「ヨセフとモーセの信仰②」
聖書: ヘブル人への手紙 11:22~29
牧師:佐藤 勝徳

ヘブル11:23 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、 11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。 11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。 11:28 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。 11:29 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」

【はじめに】
ヘブル書の著者は、創造主の神との生きた交わりこそが、迫害下にあっても忍耐を与えられて苦難に打ち勝つ道だと、初代教会の迫害下にあるユダヤ人キリスト者を励まそうとしました。その創造主との生きた交わりの中に生きたのがヨセフとモーセでした。 彼らは創造主をいつも喜ぶ事、創造主に絶えず祈る事、創造主に万事を感謝する事を常に霊的習慣として身に着けていました。前回のメッセ―ジでは、創造主との生きた愛の交わりの中に生きたヨセフは、神の愛と知恵と力に満たされ、成功者として生涯を歩んだ事を伝えました。今回は、モーセの生涯から、神の祝福を受ける道を学びたいと思います。

その前に、前回もお伝えしました、万物を造っている原子について、もう少し学んでおきたいと思います。原子の事を深く考察するとある事が見えてきます。それは、この世界は元々塵一つない「無の世界」であったという事です。進化論では万物は偶然の積み重ねで出現したと教えていますが、その教えの間違いを原子が明確に教えています。偶然と言うのは、目的や意味あるものを生み出し、その為に力を働かそうと一切しない事です。目的や意味のあるものは、全て偶然の力によるものではありません。実は偶然には何かを生み出す為の力も無いのです。原子は、明確に目的意識と知恵のある存在者の力によって生み出されたもの、造りだされたものです。紙飛行機は、紙飛行機を造ろうという明確な目的意識と知恵とそのための力がある存在、つまり人間によってしか作る事が出来ません。紙飛行機を造ろうという目的意識もない知恵も働かせない力もない偶然に任せておけば、机に置かれた紙一枚によって、紙飛行機が見事にできるという事は絶対にあり得ません。原子と言う物質は神飛行機とは比較できない非常に緻密に精密に出来ており、明らかに万物を造る為と言う目的のもとに、知恵あるもの力あるものが存在させているとしか言いようがありません。原子は、目的意識も無い、知恵も働かせない、その為に必要な力をも働かせない、偶然では絶対に出来ないものです。良く進化論者が万物は小さな物質が偶然に爆発したビッグバンにより、偶然の積み重ねで出来た教えています。しかし、その教えには大きな大きな謎があるのです。それは、ビッグバンを起こした最初の小さな物質はどうして存在したのかを一切説かれていない事です。小さな塵一つも、見事な原子によって出来ています。原子の構造は、万物を造るという明確な目的のもと、知恵と力が働いて出来ている事は明確です。それは決して偶然には出来ません。偶然と言う意味を突き詰めて考えて行けば、偶然は塵一つ生み出す事が出来ない事が分かります。その結果、最初の偶然の世界では万物が一つも無かった無の世界であったという事が見えてきます。偶然の世界は永遠に無の世界なのです。聖書がそれを証明しています。宇宙と世界は元々、塵一つなかった無の世界であった事を聖書は教えています。箴言に次のように教えられています。「箴 8:26 主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。」。万物が一切ない無の世界に存在されていたのが全知全能の愛と知恵と満ちた神さまでした。そのお方は、万物が何もない無の世界に、万物を造る事が出来るお方だと、アブラハムは知っていたのです。アブラハムは創造主の神を無から有を呼び出す神だと知っていたのです。聖書は、神は、無から万物を創造された創造主だと一貫して教えています。その聖書個所を紹介しておきます。

①「ロマ 4:17 「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。」
②「ヘブ11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」
③「ヨハ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」聖書は原子によって出来ている塵一つさえも、キリストが創造されたと教えています。
箴言8章26節を含め、以上の聖書箇所は、神が既に存在しているある物質や材料から世界を造ったのではなく、物資や材料が全くない、塵一つない非物質的な「無」の状態から、神の言葉と力によってすべての存在を生み出した事を教えています。原子によって意味や目的のある万物を生み出すことができるのは、無から有を呼び出すことができる、全知全能の愛と知恵に満ちた神による事を聖書は教えています。
意味や目的のある物質が一つも存在しない無の世界においては、意味や目的を持ったものを生み出そうという力が一切ない偶然では、永遠に何も生み出す事は無いのです。しかし、無の世界に永遠の全知全能の神がおられたので、そのお方が目的をもって意味を持たせて、愛と知恵と力を働かせて下さった結果として、万物は存在しているのです。万物が全て偶然の積み重ねで出来たという進化論の教えは、非科学的であり大ウソの科学だという事を、私達は知っておく必要があります。学校の進化論教育、メディアの進化論による映像に騙されないようにしましょう。
万物を無から創造された全知全能の愛と正義に満ち溢れた創造主のなさる事は、いつも最高最善で美しいと信じていたのが、イスラエルをエジプトから解放したモーセや彼の両親やヘブル人のジュ産婦たちでしたでした。創造主を信じる、信仰の視点に立って、ヘブル者はモーセの生涯を短く要約して教えています。そのモーセの生涯から、創造主を信じる幸いについて学びたいと思います。

【モーセの生涯】
1、助産婦のシフラとプアの信仰
 最初に、モーセのお母さんの出産を助けたヘブル人の助産婦であるシフラとプアの信仰について学びたいと思います。彼女たちの信仰を教えている聖書個所をお読みします・
「出 1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。 1:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、 1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。 1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。 1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」 1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。 1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」 1:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

 1:20 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。 1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」
以上の神の御言葉は、シフラとプアという助産婦さんたちがパロ王の命令を恐れずに背いて、ヘブル人の生んだ男の子を殺さなかったのは、男の子を殺す事は、創造主の神の御心でないと分かっていたからでした。神のみ心に反する罪を犯せば厳しく罰せられて不幸にされるという事を彼女達は知っていました。その正義の神を日ごろからいつも喜び讃えていました。彼女たちは神の裁きはいつも正しく善い事、喜ばしい事、最善だと知っていました。また、神は、人を裁いて不幸にする事を決して喜ばれない慈しみ深いお方だという事も知っていました。その、神さまの裁きを喜び讃えながら神に裁かれる事を心から恐れていました。それが真の信仰です。真の信仰は、愛の神は同時に罪を忌み嫌い厳しく裁く正義の方で、その正義の裁きによって人を不幸にされる事を、神の最善の喜ばしき御業だと喜び讃えるのです。そして、その裁きを恐れて、神のみ心に反する罪や悪を退けるのです。それが彼女たちが日常生活において身に着けていた霊的習慣でした。
繰り返しになりますが、モーセが生まれた頃、エジプトのパロ王は、イスラエル人であるヘブルの女性が生む男の子は全て殺す事を命じていました。それは彼らの数がどんどん増えて来たので、自分達に反逆して敵の国に味方してエジプトに逆らい損害をもたらすのではと言う、邪推によるものでした。その為に、ヘブル人の女性が男の子を生んだらすぐに殺す事を助産婦たちにパロ王は命じていましたが、彼女らはパロ王を恐れずに、生まれたヘブル人の男の子たちを守りました。いつも、正義の神を神として喜びつつ、神に裁かれる事を恐れる真の信仰は、人の脅しを恐れる恐れから解放し、喜んで神に聞き従う事を得させるのです。伝道の書12章13節の「神を恐れよ。神の命令を守れ」という真理を助産婦たちは真理として認めて、その真理に喜んで生きていたのです。
「伝 12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 12:14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」
創造主を創造主としていつも喜び讃えつつ、絶えず祈り、万事に感謝する信仰は、神を恐れ、神に喜んで聞き従うという、真の信仰に生きる力を得させるのです。助産婦さんたちはその信仰に生きたので、神によって彼女たちの家も豊かに祝福された事を聖書は教えています。「1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」

2,モーセの両親の信仰
ヘブル書は、モーセが創造主の神を神として心から崇める両親がパロ王の命令を恐れずに、信仰によってモーセを生んだ事を教えています。
◆「11:23 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」
モーセの両親も、助産婦のシフラやプアのように、神を恐れ、パロ王の脅しを恐れず、モーセ生みました。そのモーセが大変美しかったので、なんとしてもこの子をパロ王から守ろうと3か月間、隠ししましたが、その子が成長し泣き声も大きくなって、それ以上隠し通す事は難しいと判断し、また、神が必ず助けて下さる事を信じて、信仰によって赤子のモーセを籠に入れてナイル川に流したのです。その モーセのお父さんはレビ人でした。つまり、やがてモーセ律法の祭儀に関わる務めをするレビ人の先祖だったのです。モーセのお父さんの名は「アムラム」で、お母さんはアムラムの叔母さんで名は「ヨケベト」と言いました。ヨケベデは、モーセ以外にモーセの兄アロンと姉ミリアムを生みました。
「彼らはその子の美しいのを見たからです」とありますが、旧約聖書では「出 2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。」と訳されています。美しいとかかわいいと訳されているヘブル語の原文では「トーブ(tov)」という言葉が使われており、これは創世記で神が世界を造った際に繰り返し啓示されている「神はそれを見て、良し(tov)とされた」の「良い」と同じ言葉です。つまり、モーセの両親はモーセが神の創造のわざとして特別に造られた子であり、神のアブラハム契約実現に向けて、また、神の似姿を回復した人物で罪に堕落した世界を満たすという神のビジョン達成という目的のために適した子であったことを意味して「良い」と理解したのです。モーセに対して両親がヘブル語で「トーブ」と言う言葉を使ったのはモーセの外見がかわいいとか美しいという意味ではないのです。神のビジョン、アブラハム契約実現に向けて良いという意味で、そのように言ったのです。モーセの両親がモーセの誕生に深い神の摂理の御手を感じ取る事が出来たのは、日々神様との生きた交わりがあった事を教えています。モーセの両親はヨセフのように、いつも創造主の神を喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝して、創造主との生きた交わりを欠かさなかったのです。それ故に、どう猛なパロ王の脅迫も恐れず、威風堂々として日々を歩んでいました。モーセを隠したからと言ってパロ王を恐れてはいなかったのです。隠すことが神のみ心と判断していた事によります。しかし、3ヶ月が過ぎ、モーセを隠す時の終わった事を思わされ、それが神のみ心と判断し、モーセをナイル川に流しました。それは明らかに神の御心であったので、モーセの命は助かり、パロ王の娘の子として育てられるという奇跡が起きました。

3、モーセの信仰
①喜んでこの世のはかない富を犠牲にした信仰
パロの娘の子どもとして、エジプトの栄光に包まれてモーセは育ちました。エジプトの教育、エジプトの富、エジプトの軍事力に包まれながらモーセは成長していきました。しかし、神を神としていつも喜び崇める信仰を持っていたモーセは、エジプトの富をこの世なはかない空しい富だと思っていました。その為に、創造主の神の名が讃えられるという神の栄光の為に喜んでこの世のはかない空しい富を犠牲にする事が出来ました。又、喜んで神の栄光の為にそしりを受ける事を喜びました。ヘブル書は次のように教えています。
◆「11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、 11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」
  モーセは、両親が籠に入れてエジプトのナイル川に流しますが、それがエジプトの王女の目に留まり、エジプトの王女の子どもとして育てられます。そこで、エジプト学問や宗教を学び、また軍事訓練を受けました。その彼が、どうして、創造主の神を神として崇める信仰を抱いて育つ事が出来たのでしょうか。それは、姉ミリアムの機転で、産みの親であるお母さんを乳母として、王女に紹介した事によって、モーセは創造主を心から崇める実際の母親に育てられたのです。もちろん、王女はその乳母がモーセの実際の母だとは知りませんでした。神さまの不思議な摂理がモーセに働いていました。それ故にヘブル書は「信仰によって、モーセは成人した」と教えています。創造主の神を神として喜び讃える信仰はエジプトにありません。その信仰は、イスラエル民族にありました。モーセはその信仰は幼い時から植え付けられて成長したのです。彼は、パロの娘の子どもとして贅沢に暮したり、エジプトのはかない快楽にふけるよりも、むしろ、創造主の神を神として喜び崇めている神の民とともに生きる事、その民と共に苦しむ事の方が価値があり幸いだと諭されていました。それ故に、神の民と共に苦しむ事を自分の自由意志の選択で選び取ったのです。ヘブル書の著者は、神の民であるイスラエル民族を導いていたの創造主の神は、まだ人となる前の神のみ子、キリストだと信じていましたので、創造主の栄光の為に受けるそしりを「キリストの故に受けるそしり」と述べています。その先在のキリストである創造主の為に受けるそしりは、エジプトの宝に優る富だと思いました。また、その信仰の歩みには神の豊な報いが祝福として与えられるという事も確信していました。
創造主を創造主としていつも喜び讃える信仰をもって歩み、神さまとの生きた交わりをもっていたモーセに、神さまから、真の価値観を正しく理解する知恵を授けられていたのです。彼は、エジプトが与える栄華は空しく、本当に価値ある宝は、神を神として喜び崇める信仰によって、神に従順に生きる事。またそれによって報いとして与えられる神の祝福だと諭されていました。それ故に、その祝福に与る為には、創造主を創造主として崇める信仰によって生きる生き方に対して非難やそしりがあっても、それを喜んだのです。モーセは、神を神として崇める信仰と従順によって与えられる報いが何かを明確に知らされていたのです。彼は、その報いから目を離さずに信仰を守り通したのです。まるで、パウロの様です、パウロは、厳しい迫害を受けながらもいつも神を喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝しながら、福音宣教に命がけで励みました。それは、その信仰と宣教の奉仕には報いがあるという事を良く知っていたからです。その報いからパウロも目を離す事は無かったのです。彼は、人生の終りが近づいてきたときに次のように告白しています。
◆「Ⅱテモ 4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」
神を神としていつも喜び崇める信仰は、神の報いに目を留め希望に満ちて生きる事をを良しとするのです。
創造主の神をいつも喜び、創造主の神さまに絶えず祈り、創造主の神さまに文字通り万事を感謝するという、創造主との生きた交わりは、創造主によって価値観が創造主の御心と一致するという、新しい心が造られていくのです。

② 信仰はモーセをパロ王を恐れる事から解放し、忍耐を与え、素晴らしい人格者に造り変えた
 モーセの神を神として喜び讃える信仰は、パロ王からいのちを狙われても、彼を恐れる事無く、エジプトを脱出しました。モーセは、自分の仲間であるイスラエル人がエジプト人に痛みつけられているのをみて、そのエジプト人を打ち殺しました、その事がパロ王に知られ、モーセはパロからいのちを狙われたのです。モーセはその時、パロ王を恐れる心は有りませんでした。神を神として崇める信仰は。不必要な恐れからモーセを解放していたのです。それは、あのシフラとプアと言う二人の助産婦さんと、モーセの両親にも与えられていた恵みでした。そのモーセの信仰をヘブル書は次のように教えています。
◆「11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです」
神を神としていつも喜び崇める信仰は、目に見えない創造主の神をまるで見えるかのようにして歩む習慣を身につけさせます。それをモーセは身に着けていました。それは、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの在り方と一致しています。その信仰は、又、忍耐を養うのです。神が与える忍耐によって忍耐深くなる人は、その人格がイエス・キリストのように素晴らしいものとして引き上げられます、パウロが次のように教えています
◆「ロマ 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 5:5 この希望は失望に終わることがありません」。
神を神としていつも喜び崇める信仰によって与えられる忍耐は、その聖徒の人格を清め、その品性は良くし、その良くなった品性によって希望が生み出されます。それが、神の似姿を回復した人物像であり、イエス・キリストに似せられた人格です。モーセは、キリストに似た人格性を持っていました。
◆「民 12:3 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった」。この柔和と訳されている言葉はガーナというヘブル語の糞訳ですが、その意味は「謙遜」です。柔和=謙遜と言う事になります。イエス様もご自身を「柔和で心へりくだったものである」と言われています。モーセは神を神としていつも喜び、その神さまとの生きた交わりによってその人格はキリストの姿に変えられて行ったのです。彼は、最も柔和なもの、最も謙遜なもの、と呼ばれていまし。それ故に神から、親友のように喜ばれ神はモーセに友のように語りかけました。更に、彼のように謙遜に満ちたメシヤが出現すると神から預言を受けました。それ故に、イスラエルをエジプトから解放し、荒野で40年間彼らを指導する事が出来たのです。神の民を指導する知恵や権威は神をいつも喜ぶという、神との生きた交わりの中に生きる人に与えられるものです。
◆「出 33:11 【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。」
◆「申 18:15 あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」
③過越しの祝福をイスラエルにもたらしたモーセの信仰
イスラエルが、エジプトから解放される時、モーセは神さまから、イスラエルの人たちに住んでいる家の門と鴨居に小
羊の血を塗る事を命じられました。それによって、滅びの天使が過ぎ越して行くという約束を受けました。モーセはその啓示と約束を心か喜び感謝して受けいれ、その通りに行いました。それを、ヘブル書の著者は「11:28 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました」と教えています。繰り返しになりますが、信仰によってという意味は、創造主の神の命令を最高最善として喜んで受け入れたという事です。もし、モーセが神を神として喜び崇める信仰が無ければ、過越しを実行できなかったのです。創造主の神を神としていつも喜び讃えるという事は、神の命令、神のみ心、神の御言葉、神の御業をいつも最高最善として最大級に喜び讃える事を意味しています。
◆「箴 6:23 命令はともしび、おしえは光、訓戒のための叱責は、いのちの道であるからだ。」
◆「詩 40:8 わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」
◆「詩 56:4 神にあって私はみことばをほめたたえます。」
◆「詩 145:4 代は代へとあなたのみわざをほめ歌いあなたの大能のわざを告げ知らせます。」
◆詩 92:4 【主】よあなたはあなたのなさったことで私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを私は喜び歌います。
もしモーセによって過越しが実行されていなければ、イスラエルの人々はエジプトから解放される事が永遠に失われ、イスラエルを通して神の似姿を回復した、イエスキリストのような人物で世界を満たすという神のビジョンが実現不可能となっていたのです。それ程、過越し祭におけるアブラハムの信仰による従順は重要でした。
創造主の神を神としていつも喜び崇めるモーセの信仰とイスラエルの人々の信仰は、二つに割れた紅海の道を、何の恐れもなく、わたらせました。紅海を彼らが渡ると木、両サイドにはそそり立った海の波がそこにあったのです。もし、それが崩れてしまえばたちまち海の藻屑と終わってしまいます。しかし、その時の椅子イスラエルの人たちには不思議にそのような心配はなく、神が守って下さると絶対的な信頼をもって、信仰をもって渡る事が出来たのです。創造主の神の愛をいつも喜び崇める信仰は、神の約束を絶対として信じ切る信仰の確信が聖霊によって持たされます。その聖霊による絶対的確信の故に、モーセとイスラエルの人々が、両側に壁のようになっている波打つ海を見ても、それが自分達に遅いかかかって来て、おぼれさせ滅ぼすかも知れないという恐れを持つことなく、紅海の道を渡り終えたのです。ヘブル書は次のように教えています。
◆「11:29 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」
エジプト人の軍隊は、創造主の神を神として喜び崇める信仰がありませんでしたので、イスラエルを連れもどそうとして、割れた紅海の道を渡ろうとしましたが、海は元通りになり、彼ら海に飲み込まれてしまったのです。神は、彼らが紅海でおぼれ滅んでいったことをどれほど痛まれ、泣かれ、悲しまれたか計り知れません。神さまが、イスラエルを選民として選ばれたのは、実はかられをも祝福する為であったのです。もし、エジプトの人たちがイスラエル呪わず、イスラエルを愛して祝福していれば、海におぼれて滅びるという裁きを受ける事は無かったのです。

【終わりに】
神さまは、神を神としていつも喜び崇める真の信仰に生きたヨセフの生涯を通して、神の栄光である祝福を彼にもたらし、彼の生涯を祝福しました。また、同様の信仰をもって歩んだモーセにも、神さまは祝福を与え奇跡を体験させられました。私達キリスト者も、キリストを信じる信仰によって罪が永遠に赦された者として、神を神としていつも喜び、絶えず祈り、万事に感謝する真の信仰の道を歩む事が可能な者とされました。私達も、その特権を生かして、ヨセフのように、モーセのように、創造主の神を神としていつも喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝しながら歩みましょう、その人は、神から知恵が与えられ、成功者となって周りの人々に神の祝福をもたらすのです。また、その人格がキリストに似せられ、神の似姿を回復した人物で世界満たすという神のビジョン達成の為に用いられるのです。又、神が与えて下さる報いにしっかりと目むけながら歩む希望に満ちた人になるのです。また、あらゆる恐れから解放されて、喜んで神に聞き従うものとなるのです。つまり、ヨセフやモーセのような人生を生きる事が可能となる、高い高い霊性が培われていくのです。神を神として崇める信仰こそ、我らの勝利です。