「主は道であり、真理であり、命である②」
聖書:ヨハネによる福音書 14章1節~7節
 牧師:佐 藤 勝 徳

「ヨハ14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」 14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

【はじめに】

弟子達は、ヨハネによる福音書13章において、キリストから、やがてご自身を裏切る者となるという預言を聞きましたが、その預言によって彼らの心は不安と恐れでいっぱいになりました。その恐れから彼らを解放する為に、キリストは「あなた方は、心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」とお語りになりました。

キリストは、弟子達を不安と恐れから解放する為に、やがて導かれる天の父なる神さまの家に目を向けるように教えられました。天の父の家は、天にあるエルサレムです。それは黙示録21章で啓示されている、やがて新天新地の地球に降りてくる都です。その都は宝石と純金で輝く都で、大きさは2200㎞もあるような巨大な立方体の都です。その、都には沢山の住まいがあり、その一角にキリストは弟子達と共に住む場所を用意しに天に行き、それができたなら、弟子達を迎えると約束されました。キリストは弟子達を将来に対する不安と恐れから解放する為に、例え、御自身を裏切ったとしても、その裏切りの罪が赦されて、天の父の家で御自身と共に彼らが喜びと平安に満ち溢れて住む事を約束されたのです。裏切り者の弟子達であっても、その将来は「バラ色」だとキリストは愛をもって教えらました。

1、父の家に迎えますの意味

 キリストは弟子達を、父の家に迎える為に、弟子達が父の家に行来る事が出来る「道」を備えられました。その道こそ、御自身への裏切りの罪の他、弟子達の全ての罪が赦されるため、その彼らの全ての罪を十字架で背負って身代わりの刑罰を父なる神さまから受けて、彼らの全ての罪の赦しの為の償いの血を流された事です。その償いの血を「贖いの血」とも呼ばれています。贖いと言うのは、代価払って買い戻すという意味があります。キリストの十字架の血は、罪人の弟子達を神の裁きから買い戻す為の、贖いの代価として流された血ですので「贖いの血」と呼ばれています。その十字架の贖い血こそが、裏切者の弟子達が赦されて、キリストが天の父の家に一角に備えられた場所、新居に行く為の唯一の道となりました。キリストがここで約束された「迎えます」は、死んだ弟子達の霊を「迎えます」という意味ではありません。やがて弟子達は死んでその肉体が墓に葬られます。その葬られた肉体を永遠に朽ちない、罪を犯さない、病気になる事がない、怪我をする事が無い、二度と苦しむ事が無い栄光の体に甦る時が来ます。又、霊魂は完全に栄化され完全な人格者になります。その出来事は、キリストが空中に再臨された時に起きると、パウロがⅠテサロニケ4章で教えています。「迎えます」とは、キリストが弟子達の死んだ肉体を甦らせ、その人格を完成させてから父の家に導くために、空中にまで来て迎えますという意味です。「迎えます」は、将来の主の空中再臨と教会携挙を意味して約束された預言です。

2、空中に来られる主はキリスト者の希望です

 主の空中再臨の時は誰も分かりません。キリストご自身も誰も知らない、父だけがご存知だと、キリストは教えられました。父なる神さまがキリストに向かって花嫁なる弟子達(花嫁なる教会)を迎えに行きなさいと、父なる神さまの「GOサイン」が出れば、神のラッパの響く中で、キリストは喜び勇んで、弟子達や全てキリスト者を迎えにすぐに空中に来られるのです。それが、Ⅰテサロニケ4章で教えられています。以下の通りです。

◆「Ⅰテサ4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」

父なる神の「GOサイン」がいつ出るか誰も分かりませんが、出ればすぐに来るという意味でキリストは「すぐに来る」と黙示録22章で約束されました。父なる神「GOサイン」は今この瞬間に出る可能性があります。つまり、キリストが私達キリスト者を天の父の家に迎えて下さる時は、今日かもしれないのです。私たちは、キリストが空中においで下さる時が今日かもしれないという、緊張の時の中に生かされています。そのキリストに向かって腹の底から「アーメン。主イエスよ、来てください」と、喜び叫ぶ事が求められています。その1番の理由は、キリストが愛と正義と謙遜と慈しみに満ち満ち溢れたお方だからです。私たちとって、その麗しい完全な人格者であるキリストにお会いできる事は何よりも光栄な事、何よりも喜ばしい事だからです。2番目の理由は、私たちの肉体が永遠に朽ちない栄光の体に復活したり、変えられたりするからです。第3番目の理由は、私たちの霊魂が完全になり「栄化」されるからです。第4番目の理由は宝石と純金で輝く栄光の天の父の家に導かれるからです。第5番目の理由は、天において花婿なるキリストとの「結婚式」が行われるからです。

私たちは、以上の理由で、主が空中まで迎えに来て下さる空中再臨を切に待ち望み、腹の底から「アーメン。主イエスよ、来てください」と、叫ぶ事をキリストが求めておられるのです。地上に残された仕事や財産や家族の事は父なる神が最善をなして下さる事を信じて委ねて思い煩うことなく、主の空中再臨の驚くべき恵みの数々を信じて腹の底から「アーメン。主イエスよ、来てください!」と叫びましょう。その様に叫ぶ人に、聖霊が必ず働き、より平安と喜びと希望で満たして下さるのです。天の父の家に導くために空中に迎えにおいで下さるキリストこそ私たちの「希望」です。

3、わたしだけが道である

「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月をみるかな」と、ある人が歌ったと言われていますが、、その意味は、色々な考え方の違い、宗教の違いはあるが、最終的に同じ真理、同じ幸福にたどり着くという意味です。ですから、この歌は、「あの考え方はだめ」だとか「あの宗教はだめだ」とか言ってはならない、この考え方も、この宗教も良いとして、お互いに争わないようにしようと言う、「相対主義」の考え方を教えています。それに対して、キリストは真っ向から「相対主義」を否定し、「わたしだけが道」だと断言し、御自身を絶対化されたのです。キリストは、罪に堕落している罪びとの真の幸福は、天地万物の創造主の天の父なる神さまによって永遠に罪が赦され、永遠に父なる神さまとの生きた愛の交わりの中に生きる事だという聖書の教える真理を前提に、そのような幸福を罪びとの私たちが手にできる唯一の道が「わたし」だと断言されたのです。「わたしは道である」と言う「わたしは・・である」と訳されている新約聖書の原語であるギリシャ語は「エゴー エイミ」が使用されています。何故、キリストは「エゴーエイミ」を使って御自身の絶対性を教えられたのでしょうか。それは、昔、創造主の神さまがモーセにご自分の名を「わたしは有る」だと教えられた事に起因しています。聖書の次のように教えられています

◆「出 3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」 3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

英語のキングジェームス訳では以下のように翻訳されています。
「Exo 3:14 And God said unto Moses, I AM THAT I AM: and he said, Thus shalt thou say unto the children of Israel, I AM hath sent me unto you.」
 「わたしはある」と訳されている旧約聖書の原語ヘブル語は「イフィエ アシェル イフィエ」です。それをギリシャ語に翻訳した70人訳聖書(セプチャーギンタ)では「エゴー エイミ ホ オーン」と訳されています。「ホ オーン」「ある」と言う意味です。

「わたしはある」と言う神の名の意味は、唯一絶対の神だという事です。創造主の神はご自分が存在する為に、ご自分以外のなにものかに依存する必要が無い、ご自分のみで「自存」できるお方です。自分だけで自存出来る方を「絶対者」と言います。つまり、絶対者とは、自分に相対する存在を絶つ存者を意味しています。絶対者と比較して、天使や人間やあらゆる存在は、自分の存在の為に、相対する存在を必要としています。自存する為には、何かを必要としているので「相対的」な存在と言われます。「相対的」な万物は、絶対者の創造主によってはじめて存在出来るのです。人間は、存在する為には、水や空気や太陽や様々な食物を必要としていますので、「相対的」な存在です。キリストは、ご自分が相対的な存在でなく、「絶対者」と言う事を教えるために、出エジプト記3章14節の神の名を使ってご自分が「道であり、真理であり、命である」と、断言されたのです。その断言の後に、キリストは改めてご自分が神だという事を教えられました。
◆「ヨハ14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

4、キリストが絶対の創造主だと教えるヨハネによる福音書

どの福音書もキリストが絶対の創造主の神だと教えていますが、より明確にその事を教えているのが「ヨハネによる福音書」です。その第1章1節~3節で、ヨハネはキリストをことば(ロゴス)」と呼び、ことば(ロゴス)は永遠の昔から存在し、万物の創造者だと教えています。
◆「ヨハ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
また、万物の創造者である「ことば」は人なったメシヤであり、父なる神さまの懐におられる「ひとり子の神」だと教えています。
◆「ヨハ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
◆「ヨハ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

以上の第1章の教えを前提に、ヨハネは福音書を書き、キリストが何度も「エゴーエイミ」を使ってご自身を絶対の創造主の神だと断言された事を教えたのです。以下がその教えです。

①わたしはいのちのパンであ(6:35)。 ②わたしは世の光である(8:12)。 ③わたしは良い牧者である(10:14)。 ④わたしはよみがえりであり、命である」(11:23) ⑤わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)。⑥「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1) ⑦「アブラハムの生まれる前からわたしはいるのです」(8:58)

8章で、キリストはパリサイ人たちと不思議な問答をされています。キリストがその時代から遡って約2000年昔の「アブラハム」が「メシヤである御自身の来臨の日を見る時が来ると思って楽しみにしていた事を、私は見て喜んだ」と、アブラハムを見たと告げました。

◆「8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」

 以上のキリストの言葉に、パリサイ人達は「あなたはまだ五十歳にもなっていないのに、アブラハムを見たというのですか」と、問いかけました。パリサイ人たちは、生まれてまだ50歳にもならない者が、どうして2000年昔の、アブラハムを見たと何故言えるのか、問い詰めたのです。キリストが神だと認める事が出来ないとんちんかんな質問です。キリストは、人として生まれる前から存在している先在の永遠の神だと、告げられたのですか、彼らはキリストが人として生まれてから「アブラハム」を見たと言ったと勘違いして、とんちんかんな質問をしたのです。キリストはそのとんちんかんな質問に、次のようにお答えになりました。「まことに、まことにあなた方に告げます。アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」と、改めてご自分がアブラハムの生まれる前から存在している永遠の神だと教えられました。その「わたしはいる」ということばが「エゴーエイミ」なのです。キリストは、パリサイ人たちに、永遠の昔から存在している「自存の絶対の創造主」を意味して「アアブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」と断言され、モーセに啓示された神の名を使用されたのです。新共同訳と英語のニューキングジェムス訳では以下のように翻訳しています。

◆「8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(新共同訳」◆「Joh 8:58 Jesus said to them, “Most assuredly, I say to you, before Abraham was, I AM.”」(NKJV)

5、キリストは道である

キリストはご自身の事を「道」だと教えられましたが、どういう意味でしょうか。「道」と言う言葉は、聖書では「人の生活」「人生」を象徴的に教えている言葉として使用されています。箴言3章6節の「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」が有名です。その人の生活や、人生が主の御心、神の御心と一致していれば「主の道」とか「神の道」と呼んでいます。

◆「詩 128:都上りの歌。1 幸いなことよ【主】を恐れ主の道を歩むすべての人は。」
◆「ヨブ 23:11 私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それたことがない。」

キリストは以上の旧約聖書の教えを背後に、ご自分を神に近づく「唯一の神の道」だと教えられたのです。キリストはご自身の事を、罪びとの私たちが、罪赦されて天にいます父なる神さまにいつでも、どこでも、どんな時でも大胆に近づく事が出来る、神が備えられた「神の道」だと教えられたのです。そのキリストを、聖書は「唯一の仲介者」と「唯一の仲保者」と呼び、天にいます父なる神と罪びとの私たちとの和解、交わりの為の中を取り持つ存在だと教えています。
◆「Ⅰテモ 2:5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」
私たち罪びとは天の父なる神さまに直接に近づく事は誰も出来ません。道であり、仲保者であるキリストのみによってはじめて近づくことが出来るのです。つまり、私たち罪びとは、キリストが十字架で私たちの罪の赦しの為に十字架で身代りの刑罰を受け、贖いの血をお流し下さったという贖罪の御業があって初めて「天にいます父なる神さま」に近づき、お交わりする事が可能となったのです。賛美も、祈りも、礼拝も道であるキリスト、仲保者であるキリストによってはじめて捧げる事が可能となったのです。キリストはその事を教える為に「わたしの名によって祈りなさい」と命じられました。
◆「ヨハ 16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」
お祈りの最後に「主の聖名によって祈ります」「キリストの聖名によって祈ります」と言うのは、道であり、仲保者であるキリストなくして、天の父なる神さまに祈る事が出来ないという真理を教えています。
私たちは、日々の生活(道)において、天の父なる神に近づく唯一の道であるキリストによって父なる神に近づき親しく喜びの交わりが可能とされたのです。 それが福音です。

6、キリストは真理である

キリストは「道である」に続いてご自身を「真理である」と断言されました。キリストそのものが真理であるという事は、キリストの生活と御業とみ教えの全てが神の御心に叶った正しい教えだという事を意味しています。それ故に、キリストの全ての教えと言葉を絶対の神の正しい言葉として喜んで感謝して受け止めて良いのです。キリストの教え、言葉、御業、生活は誰からも絶対に批判される事が無い真理そのものです。その真理そのものであるキリストが、信じる全てのキリスト者の霊の中に住み、一つとなって下さいました。それ故に、キリスト者は真理に生きる者と既にされているのです。その霊的事実に安んじて感謝し喜ぶ時に、真理であるキリストは大変喜ばれ、そのキリスト者に聖霊を働かせて実際に真理に生きる者として下さるのです。

①初期キリスト教会に入りこんで来た間違った教え

初期キリスト教の時代から、異端の教え、間違った教えが教会に入りこんできて教会を惑わしてきました。その異端の教えは、キリストが「絶対の創造主の神だ」という、キリストの神性を否定する教えでした。また、罪びとが罪赦されて、霊に聖霊とキリストが内住して下さる為には、キリストを信じる信仰だけでは駄目で、それに+割礼が必要だという律法主義の福音が教会に入り込んできました。「信仰+行い」という律法主義の福音をパウロは「別の福音」と呼び、そのような福音を伝える者は「呪われよ」と厳しく戒めています。更に、「主の日」と呼ばれる大艱難時代が来ていないのに「来た」と教える間違った「終末論」が教会に入り込んできました。主の日が来るためには、先ず、「不法の人」「滅びの子」と呼ばれる「反キリスト」の出現が必要だとパウロは教えました。
◆「Ⅱテサ2:2b主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」
AD1世紀末から2世紀中ごろにかけて、反ユダヤ主義とギリシャ的二元論により「置換神学」が教会に入り込んできました。その神学により「イスラエルを祝福する者は祝福される」と言う、アブラハム契約重んじる教会が姿を消していきました。AD2世紀末末から4世頃になると、偉大な神学者であり知の巨人と呼ばれた「オリゲネス」がギリシャ正教会などの東方教会に「置換神学」を拡大して行きました。又、同じように偉大な神学者として尊ばれている「アウグスチヌス」がローマカトリックの正方教会に「置換神学」を拡大させ根付かせて行きました。アウグスチヌスの「置換神学」の教えは、現代のキリスト教会にも多大な影響を与え続けています。
「置換神学」とは、ユダヤ人がキリストを十字架に付けて殺したので、その罪の為にユダヤ人は選民の資格が取り去られ、また、ユダヤ人と神が結ばれた4つの無条件契約も取り去られた。その選民の資格と4つの契約は「新しい霊的イスラエルである教会に置き換えられた」と言う神学です。その教えは、聖書に無い偽りの神学です。
同じ聖書を読みながら、どうして多くの神学者や牧師方が聖書の教えから逸れた神学を構築するようになったのでしょうか。それは、キリスト者の霊に内住されている真理そのものである「キリスト」に聞くという事を怠って来たからです。真理そのものであるイエス・キリストとの生きた交わりの中で、キリストに聞くという姿勢が不十分である為に、間違った人間的な解釈をするようになったのです。主との生きた交わりが十分であるならば、真理であるキリストが必ず間違った聖書解釈から守って下さり、間違った神学に囚われないようにして下さるのです。

②対話的聖書通読法

私たちは、真理そのものであられるキリストから聖書の正しい解釈を教えて頂く事が出来るのです。その為に、聖書をキリストと生きた対話をしながら読む事です。聖書は単なる宗教書や道徳書ではありません。創造主の神の聖霊によって約40人のユダヤ人著者によって書かれた神の霊感の書であり、神からの愛の手紙です。創造主の神であるキリストが聖書の真の解釈者です。ですから、キリストと生きた対話をしながら聖書を読むときに、キリストが間違った解釈から守り、正しい解釈へと導いて下さるのです。

では、キリストと生きた対話をしながら聖書を読むというのは実際にどうすればよいのでしょうか。それは、第1に聖書を詳細に観察する事です。詳細な観察の結果、初めて知った教えや真理や出来事などがあれば、「主よ、この教えは初めて知りました、感謝します」「主よこの出来事は初めて知りました。感謝します」「主よこの真理は初めて知りました。感謝します」と、感謝を捧げるのです。また、疑問に思った事があれば「主よ。この教えの意味が分かりません。どういう意味でしょうか。教えて下さい」と、主に、直接教えを聞くのです。その答えはすぐに無いのがほとんどですが、後に、何らかの方法で主の答えを知る時が与えられるのです。その他、色々と感じた事、恵まれた事を主に直接申し上げて主との対話を深めるのです。躓いた事があれば、心低くしながら、その躓きの思いを正直に打ち開けるのです。正直さが大事です。以上が、主と生きた対話しながらの「対話的聖書通読法」です。注解書や参考書は最後の最後に読むようにします。また、聖書地図があれば、地名を調べる事が出来るので、大変参考になって良いと思います。また、聖書は引照付きをお勧めします。引照箇所は解釈の参考になる事があります。「対話的聖書通読法」は御言葉の詳細な観察しながらですので、一度にたくさんは読めないと思います。日々の生活の中では文脈の一区切り程しか読めないでしょう。短くても良いので、大事なのは一日に一回は聖書を静まって「主と対話しながら」読む習慣をしっかりと身に着ける事です。真理の主は、少年サムエルように「僕、聞きます。主よ、お語り下さい」と、主と対話しながら聖書を忠実に読み続け学び続ける者を、間違った解釈、間違った神学から守り、正しい聖書解釈できるように助け、真理に生きるようにして下さるのです。

6、キリストはいのちである

キリストは「わたしは命である」と断言されました。キリストがキリスト者の命であるというのは、キリスト者の霊に内住されいてるキリストが、キリスト者を「神の御心に叶った生き方が出来るように」内側から力を与え助け生かして下さるお方だという意味です。キリスト者はこれから「神の御心に叶った生き方が出来る者」でなく、既に、命のキリストに満たされて、「神の御心の内を生きる者」と既にされているのです。その霊的事実を認め、喜び、感謝し、安んじる人に、命のキリストが聖霊を働かせて、キリスト者の魂に御霊の実を結ばせて、実際に神の御心に叶った生き方をさせて下さるのです。

【終わりに】

私たちが、この地上で、あらゆる不安や恐れから解放されて生きる道は、キリストが天の父の家に、既にご自身と住まう新居を愛もって備えられておられ、父なる神さまのGOサインが出れば、喜び勇んで私たちを迎えにすぐに空中に来られ、私たちの肉体を永遠に朽ちない栄光の体に復活させ、又、変え、また、霊魂を完全にして人格を完成させて、空中に携え挙げ、天の父のなる神さまの家の一角に備えられた新居に導いて下さる、と言う約束を心の底から喜び、希望に満たされて日々「アーメン。主イエスよ、来たりませ!」と、主に向かって叫ぶ事です。「主よ、今日来てください!と心底から叫ぶ再臨待望に生きる信仰に、聖霊が働き、あらゆる不安や恐れから解放して下さるのです。
又、道であるキリストを通していつも父なる神さまとの生きた親しい交わりの中に日々身を置くことです。その父なる神さまとの親しい愛の交わりに生きる実践がいつも喜びを神さまに捧げ、万事に感謝を捧げて歩む習慣を身に着ける事です。
更に、真理のキリストが自分と一体となって下さって、一体となって下さった真理のキリストによって、既に真理に生きる者とされているという霊的事実を認め喜び安んじる事です。その信仰の喜びをもって、主と対話しながら聖書を読む習慣をしっかりと身に着ける事です。そうすれば、真理のキリストが真理の聖霊と真理の聖書によって真理に生きるようにして下さるのです。
最後に、神の御心に叶った生き方をする為に、一体となって下さった命のキリストによって、そのような生き方が出来る者とされているという霊的事実を認め、喜び、安んじる事です。その、信仰から来る喜びと平安と感謝に、命のキリストが聖霊を働かせ、聖霊によって神の御心に叶った生き方が実際に出来るように助けて下さるのです。
キリストはあなたの希望です。キリストはあなたの道です。キリストはあなたの真理です。キリストはあなたのいのちです。「主よ。あなたはわたしの希望です。あなたはわたしの道です。あなたはわたしの真理です。あなたはわたしの命です」と、繰り返し大胆に大きな声で叫びましょう!