岡山英雄牧師著
「小羊の王国」の問題点 麦と毒麦のたとえ話について②
2024年10月22日 佐 藤 勝 徳

 

【はじめに】
 前回は、「麦と毒麦のたとえ話」の解釈の問題点として、解釈の前提となっている「教会=神の民」論の問題点と主の空中再臨に関する教えを「地上再臨」として解釈している問題点を取り上げました。今回は、キリスト教会が一致して信じていると論じられている終末論の教えを検証したいと思います。

Ⅰ三つの一致点
 岡山牧師は、「小羊の王国」で歴史の流れは終末において「神の国」が進展し「獣の国」に勝利すると論じています。その中で、キリスト教会は「使徒信条」と4世紀の「ニケヤ信条」において告白されている終末論に関して、細かい違いはあっても三つの点で一致していると論じています。

◆使徒信条
「(主は)かしこより来りて生けるものと死にたる者とを裁きたまわん」
◆ニケア信条
「主は生ける者と死ねる者とを裁くために、栄光をもって再び来たりもう。その国は終わることなかるべし」
以上の二つの信条を合わせると、三つの一致点が読み取れますので、岡山牧師は三つの一致点を以下のようにまとめいます。同(P30~P34)
①第1の一致点「キリストの栄光に輝く来臨(地上再臨)」(P31)
②第2の一致点「生者と死者の審判(最後の審判)」(P32)
③第3の一致点「永遠の御国(新天新地」(P33)
以上の三つの一致点の聖書的証拠とする複数の聖句を取り上げて論していますので、それを検証したいと思います。
1、第1の一致点「キリストの栄光に輝く来臨(地上再臨)」の検証
 岡山牧師は、使徒信条とニケヤ信条の第1の一致点の聖書的証拠として、マタイ24章30節、マタイ26章64節、使徒行伝1章11節、Ⅱテサロニケ1章7節、Ⅱペテロ1章16節、同1章13節を取り上げています。それらの聖句が果たして、キリストの地上再臨の意味しているのかどうか、又、最後の審判と新天新地の永遠の御国と関連している聖句なのかどうかを検証します。
①マタイ24章30節
 岡山牧師はマタイ24章30節の後半の部分のみを引用されていますが、正しく理解するには30節全部とその前後の文脈を考察することが必要ですので、30節全文を引用します。
◆「マタ24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」(強調文字は岡山牧師の引用部分)
以上の聖句は間違いなくキリストの地上再臨を意味しています。しかし、それは、キリストの「審判」と「新天新地」と関連して教えられていないのです。なぜなら、続いての31節には「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあり、その主の再臨には、2つの出来事が伴う事が教えられているからです。それは、第1に大きなラッパが響き渡る事第2に、み使いが選民イスラエルを天の果てから呼び集める事です。
 なぜ、主のご再臨の時に「大きなラッパが鳴り響き渡るのでしょうか」。それはイスラエルの民の為に与えられたモーセ律法の中に「ラッパの祭り」がありますが、それに因んでいるのです。つまり、主のご再臨における大きなラッパの響きの意味は、主のご再臨はユダヤ的背景の中で起こる出来事だという事です。その詳細は別に学ぶ必要がありますが、キリストとの再臨に関する「ラッパの祭り」について学んでおきたいと思います。ユダヤ暦についてウイキペディアでは以下のように説明されています。
古代ユダヤには、春から1年が始まる宗教暦(または「教暦」「新暦」ともいう)と、秋から1年が始まる政治暦(または「政暦」「旧暦」ともいう)との2種類があったが、ユダ族(南王国)では後者を使っていたため、その流れで現代のユダヤ暦も政治暦のほうに準拠している。宗教暦の年始めのはアビブの月で、今の太陽暦(グレゴリオ暦)では3月から4月の時期にあたり、・・政治暦では秋から新年が始まるのでこの月は7番目(閏年では8番目)になる[2]。」
又、ネットの牧師の書斎ではバビロン捕囚から解放されたのちは、第7の月が新年の初めの月とされるようになりました。」と説明されていました。聖書暦の第7の月は、太陽暦では9月から10月のかけての月を意味しています。キリストが、いちじくの木を使って終末の事を教えられたのは、政治暦に基づいています。政治暦によると、いちじくの実がなる夏は1年の終わりを意味しているわけです。モーセ律法のラッパの祭りは、政治暦ではなく宗教歴の第7の月にラッパの祭りが定められていました。宗教歴の第7の月は、政治暦で1年の最初の月に当たるのです。

◆「レビ 23:24 「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である」。
◆「民 29:1 第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。」
第7の月に吹かれるラっパは、バビロン捕囚後のユダヤ人にとっては、新年がやってきたことを知らせるラッパとなり、その霊的意義は、地上に再臨されるキリストによって「メシヤ的王国の開始」を意味していたわけです。それをさらに証明する事として、キリストが地上に再臨されるときに「選民イスラエル」を地の果てからみ使いたちによって呼び集められる事が第2の出来事として教えられています(参照:マルコ13:26)。それは旧約聖書において、神が選民イスラエルと結ばれた四つの無条件契約である「アブラハム契約」、「土地の契約」、「ダビデ契約」「新しい契約」に基づき実現する「メシヤ的王国」の約束のカナンの地に、「地の果てから、ディアスポラのユダヤ人たちを信仰ある状態で帰還させる」という約束の成就の為なのです。
「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」の四つの無条件契約の成就の為、 終末時代に選民イスラエルを約束の土地に神が帰還させる約束が旧約聖書において繰り返し預言されています。その預言は2種類あります。1つは、イスラエルの民が不信仰な状態で帰還するという預言です。もう1つはイスラエルの民が信仰ある状態で帰還するという預言です。その二種類の預言を以下の通りに紹介しますが、それらの終末のイスラエルの帰還の預言について、岡山牧師は一切論じていません。なぜでしょうか。

≪約束のカナンの地への帰還の約束≫
1)イスラエルが不信仰な状態で帰還する約束
◆エゼキエル36章22節~24節
「36:22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
36:23 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが【主】であることを知ろう。
──神である主の御告げ── 36:24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」(他、エゼ22:18~22、ゼパニヤ2:1~2)
ゼパニヤ2:1~2は、不信仰な状態での帰還が7年の大艱難時代前に起きる事が預言されています。現在はまだ7年の大患難時代がやってきていませんので、現在起きているディアスポラのユダヤ人たちの帰還の出来事は正に「不信仰な状態での帰還」が成就している事を教えています。
「ゼパ 2:1 恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。 2:2 昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。【主】の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。【主】の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに」

※以上のイスラエルが不信仰な状態で帰還するという約束は、1948年5月14日にイスラエルが約2000年間失っていた国を復興し樹立したことで成就しました。また現在も、次から次と帰還者(アリヤー)が起こっています。2022年2月24日から始まったロシアの侵攻によるウクライナ戦争により、ウクライナとロシアからの多くのユダヤ人が帰還しています。その帰還は今も続いています。以下はその帰還の歴史の一部です。
≪アリヤ―の歴史≫
◇第1次アリヤ―:1880年~1904年。ロシアとイエメンから2万5千人
◇第2次アリヤ―:1904年~1914年。主にロシアとポーランドから4万人
◇第3次アリヤ―:1919年~1923年。主にロシアから3万5千人
◇第4次アリヤ―:1924年~1932年。主にポーランドから6万5千人
◇第5次アリヤー―:1933年~1939年、主にドイツから25万人
(以上はBFPとイスラエル大使館による報告です)
◇魔法の絨毯作戦のアリヤー:1949年6月~1950年。イエメンから5万1千人。 (エルアル航空ヒストリーより)
◇アリババ作戦のアリヤー:1950年3月~1951年12月。イランから11万3千人 (同上)
◇大規模なアリヤー:チェリノブイル原発事故が起きた1986年から~2000年。ロシアから100万人以上
(トム・ヘスの「わが民をさらせよ」より)
※チェリノブイルはユダヤ人の町と言われるほど、多くのユダヤ人が住んでいたのです。
◇モーセ作戦のアリヤー:1984年。エチオピアから8千人(静岡文化芸術大学研究紀要Vol5/鈴木元子氏より)
◇ソロモン作戦のアリヤー:1991年。エチオピアから1万4千325人 (BFPより)
◇2017年のアリヤー:78か国より2万8千人(BFPより)
◇2018年のアリヤ―:ロシアから約1万人、ウクライナから8千500人(BFPより)
※世界各地より帰還したアリヤーが2019年の時点で、イスラエルに700万人住んでいると言われています。(BFPより)
◇2022年2月24日以降のアリヤー:ロシアのウクライナ侵攻後に、多くのウクライナ在住のユダヤ人とロシア在住のユダヤ人が帰還している。ウクライナからすでに数万人が帰還。ロシアからはウクライナからの帰還者を上回る約5万1千人が帰還。(BFPJ「オリーブライフ」2022年9月号より)
◇1948年から2022年までに、モロッコに在住していたユダヤ人が49万人帰還。
(BFPJ「オリーブライフ」2022年9月号より)
2)イスラエルが信仰ある聖徒として帰還する約束
◆申命記30章3節~10節
「30:3 あなたの神、【主】は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。 30:4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。 30:5 あなたの神、【主】は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。30:6 あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、【主】を愛し、それであなたが生きるようにされる。30:7 あなたの神、【主】は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。30:8 あなたは、再び、【主】の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行うようになる。30:9 あなたの神、【主】は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、【主】は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。30:10 これは、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、【主】に立ち返るからである。」(他:イザヤ11:10~13、27:12、35:5~10、43:1~13、エレミヤ16:14~15、31:7~10、エゼキエル37:1~14、37:21~25、36:24~29、39:28~29、アモス9:14、ゼパ3:20、ゼカリヤ10:6)

※以上の、イスラエルが全て聖徒として約束のカナンの地に帰還すことを、パウロはローマ書11章26節で「イスラエルはみな救われる」と教えています。パウロの教える「イスラエルがみな救われる」という教えは、ゼカリヤ書では、反キリストの軍隊の虐殺より逃れた3分の1のユダヤ人を意味しています(ゼカリヤ13:8、9)。その3分の1のユダヤ人が信仰ある状態で帰還する聖徒達なのです。ゼカリヤ書12章では、彼らが神の恵みと哀願の霊によって、キリストを十字架につけた先祖の罪を自分たちの罪として認め、徹底して悔い改めに導かれる事が預言されています。(他マラキ3:2、3)
「12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとリ子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」。
 以上の終末の3分の1の残ったユダヤ人たちが、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とメシヤを迎える公式の宣言で復活のキリストに向かって叫ぶのです。その叫びによって地上に再臨される事をキリストは約束されました。それはマタイ23章39節で預言されています。
◆「マタ 23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
以上のようにマタイ24章30節のキリストの地上再臨の約束は、旧約聖書で「イスラエルの神」だと繰り返しご自身の事を呼ばれているお方がイスラエルを激しく愛して、彼らと結ばれた四つの無条件契約の誓約を必ず実現させる「メシヤ的王国」の実現の為の約束となっています。教会が一致して告白している使徒信条とニケア信条にはその告白が欠落している事は明白です。岡山牧師が使徒信条とニケア信条で告白されている主の再臨の告白の証拠として取り上げているマタイ24章30節は、歴代の多くの教会が「使徒信条」ト「ニケア信条」で告白してこなかった、イスラエルを中心とした「メシヤ的王国」の世界の到来の為の再臨が教えられているのであって、黙示録の新天新地の到来の為の再臨を教えていないのです。
使徒信条とニケア信条で欠落している以上の偉大な神のご計画を問題にしないで、それを小さなこと、些細な事として退け、キリスト教会の一致を叫ぶことは果たして正しいことでしょうか。

②マタイ26章64節
「マタイ26:64イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
以上のみ言葉も、間違いなくキリストの地上再臨を預言したものです。しかし、キリストの預言はダニエル書の7章13節に基づいて預言されています。
◆「ダニ 7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた」。
このダニエル書の預言は、その後に続く14節から、明らかにイスラエルを中心としたメシヤ的王国の王として再臨されるキリストが預言されています。「ダニ7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」。この7章14節の再臨のキリストによる「滅びる事がない国」は、バビロンの王であるネブカデネザルが夢で見た像が天からの石によって打ち砕かれた後に、「石が大きな山になって全土を覆う」と象徴的に教えられたこの世界に実現する「永遠の国/メシヤ的王国」を意味しています(ダニエル2:31~45)。
ダニエル書の大きなテーマは、イスラエルの人々の為に実現する再臨のキリストによるメシヤ的王国の実現であり、それが、ダニエル9章で終末の70週の(ダニエル9:24~27)の最後の1週後に実現する事が教えられているのです。そのメシヤ的王国に、ダニエルも復活して割り当て地に立つという約束でダニエル書は終わっています。
◆「ダニ12:11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。 12:12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。 12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」。
以上の聖句に啓示されている2つの日数はメシヤ的王国の為に、この世界が修復される期間は75日である事をダニエル書は明確にしています。その修復されたメシヤ的王国に復活したダニエルが、割り当て地に立つのです!
≪修復期間75日の計算≫
7年の大患難時代の後半3年半は1260日です。その1260日が終わってから30日間は荒らす憎むべき者の像が第3エルサレム神殿に立っています。それが「荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。」で教えられています。1390日から1260日を引くと、30日になります。その30日にプラス45日目の1335日に聖徒たちが忍耐をもって待ち望んだ「メシヤ的王国」が実現することが教えられています。「幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は」。
7年の大艱難時代の後半1260日が終わってから、1335日は75日目になりますので、7年の大艱難時代において荒れに荒れた世界が修復されてメシヤ的王国となるまでの期間は「75日」だということをダニエル書は教えています。そのダニエル書は黙示録の永遠の新天新地ついては何も語っていないのです。
岡山牧師が、現代の教会が一致して信じているされている使徒信条とニケヤ信条の証拠として取り上げたマタイ26章24節のキリストの地上再臨の預言も、二つの信条が省略している「メシヤ的王国」の成就の為のキリストの地上再臨であり、最後の審判と黙示録の新天新地の成就のためでない事は明らかです。
使徒行伝1章11節
 「1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
以上のみ言葉は、オリーブ山から復活のキリストが、雲に迎えられて天に上って行かれるのをいつまでも見つめている弟子たちに、み使いがキリストの再臨を預言した言葉です。この預言も間違いなくキリストの地上再臨の預言ですが、それは、最後の審判や黙示録の新天新地との関連で預言されたものではありません。あくまでも「イスラエルの為の国の復興」という「メシヤ的王国」に関連するキリストの地上再臨を預言したものです。それは、弟子たちの「使1:6『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』・・」の質問に対して、その時期については父のみがご存知だという事と父が定められた時に必ず実現する事を教えられたことで明らかです。 み使いは当然その事を知っていますので、み使いが弟子たちに預言したキリストの再臨の預言は、イスラエルと結ばれた4つの無条件契約である「アブラハム契約」、「土地の契約」、「ダビデ契約」、「新しい恵契約」に基づき、「イスラエルの為の国の復興」である「メシヤ的王国」の実現のための預言だという事は明らかです。

多くのユダヤ人ラビを育ててきたユダヤ人の宗教的指導者アブラハム・J・ヘシェルは使徒行伝1章6節を次のように解説しています。「当時はちょうど、‥異教徒のローマが聖地を支配していた時代である。しかし、そんな中にあっても、一つの希望があった。異教徒から救出されたいという希望が。預言者による約束があった。エルサレムは再びイスラエルの王国に返還されるという約束が。だから、あの質問は、いてもたってもいられずに尋ねた質問だった。こうした尋常でない状況だから、イエスの受難後初めて、当のイエスに会った弟子たちが何をさておき、今心を占めている疑問をイエスにぶっつけたのも、充分にうなずける。「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。つまり。彼らはイスラエルの復興のことを尋ねたのだ。イエスの答えは、神の約束が実現する時期は、父の権威の中でのみ行われる、というものだった。・・ラビ文学の中にも・・『ダビデの家が再建される時期を知る者はいない』(ラビ・シメオン・ベランキシュ/AD250年ごろ)と述べている。イエスの答えにしても、その答えを引きだした質問にしても、当時のラビの心情に通じるものがある」(1996年1月20日ミルトス発行/アブラハム・J・ヘシェル著/石谷尚子訳「イスラエル永遠のこだま」P183~184)。
使徒行伝1章11節の「キリストの地上再臨」の預言は、最後の審判と黙示録の新天新地との関連で預言されていない事は明らかです。弟子たちは、黙示録の新天新地についてはまだ何も知らなかったのですから、それは当然のことだと思います。
岡山牧師が、現代の教会が一致して信じているとされている、使徒信条とニケア信条の証拠として取り上げられた使徒行伝1章11節のキリストの再臨の預言も、二つの信条が省略しているイスラエルの国の復興である「メシヤ的王国」の成就の為の再臨であり、最後の審判と黙示録の新天新地の成就のためでない事は明らかです。
④Ⅱテサロニケ1章7節
「Ⅱテサ1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」
以上のみ言葉を正しく理解するためには、その前後のみ言葉と、テサロニケの手紙ⅠとⅡで教えられているキリストの再臨に関するみ言葉を参照する事が必要です。まず、その前後のみ言葉を観察したいと思います。
◆「Ⅱテサ1:4 それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。 1:5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。 1:6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、 1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。 1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。 1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。」

パウロは、テサロニケの聖徒達が迫害と艱難を耐えながら、神への従順と信仰の保っている事を、「誇りに思う」と言う程喜び神に感謝しています。そうした、厳しい迫害と艱難の中にある聖徒達に対する神のご計画は、神の国にふさわしい聖徒にするためだと教えています。聖徒が神の御国にふさわしい聖徒になったときに、それが神の正しい裁きを示すしるしになると教えています。神の正しい裁きとは、聖徒達を苦しめる者には、報いとしての苦しめを与え、苦しめられている聖徒たちには報いとして安息が与えられると教えています。その神の正義の裁きが、主イエスが現れる(再臨)する時に起こると教えています。更に、その主イエスの再臨されるときに、神を知らない人々と、主イエスの福音に従わない人々は永遠の滅びの刑罰を受けると教えています。
以上の、パウロの教えによりますと、キリストの再臨の目的は、キリストの福音を信じて従っている者には安息をもたらし、キリストの福音を信じない者、従わない者には永遠の滅びの裁きをもたらす為だと教えています。それは使徒信条の「(主は)かしこより来りて、生けるものと死にたる者とを裁きたまわん」とニケヤ信条の「主は生ける者と死ねる者とを裁くために、栄光をもって再び来たりもう。・・」と一致しています。しかし、Ⅱテサロニケ1章5節~9節で説かれているパウロのキリストの再臨と審判の教えは、キリストの再臨と審判に関して詳細に語っているのではなく、迫害と艱難の中にあるテサロニケの聖徒達を励ます為に、大変要約的に教えられている事を知っておく必要があります。

日本語訳の聖書でⅡテサ1:7の「現れるとき」、1:8の「そのとき」は、ギリシャ語原語では「エン」が使用されていますが、Ⅱテサロニケ2:6で「不法の者」あるいは「滅びの子」である反キリストが現れる時についての「彼が自分に定められた時」の「時」はギリシャ語の「カイロー」 (カイロスの与単男)が使用されています。
では、1章7節の「現れるとき」と8節の「そのとき」の「とき」と訳されている場合には「カイロー」使用されず「エン」が使用されているのはなぜでしょうか。聖書は終末論について一か所ですべてを詳細に教えずに、まるでパズル合わせのように、聖書全体の中でちりばめながら、あるいは漸進的に啓示しながら、要約的に、あるいは詳細に論じながら教えています。終末論の教理を構築するためには、その全体を注意深く観察することが求められます。つまり一つのテーマを聖書全体から組織的に研究して「全体像」を極めて行くのです。その為に自分たちの好む考えや、前提とする神学に合う聖句だけを引用したり、聖句全体から一部だけを切り取ったりして、その神学に合うように解釈して引用する事は許されませんし、間違いの元となります。

Ⅱテサロニケ1:5~10は詳細にキリストの来臨と悪人の裁きを論じているのではなく、要約的に神の国という正義を教えようとしたものだと、解釈することが正しいと言えるでしょう。終末論に関して要約的に告白している「使徒信条」や「ニケヤ信条」で終末論の教理を構築する事に無理があるように、要約的に終末の出来事を教えているⅡテサロニケ1章5節~10節によって、キリストの地上再臨と最後の審判の教理を構築する事には無理があるのです。
以上のように聖書が終末論を説くときに、その目的に沿って要約的に説かれている事がしばしばありますが、その事は、テサロニケの手紙ⅠとⅡで説かれているキリストの再臨に関する聖書個所を観察すると理解ができます。
⑤Ⅰテサ1章10節
◆「Ⅰテサ 1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」
このみ言葉もキリストの来臨について非常に要約的に教えています。詳細には論じていません。このみ言葉ではキリスト再臨の目的は、「やがて来る御怒り」から聖徒達を救い出す為だと教えられています。では「やがて来る御怒り」とは何を意味しているのでしょうか。最後の審判における御怒りでしょうか。それとも別の意味があるのでしょうか。私たちは聖書全般にわたって調べる必要があります。
≪やがて来る御怒りとは≫
パウロはローマ書1章で不敬虔な者、真理を拒むものには天から神の怒りが啓示されていると、「神の怒り」を現在進行形で教えています。「ローマ 1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」。
ノアの大洪水、バベルの塔の裁き、イスラエルとその周辺諸国への神の裁き、世界に起きている疫病や自然災害の中にある神の怒りと裁きなど、神の怒りは人類とイスラエルの過去の歴史、また、さらに現在も自然災害や疫病、戦争、地震、飢餓などなどを通して神の怒りが顕されています。パウロはそのような過去と現在の「神の怒り」を説きながら、同時に特別な「やがて来る神の怒り」を教えています。それは、Ⅰテサロニケ5章2節「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです」と、Ⅱテサロニケ2章3節の「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。で教えられている「主の日」のことを意味しています。それは、これまでの歴史の中で示されてきた人類の不信仰に対する「神の怒り」のことでなく、それは、これまでの人類史の中で決して示されてこなかった終末の歴史の中で特別に示されるこれからやってくる「神の怒りと裁きの時」という特別な「怒りの時代」を意味しています。それが「主の日」という言葉で示されている事をパウロは知っていたのです。ではどうしてパウロはその日のことを知ったのでしょうか。それは、旧約の預言者がそれを繰り返し預言していたからでした。では預言者たちは「主の日」をどのように預言していたのでしょうか。
≪預言者が預言する終末の特別な「主の日」≫
1)イザヤ書の預言
◆「イザ 13:1 アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。 13:2 はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に、入らせよ。 13:3 わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。 13:4 聞け。おびただしい民にも似た山々のとどろきを。聞け。寄り合った王国、国々のどよめきを。万軍の【主】が、軍隊を召集しておられるのだ。 13:5 彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、【主】とその憤りの器だ。 13:6 泣きわめけ。【主】の日は近い。全能者から破壊が来る。 13:7 それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。 13:8 彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。 13:9 見よ。【主】の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。 13:10 天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。 13:11 わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。 13:12 わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。 13:13 それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の【主】の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」
イザヤが預言する「主の日」の到来の目的は13:4で示されているように「全世界を滅ぼす事」です。それを13:9では「罪びとたちを根絶やしにする」、又、13:12では「人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする」と説明されています。それは、ノアの大洪水の時に、ノアの家族8人以外はすべてが滅ぼされたように、神の御心に叶わない人を全て滅ぼすことを目的にした特別な神の怒りの時を意味しています。つまり、ノアの大洪水以後の過去の人類史と神の怒りの日である「主の日」が来るまでの人類史に顕されてきた神の怒りによる「災いと苦難の日々」とは全く異なる意味を持っているのです。それがイザヤ書で啓示されているのです。

2)エゼキエル書の預言
◆「エゼ30:1 次のような【主】のことばが私にあった。 30:2 「人の子よ。預言して言え。神である主はこう仰せられる。泣きわめけ。ああ、その日よ。 30:3 その日は近い。【主】の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。」
 以上のエゼキエルの「主の日」の到来の預言の目的は、イザヤの「主の日」の預言と同様に、神の御心に叶わないすべての人が滅びる結果、現在の地球上の異邦人の諸国の歴史が終わるためだという事を教えています。それは、やはり、ノアの大洪水後の地球上の人類史になかった特別な神の怒りの日であることが理解できます。
3)ヨエル書の預言
◆「ヨエ1:14 断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、【主】の宮に集め、【主】に向かって叫べ。 1:15 ああ、その日よ。【主】の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。ヨエ 1:15 ああ、その日よ。【主】の日は近い。全能者による破壊の日として、その日は来る。」
以上のヨエルによる「主の日」の預言の目的は、イスラエルが全能の神によって破壊される事だと教えています。「主の日」は、全世界の人々の不信仰とイスラエルの不信仰に対する神の激しい怒りの日として到来するのです。
◆「ヨエ2:1 シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。 2:2 やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。 2:3 彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。 2:4 その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。 2:5 さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。 2:6 その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。 2:7 それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。
 2:8 互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。 2:9 それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓から入り込む。 2:10 その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。 2:11 【主】は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い。【主】の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。 2:12 「しかし、今、──【主】の御告げ──心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」「ヨエ 2:1 『シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。』地に住むすべての者は、恐れおののけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。」
◆「ヨエ 2:11 【主】はご自分の軍隊の先頭に立って声をあげられる。その陣営は非常に大きく、主のことばを行う者は強い。【主】の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられるだろう。」
◆「ヨエ 3:14 判決の谷には、群衆また群衆。【主】の日が判決の谷に近づくからだ。」
4)アモス書の預言
◆「アモ 5:18 ああ。【主】の日を切に望む者。【主】の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。・・・5:20 【主】の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、そこには輝きはない。」
以上のヨエル書とアモス書の神の怒りの「主の日」の預言の特徴は「闇の日」です。その闇の日の預言を黙示録では以下のように預言しています。
◆「黙 8:12 第四の御使いがラッパを吹いた。すると太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれたので、それらの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになった。」
◆「黙 9:2 それが底知れぬ所に通じる穴を開くと、穴から大きなかまどの煙のような煙が立ち上り、太陽と空はこの穴の煙のために暗くなった。」
◆「黙 16:10 第五の御使いが鉢の中身を獣の座に注いだ。すると、獣の王国は闇におおわれ、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。」
5)オバデヤ書の預言
◆「オバ 1:15 なぜなら、【主】の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。」
オバデヤ書も、神の怒りの日である「主の日」が全世界に及ぶことを預言しています。
6)ゼパニヤ書の預言
◆「ゼパ 1:7 口をつぐめ。【神】である主の前で。【主】の日は近い。【主】はいけにえを備え、招いた者たちを聖別されたからだ。・・1:14 【主】の大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。【主】の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。」
7)ゼカリヤ書の預言
◆「ゼカ 14:1 見よ、【主】の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。」
以上のように、聖書はⅠテサロニケ1:10の再臨の主が、キリスト者を「来るべき怒りの日」から救ってくださると約束しています。その「来るべき怒りの日」は旧約の預言や黙示録の預言が教える「主の日」の事であり、明らかに最後の審判の事ではありません。又、その主の来臨は明らかに主の空中再臨であり、「神の怒りの主の日」からキリスト者が救われる「教会携挙」が教えられている事も明らかです。聖書は、その「主の日」が盗人のように、突然に全世界にやってくることを教えています。
◆「Ⅰテサ 5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです」
Ⅱペテロ1章16節
「Ⅱペテ 1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」
ペテロ書は間違いなく「キリストの再臨」を強く教えている書ですが、それはヨハネ14章でキリストが約束されたキリストが父の家に備えができたら迎えに来るという「空中再臨」です。ペテロはその空中再臨の時に与る聖徒の恵みを強く教えているのです。当時のペテロとユダヤ人キリスト者は、既に天に挙げられて、天でのキリストとの婚礼を済ませ、その後、キリストの地上再臨の時は、主の随伴者として共に天から地上にやってくることが黙示録19章で教えられています。
◆「黙19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。」
ペテロの時代の聖徒たちは、キリストの地上再臨の目撃者ではないのです。随伴者なのです。岡山牧師が地上再臨を教えている聖書個所として取り上げておられるⅡペテロ1章16節は、キリストの地上再臨の事ではなく「空中再臨」を意味しています。
以下の聖句の主の来臨もすべて主の空中再臨を意味しているのです。
◆「Ⅰペテ 1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」
◆「Ⅰペテ 1:13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
◆「Ⅰペテ 4:13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」
◆「Ⅰペテ 5:4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。」
◆「Ⅱペテ 3:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」
 「主の日は盗人のようにやって来ます」は、キリストがマタイ24章43節で教えられた泥棒のようにやってくる主の空中再臨の「突然性」を踏襲していると思われます。ます。その主の日と天地万物の消滅との間には、1000年のメシヤ的王国とゴグマゴグの世界連合軍の天からの火による滅び、最後の審判などがありますが、その詳細を省略している事は明らかです。省略しているからと言ってペテロがそれらを些細な事だとか、あるいは信じていないという事ではないのです。もちろん、ペテロの手紙が書かれたAD60年代前後には、まだ黙示録が啓示されていませんので、ペテロが、黙示録20章で啓示されているメシヤ的王国が1000年だとか、ゴグマゴグ連合軍が天からの火によって滅びるとか、、最後の審判の詳細な様子をどれほど知っていたかは定かではありません。ペテロは、預言者たちが預言してきた神の終末の特別な御怒りの日である「主の日」の到来と、神の御怒りによって天地万物が消滅するという恐ろしい出来事を伝える事で、神の罪に対する峻厳さをディアスポラのユダヤ人キリスト者に知らせて、神を恐れる心を持って罪と悪から離れた「聖なる生活」に導こうとしたわけです。ペテロは、終末に起きる様々な詳細な出来事を教理的に詳細に知らせる事を目的としないで、ディスポラの聖徒達に「聖い生き方」を促すことを目的に手紙を書いているのです。その為に、ペテロ書の終末論は大変要約的に書かれているのです。ペテロはレビ記19章2節のみ言葉を引用して次のように教えています。
◆「Ⅰペテロ1:14b 以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、 1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。1:16 それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。 1:17 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」
以上のように、岡山牧師が、使徒信条やニケヤ信条において一致しているとされている「主の地上再臨」を証拠づける聖句として取り上げられたマタイ24章30節、マタイ26章64節、使徒行伝1章11節、Ⅱテサロニケ1章7節、Ⅱペテロ1章16節、同1章13節は、主の地上再臨により実現する、イスラエルの国の復興を意味する「メシヤ的王国」が教えられ、また、主の空中再臨とその後の7年の大艱難時である「主の日」が教えられている事を明らかにしました。使徒信条やニケヤ信条がそれらの重要な真理を省略しているので、その要約的に纏められている信条をもって終末論の教理を構築したり、教会の一致を唱えるのには無理があるのです。

2、第2の一致点「生者と死者の審判(最後の審判)」
 岡山牧師が、使徒信条とニケヤ信条によって現代キリスト教会が一致していると唱える第2の一致点「生者と死者の審判」の聖書的根拠として以下の聖書個所を取り上げている
①「キリストの来臨によって神の民は悪の力から救い出されるが、神に敵対する者は滅ぼされる。キリストは「栄光の位に着き」(マタイ25:31)。
②「すべての国民」を「羊飼いが羊と山羊とを分けるように」より分ける(同25:32)。
③反逆の民は「永遠の火」に入れられ「永遠の刑罰」(同25:41、46)を受けるが、正しい人は「永遠のいのち」(同25:46)を与えられ「備えられた御国」(同25:41)を受け継ぐ。
④キリストの来臨によって「福音に従わない人々」は「永遠の滅びの刑罰」を受けるが(Ⅱテサロニケ1:8~9)、神の民は御怒りから救い出」され(Ⅰテサロニケ1:10)、「朽ちないものによみがえ」る(Ⅰコリント15:52)。来臨によってすべての者が復活し、神の裁きの座の前に立ち、最終的な審判が行われる。」
以上が、岡山牧師が二つの信条に沿って、聖書的証拠を取り上げながら引き出した現代キリスト教会が一致して唱えると論じる「最後の審判」に関する教えです。しかし、その一つ一つの聖句は、最後の審判とは全く無関係の聖句なのです。その事を以下に検証します。。
①「栄光の位に着き」(マタイ25:31)について
   岡山牧師は、以上に引用されたマタイ25:31で預言されているキリストが地上に再臨されてお着きになる栄光の位は、新天新地の永遠の神の国における栄光の位だと解釈されています。それは明らかに間違った解釈です。キリストが地上再臨されてお着きになる栄光の位は新天新地の永遠の神の御国ではなく、その前に成就するイスラエルを中心にした「メシヤ的王国」での「栄光の位」を意味しているのです。マタイ25章31節の「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」は、天の御国をタラントのたとえ話で教えられた後に預言されたものです。天の御国とは、「メシヤ的王国」を意味し、タラントのたとえ話は選民イスラエルがその御国が実現するまでの忠実さの重要さを教えているものです。又、選民イスラエルがそれまでの忠実さの度合いによって「メシヤ的王国」受ける報いとしての祝福が異なる事を教えているのです。その御国の栄光の位にキリストはお着きになるためにキリストは地上に再臨されるのです。決して、新天新地の永遠の御国の位にお着きになる為に、キリストは地上に再臨されるのではないのです。その証拠、預言者たちがその事を繰り返し預言していますが、それはダビデ契約に基づくものです。

1)ダビデ契約におけるダビデがイスラエルの永遠の王になる約束
◆「Ⅱサム 7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
2)ダビデ契約におけるダビデの子孫であるメシヤがイスラエルの永遠の王になる約束
◆「Ⅰ歴代1711b わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 17:12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。 17:13 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。 17:14 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」
以上の二つの聖書個所で神は預言者ナタンを通してダビデと永遠の契約を結ばれましたので、それを神学的には「ダビデ契約」と呼ばれてきました。以上のダビデ契約に基づき、イスラエルの預言者たちはメシヤ的王国における復活したダビデ王と、地上に再臨されてメシヤ的王国のイスラエルと全世界の王となるメシヤについて預言をしてきました。これらはすでに、これまで取り上げてきたテーマですが、再度その重要な預言の一部を紹介しておきます。詳細は「小羊の王国問題点Ⅱ」(P20~23)で論じていますのでお読みください。
3)復活したダビデがメシヤ的王国のイスラエルの王となる預言
◆「詩89:3 「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。89:4 わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」
◆「詩89:35 わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。 89:36 彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。 89:37 それは月のようにとこしえに、堅く立てられる。雲の中の証人は真実である。」
◆「エゼ 37:24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。 37:25 彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
4)神の御子である再臨のキリストがメシヤ的王国のイスラエルと全世界の王となる預言
◆「詩2:6 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」 2:7 「わたしは【主】の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。 2:8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」
◆「イザ2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。 2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。 2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」
◆「イザ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」
◆「イザ11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。 11:2 その上に、【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と【主】を恐れる霊である。 11:3 この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、 11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。 11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。 11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。 11:7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。 11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。 11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」
◆「エゼ 37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。 37:27 わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 37:28 わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する【主】であることを知ろう。」
◆「エゼ 43:1 彼は私を東向きの門に連れて行った。43:2 すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。・・ 43:4 【主】の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た。43:5 霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、【主】の栄光は神殿に満ちていた。43:6 ある人が私のそばに立っているとき、私は、神殿からだれかが私に語りかけておられるのを聞いた。43:7 その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。」
以上の聖書個所で預言されていますように、永遠の神の神であり人の子である再臨の主は、メシヤ的王国のイスラエルと全世界の王となり、お着きになる栄光の位は、メシヤ的王国の世界で一番高い山に建設される新しいエルサレム神殿の聖所であることが教えられています。キリストがマタイ25章31節で預言された地上に再臨されてお着きになる「栄光の位」は最後の審判の為の「栄光の位」ではなく、イスラエルを中心としたメシヤ的王国の栄光の位なのです。その栄光の位にお着きになる王なるキリストに復活したダビデ王が「君主」として仕えるのです。
②「山羊と羊に分ける審判」(マタイ25章32節)について
 岡山牧師が、マタイ25章31節に続いて、キリストが最後の審判を行う「栄光の位」にお着きなって、キリストを信じている人達を「羊」に例え、未信者の方たちを「山羊」に例えて裁きをされると教えています。その解釈も明らかに間違っています。7年の大患難時代の後半3年半において、反キリストの政策で厳しい迫害を受ける、キリストが「小さい者」とか「兄弟」だと言われたユダヤ人を助ける人々を「羊」に例えています。単にキリストを信じている人々を羊に例えていなしことは明らかです。大艱難時代の厳しい迫害の中にあるユダヤ人が「空腹」「旅人」「裸」「病気」「入獄」の苦しみの中にある人達です。それらの苦難の中にあるユダヤ人を助け支えるキリスト者が「羊」で例えられています。それとは異なり、苦難の中にあるユダヤ人に助け支えようとしない人たちが「山羊」に例えられています。キリストを信じていると言っても大艱難時代において苦しみの中にあるユダヤ人を助け支えようとしない人たちは山羊として裁かれるのです。それがキリストの「羊」と「山羊」のたとえ話の教えなのです。それは、イスラエルと結ばれた「アブラハム契約」に基づくものです。「イスラエルを祝福する者は祝福され、呪う者は呪わる」というのがアブラハム契約です。(創世記12:3、27:29、民数記24:2~9)
大艱難時代の後半3年半は、サタンの働きより反ユダヤ主義がこれまでもなく全世界に広がり、世界の全ての諸国が反ユダヤ主義となり、ユダヤ人は想像を絶する苦難を通過するのです。そのような時代において、キリストを信じているかどうか以外にユダヤ人を助けるか助けないかがキリストの裁きの基準となるのです。
「山羊」と「羊」を分ける全世界の人々への裁きは、最後の審判の事を教えていないのです。
③マタイ25章41節、46節の「永遠の裁き」について
◆「マタ25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』
◆「マタ25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」 以上のキリストの「永遠の裁き」に関する教えは「要約的」に教えられています。悪魔とその使いたちが、裁かれて永遠に火に投じられる審判は最後の審判が行われる前に起こる審判として、黙示録20章に教えられています。以下の通りです。
◆「黙20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
  キリストの兄弟で「小さい者」と呼ばれるユダヤ人を、大患難時代に助け支えなかった人々は、裁かれて死んでその霊は一度苦しみの陰府(ゲヘナ)に落とされます。そして、最後の審判の時によみがえった肉体とその霊が一つになって裁きを受け、悪魔やその使いたちが投じられている永遠の火の池に投じられることが黙示録20章の最後の審判で教えられています。以下の通りです。
◆「黙20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」
  マタイ25:46の「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」も要約的に審判が説かれています。大艱難時代の苦難の中にあるユダヤ人を助け支えなかった人たちは、前述していますように、永遠の火に投じられる前にまず肉体が死んでその霊が苦しみの陰府(ハデス)を通過してから、永遠の火の池に投じられる最後の審判のキリストの白い御座に導かれ、その行いに応じて永遠の火の池に投じられます。それがキリストの教えられる「永遠の刑罰」への過程です。逆に、大艱難時代のユダヤ人に助けと支えの愛の手を差し伸べた正しいい人たちは、永遠の命が与えられメシヤ的王国の住民としてメシヤ的千年王国の住民となって、祝福を受けます。その後、最後の審判が行われる白い御座に導かれる事無く、黙示録21章で約束されている「新天新地の永遠の神の御国」へ導かれます。それをキリストは「永遠のいのちに入る」と要約的に教えられたのです。
キリストが行われる最後の審判の白い御座に導かれるのは不信仰な人々、大患難時代にユダヤ人に助けて支えの愛の手を差し伸べなかった人たちだけです。黙示録20章の最後の審判の預言が教えるように、正しい人たちはその白い御座に導かれる事は決してないのです。「来臨によってすべての者が復活し、神の裁きの座の前に立ち、最終的な審判が行われる。」という教えは聖書に無い教えになっています。黙示録20章がそれを明確にしてるので、正しい人と正しくない人が同じ時に復活して、最後の審判で永遠の命と永遠の裁きを受けるという「総合審判説」を唱える牧師や神学者は私の知る限りにおいてですが、黙示録20章11節~15節の最後の審判の聖書個所を引用することがないのです。岡山牧師もその一人なのです。わたしの属する日本アドベント・キリスト教団が「総合(全体的)審判」を「眠りの教理」と「条件不滅説」の教理に沿う教えとして教理に取り入れていますが、黙示録20章11節~15節の最後の審判を教えている聖書個所を決して取り上げないのです(日本アドベント・キリスト教団神学校プロジェクト委員会編/7月17日発行「Advent Textbook 2017」(P43~45)、アドベント教育部1977年2月15日発行「われ信ず」(P85~87)、オーロラ大学神学教授/クラレンス・H・ヒューイット著/訳者・芳地昌三/アメリカン アドヴェントント クリスチャンソサエテイ日本支部/昭和33年10月15日発行「終末論教科書」P134~136)。なぜでしょうか。それは、黙示録20章11節~15節は「総合審判説」を否定しているからです。
岡山牧師が最後の「総合審判説」を教える聖書的証拠として取り上げておられるマタイ25章41節と46節は、聖書的証拠になっていない事は明らかです。
Ⅱテサロニケ1章8節~9節の裁きについて
◆「Ⅱテサ1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。 1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」
以上の聖句については前述している通り(P6~7)、パウロのキリストの地上再臨と最後の審判の教えも要約的に論じられているもので、他の多くのパズル的にちりばめられているキリストの地上再臨の教えと、最後の審判の教えをと照らし合わせ総合的に纏めて論じる必要があります。使徒信条やニケヤ信条が要約的にキリストの再臨と最後の審判が論じられているように、Ⅱテサロニケ1章8節~9節も詳細を省いて要約的に最後の審判が教えられ、「総合審判」を教えていなのです。
3、第3の一致点「永遠の御国(新天新地」について
 岡山牧師は第3の一致点を次のように論じています。「第三は『新天新地』と永遠の御国である。この世は永遠に続かない。キリストの来臨によって一切が新しくされる。地上的な問題の最終的な解決は人間の努力や改革によらず、神による全地の一新による。それは未来に起こる超自然的な全宇宙の革新である。「見よ。すべてを新しくする」(黙示録21:5、イザヤ43:19)との神の約束が、その時に成就する。ヨハネはパトモス島で「新しい天と新しい血」、天から下ってくる「新しいエルサレム」を見た(黙示録21:1~2)。ペテロもまた「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」を待ち望む(Ⅱペテロ3:13)」。以上の見解が果たして聖書的に正しい教えかどうかを検証します。
≪キリストの地上再臨の目的≫
 創造主の創造の御業の最終目的は間違いなく『新天新地』の永遠の御国であることは、聖書を神の霊感の書だと信じている人であればだれもが周知の事です。岡山牧師はキリストの地上再臨によってそれが実現すると論じています。しかし、それは黙示録が教える神の計画とは明らかに異なっています。黙示録19章では再臨のキリストが天の軍勢を随伴し、白い馬に跨って来臨される事が教えられています。
◆「19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。 19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」
  白い馬に跨って来臨されるキリストは、全地の一新の為でなく、戦いの為に来臨される事を黙示録は明確にしています。
◆「黙19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。 19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。 19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」
では、キリストは誰と闘うために来臨されるのでしょうか。パウロがそれをはっきりさせています。来臨のキリストが戦うのは「不法のもの」「滅びる者」と呼ばれている「反キリスト」です。黙示録13章ではその反キリストは「獣」と呼ばれています。

◆「Ⅱテサ 2:8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」
  不法の者である「反キリスト」はイスラエルを絶滅させるために、エドムのボツラに神の保護によって守られているイスラエルを滅ぼす為にハルマゲドンに世界の王たちを集め軍事会議を開きます。その軍事作戦が決定されてから、反キリストは全世界の諸国から軍隊を集め、カナンの土地に全てのユダヤ人とボツラに逃げ込んだユダヤ人を悉く滅ぼす為に戦いを始めます。多くのユダヤ人がキリストの「荒らす憎むべき者が立つのを見たらすぐに山へ逃げなさい」という警告に従って、荒野の山に逃げます。その逃げた先が天の要塞で囲まれた「ボツラ」なのです。イスラエルの人々は再び世界に散らされ国を失います。その時に多くのユダヤ人がボツラに逃げこんだのです。その時に、ゼカリヤ書12章10節で預言されている通り「恵みと哀願の霊」が彼らに注がれ、先祖がキリストを十字架につけた罪を自分たちの罪として、心から激しく悔い改めるのです。その彼らが、キリストがマタイ23章39で「あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」と預言されたように「祝福あれ。主のみ名によって来られる方に」と、復活され天におられるキリストに向かって叫ぶのです。キリストは約束されたように、その叫びに応じて雲に乗り白い馬に跨って地上に来臨され、反キリストと彼に従う全世界軍隊を悉くみ口の息と来臨の輝きによって滅ぼされるのです。それを黙示録19章15節は「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた」と教えているのです。来臨のキリストが反キリストと彼に従う全世界の軍隊とを悉く滅ぼされる事を預言者たちは繰り返し預言してきました。以下の通りです。
◆「イザ34:1 国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。 34:2 【主】がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。 34:3 彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。 34:4 天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。 34:5 天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。 34:6 【主】の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。【主】がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。」
◆「イザ63:1 「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」 63:2 「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」 63:3 「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。 63:4 わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。 63:5 わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。 63:6 わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」
◆「ゼカ12:9 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。」
以上の預言の成就として黙示録19章で衣が血に染まった闘うキリストの姿が描かれているのです。黙示録19章の戦う来臨のキリストは、預言者たちが、イスラエルを撲滅させようとする反キリストの世界軍隊を滅ぼす「主」だと教えているのです。
では、なぜキリストは、イスラエルを反キリストとその軍隊から守る為に地上に来臨されるのでしょうか。新天新地の成就為でしょうか。そうではないのです、イスラエルの人々と結ばれてきた4つの無条件契約「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」を悉く成就するためにイスラエルを中心とした「メシヤ的王国」をこの地上に実現させるためなのです。メシヤ的王国については「小羊の王国の問題点Ⅱ」(P14~25)で詳細に論じていますのでお読みください。岡山牧師が黙示録の新天新地に関する預言としてイザヤ43章10節を引用されていますが、それは明らかに間違った引用です。イザヤ書43章19節は「メシヤ的王国」のイスラエルの回復した自然の豊かさを預言したものです。
◆「イザ43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
反キリストとその世界の軍隊を悉く滅ぼす為に、白い馬に跨って来臨される戦いに勇ましいキリストの事が預言されている19章の後に、20章で千年のメシヤ的王国が預言されている事は明らかに旧約聖書の預言に基づいて啓示されている事は明らかです。
旧約聖書も、黙示録もキリストの地上再臨の目的は新天新地の到来の為でなく、イスラエルを中心とした「メシヤ的王国」の実現の為だという事を明確に教えているのです。
≪新天新地までの神のタイムテーブル≫
 創造主の神は、地上に再臨されるキリストによって、反キリストとその軍隊を悉く滅ぼした後に、イスラエルに約束された「メシヤ的千年王国」を実現され、その後に、アビソスに1000年間閉じ込められていたサタンが解放されます。解放されたサタンによって「メシヤ的王国」の不信仰な人々が惑わされ、「ゴグマゴグの世界連合軍」(エゼキエル書のゴグ・マゴグの連合軍とは異なる)を形成し、キリストが住まいとされている聖都に戦いを挑みますが、父なる神が天からの火によって悉く滅ぼされます。その後、サタンはすでに反キリストも偽預言者が裁かれて投じられている火の池に投じられ、永遠に苦しみ続けます(黙示録20章1節~10)。その後に、キリストは裁きの座である白い御座にお着きになり、ハデスや海から神に逆らった不信仰な人々の霊に甦らせた肉体を着せ裁きの白い御座に導かれます。それらの人々は地上で行った様々な罪の行いに従って裁かれ、既に悪魔や反キリストや偽預言者が投じられている火の池に投じられます。(黙示録20章11節~15節)。その最後の審判が行われた後に、罪と死がまだ存在しているメシヤ的王国の地上の世界と、それを支えている太陽、月、星などの天の万象が轟音と共に火によって悉く滅び去って行きます。ペテロが教えている通りです。(Ⅱペテロ3章12節13節)。その後に、先の天と地と太陽と海の無い、新しい天と地が創造されます。その間、全ての聖徒は第三の天に導かれ守られているでしょう。その新天新地に天にある新しいエルサレムが降りてきて、死も罪も病も苦しみがない、永遠に続く新天新地の神の御国が完成するのです。以上が「新天新地の神の御国」への神のタイムテーブルですが、それは旧約聖書の預言と黙示録の預言とが調和して教えている神のタイムテーブルです。
【終わりに】
 岡山牧師が、使徒信条とニケヤ信条の終末に関する信仰告白より、現代キリスト教会が三つの点で一致していると証拠付ける為に引用された聖句や聖書個所を綿密に調べると、殆どが証拠になっていない、証明になっていない事をこのレポートで明らかにしました。
なぜ、使徒信条とニケヤ信条の二つの重要な信条において、聖書が繰り返しユダヤ人に約束してきた、キリストの地上再臨による「メシヤ的王国の実現」について、省略して来たのでしょうか。それは、期限後1世紀後期に明らかになって来た、キリスト教会の「反ユダヤ主義」思想の影響があったことによるものです。「反ユダヤ主義の歴史」の中で、初代教会から1000世紀までにおける反ユダヤ主義について次のように教えられています。「キリスト紀元の最初の1000年間で、ヨーロッパのキリスト教徒(カトリック)階層のリーダーたちは、 すべてのユダヤ人はキリストの処刑の責任を負い、ローマ人による神殿の破壊とユダヤ人が分散しているのは、過去の宗教上の罪と、ユダヤ人が自分たちの信仰を放棄してキリスト教信仰を受け入れなかったことに対する罰であるという教義を発展させ、固定化させました」と(ホロコースト百科事典)。また、ニケヤ信条が確立したAD325年に開催されたニケヤ公会議の招集者コンスタンチノープル大帝は、キリスト教徒ではなく、又、反ユダヤ主義者であり、それ故にキリスト教会のユダヤ人指導者を誰一人呼ばなかったと言われています。そのような背景のあるニケヤ信条や使徒信条をそのまま鵜呑みして、礼拝の中で使用してきたことが大きな問題だと思います。ニケヤ信条の三位一体の教理などの確立は受け入れたとしても、終末論は決して鵜呑みしてはいけない事に、このレポート作成で改めて知る事ができました。わたしは、二つの信条がイスラエルを呪う信条であることを認識しましたので、わたしの教会ではアブラハム契約の「イスラエルを呪うものは呪われる」にそって、それらの信条を礼拝で使用することを止める事にしました。現代のキリスト教会は、早急にアブラハム契約で約束されている「イスラエルを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われる」という約束を魂に刻み込み、イスラエルを祝福する祈りを捧げる事が神から強く求められています。
キリスト教会が、反ユダヤ主義の歴史を歩んできた事を、ダニエル・C・ジャスターが以下のように教えています。
「後に、古代教会の教父たちはナザレ派の救いを否定し、イエシュア(イエス)を信じつつユダヤ人の生き方をすることを異端とみなした。この決定は、第2ニカイア公会議(AD787年)で教会法として定められ、19世紀半ばまで教会史の中で繰り返し是認されていった。ユダヤ人がイエシュアへの信仰を表明する際には、ユダヤ民族と絶縁すること、あらゆるユダヤ的習慣を捨て去る事、クリスチャン名を名乗る事、豚を食べる事が要求された・・」(ダニエル・C・ジャスター著「聖書が教えるイスラエルの役割」P127より)