2023年5月29日(月)
「出エジプト記の終末論Ⅲ」
出エジプト記18章~19章
牧師:佐 藤 勝 徳
悪魔は、神に代わって宇宙の王、世界の王になる野望達成のために、神が、イスラエルを通して世界を御心に叶った世界にしようとされているご計画を阻止しようと、イスラエルを撲滅をいつも模索をしています。これまで、エジプトのパロ王やアマレク人等を通してそれを実現しようとしてきたが、神さまがアブラハム契約により、イスラエルを守られてきたことをお伝えしてきました。このレポートでは、現代までも続く反ユダヤ主義を使って、悪魔がイスラエルの撲滅を画策している事をお伝えします。
Ⅰ出エジプト記第18章の終末論
1、モーセの統治形態の変更が意味するもの
モーセは、姑のイテロの提案に従い、荒野のイスラエルを自分一人で統治していたことを改め、以下のように統治形態を変更しました。「出18:25 モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。18:26 いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。」
モーセ→千人の長→百人の長→五十人の長→十人の長
以上のモーセの統治形態は、荒野の多くのユダヤ人を統治する為に大変優れたものでした。その統治形態は何を意味しているのでしょうか。それは、やがてメシヤ的王国が実現した時のキリストの政治的統治形態の予型になっている事です。キリストは、メシヤ的王国においてイスラエルを世界を平和の内に統治する為に、適切な統治体系をご計画されているのです。
2、キリストのメシヤ的王国での統治形態
キリストはモーセと似た預言者とも呼ばれていますので、キリストも御自分一人でメシヤ的王国を統治されず、先ず。使徒たちをイスラエルと世界を支配するための王座につかせます。その下に甦ったダビデ王をイスラエルの君主とされ、そのダビデ王の下にイスラエルの十二部族の首長達を置かれます。そのイスラエルの首長達の下にイスラエルの民を置いて統治される事が聖書に教えられています。更に、異邦人世界はユダヤ人が統治し支配します。
①メシヤ的王国の王となるユダヤ人のキリストについて
ユダヤ人のキリストがイスラエルを中心としたメシヤ的王国の世界の「王」として君臨される事が聖書に幾たびも預言されています。メシヤ的王国は愛と正義に満ちたキリストによる専制君主制なのです。
1) 「創 49:10 王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う。
2) 「Ⅰ歴代17:11 あなたの日数が満ち、あなたが先祖のもとに行くとき、わたしはあなたの息子の中から、あなたの後に世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる」
3) 「詩2:6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」
4) 「詩 24:7門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。」
5) 「詩89:35 わたしはかつてわが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わないと。89:36 彼の子孫はとこしえまでも続く。その王座は太陽のようにわたしの前にあり 89:37 月のようにとこしえに堅く立つ。その子孫は雲の上の確かな証人である。」
6) 「イザ2:3多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。2:4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」
7) 「9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」
8) 「イザ11:10 その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。」
9) 「エレ 23:5 見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。・・ 33:15 その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。」
10) 「エゼ 43:6 私のそばに人が立っていたが、私は、神殿の中から声が私に語りかけるのを聞いた。43:7その声は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある場所、わたしの足の踏む場所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む場所である。」
※メシヤ的王国において王なるキリストが御住みになる場所は、エルサレム神殿の至聖所です。
11)「ルカ1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
12)「マタ 20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
13) 「マタ 26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」
14)「ルカ 23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
15)「マタ 2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
16)「マタ 27:11総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
17)「マタ 27:37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。」
③ メシヤ的王国において、キリストの12使徒の下に甦ったダビデ王が立ち、イスラエル12部族を治める主の約束。
1) 「マタ 19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」
キリストは、ご自身が栄光の座に着く世界を「新しい世界」と呼ばれていますが、それは黙示録21章の死も病も苦しみもない新天新地の世界ではなく、イザヤ65章でイザヤが預言している死も病も苦しみもある新天新地のメシヤ的王国の世界を意味しています。キリストが着く栄光の座はメシヤ的王国のエルサレム神殿にある至聖所にある玉座の事を意味しています。(参照:エゼキエル41:22~23、46:3)。黙示録の新天新地の新エルサレムの都には神殿はありませんので、キリストのご自身が栄光の座着くと言われた新しい世界は「メシヤ的王国」を意味している事は間違いがありません。
2) 「ルカ 22:30 そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。」
②メシヤ的王国では王なるキリストに甦ったダビデ王が仕える
メシヤ的王国において王なるキリストの下で、死んだダビデ王が甦ってイスラエルを治める王(君主或いは牧者とも呼ばれる)となることが預言されています。
1) 「Ⅱサム7:16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」7:17 ナタンはこれらすべてのことばを、この幻のすべてを、そのままダビデに告げた」
2) 「詩89:3わたしはわたしの選んだ者と契約を結びわたしのしもべダビデに誓う。89:4 わたしはあなたの裔をとこしえまでも堅く立てあなたの王座を代々限りなく打ち立てる。」
3) 「エゼ 34:23 わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。34:24 【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは【主】である。わたしが語る。37:24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただ一人の牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしの掟を守り行う。37:25 彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与え、あなたがたの先祖が住んだ地に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちが、とこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。」
4) 「エゼ 44:3 君主だけが、君主として【主】の前でパンを食べるために、そこに座ることができる。彼は門の玄関の間を通って入り、そこを通って出て行く。」
5) 「エレ 30:9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。」
6) 「ホセ 3:5 その後で、イスラエルの子らは帰って来て、自分たちの神である【主】と、自分たちの王ダビデを尋ね求める。そして終わりの日には、【主】とそのすばらしさにおののく。」
7) 「アモ 9:11 その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。」
9) 「ゼカ 12:8 その日、【主】はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ【主】の使いのようになる。
10) 「ゼカ 12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」
11) 「ゼカ 13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」
ルカによる福音書では、「わたしの国」と呼ばれているキリストの王国つまり「メシヤ的王国」において、12の使徒たちはキリストの食卓に着き、飲み食いを楽しむ事と、王座についてイスラエル12部族を治めることを約束されています。キリストはダビデには言及をされていませんが、ダビデが甦ってメシヤ的王国のイスラエルで再び王となる事が旧約聖書で多く預言されている事から、、王であり君主であ牧者と言われるダビデ王は12使徒たちの下に置かれる事は間違いがありません。メシヤ的王国の統治は、キリスト→12使徒→ダビデ→イスラエル12部族の首長たち→イスラエル12部族という形態をとり、イスラエル12部族に属する全てのイスラエル人がキリストの統治のもとに置かれる事になります。
メシヤ的王国の君主ダビデの割当地もエゼキルによって明確に預言されています。(エゼ45:7-8、48:13-14)
※モーセの荒野のイスラエル統治形態は、モーセ個人による統治能力の限界性から考えられたものですが、メシヤ的王国の統治形態はキリスト個人の統治能力の限界性から生まれたものでなく、あくまでも、多くの聖徒が王なるキリストに仕える喜びを得させるために考え出された神の恵みの形態です。モーセに似たキリストですが、その違いは明確です。モーセが多くの人を使ってイスラエルを統治した事は、キリストがメシヤ的王国で多くの聖徒を使って統治をする予型となっています。
Ⅱ出エジプト記第19章の終末論
1、鷲の翼
「出19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。』」神は、イスラエル人をエジプトから解放された時のご自身の愛と力ある奇跡の御業を「鷲の翼」に例えられました。その例えが、終末の時代においてサタンが産んだ息子である反キリストの軍隊によって滅ぼされようとするイスラエル人を守る神の愛と力の御業においても使用されています。「黙12:13 竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。12:14 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。」
イスラエルが神の鷲の翼によって運ばれ、3年半(1260日)間養われ守られる地はエドムにあるボツラです。(参照:イザ 63:1)
2、イスラエルが選民として選ばれた目的
神学校(四条畷キリスト教学院)での学びの時、教務主任であった故荻野昭先生が、出エジプト19章の以下の箇所を非常に大切なみ言葉だと教えて下さったことが、私の記憶の中にずーっと留まってきました。その時は、なぜそうなのかよく理解はできていなかったと思いますが、異邦人である私達にとっても、イスラエルの人々にとっても非常に重要な神の約束だと思います。その意味を考えてみたいと思います。
「出19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
◆「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、」
この契約は、無条件契約ではなく条件契約である事が教えられています。神の約束を成就していただくには、「神の声に聴き従い、神の契約を守らなければならない」と言おう条件を満たさなければなりません。ここで神はイスラエルの人々に、二つの条件を与えておられます。
◆二つの条件
1) 一つは「神の御声に聞き従う」という条件です。神は生ける神でありますから、神の御声をイスラエルの人々にお聞かせになりながら導かれる神だという事を教えておられます。目に見えない霊なる神の御声をイスラエルの人々には聞き分ける霊的耳が与えられていたのでしょう。そうでなければ、神ご自身の霊の声を聞いて従う事はできません。神の御声を日々聞いて従う民となる為に、神はイスラエルを荒野で40年間訓練されました。
「申 8:3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」
2) 二つ目は「神の契約を守る」という条件です。ここでの契約はアブラハム契約やダビデ契約のような無条件契約ではなく、これから与えられる条件契約である「モーセ契約」を意味しています。モーセ契約はシナイ山で与えられましたので「シナイ契約」とも呼ばれています。シナイ契約は全部で613あると言われています。私は250ほどは数えましたが、まだ全部数え切れていません。中世のユダヤ人の神学者のマイモニデスはその613の律法の一覧表を作成しています。ネットで検索すれば見つかりますので、是非検索してみてください。
ユダヤ人のラビたちは、モーセ律法の衣の四隅の裾に房を付けなければならないという戒めの中に、613の律法が隠されていると教えています。4本の房は、8本の紐を束ね、それに二重の結びを5回施しています。8+5は「13」です。ヘブル語には、東洋数字のような数字表記はなく。一つ一つの文字に数字を表記させています。ツィツィという房を意味する言葉の文字を合計すると「600」になります。13+600の613がモーセ律法の戒めの数となります。(参照:マービン・R・ウィルソン著「私たちの父アブラハム」P173)。※600を表すヘブル語のツィツィは、旧約聖書の解釈書「ミドラシュ」によります。(マービン・R・ウィルソン著「私たちの父アブラハム」の発行、BFPJの説明)
「民15:37 【主】はモーセに告げられた。15:38 「イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるようえ。15:39 その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。」
以上の二つの条件を守れば、神の「宝の民」、「祭司の王国」「聖なる国民」にすると、三つの祝福を約束されました。しかし、どうでしょうか、イスラエルの民は神の御声に聞き従い、モーセ律法を守ってきたでしょうか。私達が知っている通り、イスラエルの歴史は神への反逆の歴史であり、彼らは神の御子であるキリストを十字架に付けて殺すという大罪を犯した民ですので、今だ神から「宝の民」「聖なる民」「祭司の王国」と呼ばれる祝福に与っていません。それでは、神がイスラエルを選民として選ばれた事は神の失敗で終わってしまうのでしょうか。そうなれば、神が神でなくなってしまうという事になります。完全な神様がそのような事になるはずはありません。では、神はどのようにして諸国民の中でイスラエルを「宝の民」「聖なる民」「祭司の王国」として祝福されるのでしょうか。それは、キリストを信じる信仰者に部分的と全体的に分けて成就されていきます。なぜなら、キリストが613のモーセ律法を完全に守り成就されたからです。キリストは、モーセの律法に従って、衣の裾の四隅に房を付けて日々をお過ごしでした。12年間長血で苦しんでいた女性がそのキリストの衣の房に触った時に癒された事が福音書に記録されています。「ルカ 8:44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。」
◆祝福の成就
1)部分的成就
部分的成就は、イスラエルの中の残りの者、つまりレムナントによって成就していきます。エリヤがカルメル山でバアルの預言者達450人、アシェラ預言者達400人と戦った後、イゼベルを恐れて逃げ神の山ホレブ山にたどり着いたエリヤに、神はイスラエルには7000人の残れる者がいる事を教えられました。「Ⅰ列王19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」神は、イスラエル民族に対する祝福を残された者(残りの者)・レムナントに部分的に成就されていきます。
◆残りの者(レムナント)に関する聖書個所
「Ⅱ列王 19:30 ユダの家の中の逃れの者、残された者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」
「イザ 4:3 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖なる者と呼ばれるようになる。みなエルサレムに生きる者として書き記されている。」
「イザ 37:31 ユダの家の中の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。」
聖書は旧約時代のイスラエルの残れる者を「聖なる者」と呼んでいます。
◆ キリスト時代の残りの者(レムナント)
キリスト時代の残りの者・レムナントはバプテスマのヨハネや彼の弟子達、又、ペンテコステの日に聖霊の注ぎを受けたおおよそ120名のユダヤ人キリスト者たちです。初代教会の時代において、ユダヤ人クリスチャンに祝福が成就しているので使徒ペテロは次のように彼らを呼びました。「Ⅰペテ2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」。ペテロの手紙はポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留しているディアスポラのユダヤ人クリスチャンに宛て書かれた手紙ですので、出エジプト記19:5・6に基づいてペテロは彼らを「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」と呼び、祝福が彼らに成就している事を教えています。
パウロも新約時代の残れる者・レムナントについて言及をしています。「「ロマ 11:5 ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。」
※レムナントの意味 「レムナント(remnant)とは、英語の「remain(残る)」が語源の「残り物」という意味です。」以上の意味から、それがイスラエルの「残りの者」に使用されるようになりました。
◆教会は「新しい神のイスラエル」ではなく、又、「新しい聖なる神の民(単数形)」でもない
新約聖書では「イスラエル」が73回使用されています。その全てがイスラエル民族を指して使用をしています。ただ、H・キュンクがガラテヤ6:16の「神のイスラエル」は教会を指して使用していると主張しています(H・キュンク著「教会論上」P182)。ガラテヤ6:16を新改訳第3版では「どうか、この基準に従って進む人々すなわち神のイスラルの上に、平安とあわれみがありますように」と翻訳され、H・キュンクの解釈のように「神のイスラエル」を異邦人を含めたキリスト者達(教会)だと翻訳しています。しかし、新改訳2017年版では「この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」に変更されました。なぜでしょうか、それは「すなわち」とか「そして」と翻訳されているギリシャ語の接続詞「カイ」は「すなわち」という意味で他に翻訳されている箇所がない事にあるからだと思います。JバイブルGREEKは、「カイ」は新約聖書で9018回使用され、その意味は「そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば」だと教えています。そこには「すなわち」は教えられていません。「カイ」の最も自然な第1の意味は「そして」ですので、2017年版では「そして」にされたと思いす。英訳ではアンドと翻訳されています。新改訳2017年版の翻訳者は、「この基準にしたがって進む異邦人キリスト者」と区別して、ユダヤ人クリスチャンを指して「神のイスラエル」と解釈したものと思います。
◆新約聖書における教会の呼び名に神の民(単数形)はない
パウロは、エペソ人への手紙で奥義としての「教会論」を述べていますが、その中でユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者で構成されるキリストの御体なる教会を一人の「新しい人」と呼んでいます(エペソ2:14)。しかし、教会を決して神の民(単数形)とは呼んでいません。また、異邦人キリスト者を指して神の民(単数形)と呼ばず「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペ2:19)と呼んでいます。しかし「同じ国民」と訳されているギリシャ語原語はスムポリタイという、複数形が使用されています。(スムポリタイはスム(同じ)とポリタイ(市民権の複数形)との合成語です。口語訳は「同じ国籍」と訳しています。異邦人キリスト者をスムポリタイと呼ぶのは、聖徒たちと呼ばれるユダヤ人キリスト者と天国に国籍を持つ民(複数形)となったという意味になり、決して「新しい真の霊的イスラエルになった」という意味で呼んでいるのではないのです。NKJVではエペソ2:14を“but fellow citizens with the saints and members of the household of God”と訳しています。“citizens”は“citizen”の複数形ですが、その意味は「(出生または帰化により市民権をもつ)公民、国民、人民、(市や町の)市民、町民、都会人、(軍人・警官などに対して)民間人、一般人、住民」です。(Weblio、英和辞典より)
パウロが教会論を論じるエペソ書で、教会を指して「神の民(単数形)」と呼んでいないことは、教会を「神の民(単数形)」と呼んでいいのかどうかを判断する重要な聖書的根拠となります。
◆教会を「新しい神のイスラエル」、或いは「新しい神の民」だと論じる聖書的証拠(聖書個所)はあるのでしょうか。
アウグスチヌスの見解
2017年ルターの宗教改革500周年記念の年に、西日本宣教セミナーにおいて丸山忠孝師(東京基督教大学初代校長/教理史研究の博士)が講演をされました。その中でキリストの教会を「神の民」と呼ばれていましたので、私は講演会後の質疑応答の時に、聖書の中に教会を単数形で「神の民」と呼んでいる箇所があれば教えて下さいと質問をしました。博士は「それは知らないが、私の教会観はキリスト教の伝統に基づくもので、アウグスチヌスによっている」と明言されました。丸山師が教会を「神の民」と呼ぶことについて、アウグスチヌスの置換神学の影響による事は間違い無いと思います。アウグスチヌスは異邦人教会を「神の民」と呼ぶ聖書的根拠にローマ9:25のパウロのことばを引用しています。アウグスチヌス著「神の国」(1968年10月1日初版発行、発行者高柳伊三郎、J.W.C.ワンド編・出村彰訳/P389)で以下のように解説をしています。
「ホセアに関していえば、彼の語るところが深遠であればあるだけ、その意味を捉える事は困難である。しかし、私は約束に従って、ホセアからいくつかの個所を選び出そう。「・・彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。」と彼は言う。(1:10)後に、使徒たちはこの個所を、それまでは神の民に数えられなかった異邦人もまた召されることを、預言的に証ししたものだと解釈した。異邦人もその時には霊的なアブラハムの子となり、正当にもイスラエルと呼ばれる。そこで次のようにも言われる。「そしてユダの人々とイスラエルの人々は共に集まり、ひとりの長を立てて、その地からのぼって来る」(1:11)
佐藤の反証
以上のアウグスチヌスの解説の問題は、終末のイスラエルに対するホセアの預言を異邦人の回心により成就したと解釈してしまったことです。パウロは、異邦人の回心の出来事を終末のイスラエルに対するホセアの預言が成就したという意味でホセア書を引用したのではないのです。パウロは、9章で神の憐みの器としてユダヤ人の中からだけでなく異邦人からも選ばれているという新約時代の出来事を説明するために、ホセア書を引用しました。昔、北イスラエルの不信仰な10部族が神より霊的な意味で「我が民でない」と呼ばれたのですが、やがて終末の時(キリストが地上に再臨される時)、ユダの2つの部族だけでなくイスラエル10部族も含めて、民族ごとの回心が起きる事をホセアが預言したもので、その預言は未だ成就しておらず、これから実現するものです。ですので、新約時代の異邦人が回心し、神の憐みの器になった事が、ホセア書の終末時代におけるイスラエルの回心の出来事の預言の成就だと言おうとしたのではないのです。霊的に「我が民ではない」と言われた北イスラエル10部族がやがて神によって回心に導かれる憐みの器になるという終末の回心の預言が、民族的に「我が民でない」と言われている異邦人が神によって憐れみを受ける回心に導かれる事の予型となっているという意味で、その予型の成就としてパウロはその預言を引用したのです。ですので、パウロがホセアの預言を引用しているから、異邦人キリスト者と教会をイスラエルと呼ぶ事は、正当だという見解が成り立ちません。又、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に集まっている事を、イスラエル全部族が回心する事を預言しているホセア1:11を引用して説明する事も相応しくありません。
H・キュンクの見解
H・キュンクは教会を「新しいイスラエル」であり「新しい神の民」だと明言していますが、(H・キュンク著「教会論上」P169~238)その重要な聖書的根拠の一つにⅠペテロ2:9~10が引用されています。しかし、ペテロのことばを異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者で構成される一人の新しい人に適用するのは、エペソ書で教えるパウロの教会論と明らかに矛盾をしています。また、ペテロのそのことばは当時ディアスポラのユダヤ人キリスト者には適用ができても、異邦人キリスト者には適用してはならない箇所です。又、彼は以下のⅡコリント6:16~18を掲げていますが(P190)、その解釈も明らかに間違っていると思います。「Ⅱコリ6:16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」
佐藤の反証
パウロは、コリントの神の宮である教会の聖徒達を、偶像崇拝の異教徒と価値観を同じにして手を組むことから切り離す為に、旧約聖書のレビ記・出エジプト記・エゼキエル書・エレミヤ書・イザヤ書・ホセア書等のみ言葉を合成させて引用をしています。それらは、いずれも旧約のイスラエルの民に対してのメッセージとなっています。
パウロが、偶像から自分を切り離すという真の悔い改めを実行した時に対するイスラエルへの祝福の約束を引用したのは、神の宮であるキリストの教会がイコール「神の民(単数形)」となるという事を教えようとしたのではなく、偶像から離れたときのイスラエルへの祝福が偶像から離れた教会の祝福の予型となっている事を教えようとしただけなのです。それ以上の意味は無いのです。H・キュンクの教会を神の民として引用する全ての聖書個所は、明らかに教会に関して述べていないのです。H・キュンクの「教会論」は終末論全体からよくよく検討をしなければならない教会論です。
ペテロ書の「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」は、全て単数形が使用されている事に是非ご注目下さい。キリスト教会の実態は、多くの種族、多くの諸国民によって構成されています。
◆聖書は民族的イスラエルをアブラハムにではなく、ヤコブと結び付けることを原則にしている。
ローマ書でキリストを信じて義とされたキリスト者を信仰によって義とされたアブラハムを霊的子孫と呼んでいますので、その結果、キリスト者達(キリストの教会)を新しいイスラエルだと解釈する神学者や牧師方がおられます。しかし、アブラハムの子孫はイスラエルだけでなく、その他の多くの民族もいますので、アブラハムの子孫は「イスラエル」だと解釈するのは正確ではないのです。その誤解を避けるための聖書箇所がいくつかあります。例えば神が「アブラハム契約の神」であることを表現するときに「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と表現されます。そのヤコブを「イスラエル」に変えて表現している箇所があります。以下の通りです
「出 32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」
(他Ⅰ列王18:36、Ⅰ歴代 29:18、Ⅱ歴代 30:6)
イザヤは43章でイスラエルをヤコブに結びつけて表現しています。「イザ43:1 だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの」
神がヤコブをイスラエルと呼び直しされる事は、ヤコブが祝福を受けた時に、名をイスラエルと神より呼ばれるようになったその歴史的出来事を教えているのです。「ヤコブ」という名が潔められる前の名として、「イスラエル」はヤコブが潔められた事を意味して使用されているのではなく、ヤコブが祝福された事を意味して使用されています。聖書はイスラエルという名がヤコブから始まっている事を明らかにするために、セットで使用する事を原則にしています。
◆ヤコブとイスラエルがセットで啓示されている聖書個所(63箇所)
≪出エジプト記≫
「出 19:3 モーセが神のみもとに上って行くと、【主】が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。」(他1:1)
≪民数記≫
「民 24:5 なんとすばらしいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。」
(他23:7、10、21、23、24:17)
≪申命記≫
「申 33:28 こうしてイスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉だけが穀物と新しいぶどう酒の地を満たす。天も露を滴らす。」
≪列王記≫
「Ⅰ列王 18:31 エリヤは、【主】がかつて「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって、十二の石を取った。」(他Ⅱ列王17:34)
≪歴代誌≫
「Ⅰ歴代 16:13 主のしもべイスラエルの裔よ。主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。」(他Ⅰ歴代 16:17)
≪詩篇≫
「詩 14:7 ああイスラエルの救いがシオンから来るように。【主】が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」(他22:23、53:6、59:13、78:5、21、71、81:4、105:23、114:1、135:4、147:19)
≪イザヤ≫
「イザヤ27:6 時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす。」(他10:20、14:1、29:23、40:27、41:8、14、42:24、43:1、22、28、44:1、5、21、23、45:4、46:3、48:1、12、49:5、6)
≪エレミヤ≫
「エレ 2:4 ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、【主】のことばを聞け。」(他10:16、30:10、31:7、46:27、51:19、哀歌2:3)
≪エゼキエル≫
「エゼ 39:25 それゆえ、【神】である主はこう言われる。『今、わたしはヤコブを回復させ、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わが聖なる名への、わたしのねたみによる・・』・・」(他20:5、28:25)
≪ホセア≫
「ホセ 12:12 ヤコブはアラムの地に逃げて行き、イスラエルは妻を迎えるために働いた。妻を迎えるために羊の番をした。」
≪ミカ≫
「ミ」カ 2:12 ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。」(他1:5、3:1、8、9)
≪ナホム≫
「ナホ 2:2 【主】がヤコブの威光を、イスラエルの威光のように回復されるからだ。」
多くのキリスト者がアブラハムの子孫をイスラエルと解釈する習慣が身に付いていますが、聖書はアブラハムを直接的にイスラエルと結びつける事を殆どしていません。多くはイサク、ヤコブとつながって初めて、イスラエルがアブラハムの子孫だと教えています。また、アブラハムとイスラエルをセットで使用しているのは以下の3箇所だけだと思います。「Ⅱ歴代 20:7 私たちの神よ。あなたは、この地の住民をあなたの民イスエルから追い払い、とこしえにあなたの友アブラハムの裔にお与えになったのではありませんか」。
「イザ 63:16 まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、【主】よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。
「Ⅱコリ 11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。」
イスラエルはヤコブの直の子どもであり、その子孫なので、ヤコブとイスラエルがセットで使用されている聖書箇所は前述していますが63箇所あります。聖書はキリスト者が霊的にアブラハム子孫だから、すなわち「霊的イスラエル」だという事を教えていません。置換神学の影響を受けて、多くのキリスト者が、教会を「新しいイスラエル」だと思わされているのではないでしょうか。再検証が必要ではないでしょうか。新約聖書が73回使用している「イスラエル」という名は全て「イスラエル民族」を意味して使用していますので、聖書は教会がアブラハムの子孫と呼ばれても、「神の民(単数形)」とか「神のイスラエル」だとは教えていない事に多くのキリスト者の目が開かれる事を祈る者です。
2)全体的成就
イスラエル民族に約束された「出エジプト19:5あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』・・」という約束が、イスラエル民族全体に成就するのは、アブラハム契約、ダビデ契約、土地の契約、新しい契約という4つの無条件契約が全部実現した時に起こる事を聖書は教えています。つまり、イスラエルを中心としたキリストのメシヤ的王国においてはじめてイスラエル民族全体にその約束が成就するのです。
◆ イスラエルが「祭司の王国」になるという約束の成就
エゼキエル書40章から48章までは、メシヤ的王国のイスラエルが詳細に預言され、その中に、世界で一番高い山にあるエルサレム神殿に主が住まわれ、祭儀が新しく設けられ、世界の祝福の為に必要な祭儀が祭司たちによって執り行われます。それにより、イスラエルはメシヤ的王国においてはじめて祭司の国として世界の祝福の為に用いられることになります。もちろん、メシヤ的王国の祭司の中には異邦人も採用されていますが、祭儀はイスラエルの地で行われますので、イスラエルこそ「祭司の国」と呼ばれるにふさわしい国となります。以下に、イスラエルがメシヤ的王国で祭司の国となる事を預言し教えるエゼキエル書の40章から48章の祭儀等に関するタイトルを紹介しておきます。
≪40章5節~41章26節≫
エルサレム神殿の外壁、門の敷居、門の控室 玄関の間、門の幅、門の内のりの幅、門の窓、控え室の玄関の間内庭、外庭、石畳み、門の階段、東南北の門、生 贄を屠る台、生贄を濯ぎ清める部屋、内庭の二つの部屋、神殿の門、殿の門の両脇の壁、神殿玄関の間の間口、玄関の間の奥行き、本殿の階段、玄関の間の両側の壁柱のそばの円柱、本堂内部の入り口、至聖所、脇間、脇間の部屋との間の空き地、本殿西側(裏)の建物、本殿の羽目板、本殿の窓、本殿の彫刻、至聖所の前の木の机、至聖所入口の両サイドの扉、本殿入口の玄関の間の前の木のひさし、本殿玄関の間の壁の格子窓となつめやしの木など、寸法等の記録。
≪42章1節~12節≫ 聖域に面している祭司たちの部屋
≪42章13節~14節≫ 聖域の面している祭司たちの部屋の役割
≪42章15節~20節≫ 神殿領域周囲の寸法 ≪43章5節~7節≫ 主の永遠の玉座
≪43章8節~11節≫ メシヤ的王国の神殿の幻 ≪43章12節~17節≫ 祭壇の寸法
≪44章15節~31節≫ 主に忠実であった祭司ツァドクの子孫のみが、メシヤ的王国で祭司の務めをする事が出来る事と、彼らの守るべき戒め
≪45章1節~8節a≫ 主への奉納地、聖所(神殿域)、レビ人の所有地、君主の相続地、イスラエルの町(エルサレム)と耕作地
≪46章1節~24節≫ 安息日、新月、例祭などのささげ物規定
≪47章1節~12節≫ 神殿の敷居の下から流れる川 ≪48章8節~12節≫ 主の聖所がある祭司へ献納地
◆ イスラエルが聖なる国民になるという約束の成就
イスラエルの民が全て神を信じる聖徒となって、初めてイスラエルが「聖なる国民となる」という約束が成就しますが、それはメシヤ的王国において実現します。預言者エレミヤとエゼキエルが以下のように預言しています。
1)エレミヤの預言
「エレ31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。31:34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
2)エゼキエルの預言
エゼキエルも、メシヤ的王国のイスラエルの霊性が聖なる国民と呼ばれるにふさわしくなる約束を預言しています。
「エゼ 36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」
以上のように、出エジプト記19章に約束された「祭司の王国」「聖なる国民」「宝の民」となるというイスラエルに対する約束の全体的な成就は、メシヤ的王国のイスラエルにおいて実現する事を聖書は教えています。
◆メシヤ的王国の最初のイスラエルの住民は残された者(残りの者)と呼ばれている聖書個所
1)イザヤ10章
「10:19 その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれら「を書き留められる。10:20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、【主】に真実をもって頼る。10:21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。10:22 たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。」
2)イザヤ11章11節
「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる。彼らは、アッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテ、海の島々に残っている者たちである。」
3)エレミヤ23章 「23:3 しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──【主】のことば。23:5 見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。23:6 彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『【主】は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である。23:7 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた【主】は生きておられる』と言うことはなく、23:8 『イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた【主】は、生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」
【終わりに】
キリスト教初期の時代から多くの優れた神学者の方々が、反ユダヤ主義から生まれた置換神学の影響を受けて教会論を展開されています。今回のレポートで特に出エジプト記19章のイスラエルの民に対する約束を多くの神学者が置換神学の影響で間違って解釈されている事に、改めて気が付かされました。私たち異邦人も、間違いなく聖徒(複数形)であり、神の諸国民であり、祭司の使命を与えられ、神の宝の諸国民ですが、それは、神の憐れみによりイスラエルに与えられた数々の祝福の約束の「おこぼれ」という恵みに与っている事を聖書は教えています。ロマ11章のオリブの台木は、神のイスラエルと結ばれた「アブラハム契約」など4つの契約における祝福を意味し、それに、野生のオリブの枝と例えられている異邦人のキリスト者が接ぎ木されている事をパウロは教えています。しかし、キリストの教会がイスラエルに代わって「聖なる国民(単数形)」「選ばれた種族(単数形)」「宝の民(単数形)」「祭司の国」となり、新しいイスラエルとして、又、新しい神の民(単数形)として、約束の成就を受けたと聖書は教えていないのです。イスラエル民族に約束された事はイスラエル民族において成就しなければ、神の義が失われます。置換神学は「神の義」を失わせる神学となっています。サタンは、反ユダヤ主義により考え出された「置換神学」という、偽りの神学をキリスト教の初期の時代の指導者たちに吹き込み、イスラエルを撲滅を図ってきました。それは今も続いています。