達との生活、親との生活、職場の皆さんと働く事、教会で礼拝を捧げる事等が、今日で最後かも知れないと思って、悔いの無いようにベストの尽くそうとする事です。また、今日は単に昨日の連続でなく、新しく与えられた一日として一日一日を尊ぶ事です。今日生まれたばかりの乳飲み子のようになって、全てを初めての事として神さまが恵みをもって体験させて頂いているように思って、いつも新鮮な気持ちで生きる\ベストを尽くす事です。今日生かされている事を、決して当然と思わない事です。日々を神さまが与えて下さった最高最善の日々として喜び感謝しつつ、また、主にあって一日を一生のように思って、日々大切にベストを尽くして生きるようとする事は、愛の実践の秘訣であり、土台なのです。
◆「ヤコブ 4:14 あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」
◆「マタ 6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
5、キリストにあっての「きよめの福音」に生きる
以上の、神さまから愛されている喜びで自分を満たす健全な自己愛と、一日を一生のように思って日々新鮮な心でベストを尽くして生きようといする事が、神の無限の愛、永遠の愛で生きる為の秘訣であり、又、土台なのですその土台の上に、日々神の永遠の愛の実践を行って夫々の人生を愛の人生へと築いていく必要があります。その為に必要な事は、キリストにあっての「きよめの福音」に生きる事です。
「愛とは真逆の「妬み」「恨み」「怒り」「悪意」「傲慢」「不平不満」など様々な邪悪な思いを私たちに持たせ、「悪口」「陰口」等の悪い言葉を語らせ、「不寛容」「不親切」「不正」等の悪い行動に導くのが、貪欲の塊である古い人、エゴ、自我です。キリスト者に残存しているその古い人が、2000年昔、キリストと共に十字架で死に、キリストと共に葬られ、キリストと共に甦り、キリストのように永遠の愛、無限の愛に生きる新し人にされたというのが「きよめの福音です。そのきよめの福音を聖霊によって諭されている人は、その「きよめの福音」によって、愛に生きるのです。
例えば、ある人から陰口や悪口言われた時、キリスト者に残存している古い人が顔をのぞかせて、プライドが傷つき不愉快な思いを持たせます。その不愉快な思いによって、キリスト者であっても悪口陰口を言った人を素直に赦せませんし、陰口悪口を言われた事を喜び感謝出来ません。古い人によって大変不愉快に思い喜び、万事を感謝し赦さなければならない事が分かっていても、素直に出来ないジレンマにキリスト者は陥ります。そのジレンマから解放するのが「きよめの福音」です。
「きよめの福音」に生きる為には、自分への人の陰口悪口を素直に喜べない感謝出来ない、また、その人を素直に赦せない、寛容な心で受け入れ尊び喜ぶ事をしないのは「古い人」だと、先ず認識する事です。その認識に立って、その古い人はキリストと共に十字架で死んだものとして強く否定して十字架の死に委ね、同時に、キリストと共に甦って、キリストのように愛に生きる新しい人にされたという事実に立つ事です。つまり、人からの陰口悪口について自分は喜び感謝する新しいものとなっている、その陰口悪口を言う人を赦し寛容もって受け入れ喜ぶ新しいものとなっていると感謝し安んじる事です。その上で、「何々さんの私への陰口悪口は神さまが自分に与えて下さった最高最善の出来事として喜び感謝します」。又、「何々さんは、私にとって最高最善の存在としてあなたが与えて下さった方として尊び喜び感謝します」と、事実を事実として認める信仰の意志によって喜び感謝を捧げる事です。それが、信仰の意志による従順の一歩です。その信仰の意志による従順の第一歩を踏み出す時に、その後、聖霊様が働き、より喜びと感謝と愛に生きるように助けて下さるのです。聖霊様が、「赦しなさい」と御声をおかけになれば、「きよめの福音によって赦す者となっているので赦します」と赦しを心と口で宣言しましょう。それが信仰の意志による第1歩がです。その第1一歩は奇跡を生み出します。聖霊が働いて、聖霊によって赦し続ける者となるのです。
昔、イスラエルの人たちが、40年の荒野の旅路を終えて、約束のカナンの地へと導かれた時に、不思議な事が起こりました。それは、水が満ち溢れていたヨルダン川が、アダムと呼ばれるところで堰き止められて道が出来て、
イスラエルの人たちが渡る事が出来た事です。その奇跡は、神さまの命令に従って、契約の箱を運ぶ祭司たちが、おぼれて死んでしまう可能性がある水が満ち溢れているヨルダン川に足を一歩踏みこんだことによります。その信仰の一歩が、アダムで水が堰き止められて道が出来ると言う神の奇跡をもたらしたのです。
キリスト者が日々に永遠の愛で、無限の愛で生きる事は奇跡の生活です。その奇跡の生活を可能にしたのが、キリストにあっての「きよめの福音」です。そのきよめの福音に立って、古き人とその邪悪な感情は十字架に死んだものとして十字架の死に委ね、同時に、キリストと共に甦りキリストのように①寛容 ②親切 ③妬まない ④自慢しない ⑤高ぶらない ⑥礼儀を重んじる ⑦自分の精神的利益、物質的利益を求めない ⑧人から受けた悪を思わない ⑨不正を喜ばない ➉真理を喜ぶ ⑪がまんする ⑫邪推を否定し全てを肯定的受け止めて信じる ⑬全てを肯定的に捕らえ未来に期待する ⑭全てを耐え忍ぶという、、新しい自分にされているという事実を認め受け入れ喜び安んじましょう。その上で、寛容な心で生きます。親切な心で生きます。妬まず、自慢せず、高ぶらず、礼儀を重んじ、自分の利益を求めず、人の悪を思わず、不正を喜ばす、真理を喜び、がまんし、全てを信じ、全てを期待し、全てを忍びながら生きて行きます、と、自分の意志で一歩踏み出すのです。 それが、御霊の助けを得ながら、神の永遠の愛、平等の愛、無限の愛、無条件の愛に生きる秘訣なのです。感謝しましょう。
御霊によって歩むという事は、キリストにある「きよめの福音」に立って安んじつつ、御霊の導きに従って一歩歩み出す事です。御霊が赦しなさいと命令されれば、赦す事が出来る新しい自分にされているという霊的事実に立って、「赦します」と意志を持って宣言する事です。それが信仰の第1歩です。
【終わりに】
神の永遠の愛の実践に生きる秘訣は、第1に神さまに愛されている喜びを持つ事、第2に健全な自己愛の喜びを持つ事、第3は、一日一生の如くベストを尽くしてに生きる事、その三つが愛を実践する秘訣であり土台です。その土台は、キリスト者に「きめの福音」に命がけで生きる強い決意が与えられます。古い人による、非常に強い様々な強い邪悪な感情や欲望がやって来ても、キリストと共に十字架で死んだものとして、強く否定し十字架の死に委ねる勇気をもたらします。同時に、キリストと共に甦りキリストのように愛に生きる新しい人なったという霊的事実に立ち続ける勇気を持ちつづけさせ、きよめの福音に立って愛の実践に励む者とするのです。ハレルヤ!感謝しましょう!
