「常に喜び、絶えず祈り、万事に感謝せよ⑤」
聖書:Ⅰテサロニケ5章16節~19節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
私達は、創造主の神の愛と正義と善と謙遜と知恵と力とを信じて、喜び感謝し賛美しつつ神さまに日曜日ごとに礼拝を捧げていますが、同時に、心の中に一週間において体験した、家庭や職場や学校、或は教会等の生活の場で自分の中に湧き起こって来た古い人から出て来た邪悪な感情や消極的な思いや知性に囚われて、人を赦す事が出来なかった事、無条件の愛で愛せなかった事、人を自分より優る存在として謙遜になって尊べなかった事、いつも喜びつつ万事に感謝できなかったという、創造主と人の前に聖く、正しく、愛に満ちて歩めなかったという敗北意識やストレスを抱えて礼拝に参加している事が多々あるのではないかと思います。ではどうすれば、古い人から湧き起こって来る様々な邪悪な思いに打ち勝ち、新しい人としてキリストのように愛と正義と謙遜に満ち、いつも喜びつつ万事に感謝して生きて行く事が可能となるのでしょうか。今朝はその実践の秘訣、実践の道を学びたいと思います。
1、実践の為の道
①古い人と古い人から出てくる邪悪な罪
その実践の為にはまず、古い人と古い人からから出てくる邪悪な罪とは何かを、正しく知っておく必要があります。聖書はそれを詳細に教えていますので、それを学びましょう。
1)ローマ書から
≪ローマ1:29~32≫
既に取り上げて来ましたがパウロはローマ書1章29節~32節で、古い人の犯す罪を詳細に教えています。
「ローマ1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」
≪ローマ3:9~17≫
更にパウロはローマ3章9節~17節で古い人がどのように邪悪であるか、その実態を詳細に教えています。
◆「ローマ3:9私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道 には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
以上の古い人の邪悪性についてのパウロの教えは、旧約聖書に教えられている人間の邪悪性を教えた詩篇とイザヤ書の聖句を集め纏めたものです。
◆「ローマ3:10義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」は詩篇14篇1~3と詩篇53:1~4をパウロが要約したものです。詩篇14篇と53篇では次のように教えられれています。
≪詩篇14:1~3≫
「詩14:1 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。 14:2 【主】は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 14:3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」
≪詩篇53:1~3≫
「詩53:1 愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。 53:2 神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 53:3 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」
◆「ローマ3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
≪詩篇5:9≫
「詩5:9 彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。」
◆「3:13b「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
≪詩篇140:3≫
「詩 140:3 蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。」
◆「3:14彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
≪詩篇10:7≫
「詩10:7 彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。」
◆「3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道 には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
≪イザヤ59:7~8≫
「イザ 59:7 彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。 59:8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」
◆「3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
≪詩篇36:1≫
「詩 36:1 罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。」
以上のように、パウロは、イザヤ書と詩篇の数か所とにちりばめられて啓示されている古い人の邪悪性関する教えをパズル合わせのようにして纏め、古い人の恐ろしい実態を目に見えるかのように絵のようにして教えています。
2)ガラテヤ書から
ガラテヤ書では、御霊の実との対比で、古い人から出ている「肉の行い」と罪悪が列記されています。
◆「ガラ5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」※不品行、汚れ、好色:性的罪
※偶像礼拝、魔術:宗教的霊的罪
※敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み:人間関係を破解する罪
※酩酊、遊興:快楽の罪
※敵意や憤りの一つの例として、批判されたり、侮辱されるとプライドが傷つき不愉快になり、批判した人、侮辱した人を憎み、喜べなくなるという事があります。
※党派心、分裂、分派:自分の考え方や意見と合わないと、そのキリスト者とはうまくやっていけないと否定的、消極的になり、袂を分かとうとする事が、分裂や分派に繋がって行きます。それが古い人の肉の行いです。物事を否定的に、消極的に思い込み、思い煩う事は、古き人から出ている肉の行いの一つです。
以上の肉の行いと重なっていますが、ガラテヤ書では「5:15互いにかみ合ったり、食い合ったりする事」、「15:24様々な情欲や欲望」、「15:26互いにいどみ合ったり、そねみ合ったり、虚栄に走る事」等も古い人から出ている肉だと教えています。また、人からの称賛を得たいという思いや、人からどう思われているかと、人の目を気にして思い煩ったり、恐れたりするのも古い人の貪欲の一つである称賛欲によって起こっている邪悪な感情です。日本人は、世間体意識という、人の目を気にして生きる文化の中におかれていますので、特に、貪欲の称賛欲に囚われて、思い煩ったり、不安や恐れを心に抱き、喜びを失う傾向性が強いと思います。貪欲の称賛欲は、その人を嘘つきににしたり、偽善者にしたり、偽善が偽善と分からないようにさせる恐ろしいものです。それ故に、パウロはガラテヤ書1章10節で次のように証をしています「ガラ1:10いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」
旧約聖書の箴言でも人の目を気にして恐れる事は、罠に陥ると警告しています。人の目を恐れると不幸になると箴言は警告しているのです。
◆「箴 29:25 人を恐れると罠にかかる。・・」
3)コロサイ書から
コロサイ書では、古い人から出てくる様々な罪を地上のからだの諸部分だとパウロは教えています。
◆「コロ3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。 3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。 3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。 3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。 3:9 互いに偽りを言ってはいけません。」
不品行、汚れ、情欲、悪い善く、貪り、怒り、憤り、そしり、恥ずべき言葉、偽りは、全て古い人から出ている邪悪なもので、地上のからだと言う、罪に堕落した心身の部分として現れている事をパウロは教えています。
4)ヤコブ書から
ヤコブ書では、「古い人」とか「肉」と言うパウロの使う神学用語は使用されていませんが、明らかに、古い人の振る舞いや問題行動を教えています。
≪貧しい人を蔑む差別心≫
◆「ヤコブ2:1 私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。 2:2 あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。 2:3 あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」と言うとすれば、 2:4 あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」
≪貧しい人への冷淡な心≫
◆「ヤコブ2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。」
≪不義の世界としての人間の舌(人を呪う舌)≫
◆「ヤコブ3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。 3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」
≪貪欲の為に起こす戦争や争い≫
◆「ヤコブ4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。 4:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」
私達キリスト者が、家庭や職場や学校や教会において人間関係を悪くしているのは、古い人から出てくる様々な邪悪な感情や言葉や行いを原因としているのです。教会の中で、御霊の一致を破壊しているのも古い人から出てくる様々な邪悪な思いと言葉と行いによっているのです。古い人から出てくる様々な邪悪な感情こそが、キリスト者のいつも喜び万事を感謝する事を妨げている根本的原因となっているのです。その、邪悪な感情を放置していると、邪悪な言葉や邪悪な行いとなって、ますますその人は邪悪になって行くのです。その事を半面教師として教えているのが、イスラエルの初代の王であったサウル王でした。ダビデが、ペリシテ人の約3メートルもある大男ゴリアテをやっつけた時、イスラエルの女性たちが「サウルは千を打ち、ダビデは一万人を打った」と、喜び踊りました。サウル王はその歌に、自尊心が傷つき強い嫉妬を抱きました。サウル王はその嫉妬心と傷ついたプライドを正しく対処せず放置しましたので、彼は、ダビデに対して自分の王位を奪うのではないかと言う疑念を抱き、ダビデに殺意を抱き、槍でダビデを殺そうとしました。それが失敗すると、今度は、更に陰険になり、敵のペリシテ人の手でダビデを殺すそうと図るのです。そのサウルに神からの悪霊、災いの霊も送られ、精神は錯乱状態にもなたのです。古い人から出てくる邪悪な感情を放置していると、人は増々邪悪になって行く事をサウル王は私たちに教えています。私たちは、自分の中の古い人から起こって来る様々な邪悪な感情、邪悪な思いに気づいたら、即対処し、翌日まで持ち込まないようにしなければなりません。その事をパウロは次のように教えています。
◆「エペ 4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」
古い人から出てくる邪悪な感情を即対処して、「御霊によって御霊の実を結んで生きる新しい人」として生きるように、自分をコントロールしなければ、家庭において、職場において、教会において人間関係を駄目にする危険性が非常に高くなります。そうならないように、古い人をすぐに対処する信仰による心の術を会得する事が、クリスチャンには急務なのです。
2、自己コントロールの秘訣
①キリストにあって共に十字架で死んだ事と共に甦って新しい人になったという霊的事実に安んじる事
古い人から出てくる邪悪な感情や思いを対処し、新しい人として生きる為の自己コントロールの秘訣についてお伝えします。それは、第1に、古い人と古い人から出てくる様々な邪悪な感情や思いは、2000年昔キリストと共に十字架で死んだものとして認めて、強く否定し十字架に委ねて安んじる事です。それが、邪悪な思いである、肉の思いを殺す事です。同時に、十字架で死んだ古い人はキリストと共に甦って新しいとなり、邪悪な思いや感情を一切持たないキリストのように聖い人、愛の人、正義の人、謙遜な人、いつも祈り、いつも喜び、万事に感謝する者となっていると聖霊によって諭されたその霊的事実を認め続け安んじる事です。キリストのように生きる新しい人となっているのは、キリストにあっての霊的事実ですので、その霊的事実を信じて認めて安んじる事です。しかし、私達の真の敵である悪魔は、その霊的事実を認め安んじないように疑いの山を心に持たせてきます。それは、「お前は古い人は死んで、新しい人になったと言うが、さっき抱いたあの邪悪な感情は何だ。それでも古い人は死んだというのか。それでもキリストのように聖い者となったというのか」と、疑いの山をサタンは起こさせるのです。その、サタンによる疑いの山によって、多くのクリスチャンが、自分の中の古い人は死んでいない、自分は聖くないと思ってしまい、古い人対処する事と、御霊によって聖く生きる事に失敗するのです。自我の磔殺(たくさつ)と言って、自分で古い人を殺そうと必死に祈ったり断食をしたりして努力する人がいますが、それでは古い人(自我)は死ぬ事はありません。又、自分の中に古い人の死を発見する事もありません。古い人はキリストにあって2000年昔、あのエルサレムのカルバリの丘の十字架で死んだのです。悪魔は、クリスチャンに自分の心の中に古い人の死を発見するように誘惑したり、難行苦行によって古い人の死である「自我の磔殺(たくさつ)」を会得させようとします。古い人の死は、キリスト者の難行苦行によって得られるものではありません。それは、罪の赦しが、キリスト者の善行や難行苦行で得られない事と同じです。私たちは、日々の生活で古い人と古い人から出てている邪悪な思いや感情に気づけば、それは、2000年昔にキリストと共に十字架で実際に死んだものなので、その事実を認めて古い人を十字架に委ねて安んじましょう。それが古い人に対する正しい対処です。同時に、新しい人としてキリスト共に甦った事を認めて安んじるのです。それが、古い人の最も重要な対処術です。
私たちが日々犯す罪は、2000年昔にキリストが背負って取り除いて下さいました。そのように、罪の生産工場である貪欲な古い人も邪悪な感情、邪悪な口、邪悪な行いと共にキリストが十字架で取り除き、新しい人にして下さったのです。ハレルヤ! そのきよめの福音に神さまに感謝しましょう!!!
②御霊の導きに日々従がう事
同時に、御霊の導きに従う事です。御霊は私たちが実践できることを命じられますので、感謝して喜んで実践し従いましょう。古き自分と邪悪な感情は十字架でキリストと共に死んだものとして否定して十字架に委ねて安んじる事。キリストと共に古き自分は甦りキリストのように聖く生きる新しき人新しき自分とされている事に安んじる事。その上で、日々、御霊の導きに従う事。以上の3点セットの実践が古き人に対する自己コントロールの秘訣です。以上の3点セットの実践が「御霊によって歩む事」です。パウロは「ガラテヤ書で御霊によって歩むなら肉の欲を満たす事は無いと断言しています。御霊によって歩むときに人は貪欲になる事は決してないのです。
◆「ガラ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
1)御霊の御声を聞き分ける霊の耳が与えられている
しかし、御霊の導きに従って生きる為に、私たちは、全てのキリスト者には、御霊の導きの御声を聞き取り感じ取る霊の耳、霊の感覚が特別に備えられているという霊的事実信じて会得しておく必要があります。キリストは、はっきりと「私の羊はわたしの声を聴く」と約束されました。。主はご自身の御声を御霊によって私たちに示されますので、主の声に聞くとは御霊の導きの御声を聴くことを意味しています。パウロはその霊的事実を知ってましたので、御霊によって歩みなさいと教えたのです。ヨハネは、御霊を象徴的に油に例えて、キリスト者に内住されている油が全て事を教えると約束しています。
◆「ヨハ 10:27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」
◆「Ⅰヨハ 2:27 しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」
キリスト者の新しい自分と言うのは、キリストの内に存在しています。キリストの外には、新しい人は存在していません。新しい人はキリストから離れて独立して存在しているのではなく、キリストの中に、キリストに属しながらキリスト共に存在しているのです。御霊に導きに従う事は、自分をキリストの内に留まらせる事を意味しています。キリストの内に自分から能動的にとどまる事の重要さをキリストは、ブドウの木の例え話で教えられました。
◆「ヨハ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
古い人を対処し、新しい人として生きる為の信仰の術の後に、御霊に従ってキリストの内に自分を留まらせないと、最初の対処術が無駄になるのです。なぜなら、古い人の死と新しい人としての復活は、キリストの内にあっての出来事だからです。
以上の3点セットの実践を、父なる神は大変喜ばれ、キリスト者に内住されている聖霊を豊かに働かせ、御霊に燃えたたせ、御霊の実である「命と平安」で満たし、いつも喜んで万事に感謝しながら生きる力を与えて下さるのです。
御霊の細き御声に聞き従った、セブンスデーのクリススチャン、デズモンド・ドスの実話が映画化されました。その映画について少し説明をしたいと思います。
映画「ハクソー・リッジ」
2017年公開の、沖縄戦の実話を基にしたメル・ギブソン監督の作品・映画「ハクソー・リッジ」は「のこぎりの崖」を意味し、150メートルにも及ぶ断崖絶壁の前田高地に米軍が付けた名前です。セブンスデー・アドベンチスト教会の忠実な信徒であったデズモンド・ドス(1919〜2006)は、聖書の「汝(なんじ)、殺すなかれ」の戒めに従い、戦場でも武器は一切持たず、米陸軍の衛生兵として敵味方関係なく人の命を救うことに徹しました。日本軍に追い詰められた米兵と共に、自分も逃げ伸びる為に、ハクソー・リッジを梯子で降りようとしたのですが、突然ストップして、「主よ、分かりません、主よ、分かりません」と崖の上で繰り返しつぶやくのです。すると、突然、自らの命の危険を顧みず日本兵が多くいる戦場に向かって走って行くのです。その戦場には負傷してもだえ苦しんでいる沢山の米兵が横たわっていたのです。その彼らを見捨てず救うようにという、主の御声がかかったのです。その負傷兵を一人で、一人一人背負ったり、引きずったりして助けるのです。体力は限界に達し、手の握力は殆どなくなっていましたが、「主よ、もう1人救わせてください」と祈りながら負傷兵を縄のロープに括りつけて150mもある断崖絶壁を降ろしていくのです。その結果75名以上の負傷兵を助けるのです。その中には負傷した日本兵も幾人かいました。クリスチャンであったデズモンド・ドスは映画の中で、一人静かに聖書を読むシーンや、再び激戦地に向かう兵士たちの守りを祈るシーンがありました。彼は、主との深い交わりの中に生きていました。平和主義の彼は、兵舎の中で米兵からいじめられ激しく殴打されます。顔面はひどい状態となりました。隊長がやって来て、「どうした誰がお前を殴ったか教えろ」と命じますが、ドスは、「誰も殴っていません。ベッドから落ちて顔が傷ついたのです」と言うのです。激戦地に赴く前から、徹底して敵を愛する心で生きていたのです。「主よ、分かりません。主よ、分かりません」とつぶやくように祈るその彼に主は御声をかけられたのです。

【終わりに】
「いつも喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝する」事は日々の習慣として実践するべき事です。それは、愛と正義と善意に満ち満ちた創造主の神さまに対して、キリストにあるキリスト者の正しい生活です。しかし、その正しい生活の実践を妨げるのが第1に不信仰です。つまり、創造主は最高最善の永遠にほめたたえられるべきお方だという事実を認めない不信仰。また、創造主のなさる全ての御業は全て最高最善の喜ぶべき御業と言う事実を認めない不信仰です。その不信仰は自分の意志で徹底的に否定しなければなりません。次に、古き人、古き自分から出てくる様々な邪悪の感情と思いが喜びを奪います。私達は、古き自分、古き人は心身ともに貪欲に満ち、偶像崇拝者になり、創造主の神さまに聞き従って神さまへの尊敬を表さないもの、又、人を人して尊敬しない、又、愛さないものだと知りました。同時に、その邪悪な古き人、古き自分はキリストと共に十字架で死んで、キリストと共に葬られて、キリストと共に甦り、キリストのように神と人を愛し、いつも喜びつつ万事を感謝する者とされたという、「聖めの福音」を学びました。その「聖めの福音」を聖霊によって諭されたうえで、「聖めの福音」に堅く立ちつつ、御霊の細き御声に聞き従って、キリストの内に留まり続ける事が、聖霊によっていつも喜び万事に感謝して生きて行く秘訣です。
