緊急レポート/2024年3月13日/牧師:佐藤勝徳
パレスチナ問題の根源的、直接的、間接的原因Ⅰ
【はじめに】
2023年10月7日に、ハマスによるイスラエルに対するテロ攻撃が起き、約1200人のイスラエルの人たちが犠牲になりました。イスラエル人の首の切断、イスラエル人の死体の上に乗って喜ぶハマスの恐ろしい残虐行為は、かつてのヒトラーによるホローコーストを思い出した人もいたと言われています。そのハマスに対してイスラエルのネタニヤフ首相は民間人の犠牲を承知に、ハマス殲滅の為に、大々的にガザ地区で軍事行動を実行しています。連日のように、ガザ地区に住む犠牲となったアラブの子どもたちや女性を初め多くのパレスチナの人々の悲惨な状況が報道されています。その為に、国連や世界の多くの人々から、イスラエルが厳しく非難され、世界に反ユダヤ主義を拡大させています。
これまで、1948年5月14日イスラエル建国の18年前1920年から、アラブ側からの暴動、テロ、戦争が繰り返し起こり、イスラエルとアラブの軍事衝突が起こってきました。第1次中東戦争から第4次中東戦争以外に、レバノン戦争が2度あります。又、イランの指導者が核によってイスラエルの絶滅を宣言した事を受けて、イスラエル国防軍のイラン核施設への爆撃もありました。また、日常的ともいえる、ガザ地区からテロと数千発、1万発のロケット攻撃、更に西岸地区のパレスチナのアラブによるテロなどにより、多くの犠牲者を出してきたイスラエルは、それに対して止むを得ず報復攻撃を繰り返してきました。パレスチナ問題は正に「イスラエル民族とアラブ民族のパレスチナにおける領土問題による衝突」と、その衝突の結果多くの「パレスチナ難民」が発生してきた事です。では、どうしてイスラエルとアラブが20世紀に入って衝突を繰り返しているのでしょうか。その原因は何でしょうか。その複雑な原因を日本のイスラエル大使館がネットで公表している「イスラエルの歴史・年表」に沿って一つ一つ紐解いていきたいと思います。パレスチナ問題を正しく理解するには、根源的な原因と、直接的な原因と、間接的な原因を分けて考察する事だと思います。そうすれば、偏った情報やフェイク情報に惑わされること無く、正しく理解ができると思います。
Ⅰ 聖書が教える間接的原因
1、イスラエルの先祖アブラハムの間接的原因
①アブラハムの旅立ち
日本のイスラエル大使館がネットで紹介している「イスラエルの歴史・年表」は、「アブラハム」という一人の人物からスタートさせています。アブラハムとは誰でしょうか。彼の名前は聖書語句大辞典で調べると、アブラハムの元の名であるアブラムで69回、アブラハムで279回合計348回も聖書に記録されており、聖書の教えを正しく理解する為の重要人物となっています。彼の故郷はカルデヤの「ウル」でした。右図で分かるように「ウル」は今のイラクのチグリス・ユーフラテスのペルシャ湾河口付近にあった町です。そのウルから、アブラハムはお父さんのテラと共に「カラン」までやってきました。お父さんのテラが亡くなった後、アブラハムはカランからカナンの地シェケムに旅立ちました。そのカナンの地が現在のパレスチナです。聖書の創世記が教える「アブラハム、イサク、ヤコブ」というイスラエルの先祖である族長物語は、一部の神学者が主張するように「神話」ではなく、歴史的事実であることを、ファイファーは教えています。「彼らは、今日の考古学的発見によって知られている現実の世界に生きた、実在の人物として現れている」(ファイファー著「旧約の歴史」P24)
②アブラハム契約
アブラハムは、創造主の神さまに従ってカナンの地に旅立ったという功績で神さまから祝福され、三つの祝福の約束を受けます。第1に、子孫の増大。第2に、世界の民族がアブラハムの子孫によって祝福される。第3に、カナンの地(パレスチナ)を所有する。以上の三つです(創世記12:1~3)。そのアブラハム契約が、アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブ、そしてヤコブの子孫であるイスラエル民族に受け継がれていきます。そのアブラハム契約を神さまは創世記において11回も彼らと交わされました。その後、聖書にはアブラハム契約への言及が何度もあり、創造主の全知全能の神が、アブラハム契約を必ず実現させる神として、ご自身の事を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とか「アブラハム、イサク、ヤコブの神」、更に「イスラエルの神」だと何度も名乗られるようになったのです。聖書は、私が直接調べた結果ですが、約束の土地への言及は285回ありました。無条件契約のアブラハム契約の後、同じように無条件契約としてモアブ契約、ダビデ契約、新しい契約が加わり、イスラエルは神から4つの無条件契約を憐れみと恵みによって与えられたのです。正に、イスラエルは天地万物を創造された偉大な神から「契約の民」として愛されているのです。
以上の4つの無条件契約の重大さについてユダヤ人のアブラハム・J・ヘシェルは次のように語っています。「聖書は本来、神とイスラエルの契約の歴史だ。神とイスラエルが互いに交わした約束の中で、人間を探し求める神の物語。その契約が続く限り、聖書は生き続ける。契約の物語を貫いているテーマは、アブラハムに示された約束の地だ」(「イスラエル永遠のこだま」P59)。
使徒パウロも、イエス・キリストの生涯は「アブラハム契約」など、イスラエルと交わされた4つの無条件契約の成就を保証するための生涯であったと教えています。(新約聖書ローマ15:8)。
③アブラハムの失敗
アブラハムは、子孫の増大の約束を受けましたが、約束の子孫がなかなか授けられないので、妻サラの提案によりサラに仕えていた女奴隷ハガルによって男の子を産みました。その男の子は「イシマエル」と名付けられます。この出来事によってアブラハムの家庭の中に争いが起きるようになりました。ごたごたした家庭内騒動の中で、神さまは、イシマエルは約束の子でない事をアブラハムに教えられました。「創17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。『どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。』 17:19 すると神は仰せられた。『「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする・・・・。』
④約束の子イサクの誕生と重大な事件
その後、アブラハムが子種がなくなった100歳、不妊の妻サラ90歳の時に、全能の神の奇跡により約束の男の子が与えられます。その男の子は「イサク」と名付けられました。そのイサクの乳離れの盛大なお祝いの席で一つの重大な事件が起きました。15歳のお兄さんになっていたイシマエルが、妬みの故に、乳離れしたばかりの赤子のイサクを強く見下げる侮辱の言葉を口にし、からかったのです。その事を知ったイサクの母サラは、イサクが好戦的な兄イシマエルによって傷つくことを懸念して、アブラハムにイシマエルとイシマエルの母ハガルを、家族から切り離す事を求めたのです。アブラハムは苦渋の決断で、二人を家族から切り離します。この出来事が、実は、現代のイスラエルとアラブ民族の衝突の根にある出来事だったのです。なぜなら、イシマエルはアラブ民族の先祖となったからです。この、重大な歴史的出来事は一般の報道ではほとんど語られる事はありません。アブラハムは、イスラエル民族とアラブ民族の先祖で、今も両民族から「父祖」として深い尊敬を受けています。「創21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。 21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。 21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
イシマエルとその子孫のアラブの民族の特徴が、野生のロバのような放浪性と全ての兄弟に敵対する好戦的性格を持つ事がみ使いによって預言されていました。その預言通り、イシマエルは乳離れしたばかりの赤子の弟イサクに対して「好戦的な態度」をとったのです。「創 16:12 彼(イシマエル)は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」
2、アラブ民族の先祖、イシマエルの間接的原因
やがて、ヤコブの子孫である12人の子どもたちは苦難の地エジプトで、430年の間に神さまの約束により多くの子孫を生み、イスラエル民族となっていきました。その、イスラエル民族が神さまの約束によってエジプトから解放され、40年間の荒野を放浪した後に、「カナンの地」に移住し、先住民との戦いに勝利して住むようになりました。そうした長い歴史の間、カナンの地にはカフトル島(クレタ島)から移住したペリシテ人が侵入していました。(創10:14、申命記2:23、エレミヤ47:4、キリスト新聞社新聖書辞典P1231)。また、カナンの地の周辺には、アブラハムの甥ロトの子孫である「モアブ」「アモン」が民族としてヨルダン川東とと死海の東に住むようになっていました。また、ヤコブのお兄さんの子孫であるエドム民族が死海の南端に住むようになっていました。では、イシマエルはどのあたりに住んでいたのでしょうか。聖書は次のように教えています。「創25:8イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ」。イシマエルの子孫は放浪性と好戦的性格を父祖イシマエルから受け継いでいましたので、彼らは遊牧民族とななりました。彼らは遊牧民としてアラビヤ西北部全体に大きく広がったと言われています。イスラエルが、まだ古代国家を形成する前、士師時代にイシマエル民族と闘った事が記録されています(士師8:24)。イスラエルの歴史・年表では古代イスラエルがBC1020年に始まった事を教えています。その、イスラエルを地上から消し去って、その名が永遠に忘れさせようと、古代イスラエル国家の周辺民族が同盟を結んだ事が詩篇83篇に教えられています。その中に、イシマエルの子孫が加わっていたのです。アラブ民族の先祖であるイシマエルの子孫たちは、古代の昔から、カナンの地に住んでいたエルサレムを都とするイスラエル国家の絶滅を目論んでいたのです。「詩83:1 神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。83:2 今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。83:3 彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。83:4 彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」 83:5 彼らは心を一つにして悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいます。 83:6 それは、エドムの天幕の者たちとイシュマエル人、モアブとハガル人、83:7 ゲバルとアモン、それにアマレク、ツロの住民といっしょにペリシテもです。 83:8 アッシリヤもまた、彼らにくみし、彼らはロトの子らの腕となりました。」
3、古代の帝国に翻弄されるイスラエル民族
古代のイスラエル国家周辺諸国やアラブ民族たちが同盟まで結んで願っていた「イスラエル絶滅」は、古代帝国のアッシリヤとバビロンが成し遂げたかのように思いました。それは、古代の北イスラエル王国はBC721年にアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダ王国はBC586年にバビロンによって滅ぼされたことによります。そのように滅んで行くイスラエルを見て、古代イスラエル周辺諸国とアラブ民族の先祖であるイシマエルの子孫たちを含む諸民族は喜んだことでしょう。預言者エゼキエルがその事を次のように教えています。「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門は壊され、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった』と言った。」(エゼ 26:2)
古代イスラエル国家がアッシリヤとバビロンによって滅ぼされましたが、神さまは、「カナンの地」を約束の地としてイスラエルに与える事を約束されていた「アブラハム契約」と「モアブ契約」によって、イスラエル民族に再びカナンの地にイスラエルが移り住み、第2エルサレム神殿を建立するように導かれたのです。それは、バビロンに滅ぼされてから70年後に、ペルシャのクロス王の命によって実現しました。イスラエル民族は捕囚の地であったバビロンの地から解放され、約束のカナン地に帰還し、自治政治を行うようになったです。それは、第2の出エジプトと呼ばれる出来事でした。「イザ 44:28 キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」
4、イスラエルを滅ぼしたローマが間接的な原因
約束の地に帰還した古代のイスラエルの人々は、再び約束のカナンの地に移り住むことが出来ました。それが、AD70年にローマによって再び滅ぼされるまで続きました。イスラエルがBC63年にローマに支配されるまでは、ギリシャのアレクサンダー大王と、アレクサンダー大王亡き後、シリアを支配したギリシアのセレウコス王朝の「アンティオコス・エピファネス4世」による「ギリシャ化政策」に苦しめられます。祭司マタティヤとその息子マカベヤ兄弟たち5人(ハスモン家)による反乱により、エルサレムの神殿からギリシャの偶像を3年ぶりに取り除き、神殿をきよめる事に成功しました。その出来事を記念してお祝いされる祭りは「ハヌカ―」(光の祭り)と呼ばれ、現在も守られています(参照:外典Ⅱマカバイキ10章)。シリヤのアンティオコス・エピファネス4世のギリシャ化政策によって汚されたエルサレム神殿を、カベア家の兄弟たちがきよめ勝利した出来事が如何に大事な事件であったかをアブラハム・J・ヘシェルが「イスラエル永遠のこだま」で次のように述べています。「‥マカベア家の兄弟が敗北していたら、世界の魂の運命はどうなっていたことか。歴史の嵐が吹きすさぶ中、聖書は忘れ去られ、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も存在しなったに違いない。アブラハムやモーセやイザヤも、空しい思い出の中に登場するだけの人物になっていたであろう」 (P67)。
また、ユダヤの歴史を書いたF・ヨセフスも次のように教えています。「モジンのマッタティアスの息子たち、すなわちハスモン家の兄弟たちによるセレウコス王朝の支配からの独立の為の30年にわたる闘争は紀元前142年に終わった」(N・グラッツエル編「ユダヤ戦記」P53)
マカベア戦争の後、ローマの支援もありイスラエルはしばらくの間シリアから解放され、マカベア兄弟たちの血筋であるハスモン王朝による自治と独立が続きます。その時代にユダヤ教が発展し、サドカイ派(ギリシャ派ユダヤ人)やパリサイ人(律法に忠実な敬虔なハシディーム派ユダヤ人)、エッセネ派などの宗派が存在、その他会堂(シナゴグ)の存在、ヘロデ大王によるエルサレム第2神殿の改修など、新約聖書の舞台となるイスラエル社会が形成されて行きます。(キリスト新聞社「新聖書辞典」P549、P1107、ヨセフスの「ユダヤ人の歴史」P43~52、クレマインド著「マンガ聖書時代の古代帝国」P178~P213)。しかし、イスラエルは再び独立を失いBC63年からローマの支配下に置かれ属国となります。そのローマの支配下時代に、ナザレのイエスが現れメシヤ活動をされます。米国映画「ベン・ハー」その時代を背景に描かれた映画です。しかし、その時代のイスラエルの指導者たちは、ナザレのイエスを旧約聖書が預言するメシヤだと認める事が出来ず、十字架にかけてしまったのです。イスラエルがなぜローマによって滅ぼされたか、その原因はイスラエルの歴史・年表では分かりませんが、聖書では、その時代のイスラエルの指導者たちがナザレのイエスをメシヤとして受け入れず、十字架にかけて殺したその罪が原因であったと教えています。その罪の為にイスラエルは神の怒りによってローマによって滅ぼされ、世界に離散する民(ディスポラ)となりました。その神さまの裁きは、その時代より1300年も前、申命記でモーセが預言していたのです。「申 28:64 【主】は地の果てから地の果てまでのあらゆる民の間にあなたを散らす」。キリストはそのモーセの預言に従ってその時代のイスラエルの滅びと離散を預言されました。「ルカ 21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、・・」
ローマによって滅ぼされたイスラエル民族は、3分の1が虐殺され、3分の1が奴隷となり、3分の1が世界に散ったと言われています。ローマによって滅びたイスラエルを見て、その周辺の諸民族や周辺国家はイスラル国家が永遠に消滅したと思った事でしょう。しかし、キリストは、エルサレムは異邦人にいつまでも支配されない事を預言されていました。つまり、イスラエルが再び国家として再興する時が来る事を預言されたのです。「ルカ21:24異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」。その預言が、1967年の6日戦争(第3次中東戦争で成就したのです。6日戦争で、イスラエルはエルサレムの支配権を勝利者の権利で、ヨルダンから奪回したのです。
Ⅱ世界諸国によるパレスチナの政治的支配が間接的原因
イスラエルが、ローマによって滅ぼされた後、ローマの徹底した反ユダヤ主義により、イスラエルの名を永遠に消し去る為に、イスラエルとかユダの地と呼ばれていたカナンの地を「パレスチナ」と改名しました。「パレスチナ」という名は、カナンの地に住んでいた古代の「ペリシテ人」に因んでつけられたもので「ペリシテ人の地」という意味があります。古代のペリシテ人は地中海の「クレタ島」ら移住してきた民族で、カナンの地中海沿岸に住み、しばしばイスラエルを苦しめた民族です。彼らは、神の裁きによって旧約時代に滅びました。旧約時代、イスラエルを苦しめた「ペリシテ人」に因んだ名を付ける事でローマは「反ユダヤ主義」を一層明瞭にしたのです。「パレスチナ」という名は、「イスラエル」とか「ユダの地」と呼ばれていたカナンの地からイスラエルという名が永遠に消え去った事を思わせる反ユダヤ主義者による侮辱的な名であるのです。
しかし、約束のカナンの地には、僅かなユダヤ人が住み続けました。その重大さをアブラハム・J・ヘシェルが次のように教えています。「ユダヤ民族の大半は追放の身となったが、パレスチナには常にユダヤ人の居住地が残った。そこのユダヤ人の暮し向きは世代によって変わったが、居住地生活が断たれた事は一度もない。さまざまな民族集団や宗教集団が何世紀にもわたってパレスチナを支配し続けたが、ユダヤ人がそうした集団に吞み込まれた事もない。ユダヤ人は民族独自の宗教的共同体を存続させ、一時的に征服されたことはあっても、最終的には祖国の再興が実現すると、信じて疑わなかった。彼らが不屈の粘り強さで祖国の土地を固守した事は、征服者が残した文学や遺跡が証明している。」(「永遠のこだまイスラエル(P85)」)。
イスラエルがローマによって滅びた後、約束のカナンの地は、20世紀のパレスチナ問題が起きるまで、ローマを初め、アラブ民族、西欧キリスト教諸国(十字軍の派遣)、オスマン帝国、イギリスなどの諸国や民族の政治的策略の舞台として翻弄され支配され荒らされてきました。その、約2000年間、離散の民となったイスラエル民族は、「反ユダヤ主義」の神学者によって構築されたキリスト教の置換神学により、西欧諸国での差別と迫害、厳しい虐殺を多く体験し、一時は、民族絶滅の危機に迫るほど人口が激減したのです。マービン・R・ウイルソンは「私たちの父アブラハム」の第7章「侮辱の歴史―反ユダヤ主義と教会」の中でキリスト教初期の時代と中世の反ユダヤ主義者が誰であったかを教えています。(同P130~P151)、その置換神学の影響と金持ちユダヤ人への妬みもあり、ヨーロッパでは特に十字軍発足以後にユダヤ人への厳しい迫害が起きた事を、歴史学者たちが教えています。20世紀のナチのホローコースト(ガス室などによるユダヤ人虐殺)などは、しばしば映画や報道や本で取り上げら有名ですが、19世紀終わりごろから起きた反ユダヤ主義によるロシアのポグロム(ユダヤ人虐殺)の事はあまり知られていません。その一つのロシアのキシネフで起きたポグロムの事件が、反ユダヤ主義の恐ろしさを教えています。「イスラエル/民族復活の歴史」の著者、ダニエル・ゴーディスが次のように報告しています。「1903年のキシネフの虐殺(ポグロム)である。参事は、復活祭の日曜日、4月19日に始まった。当初は、若い連中がユダヤ人に付きまとい、チュフリンスキー広場から追い出そうとしていた。祭日だったこともあり、酔っ払った大人がそれに加勢した。午後遅く、30歳~50歳の暴徒たちが、25ほどの組に分かれて、一斉にベッサラビアの首都にあるユダヤ人街を駆け巡り、10代の少年たちが住宅や商店の窓ガラスを次々と割り始めた。王位学校や町の宗教学や神学生たちも加わり、鉄棒や斧を手に、暴徒に続いた。略奪者も加わり、学生たちはユダヤ人の財産を略奪し、破壊した。現地の警察は介入しようとせず、秘密警察長レヴェンダルは、むしろ暴徒を扇動していた・・・通りを馬車で通りかかったロシア正教の司教ヤーコブは、襲撃者の大半であるモルダヴィ人たちを祝福していた。暴徒は、知事が関与しない事を知ると、事態は更に悪化した。理不尽な残虐行為は、言葉では表せないほどひどいものだった。一晩中、殺戮と虐殺が続いた。5万人のユダヤ人が蛮行の餌食となった。2歳の男の子は生きたまま舌を切り落とされた。‥・幼少の時に片目を失ったメイヤ・ヴィスマンは暴徒に命乞いをし60ルーブルを出した。ヴィスマンの小さな雑貨屋を略奪していた暴徒はのリーダーがその金を奪うと、ヴィスマンのもう片目をえぐりだし、「これでキサマは二度と、クリスチャンの子どもを見る事は出ないだろう」と言った。人々の頭には釘が打ち込まれ、身体には斧で真っ二つに切断され、腹部はパックリと切り裂かれ、羽毛が詰め込まれていた。婦人も少女も強姦され、両乳房は切り落とされた者もいた。被害はひどかった。男性34人、女性7人が虐殺された(赤ん坊2人を含む)。負傷が悪化して8人のユダヤ人が後に亡くなっている。物的損害も甚大だった。虐殺直後に町を訪れた記者が、地元の非ユダヤ市民は『後悔も自責の念も示さなかった』と証言している」(同P56~P57)。
以上の、キシネフでのポグロムの事件を受けて、ユダヤ人のシオニズム運動はより拍車がかかり、深められ発展をしていきます。「キシネフは今も存在する。ユダヤ人が肉体的あるいは精神的苦痛を強いられるすべての所に存在する。ユダヤ人だからという理由で尊厳を傷つけられ、財産を略奪されるすべての所に存在する。だから、まだ救える者を救おうではないか」(テオドール・ヘルツエルの言葉/1903年第6回シオニスト会議において/イスラエル民族復活の歴史P55)
次ページのイスラエルの歴史・年表では、イスラエルがAD70年に滅んでからのパレスチナに関わる歴史を、ビザンチン時代(東ローマの支配時代)、アラブ征服時代(イスラム時代とも呼ぶ/エルサレムに岩のドームが建設された)、十字軍時代、マルムーク時代(イスラム教スンナ派)、オスマン帝国時代、英国統治時代と呼んでいます。
Ⅲ 西欧諸国の反ユダヤ主義とシオニズム運動が間接的原因
イスラエルの人々は、西欧諸国による反ユダヤ主義による苦難から逃れるために、安住の地を求める運動を始めました。それがシオニズム運動です。シオニズム運動の発端は、1894年フランスで起きた「ドレフュス事件」だと言われています。フランスではフランス革命により、ユダヤ人の人権も保障する宣言がなされていました。しかし、そのフランスでフランスの陸軍大尉であったユダヤ人のドレフュスが、フランスの国家機密をドイツ人に漏らしたという嫌疑で、厳しい裁きを受け有罪とされ官位がはく奪され、無期禁固で南米ギニア沿岸の悪魔島へ流刑となったのです。位階剝奪の儀式が1895年1月5日に行われた際、それを見学していた群衆が「ユダヤ人を殺せ!反逆者を殺せ!ユダを殺せ!」と叫び続け、ドレフュスは顔を真白にひきつけ、侮辱に耐えていたというのです。しかし、後に「ドレフュス事件」はフランスの反ユダヤ主義者たちによるでっち上げによる冤罪であった事が判明したのです。そのドレフュスの裁判の様子を見ていたひとりのユダヤ人がいました。それが新聞記者で「ユダヤ国家」(1896年)を書いたテオドール・ヘルツエルでした。(村松剛著「ユダヤ人/迫害・放浪・健国(P195~196)」。そのヘルツエルが、1897年にスイスのバーゼルで、ユダヤ人の為の安住の地を求める事を目的とした第1回シオニスト会議を開き、世界からユダヤ人の代表200人を招集したのです。その、第1回シオニスト会議の初めの時は、何処に安住の地を求めるか決まっておらず、いくつかの候補地があげられました。しかし、最終的には、やはりイスラエルの先祖が暮らしていたカナンの地、パレスチナだと決まったのです。ドレフュス事件のころから、ヘルツエルの盟友で、世界的に知識人として有名であったマックス・ノルダウもシオニズム運動に心を燃やしていきました。(ダニエル・ゴーディス著「イスラエル/民族復活の歴史(P66)」)
世界に散った先々で、イスラエルの人々は毎年、先祖がエジプトから解放された事を記念する過越し祭を守り続け、そのテーブルを囲む椅子に、誰も座らない空席の椅子を置いていました。その空席の椅子の名は「エリヤのための椅子」でした。ユダヤ人は、旧約聖書が預言するメシヤ到来前に、偉大な預言者エリヤがやって来るというマラキ書4章5節の預言に基づき、エリヤが「今日やって来るかも知れない」と思って、誰も座らない空席の椅子を用意していたのです。「・・ユダヤ人たちはこの空席を数千年にわたって守り続けた。・・・・エリヤの為の空席は、そこがいつ預言者によって占められるか予見不可能であるにもかかわらず・・」(内田樹著「レヴィナスの時間論」P118~19)。また、ユダヤ人は、来年こそ「エルサレムで過ぎ越しをお祝いしよう」を合言葉にその時、その時の過越し祭を守り、神の絶対的約束としていつの日か、イスラエル国家が再興し、神の都エルサレムに帰る日が来る事を強い希望として胸に抱き続けたのです。その事をダニエル・ゴーディスが次のように語っています。「・・詩篇137篇に『バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思い。われわれは泣いた』とある・・・・何世紀のもの間、ユダヤ人はこの詩篇137篇を歌ってきた。一度もその地を見た事もなく、自分達が生きている間そこに帰る事も無いと分かっていた。帰りたいと願っていたその場所の事は、殆ど知らなかった。しかし、魂の深いところで、いつの日か故郷に帰るという約束が実現すると確信していた。それまでの間、シオンへの夢は、絶えず彼らの精神生活と民族生命の支柱であり続けた』・・・聖書は、一民族が故郷を慕い続け、いつか故郷に帰る事が出来るという約束を決して諦めなかった物語である」(「イスラエル/民族復活の歴史(P48~49)」)
Ⅳ ユダヤ人に対するアラブ人の暴動が中東問題発端の直接的原因
第1回シオニスト会議が開かれる前、1882年にパレスチナに移り住むアリヤーのユダヤ人が起こりました。大規模な第1次アリヤーです(殆どロシアから)。世界各地からパレスチナに帰還するユダヤ人の事を「アリヤー」と呼びます。第1回シオニスト会議以来、「アリヤー」が多く起こされてきました。第2次アリヤー(1904年~1914年/主にロシアとポーランドから)。第3次アリヤー(1919年~1923年/主にロシアから)。第4次アリヤー(1924年~1932年/主にポーランドから)。第5次アリヤー(1933年~1939年/主にドイツから)と続きました。(「イスラエル/民族復活の歴史」の歴史年表より)。アリヤーが多く起こされた要因は、パレスチナにユダヤ人が郷土をつくる事に支持表明をした1917年のイギリスの「バルフォア宣言」と、1920年「サンレモ会議」で「バルフォア宣言」が正式に採択された事でした。第1次世界大戦戦勝国であったイギリス、フランス、イタリア、日本の4か国による会議で、オスマントルコが支配していた「パレスチナ」についてイタリアのサンレモで協議しました。それが「サンレモ会議」です。アリヤー達は荒れに荒れた人が住めない、農作物は育たない地主不在の荒れた土地や沼沢地(しょうたくち)を、トルコなどに住む地主のアラブ人とトルコ人たちから法外な値段で買っていきました。そのようにして、イスラエルの人々は正式な売買で少しずつ荒れた土地、沼沢地を買って開墾して行ったのです。パレスチナの土地が如何に荒れた土地であったかを、有名な歴史家のウイリ・デゥラントが「世界の歴史第2巻」(1967年9月初版発行)で教えています。
「古代には、土地を潤す為に、雨は水だめに貯められ、或いは沢山の井戸からくみ出し、網の目のように四通八達した運河によって国中に配分された。これがユダや文明の物質上の基礎であった。こうして養分を得た土地は、大麦、小麦、トウモロコシを生産し、ブドウも良く実った。又、山腹にはどこもかもオリーブ、イチジク、ナツメヤシ、その他の果樹が植えられていた。戦争が波及して肥沃なこの土地を荒したり、敵国に征服されて土地を大事にしていた家族が遠方に追放されたりすると、砂がどんどん押し寄せて、何世代もが努力して築いたものを数年でだめにした。1800年間も、国外亡命、分散、苦難に耐え、現代に待ってようやく故郷に帰った勇敢なユダヤ人の前には、荒地とみすぼらしいオアシスあるだけである。古代パレスチナが豊かであった事は、現在の状態からはとても想像はできない」(同P43~44)
イスラエルの人たちは、荒れたパレスチナの土地を戦争による侵略や法的に不正な方法で取得して行ったのではないのです。正当な方法で得たその荒れに荒れた土地の開墾の為に、アリヤーたちはマラリヤやその他の病に倒れ、多くの人が犠牲になり死んでいきました。あまりにも過酷な土地であったために、途中で断念してパレスチナから去って、元の国へ帰って行くユダヤ人も多く起こりましたが、それにもまして、パレスチナで安心して暮せる日を民族として約2000年間夢見てきた夢をあきらめるわけにいかず、汗水を流し不屈の精神で開拓し開墾し努力するアリヤーのユダヤ人が多くいたのです。(「イスラエル/民族復活の歴史(P106)」。そうした、シオニスト運動によるアリヤー について、1919年までは、アラブの人たちは歓迎の意を表明していたのです。アラブ人たちは、アリヤーたちが法外な高い価格で、又、順当な価格で正式な法的手続きに基づいて荒れた土地を買っていたので、アラブの人たちは、自分たちも欲しくない荒れた土地や沼沢地をユダヤ人が買って開墾する事を応援していたのです。誰もユダヤ人が「土地を買い占めている」とは思っていなかったのです。ユダヤ人が祖国を再建する事を歓迎していたのです。その証拠は、当時のアラブ民族の偉大な指導者エミール・ファイサルが、第1次世界大戦後のパリでの平和会議の際に、ユダヤ人のパレスチナ国家建設を目指す「シオニスト運動」を歓迎する思いを文書にしていた事で明らかです。1919年1月3日の事です。「我々アラブは、‥‥シオニスト運動を、深い共感をもって見ている。ここパリに集まった我々代表団は、昨日シオニスト組織から平和会議に提出された提案を熟知しており、我々は、その提案を穏当なものと考える。我々は、我々が関与できることに関しては、最善を尽くして彼らを援助するつもりである。ユダヤ人が祖国に心から迎えられることを願う・・・・私とわが民族は、互いに関心を抱き合う二つの国が、世界の文明社会に再登場できるように、我々があなた方を助け、同時にあなた方も我々を助ける、こんな未来が開ける事を期待している」
(アブラハム・J・ヘシェル著「イスラエル/永遠のこだま」P192)
この文書は、アラブのファイサルとユダヤ人のヴァイツマンの間で交わされたもので公式に発表されませんでしたが、ファイサル・ヴァイツマン合意文書として、残されてきました。(ウキペディアより)
以上のように、1919年の時点では、アラブの人たちはユダヤ人のシオニスト運動を支持し、アリヤー達を歓迎し、以前から住んでいたユダヤ人共同体(イシューブと呼ぶ)と仲良く暮らしていたのです。その事実を知らない人たちは、アリヤーたちがパレスチナの土地を買って入植し始めた事を悪であったかのように「買い占めた」というのです。そのように言う事によって、ユダヤ人が土地を買って入植を始めた事が「パレスチナ問題」の直接的な原因であるかのように、聞く人々に思わせてきたのです。それこそ偏向報道になっているのです。1882年から始まったアリヤーたちは、アラブの貧農の土地を買い叩いて買ったのでも、アラブ人を追い出して入植地を建設したのではないのです。A・グラノットが次のように教えています。「1880年から1948年までのアリヤーたちの土地購入を知らべると、ユダヤ人の土地の73%は、不在地主たちから購入したものである」(「パレスチナの土地制度」)。以上の事実の他に、私たちは。英国委任統治時代のパレスチナの土地を誰がどの程度持っていたかを知っておく必要があります。英国委任統治政府の統計によれば、既にユダヤ人は8,6%所有していました。アラブの人たちは16,5%、委任統治管理の公有地は70%以上でした。パレスチオの大部分はアラブの人の土地でもなく、ユダヤ人の為の土地でもなく。公有地であったという事実は、パレスチナ問題を正しく理解するうえで大変重要な事実なのです。それは、ユダヤ人がパレスチナの地から「パレスチナ人」を追い出しという報道は間違っている事を意味します。その公有地は、1948年の国際法に従ってイスラエル国家に移管されたのです。しかし公有地の70%は不毛の大地ネゲヴ砂漠だったのです。(「ハーベストタイム12月号」)。 パレスチナは元アラブの土地であったというのは正確ではないので、偏向報道に気を付けましょう。
しかし、1920年になると事情ががらりと変わっていたのです。それは、アラブの指導者の中に「反ユダヤ主義」たちがおり、彼らによって、一般民衆のアラブの人たちも「反ユダヤ主義者」に変えられてしまった事によります。古代の先祖イシマエルの「反ユダヤ主義的性格」が甦ってきたのです。その、反ユダヤ主義者の指導者の中に、ナチに協力してヨーロッパのユダヤ人虐殺に加担していたハジ・モハメド・アミン・アル・フサイニーがいたのです。イギリスの3枚舌外交によるパレスチナ統治は、ユダヤ人とアラブ人の間の摩擦と対立を助長しましたが、それに力を得て、フサイニーはアラブ民族主義によって、エルサレム旧市街のユダヤ人に攻撃を仕掛けたのです。これが、ユダヤ人とアラブ人の間のこの種の衝突のきっかけとなったのです。それまでは、何百年間、この二つ民族はエルサレムで仲良く暮らしてきたのです。(「イスラエル/永遠のこだま」P195~196)。
その反ユダヤ主義者の指導者によってあおられたアラブの人たちを激怒させる出来事が起こりました。それは、イギリスのユダヤ人がパレスチナに郷土を持つ事を支援すると宣言した「バルフォア宣言」を、第1次世界大戦の戦勝国であるイギリス、イタリア、フランス、日本の4か国による「サンレモ会議」で認めた事に対してでした。それ以後、アラブ人によるイスラエル人に対する暴動が繰り返し起こるようになり、その為に、イスラエルの人たちはやがて国防軍に発展していく自衛組織「ハガナー」を造らざるを得なくなったのです。
1920年から始まった度重なるアラブ人の暴動とテロが、現代の中東問題の発端の直接的原因となったのです。1920年の最初の暴動でユダヤ人が6人殺され、200人以上のユダヤ人が暴行を受け、、1921年にはヤッファで40人以上が殺されたのです。その時から、悲しい中東問題が始まったのです。このことをしっかりと読者は心に刻んでほしいと思います。反ユダヤ主義者であるアラブ人指導者たち(ハジ・モハメド・アミン・アル・フサイニーを含む)がどのようにして、アラブ人一般民衆をあおりユダヤ人に暴力をふるう暴徒とさせているか、その事をダニエル・ゴーディスが報告しています。「1928年9月、ユダヤ人が西の壁の前に一時的な衝立を設置した。ユダヤ教の贖罪日に男女が分かれてそこで礼拝が出来るようにするためであった。これを受けて、イスラム教の法典権威ハジ・アミン・アル・フサイニーは、西の壁におけるユダヤ人活動を制限するように要求した。以後、激化の一路をたどるアラブ側の扇動パターンの始まりである。「高貴な聖域」(神殿の丘)を、ユダヤ人が占拠しようと企て居るという噂が広まり、、あたかも岩のドームが、破壊されているかのような偽造写真が流布された。イスラム教徒の指導者たちは”破壊“したのはユダヤ人だと主張した。1929年8月13日の金曜日、アラブの若者たちがヘブロンで、ユダヤ教学院の学生めがけて石を投げつけた。同日遅く、シュムエル・ローゼンホルツと言いう青年が、一人でユダヤ教学院に行ったとき、アラブの暴徒がその建物に侵入して彼を殺害。この暴動で、数十人のユダヤ人が殺害される事になるが、この青年が学生の中で最初の犠牲者だった。翌朝、ユダヤ教の安息日に、アラブの暴徒がこん棒、ナイフ、斧を振るいながら、ヘブロンのユダヤ人地区を包囲した。アラブの女性や子どもたちはユダヤ人に石を投げつけ、男性たちは、ユダヤ人の住まいを略奪したし、家屋を破壊した。暴徒がユダヤ教ラビの家に向かった。そこには多数の怯えたユダヤ人が非難をしていたからだ。暴徒はラビに条件を出した。アシュケナジー(東欧諸国から帰還したアリヤーのユダヤ人)を引き渡したら、地元の中東系ユダヤ人達には手を出さない、と。ラビが首を縦に振らないと、暴徒は彼を殺した。暴動は、瞬く間にヘブロン以外の地域にも広がった。暴動が治まったときには、133人のユダヤ人が死亡しし、そのうち67人がヘブロンの住人であった。数百人のユダヤ人が近所アラブ人に助けられ、虐殺を免れた。中には、自らの命の危険を冒しユダヤ人をかくまったアラブ人もいたという。ヘブロンのユダヤ人地区は400年前に、スペインから逃れてきたユダヤ人が築いたもので、現存する世界最古のユダヤ人地区であったが、この暴動で壊滅してしまった」(同P112)
以上のような、岩のドームや神殿の丘に関するフェイクを、アラブ人指導者が度々流して、アラブ人の一般市民をあおって、「第二次インティファイダー(民衆による一斉蜂起で、ユダヤ人に戦争仕掛けて戦う)」を起こし、2000年から2004年までその戦いが続き、数千人の犠牲者が出たと言われています。再度、ここで強調しておきます。パレスチナ問題の直接的な原因をつくってきたのは、「反ユダヤ主義者」のアラブの指導者達であるということです。
Ⅴ イギリスの3枚舌外交が間接的原因で中東問題が拡大した 第1次世界大戦後、イギリスは自分たちの利権の為に、3枚舌外交を行いました。フランスとロシアに対してとオスマン帝国のアラブ人地域の分割案を約束したのが「サイクス・ピコ協定」、アラブ人に国家独立を約束したのが「フセイン・マクマホンン協定」、イスラエルの人にユダヤ人国家建設を約束したのが「バルフォア宣言」でした。つまり、一つのパレスチナをそれぞれの領土にしても良いと約束したのです。それが、イギリスの3枚舌外交です。それによって、アラブとイスラエルとの間でパレスチナの領土権をめぐる争いが一層深刻化していったのです。
⑤アラブ人の指導者が国連の分割案を拒否した事が中東問題の直接的原因 イギリスの統治が終わるころ、アラブ人によるユダヤ人への度重なる暴動とテロで、争いが絶えないパレスチの和平実現を目的に、国連が介入し国連によるおパレスチナ分割案が1947年11月29日に提示されました。その、分割案では、イスラエルの領土は56%、アラブの領土は43%でした。エルサレムは国連の管理下に置かれました。イスラエルはそれを喜び受諾しましたが、アラブは拒否しました。それは、自分たちの配分された領土がイスラエルよりも小さかったからでなく、「反ユダヤ主義」によりイスラエルと同じパレスチナにおいて共存する事を喜ばなかったからです。この分割案について、ウイキペディアが次のように教えています。「分割提案では、アラブ人国家は西ガリラヤ地域、ユダヤ・サマリアの丘陵地帯、アッコの町(アッコンとしても知られる歴史のある港町、分割案ではアラブ人国家の貿易拠点になることを想定している)、現在のガザ地区を含むアシュドッドからエジプト国境沿いの地域が含まれていた。ユダヤ人国家はハイファからレホヴォトに広がる地域と東ガリラヤとネゲヴ地方を含む[19]。エルサレム特別区(コーパス・セパラタム(英語版))はエルサレムとベツレヘム周辺地域が含まれる。アラブ人国家は委任統治領の約43%であり[20]、ユダヤ人国家は委任統治領の約56%とわずかに大きい。これはユダヤ人の将来の移民に対応するためであった[20]。ユダヤ人国家にはシャロン平原、イズレエル渓谷、ヨルダン渓谷といった肥沃な土地が含まれるが、大部分は砂漠の広がるネゲヴである[19]。またユダヤ人国家には紅海へのアクセスが可能なエイラートも与えられた。報告書には1946年末までの公式統計を基に推定された人口統計が含まれている。分割案ではユダヤ人国家に可能な限りユダヤ人を収容するようになっている。したがってアラブ人国家にはユダヤ人は極少数しか存在しない。逆にユダヤ人国家にはアラブ人が多数含まれている。ユダヤ人国家に住むユダヤ人とアラブ人はユダヤ人国家の市民となり、アラブ人国家に住むユダヤ人とアラブ人はアラブ人国家の市民となる予定だった」。以上のように国連がパレスチナの平和を願って練りに練って考えた「分割案」でしたが、アラブの指導者が否定したのです。その事が、パレスチナ問題の直接的原因とり、パレスチナの平和をより遠くへと追いやった事を、私たちは忘れてはならないのです。
【終わりに】 「パレスチナ問題の根源的原因、直接的原因、間接的原因Ⅰ」の終りに、1920年以来、アラブ人を扇動して度々ユダヤ人の命を奪うように暴動を指導した「反ユダヤ主義者」であったハジ・モハメド・アミン・アル・フサイニーの事をウイキペディアより紹介しておきます。ユダヤ人のダニエル・ゴーディスやアブラハム・J・ヘシェルが、事実に基づいて彼を厳しく非難する理由とその正しさが良く分かると思います。
反ユダヤ主義の思想を持つ経歴
1921年以前エルサレムの有力な名家・フサイニー家の出身。第一次世界大戦時はオスマン帝国軍に入隊。戦後は、大シリア主義構想の熱烈な支持者となり、現在のシリアの地に建国された大シリアの王ファイサル1世の傍で活躍した。しかし、サイクス・ピコ協定により中東が英仏の委任統治下に置かれ、パレスチナがイギリスの委任統治領になると、農奴的生活を嫌い、アラブ人地主(エフェンディ)の小作人(フェラヒン)が新しいユダヤ人の入植地に移住するという事が起こり始めていた。パレスチナのアラブ人は多くが非識字で、わずかな情報にも煽動されやすかったという。
1919年頃から汎アラブ主義運動を展開。「大アラブ構想」を練り、アラビア語新聞に数多く寄稿し、またそれをアラブ人の集まるカフェで読み上げさせた。1920年にはイスラム教の祝日ネビ・ムーサ祭(モーセ祭;過ぎ越しの祭りと同日)に、祭りを祝おうとしていたエルサレム旧市街のユダヤ教徒を襲撃)させ、4人を殺害、ダマスカスに逃亡(禁錮10年の判決を受けたが受刑せず)、翌年の43人のユダヤ人虐殺事件を逃亡先から煽動した。 1921年、アラブ人の歓心を買おうとしたイギリス委任統治領パレスチナ政府のユダヤ人高等弁務官ハーバート・サミュエルによって恩赦を与えられ、死去した兄であるカーミル・フサイニーに代わりエルサレム・大ムフティーに任じられた[3][4]。ムフティー選挙で最も支持を集めていたフサム・アッディーン・ジャーラッラーをサミュエル高等弁務官が説得する形での選出であった[5]。また、翌1922年にはサミュエル高等弁務官が設立していた最高ムスリム評議会の議長にも選ばれた[6][7]。 1929年の嘆きの壁事件、ヘブロン事件、ツファット事件などのユダヤ人大量虐殺も彼の同様の手口による煽動によるものだった。第5次アリヤーに際しシリアから暴力団を呼び寄せ、ヒトラー政権を逃れてパレスチナに入植したユダヤ人を狙うテロによって、シオニズムに抵抗した。
パレスチナ・アラブ人(のちに「パレスチナ人」とされる)の大部分はユダヤ人との平和な生活を望んでいたにもかかわらず、暴力団によって反フサイニー派のアラブ人を殺害し、フサイニー家のライバルのアラブ人136人を虐殺した(ヘブロン市長、エルサレム元市長を含む)。 1936年にヤッファの9人のユダヤ人虐殺を煽動し、更に「パレスチナ・アラブの大蜂起」を3年間にわたり指導。このため、英当局によりベイルートへと追放され、そこからイラクへ移る。1941年にイラクでのラシード・アリー・ガイラーニーによる親枢軸国の反英クーデターが起きるとラシード・アリーを支持・援助するが、イギリス軍が政権打倒のために軍事介入(アングロ・イラク戦争)したことで身の危険を感じイランに亡命。しかし、イランにも英ソ両軍が侵攻したことから、ドイツの同盟国である日本の公使館に潜伏し、イタリア公使館の助けを借りてイタリアに亡命した。最終的にフサイニーは、ナチス政権下のドイツへ渡り、11月29日にはヒトラーとも会見してヨーロッパからユダヤ人を「殲滅」するよう要求した。ヒトラーからは、中東・北アフリカにおけるユダヤ人一掃とアラブ民族主義勢力に対する支援の確約を得た。
この会談の中でフサイニーはこう語った。 「アラブ諸国はドイツが必ずや戦争に勝利すると確信している。アラブ人とドイツ人は共通の敵を持つ。すなわちイギリス人、ユダヤ人、共産主義者である。したがってアラブ人とドイツ人は自然の友である。だからアラブ人はドイツの戦争遂行に心から協力したい。(略)総統からアラブ人の統一と独立に希望を与えるような宣言を出して欲しい。」
これに対して、ヒトラーの回答はこうだった。 「ドイツはユダヤ人に対する呵責なき戦いを遂行している。そのことは当然としてパレスチナにユダヤ人国家を作る事には大反対だ。この地がユダヤ人によって経済的に開発されたというのは嘘であり、アラブ人の力によってなされたものでしかない。やがてドイツ軍はコーカサスから南の出口へ進撃しよう。そのときこそ、アラブ解放の時が来たと宣言を発しようし、フサイニーをアラブ人最高のスポークスマンと認めたい。」
※次回のレポートでは、「パレスチナ問題の根源的原因」が何かを、聖書から深く掘り下げてお伝えしたいと思います。