「創造主との生きた交わりの祝福」
聖書:ヘブル人への手紙 11:30~34
牧師:佐藤勝徳

「ヘブル11:30 信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。 11:31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。 11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。 11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、 11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」

【はじめに】
倉吉の 北の浜辺は 雪化粧
 愛する兄弟姉妹、お祈りをありがとうございました。私は1月20日に狭心症でカテーテルの検査と手術を受け、狭くなっていた血管を広げて頂きました。術後、回診に来られた医師に、「先生、これで後十年生きる事が出来ますか」と私が尋ねましたら「大丈夫です」と、仰って下さって一安心しました。24時間の絶対安静でベッドから一歩たりとも降りることが許されず、看護師さんたちのお世話になりました。その時の、喜びと感謝を歌ったのが「倉吉の 北の浜辺は 雪化粧」です。「倉吉の」は「倉吉厚生病院」を意味しています。北の浜辺は、北浜さんと松原さんと言う二人の若い看護師たちを意味しています。「雪化粧」は、優しく美しいという意味です。ちょうど手術をした日の夕方から倉吉に雪が降っていましたので、季語として「雪化粧」を選びました。私は、40年ほど前、胆のう摘除手術を受けた時、非常に苦しみましたが、不思議な体験をしました。それは、聖書の創世記2章に教えられている、アダムのあばら骨を使って創造主がエバさんを造られたという事が、神話でなく、文字通り字義通りの出来事だという事に目が開かれて信じる事が出来たことです。この度も、不思議な体験をしました。看護師さん達の優しいお世話を受けて、嬉しくて思わず「ここは天国だ」と思い「ヘブンリージョイフル」だと叫びました。私の傍におられた看護師がそれを聞いておられたので、「ヘブンリージョイフル」の意味が分かりますか、とお尋ねしましたら「分かりません」と言われたので、ヘブンリーは天国です、ジョイフルは喜びいっぱいです。ここは「ヘブンリージョイフルですね。倉吉厚生病院は「優しさ」がモットーですからね」と言うと、看護師はニコッとうなずいて下さいました。ベッドに絶対安静で横たわっている私に対する看護師の皆さんの優しに感謝していましたら、ある事を思い出し、涙があふれてきました。それは、昨年の2月雪がよく降っていた時の事です、今日死ぬかもしれないという危篤状態の叔父さん為に一人の当教会の姉妹が、本当に一生懸命にお世話をされていた事を思い出したのです。奥様も病気で付き添いがいなく、独り死んで行かなければならない孤独の寂しさと死の不安と恐れの中、物もしゃべれない状態、痰が度々のどに絡んで苦しんでおられるその叔父さんに、イエス・キリストの十字架の愛を懸命に伝えながら、お世話をされたその姉妹によって、どれだけ楽になり、心が喜びに満たされた事か、私は目に見えるように分かり、私は感動の涙に溢れました。この度の私の体験を通して、ベッドに横たわっていた叔父さんの喜びが分かったのです。また、私の愛する息子が、一昨年10月5日に難病の肝臓がんで最後最後まで、悶え苦しみながら、呼吸困難な苦しさの状態で息を引き取って行った意味も、はっきりと見えたのです。私は、神さまは、息子を何故もっと楽にしてくれなかったのかを考え続けてきました。神さまは、息子の苦しみや痛みや悶えを共有して下さっている優しきお方だと信じながらも、その疑問を持っていたのです。この度、私もとても苦しみましたが、息子の死んでいく時の苦しみを改めて思い返しました。その時、その意味が解けたのです。それは、キリストが息子の罪の赦しの為に、十字架でもだえ苦しみながら罪を負って死んで下さった事を、息子は天の御国で改めて諭され、喜びの涙、感動の涙にいっぱい溢れて、イエス様に感謝している事を想像する事が出来たのです。神さまは、私の疑問に答えて下さったなあと感謝しました。
 愛する兄弟姉妹、創造主の天の父なる神さまなさる事は全て理解が出来ませんが、その為さる事はいつも最善であり、最高に喜ばしきことです。その事を信じて、いつも創造主の神さま、創造主の御業、創造主の御心、創造主のご計画やビジョン、創造主の愛と正義、創造主の裁き、創造主による苦難を、気持ちよく、快く、気分良く喜び讃えながら、日々、創造主の御声を聞き分けて従いましょう。それが、創造主との生きた交わりであり、真の信仰です。

【旧約聖書に登場する聖徒たち】
 その真の信仰に生きた旧約時代の聖徒達が、ヘブル書11章30節から34節において、紹介されています。エリコの城を周ったイスラエルの人々、エリコを偵察に来たイスラエルの人たちを匿った遊女ラハブ、イスラエルが国家を形成するまでの間、イスラエルの人々を神さまのみ心によって裁いた士師のギデオン、バラク、サムソン、エフタ、そして、イスラル統一国家の第2番目の王であるダビデ、ダビデに油を注ぎ、イスラエル王とした先見者サムエル、その他多くの預言者達の事が紹介されています。
ヘブル書の著者によれば、これらの人々は、「信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、 11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れたのです。愛と正義と善と知恵と力に満ちた、何一つ不足やかげりや、躓くことない、永遠に全ての人々から永遠に喜び讃えるべき創造主の神の全てをいつも喜び讃えつつ、感謝しつつ、神の導き従って歩んだのです。その神の命令の中には、旧約時代において、聖戦と呼ばれる戦いがありました。その聖戦において勝利を治めるために、創造主との生きた交わりの中に留まり続けたので、創造主の知恵や力が与えられ、弱い者でありながら、強くされ、勇士にされて勝利を治めたのです。その一つの出来事が有名なエリコの城の陥落です。イスラエルの人たちは、400年間奴隷として苦しめられていたエジプトから解放され、荒野を40年間放浪した後、先祖のアブラハム、イサク、ヤコブに約束された乳と蜜の流れる約束のカナンの地に導かれました。しかし、そのカナンの地にはどう猛な先住民が住んでおりましたので、約束のカナンの地に定住するには、先住民との戦いは避けられませんでした。その先住民と戦う事が創造主の御心でありご計画でしたので、その戦いを神の戦いとして「聖戦」としてイスラエルの人々は戦ったのです。

【エリコを攻略したイスラエル】
そのカナンの地に「難攻不落」と呼ばれたエリコの町があり、堅固な城壁でその町は守られていました。神さまは、彼らとの戦いに勝利を治める戦略を指導者ヨシュアに示されました。その方法はとても不思議な方法でした。その方法はヨシュア記に教えられています。「ヨシ 6:1 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。
6:2 【主】はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。 6:3 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。 6:4 七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。 6:5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」
イスラルの人々がヨシュアに示された通り、エリコの城を七日間周りました。すると、エリコのその頑丈な城壁が崩れ落ちたので、イスラエルは一気にエリコを攻略する事に成功しました。エリコの城の攻略方法を改めて復習をしましょう。
神がヨシュアに教えられたエリコを攻略する為の8つの戦略
①先頭に、角笛を持った7人の祭司を配置する。
②7人の祭司のすぐ後ろに武装した兵隊を配置する。
③その兵隊の後ろに契約の箱を担いだ祭司が配置される。
④その祭司の後に武装した兵隊を配置する。
⑤以上の配置された祭司と武装した兵隊たちがエリコの城を周る。
⑥最初は、先頭の角笛を持った祭司たちが角笛を鳴らしながら、1日1回だけ6日間回る。
⑦その間、他のイスラエルの人たちは、一切声を出してはならない。6日間完全沈黙。
⑧7日目は、エリコの城を7回まわり祭司たちが角笛を吹くと、、ヨシュアが民に「ときの声を上げよ」と命じる。
その命令を合図に民の兵士も全員が叫び声をあげ、祭司たちが角笛を吹き続ける。
                                         エリコの城を周った隊列の図

ヨシュアとイスラエルの民は、その神さまの御心に完全に聞き従いましたので、神さまのお力でエリコの城は崩れ、イスラエルはエリコを攻略する事が出来たのです。
「ヨシ 6:20 そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。」
ヘブル書が教えている旧約時代の聖徒たちの真の信仰とは次の通りです。
①イスラエルも、全ての人も、愛と正義と善と知恵と力に満ちた創造主によってデザインされ、造られた事。
②そのお方は、全ての造られた者から永遠に気持ちよく、快く、気分良く喜ばれ褒め称えられるべき完全なお方であるという事実を事実として認め続け、いつもそのお方を喜び讃える賛美を絶やさない事。
③その上で、そのお方の御心は、私を幸福にしようとしての愛の御心だと信じて素直に聞き従えば必ず、幸福になり祝福される事を信じ切る事。
以上が、旧約の聖徒達の信仰であったと、ヘブル書の著者は教えています。

11章30節から34節に紹介されている、旧約時代の全ての聖徒達は、以上の真の信仰をもって歩みました。
それが、創造主との生きた交わりの中に自らをいつも留めていた事を意味しています。その神との生きた交わりに留まり続けた結果、「彼らは、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、 11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れる」と言う祝福に与る事が出来たのです。

【私達もデザインして下さった創造主】
 私達も、私たちをデザインし創造して下さった愛と正義と善と知恵と力に満ちた創造主は、永遠に気持ちよく、心良く、気分良く喜ばれ、讃えられるべきお方だという事実を事実として認め、にいつも創造主を喜びながら、創造主の御声に聞き従いましょう。キリストを信じた人の心には、キリストが魂の牧者、又、監督者として内住し、いつも必要な教えや導きの愛の御声をかけておられます。その細き愛の御声にいつも喜んで、気持ちよく、気分良く、快く従いましょう。それが創造主との生きた愛の交わりです。それが、真の信仰です。そのような真の信仰をもって日々を生きる習慣を身に行けている人は、精神的にも、霊的にも、健康的にも、物質的にも、あらゆる面で神の祝福に必ず与るのです。
エネルギーに満ちている人間も動物も植物等生命物質も、土や石や水等の全ての物質が、超緻密で超精巧な原子の組み合わせで出来ているという事実は、力のある全能の神、知恵のある全知の神が愛と目的をもって万物をデザインし創造されたとしか言いようがありません。自然界は素晴らしいデザインに満ち溢れています。刺繍作家「平野ほざなさん」は「花や虫の完璧なデザイン、神さまは絶対にいる」と断言されています。

一昨夜遅くでしたが、2011年に放送されたNHKの番組で、東京の聖路可国際病院の医師であった日野原重明さんの、生涯を紹介していました。日野原重明さんは、生涯現役を目指し、105歳で亡くなられたのですが、亡くなられる数年前に、「私は、感謝して死んでいきたいと思います。感謝する事が私の命です」と、言っておられた事が印象的でした。日野原重明さんはクリスチャンですので、当然感謝は創造主の神さまに対してです。その次に、多くの人々への感謝であったと思います。
日野原重明さんは、創造主との生きた交わりの中にいつも自分を置いていた、真の信仰の模範者の一人であったと思います。

また、詩画で有名な星野富弘さんも、創造主との愛の交わりに生きた模範者の一人でした。星野さんは次のように自分の信仰を告白されています。「私は24歳で大けがをしてそこから人生が変わりました。こういう何の役にも立たない人間が生きていていいのかなと思っていた時期に聖書に出会いました。どんな人間でも、どんな状態でも、人は神さまに必要とされている、大事にされている。聖書を読んでそう教えられた時、『生きていて本当に良かった!』と思いました。」と。

 

【創造主との交わりに生きる秘訣】                         

最後に、真の唯一の神である愛と正義と善と知恵と力に満ち満ちた聖なる神さまを、いつも快く、気分良く、気持ちよく喜び褒め称えて生きる秘訣を紹介しましょう。
人は、多くの罪を犯します。その罪によって良心の責めを感じます。良心による罪の呵責は、人の心から喜びを奪い、憂鬱にし、人間関係だけでなく、神さまとの関係も悪化させます。その結果、ある人はうつ病になる事があります。人の多くの精神的問題の根本的な原因は、強い罪意識による良心呵責にあると言われています。AIが次のように教えていました。「良心の呵責(罪悪感)は、適度であれば社会的な行動を促す正常な感情ですが、過剰、あるいは慢性的な場合は、心の病(精神疾患)の代表的な症状やリスク要因となります。」
その良心の呵責から解放される為に、 キリストは全ての人の罪を背負って十字架にお掛かりになりました。聖書に次のように教えられています。
「Ⅰペテ 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」

罪と言うのは、法律に反する不法と言う罪だけでなく、人を妬んだり、恨んだり、憎んだりするお勘感情の罪があります。又、人の心を傷つける言葉の罪もあります。人は思いの罪、言葉の罪、行いの罪を一生涯において数え切れないほど犯します。又、知らずして犯す過失と言う罪もあります。人間は、良心の働きによって、強い罪の呵責が来ると、顔を伏せ、下を向いて生きるようになります。それは、人の罪は赦されなければ、永遠に裁かれるものだという、死罪の感覚がその人にはたらいてうぃる事を意味しています。聖書は、人は良心の働きで、人の罪は全て死罪に価する事を知っていると教えています。イエス・キリストがなぜ十字架にかかって人の罪を背負って、身代わりの刑罰をお受けになったのかと言いますと、それは、人の罪は全て神の御前には死罪に価するものだという事をご存知であったからです。もし、その死罪に価する罪が永遠に赦されなければ、人は永遠に裁かれ、平安が無い永遠の状態の中で苦しみ続けなければなりません。創造主の神は、どのような人も、裁かれて永遠に苦しみ続けることを決して望んでおられません。パウロははっきりと次のように教えています。「Ⅰテモ 2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と。それ故に、人類には誰も、人の罪を背負って身代わりに刑罰を受ける資格のある義人は一人もいないので、天の父はご自分唯一のひとり子のみ子を人とならせ救い主として人類に遣わし、その御子キリストの上に人類の罪を全部負わせて、身代わりに十字架で裁かれたのです。キリストのその身代わりの刑罰によって、私達が一生涯において犯す全ての罪が赦され永遠に取り除かれたのです。その出来事が、2000年昔、ユダヤのエルサレムの町で起きたのです。その、キリストの罪の赦しの救いの御業が自分の為であったという事実を認め、キリストを自分の救い主だと信じた時に、天の父はその罪の赦しをその人に適用し、その人は実際に永遠に罪が赦され、永遠の義人と認められます。それを「信仰による義認」と言い、聖なる創造主の天の父との生きた交わりの中に導かれるのです。それを神との和解、神との平和だと聖書は教えています。
「ロマ 5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

パウロは、自分が永遠にキリストによって罪が赦されたので、自分は永遠に神との平和の中に生きる者となったと証言をしたのです。
【終わりに】
私たちが、自分の創造主である神さまをいつも、快く、気持ちよく、楽しく、気分良く喜び褒め称え、万事に感謝しながら生き、神の導きの御声に聞きしたがうと言う、神との生きた愛の交わりに生きる真の信仰に生きて、神さまによって神の知恵と力と助けが与えられて、あらゆる事で祝福されて生きる為に、十字架に私達の罪を背負って死に、三日目によみがえられたイエス・キリストを自分を永遠の裁きからの救い主だと心から信じて、永遠に神さまによって罪が赦され、永遠に神から義人と認められるという、神との和解を得ておく必要があるのです、そのような、和解を得ている人が、誰もがいつでもどこでも、創造主に近づき、大胆に祈り、賛美や喜びをお捧げする事が自由にできるのです。是非、あなたも、創造主との生きた愛の交わりにいつも自分を置き、神さまからのあらゆる祝福に生きる人なって下さい。