「愛が無ければ空しい①」
聖書: Ⅰコリント13章1節~13節
牧師:佐 藤 勝 徳
「Ⅰコリ13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。 13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。 13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
【はじめに】
聖書に「愛は全てを結び帯」だと教えられているように、良い人間関係をキリスト者の私たちが、家庭において、職場において、地域社会において、教会において構築していく秘訣は「愛」に生きる事です。「愛」に生きる事が、何処へ行っても良い人間関係を構築する秘訣だと聖書は教えています。では、愛に生きるという事はどういうことなのかをⅠコリント13章を通して改めて学びたいと思います。
1、原始コリント教会の問題
①分裂分派の問題
原始コリント教会はパウロの伝道によって誕生した教会でした。9章の1節に「あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。」と教えられています。そのコリントの教会は異言や様々な御霊の賜物を豊かに体験していたカリスマ的な教会でした。12章6節~10節に次のように教えられています。「Ⅰコリ12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。 12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。 12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、 12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、 12:10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」
しかし、霊の賜物が豊かなカリスマ的なコリント教会でしたが、キリストの教会としては、未信者の人たちを、キリストを信じる信仰に導く為の躓きを与える様々な問題を抱えていたのです。そのコリントの教会がキリストの教会として改革され改善されて行く為に、パウロはコリント人への手紙を書きました。まず、パウロが先ず取り上げたのが分裂分派の問題です。
◆「Ⅰコリ1:12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。」コリントの教会には4つのグループに分派していました。「パウロ派」「アポロ派」「ケパ派」ケパとはペテロの別名です。そして「キリスト派」です。分派の罠に陥っている人たちのその心の問題は、自分のグループに属さない人を尊重せずに見下すという傲慢な心を抱いている事です。
②不品行と言う淫行の問題
パウロが第2番目に取り上げた問題は、未信者においてもみられないほどの、不品行と言う淫行の問題です。パウロが次のように警告しています
◆「Ⅰコリ 5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。」
③使徒パウロへの愛無き根拠無き邪推的批判の問題
3番目の問題は、コリント教会の生みの親である使徒パウロに対する愛の無い根拠のない邪推的な批判でした。その批判は金銭に関する批判でした。パウロは、お金が欲しくて伝道をしているという、根拠なき邪推的批判でした。そのような愛無き根拠なき批判にパウロは9章11節12節で次のように弁明しました。「Ⅰコリ9:11 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。 9:12 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。」
④偶像礼拝の問題
コリント教会の偶像問題と言うのは、偶像に頭を直接下げるという事でなく、食欲や性欲に貪欲になっている事を意味しています。10章6節~8節で次のようにパウロが教えています。「Ⅰコリ 10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。 10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。 10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。」
⑤主の晩餐を汚している問題
原始コリントの教会では聖餐式のときに、食事を共にする事が習わしでしたが、その晩餐の時に、それぞれが勝手に食事をして、貧しくて食事にあり付けなく空腹な人もおれば、酔っ払っている人もいるという始末でした。パウロはその事を次のように批判しています。「Ⅰコリ 11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。 11:22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。」
以上のコリント教会の諸問題を起こしている人たちについて、パウロは5章11節で纏めて次のように批判しています。
◆「Ⅰコリ5:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」
パウロは、原始コリント教会の生みの親として、なんとしてもコリント教会が神の栄光を現す教会、キリストのように、又、パウロのように歩んで、人に躓きを与えない教会となる事を願っていました。パウロが次のように語っています。
◆「Ⅰコリ 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
◆「Ⅰコリ 10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
◆「Ⅰコリ 10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。」
◆「Ⅰコリ11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」
コリントの教会の聖徒の兄弟姉妹が、神の栄光を現す生き方、キリストのように生きる生き方、パウロのように生きる生き方、人に躓きを与えない生き方は常に「愛」を動機に生きる事だとパウロは愛の憲章と呼ばれているコリント13章で教えたのです。パウロの説く、その愛の実践の教えをこれから学んで行きたいと思います。
1、愛が無ければ全てが空しい
13章1節~4節で愛を動機としないキリスト者のどのような言動も犠牲的な奉仕も全ては何の値打ちも無い、何の役にも立たない、空しいものだと教えています。
◆「Ⅰコリ13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」 先ほども伝えましたように、原始コリント教会では「御霊の賜物の一つである「異言」の賜物が活発でした。しかし、パウロは、異言を語る人が愛の動機でなく、自分を誇るための異言を語る時は、その異言はやかましいどらやうるさいシンバルと同じだと戒めました。また、預言の賜物があり、あらゆる奥義と知識に通じていても、又、山を移すほどの完全な信仰があっても愛を動機としないで、自分を誇る為と言う動機でそれらの賜物や知識や信仰を\表そうとするなら、何の値打ちもありませんと叱責をしました。また、持ち物を全部貧しい人に与えても、自分の体を焼かれる為に犠牲にしても、愛を動機としないで、自分名誉のためにするならば、そのような犠牲は神の栄光の為には何の役にも立たない空しいものだと戒めています。
◆「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
キリスト者の生活が神の栄光を現すという、本当の意味のある生活を送る為には、自分の名誉のためと言う動機を徹底して退けて、純粋の他者の徳を高め、他者を幸福にする為という、愛を動機として生きる事が絶対に必要だとパウロは教えています。
2、愛とは
では、愛とは何でしょうか。
①寛容
パウロは、愛として最初に取り上げたのが「寛容」です。寛容とは、既にご存知のように、他人の自分に対する罪を永遠に赦す事です。キリストは弟子達に赦しについて「七度七十倍するまで赦しなさい」と教えられました。当時ユダヤ教の教えでは、3度迄は赦しなさいと教えられていたのですが、キリストはペテロが寛容な心で「7度まで赦すのですか」と聞きましたので、「7度を70倍するまで赦しなさい」と教えられたのです。日本でも「仏の顔も3度まで」と、3度は赦しましょうと教えられてきましたが、キリストは「7度を70倍するまで赦しなさい」と教えられました。7の70倍は文字通りであれば490回まで赦しなさいと言う事ですが、聖書では7は完全数ですので、その70倍は永遠に赦し続けなさいと言う事を象徴的に教えています。
◆「マタ 18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」
寛容とは、故意の罪を赦すだけでなく、相手の弱さ、弱点、欠点、過失の失敗などを、批判しないで、自分にも他の弱さ、弱点、欠点、過失の失敗もあるので、大目に見る事です。もし、注意が必要とするならば、優しく注意をする事です。それが寛容な心です。 パウロは、弱点のあるキリスト者同志が、キリストの赦しを体験してきた者として「互いに赦し合う」事を繰りかえし教えています。
◆「エペ 4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」
◆「コロ 3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
②親切
次にパウロは、愛は「親切」ですと教えました。「親切」とは、純粋に善意の心で他者に必要な助けの手を差し伸べたり、必要な言葉かけをしたりする事です。パウロは、親切は全ての人への行為として実践する事を教えていますが、同時に特に信仰の家族に特別に善を行う事を教えています。
「ガラ 6:10 ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」
③妬まない
次にパウロは、愛は「妬まない」と教えています。妬みは、既にご存知のように、他人の幸福を素直に喜ぶ事が出来ず、不愉快になる感情です。妬みは、幸福な人が自分を不幸にしている思う心ですので、妬みの感情は深くなると、殺人へと発展していく恐ろしい邪悪な感情です。愛は、そのような妬みの感情を決して持たず、隣人の幸福を自分の幸福として喜びを共有するのです。妬まないというのは、隣人の幸福や喜びを共有する心の事を言います。
④自慢しない
次にパウロは、愛は「愛は自慢せず」と教えています。自慢とは、自分の成功した事、達成した事、達成感の喜びを与えた出来事を誇って、見せびらかせて悦になる事です。見せびらかせて他人から褒められると人は嬉しくなるので、見せびらかせて自慢をするのです。愛は決してそのような自慢をしない心です。自慢の心は、時に、偽ってでも自分を良く見せようとする偽善に陥らせる事があります。使徒行伝で、クリスチャンのアナニヤとサッピラ夫婦は、自分たちの献金を自慢しようとして、持ち物を売った全てではないのに、一部を持ってきて全てですと言って偽って教会で献金を捧げたのです。その偽りは聖霊を欺く行為でしたので、二人は直ちに裁かれて死んでしまいました。(使徒5:1~11)
ヤコブは人の舌は偽って大きなことを言って自慢すると警告しています。
「ヤコブ 3:5 同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。」
自慢する心を放置していると、人は偽り者となるのです。愛は決して自慢をしません。
⑤高慢にならない
次にパウロは、愛は「高慢になりません」と教えています。高慢は自分を高く上げて、人を見下げたり、侮辱したり、差別したりする事です。人は知識が増すと知識の乏しい人を見下げるという高慢になる危険があります。人は名誉や地位が高くなると自分より名誉や地位が低い人を見下げるという高慢になる危険があります。人は物質的経済的に豊かになると、物質的経済的に貧しい人を見下げるという高慢になる危険があります。健康な人は病気の人見下げるという高慢になる危険があります。愛は、どのような状況の中でも、いつも自分をゼロにして、自分を無にして「全ての人を自分より優る尊い人として喜び尊敬を払うのです。この世界に起きている様々な差別事象は、人の高慢が生み出しているものです。ヤコブは、貧しい人が教会で差別を受けている事象を取り上げています。
◆「ヤコブ2:1 私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。 2:2 あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。 2:3 あなたがたが、りっぱな服装をした人目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」と言うとすれば、 2:4 あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。 2:5 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。 2:6 それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。 2:7 あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。 2:8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。
2:9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」
⑥礼儀に反することをしない
次にパウロは、愛は「礼儀に反することをせず」と教えています。人と出会えば挨拶を交わす。人から良くしてもらえば感謝する。失敗や間違った事をすれば誤る。礼拝や集会の約束の時間を守る。人が見て不愉快な思いをする事が無いように身だしなみをきちんとする。自動車で人が親切に優先してくれれば感謝としてランプで知らせる。障害者のマークがついた駐車スペースを健常者は使用しない。食事の時、人が見て不愉快な主になるような食べ方をしない。若者は老人前では、起立して尊敬を表す事を聖書は教えています。若者は電車やバスの中では老人や子どもを優先して席を譲る事も今日の社会的礼儀の一つでしょう。それぞれの職場や会社で設けられた規則を重んじる事も社会的常識であり、礼儀です。社会的常識を重んじる事も礼儀の一つなのです。親を尊敬する事も子どもの親に対する礼儀の一つです。また、上に立つ人々や、社会の安寧の為に尽くしている人を尊敬し感謝をする事も社会的礼儀です。
昔、ダビデが 自分の家来の若者が食べ物で窮していた時、ペリシテ人からいつも土地や財産の家畜を保護し手助けて来たある裕福な人に、若者を遣わして食べ物を分けてもらいたいと願った所、その裕福な人は、「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ・・」(Ⅰサムエル25:10)食べ物の提供を断りました。彼は、恩を仇で返すような非常に失礼な言動をダビデに向けて取ったのです。かれは、ダビデが、イスラエルの2代目の王となる事を知っていました。ダビデの名は「サウルは千人を殺し、ダビデ万人を殺した」と、歌われ、既に王となる為の油注ぎをサムエルから受けいていたことも知られていたのです。なのに彼はうそぶいて「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ・・」大変失礼なダビデを侮辱して食料提供を断ったのです。その為に、彼は神さまによって裁かれました。彼の名は「ナバル」です。彼についてナバルの妻が次のように語っています。
◆「Ⅰサム 25:25 ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です・・」。
礼儀に反する人、失礼な事をする人、人を侮辱する人を聖書は「愚かな者」、ナバルだと教えています。
⑦自分の利益を求めない
次にパウロは、愛は「自分の利益を求めない」と教えています。愛は無償の愛だと教えています。通常の社会での商売などで、店や会社の利益を求めるそうした商業を否定しているのではありません。それは、普段の生活の中で、お互いに助けあったりするボランティア活動では、自分が褒められたいとか、自分の名誉が高められるためと言う精神的利益や、自分の金銭的利益、物質的利益など、何らかの利益を求めて行う事は愛ではないとパウロは教えています。愛とは何の利益をも求めない「無償の愛」だとパウロは教えているのです。
パウロは、コリントの教会の人たちが、パウロを金銭的に批判していた事を知っていましたので、その邪推的批判の間違いを正すために、福音宣教者として金銭的褒章を受ける権利を捨てて、徹底して無償の愛で、伝道活動、宣教活動を行ったと証をしています。
「Ⅰコリ9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」 新共同訳では次のように訳されています。
◆「一コリ9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときに無償でそれを提供し、宣教者として私の権利を用いないということです。」
パウロは、自分が宣教者として当然教会から報酬を受け取る神からの権利があるが、その権利を捨てて、邪推による批判を正す為に、無償で福音を伝え、教会に仕えていると証をしました、そこに、パウロの「無償の愛」で出伝道活動した証があります。その為に、パウロは天幕づくりをして自分の生計を立てていたのです。
普段の個人的な生活で助け合いのボランティヤ活動では、金銭的報酬や人から褒められたいという自分の利益を考えない、無償の愛が求められています。寄付や献金行為も同じです。愛とは自分の利益を求めない「無償の愛」なのです。
⑧人のした悪を思わず
次のパウロは、愛は「人のした悪を思わない」と教えています。私たちは、人から色々ないけず、いじわる、邪推的批判、間違った批判、悪口、陰口など、色々な悪を体験します。愛はそうした悪を気に留めず、感謝してそのような悪は神さまに委ねて安んじておくことです。愛は、あの人はあんな事を私にした。この人はあの時にこんな事を私にした、と、いちいち思い出し数えて、他の人の行った悪を思い返して、自分の心を不愉快にし、ぐずるような暗い嫌みのある心を持たない事です。愛は、人の悪を思わない「サラッと」しているのです。サラッとした心で、そのような悪に対しては「善」をもって報いる事をいつも考えるのが愛です。、キリストが山上の垂訓で教えられ「敵を愛する愛」と十字架で示された「敵を愛する愛」です。又、パウロがロマ書12章で教えている「悪に対して善をもって報いる愛」です。キリストは罵られても気に留めず、「赦しを祈る」という善を持って対処し、裁きは全て父なる神に委ねていました。
◆「マタ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
◆「ロマ12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」
◆「Ⅰペテ 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
◆「ルカ23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
愛は、人のした悪を気に留めず、気にせず、感謝して赦して、善をもって報い、裁きは神さまに委ねて安んじるのです。それが愛です。
【終わりに】
今日は、愛を動機としないキリスト者の言動は空しいもの、何の役に立たないもの、神の栄光にならず人に躓きを与えるものだと学びました。キリストを信じる信仰に未信者の方々を導く為に、未信者が躓かないようにキリスト者は最大限の愛の配慮が必要です。その愛の配慮とは、①寛容である事、②親切である事、③妬まない事、④自慢しない事、⑤高慢にならない事、⑥礼儀に反する事はしない事、⑦自分の利益を求めない無償の愛に生きる事、⑧人のした悪を思わない事です。
以上の愛の配慮に満ちた生活は、神の栄光の為の生活であり、未信者の方々に躓きを与えないで、キリストを信じる信仰へと導く為の生活です。
キリスト者に残存している愛の配慮をしない古き人、古き自我は、2000年昔にキリスト共に既に十字架で死にました。同時に、古き人、古き自我は、キリストと共に甦って新しき人となり、キリストの如く愛の配慮に満ちて生きる者とキリストにあって既にされました。その霊的事実を聖霊によって諭して頂いた方はその霊的事実を認め続け、信仰を持って喜び安んじ続けましょう。その信仰に、聖霊が働き、愛の配慮を持って生きる人に実際にして下さるのです。その愛の配慮をもって生活を続けて行くために、日々、キリストの導きの御声に聞き従いましょう。
主と共に古き人は十字架で死に、主と共に甦って新しい愛の人にされているという「潔めの福音」を、まだ聖霊によって諭されていない人は、是非、主に「諭して下さい」と祈って下さい。主は必ず祈りに答え、聖霊によって、その「潔めの福音」を諭して下さるのです。
愛の配慮をもって生きない事は空しいもの、神の栄光の為に何の役にも立たないものだという、パウロの警告をしっかりと心に刻印しましょう。そして、愛の配慮をもって生きる事を妨げる古き人は、既に十字架で死んだものとして厳しく否定し、十字架に委ねましょう。又、同時、キリスト共に甦ってキリストの如く愛の配慮をもって生きる者とされている」と自信を持って告白しましょう。わたしは、「愛の配慮をもって生きる者とされている」といつも宣言し喜び感謝し安んじましょう。そ信じ切る信仰の宣言があなたを救い、実際に聖霊のお働きで愛に生きる人へと引き上げるのです。
「ロマ10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
