【はじめに】
前回発行しました「パレスチナ問題の根源的、直接的、間接的原因Ⅰ」では、日本のイスラエル大使館がネットで公表している「イスラエルの歴史・年表」に沿ってお伝えしました。イスラエルの父祖「アブラハム」から、1947年の国連による「パレスチナ分割案」の提示に至るまでの、「パレスチナ問題」の間接的原因と「直接的原因」を取り上げました。そして次のように結論づけています。「1920年から始まった度重なるアラブ人の暴動とテロが、現代の中東問題の発端の直接的原因となったのです。」この私の見解が正しい事を教えるもう一つの情報を補足として最初にお伝えしておきたいと思います。
≪補足≫
パレスチナに「イスラエル国家」を再建するという、ユダヤ人の運動は「シオニズム運動」だけでなく、他にもありました。その一つがヘブライ語の父と呼ばれる「ベン・イエフダ」による「ヘブル語復活運動」です。ベン・イエフダはロシアの領域にあったリトアニアで1860年に生まれたユダヤ人です。青年になったベン・イェフダーは、当時のユダヤ人から嘲笑され、批判されながらもユダヤ人の祖父の地である「パレスチナ」に「イスラエル」が再建される時が必ず来ることを信じていました。イスラエルが再建されたその時に、必ず必要になるのが失われた日常用語の「ヘブル語」だと確信しました。そして、自分がその失われ日常用語の「へブル語」を復活させる事を、生涯の仕事、生涯の使命としたのです。彼は結核の身でありながら、結婚後、オスマン帝国の支配下にあったパレスチナに移住しました。そこで、ヘブライ語新聞を発行しながらその使命達成にむけて、啓発運動と研究に取り掛かっていきます。妻には、生まれた子どもには「ヘブル語」以外は絶対に聞かせないようにと言いつけ、ヘブル語を話せる子どもとして自分の子どもたちを育て行きました。健康的、経済的、精神的、政治的、霊的に様々な苦難を乗り越えて、千冊を超える多くの本を読み研究し、膨大な資料を作っていきましたが、彼はヘブル語辞典の完成を見ないまま1922年64歳で亡くなりました。しかし、ベン・イェフダー亡き後、妻のヘムダと友人たちによって彼の作った膨大な資料に基づいてヘブル語の大辞典が完成したのです。その、ベン・イェフダーの生涯を米国の国際ジャーナリストのローバート・セントジョンが「ヘブライ語の父ベン・イェフダー」で紹介しています。その中で、イギリスがユダヤ人のパレスチナに国家を建設することを支持する事を表明した「バルファ宣言」と、第1次世界大戦の戦勝国による「サンレモ会議」で、「バルファ宣言」を承認した事について、ベン・イェフダーがどれだけ喜んだかを教えています。「世界中のユダヤ人が忘れてはならない日は、1919年11月2日である。1919年11月2日に英国政府が、パレスチナはユダヤ民族の祖国であるという宣言を待っている世界に四散してたユダヤ人の支援に乗り出したのだ。歴史はこれを『バルファ宣言』と呼ぶ事とになる。ベン・イェフダーはこれを『我々の自由憲章』と呼んだ」(同P404)。又、セントジョンは、「サンレモ国際会議」で、「バルファ宣言」が承認された時のベン・イェフダの喜びを次のように綴っています。「『サンレモでまずい結果になったらどうしよう?』・・そんなある朝ベン・アビが書斎に入って来た。『サンレモンからのニュースが入りました。お父さん! 25か国が、我々民族国家に承認を与えました。・・』。『間違いないか?』、父親は立ち上がって息子の両肩をつかんでいた。『誰に聞いたんだ?それは正式なのか?満場一致なのか?』 ベン・アビはにっこりして間違いないと言った。・・・イスラエルは自由への特許状を勝ち得たのだ。・・そして家から駆け出していった。。・・通りから通りへわき目も振らず走り回り、・・・62歳を越えていたのにすごい勢いで走り続けた。エルサレム中にこのニュースを聞かせなければ。そうしてエルサレムのみんなに自分といっしょに喜んでもらうんだ!調印した。イスラエルは生きる! 息が切れ震え出しながら、叫び続けた・・」(同P416~P417)。
ベン・イェフダは、ヘブル語とアラビア語の発音が似ているので、アラビヤ語も学び、彼はアラブ人とユダヤ人がパレスチナで仲良く平和に暮らす日々がやって来ると信じていました。その事を、セントジョンが次のように教えています。「ベン・イェフダはアラブ人には大きな友情を感じていた。言語学の研究を通して、たいていのユダヤ人よりは、こうした圧迫されたセム系の民族の方に、近いものを感じていた。彼らの言語を研究し、ヘブライ語のアラビア語に対する貢献、アラビア語のヘブライ語に対する貢献を知っていた。そして、アラブ人を『われわれの兄弟たち』と呼び、長年彼らに対して、アラブ人とユダヤ人は共に、パレスチナで自由の空気を吸う日が来るという信念を表明していた。 アラブ人の方でも、学者で見識のある人としてベン・イェフダを尊敬していた。大半は彼がヘブル語を復活させたことを喜んでいた。町で、その言葉を耳にするのが好きだったし『姉妹言語』だと思っていた」(P423~P424)。
その、ベン・イェフダのアラブ人とユダヤ人の平和に暮らす夢が、1920年に突如、アラブ人の暴動で壊れ、アラブ人がユダヤ人を殺し、双方の衝突が始まったのです。前回のレポートでその詳細をお伝えしていますので、再度、お読みいただければと思います。
さて、今回のレポートでも、国連の「パレスチナ分割案」の提示以後、1948年5月に勃発した、「第1次中東戦争」による「パレスチナ問題」の間接的原因と直接的原因を取り上げています。パレスチナ問題を正しく理解して行けば、聖書の「終末」に関する預言の教えが、正に現代社会に成就しはじめている事が見えてくるのです。最後まで、忍耐をもってお読みいただければ感謝です。今回のレポートでは聖書の終末論との関係については論じていませんが、最後のレポートで取り上げます。
Ⅰイスラエル建国による第1次中東戦争の直接的原因
1、イスラエル建国の社会的、政治的、人道的正当性
1947年9月29日国連は「パレスチナ分割案」を決議し、エルサレムは国連の管理地とされ、パレスチナ全土の56%がイスラエルに、43%がアラブの人たちに分割されました。しかし、イスラエルに割り当てられた56%の土地の内、70%は不毛の大地「ネゲブ砂漠」だったのです。ネゲブ砂漠は「主に岩砂漠であり、『月世界』『この世の果て』『地獄』というようなありふれた言葉以上の表現が出来ない荒れた大地です。黒い深成岩の玄武岩、赤い砂岩、白っぽい石灰岩が荒涼とした風景を3次元に複雑に織りなして何処までも続いている砂漠地帯です」(ネットより)
分割案の地図でも分かるように、アラブの人たちに割り当てられた部分は、ヨルダン川西岸という、パレスチナの大事な中心部分が広く割り当てられている事が分かります。面積ではイスラエルは13%広く割り当てられていますが、割り当てられた部分を見れば、イスラエルにとって少々不利だという事が分かります。イスラエル人が分割案で得たパレスチナの土地は、元々アラブ人の土地であったという情報は間違っているのです。ユダヤ人もパレスチナに住んでいたので、ユダヤ人も「パレスチナ人」と呼ばれていたのです。パレスチナの殆どの部分が国連が管理する公有地であったので、国連は「分割案」を決議できたわけです。分割案はイスラエルにとっては、どちらかと言えば少々不利でしたが、それでもイスラエルの人々は大喜びでした。その事を「ユダヤ人」(中央公論/1963年初版発行)の著者村上剛氏が次のように報告をしています。「この日、11月29日、パレスチナの町々のユダヤ人は、誰言うともなく、街路に押し出し、町の道路、広場は身動きもならないほど、群衆によって埋め尽くされた。彼らは互いに抱き合って、独立を祝い合う。祝賀は一日一夜続いた」(P6)。
国連のお墨付きをもらったので、イスラエルの指導者たちは「パレスチナに国家再興」という約2000年の念願と、迫害の無い安住の地を求めてのシオニズム運動の祈りと夢の実現の時が来たと判断し、翌年1948年5月14日にイスラエル共和国を樹立しました。長年のシオニズム運動の夢が実った瞬間でした。1897年の第1回シオニスト会議の直後、ユダヤ国家実現を進めるシオニズム運動をはじめた ヘルツルが、50年後にユダヤ国家実現を予見していた事を、村上剛氏が教えています。「バーゼル(スイス)の第1回シオニストの会議の直後、ヘルツルは日記に書きつけた。『バーゼルに私は、ユダヤ国家の基礎をおいた。もし、私が大声で叫んだら、世界中が私を笑いものにするだろう。だが、おそらくは5年後、もっと確実なところでは50年後に、世界はその事実を知るのだ』。この数字は正確だった。ちょうど50年を経た1948年に、世界はその事実を知ったのだった。エルサレムの郊外にあるヘルツルの墓地は、独立記念日のたびごとに、そこに詣でる人の波で埋められる。夜空に花火が、先覚者の霊を讃えて、美しく輝くのである」(同P200~P201)
イスラエルが、約2000年ぶりに厳しい長年の苦難の末にパレスチナに国家を復興した事は、社会的に政治的に人道的に正しい方法で行ったのです。正当な方法で買った土地と国連の公有地を国連分割案によって与えられ、それら土地をもって新しいイスラエル国家の土地としたのです。人口も約60万となり、小さな国家を作り上げる正当な準備が整っていました。それ故に、「イスラエル国家の父」と呼ばれるベングリオンは、イスラエル独立宣言文で次のように宣言したのです。「我々は自然で歴史的な勝利…に基づいてイスラエルの地にユダヤ国家、すなわちイスラエル国家の樹立を宣言する」と(ダニエル・ゴ^ディス著「イスラエル民族復活の歴史」P163)。その宣言は正しかったのです。イスラエルがパレスチナに国家を再興した事が「パレスチナ問題」の責任の無い間接的な原因であっても、責任のある直接的な原因では決してなかったことを、私たちは確認しておく必要があります。
2、第1次中東先生の直接の原因はアラブにある
①国連の分割案を拒否したアラブの指導者たち
国連の分割案をイスラエルの人々が喜ぶ喜びもつかの間でした。国連分割を受け入れなかったアラブの人たちが、、旧約時代のアラブの人たちの反セム主義(反ユダヤ主義)の血が甦ったかのように、イスラエルの絶滅を目指して、軍事行動を起こしたのです。それが、第1次中東戦争です。パレスチナ問題の責任のある直接的原因は、「第1次中東戦争」を起こしたアラブの人にあるのです。
1947年11月29日の「国連分割案を拒否したアラブの人たちは、反対の表明として国連に向かって直接抗議をするのでなく、イスラエルの撲滅を狙って、これまで以上に暴動とテロと争いを開始したのです。村上剛氏が次のように報告をしています。「翌日、アラブ最高委員会は、国連決議への抗議ストライキを、全アラブ圏に対して指令するのである。ストライキはユダヤ人へのテロ、組織的襲撃となって行く。同じ日バスが襲われて、7人のユダヤ人男女が殺害されたのが、最初だった。3日後の12月2日、エルサレムの南隅ある、ユダヤ人街をアラブの群衆が襲撃した。ユダヤ人の持ち物、財産は路上にうず高く積み上げられ、火がつけられた。・・この時、アラブ人側はパレスチナ領内に既に正規軍の「アラブ軍団」を持っていた。この軍団の隊員は全てアラブ人だが・・、こ部隊がイギリスの旗の下に、適時、テロ集団と化した。例えば12月に路上で14人のユダヤ人の子どもを射殺している」(同P6~P7)。
1947年の第1次中東戦争は、国連の分割案を契機に勃発したのですが、その兆しは1920年から始まったアラブの人たちの27年間にわたるイスラエルへの度重なる暴動とテロに既にあったのです。
②1920年から1947年までのアラブ人たちの暴動とテロ事件
1920年から1947年までの27年間に、アラブの人たちはどのような暴動とテロをイスラエルの人たちに行ってきたのでしょうか。
1)1920年暴動開始
1920年4月4日日曜日午前10時30分までに、6万人から7万人のアラブ人がネビ・ムーサ祭りにエルサレムに集まり、アラブの指導者に扇動されたアラブ人の群衆は「パレスチナは我々の土地だ。ユダヤ人は我々の犬」だと叫び、アラブ警察も加わって、ユダヤ人への暴動を始めました。暴動は7日まで続きました。その結果、ユダヤ人は5人殺され、216人が負傷を負い、18人が重体となり、ユダヤ人はエルサレムの旧市街から300人が避難を余儀なくされたのです。(ネット/「1920年ネビ・ムーサ暴動」より)
2)1921年の春、第2回目の暴動
第2回目のアラブたちの暴動を静めたのはユダヤ人のラビの勇敢な発言でした。「・・我々の親愛なる従兄弟たちよ!我々の共通の父であるアブラハム、イサクとイシマエルの共通の父であるアブラハムは、甥のロトが、自分の羊の群れとアブラハムの羊の群れが共に住むには狭すぎると不平を言ってきたとき、ロトに言った。『私たちは身内のものです。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者とたちの間にも争いがないようにしよう』と。我々も、あなた方に言う。この地は我々とあなた方双方の全員を養い、全員に豊かな暮らしをあてる事が出来る。だから互いに争うのは止めようではないか。なぜなら我々とあなた方は兄弟のような民族同士なのだから」。彼の言葉を黙って聞いていたアラブ人たちは、三々五々、静かに去って行った。」(アブラハム・R・ヘシェル著「イスラエル・永遠のこだま」(P199)。
3)1929年9月、第3回目の暴動
再びハジ・アミン・アル・フサイニーの扇動で暴徒化したアラブ人によってヘブロンとその付近でユダヤ教学院の1人のユダヤ人学生と133人のユダヤ人が殺されたのです。この暴動がアラブとユダヤの大規模紛争に発展する直接的な原因となったです。この大虐殺を受けて、ユダヤ人の自衛組織ハガナーは外国から武器を調達し、自らも武器を製造するようになり。やがて20部編成、男女2万5千人の義勇兵を有する民兵組織となり、ユダヤ人の軍隊がスタートしたのです。(ダニエル・ゴーディス著「イスラエル・民族復興の歴史」P112~113)
4)1936年4月~1939年8月の「パレスチナ・アラブ反乱」(パレスチナ独立戦争)
パレスチナ・アラブ反乱とはウイキペディアで次のように教えられています。「パレスチナ・アラブ人が大量のユダヤ人入植への反発とイギリス植民地支配に対し独立を求め起こした民族主義反乱である」。この、反乱もやはり. ハジ・アミン・アル・フサイニーの指導によるものでした。この反乱でアラブ人は約5千人がイギリス当局によって殺害され、ユダヤ人は91人~数百人が死亡したと推定されています。アラブ人の反乱は失敗に終わりましたが、この反乱でアラブとユダヤ人との亀裂がより一層深まったのです。このアラブ人の反乱も、「パレスチナ問題」の責任が問われる「直接的原因となったのです。
5)1947年11月30日アラブ人により内戦が勃発
国連の2分割案採択の11月29日の翌日より、パレスチナは事実上内戦状態となった。決議に反発したアラブ人による襲撃・焼き討ちなどが行われ、ユダヤ人も応戦を余儀なくされた。イギリス軍はもはや治安維持能力が無く、内戦状態は放置された。この内戦状態を見てアラブ側の義勇兵が各国より集まり、1948年2月にアミーン・フサイニーやアブドゥル=カーディル・アル=フサイニーなどが率いるアラブ救世軍が結成され、ファウズィー・アル=カウクジが率いるアラブ解放軍も結成された。(ウイキペディアより)
6)1948年1月から始まったアラブ人によるエチオン聚落襲撃事件
イスラエルのエチオン聚落へのアラブ軍隊の襲撃について村上剛氏が次のように教えています。「アラブ連合軍が1948年5月14日に宣戦布告をする前に、ヘブロンのエチオン聚落に入ったアラブ軍団は、1軒1軒の家を砲撃して破壊し、白旗をもって出てきた3人のユダヤ人兵士は、その場で射殺された。指揮官が制止しても、アラブ人兵士は耳を貸さない。地下室に隠れていた20人の女性が、手りゅう弾で殺された」と。(村上剛氏著「ユダヤ人/迫害放浪建国」P9)。
このエチオン聚落へのアラブ軍の襲撃について、ダニエル・ゴーディスも次のように教えている。「1948年の最初の2週間に四つの集落―クファル・エツィヨン、マスオット・イツハク、エイン・ツリム、レヴァディムが包囲された。イスラム教法典権威(ムフティ)ハジ・アミン・アル・フセイニの従兄弟アブデル・カデル・アル・フセイニの率いる千人のアラブ村民が、エツィヨンに留まっていた百数十人のユダヤ人男性を取り囲んだ。ユダヤ人の武器は貧弱であった。数百のアラブ人婦女子も包囲に加わり、空のスーツケースを持参して、ユダヤ人の所持品を捕ろうと待ち構えていた。1月14日、ユダヤ人守備兵たちはアラブ人の攻撃を撃退した。しかし、その後、エチオン地区に補給物資を届ける任務を負った、35人若者の兵士たちは(ほとんどがヘブライ大学の優秀な学生)、アラブ軍の待ち伏せ攻撃に合い、殺され、遺体はバラバラに分断され、身元確認ができないものもあった。その後、5月13日エチオン聚落はアラブの手に落ちた。投稿したユダヤ人の多くは、勝ち誇るアラブ人に殺された」(「イスラエル/民族復活の歴史」P153~154)
③第1次中東戦争勃発の原因
イスラエルは1945年5月14日に、パレスチナにおいて「独立宣言」を行い「イスラエル共和国」を実現しました。その時に1923年から始まったイギリスの統治が終わり、イギリスはパレスチナから引き揚げました。その同じ日に、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国はイスラエルに対し戦争宣言をしたのです。(後にサウジアラビア、イエメン、モロッコも部隊を派遣)。アラブ連合軍は翌15日にパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発しました。開戦時のアラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差であった。アラブ側の主力は、アラブ軍団と呼ばれる精鋭部隊を持つヨルダン軍と、シナイ半島から進撃するエジプト軍でした。対してイスラエル側は国連によって武力保持が禁じられていた為、ゲリラ部隊ハガナーがチェコスロバキアから密輸していた小銃などで応戦したのですが、5月18日にヨルダン軍がエルサレムを包囲し、28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏しました。しかし、エルサレム新市街はイスラエルが保持し続け、テルアビブの支持もあり徹底抗戦を行い、踏ん張っていました。そこへの補給を巡り、 ラトルンの要塞などで激戦が行われたが、結局、要塞はアラブ側が保持したものの、6月にイスラエル は迂回路『ビルマ・ロード』を設定しエルサレム新市街への補給に成功したのです。(ウイキペディアより)。その戦闘を、村上剛氏はアラブ人によるユダヤ人絶滅を目指す「絶滅戦争」と称し、次のように報告しています。「最後のイギリス兵が引き上げた1948年5月14日の午前零時。北方からシリヤ陸軍が、ドイツ製の及びイギリス製の野砲で3か所から砲撃を開始し、2万のシリヤ軍が、ルノー戦車を先頭にヨルダン川を渡った。同じ時刻、イラクはヨルダン川にユダヤ人が作っ
たロッテンベルグの水力発電所に向かって砲火を開く。イラク軍は兵力2万5千。この軍隊の背後には、アラブ軍団司令官でイギリス人の、グラブ将軍がいたと言われる。イラク王とヨルダン王とは、同じフセインの一族、ハシュミット王家の出身であり、パレスチナのユダヤ人を滅ぼした後、イギリスを後ろ盾のもとに、連合王国をつくることを夢見ていたのである。 また、同じ14日の午前零時、ヨルダンのアラブ軍団は、エルサレム旧城内に残っていたユダヤ人居住区を砲撃し、南からはエジプト軍2万5千が、2隊に分かれて侵入を開始した。エジプト軍は、戦車、重砲を備えた機甲部隊であり、一方は海岸線ガザ、テル・アヴィヴに向かって進撃し、他方が砂漠を抜けてベルシェヴァに向かう。エジプトは空軍を動員して。この作戦を掩護し、15日には、テル・アヴィヴ町が、早くも空襲を受けた。18日の空襲では、テル・アヴィヴの南東地区が爆撃され、いわせた市民41人が死に、60人が負傷をした」(同「ユダヤ人/迫害放浪建国」P12~13)
以上、村上剛氏が報告するように、圧倒的に軍事力に優るアラブ連合軍により、イスラエルはあっという間に占領されてしまう情勢でした。しかし、2回の休戦を含め、約1年続いた「第1次中東戦争」は不思議な事にイスラエルが圧倒的に勝利をおさめ、その結果、占領地を得て国土を広げる事が出来たのです。村上剛氏は、第1次中東戦争の状況を詳細に論じた最後に、イスラエルを不死鳥に例えて次のように締めくくっています。「ユダヤ人以外、誰ひとり予想していなかった事が起こった。12万のユダヤ人男女は、手製の小銃や迫撃砲と地雷を初めは主要な武器として、アラブの機甲部隊と戦い、年を越すと、その占領地区は、国連の分割案で指定された地域をはるかに超えるまでになっていた。イスラエル人絶滅を叫ぶアラブ人の砲火のもと、・・不死鳥は、不屈の力をもって、またしても甦り、羽ばたいたのだ」(同P17~18)。
私たちは、ここでもはっきりとさせておかなければならない事は、第1次中東戦争の勃発の直接的原因は、アラブのイラクの王とヨルダンの王がパレスチナに「アラブ連合国」を築こうとする野望を秘めて、ユダヤ人絶滅を目指して軍事行動を起こした事にあるという事です。イスラエルは、当初の国土を軍事行動による侵略で手にしたのでなく、又、強制的にアラブの人たちを追い出して得たのでもなく、法外な値段で買わされた荒廃した土地と順当な価格で正当の方法で取得し荒廃した土地を買って得たものです。その土地に入植を始めたのです。更に、国連が管轄していた公有土地を国連の分割案によって得たのです。更に、アラブ連合軍による侵略攻撃から守った第1次中東戦争により、防衛した事の権利として「占領地」を得た事です。一般の報道でイスラエルが土地を取得したのは「侵略によった」とか「占領によって」と批判的に報道されていますが、それは間違った「偏向報道」となっていますので、要注意です。
④第1次中東戦争の休戦協定
第1次中東戦争の休戦協定は、エーゲ海のロードス島で行われ、国連のラルフ・パンチ氏の仲介により、難航の末1949年2月24日に締結されました。その結果、イスラエルは戦勝国として、イスラエルの多くの犠牲者の血の代価として休戦協定に基づき正当的に占領地を得て国土を広げる事が出来ました。右図は、国連分割案によって提示されたイスラエルの国土の範囲と、第1次中東戦争後の休戦協定によって承認されたイスラエルの国土を比較しています。
休戦協定で定まった事は、イスラエルの占領地がイスラエルの領土となり、ガザ地区はエジプトの管理地区に入り、狭められたヨルダン川西岸地区はヨルダン国の領地となった事です。ウィキペディアでは第1次中東戦争の結末について次のようにおしえています。「この戦争の結果は双方に不満を残すものだった。イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの、肝心のユダヤ教の聖地である嘆きの壁を含むエルサレム旧市街はイスラム教国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になってしまった。アラブ側もイスラエルの建国を許し、人口比に比べわずかな領土しか確保することができなかったため、イスラエルに対する敵意を募らせた。終戦後も両勢力の敵対は全く収まらず、以後21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた」と。
アラブ側は、パレスチナの領土問題に関して、右図で分かるようにアラブ人に圧倒的に有利な、1937年にイギリスのピール委員会が提案した「パレスチナをユダヤ人国家,トランスヨルダンを含めたアラブ人国家,イギリス統治地域に3分割する提案」と、1947年に国連が示した「2分割案」をいずれも拒否し、イスラエルへの暴動と戦争に発展させたのです。しかし、いずれの提案もイスラエル側は受け入れ、アラブとの平和的共存を望んでいる事を示したのです。国連が深く考えたアラブとユダヤの平和的共存の為の「二ヶ国分割案」以外に、平和の道はなかったのですが、アラブの指導者たちがそれを「反ユダヤ主義」の故に拒否したのです。その結果、第1次中東戦争が勃発しました。
第1次中東戦争でアラブ人による侵略から国を防衛し、勝利を収めたイスラエルは、アラブに国連が分割案で示していた土地の幾分かを占領地として確保しました。それは、国際法上許されることでしょうか。イスラエルはアラブ人の暴動と戦争により多くの命が犠牲となり血を流しました。その血の代価として、占領地を確保する事は、当然ながら国際法上に許されたのです。私たちは、第1次中東戦争でイスラエルが正当的に占領地を得た事が、「パレスチナ問題」の責任の無い間接的原因であっても、責任のある直接的な原因でなかった事を理解しておくことが必要です。
⑤パレスチナ難民発生の原因
1)パレスチナ難民発生原因の直接的な責任はアラブの指導者達にある
第1次中東戦争により、イスラエルの正当な占領と、アラブ人指導者の命令により、居住地を離れ難民となったアラブの人たちは正確には分かりませんが約47万~75万人だったと言われています。その人たちがパレスチナ難民となりました。このパレスチナ難民発生の原因をつくった責任はイスラエルの指導者たちにあるのでしょうか。それともアラブの指導者たちにあるのでしょうか。それは、アラブの指導者たちなのです。戦争が始まった時、、イスラエルの指導者たちは、一緒に住んでいるアラブの人たちに、土地から離れないで留まるように熱心に勧めました。イスラエルの主流の指導たちの方針は、できる限りアラブ難民をつくらない事でした。米国の有名な弁護士であるアラン・ダーショウイツが次のように教えています。「アラブが勝利した時、その集団をどう処置するのかの話や計画などもなかった。『何人(ユダヤ人が)いるかは問題ではない。我々は全員海に叩きこむ』とアラブ連盟事務総長は言った。当時ユダヤ人は『負けたら、皆殺しになる』事を充分認識していたのである。一方イスラエル側は、ユダヤ人国家のアラブ人に完全な市民権を認める用意があった。なるべくなら人数が少ない方が良いというのが、多くのユダヤ人の率直な心情であった。しかし、ユダヤ人側の公的な機関は、数に関係なく全員認めるのである。アラブ人口を少なくしようとする意図はもちろんなかった。」(「ケース・フォー・イスラエル/中東紛争の誤解と真実」P104)。しかし、アラブの人たちは指導者達からは、一時的に離れて戦争後に帰ればよいと説得をされて、戦争が始また時点で自分たちの土地から離れて行ったのです。その事について、アブラハム・J・ヘシェルも次のように教えています。「アラブの指導者たちは、アラブ難民問題はイスラエル国家に責任があると主張する。しかし、議論の余地もない多くの証拠を見れば分かるように、難民発生は、アラブの指導者自身に刺激され、鼓舞されているところが大きいのだ。1947年11月29日、国連の解決策が採択されたが、その直後に戦闘が起き、それとともにイスラエルからの流出が始まった。その流出はアラブの侵略によって速度が早まり、規模が拡大して行った。村に住む人々も町に住む人々も、指導者から。『一時的に』近くの地域に撤退し、進軍中の縦列に道を空けるように忠告された。ユダヤ当局は国家への移行が整然と平和の内に行われるようにという配慮から、この流出を食い止めるために、できる限りのことをした。イスラエル独立宣言は次のように謳っている。『イスラエルに住むアラブ民族の子らは、完全かつ同等にな市民権,及び暫定的に、永久的なすべての国家制度において当然認められる代表派遣の権利に基づき、平和を保ち、国家建設に彼らの役割を果たすことを求める』と。 同様の趣旨の訴えは、あらゆる手段を使って―つまりラジオ、宣伝ビラ、宣伝カーを使って流された。・・・イギリス警察がエルサレムの司令部に対して、次のような報告を行っている。『ユダヤ人はアラブ系住民に対して、留まって通常の生活を続けるように、商店も事務所も開くように、そして彼らの命も利権も安全も保証されるている旨、あらゆる努力を払って説いて回った』」(「イスラエル/永遠のこだま」P200~201)
2)パレスチナ難民の発生の諸原因
パレスチナ難民が、アラブ連合国によるユダヤ人絶滅を目指して始めたイスラエル侵略戦争の「第1次中東戦争」によって起きましたが、それ以外にはどのような原因があるのでしょうか。アラン・ダー・ショウイッツの「ケア・フォー・イスラエル/中東問題の誤解と真実」(P101~116)やネット等からの情報でお伝えします。
◆パレスチナアラブ人擁護者たちの告発
「1948年の戦争は強奪、追い出し戦争であった。あの年に起きたのは、パレスチナ社会の破壊、別の社会による社会の置き換え、望ましからざる者とみなされた人々の駆逐であった。つまり、邪魔な人々の排除である。全ての責任が一方だけにあるというのは難しい。しかし町村の無人化と破壊の最も大きな責任は、明らかにユダヤシオニスト側にある。ラムレとリッダの住民5万人を追い出したのは、イツハク・ラビンである。私は、他に責任者を見つける事は無理である。パレスチナ人には、そこに旧住していたという責任しかない」
(パレスチナ系米国 文学研究者/エドワード・サイードの発言/アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P101)
◆真実
「問題は、アラブ側が始めた戦争によって造られたのである」
(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P102)
◆1947年12月から1948年3月までに、アラブ人による攻撃で第1次難民が生まれた
①アラブ諸国軍はユダヤ人難民を意図的に全て虐殺した
ヨルダン・アラブ軍団第六大隊は、クファル・エツィオンを占領した時、ユダヤ人難民を一人残らず虐殺しました。降伏した村民達は、両手を挙げて中庭の中央へ歩いて行きました。イスラエルの歴史家で難民問題の専門家であるモリスは、そのユダヤ村民達を「アラブ兵達が進み出て掃射し皆殺しにした」と証言しています。ユダヤ人120名が殺されました。アラブ軍兵士たちははユダヤ難民の死体を切り刻む事もあったとモリスは証言しています。
(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P102)
※1948年5月12日 – クファール・エツィオンで、アラブ軍が100人のユダヤ人を虐殺(15人は降伏後に処刑)
(ウイキペディヤより)
②イスラエル軍はアラブ人を意図的に殺す政策はなかった。それが難民発生の責任ない間接的原因
イスラル軍は、民間のアラブ人がアラブの支配地へ逃げる事を許し、意図的に彼らを殺すことをしなかったので、難民問題が生じました。攻撃を受けたユダヤ人は全て殺されたので、ユダヤ人難民は起こりませんでしたが、イスラエル軍はアラブの一般市民を意図的に殺す事はなかったので、パレスチナ難民が多く起こったのです。パレスチナ難民発生の原因は、アラブの指導者が村から離れるように命じた事にあったのです。イスラエルがパレスチナに国を復興させたことが「パレスチナ難民発生」の責任の無い間接的原因であっても、責任のある直接的原因ではないのです。(アラン・ダー・ショウイッ、アブラハム・J・ヘシェルなどによる複数の証言がある/「イスラエル/永遠のこだま」P200~201))
③第1次中東戦争が始まる前に起きた難民発生の原因
第1次中東戦争が始まる前に、すでに自発的に難民となったアラブ人がいた事についてモリスが次のように教えています。 「‥上流及び中流層のアラブ人達は――総数75000人ほども――逃げ去った。終息後戻れると期待して離れた。その中に多くのアラブの要人たちがいた。彼らはユダヤ人の支配を恐れると同じく、フサイニ支配下のパレスチナに恐怖を抱いていた」(イスラエルに批判的なイスラエルの歴史家/ベニー・モリスの発言/「ケア・フォー・イスラエル」P103)
※アラブの指導者であったフサイニーは、わざわざヨーロッパに出かけてヒトラーのユダヤ人虐殺に協力しただけでなく、自分の名誉と地位の為には、対抗する同胞アラブ人をも殺してきた恐ろしい人物で知られていました。
「パレスチナ・アラブ人の大部分はユダヤ人との平和な生活を望んでいたにもかかわらず、フサイニは暴力団によって反フサイニ派のアラブ人を殺害し、フサイニ家のライバルのアラブ人136人を虐殺した(ヘブロン市長、エルサレム元市長を含む)」。(ウイキペディアより)
◆第2次難民も、アラブ人の攻撃により1948年4月~6月に発生した。
④難民発生は、アラブの指揮官によるアラブ人無人命令と降伏不可命令が原因
イスラエルの防衛組織ハガナーにより、ハイファとヤッフォがイスラエル側に占領された時、アラブ人の流出が他の都市も含め、周辺の村からドミノ倒し的に起こりました。その主な直接的な原因は、イスラエル側にあるのでなく、アラブ側の指導者が、作戦目的で無人化と、降伏不可を命じた事にあると「モリス」が報告している。「地域によっては、アラブ側指揮官が、村民に作戦目的の為に地域の無人化を命じ、或いは降伏不可を命じた。この時期、エルサレムのすぐ北とガリラヤ湖南方では半ダース以上の村が、このような命令の結果、放棄された。‥東エルサレムや全土の多くの村で、アラブ側指揮官が、女、子ども、老人を安全地帯へ移すように命じた。・・戦場から手足まといの者を安全な地へ移す心理的準備が1946年~1947年に始まった。アラブ高等委員会とアラブ連盟が、パレスチナにおける将来戦を考慮して、定期的にこのような移動を勧めていた」(モリス)。モリスは、以上の報告に加えて、第1次難民発生時と、第2次難民発生時にイスラエルの指導者たちには「アラブ人を追い出したり、脅して退去させるようなシオニストの政策はなかった。そのような包括的追放政策はなかった」と報告している。
(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P104)
アラン・ダー・ショウイッツの以上のモリスの発言について、金城美幸氏が「パレスチナ/イスラエルの「1948年」論争で以下の通りに紹介をしています
「1930年代の半ばから、ベングリオンを含むイシューヴ指導者たちは、アラブ人マイノリティが存在しない。或いは存在しても、それが出来る限り少数に留まるような国家を望み、このマイノリティ問題に対して「移送にによる解決」を指示した。しかし、イシューヴは、1948年戦争に突入する際、アラブ人追放の為のマサタープランを持っていた訳ではなかった。・・・追放についての全体的な構想や包括的政策は存在しなかった」(ネットより)
ダニエル・ゴーディスも次のように教えている。「ユダヤ人指導者なの中には、ハイファ市長アバ・フシャイのように、アラブ住民に留まるように促し、時には懇願した者さえいた。アラブ人は何年間も、ユダヤ人と隣り合わせにで生活してきた。ところがアラブ住民はフシャイの要望を無視し、既に町から逃げ出していたアラブ人指導者たちの後に続いた。(戦闘を避けて、ほとぼりが冷めたら戻ってこようと思っていたのであろう)」。
(ゴーディス著「イスラエル民族復活の歴史」P158 )
⑤アラブ人のいくつかの村に退去を命じたイスラエル軍指揮官と重大な失敗をした武装組織イルグン・レヒとハガナーの兵士たちによってパレスチナ難民が発生した。
第1次中東戦争で、イスラエルのハガナー(イスラエル独立前のパレスチナにおけるユダヤ人地下軍事組織)の兵士たちやイルグン・レヒの兵士たちに問題がなかったのではありません。第1次中東戦争が始まる直前、1948年4月9日、当時イギリスとの委任統治下にあったパレスチナのエルサレム近郊のデイル・ヤシーン村で激戦が交わされていました。ユダヤ人武装組織イルグン、レヒの部隊の兵士たちは未熟と武器不足に加え、投降を呼びかける拡声器を備えたトラックの故障で、予想をはるかに超えるアラブ軍の反撃に直面し混乱状態に陥ってしまいました。その為に、未熟な戦闘員が、手りゅう弾を住居に投げつけてしまったのです。その結果、多くの無防備のアラブ人が死にました。それがデイル・ヤシーン事件です。当初、犠牲者254人と言われていましたが、最近の調査で107人から120人の間だと言われています。(ダニエル・ゴーディス著「イスラエル/民族復活の歴史」P159~160)。その、デイル・ヤシーン事件により、多くのパレスチナのアラブ人が近隣諸国へ避難しました。また、ハガナーはアラブの兵士たちが女装をして投降者に見せかけて、イスラエル兵に攻撃をしてきたので、アラブのデイル・ヤシーンの村の女性を兵士だと誤って114名を射殺してしまったのです。その、結果、イスラエル兵を恐れたアラブの人たちの多くが村から流出しました。更に戦闘上、重要な交通線にあるアラブの村の人たちにイスラエル軍は退去命令を出しています。その結果、難民が発生しました。
ユダヤ人の武装組織イルグン・レヒやハガナーの兵士たちは重大な失敗をしたのですが、彼らには「アラブ住民に退去を促す政策や、意図的なアラブ人絶滅政策」はありませんでした。厳しい戦争状態の中で、イスラエル軍兵士は人間の弱さからくる重大な過ちを犯したのです。しかし、例え過ちであっても、イスラエル初代首相、ダビッド・ベングリオンは重大なミスを犯したハガナーに対して「強制武装解除」命令を出し、1948年6月に断行しました。以上のような、イスラエルの兵士たちの過ちは、反イスラエル宣伝の為にアラブの指導者は十分に用いることに成功し、イスラエルが如何に残虐で暴力国家であるかを印象付けるのに成功してきたのです。アラブ人指導者による、「ユダヤ人の軍隊は強姦と虐殺、残忍非道な軍隊」だというフェイクの非難が、瞬く間に広がり、更に多くのアラブ人難民が生まれたのです。後の調査で、イスラエルの軍隊による強姦は否定され、意図的な民間人虐殺もなかったことが、イスラエルとパレスチナの両者の学者たちによって証明されています。(ダニエル・ゴーディス著「イスラエル/民族復活物語」P160~161)
上記のように、イスラエル側にも難民発生の原因がありましたが、それはあくまでも責任のある間接的原因であり、責任ある直接的原因は、イスラエル絶滅戦争を始めたアラブ側の指導者達にあった事を忘れてならないのです
◆デイヴィット・ベングリオンの独立宣言文の一部(1948年5月14日)
「・・・われわれは、この数か月に及ぶ血なまぐさい攻撃の中にありながらも、イスラエル国の住民であるアラブ民族の子らに呼び掛けて、平和を維持するように、又、完全で平等な市民権の基づき、全ての暫定的ないし恒久的機関に正当な代表を送ることによって、国家的建設に参加するよう要請する。 我々は全ての隣国とその国民に対して平和と善隣の手を差し伸べ、この地において独立するヘブライ民族と共に、共同作業と相互協力する事を呼びかける。イスラエル国は中東全体の発展の為に共同の努力をもって寄与する用意がある・・・」(ネットより)
1920年から始まったアラブ人の暴動をテロを度々受けながらも、以上の独立宣言文によって、イスラエルの指導者が如何にアラブの人たちと平和共存を如何に切望していたかが分かります。イスラエル側には、「パレスチナ問題」である「領土問題」と「難民問題」に関して責任のある直接的原因は無いのです。
⑥第1次中東戦争勃発はアラブ指導者のユダヤ人殲滅作戦でパレスチナ占領を目指した野望にある
パレスチナ難民発生の最も重要な責任ある直設的原因は、アラブ人指導者が持っていいる「ユダヤ人殲滅」によってパレスチナをわが物にしようとする野望にありました。フセイニは「聖戦」だと吹聴し「ユダヤ人皆殺し」を命じています。アラブ連盟事務総長はアッザー・パシャは「これは、モンゴル軍や十字軍の虐殺にも比すべき大殲滅戦、大虐殺になる」はずであったと語っています。アラブ人の攻撃の最終目標は、「ユダヤ人国家の抹殺」にあると、アラブ人のスポークスマン、アフド・シュケイリが発言しています。こうした、アラブ人指導者たちの発言により、当時のユダヤ人は「負けたら皆殺し」になる事を認識していたのです。(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P104)
⑦イスラエル側にはアラブ人の市民権を認める完全な用意があった
アラブ人側にはユダヤ人殲滅思想がありましたが、イスラエル側にはアラブ人殲滅思想は全くありません。既述していますが、ユダヤ人国家に住むアラブ人の市民権を認める十分な用意があったのです。一部のユダヤ人の心の片隅には、アラブ人がいなければよいと思う思いがあったかもしれないのですが、公的機関は、数に関係なくアラブ人の市民権を全員認める事を方針にしていました。イスラエルには、アラブ人の人口を少なくしようとする政策は全くなかったのです。(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P104)
⑧第1次と第2次難民発生に関するモリスの総括
パレスチナ難民問題の専門家である歴史家のモリスは、第1次中東戦争における「パレスチナ難民発生」とその後の「パレスチナ問題」について次のように総括を行っています。「パレスチナ難民問題は、戦争によって生まれた。意図して生じたのではない。パレスチナ内外のアラブ側指導部が、恐らく脱出を助長した・・・。この後、難民はアラブ諸国によって強力な政治の抵当物としてプロバガンダの道具として、反イスラエル戦に利用された。記憶或いは、1948年の代理記憶と、難民キャンプにおける数十年に及ぶ屈辱と喪失感が、後世代のパレスチナ人を潜在的ないし現役のテロリストに変えパレスtチナ問題を世界で最も厄介な問題の一つにしてしまったのである」(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P107~108)
⑨パレスチナ難民発生の原因はアラブ側にあると発言するアラブの指導者たちの発言
1)シリヤの元首相ハリド・アルアズムの発言
「1948年以来、難民の帰還を求めているのは我々である。・・一方彼らを退去させたのも我々である。我々が招き寄せ、退去するように圧力をかけて圧迫し、アラブ難民人に災厄をもたらした。・・・我々は彼らの喪失に手を貸し・・彼らに物乞いの習慣を身に着けさせた。・・我々は彼らのモラルと社会的階層の低下に与り・・・そして、殺人、放火、男、女、子どもに爆弾を投げるなどの犯罪行為に彼らを利用した。すべてこれ政治目的で使ったのである」。
(1972年の回顧録より/(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P108)
2)パレスチナ自治政府のムハムード・アッパス首相の発言
「パレスチナ人を郷土からの退去を強制した末、ユダヤ人が居住していたゲットー同様の牢屋にぶち込んで放置したのは・・・アラブ諸国軍である」と、アラブ諸国軍を非難している。((アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P109)
3)1980年ハイファのアラブ民族委員会がアラブの諸国に送った覚書
「アラブ住民の移動は・・自主的であり、我々の要請で実施された。そのアラブの代表団は誇りをもってアラブ住民に疎開と近隣アラブ諸国への移動を求めた。…このアラブの住民は誇りと矜持をもって自分たちの名誉と伝統守ったのである。我々はこれを喜びとする」(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P109)
➉)周辺アラブ諸国に避難したパレスチナ難民をパレスチナに帰還させなかった周辺アラブ諸国の思惑
1)アラブ高等司令部書記長エミール・ゴーリーの発言
「ユダヤ人に占領されているのに、難民をその占領地の家に戻すべしというのは、考えられるぬ事である。・・・そのような事をすれば、彼らのイスラエル承認の第一歩となってしまう」
(1948年8月4日付ベイルート・テレグラフ紙より/(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P110)
2)エジプトの外相ムハンド・サレフ・エディンの発言
「周知のとおり、アラブ側の要求する難民のパレスチナ帰還は、奴隷ではなく主人として戻る事を意味している。もっとはっきり言えば、イスラエルの抹殺を意図しているという事である」
(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P110)
以上の、アラブ諸国の指導者たちの発言から分かる事は、「パレスチナ難民」に関する関心事は「人道上」ではなく、いかにしてイスラエル国家を抹殺するかという、政治的戦術の道具として使う為であったのです。
現在、パレスチナ難民は西岸地区やガザ地区だけでなく、2022年中間時点でヨルダン国では232万人のパレスチナ難民が暮らし、国連の支援を受け続けています。ヨルダン以外に、レバノンには202年末時点で48万人、シリアにもパレスチナ難民がいます。なぜ、今も多くのパレスチナ難民が周辺のアラブ諸国に存在し、難民キャンプに閉じこめられているのでしょうか。
⑪パレスチナ難民が現在も継続して存在している原因
1920年代から1967年までに発生した世界の多くの難民問題は解決済みであるにも関わらず、1948年にアラブの起こした第1次中東戦争によって発生した「パレスチナ難民」はなぜ、現在も継続して存在しているのでしょうか。それには、二つの理由があります。一つは、モリスが発言しているように、イスラエルの撲滅を野望とするアラブの指導者たちによって、政治的道具として使用する事に都合が良いからです。もう一つは、国連の「パレスチナ難民」の間違った定義と間違った取り扱いにより、本来ならば既に解決できているはずのパレスチナ難民問題を長引かせている事にあるのです。
1)国連の世界の難民の定義
(国連難民高等弁務官の定義)
「人種、宗教、 国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理 由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するた めに、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることが できないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受 けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有して いた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰る ことができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有 していた国に帰ることを望まないもの・・」 (難民基準判定ハンドブックより/国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所発行/ネットより)
◆1920年から1967年までの、国連難民定義に沿った難民の例
(1)インドとパキスタンの独立戦争による難民
1947年、インドとパキスタンの間に起こった「独立戦争」では、1200万人から1400万人の難民が発生しましたが、現在は難民問題は解決されています。(ネットより)
(2)トルコとギリシャによる戦争の難民
1920年のギリシャとトルコの戦争では約100万人の人が難民となりましたが、住民交換という方法で早く解決をしています。(ネットより)
(3)第二次世界大戦後、難民となったドイツ人
第2次世界大戦後、数百年住んできたチェコスロバキヤの境界地スデーテン地方からドイツ人がひとまとめにされて追放されたましたが、それ以外に1950年までに、合計約1200万人のドイツ人が中央および、東ヨーロッパから、連合軍占領下のドイツ等に避難又は追放されました。ドイツ人難民は、追放されたドイツなどに受容され、市民権を得て難民問題は解消して行きました。「第2次世界大戦後、東欧領土を追われたドイツ系の被追放者は1000万人を超えたが、彼らは次第にドイツ社会に組み込まれていき、戦後復興を支える労働力となった。」
(関西大学【独逸文学】第47号2003年3月/「ドイツの移民問題」奥田誠司/ネットより)
(4)ホロコーストから生き延びたユダヤ人難民
ホロコーストから生き延びたユダヤ人は数百年も住んでいたポーランド、ドイツ、チェコスロバキヤ、ハンガリー、ロシアの居所を失い、戦後離散民キャンプに収容されましたが、ユダヤ人難民問題も解決しました。キャンプに収容された数年後に、難民のユダヤ人達は、元住んでいた国へ戻る事を拒否し、多くはアメリカやパレスチナへ移住して行き、ユダヤ人難民問題は解決しました。(ホロコースト百科事典/ネットより)
2)国連のパレスチナ難民の定義
――国連難民救済事業機関(UNRWA)の定義――
「1946年6月1日から1948年 5 月15日までパレ スチナに居住し,1948年の紛争でその住居と生活手段を失い,UNRWAの活動する国・地域に 避難した者とその男系による直接の子孫」(論文「パレスチナ難民問題とイスラエル」の著者/林真由美/ネットより)
このUNRWAのパレスチナ難民の定義は、国連高等弁務官事務所(UNCR)の難民定義と比較して分かるように、はるかに幅のあるガイドライン(指針、指標)を適用しています。UNCRの難民定義の中にある「迫害があったかなかったか」に関係なく、また「定住国であったかどうか」に全く関係なく、第1次中東戦争でパレスチナの居住区から出て行ったパレスチナのアラブ人を全て「難民」と定義しています。このような難民定義が「パレスチナ難民」以外には適用された事があるでしょうか。それについて、アランダー・ショウイッツは以下のように批判をしています。
「UNRWAに与えられた任務は解決でなく、パレスチナ人を難民キャンプ内に留め、そして世話をするだけである。‥任務そのものが依存度を強める性格であるから、UNRWAの抱える人数は、1950年時点の100万人から。今日では400万人を超えている。・・・・難民問題に対するこの仕組みは、問題を解決せずに温存し、痛みを強め悪化させることを狙ったものである。アラブの難民問題は、ヨルダンがウエストバンク(ヨルダン西岸地区)を占領し併合していた1949年から1967年までの間に、容易に解決出来たはずである。この時代は同地は人口が少なく、未開墾地が多々あった。そこは、宗教、言語そして文化同質の社会でもあった。しかし、その社会に難民を吸収し統合する代わりに、難民キャンプと称するゲットーに閉じ込め、国連の与える施し物で生活させ、その一方でプロバガンダを叩き込まれ、2年ほどしか住んでいなかった村への栄光の帰還を煽り立てられるのである」
(アラン・ダー・ショウイッツ著「ケア・フォー・イスラエル」P11
【結び】
今回のレポートで、第1次中東戦争勃発による「パレスチナ問題」の領土と難民に関する、責任ある直接的な原因は、様々な角度から見て、アラブの指導者たちが抱いている、パレスチナの土地で、イスラエルとの平和的共存を絶対的に良しとしない「反ユダヤ主義」にある事を明らかにしてきました。「反ユダヤ主義」という、イスラエルを呪ったり、侮辱したり、更に絶滅さえ厭わない、恐ろしい思想、主義、主張は、「アラブの指導者たち」と彼らに扇動されたアラブ人達だけが抱いている思想、主義、主張ではないのです。それは、キリスト教の初期時代のキリスト教の指導者たちも持っていた「思想、主義、主張」でした。有名な宗教改革者のルターでさえもそうであったのです。その為に、約2000年の歴史の中で、ヨーロッパ社会においてどれほど多くのユダヤ人がキリスト教徒により侮辱され、見下げられ、差別され、虐殺されてきた事でしょうか。教会初期の「反ユダヤ主義」の教会教父たちによって、ユダヤ人はキリストを殺した罪の故に、選民の資格を失い、祝福の契約は、新しいイスラエルである「教会」に置き換えられたという「置換神学」が構築されてきました。現代のキリスト教会もその影響を強く受けていますので、イスラエルに対する偏向報道に流され「反ユダヤ主義」の傾向性になびいている可能性があります。ユダヤ人であるイエス・キリストの助けにより、日本の多くの教会が「反ユダヤ主義」を植え込む偏向報道と「置換神学」から解放される事を祈っています。
今、起きているガザ地区における「イスラエルとハマス」の戦闘の状況が、人道上に問題ありとして、多くの報道によりイスラエル批判が高まっています。私も、イスラエル軍のガザ地区の一般市民を犠牲に巻き込んだ攻撃は、人道上問題があると厳しく批判をしている者です。しかし、それ以上に、わたしはハマスのリーダーたちが抱いている「反ユダヤ主義」を厳しく否定しています。それは、パレスチナ問題は、イスラエルが批判されている人道上問題がある攻撃に直接的原因があるのではなく、アラブ人が抱いているイスラエルの撲滅を求める「反ユダヤ主義」にあるからです。アラブの指導者たちは、パレスチナ難民問題の原因がイスラエルにあるとして、フェイクを流し、多くのメディアを味方につけて、偏向報道によるイスラエル批判を世界に流させて、世界中に「反ユダヤ主義」を拡大させ、世界と共にユダヤ人をパレスチナから追い出そうと目論んでいるのです。聖書は、イスラエルを除いてやがて世界の諸国が「反ユダヤ主義」の国なる事を預言しています。その為に、イスラエルは再び国を失い、離散の民となる事も聖書は預言しています。
次回も、第2次中東戦争、第3次中東戦争、第4次中東戦争、レバノン戦争などの戦争勃発の諸原因についてレポートをさせて頂きます。
2024年3月26日
牧師:佐藤勝徳