「全ての人を尊敬せよ」
 聖書:Ⅰペテロ2章12節~25節
牧師:佐藤勝徳

「Ⅰペテ2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。 2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 2:14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。 2:15 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。 2:16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。 2:17 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。 2:18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。 2:19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。 2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。 2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

【はじめに】
 現代の世界は、力が正義だという考え方が広がり、世界の色々なところで戦争が起きています。また、権力者による抑圧的な政治が多くなっています。その為に、創造主の愛の作品である人の命が軽んじられて、殺されたり怪我を負わせられたり、拷問に合わせられたり、閉じ込められたりしている事がニュースで連日のように報道されています。又、闇バイトなどで人の命が奪われています。現代の世界は、これまでになく人命や人権が軽んじられるキリストが預言された終末時代に突入しています。キリストは、世界の終末の前兆の一として、戦争が多く起こる事、愛が冷える事、不法がはびこる事を預言され、現在は正にそのような時代となっています。愛が冷え、不法がはびこり、人の命が軽視されているこの時代において、キリスト者はどのように生きれば良いのでしょうか。今朝は、ペテロの教えから「すべての人を尊敬せよ」という、神さまのメッセ―ジに耳を傾けたいと思います。初代教会も、厳しい迫害のあった時代で、キリスト者にとっては生きる事が非常にしんど時代であった思われますます。そのような時代において、キリスト者はどのように生きるべきかをペテロは語ります。ペテロ書は、ユダヤ人キリスト者に向けて書かれた書簡です。2章12節の「異邦人の中にあって」という言葉でその事が分かります。異邦人と言う言葉は聖書に何度か使用されています、それは全て選民ユダヤ人以外の世界の人々をさす言葉として使用されています。キリスト教徒と比較して「異教徒」と言う意味では使用されていません。時々、ペテロ書の異邦人を「異教徒」と意訳して解釈されている神学者に出会ってきましたが、異邦人と言う言葉はあくまでもユダヤ人と比較して使用され、ユダヤ人以外の世界の全ての人々を意味しています。ペテロは、初代教会のユダヤ人キリスト者へ第1第2のペテロの手紙を書いたのです。その手紙には、AD70年にエルサレムがローマによって滅びた事に関して一切触れていないので、ペテロ書はAD70年の前に書かれたと一般的に神学者は推測をしています。

1、立派なふるまいをせよ
ペテロは、ユダヤ人キリスト者が異邦人の中で立派なふるまいをするように教えています。その目的は、その立派なふるまいを異邦人が見て、反ユダヤ主義などでユダヤ人キリスト者を批判し悪く言っていても、おとずれの日にそれらの異邦人が創造主であるイスラエルの神を褒め称えるようになるからだと教えています。おとずれの日と言うのは、キリストの地上再臨の時ではなく、空中再臨の時の事です。キリストの地上再臨の時は、キリストを信じていない異邦人、反ユダヤ主義の異邦人は全員が裁かれてよみに落とされる事が聖書に預言されているからです。空中再臨では、教会は携挙され、ユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者も全員が天にあげられます。その時、地上に生き残っている多くの異邦人がユダヤ人キリスト者の立派なふるまいの根拠は、ユダヤ人のキリストにあったと言う事を知り、創造主を崇める人が増える事をペテロは預言したのです。主の空中再臨の後、世界はやがて反キリストが登場し、旧約聖書で「主の日」と呼ばれている神の厳しい裁きによる「苦難の時」が、イスラエルの人々にも世界の人々にもやって来ます。その時、立派なふるまいをしながら、世界に宣教する14万4千人の青年のユダヤ人キリスト者によって世界に大リバイバルが起きるのです。ペテロは、アブラハム契約の中で、ユダヤ人によって異邦人世界が祝福される事を知って、空中再臨後、それまでの立派なふるまいをしてきたユダヤ人キリスト者の影響で異邦人の多くがキリストを信じ、創造主を信じる信仰に導かれる事を聖霊によって預言したのです。では立派なふるまいとはどのようなふるまいでしょうか。

2、立派なふるまいとは

①人の立てた全ての制度に、主が褒め称えられる為に従う事
 ペテロは、第1に、異邦人世界における人が立てた政治制度に、主の名がほめたたえられる為に従う事を命じました。異邦人が立てる政治制度は、王政、共和制、民主制、君主制、社会主義制度、宗教国家などがありますが、そのような異邦人が立てた政治制度には、主の御心と一致した法律が多くありますので、基本的には、ユダヤ人キリスト者に求められた事は、信仰の自由を禁じる法律以外では、その制度に主の栄光の為に従う事が求められました。異邦人が考えた法律の中に主の御心に叶った法律があり、それをペテロは「善」と呼びました。
◆「それが主権者である王であっても、 2:14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。 2:15 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」

②自由人として行動せよ
 ペテロは、立派なふるまいとして、第2に、ユダヤ人キリスト者に「自由人として行動せよ」と命じました。ユダヤ人キリスト者には、異邦人が立てた政治制度のある法律が、神の御心に一致しないと判断すれば、その判断に従って、その法律に束縛されないで自由に生きる事を命じたのです。但し、その自由があるからと言って、その自由を「悪の行為」の口実に絶対に使うなと厳しく命じました。「悪の口実」と言うのは、自分の肉の欲望や判断で勝手に生きるという事を正当化するという事です。それは人の目には「悪」とは映りませんが、神の目には「悪」なのです。ユダヤ人キリスト者に、自由をあくまでも神の奴隷として用いるように命じました。異邦人世界でユダヤ人キリスト者が自由に生きるというのは、あくまでも神の僕、神の奴隷の立場に立って生きる事を意味していたのです。神の御心に一致しないと判断して、その法律から自由に生きるという自由な生き方をする時も、どのようにすべきか常に神の御心を伺い、神の御心と一致させる事をペテロは教えました。自由だからと言って、自分勝手に生きて良いという事ではありませんでした。常に創造主の神さまに束縛されて生きる事をペテロは教えたのです。それは、全てのユダヤ人キリスト者は内住の聖霊の声を聞き分ける霊の耳が備えられている事を前提にしていた事によります。

③、全ての人を尊敬せよ
 ペテロは、立派なふるまいとして第3に「全ての人を尊敬せよ」と、ユダヤ人キリスト者に命じました。その全ての人の中には、異邦人以外に、まだキリストを信じていない「兄弟」と呼ばれるすべてのユダヤ人達や、王の立場にある人も含んでいました。また、奴隷の立場にあるユダヤ人キリスト者は、自分の主人を心から尊敬するように教えました、その主人の中には、「善良で優しい主人」もおれば、「横暴な主人」もいますが、どのような主人も、神さまが今の自分に与えて下さった「最善の主人」として受けとめ感謝して「尊敬する」事をペテロは教えました。不当な苦しみで苦しんでも、その苦しみ中、悲しみの中、その主人を恨まず、憎まず、その不当な苦しみを神の御前に感謝する良心によって忍ぶならば、創造主の天の父が喜ばれると教えました。神に対する良心的に正しい在り方は、いつもどのような時もどんなに苦しい時も、神さまを喜び感謝し続ける事です。その良心的な在り方をしつつ苦しみや悲しみをこらえるならば、神さまがその忍耐を大変喜ばれるとペテロは教えました。罪を犯した結果の苦しみを耐えてもそれは何の誉もないと、ペテロは罪を犯さないように警告をしました。

では、ペテロは、何故、全ての人を尊敬するように、横暴な主人も尊敬するように教えたのでしょうか。それは、約3年間、寝食を共にした、神である神の御子が人となられたイエス・キリストに根源的理由がありました。ペテロは、キリストはユダヤ人の全ての罪の赦しの為に、自分から十字架で罪を負って死なれた救い主でありつつ、キリストはユダヤ人として、ユダヤ人キリスト者の模範としての生涯を歩まれたという事をペテロは知っていたのです。

3、模範的な人生を歩まれたキリスト
 横暴な主人から酷い仕打ちを受けても、憎まず、恨まず、その仕打ちを神さまが与えて下さった最善の事として喜び感謝して受けとめるという、良心的な在り方をして、その苦しみ、悲しみを耐え忍ばなければならないのは、その良心的な在り方を、キリストが模範として十字架で示された事をペテロは教えました。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」

①罪を犯さなかった
キリストの模範的な生き方の第1は、キリストは罪を犯さなかった事です。ここでの文脈では「すべての人を尊敬せよ」ですので、キリストが罪を犯さなかったというのは、いつでも全ての人を尊敬し、人を見下すという罪を一切犯されなかったという事です。キリストは、どんなに、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスを「狐」とか、ユダヤ人の指導者を「白く塗られた墓」とか、「偽善者よ」とか、「悪魔の子よ」と厳しく批判されても、彼らを見下げたり、見下したりされた事は、一度もないのです。罪や悪をキリストは徹底して憎み退けられましたが、その罪や悪を犯している人を、批判し裁いても、見下すという罪を一切犯されなかったのです。常に全ての人を自分より優る大変尊い存在、大変重い存在として、喜ばれていたのです。その上で、彼らを厳しく批判され裁かれていたのです。ペテロは、キリストと約3年寝食を共にして、一番学んだことは、キリストの謙遜に基づく愛と正義でした。彼は、キリストは無限の神である神の御子が小さな小さな虫に等しい人となったメシヤだと悟った事により、キリストの謙遜を学びました。キリストが、「あなた方はわたしを誰と言うか」と言う問いかけに、ペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と応答したのです。その信仰告白はユダヤ人としては驚くべき告白でした。ユダヤ人は、創造主の神、イスラエルの神、ヤハウエなる神は唯一だと信じています。つまり、神は独りで、絶対一の単一の神だと信じていたのです。その彼が、唯一の神が、父なる神と神の子と、聖霊なる神という三位格でありつつ一つの位格の神として存在されているという事知ったのです。それは当時にユダヤ人には、考えられない事でした。ペテロが、キリストが神である神の御子だと悟る事が出来たのは、キリストの聖霊による奇跡的出生、キリストの聖書に基づく驚くべき正しい教え、キリストの驚くべき奇跡の御業の数々等を通して、キリストを神の子キリストだと信じるようになりました。しかし、その様に悟る事が出来たのは、父なる神によると、キリストはペテロに教え、ペテロの信仰告白を大変喜ばれたのです。無限の聖なる神である神の子が、虫に等しい、無きに等しい人間、罪にまみれた人間の救いの為に、ご自分を小さく小さくして人となって下さったという、驚くべき謙遜にペテロは圧倒されていたと思います。キリストは、ご自分を私は心低くへりくだっているものであると教えられました。か、人を見下す横暴な言葉が一切なく、常に仕える者、奴隷の立場に立ちながら歩まれている事に、驚くばかりでした。特に、弟子達の足を奴隷となって洗われた出来事はペテロの度肝を抜きました。その時、キリストは改めて、ご自分が心を低くして、弟子達を主人のように尊び重んじている事を教えられました。キリストは、赤ちゃんからお年寄りにたる迄、元気な人も、病んでいる人も、民衆から指導者や王に至るまで、文字通り、全ての人を徹底して尊敬し、尊び、その存在の重さを感じながら、地上の生涯を歩まれたのです。キリストは、どのような人も一度も見下げたり、見下すという罪を一度も犯されなかったのです。

②口には偽りが無かった
キリストの模範的な生き方の第2は、口には偽りが一切無かったという事です。何故、ペテロはそのように教える事が出来たのでしょうか。ペテロにとって、驚くべき教えは「敵を愛しなさい」と言う教えでした。キリストはその教えを十字架上で実践されたのです。罵られても罵り返さず、苦しめられても脅す事をせず、全て正しく裁かれる父なる神さまにお任せして、「父よ、彼らを御赦し下さい」と祈られた事です。また、キリストはなんどもなんども、ご自分の十字架の受難と復活を預言されました。死んで三日目に甦る事を預言されました。その預言通りに、キリストは十字架の受難と復活を実現されました。その他、多くのキリストには、何一つ嘘が無い事、キリストの言葉は、旧約聖書に基づく、全て真実な言葉であったという事を、3年間寝食を共にして、身に染みるほど彼は分かっていたのです。ペテロは、キリストの一番弟子として一番近くにいたのです。彼は、個人的に「人間をとる漁師にしよう」と約束を受けていました。しかし、彼は、その約束はもう自分には無いと思っていました。なぜなら、彼は鶏が泣く前に3度、キリストを知らないと心底から非常に強く否定したからです。その預言を受けていたペテロは、自分のキリストに対する裏切り行為に、男泣きに大泣きしたのです。キリストに対して、キリストを守る為には自分の命を惜しまないと公言していたにも関わらず、いざなると、自己保存と言う欲望が激しく湧き起こり、キリストを守るどころから、個々の底から「そんな人は知らん」と3度も言い放ったのです。そのペテロの強い強い否定の言葉は、大祭司の庭で尋問を受け、苦しんでおられたキリストの耳に強く響いたのです。ペテロは、自分は決して許されない罪を犯したと思い罪意識に苦しみました。ペテロが、その罪意識で苦しんでいる事をご存知であった復活のキリストは、御使いの青年を通して、女弟子達にご自分の復活の出来事「「弟子達とペテロ」に知らせるように、ペテロの名前が特別に示されたのです。「弟子達とペテロ」、「とペテロ」とみ使いが語った事は、非常に深い意味のある言葉でした。それはペテロがキリストの一番弟子として愛されながら、キリストを裏切った罪の重さに一番苦しんでいたからだろうと思います。また、復活のキリストは、ペテロに向かって「ほかの誰よりも私を愛するか」と、3度も呼びかけられました。ペテロは三度愛していると答える度に、私の羊を飼いなさい、世話をしなさいと言う、使命を授かりました。その3度目の問いを受けた時にペテロは心を「痛めた」、或は「悲しんだ」と聖書は教えています。おそらく、3度キリストを知らないと強く強く否定してしまった自分の罪深さを改めて気づいて心を痛め、悲しませたのだと思います。もちろん、そのような罪深い自分を自分より尊い存在として心低くしながら、自分をゆるしてくださり、主の小羊を飼う、世話をするという牧会の使命を与えられた事を大変喜んだ事は間違いありません。キリストは約束通りに天から聖霊を降し、約束通りペテロを「人間をとる漁師」にされました。ペンテコステの日に、ペテロの1回の説教によって約3千人のユダヤ人がキリストを信じて洗礼を受けたのです。驚くべき出来事です。イエス様は生涯をかけてご自分を信じる弟子達と下の歯約120名でした。しかし、ペテロは、1回のメッセ―ジで、キリストを信じるユダヤ人を約3000人起こしたのです。正に、ペテロは人間をとる漁師に、聖霊によって変えられたのです。聖霊は、ペテロを人間取る漁師にしたのです。ペテロは体験的にキリストには何一つ嘘が無かった事を知っっていたので「その口に何の偽りも見いだされませんでした」と告げる事が出来たのです。

③キリストの謙遜

その、キリストのへりくだった心、謙遜が最大限に示されたのが、十字架上でした。どんな、ひどい仕打ち受け、どんなにひどく罵られても、罵り返したり、脅す事をしませんでした。何故でしょうか。それは、ご自分を十字架にかけたユダヤ人の指導者と、その指導者に扇動されたユダヤの民衆の人たち、又、ローマの総督ピラトやローマの兵達、ご自分を裏切った弟子達、その全ての人々を、ご自分より優る尊い存在として心の底から尊敬され尊ばれ、その存在に関して重く感じ取っておられたからでした。それは、全ての人が、創造主によって個性豊かに神の似姿に、神の形に似せてそうそうされている大変尊い創造主の愛の作品だという事を誰よりも深く深く知っておられたからです。また、その全ての人の罪の赦しの為に、ご自分がその全ての罪を背負っている事も最もよくご存知でした。それ故に、全ての人は、ご自分の罪無き命に匹敵する大変高価で尊い存在として、父なる神から愛されている事をも最も深くご存知でした。キリストの十字架の愛は、全ての人をご自分より優る存在として尊ぶという、深い謙遜に裏打ちされているものでした。その謙遜に裏打ちされた十字架の愛は、今もユダヤを初め、全ての異邦人に向けられているのです。その事を、ペテロは知っていたのです、初代教会の厳しい迫害下にある全てのユダヤ人キリスト者にキリスストに倣って「全ての人を尊敬せよ」と命じたのです。その命令は、異邦人の私達キリスト者にも向けられている命令です。異邦人の中で立派な行いをする事を、異邦人の私たちキリスト者にも適用できます。異邦人のキリスト者である私たちは、偶像崇拝と進化論の中に生きている異教徒の人々の中で立派なふるまいとして全ての制度の良き法律に従い、自由を悪の為の口実に使わず、神の奴隷として自由を使う事です。また、奴隷制度はありませんが、会社や組織の中で、善良な上司だけでなく、横暴な上司をも神の与えて下さった最善の上司として喜び感謝するという神に対する良心的な在り方をしつつ、全ての人を分け隔てなく自分より優る尊い存在とし、その存在を重く受け止めつつ、自分を奴隷の位置、僕の位置において異教徒の皆さんに仕える事が私達異邦人キリスト者にも求められているのです。そのような生き方こそが、キリストが示して下さった模範的な生き方なのです。

6、キリストを模範として生きる力の源泉
では、私たちが、謙遜なキリストを模範として「すべての人心から尊敬して生きる」その力の源泉はどこにあるのでしょうか。

①キリストの謙遜を信じる
  キリストの如く謙遜に生きる力の源泉は、第1にキリストが深い謙遜をもって、自分を愛して下さっている事を信じて深く感謝する事です。

②決心する
 第2の力の源泉は、先ず、キリストに倣って心から全ての人を尊敬して生きる事を決心し、謙遜に生きる事に献身する事です。しかし、人間の意志は大変弱く、又、古い人がキリスト者に残存しているので、その決心と献身が邪魔され、その実践がしばしば妨げられます。

③キリスト者は謙遜な者とされている事を信じる
第3の力の源泉は、キリスト者の心には、全ての人を尊敬する神の謙遜な命である永遠の命が魂に与えられ、神の謙遜な聖なる性質が魂に植え付けられている事を信じる事です。その永遠の命と神の聖なる性質によって、全ての人を尊敬する者と既にされているのです。その霊的事実を信じ認め深く安んじる事です。その信仰に聖霊が働き、結果的に御霊の実として全ての人を尊ぶ心が与えられて生かされて行くのです。謙遜の者とされている事を信じて聖霊に働きに委ね安んじましょう。人を見下し、全ての人を尊敬できない古き自分は十字架で死に、キリストと共に甦えって、新しい人として謙遜な神の永遠の命と聖なる性質に与っている事を認め続け安んじ続ける事が、御霊によって謙遜に生きる原動力です。

④魂の監督者であり牧者であるキリストが心に内住されている事を信じる
魂の監督者であり、牧者であるキリストはキリスト者が、既に「すべての人を尊敬し、尊びながら生きる者」とされているという霊的事実に基づいて、いつも指導し助けて下さるお方として、キリスト者に魂に永遠に内住されていいます。そのキリスが聖霊によって誰をも尊敬しながら生きる事が出来るようにして下さると心から信じて「謙遜に生きる事が出来る」と日々告白する事です。パウロは、自分を強くして下さるお方によって、出来ない事は何ひとつないと大胆に告白をしながら生きたのです。

「ピリ 4:13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

【終わりに】

旧約聖書に、「正義を求めよ、主を求めよ、謙遜を求め」よという言葉があります。神さまと深い交わりの中に生きている人と言うは、いつも正義を求め、主を求め、謙遜を求めている人です。謙遜があってはじめて、神さまとの深い深い交わりに生かされいてる喜びが湧いてきます。キリストの愛と正義は、いつも謙遜に裏付けられていたのです。全ての人を自分より優る尊い存在として、心から全ての隣人存在の重さを感じ取れるようになった時、その人は、謙遜な神さまと深い愛の交わりを体感するようなるのです。是非、全ての人を尊敬する道を会得してください。祈りましょう。

◆「ゼパ  2:3 すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。」