2024年7月14日礼拝メッセージ
「パウロのイスラエルへの愛⑪」
聖書:ロ-マ9章1節~5節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
パウロがイスラエルを愛して断腸の思いで彼らの救いを祈りも止める6番目の理由として「約束は彼らのものだから」だという事を、前回学びました。その約束の中で最も重要な約束は、メシヤの来臨の約束だと学びましたが、今回もその続きをご一緒に学びたいと思います。
1、メシヤの初臨の時はいつか
メシヤの来臨には、1回目の初臨と2回目の再臨がある事を旧約聖書が預言している事を前回学びました。その中で、初臨の時について旧約聖書はどのように預言しているのか、先週に続き詳しく学びたいと思います。 ①ヤコブの預言とエゼキエルの預言
メシヤ来臨の時を最初に預言したのはイスラエルの先祖ヤコブです。その事が次のように預言されています。 ◆「創49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」。 しかし、この新改訳の「ついにはシロが来て」という訳は正確ではありません。口語訳では「シロの来る時まで」と訳されています。NKJV(ニューキングジェイムスヴァージョン)でも “Until Shiloh comes”と訳されています。口語訳では創世記49章10節は次のように訳されています。「創49:10 つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」 杖というのは、指導的立場にある事を「象徴的」に表現している言葉です。「つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、」というのは、ユダ族から、指導的立場にある人が存在し続ける事を意味しています。しかし、それはシロと呼ばれる「メシヤが来るまで」だと教えています。メシヤである、ナザレのイエスが来臨され、十字架にかかられ、三日目にご復活をされたあと、AD70年にイスラエルはローマによって滅びた結果、ユダ族のイスラエルの指導者は無くなりましたので、「シロが来るまで」という、ユダ族の中から指導者が続くという預言は、キリストの初臨によって実現しました。メシヤの初臨は、イスラエルがローマによって滅ぼされるAD70年までに実現することを、ヤコブは預言していたのです。「AD70 年にエルサレムの神殿が破壊されたときに、イス ラエル民族の戸籍が失われ、 誰がユダ族かは不明となった。」と言われています。
メシヤの来臨の時を預言しているもう一人の預言者がいます。それはエゼキエルです。エゼキエル21章25節~27節にそれが預言されています。
◆「21:25悪に汚れたイスラエルの君主よ。あなたの日、最後の刑罰の時が来た。21:26 神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる。21:27 廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」 「かぶり物が脱がされる」というのは、祭司たちが被っているかぶり物が脱がされる事です。「冠が取りされる」というのは、王が被る王冠が取り去られる事です。王冠が取り去れるという預言は、南ユダ王国がBC586年に滅ぼされた時に成就し、それが今日まで続いています。現在のイスラエルは王政でなないので王冠を冠る人はいません。祭司のかぶり物が取り去られたのは、AD70年にローマによって滅ぼされ時に成就しました。今日まで、エルサレム神殿は無く、かぶり物を被って祭儀を行う祭司は誰もいません。そのような、状況がメシヤが来た時に起きるというエゼキエルの預言は、キリストの来臨以後に成就しましたので、「わたしが授ける権威を持つ者が来るまで」というメシヤの初臨はAD70年までに実現する事を教えている預言となっています。
②ダニエル書9章の70週の預言
ダニエル書9章には終末預言である「70週」の預言があります。その預言から、初臨のキリストがいつ受難されるのかが計算できます。計算の苦手な人にとっては少し、ややこしいですが忍耐して学んで頂きたいと思います。ダニエル書9章24節~27節迄をお読みしましょう。 ◆「ダニ9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。 9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」。
この70週の預言には、メシヤの受難の時と、反キリストによるイスラエル絶滅危機と救いが預言されています。
◆「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない」。 「油注がれた者」と呼ばれるメシヤの来臨は、エルサレムを再建せよという命令が出てから7週+62週で合計69週の後の間の事です。、聖書預言の原則で1日は1年と計算しますので、1週間の7日間は7年となります。その聖書的根拠は民数記14章34節とエゼキエル書4章6節です。そこに、神さまが1日を1年、或いは1年を1日と数えておられる事が教えられています。 ◆「民 14:34 おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。
◆「エゼ 4:6 あなたがこれらのことを終えたら、次に右脇を下にして身を横たえ、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは一年を一日としてあなたに課す。」
メシヤが来臨するのは「エルサレムを再建せよという命令が出てから69週の後ですので、1日を1年とする預言解釈では69×7で483年後という事になります。エルサレムを再建せよという命令は、4回ありますが、メシヤの誕生の時から数えれば、その4回の命令の内、どの命令かあてはまるのかが理解できます。2歳以下幼子の殺害したヘロデ王がBC4年に亡くなっていますので、メシヤの誕生はBC6年から4年の間だという事になります。現在の神学者の間で一致している見解はキリストの誕生はBC6年だと言われています。そのメシヤの誕生BC6年から、メシヤがいつ受難したのかが計算できます。キリストはおよそ33歳で亡くなっておられますので、キリストが十字架で死なれたのはおおよそAD27年と計算が出来ます。AD27年からダニエルの預言のエルサレム再建が命じれれたのが、いつごろかが計算できます。再建命令が出てから483年以降にメシヤの受難が預言されていますので、483年からAD27年を引けばB456年となります。4つの再建命令の中で、BC456年頃の再建命令があれば、それがダニエル9章で預言されている「エルサレム再建命令」の事だと理解が来ます。異邦人の王たちのエルサレム再建命令が4つは次の通りです。 ①BC458年のペルシャのアルタシャスタ王の命令(エズラ7:7~26)
この命令は、エズラ7:7によると、アルタシャスタ王が即位してから7年目に出されています。アルタシャスタ王が即位をしたのが、一般の歴史教科書ではBC456年となっています。それから7年後というのはBC458年となります。 ②BC538年又はBC537年はのペルシャのクロス王の命令(エズラ1:1~49、Ⅱ歴代36:22~23) この命令はエズラ記1:1によるとペルシャのクロス王が即位をした第1年に、ユダヤ人に向かって「エルサレム再建命令」を出しています。それは、ウイキペディアによると「BC537年」か「BC538年」とされている ③BC520年ペルシャのダリヨス王の命令(エズラ4:24/6:1~159)
エルサレム再建がペルシャのダリヨス王の治世第2年目迄中断されていたので、王は再建を再開を命令しました。ダリヨス王はBC522年に即位をしていますので、エルサレム再建の再開命令はBC520年に出された事が分かります。 ④BC436年にペルシャのアルタシャスタ王の再度の再建命令
この命令は、ネヘミヤ記2章によりますと、エルサレム再建についてネヘミヤの懇願をアルタシャスタ王が許可した事で出された命令でした。それは、アルタシャスタ王治世20年の出来事だとネヘミヤ記2章は記録しています。アルタシャスタ王の即位はBC456年ですので、それから20年を引くとBC436年となります。以上の4つの命令の中で、一般の歴史を信頼すると、ダニエル書9章24節から26節の啓示されているメシヤ受難の年AD27年から483年を引くとBC456年となると、先ほど計算しました。BC458年と2年のずれがあります。しかし、それは問題になりません。なぜなら、メシヤの受難は再建命令が出てから483年以降とされているからです。BC458年から483年を引くと、メシヤの受難はAD25年以降だと計算できます。キリストの誕生年BC6年から計算したメシヤの受難の年はAD27年ですので、ダニエルの預言するAD25年以降が成就した事が分かります。 以上の様に、創世記49章のヤコブの「シロが来るまで」の預言、エゼキエル書21章の「祭司のかぶり物が脱がされ、王の冠取り去れるまで」にメシヤが来るという預言、そしてダニエル書9章の70週の預言から、旧約聖書はメシヤの初臨が、AD70年までに実現する事を預言していた事が分かります。その初臨のメシヤは、イスラエルと人類の罪の赦しの為に大変貧しい中に、ひそかに出現し、受難の道を歩むメシヤだと預言されています。それが、ナザレのイエスだと、新約聖書の著者たちは教えています。では、ユダヤ人が初臨のキリストと再臨のキリストの区別が分からず、聖書が預言する再臨のキリストを初臨のキリストだと誤解していましたので、初臨のキリストを否定してしまう結果を招きました。では、再臨のキリストはどのようにお方として預言され約束されていたのでしょうか。 2、メシヤはイスラエルと世界の正義の王として再臨される 再臨のメシヤがイスラエルだけでなく世界の王ととして再臨されると、聖書で数多く預言されています。 ◆「創49:10ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」
この箇所では、再臨のキリストに世界の国々の民が従う事が預言されています。
◆「Ⅰ歴代17:11わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし 彼の王国を確立させる。」 この箇所では、ダビデの子孫からイスラエルの王が出現する事が預言されています。 ◆「詩2:6 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」 この箇所では父なる神が御子なる神を聖なる山シオンであるエルサレムに王としてお立てになる事が預言されています。 ◆「詩 24:7 門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。」
この箇所では、再臨のメシヤは反キリストの軍隊との戦いに勝利した「戦いに勇ましい王」として、エルサレムに入場される事が預言されています。 ◆「詩89:3 「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。89:4 わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」
この箇所は、ダビデに神が誓ったダビデ契約に従って、再臨のキリストがダビデの子孫としてイスラエルの王となるという事が預言されています ◆「イザ9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」 この箇所では、再臨のメシヤがダビデの王座に着く王としてイスラエルを治めることが預言されています。 ◆「イザ 11:3 この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、 11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。 11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」 この箇所では再臨のキリストが正義の王としてイスラエルと世界の王としてご支配される事が預言されています。 ◆「イザ 11:10 その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。」 この箇所では、エッサイの根である再臨のキリストが、世界の国々の希望の王となる事が預言されている ◆「ゼカ9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。 9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」 この箇所では、初臨において子ロバに乗られたキリストが、戦車軍馬をイスラエルから絶やし、世界の平和の王として、再臨される事が預言されています。
◆「エゼ 37:22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。」 この箇所では、再臨のキリストがイスラエルの王となり、その結果、イスラエルは二度と分裂する事が無いと預言されています。 以上の様に、旧約聖書は再臨のキリストが、愛と正義をもって治める平和の王としてイスラエルと世界治めることが預言されています。次に、王の王である再臨のキリストのお住いについての預言を学びます。 3、再臨のキリストのお住い(主の永遠の玉座) 詩篇2篇に父なる神が聖なる山シオンに御自身の御子を王として立てると約束れた通りに、再臨のキリストの住まいは、メシヤ的王国のエルサレム神殿の至聖所だと旧約聖書は預言しています。
◆「イザ2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。 2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。 2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。 2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。 2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも【主】の光に歩もう。」 この箇所は、メシヤ的王国では、主の家と呼ばれる、再臨のキリストがお住いになるエルサレム神殿が世界で一番高い山に建てられることと、そこに世界中から巡礼者が再臨のキリストである主を求めてくることが預言されています。キリストの教えを学んだ巡礼者たちは、主から学んだ平和を実践し、世界は二度と戦争をしない事が預言されています。 ◆「エゼ 43:1 彼は私を東向きの門に連れて行った。 43:2 すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。 43:3 私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。それで、私はひれ伏した。 43:4 【主】の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た。 43:5 霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、【主】の栄光は神殿に満ちていた。 43:6 ある人が私のそばに立っているとき、私は、神殿からだれかが私に語りかけておられるのを聞いた。 43:7 その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。」 この箇所は、メシヤ的王国に建てられたエルサレム神殿の至聖所に、再臨のキリストがシャカイナグロリーの栄光と共に東の門から入られ、そこをご自分の住まいとされると預言されています。以上の様に、再臨のキリストは、イスラエルと世界の平和の王として再臨され、世界で一番高い山となった場所に建つエルサレム神殿の至聖所を住まいとして、そこから王としてイスラエルと世界を治められるのです。それが、再臨のキリストです。エゼキエル43章でも、再臨のメシヤである主のお住いが、至聖所だと教えられている。
◆「43:5 霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、【主】の栄光は神殿に満ちていた。43:6 ある人が私 のそばに立っているとき、私は、神殿からだれかが私に語りかけておられるのを聞いた。43:7 その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。」
4,白い雲に乗って再臨されるキリスト
では、その再臨のキリストはどのようにして地上に再臨されるのでしょうか。それはダニエルが預言している通りに雲に乗って再臨されるのです。キリストはそのダニエルの預言を引用して、イスラエルの指導者たちに、雲に乗って来臨するメシヤはご自分だと宣言されました。その宣言を聞いた、指導者たちは、メシヤを名乗る初臨のキリストに怒りまくりました。次にようにマタイは教えています。
◆「マタ26:64 イエスは彼に言われた。『あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。』」26:65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです」 再臨のキリストが白い雲に乗って来臨される事は、旧約聖書ではダニエル書7:13の「 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。」だけですが、新約聖書では何度か教えられています。
◆「マル 13:26 そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます」(ルカ21:27)この箇所は、初臨のキリストが終末について預言された時に教えられた預言です。 ◆「使 1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目にはなくなった。 1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
この箇所は初臨のキリストが復活して天に昇られた時に、雲に包まれて昇って行かれたように、再臨のキリストが雲に包まれて来臨される事を、御使いたちが弟子達に預言しました。
◆「黙 1:7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」
この黙示録ではキリストが全ての人たちに見られる形で、白い雲と共に再臨される事が預言されています。また、その時に、初臨のキリストを槍で突き刺した罪をユダヤ人達が胸を叩いて深く悔い改めて悲しむことが預言されています。 5,初臨のキリストが地上に再臨される時
以上の様に、再臨のキリストが白い雲に乗って来臨されますが、では、いつそのように来臨されるのでしょうか。現段階では、その時は誰も分かりません。しかし、預言者たちが神の怒りの日として預言する「主の日」と呼ばれる7年の大艱難時代が到来すれば、その大艱難時代の最後7年目にキリストは再臨される事が分かります。パウロはロマ11章でユダヤ人はみな救われると預言しています。ユダヤ人がみな救われるというパウロの預言は、ユダヤ人が民族として全員でキリストを信じて罪が赦され、永遠の命が与えられ、神の聖なる性質に与り、聖霊を心に宿し、み言葉が心に刻印され、神の子として新生の恵みに与り、二度と神に背く事が無い国家的回心を意味しているのです。それは、ゼカリヤ書12章、13章において預言されている通り、終末の生き残った3分の1のユダヤ人の回心を意味しているのです。ゼカリヤの預言によれば。ユダヤ人は反キリストの世界連合軍の軍隊に追い詰められ、3分の2が虐殺され、3分の1が生き残ります。その生き残った3分の1の全てのユダヤ人が回心の恵みに与るのです。 ◆「13:8 全地はこうなる。──【主】の御告げ──その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。 13:9 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「【主】は私の神」と言う。」イスラエルが反キリストの軍隊に追い詰められ、絶滅の危機に瀕した時に、神の恵みと哀願の霊がユダヤ人に注がれ、生き残った3分の1のユダヤ人全員が心を合わせて悔い改め、初臨の十字架にかかり三日目に甦られたキリストに向かって、「主の名によって来られるお方に祝福がありますように」と叫ぶのです。その叫びに応じてキリストは再臨されます。それがマタイ23章39節で預言されています。 ◆「マタ23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません」。 【終わりに/とりなしの力】 パウロは、イスラエルの為に再臨して「ダビデ王国」という、平和なメシヤ的王国を実現して下さる約束のメシヤが、自分たちが十字架にかけて殺した初臨のメシヤ、ナザレのイエス・キリストだと気付いていない多くのユダヤ人、ナザレのイエスが再臨のメシヤとして、その「メシヤ的王国」を実現されると聖書が繰り返し預言されている事に気が付かず、今なお、メシヤの来臨を待ち望んでいるユダヤ人、その間違ったユダヤ人の信仰に、パウロは心を痛め、悲しく思い、断腸の思いで、彼らの救いを祈りました。ロマ10章1節でも、次のように叫んでいます。「10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです」と。 十字架にかかり三日目にご復活をされたお方が、旧約聖書が預言しているメシヤだと、イスラエルの多くの人が心の目が今も閉ざされたままです。それはユダヤ人だけの問題ではありません。多くの異邦人の心の目も閉ざされ、十字架のキリストをメシヤだと信じる事ができません。初臨のメシヤを、自分の救い主だと信じる信仰は、罪に堕落したイスラエルも異邦人も自分の力で持つ事はできません。神さまの恵みにより、聖霊の働きがあって初めて信じる事が可能となるのです。その神の恵みと聖霊の働きは、パウロの様に、切に祈り求めるとりなしにあるのです。私達が、キリストを自分の救い主だと信じて、永遠の罪の赦しと心に永遠の命と神の聖なる性質に与って、神の子として新しい人として新生の恵みに与ったのは、誰かが切に祈ってくださった方がいたからです。その人が誰であったかは、時が来れば神さまが教えて下さるでしょう。パウロに倣ってイスラエルの人達と家族友人知人の救いの為に、あきらめずに祈りを続けましょう。聖書が預言している、ユダヤ人の為に約束された「キリスト(メシヤ)」は、異邦人の為にも約束されていた「キリスト(メシヤ)」なのです。あなたが、十字架にかかり三日目にご復活をされたお方が、あなたの救い主だと、聖霊によって心の目が開かれ、信仰に導かれますようにお祈りしています。