岡山英雄牧師著「小羊の王国」の問題点8      
麦と毒麦のたとえ話について④
2024 年 11 月 27 日
牧師:佐 藤 勝 徳  

 

 

【はじめに】
前回は、岡山牧師がマタイ 13 章の麦と毒麦のたとえ話と、からし種のたとえ話と、パン種のたとえ話は、成長する「神の国」(小羊の王国)だと解釈している問題点を検証しました。。今回は、前回の続きで最初に岡山牧師が論じる「神の国の勝利」を検証し、次に同じ三つのたとえ話から論じている「獣の国の拡大と教会(神の民)の勝利」を検証します。

神の国の勝利
 岡山牧師は「神の国の勝利」というテーマで、終末論的な「神の国」がすでに来ており、現在において既に神の国が勝利していると、その理由を 3 つ挙げています。①キリストの初臨とその生涯。 ②キリストの十字架の死と復活の救いの御業。③ペンテコステの聖霊降臨。以上の 3 つの理由により、終末論は未来を論じる事でありながら、同時に神の国(黙示録21章の神の国)がすでに来ているという現在的側面を語るものだと論じています。「キリスト教の終末論はいわゆる『未来論』ではない。なぜなならキリストの初臨によって終わりの時代は始まり、神の国はすでに来ているからである」 (同 P41)

岡山牧師が終末論的神の国がすでに来ているとするその理由の検証≫
1、キリストの初臨とその生涯
岡山牧師が論じるように、キリストは間違いなく「終わりの時」に来臨され、世界は終わりの時代を迎え、終わりの時代のただ中にあります。岡山牧師が掲げるいくつかの聖句がそれを証明しています。また、キリストはそのご生涯で「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ 12:28)と言われました。又、「サタンが、いなづまのように天から落ちるのを見ました」(ルカ 10:28)とも言われましたので、既に悪の力は打ち破られ「神の国」は勝利したと言えます。しかし、神による悪魔への最終的な完全勝利は、未来に起きますので、現在の勝利は未来の完全勝利の先取りとしての勝利だと言えます。 ここで問題なのは、キリストが言われた「神の国」がどのような概念で言われたのかです。岡山牧師はそれを黙示録の新天新地だと解釈して論じている事は間違いありません。「世界の改革」」の項で次のように論じています。「キリストの初臨によって、既に終末的な『神の国』は来ている。・・教会は『この世』を変革し続け、やがて来臨の日にキリストがそのわざを完成する。来臨の火によってきよめられた『この世』は『「来るべき世』、新天新地へと移し入れられていく」。  (同 P41~42)

これまでのレポートですでに指摘していますが旧約時代においても福音書時代においても、黙示録の新天新地の「神の国」については一切啓示されていません。では、キリストがユダヤ人に向かって教えられた「もう神の国は来ている」の「神の国」は何を意味しているのでしょうか。それは、神がイスラエルと交わされた「アブラハム契約」等 4 つの無条件契約の成就として実現するイスラエルの復興したダビデ王国(メシヤ的王国)」を意味している事は間違いありません。岡山牧師の「神の国論」ではそれが欠落しているのです。

キリストが地上のご生涯の時に、天から落ちた「サタン」を見たことによって、天の父からのサタンに対するご自身の勝利を確信されました。しかし、キリストが見た「天から落ちたサタン」は、やがて黙示録 12章で啓示される天使長ミカエルと天の軍勢との戦いで敗れ、地に落とされたサタンの事を意味していたのです。パウロが教えるようにサタンは現在、まだ空中という第 1 の天に存在していますので、以上のように解釈する事ができます。 聖書には将来に起きる出来ごとの絶対性として「預言的過去形」がしばしば使用されています。
◆「黙 12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」
◆「エペ 2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
現在、サタンは第 1 の天に存在して、そこから世界に向かって悪の活動を行っていますので、そのサタンとの戦いに教会は間違いなく召されています。パウロが以下のように教えています。
◆「エペ 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、 6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。 6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 6:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」
2、キリストの十字架の死と復活と昇天
第2番目の理由として、キリストの十字架の死と復活と昇天が取り上げられています(同 P39~40)。それによって、キリストはサタンに勝利し、ご自身を信じる者に、罪の赦しと古い人の十字架の死と復活と昇天の恵みをもたらされました。岡山牧師の論じる通りです。キリスト者はキリストにあって「共に死に、共に甦り、共に天の父なる神の右に座する者とされた」とパウロは過去形で教えています。以下の通りです。しかし、この勝利も神の完全な勝利の先取りとしての勝利です。
◆「エペ 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです── 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
岡山牧師の問題は、キリスト者が以上の霊的救いに与っている事実を、黙示録が啓示する新天新地の「新しさ」にすでに与っていると解釈している事です。キリストにあって預かっているキリスト者の霊的救いは、あくまでも「霊的新しさ」ですが、黙示録の新天新地の新しさは「霊的新しさ」だけでなく、先の天と地と過ぎ去り、海も太陽も月もない、物質的に全く新しい世界の到来が強調されています。それ故に、霊的新しさに与っている事を理由に新天新地の新しさに与っているという事は出来ないのです。ではなぜ、岡山牧師はそのように論じているのでしょうか。それは、新天新地の到来を来たらせるのは、キリストにあって既に新しくされたキリスト者の共同体である「教会」が、その勝利の事実に立ってサタンとの闘いに勝利するんだという、ご自身の神学的見解を強調するためなのです。もちろん、それにプラス、キリストの地上再臨が必要な事も強調しています。次の通りです。「神の国の勝利は、すでにキリストの十字架の死と復活によっている。‥それゆえ教会は「この世」において神の義を実現し、政治、経済を含む社会のあらゆる活動に積極的に参与し、社会そのものを変革していく。神は人に「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這う全ての生き物を支配せよ」(創世記1: 28)と命じられた。人は神から託された世界の管理と統治の使命を果たしていく。たとえ「神の国」の完全な現れは、未来のキリストの来臨を待たねばならないとしても、「教会を通してすでに実現されつつある「神の国」は、聖霊によって来臨の日まで力強く前進続けていく」(同 P42)。
地上の教会の問題点とこの世≫
以上のように、岡山牧師は黙示録の新天新地という「神の国」は、教会の戦いによってこの地上にすでに始まっている事を教えていますが、それは、新天新地の神の国の概念と地上の神の国の概念の明確な違いを見落としている事によるものです。新天新地の神の国においては、完全な従順と御心の完全な実行があります。しかし、教会は霊的新生という勝利に与っていても、この世において神に対して完全な従順を実現していません。教会のこれまでの長い歴史の中で、どれだけ多くの罪を犯してきたことでしょうか。教会初期において「反ユダヤ主義に」に基づき、多くの教父たちによって構築された置換神学の為に、教会はどれだけ多くのユダヤ人を呪い迫害してきたことでしょうか。また、その他、西欧諸国による南米の先住民、北米の先住民、アフリカ諸国やアジア諸国などの植民地化においてキリスト教会がどれほど多くの罪を犯してきたことでしょうか。教会のそれらの深い罪は計り知れません。それらの問題は現在も続いています。その他、米国教会の黒人差別、日本の教会の被差別部落への差別など、身近においても多くの人権問題を教会は抱えています。また、黙示録の新天新地は、この世の神の国の連続性として実現するものでもないのです。「来臨の火によってきよめられた『この世』」は『来るべき世』、新天新地へと移しいれられて行く」(同 P43)という主張は、明らかに間違がっています。この世は、罪に堕落した世であり、キリストの来臨の火によっても決して罪がない状態にきよめられません。黙示録はキリストの来臨の火によって罪に堕落したこの世がきよめら「新天新地の神の国」になることを教えていません。(来臨の火とは、キリストの裁きを象徴的に表現したものと思われます)。又、キリストの来臨までに、この世が教会によって改善されていく事をも一切聖書は教えていません。それどころか、反キリストの出現により、この世はますます悪が増大し、不法がはびこり、偶像崇拝が盛んになっていきます。反ユダヤ主義というイスラエルを呪う罪も拡大していきます。キリスト来臨の直前の世界は手の付けられない悪の世界となってしまいますので、それ故に、聖書は神の怒りの日である 7 年の「主の日」がやってくる事を預言者達によって繰り返し教えてきました。「主の日」には、人類のそれまでの歴史で1 度も起きた事がない体験した来た事が無い恐ろしい様々な災いによってこの世界が徹底して神によって裁かれる事が教えられています。黙示録には7 年の大患難時代において、教会が世界を良き世界に改革していく様子は一切教えられていません。聖書は、神が教会にそのような使命を与えている事を教えていないのです。
イザヤはその「主の日」の到来により、神の怒りにより「地は荒らされ」「罪びと」が根絶やしにされる事を預言しています。
◆「イザ 13:6 泣きわめけ。【主】の日は近い。全能者から破壊が来る。 13:7 それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。 13:8 彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。 13:9 見よ。【主】の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。」
 3、岡山牧師の預言解釈の問題
岡山牧師は、黙示録の新天新地をこの世界の連続性として解釈され、その新天新地はこの世界がきよめられ、エデンの園のように回復した神の国だと解釈されています。その解釈の為に、ペテロがこの世界と宇宙とその万象が轟音と共に火によって全て消え去るという預言を一切取り上げられていません(Ⅱペテロ 3:10)。又、黙示録の「21:1b 以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」も取り上げません。聖書は黙示録の新天新地を、この世の連続性としてやがて来る 「神の国」だとは教えていないのです。この世の連続性の中でこの世界がエデンの園のようになる「神の国」は、イスラエルの回復したダビデ王国を中心にした「メシヤ的王国」の世界だと聖書は教えています。預言者エゼキエルが以下のように預言しています。
◆「エゼ 36:35 このとき、人々はこう言うだろう。『あの荒れ果てていた地はエデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、破壊されていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』・・。」
岡山牧師はイスラエルの回復したダビデ王国を中心にした「メシヤ的王国の世界」を否定してしまった結果、旧約聖書の「メシヤ的王国」の預言を象徴的に解釈し、黙示録の「新天新地」の神の国に適用するという重大なミスを犯しているのです。岡山牧師は次のように論じて、メシヤ的王国(千年王国)に関する旧約の預言を新天新地の預言と解釈しています。
 「千年王国(20 章)より重要なのは新天新地(21 章)である。旧約預言の多くは千年王国と新天新地の双方に関わっており、それらを千年王国のみ限定することはできない。例えば千年期の描写としてしばしば引用されるイザヤ 65:19~ 25 にしても、これは 17 節で明らかなように新天新地の預言であり歴史の完成した世界を象徴的に描いているのであって、それを千年王国のみ限定することはできない」(P220~221)。
以上の見解が、旧約聖書が預言する終末に関して間違った解釈を施すようになった根本的理由の一つになっています。預言者たちは、イスラエルに与えられた「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」の四つの無条件契約の成就としての「メシヤ的王国」を預言したのであってそれ以外ではないのです。その事を最もよく分かるように教えているのが「エゼキエル書」です。エゼキエル 40 章~ 48 章では、メシヤ的王国の「エルサレムの神殿領域と詳細な面積」、「エルサレム神殿の詳細な寸法」、「至聖所の主の玉座」、「神殿の右の敷居からから湧き出る泉」、「神殿から湧き出るの泉が深い川になる」、「その川が流れ行く死海が生き物で満ち漁場が出来る」、又、メシヤ的王国の「新たな律法と詳細な祭儀規定」、「祭壇の詳細な寸法」、「詳細な献納地の寸法」、「聖所とエルサレムの位置」、「復活し君主となったダビデに割り当てられる地と詳細な寸法」、「イスラエルの12部族の割り当て地とその地の境界線」、「主はここにおられると呼ばれるエルサレムの町」等々が啓示されています。エゼキエル書40章~48章の啓示によって、神が明らかにイスラエルの為にメシヤ的王国の実現をご計画されている事が分かります。どれをとっても黙示録の新天新地を象徴的に思わせるものは何 1 つないのです。黙示録の天から下って来たエルサレムとエゼキエル書のエルサレムの大きさやその描写は全く異なります。

黙示録の天から降って来る「エルサレム」は、12,000 スタジオン(2,220 ㎞)の正方形で、純金でできている都です。 それに対してエゼキエル書で啓示されている、メシヤ的王国のエルサレムの町は、大きさが幅 5 千キュビト約(2,6 ㎞)、長さ 2 万 5 千キュビト(約 13 ㎞)。北の方 4 千 5 百キュビト(約 2,4 ㎞)、南の方 4 千 5 百キュビト、東の方 4 千 5 百キュビト、西の方 4 千 5 百キュビ)です。黙示録のエルサレムとエゼキエル書のエルサレムは、大きさも形もその他も全く異なるものです。又、黙示録の録の新天新地のエルサレムにはエゼキエル書が教えるような神殿はありません。当然祭儀や祭具もありません。祭壇もありません。エゼキエル書は死海の存在と地中海の存在を明確に教えています。ゼカリヤ書は14章8節で補足するかのようにエゼキエル書が教える川が地中海に流れていく事を教えています。しかし、黙示録の新天新地には「海」がないのです。
◆「ゼカ 14:8 その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海にかい、夏にも冬にも、それは流れる。」
以上のことから、イザヤ書 65 章 17 節の新天新地と黙示録21章の新天新地は、同じ新天新地の用語を使っていますが、全く異なる意味で使われている事が分かります。前回のレポートで論じましたが、家の建築に例えれば(へブル 3:4 では神の万物の創造を家の建築に例えている)イザヤ書の新天新地の創造は家の改修(リフォーム)に当たり、黙示録の新天新地は新築に当たるのです。
 エゼキエル書 40 章から 48 章の多くの啓示は、図解でイメージし説明出来るほどメシヤ的王国のエルサレム神殿などが詳細に啓示されています。それを知れば、旧約聖書が啓示している「メシヤ的王国」を黙示録の新天新地を象徴的に教えているという岡山牧師の見解の間違いに誰もが気が付く事でしょう。少し長いですが以下の図解入り解釈をぜひ読んで頂きたいと思います。
4、エゼキエル書40 章 41 章の図解入り解釈
①40 章の解釈

メシヤ的王国のエルサレム神殿の詳細≫
◆40 章 1 節
エゼキエルが捕囚となって 25 年目、イスラエルの町が占領されてから 14年目に見たエゼキエルのメシヤ的王国のイスラエルの幻
◆40 章 2 節 
1)イスラエルの非常に高い山
この山がメシヤ的千年王国の山であることは、預言者イザヤがメシヤ的千年王国の山は世界で一番高い山となる事を預言している事から分かります。(参照/イザヤ 2:2)
2)イスラエルの山は樹高の大変高い杉が主によって植えられ、あらゆる種類の鳥たちが生息するようになる。(参照/ エゼ 17:22-24) 3)イスラエルの山はイスラエルと世界の礼拝の場所となる。(参照イザヤ 2:2-3 17:13  56:7、66:20、ミカ 4:1-2 )
4)南方の町:メシヤ的千年王国のエルサレムである 。「聖なる奉納地  に沿っ て、幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトを町の所有とし、 これをイスラエ ルの全家のものとする。」(参照/45:6)
◆40 章 3 節
門に立っている幻の案内者:姿は青銅で出来ているようであったとありますから、まるでロボットのようである。 彼の手には麻の紐と測量用の竿を持っていました。
◆40 章 4 節
エゼキエルが見たり聞いたりした幻は、イスラエルの民に知らせる事が義務付けられている。


◆40 章 5 節 
神殿の外壁が示されている。②外壁の寸法:外壁の厚さ高さ共に一さお(一さお 6×52=312 ㎝)。
※一さおの長さ:六キュビト(ロングキュビトは約 52 ㎝)
※ ロングキュビト:普通のキュビトに一手幅を足す。
※普通キュビトの長さ:約 44,5 ㎝ 一手幅約 7,5 ㎝。
◆40 章 6 節
外庭の東門には七段の階段がある。②東門の敷居の幅:一さお(約 3,12m)③もう一つの門は北門か南門かどちらか
◆40 章 7 節~12 節
①控え室:控室の役割は啓示されていませんが、「門番が立つ場所だろう」と解釈されています。
②控室の寸法:幅長さ共に一さお(約 3,12m)。高さはこの個所では啓示されていませんが別の個所で門の壁柱の高さは60 キュビト(約 31,2m)とされていますので、その高さに匹敵しますので、高さは約 31,2m になります。(参照:40:12)
③控室の間隔:5キュビト(約2,6m)。
④控室の数:両サイド3つずつ、合計6カ所。
⑤玄関の間:8キュビト(約4,16m)。
⑥門の幅:10キュビト(約5,2m)。⑦門の内のりの幅:13キュビト(約6,8m)。⑧窓:控室の回りに縦に長い窓があります。
◆40 章 13 節                  
控え室の玄関の間の長さ:(3×6 キュビト)+(5×2 キュビト)=28 キュビト(約 14,5m)。

 

 

 

 

 

◆40 章 14 節
門を巡る壁柱の高さ:60 キュビト(約 31.2m)  下記の絵図のように壁柱は外庭に面して東門、北門、南門の周囲を巡っている。下記の絵図では壁柱に屋根がついていますが、他のイメージ絵図ではその屋根が描かれていない。

 

 

 

 

 

◆40 章 15 節 16 節①入口門の前から内側門の玄関の間の前での長さ:50 キュビト(約 26m)。幅 25 キュビト(13m 参照/40:25)

②門の内側:なつめやしの木が彫刻されている。                        
③格子窓:控室・壁柱・玄関の間に取り付ける。
◆40 章 17 節~19 節                                                           
①外庭の外壁に沿って敷かれた石畳みの上に、南北 合わせて 30 の部屋が設置。以下の模型図でイメージして下さい。
②石畳み:長さが門の長さと同じ 50 キュビト(約 26m)。「下の石畳み」と呼ばれている(参照:40:18 )。
◆40 章 20 節~25 節 
①北門南門:彫刻、窓、壁柱等の造りは東門と同じ。
②門の大きさ:長さ 50 キュビト。幅 25 キュビト
③門の階段:7 段。

 

 

 

 

 

◆40 章 27 節 28 節
1の内庭南門と2の外庭南門の距離 100 キュビト(約 52m )
◆40 章 29 節~37 節  
 内庭の南門、東門、北門:控室、壁柱、玄関の間の寸法や窓や階段の数 8 は皆同じ。
◆40 章 38 節 39 節
①北門の傍にある部屋:祭司達が生贄を濯ぎ清める部屋。
②北門の玄関の間の四つの台:祭司たちが生贄を屠る台
◆40 章 40 節~43 節 
内庭に面した北門に設置されている8つの台:祭司たち生贄を屠る台 
◆40 章 44 節~46 節
①内庭の二つの部屋:北門脇の部屋(祭壇の務めをする祭司たちの部屋)。南門の脇の部屋(宮の務めをする祭司たちの部屋)。
②祭司:ツァドクの子孫に限られている。昔、ツァドクの子孫のみが祭司として神様に忠実であった報いとして、メシヤ的千年王国においてはツァドクの子孫のみが祭司として務める事が許されている。(参照:エゼキエル 48:11)。
③前庭の大きさ:100キュビト(約52m正方)。④祭壇:神殿の前にある。
◆40 章 48 節 49 節 
①神殿本殿の玄関の間の両側の壁柱の寸法:5 キュビト約2,6m)。
②神殿の門の幅の寸法:14 キュビト(約 7,24m)。       
③神殿の門の両脇の壁の寸法:3 キュビト(約 1,56m)。                                              
④玄関の間の間口の寸法:20 キュビト(10,4m)。                               
⑤玄関の間の奥行きの寸法:12 キュビト(約 6,24m)      
⑥本殿には階段を上っていく                                    
⑦玄関の間には両側の壁柱のそばに円柱が設置。      
                        
②【41 章の解釈】
本殿と至聖所≫
◆41 章 1 節~11 節 
①本堂入口:両側の壁柱の幅寸法 6 キュビト(3,12m)。  入口の幅寸法 10 キュビト(約 5,2m)、入口両脇の壁柱の寸法 5 キュビト(約 2,6m),
②本堂の大きさ:長さ 40 キュビト(20,8m)、幅 20 キュビト(約 10,4m)。
③本堂内部の入り口:壁柱の寸法 2 キュビト(1,4m)、入口の寸法 6 キュビト(約 3,12m)、入口両脇の壁 7 キュビト(約 3,64m)
④至聖所の寸法:長さ幅共に 20 キュビト(約 10,4m)。
⑤脇間:三段式、階段らせん状、入口は中央、幅 4 キュビト(約 2m)、土台の寸法 6 キュビト(約 3,12m)。外側の壁の厚さ 5 キュビト(約 2,6m)。各段に脇間が 30 ある。
⑥部屋との間の空き地の寸法:20 キュビト(約 10,4m)
◆41 章 12 節~15 節 
本殿西側(裏)の建物:寸法奥行(幅)70 キュビト(約 36,4m) 長さ 100 キュビト(約 52m)
◆41 章 16 節~26 節
①本殿内側、庭の玄関の間、門口、格子窓、3 段回廊:床から窓まで全て羽目板張り巡らされている。      
※この部分はイメージが出来ない。
②窓:覆いがかかっている。

③彫刻:神殿の内側外側の全ての壁にケルブ、そしてケルブの間になつめヤシの木が彫刻。ケルブには人の顔と獅子の顔があり、それぞれなつめヤシに向いていた。
④至聖所の前の木の机:寸法高さ 3 キュビト(約約 1,6m)、長さ 2 キュビト(約約 1m)。
⑤至聖所入口の両サイドの扉:二つに折りたたむ扉。扉には壁と同じようにケルブとなつめヤシの木が彫刻。
⑥本殿入口の玄関の間の前には木のひさしが設置。
⑦本殿玄関の間の壁に格子窓となつめヤシの木がある。
40 章 41 章は、メシヤ的千年王国のエルサレム神殿の各部が詳細に描かれており、図解でイメージする事によってより理解いただけたのではないかと思います。以上のよう詳細な記述は、エゼキエルが示されたメシヤ的王国関する啓示を象徴的に解釈してはいけない事を明確にしています。続いて 42 章~48 章を図解入りで解釈いたします。
5、エゼキエル書 42 章から 48 章の図解入り解釈
聖域に面して いる祭司たちの部屋≫
◆42 章 1 節~12 節
①聖域に面している北の部屋:寸法は長さ 100 キュビト(約 52m) 幅 50 キュビト(約 16m)。
②3階建ての回廊:場所は20キュビトの内庭に面し、外庭の石だたみに面している。寸法は長さ100キュビト(約52m)。
③部屋の前の通路:寸法幅 10 キュビト(5,2m)長さ 100 キュビト(約 52m)。
④入口:北向きにある。
⑤部屋の幅:2 階と 3 階にはそれぞれ幅 10 キュビトの通路があるので、だんだんと狭くなっている。1 階の部屋の幅 50 キュビト(26 メートル)、2 階のへの幅は 40 キュビト(約 20,8m)、3 階の部屋の幅は 30 キュビト(約 15,6m)となる。
⑥出入り口:東側にある。⑦神殿の南側にも北側にあった部屋と同じ部屋がある。
◆42 章 13 節~14 節聖域の面している祭司たちの部屋の役割≫
①聖域に面している南北の部屋の役割:祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所。穀物のささげ物、罪の為のいけにえ、罪過の為のいけにえを保管する部屋。
②祭司の戒律:祭司たちは聖所に入ったなら、外庭に出てはいけない。務めの聖なる服を脱ぎ、他の北を着替えてから民の所に近づける。

 

 

 

 

 

 

◆42 章 15 節~20 節
神殿領域周囲の寸法≫
神殿の周囲寸法:東西南北各500さお(約1560m)
◆43 章 1 節~4 節
主のシャカイナグローリー≫
①神のシャカイナグローリー:東の方から、大水のような轟を響かせて顕れ、地はシャカイナグローリーの栄光で輝く。
②エゼキエルは過去に同じような幻を 2 回見ている。一度はエルサレムの町が滅びる時、二度目は捕囚の地のバビロンにあるケバル川のほとり。
③エゼキエルは、その栄光の輝くシャカイナグローリーに臨在される神の御前にひれ伏した。
④シャカイナグローリーが東門(外庭の門だと思われます)より神殿に入っていった。
◆43章5 節~7 節
主の永遠の玉座≫
①エゼキエルは霊によって引き上げられ内庭に連れて行かれた。
②神殿がシャカイナグローリーの栄光で満ちていた。
③ある方がエゼキエルに語りかけた。ある方は神(メシヤ)であった。
④ある方のメッセージ:メシヤ的千年王国のエルサレム神殿にメシヤの玉座があり、永遠の住居とする事と、イスラエルが二度と神の聖なる名を汚さない事が約束される。
◆43 章 8 節~11 節
エゼキエル時代のイスラエルが罪を恥じるためにメシヤ的王国の神殿の幻が示される≫
①エゼキエルの時代のイスラエルの罪と神の裁き:聖なる名を汚したので、絶ち滅ぼされたイスラエル。これはバビロンによって滅ぼされた事を意味していると思われる。
②しかし、神は永遠にイスラエルの中に住むことを計画されている。その為に、淫行や王たちの死体を神様から遠く取り除くことが必要。③イスラエルが自分たちの罪を恥じるために、エゼキエルに示されたメシヤ的王国の神殿を示し、その模型を測らせるように命じられる神。
④イスラエルが自分たちの罪を恥じるなら、イスラエルに神殿を造らせるために、神殿の全ての構造と全ての定め、及びすべての律法をイスラエルに示し、イスラエルの前で書き記すようにエゼキセルに命令される神。
◆43章12節~17節
≪メシヤ的王国のエルサレム神殿の祭壇≫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆43章18 節~27 節
祭壇をきよめる祭儀≫
※祭壇を立てる日(祭壇を使い始める)ための祭儀が詳細に規定されている。
1)祭儀の務めをするのはレビ人の中のツァドクの子孫
2)祭司は罪の為の生贄の若い雄牛の血を祭壇の角と台座の四隅と周りの溝につけて、祭壇をきよめ贖う。                  
3)1日目の罪の為の生贄:雄牛を聖所外の宮の定められた場所で焼く事
4)2日目の罪の為の生贄:雄牛で祭壇をきよめたように、傷のない雄山羊の血できよめる。
5)雄山羊で祭壇をきよめた後に傷のない若い雄牛と群れの中の傷のない雄羊をささげる。
6)以上犠牲の動物に祭司たちが塩をまいて、全焼の生贄として主に捧げる事。
7)7 日間行う祭儀:罪の為の生贄として雄山羊と傷のない若い雄牛と群れの中より傷のない雄羊をささげる事。
8)祭壇の贖いは 7 日間行う。
9)   8日目の祭儀:祭壇の上に全焼の生贄と和解の生贄をささげる事。
10) 8日間にわたる以上の祭儀を忠実に行えば、イスラエルは主から受け入れられる事が約束されている。

◆44 章 1 節~3 節
≪閉門される東の門と君主の役割 ≫
①閉じられていた東の門:千年間門は閉じられる。主がその門をから入られた事がその理由です。
②イスラエルの君主(復活したダビデ)だけが主の前でパンを食べる事が出来る。
③君主は門の玄関の間を出入りに使う。
◆44 章 4 節~14 節
≪神殿に満ちる主のシャカイナグロリーとイスラエルの罪の糾弾≫
(主に不忠実なであったレビ人はメシヤ的王国では祭司なれず雑務を行う)
①案内人がエゼキエルを北の門から神殿の前に連れて行く。
②エゼキエルは神殿に主のシャカイナグローリーの栄光が満ちている事を見、ひれ伏す。
③ひれ伏しているエゼキエルに主が、メシヤ的王国の宮の全ての定めと全ての律法と、宮に入れる者と聖所に入れない全ての者を心に留める事を命じられる。
④エゼキエルの時代のイスラエルの罪とレビ人の罪が主によって厳しく糾弾されている
⑤メシヤ的王国におけるレビ人の務め:主に対する昔の罪の故に、1)祭司にはなれない 2)宮の奉仕の雑務に仕える
◆44 章 15 節~31 節
≪主の忠実であった祭司ツァドクの子孫のみが、メシヤ的王国で祭司の務めをする事が出来る≫
(彼らの守るべき戒め)
①レビとの中で昔、神様に忠実に仕えたツァドクの子孫のみが祭司と仕える事が許される。
②祭司として仕えるツァドクの子孫に対する定め。
服飾規定
1)内庭の門に入るときには、亜麻布の服を着る。
2)内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織り物を身に着けてはならない。
3)頭には亜麻布のかぶり物をかぶり、腰には亜麻布のももひきをはかなければならない。
4)汗の出るような物を身に着けてはならない。
5)外庭に出て行くときは、祭儀用の服を脱ぎ、を聖所の部屋にしまい、ほかの服に着替える。
6)その服によって民を聖なるものとしないためである。
頭髪規定
1) 頭をそってはならない。しかし髪を長く伸ばしすぎないように適当に刈る事
飲食規定
1) 内庭に入る時には、ぶどう酒を飲んではならない。
婚姻規定
1) やもめや、離婚された女を妻にしてはならない。
2)イスラエルの民のうちの処女をめとる事。
3)やもめでも、それが祭司のやもめであれば、めとってもよい。
教育規定
1) イスラエルの民に聖と俗、汚れと清いものとの区別を教える。
裁判規定
1)イスラエルの争い事を裁きの座に着いて裁く
祭儀に関して
1)全ての例祭を律法とおきてに従って守る事。
2)安息日を聖別する事。
死人に対して
1)死人に近づいて身を汚してはいけない。
2)自分の両親、自分の子ども、自分の兄弟と未婚の姉妹の死人には近づいても良い。
3)親族に死人によって身が汚れた時は、きよめを受けた後、更に 7 日間待つ事。
4)7 日間後、聖所で祭司の奉仕をする時は、罪の為の生贄を捧げる。
相続地
1)主が相続地なので、実際の土地を相続地とすることはできない。
祭司の食料
1)主に捧げられた穀物、罪祭の動物の肉。 2)イスラエルの全ての献納物。 3)あらゆる種類の初物 4)あらゆる奉納物の中の最上の奉納物。 5)麦粉の初物。 6)死んだもの、裂き殺された鳥、獣は食べてはならない。
◆45 章 1 節~8 節a
≪主への奉納地、聖所(神殿域)、レビ人の所有地、君主の相続地、イスラエルの町(エルサレム)と耕作地 ≫
①主への聖なる奉納地:長さ 2 万 5 千キュビト(約 13 ㎞)、幅は 1 万キュビト(約 6,5 ㎞)。
②聖なる奉納地の中に主の聖所(神殿域)の寸法:横 500 キュビト(2,6 ㎞)の正方形。
③神殿域の回りの空き地:50 キュビト(2,6m)
④聖なる奉納地の所有者:主に近づいて仕える祭司達(ツァドクの子孫)で、そこは彼らの家の敷地となる。
⑤レビ人の所有地の面積:聖なる奉納地の北側の長さ 2 万 5 千キュビト(13 ㎞)、幅 1 万キュビト(6,5 ㎞)。
⑥レビ人の所有地に聖なる奉納地に沿ってレビ人の為に 20 の部屋が設置。
⑦聖なる奉納地に沿っているイスラエルの全家の所有地の面積:幅 5 千キュビト(約 2,6 ㎞)、長さ 2 万 5 千キュビト(約13 ㎞)を町(エルサレム)の所有とする。
⑧聖なる奉納地に沿っている西側と東側の君主の土地:西の国境線、東の境界線迄(長さは他の部族と同じ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆45 章 8b 節~25 節
≪君主への戒め≫
①君主の正しいあり方の戒め。 ②正しい秤、正しいエバ、正しいバテの使用。③君主のささげもの:祭りの日、新月の日、安息日などの例祭において、全焼のいけにえ、和解のいけにえ、穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒をささげる義務あり。④聖所をきよめる儀式。 ⑤宮の為の贖い。 ⑥七日間の過ぎ越し祭の祭り。 ⑦毎日の常供のささげもの
◆46 章 1 節~24 節
≪門の開閉、及び門での祭儀について≫
①内庭の東向きの門:労働の 6 日間閉じる、安息日は開ける
②安息日における門は夕暮れまで開けておく
③君主は外側の門の玄関の間よりは入り、戸口のそばに立ちそこで礼拝をささげる。
④祭司たちは彼の全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげる。
⑤一般の人々は安息日、新月、祭りの日にはそのもんで礼拝をささげる。
≪安息日、新月、例祭などのささげ物規定 ≫
①)安息日に君主がささげる全焼のいけにえ:傷のない子羊六頭、傷のない雄羊一頭
②穀物のささげ物:雄羊一頭につき 1 エパ、子羊の為には君主が与える事の出来るだけの穀物、油 1 エパごと 1 ヒン。
③新月の祭りのささげ物。 傷のない若い雄牛 1 頭、傷のない子羊 6 頭、雄羊 1 頭。
④ 穀物のささげ物:雄牛 1 頭に 1 エパ。子羊のためには、手に入れることのできただけ。雄羊 1 頭に 1 エパ。油は 1 エパごとに 1 ヒン
≪君主と一般の人々の門より出入りについて≫
①君主:同じ玄関の間より出入りをする。一般の人々が出る時に出る。
②一般の人々:北の門から入ってくるものは。出る時は南の門を利用する。南の門から入ってきたものは。出る時は北の門を移用する。
③)祭りと例祭の穀物のささげ物について。雄牛 1 頭に 1 エパ、雄羊 1 頭に 1 エパ。子羊のためには与えることのできるだけのもの。油は 1 エパごとに 1 ヒン
≪君主の自発的ささげ物について≫ 
①東向きの門を開け、君主が出て行けば閉じる。 ②ささげものの方法:安息日と同じ方法
≪毎朝の常供のささげ物(永遠に続く定め) ≫
①全焼のいけにえ:傷のない 1 歳の子羊 1 頭
②穀物のささげ物:6 分の 1 エパ、上等の小麦粉に振りける油 3 分の 1 ヒン
≪君主の土地の相続について ≫
①君主から息子たちへの相続地の贈与について。
②君主から奴隷への相続地への贈与について
③君主は民の相続地を奪う事の禁止について。
≪祭司たちの働き場所について≫
①北向きの門の西の隅:祭司たちが祭儀の為に働く場所について。
②)外庭の四隅の仕切られた庭と料理場。 
1)長さ 40 キュビト(約 20,8m) 幅 30 キュビト(約 15,6m)。 2)四隅の庭は全部同じ大きさ。3)回りは石の壁で囲まれている。4)宮で奉仕しているものがいけにえを煮る料理場は石壁の下にある

◆47 章 1 節~12 節
≪神殿の敷居の下から流れる川 ≫
①川は神殿の敷居の下から東へ流れている。
②川は東門の右から流れている
③川の深さは 1 千キュビト先では足首まで、更に1千キュビト先では膝まで、更に1 千キュビト先では腰まで、更に 1 千キュビト先では泳げる程深くなり渡る事が出来ない。
④川の両岸に多くの木が植わり、毎月新しい実を結び豊か食物となり、葉っぱは薬ともなる。
⑤)川はアラバから死海に流れ下り、死海はあらゆる生きもの群がり、大海の海と等しいほどの種類と多くの魚が生息し、豊な漁場となる。⑥漁場はエン・ゲディからエン・グライムまでである。
⑦川は東に流れ下り、その後南に方向を変えて、エルサレムの町に下り、その後、東と西に分かれ、東の川は死海に流れ下り、西の川は地中海に流れ下る。(参照:ゼカリヤ 14:8)

◆47 章 13 節~23 節
≪イスラエル 12 部族の内 7 部族と在留異国人の割り当て地の境界線 ≫
①北側:大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至りハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。
②東側:ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。
③南側:タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまで。
④西側:大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る 。

 

◆48 章 1 節~7 節
≪イスラエル 7 部族の割り当て地≫
①ダン族:北の果からヘテロンの道を経て、ハマテの入口に至り、ハマテに相対するダマスコの北の境にあるハザル・エノ ンに及び、東の方から西の方へのびる地方。
②アセル族:ダンの領地に沿って、東の方から西の方へのびる地方。
③ナフタリ族:アセルの領地に沿って、東の方から西の方へのびる地方。
④マナゼ族:ナフタリの領地に沿って、東の方から西の方へのびる地方。
⑤エフライム族:マナセの領地に沿って、東の方から西の方へのびる地方。
⑥ルベン族:エフライムの領地に沿って、東の方から西の方へのびる地方。
⑦ユダ族:ルベンの領地に沿って、東の方から西の方へのびる地方(19))
◆48 章 8 節~12 節
≪主の聖所がある祭司への献納地 ≫
①場所:ユダの領地に沿って、東の方から西の方へのびる地方
②面積:北は 2 万 5 千キュビト(訳 13 ㎞)、西は幅 1 万キュビト(5,2 ㎞)、東は幅 1 万キュビト、南は長さ 2 万 5 千キュビトである。
③祭司:神様に忠実であったツアドクの子孫。
④祭司の所有地の場所:レビ人の境界線に沿った土地。
◆48 章 13 節~19 節
≪レビ人の割り当て地と一般人の地所≫          
①レビ人の所有地の面積:祭司の所有地の境に沿って、長さ 2 万 5 千キュビト(約 13 ㎞)、幅 1 万キュビト(5,2 ㎞)
②レビ人の土地の譲渡と売買禁止について:レビ人の土地は主の属する聖なる土地として、売ったり譲ったり交換する事が禁じられている。
③町がある一般人の所有地の面積:幅 5 千キュビト約(2,6 ㎞)、長さ 2万  5 千キュビト(約 13 ㎞)。北の方 4 千 5 百キュビト(約 2,4 ㎞)、南の方 4 千 5 百キュビト、東の方 4 千 5 百キュビト、西の方 4 千 5 百キュビ)。
④町の郊外の面積:北 250 キュビト(約 130m)、南 250 キュビト、東 250 キュビト、西 250 キュビト
⑤耕作地の面積:長さは東へ 1 万キュビト(約 5,2 ㎞)、西へ 1 万キュビト(産物は町の働き人の食物用)。
⑥耕作地の農夫:イスラエルの全ての部族から選出。
◆48 章 20 節~22 節
≪君主に属する土地≫
①位置:献納地の 2 万 5 千キュビト(約 13 ㎞)に面して東の境に至り、西はその 2 万 5 千キュビト(約 13 ㎞)に面して西の境に至り、部族の分に沿う(ユダの領地と、ベニヤミンの領地との間にある。)
②聖なる献納地と聖所の場所:君主の土地の中にある。
◆48 章 23 節~29 節
≪イスラエルの残りの五部族の割り当て地≫
①ベニヤミン族:東の方から西の方に至る地方。
②シメオン族:ベニヤミンの領地に沿って、東の方から西の方に至る地。
③イッサカル族:シメオンの領地に沿って、東の方から西の方に至る地方。
④ゼブルン族:イッサカルの領地に沿って、東の方から西の方に至る地方。
⑤ガド族:ゼブルンの領地に沿って、東の方から西の方に至る地方。
⑥南方の堺境界線:ガドの領地に沿って、タマルからメリボテ・カデシの水に至り、そこからエジプトの川に沿って大海に至る。
◆48 章 20 節~25 節
≪町(エルサレム)の寸法と門と祝福された名前≫
①東西南北それぞれの長さ:4 千 5 百キュビト(約 2,4 ㎞)。町の周囲は 1 万 8 千キュビト(約 9,6 ㎞)。
②北方の門:ルベンの門・ユダの門・レビの門 。
③東方の門:ヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門 。
④南方の門:シメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門。
⑤西方の門:ガドの門、アセルの門、ナフタリの門。
⑥町の名前:「主そこにいます」。
前述していますように、以上のエゼキエル書のメシヤ的王国における細かな寸法入りのエルサレムと神殿等の詳細な啓示は、象徴的に解釈できないように啓示されています。エゼキエル書の存在によって、聖書は他の預言者のメシヤ的王国に関する啓示も、文字通りに解釈するように教えているのです。エゼキエル書によって神は、旧約聖書のメシヤ的王国に関する啓示を、象徴的に解釈して黙示録の新天新地に適用することを厳しく禁じておられる事が分かります。

  教会がキリストにあって霊的に終末の恵みを先取り的に与えられていても、現在の世が教会の悪との戦いと再臨のキリストによって改善されて、そのまま新天新地に連続的に移し入れられるという岡山牧師の考えは、旧約聖書が預言するメシヤ的王国を字義通り文字通りに解釈する時に(エゼキエル書は字義通り文字通りに解釈する事を教えている)、完全に否定されるのです。この罪に堕落した世との連続性の中で実現する神の国は、再臨のキリストが反キリストの世界連合軍を悉く滅ぼされる事によって実現します。それはイスラエルを中心とした千年のメシヤ的王国の神の国です。その戦いには教会は参加しません(参照:イザヤ 63:5)。キリストお一人の全能の力で実現されます。又、黙示録の「新天新地」の神の国は、メシヤ的王国とは異なり罪も死も病も苦しみも 100%存在しません。その御国は、罪に堕落した罪と死が入り込んだこの世との非連続性で起きる文字通り字義通りに永遠に続く、創造主の神の全能のお力だけで実現する神の恵みによる御国なのです。教会はその実現の為に祈りを捧げ、その恵みに与っても、実際に何かをするという働きはないのです。

6、ペンテコステの日の聖霊降臨
すでに終末がやって来たという理由の第 3 番目として、岡山牧師はペンテコステの聖霊降臨を挙げています。それは、その出来事がヨエル書の預言の成就だからというのです。次のように論じています。「『終わりの日に』に起こるべ きヨエルの預言(ヨエル 2:28)は、ペンテコステの出来事によって成就した。聖霊の臨在によって、すでに終末的な「神の国」は実現している。それゆえ、新天新地、歴史の究極もすでにキリスト者の霊的現実となっている」と。確かに、ペテロがペンテコステの聖霊降臨を預言の出来事として以下の通りにヨエル書を引用しています。しかし、それは「聖霊が全てのイスラエルに注がれる」ことを預言している事によります。ペンテコステの時に聖霊の注ぎを受けた約 120 人のキリスト者は全てイスラエルの民でしたので、岡山牧師の理解に反して、ペテロはメシヤ的王国に全てのイスラエルの民に聖霊が注がれる約束の先取りの出来事として教えたのです。ペテロはヨエル書を引用して、聴衆であるイスラエルの民に向かって、聖霊の注ぎだけでなく、神の怒りの「主の日」の到来と、その後に来る「メシヤ的王国」の到来を教えようとしたのです。岡山牧師のように、決して「新天新地、歴史の究極もすでにキリスト者の霊的現実となっている」ことをペテロは教えようとしたのではないのです。預言者ヨエルも使徒ペテロもペテロのメッセージを聞いているイスラエルの会衆も黙示録の新天新地については何も知らされていないのですから、そのように解釈することは明らかに間違っている事になります。黙示録の新天新地は、AD100 年近くになって初めて人類に知らされた事を忘れないようにする必要があります
◆「使 2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。 2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。 2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』・・」 

以上の、ペテロが引用したヨエル書の 2 章 28 節~32 節の預言は、イスラエルの民ならばよく知っているメシヤ的王国の預言です。イスラエルの全ての民に聖霊が注がれる事とイスラルの息子や娘が預言する事、イスラエルの青年は幻を見る事、イスラエルの老人が夢を見る事などが預言されています。又、同時にその前にやってくる神の怒りの日である主の日の裁きのわざ、「血と火と立ち上る煙である。」という災い、「太陽はやみとなり、月は血に変わる」と言う災いも併せて預言しています。ペテロはヨエル書のメシヤ的王国と主の日の出来事が成就したと言う意味で、ヨエル書を引用していない事は明らかです。ヨエル書をよく知っているスラエルの民にとっては 2 章全部引用しなくてもペテロの引用個所を正しく理解する事は出来たのですが、ヨエル書を知らない多くの我々異邦人の民が、ペテロの引用個所を正しく理解するには、ヨエル書で、メシヤ的王国が預言されている事を知れば、ペテロの引用動機や理由がより明らかになります。ヨエル書のメシヤ的王国の預言について以下に要約してお伝えしておきます
◆2 章 12 節~27 節
 主の恵みによる断食の悔い改めに導かれたイスラエルの民は、「とこしえに恥を受ける事がない」為に、メシヤ的王国において豊かな産物で満たされる事が預言されています。「2:27 わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。」
※2 章 23 節では、豊かな収穫の為に必要な、「後の雨」(春の雨)と「初めの雨」(秋から冬の雨)の雨が聖霊の象徴として、終わりの時代のイスラエルの民に注がれる事が預言されています。終わりの時代の聖霊の象徴としての雨が第 1 回目に注がれたのは、2000 年昔、ユダヤ人のキリスト者約 120 人にペンテコステの日に実現しました。それは「後の雨」の季節である春に起きました。第 2 回目の聖霊の注ぎはメシヤ的王国が実現する直前にイスラエルの民に注がれる事をゼカリヤ書 12 章 10 節で預言しています。
◆3 章 1 節~5 節
この箇所は、ペンテコステの時にペテロが引用した箇所ですが、メシヤ的王国におけるイスラエルの民とイスラルの民の奴隷が全て神の霊の注ぎを受ける事が預言されています。又、その時が来る前に、主の怒りの日である「主の日」が来る事も預言されています。その「主の日」においてシオンの山であるエルサレムにいるイスラエルの残りの者が「主の名」を呼び救われる事も預言されています。
◆4 章 16 節~20 節
主はメシヤ的王国の聖なる山シオンに住まわれ、天地が震えるほど吠え炊けるように声を轟かせ、メシヤ的王国を治められる事が預言されています。又、メシヤ的王国のイスラエルは全ての谷に水が豊かに流れ豊穣の国となる事も預言され、主の神殿から泉が湧き出てシティムの川が潤される事が預言されています。更に、主の怒りの日である「主の日」にエジプトとエドムは荒廃するが、約束の地にイスラエルがとこしえに住むことが預言されています。

獣の国の拡大について                                    
岡山牧師は、キリストとパウロが教える終末的苦難の時代の到来は、麦と毒麦のたとえ話で教えられている「毒麦」の繁茂によると論じ、マタイ 24 章 4 節から 32 節のキリストの預言を引用し、また、Ⅱテモテ 3 章 1 節~5 節を引用して説明をしています。つまり、終末時代の苦難の増大は、「獣の国」の拡大が原因として起きる事を論じています。その苦難が黙示録に啓示されている終末の様々なの苦難であり、その苦難は、「教会=神の民」をきよめる為に、不可欠なものであり、教会はきよめられる事によって、「獣の国」による悪に打ち勝ち、地上に『小羊の王国』を拡大させ、キリストの地上再臨をもたらすカギだと論じています。つまり教会が苦難を通してきよめられる事により「たとえ『神の国』の完全な現れは、未来のキリストの来臨を待たねばならないとしても、教会を通してすでに実現されつつある「神の国」は、聖霊によって来臨の日まで力強く前進続けていく」(同 P42)というのです。
以上の見解から、岡山牧師は主の空中再臨により、7 年の大患難時代の前に教会が天に携挙されるという「艱難期前携挙説」を先ず否定し、教会携挙の根拠とされているⅠテサロニケ 4 章 13 節~18 節の意味を次のように解説しています。「ここで明らかにされているのは『死者の復活』と『生き残っている者の天への引き上げ』の順序であって、終末的な苦難の時代の『前』に携挙が起こると記されていない」(P54) 
岡山牧師は教会携挙が艱難期の後に起こるという「艱難期後携挙説」を主張しています。その艱難期後携挙説の正しさとして、教会が体験する苦難の意義と目的は、教会がきよめられて獣の国に勝利し、世界を神の国に根本的に改善して行くためだという事の例証として、旧約時代から多くの苦難を受けてきた聖徒や神の民であるイスラエルの体験を紹介しています。しかし、聖書はどこにも、旧約の神の民であるイスラエルの苦難の意義と目的についても、又、新約の教会が体験する苦難の意義と目的も、岡山牧師が教えるような意味で苦難は教えられていないのです。それを以下に確認していきたいと思います。

1イスラエルの苦難の歴史
岡山牧師は、新約の神の民である教会が、世界を神の国へ改革していくために、7 年の大患難時代の中で苦難を体験し、きよめられる必要がある事の例証として、旧約時代において苦難を体験して来た聖徒や預言者やイスラエルの民を以下のように取り上げています。(P54~P55)
①へブル書 11 章に紹介されている旧約時代の神の民の苦難の歴史。
②イスラルの預言者達の苦難。
③ユダ王国との滅びと捕囚の苦難(祭司エゼキエルとダニエル)④ヨブの苦難
※岡山牧師は苦難を体験したノアとヨブもイスラエルの中に含めて論じていますが、二人はイスラエルの民ではありません。
イスラエルの歴史の苦難の意義と目的≫
 岡山牧師が取りあげているイスラエルの苦難について、その意義と目的を確認しておきたいと思います。
≪アブラハムの苦難の意義と目的 ≫
飢饉の苦難
  アブラハムは、カナンの地にやってきましたが、飢饉に遭遇しエジプトへ逃れました。その時、彼は自己保存の為に妻のサライを妹だと言ってエジプトのパロ王に差し出すという、夫としては最低の情けない罪を犯します。それが神の介入により暴露され、パロ王から非難されます。しかい、何故か金銀の宝物、家畜、奴隷をそれまで以上にパロ王から多く得てエジプトから出たのです。アブラハムは、自分がアブラハム契約によって守られている事を知った出来事でした。飢饉という苦難は、アブラハムをきよめる為でなく、アブラハム契約によって彼が守られている事を教える為でした。
◆「創 13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。 13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。」
妻サライと仕え女ハガルとのバトル
 10 年たっても約束の子孫がアブラハムに与えられなかったので、妻サライは、神の約束は仕え女ハガルを通して実現させられると考えアブラハムに提案します。アブラハムもそれに同意し、仕え女ハガルが身ごもります。その結果、ハガルがサライを見下げるようになり、サライとハガルの関係が悪化し、ハガルはサライの厳しい対応に耐え られなくなり逃亡します。そのハガルに主の使いが現れ、彼女に子孫増大と男の子の誕生を知らせます。アブラハムが体験した家庭内トラブルは、結果として、「多くの国民の父とする」というアブラハム契約の実現に向けての試練であった事が示されました。
◆「創 16:10 また、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
≪ヤコブの苦難の意義と目的 ≫
ヤコブは兄エソウに憎まれ命が狙われる
 母リベカの入れ知恵で、父イサクをだまし、兄エソウが受けるはずの祝福をヤコブは受けました。その為に、ヤコブは兄エソウから憎まれ命を狙われるようになり、その場所から離れざるを得なくなりました。そのヤコブの試練も、ヤコブを罪からきよめる為でなく、ヤコブがアブラハム契約の中に生かされている事を知るための試練でした。
◆「創 28:13 そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。 28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。・・』」
噓つきの叔父ラバンによる試練
 ヤコブはおじラバンに何度も騙され、厳しい労働によって苦しむという試練がありました。そのおじラバンによる試練を通してヤコブは忍耐力が付きましたが、同時にアブラハム契約の神に守られている事を知りました。
◆創 31:5 彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし私の父の神は私とともにおられるのだ。 31:6 あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。 31:7 それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。 31:8 彼が、『ぶち毛のものはあなたの報酬になる』と言えば、すべての群れがぶち毛のものを産んだ。また、『しま毛のものはあなたの報酬になる』と言えば、すべての群れが、しま毛のものを産んだ。 31:9 こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。」
 ヤコブ家族絶滅の危機
ヤコブにとって最大の試練は、妹のディナが辱められた件で、兄シメオンとレビがシェケムの人々を仕返しをし、だまして虐殺し、他の兄弟たちはシェケムの人々の持ち物を略奪をした事によって、その地方の人々から憎まれ絶滅の危機に瀕した事です。ヤコブがシメオンとレビに対して厳しく叱責をしています。
◆「創 34:30 それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」
以上の危機をヤコブはどのように乗り越えたのでしょうか。それは、アブラハム契約により、神がその地方の人々ヤコブ家族を襲う事に関して異常な「恐怖」を与えて、ヤコブ家族を襲う事を止められた事によります。神はヤコブに次のように命じられました。「創 31:5「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」。
以上の命令を受けたヤコブは家族の中より偶像を全て捨てさせる宗教改革を行いました。その結果、シェケムの地方の人々に恐怖が望み、ヤコブ家族への追及を断念させたのです。
◆「創 35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」 この絶滅の危機という試練を通して、ヤコブが学んだことは「アブラハム契約」により神が自分たちを守られた事を学んだのです。以下のみ言葉がその事を教えています。
◆「創 35:9 こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。35:11 神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。35:12 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」
兄弟によるヨセフの苦難と10人の息子たちからヨセフが死んだと騙されたヤコブの悲しみ
ヤコブがヨセフを偏愛した為に、ヨセフは兄たちの妬みを買い、穴に投げ込まれて放置されました。しかし、兄たちはヨセフが死んだと父ヤコブを騙しました。その時のヤコブの悲しみが次のように啓示されています。「創 37:31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。37:32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、『これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください』と言った。 37:33 父は、それを調べて、言った。『これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。』 37:34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。37:35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」
  しかしヤコブのその苦しみは、苦しみで終わりませんでした。ヤコブの知らないところで、ヨセフは神によって生き延びやがてエジプトでパロ王に次ぐ位に着きエジプトを治めるようになっていたのです。やがて全世界に大飢饉が臨みましたが、その大飢饉からヤコブ家族を救ったのがヨセフでした。ヤコブは生きているヨセフとエジプトで再会を果たしました。神は兄たちの悪を許可し、ヤコブとヨセフを苦しめさせましたが、その悪によってヤコブ家族の命と多くの人々の命を飢饉から救いました。
◆「創 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」
◆「創50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」
※ヨセフの苦難の意義と目的は、以上の二つ以外に、ヤコブがエジプトの地で自分の12人の子どもたちの将来について預言するためであり、その中で、特にやがてメシヤ的王国のイスラエルと世界の王となるメシヤがユダ族から出る事を神が預言させる為であったのです。
◆「創 49:10 王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う。」
神は、飢饉から救われたヤコブの子どもたちをエジプトに住まわせ、アブラハム契約の実現に向けて歴史を進めておられた事をヤコブもヨセフも深く知らされました。ヤコブのヨセフを失ったと思った深い悲しみという苦難は、ヤコブをより深く「アブラハム契約」を信じる信仰へと導くためのものであったのです。
◆「創 46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」 46:3 すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。」
⑤モーセの苦難の意義と目的
 モーセの苦難は、誕生の時から始まりました。エジプトの王はイスラエルがエジプトで人口を増加させれば、いざという時に奴隷で苦しめらえている事に対する憎しみのゆえに、敵に味方して反逆することを恐れ、誕生する男の子を皆殺しにする命令を出しました。赤子のモーセも殺されるところでしたが、神の不思議な方法で彼は助かりエジプトの王妃の息子としてエジプトの教育を40年間受けて育ちます。しかし、やがて、自分がイスラエルの民の一員だと知り、奴隷として苦しんでいる同胞のイスラエルの命を助けるために、エジプト人を撃ち殺します。その為に、彼はパロ王から命を狙われたので、ミディアンの地に逃れていきます。ミディアンの地で 40 年羊飼いの仕事をしましたが、その時に、エジプトで苦しんでいる「イスラエルの民」を解放するように神の命令を受けます。それまでの彼の様々な苦難の出来事は、神がエジプトで苦しんでいるイスラエルの民を神がアブラハム契約のゆえに愛されている事を知らされるための苦難でした。神が燃える柴からモーセに語られた言葉がその事を教えています。3 章 1 節から 22 節において、神がアブラハム契約の神を意味するは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」を 3 度も繰り返し強調されたのです。
◆「出 3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
◆「出 3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」
◆「出 3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、【主】が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。』
 モーセが 80 歳までに体験してきた様々な苦難の目的と意義は、神が「アブラハム契約」に基づいてイスラエルを愛されている神だという事を知る為であったのです。
⑥イスラエルのエジジプトでの 400 年の苦難の意義と目的
イスラエルがエジプトで 400 年の苦難間苦しんだ意義と目的は、エジプトで寄留者として苦しんだことを教訓に、やがてイスラエルが一つの民族として独立した時に、寄留の異邦人を愛するための訓練と、アブラハム契約により約束の土地をイスラエルが取得する為に、先住民であるエモリ人の罪が満ちて裁かれる為でした。
◆「出 22:21 寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」
◆「出 23:9 あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。」
◆「創15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。 15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。 15:15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。 15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来るそれはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」
⑦イスラエルの荒野での 40 年間の苦しみの意義と目的
イスラエルの荒野での 40 年の苦しみの意義は、アブラハム契約により、イスラエルが世界を祝福する民となる為にきよめる訓練としての苦難でした。
≪アブラハム契約の神をを意味する神の呼び方が 9 回出エジプト記で啓示されている≫
1)アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が3回啓示 
◆「出 3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
◆出 3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。
◆「出 4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
2)アブラハム、イサク、ヤコブ(の神)が6回啓示
◆「出 2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」
◆「出 3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、
【主】が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。」
◆「出 6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、【主】という名では、彼らにわたしを知らせなかった。」
◆「出 6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である。』」
◆「出 32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」
◆「出 33:1 【主】はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。・・」
⑧モーセ律法がイスラエルに授けられた意義と目的
 荒野の苦難の中でモーセ律法がイスラエルの民に与えられた目的は、アブラハム契約によりイスラエルが世界を祝福する「聖なる民」「宝の民」「祭司の王国」となる為でした。
◆「出 19:3 モーセは神のみもとに上って行った。【主】は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。 19:4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
⑨イスラエルが荒野で食糧に苦しみながらも、マナで養われた意義と目的
イスラエルが、荒野において飢えで苦しみながらも 40 年間マナで養われた意義と目的は、アブラハム契約により世界を祝福する民となる為に、日々神のみ言葉に聞き従う民となる為でした。
◆「申 8:3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」
➉ダビデ王の苦難の意義と目的
 ダビデ王は、サウル王の妬みと誤解によって命を狙われ、逃げまわるという苦難と息子アブサロムによる反逆の苦難、それにバテ・シェバとの姦淫の罪と夫ウリヤを戦地で殺害をさせるという罪の故の苦難、更に、神の全能の力に信頼せずに、サタンにそそのかされて自分の兵隊の数を数えて人間の肉の力でイスラエルを敵から守ろうとした不信仰の罪の故の苦難など、多くの苦難を体験しました。彼が体験したその苦難の意義と目的は、神がダビデ契約による神の赦しと愛を更に深く信じさせる為でした。その事が詩篇で表現されています。(詩篇 51 篇)。同時に、不信仰なイスラエルの民の上に神が「アブラハム契約」「ダビデ契約」などの四つの無条件契約によってメシヤ的王国を実現される事をダビデが預言する為でした。以下に、メシヤ的王国について預言している詩篇をいくつか紹介をしておきます。
◆「詩 2:6 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」 2:7 「わたしは【主】の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。 2:8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」
◆「詩 16:6 割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。16:7 私はほめたたえます。助言を下さる【主】を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。16:8 私はいつも【主】を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。16:9 それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。16:10 あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。16:11 あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」
◆「詩 22:27 地の果てのすべての者が思い起こし【主】に帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。22:28 王権は【主】のもの。主は国々を統べ治めておられます。」
◆「詩 24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。 24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある【主】。戦いに力ある【主】。 24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。 24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の【主】。これぞ、栄光の王。」
◆「詩 46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。 46:6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。 46:7 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ 46:8 来て、【主】のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。 46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。 46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
◆「詩 72:11 こうしてすべての王が彼にひれ伏しすべての国々が彼に仕えるでしょう。」
◆「詩 89:3 『わたしはわたしの選んだ者と契約を結びわたしのしもべダビデに誓う。89:4 わたしはあなたの裔をとこしえまでも堅く立てあなたの王座を代々限りなく打ち立てる。』・・・89:34 『・・わたしはわたしの契約を汚さない。唇から出たことをわたしは変えない。89:35 わたしはかつてわが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わないと。89:36 彼の子孫はとこしえまでも続く。その王座は太陽のようにわたしの前にあり、89:37 月のようにとこしえに堅く立つ。その子孫は雲の上の確かな証人である』。」。
◆「詩 105:8 主はご自分の契約をとこしえに覚えておられる。命じられたみことばを千代までも。105:9 それはアブラハムと結んだ契約イサクへの誓い。105:10 主はそれをヤコブへの定めとして立てられた。イスラエルへの永遠の契約として。105:11 そのとき主は言われた。「わたしはあなたにカナンの地を与える。あなたがたへのゆずりの地として。」
⑪イスラルの預言者達の苦難の意義と目的
イスラエルの預言者たちの苦難の意義と目的は、イスラエルの民が如何に神に反逆する民であるかを教える事でした。預言者たちは、イスラエルの罪を指摘し、警告として神の裁きを伝えました。その為に、残りの者と呼ばれる民以外の多くの民に憎まれ苦しめられ殉教していきました。その事をキリストとステパノが教えています。
1)キリストの教え
◆「マタ 23:29 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、 23:30 『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。23:31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。23:32 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。23:33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。23:34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです 23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。23:36 まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」
2)ステパノの教え
◆「使 7:1 大祭司は、「そのとおりか」と尋ねた。 7:2 そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。
・・7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。 7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
以上のように、預言者たちは聖霊に逆らう頑固なイスラエルの民から迫害を受け殉教をしていきましたが、彼らの活動の目的は、単にイスラエルの頑固さを糾弾するためでも、又、殉教するためでもありませんでした。それは「神に反逆するその頑固なイスラエルの民を神が「アブラハム契約」等 4 つの無条件契約のゆえに、どれほど愛されているか、その神の愛と 4 つの無条件契約の成就としての「メシヤ的王国」の実現を伝える為であったのです」以下の預言者達がその事を教えています。
2、預言者達が伝えたメシヤ的王国の預言
①イザヤの預言
◆2 章 1 節~5 節
メシヤ的王国の世界一高い山にあるエルサレム神殿にお住いのキリストの下に世界中から巡礼者がやってくる事と、キリストによる世界平和が預言されています。
◆ 9 章 6 節~7 節 
嬰児としてお生まれになったキリストが再臨し、メシヤ的王国のイスラエルの「ダビデの王座」に着き、平和の主として神の主権によってイスラエルを治める事が預言されています。
◆11 章 1 節~16 節
エッサイの根と呼ばれるキリストが再臨されてメシヤ的王国の世界を愛と正義によって治めます。又、ご自分の民であるイスラエルを約束の地に帰還させられます。更に、動物界に平和がやってくることが預言されているます。
◆12 章 1 節~6 節
イスラエルの罪が全て赦されて、イスラエルの人々が神の力満たされ、救われ、大声で神への喜びの賛美が捧げられ、それが全世界に伝えられる事が預言されています。
◆ 43 章 4 節~6 節
 イスラエルが神によって高価な宝石のように愛されて、世界各地から約束の地に帰還させられる事が預言されています。
◆65 章 17 節~25 節
  世界が新しく修復されて新しい天と地と呼ばれる程に、これまでとはまるで別世界のように神に祝福され、動物界と人間界に平和が訪れ、人間の寿命は木のように長寿になり、泣き声と叫び声がなく、喜びと祝福に満ちたイスラエルの民を神は見て喜ばれると預言されています。
 ◆66 章 22 節~23 節 
メシヤ的王国のイスラエルの毎月の新月の祭りと毎週の安息日に、すべての人が神を礼拝するために来ると、預言されています。
②エレミヤの預言
◆3 章 14 節~18 節
メシヤ的王国では、キリストがイスラエルの夫となり、神の御心に叶った指導者が与えられ、人口が増え、霊性は祝福される事が預言されています。二度と分裂をしない国家となる為に北の国からの帰還も預言されています。
◆12 章 14 節 15 節
 神がイスラエルの約束の地を侵す隣国の民をそこから引き抜き、イスラエルを約束の相続地に帰還させると預言されています。。
◆23 章 3 節~8 節
メシヤ的王国のイスラエルに人口の増大と良き指導者が与えられ、ダビデの若枝と呼ばれるキリストが王となって治めイスラエルは栄え、公義と正義が行われる事が預言されています。
◆ 24 章 5 節~7 節
メシヤ的王国のイスラエルは良いいちじくのように霊性が回復し、二度と約束の国から引き抜かれなくなることと、イスラエルの全ての民が主を知る心が与えられ、神は彼らを「わたしの民」とよばれ、「わたしは彼らの神となる」と預言されています。
◆30 章 1 節~21 節 
メシヤ的王国のイスラエルは、キリストと復活したダビデ王に仕え、豊かに繫栄する国となる事が預言されています。
◆31 章 1 節~40 節
メシヤ的王国のイスラエルは新しい契約によって霊的にも物質的に満たされた国となり、二度と滅びる事がないと預言されています。
◆33 章 14 節~19 節 
メシヤ的王国のエルサレムの名が「【主】は私たちの正義」と呼ばれると預言されています。 
③エゼキエルの預言
 エゼキエルは、BC521 年に南ユダ王国がバビロンによって滅びた時に、バビロン捕囚の民となるという苦難を体験しました。その彼の苦難の意義と目的は、南ユダ王国の罪を示しながら、やがて南ユダ王国と先に滅びた北イスラエルのイスラエルの民に神が聖霊を豊かに注がれ、メシヤ的王国を実現される事を預言する事でした。
◆エゼ 17 章 22 節~24 節 
メシヤ的王国のエルサレムは世界で一番高い山に建設され、豊かな森が広がる事が預言されています。
◆エゼ 34:23 節~31 節
キリストがメシヤ的王国のイスラエルの神となり、復活したダビデ王が君主としてキリストに仕える事が預言されています。
◆エゼ 36 章 24 節~38 節 
メシヤ的王国のイスラルの人々の霊性が回復し、農業の祝福と自然界がエデンの園のように回復する事が預言されています。
◆エゼ 37 章 15 節~28 節
メシヤ的王国のイスラルは二度と分裂することなく、復活しダビデ王に仕える事と、キリストはエルサレム神殿の聖所に住まわれる事が預言されています。
◆40 章~48 章(既述していますので割愛します)。
④ダニエルの預言
 ダニエルは、BC521 年にバビロンによって南ユダ王国が滅ぼされた時に、捕囚の民となりました。その苦難の目的は苦難の地であるバビロン、メディア・ペルシャの王などに仕えながら、イスラエルの神が真の神である事を王たちや異邦の多くの民に知らしめることでした。また、同時に、メシヤ的王国の実現を預言するためでした。
◆2 章 1 節~47 節
 ネブカデネザル王の見た像の夢をダニエルが解き明かし、メシヤ的王国の実現を伝えました。
 「ダニ 2:35 そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました・・2:44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。」
◆7 章 1 節~26 節
 古代世界の国々の王たちが様々な獣で示される中で、終末時代にユダヤ人の虐殺を図る恐ろしい獣の出現が預言されています。しかし、彼が滅ぼされ後に永遠の「メシヤ的王国」の実現が強調されて預言されています。「ダニ 7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。・・7:27 国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』」
◆12 章 1 節~13 節
反キリストにより終末の多くのユダヤ人が虐殺されますが、「あの書」と呼ばれる「いのちの書」に名の記されている者は救われ、メシヤ的王国に導かれます。又、旧約の聖徒が甦りメシヤ的王国の住人になる事が預言されています。7 年の大患難時が終わった後 75 日間で荒れた世界が修復されメシヤ的王国の実現が預言されています。その王国に復活したダニエルが割り当て地に立つのです。「ダニ 12:12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。 12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」


⑤)ホセアの預言
ホセアは、姦淫の妻ゴメルによって試練を受けましたが、彼のその試練の意義と目的は、それによって神にとって姦淫の妻であるイスラエルを神がどれほど愛されているか、その彼らに神がやがてメシヤ的王国を実現される事を預言するためでした。
◆2 章 1 節~4 節
メシヤ的王国におけるイスラエルの人口増大の祝福と神の民としての「神との交わり」の回復と民同士の愛の交わりの回復が預言されています。
◆2 章 16 節~25 節
メシヤ的王国におけるイスラエルの祝福の預言≫
1)アコル(苦悩)の谷が希望の門となる。 2)出エジプトの際の乙女の心の回復。2)神を「わが夫」と呼ぶ。3)バアル崇拝からの解放。4)戦争のない平和と憩いが動物と生物におよぶ。5)永遠の契りとして、神の正義と公平、慈しみと憐れみが与えられる。6)豊かな収穫。7)神より、憐れみを受けてロ・アンミ(わが民でない者)と呼ばれていたイスラエルは「アンミ(わが民)」と呼ばれ、イスラルは「わが神よ」と答える。
◆3 章 1 節~5 節
メシヤ的王国(終わりの日)において、イスラエルが主なる神(再臨のキリスト)と復活のダビデを愛して仕える事が預言されています。◆11 章 8 節~11 節
神は、イスラエルを愛し世界の各地より帰還させ、彼らの家と呼ばれるメシヤ的王国の約束の地に住まわせるという約束が預言されています。
◆14 章 2 節~8 節
  偶像崇拝など、不信仰を悔い改めたイスラエル民族が、神によって癒され愛され赦されメシヤ的王国において、百合の花、レバノンの杉、オリーブ、麦、葡萄の花、葡萄酒など、イスラエルの霊性の祝福が植物に例えられて預言されています。
⑥ヨエルの預言(既述していますので割愛します)
⑦アモスの預言
◆9 章 11 節~15 節
メシヤ的王国におけるイスラエルの「ダビデ王国の復興」、農作物の祝福、イスラエルの繁栄、更にアブラハム契約によって与えられたの約束の土地から二度と追放される事がないと預言されています。
⑧ミカの預言

◆2 章 12 節・13 節
 イスラエルの残りの者が、羊のように囲いの中に導かれる事と、その後、主が先頭に立って、彼らをメシヤ的王国に導かれる事が預言されています。
※「囲い」と訳されているヘブル語は名詞の「ボツラ」が使用されています。イザヤ書 34 章 6 節にも同じ「ボツラ」が使用されていますが、日本語訳は「ボツラ」という地名で訳しています。「ボツラ」は形容句でなく「名詞」ですので、ミカ 2:12 も「囲い」でなく「ボツラ」という地名で訳すのが正しいと思います。古代のボツラは現在ではギリシャ語の岩を意味する「ペトラ」で呼ばれ、世界遺産に指定されています。イザヤが預言するように、メシヤ的王国が実現する前に、七年の大艱難時代後半三年半において、反キリストの世界連合軍より神がイスラエルを保護する場所として定めておられる「ボツラ」に、神がイスラエルを導かれる事をミカが預言しているのです。口語訳聖書では「おり」と訳されていますが、聖書語句大辞典では(修正、【名】botsrah ボツラ)と説明しています。
英訳の KJV では“Bozrah”と訳しています。


◆4 章1節~8 節
ミカはイザヤ 2 章と同じメシヤ的王国の祝福を預言しています。
1)メシヤ的王国の再臨の主であるキリストが住まわれるエルサレム神殿は、世界で一番高い山に立つ。
2)世界の国々から、エルサレム神殿にお住いの再臨の主であるキリストの下に巡礼者がやってくる。
3)再臨の主であるキリストがメシヤ的王国を統治される。
4)再臨の主であるキリストがメシヤ的王国では戦争の全ての武器を平和の道具にされ、戦争と兵学校もない平和な世界にされる。
5)再臨の主であるキリストがイスラエルの永遠の王となられる。
◆5 章 1 節
 メシヤ的王国のイスラエルを支配するメシヤが、ベツレヘムで誕生されると預言されています。
◆7 章 18 節~20 節
イスラエルの残りの者の罪をお赦し下さる神に、アブラハム契約に従って、ヤコブにまこととアブラハムに慈しみを示し、メシヤ的王国における約束の地を実現して下さるように祈りが献げられている。
⑨ゼパニヤの預言
◆3 章 8 節~20 節
 以上の聖書個所には、メシヤ的王国における世界とイスラルの祝福が預言されています
1) 7 年の大患難時代後のメシヤ的王国において、キリストを信じる諸国の民に清い唇が与えられ、主の名を唱え、一つになって主に仕える事が預言されています
2)メシヤ的王国にイスラエルの残りの者が導かれ、彼らが霊的に道徳的に祝福される事が預言されています。
3)メシヤ的王国のイスラエルには王なる主がおられるので、イスラエルの民は災いを恐れるなくなる事が預言されています。
4)メシヤ的王国のイスラエルに住んでおられる主が、イスラエルを愛し喜びの歌をもって楽しまれる事が預言されています。
5)世界に離散している苦難の中にあるイスラエルの民が神によってメシヤ的王国の約束の地に導かれ、繁栄の回復が預言されています。
➉ゼカリヤの預言
◆1 章 16 節・17 節
メシヤ的王国の再び選ばれるエルレムに再臨のキリストである主が憐れみによって帰り、ご自身の住まいである家 (エルサレム神殿)を建て直させ、主が私の町々と呼ばれるメシヤ的王国のイスラエルの町々が再び恵みで満ち溢れる事が預言されています。
◆2 章 5 節~17 節
 メシヤ的王国のイスラエルが祝福と恵みに満ちる事が預言されています
1)エルサレムが人と家畜に溢れ、主が町を囲む火の壁となるので城壁がなく平和な町となる事が預言されています。
2)再臨のキリストである主がメシヤ的王国のエルサレムに住まわれるので、、イスラエルの人々に声を上げて喜ぶことが命じられている。
3)メシヤ的王国の多くの国々が再臨のキリストの主に帰依する事と主がエルサレムのただ中に住むことが預言されています。
4)メシヤ的王国のイスラエルは再臨のキリストの主が聖なる地の領地として譲り受けられる事が預言されています。
◆8 章 20 節~23 節
メシヤ的王国のイスラエルの町々の住民が誘い合いながらエルサレムにおられる万軍の主(再臨のキリスト)を喜んで求める事が預言されています。同時に、異邦人諸国が主の恵みを求め、一人のユダヤ人の裾を異邦人の10人男性がつかんで、神を求めてイスラエルに共に行かせてほしいと依頼する事が預言されています。
◆9 章 9 節 10 節~
 ロバの子に乗ってエルサレムに入場された平和の主であるイエス・キリストが、メシヤ的王国のイスラエルと世界にに平和をもたらす事が預言されています。
◆9 章 11 節~17 節
  契約の血(創世記 15 章 17 節~18 節)のアブラハム契約)に基づき、イスラエルの捕囚の地からの解放と、ギリシャのアンティオコス・エピファネス(ヤワン)の軍隊への勝利の約束とメシヤ的王国におけるイスラエルが約束の土地である主の地で王冠の宝石のように美しく輝くことが預言されています。また、農作物の豊作と祝福も預言されています。
◆10 章 1 節~12 節
メシヤ的王国の約束の地に神が離散のイスラエルの民に聖霊を注ぎ、口笛を吹きながら帰還させ、霊的に祝福されます。彼らは輝かしい軍馬のように強く、皆勇士のように勇ましい霊性を身に着ける事が預言されています。また、葡萄酒を飲んだように喜びに溢れ、その大人の姿を見て子どもたちも喜び、神さまに従順な民となり、子孫が増大する事が預言されています。
1)10 章 1 節にはマルコーシュ「後の雨」マータール「雨」マシャル ゲシェム「大雨」という雨に関して預言されています。ヨエル書 2 章 23 節では「初めの雨」と「後の雨」の雨が「聖霊の象徴」として預言されています。また、ホセア 6 章 3 節では、主が終末のイスラエルに臨んで下さる恵みを「大雨/マシャル ゲシェム」と「後の雨/マルコーシュ」で例えています。イスラエルの気候は 3 月頃から 10 月の約6ケ月間は乾期で 10 月頃から 2 月終わり頃の約 6ケ月間は雨期です。その雨期の 10 月頃から 11 月頃にかけて降る雨を「初めの雨」とか「秋の雨」と呼びます。3 月から 4 月にかけて降る雨を「後の雨」とか「春の雨」と言います。ヨエル書でイスラエルに約束されている雨で象徴されている聖霊の注ぎが、「後の雨」の季節である春のペンテコステの時に実現しました。それは、メシヤ的王国実現の直前の終末にイスラエルに注がれる聖霊と比較した順番では、「第1回目の雨」となります。ゼカリヤ書10章1節の「後の雨」(春の雨/マルコーシュ)の季節に、主に求めるように命じられている雨マータールは聖霊を象徴する雨の事を意味しています。それが、ゼカリヤ 12 章でイスラエルの民全体に注がれる事が預言されています。その雨は、それに相応しくマシャル ゲシェム「大雨」だと象徴的に表現されています。その「雨」はペンテコステの時に注がれた聖霊の象徴である「第1 回目の雨」との比較で順番とし「第 2 回目の雨」となります。

 

 

◆「10:1 後の雨の時に、【主】に雨を求めよ。【主】はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる」。
2) ホセア書 6 章 3 節の預言、ヨエル 2 章 23 節の預言、ゼカリヤ 10 章 1 節の預言は、メシヤ的王国の住民となるイスラエルの民全体に注がれる聖霊を「雨」として象徴的に教えています。
3) 10 章 4 節のピナー「隅の石」、iヤーセード「杭」、ケシェド ミルハマー「いくさ弓」、コール ナーガス「すべての指揮者」は全て単数形で、メシヤ的王国の王となる再臨のキリストを意味して預言されています。
◆12 章 1 節~14 節
メシヤ的王国が実現する前に、イスラエルを撲滅させようとする、反キリストの世界の諸国の軍隊が悉く滅ぼされる事と、イスラエルの民に神が「恵みと哀願の霊」を注がれ、先祖がキリストを十字架に着けた罪を自らの罪として全イスラエル民族が激しく嘆き悔い改める事が預言されています。
◆13 章 1 節~9 節
メシヤ的王国が実現する前に、イスラエルの神に逆らう預言者、神に逆らう指導者を含め 3 分の 2 のイスラエルが滅ぼされ、生き残った 3 分の 1 のイスラエルの民の霊性が回復する事が預言されています。
◆14 章1節~5 節 12 節~
   メシヤ的王国が実現する直前の主の日に、反キリストの世界連合軍によりイスラエルとエルサレムは攻撃を受け、悲惨な状況となりますが、残りの民は滅びない事と、再臨のキリストが反キリストの世界連合軍と戦われる為に、全ての聖徒であるキリスト者と共にオリーブ山にお立ちになる事が預言されています。
◆14 章 7 節~11 節
1)再臨のキリストがメシヤ的王国の世界の王となる事が預言されています。
2)メシヤ的王国のエルサレムから湧水が出て、半分は東の海(死海)に流れ、半分は西の海(地中海)に一年中流れる事が預言されています。
3)メシヤ的王国のエルサレムに住む人々は絶滅される事無く安らかに住むことが預言されています。
4)メシヤ的王国でも「仮庵の祭り」があり、その時に世界の国々が万軍の主である王なるキリストを礼拝するためにエルサレムに巡礼者としてやってくる事と、その仮庵の祭りの時にエルサレムにやって来ない諸国には災害が下る事が預言されています
5)メシヤ的王国のエルサレムとなべと馬の鈴などが「聖なるもの」とされ、エルサレム神殿において献げるいけにえがそれらのなべで煮られる事と、神殿には商人がいない事も預言されています。
 【終わりに】
以上のように、イスラエルの預言者たちの預言活動の目的は、当時のイスラエルの罪を指摘し、悔い改めなければその罪に対する神の裁きによるイスラエルの厳しい苦難を告げる事でした。同時に、その苦難の中で神は恵みによって「残りの者」を存在させて、神の一方的な恵みにより神がイスラエルと結ばれたアブラハム契約などの4つの無条件契約の成就として、「メシヤ的王国」の実現を預言する事でした。イスラエルの先祖であるアブラハムやヤコブやヨセフやモーセ達が体験した様々な試練は、アブラハム契約の成就へ向けての試練である事も聖書は明確にしています。イスラエルの地上で受ける苦難の意義と目的が、その苦難によってきよめられたイスラエルを通して、罪の世が神の御国へと改善され、改革される為だという事は一切預言され教えられていません。それらは、岡山牧師の「艱難期によって多くの苦難を体験してきよめられた教会が『この世』を変革し続け、やがて来臨の日にキリストがそのわざを完成する。」(P42)という教えの例証になっていない事を教えています。