「愛の実践の秘訣②」
聖書:Ⅰコリント13章1節~13節
牧師: 佐藤 勝徳
「Ⅰコリ13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。 13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。 13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
【はじめに】
パウロは愛の冷えた原始コリント教会を愛の教会へと聖霊によって刷新され、改善される為に、コリントびとへの手紙を書きました。パウロが強く訴えたのは、パウロが定義する愛が無ければ、キリスト者のどのように言動も、どのような犠牲的奉仕も、神さまの栄光の為には何の役にも立たない空しいもの、無意味なものだという事でした。
1、キリストの報いを定める裁き
私たちは、すぐにでも空中に来られるキリストによって天に引き上げられますが、その時、キリストの報いを定める裁きの座に導かれます。その時に、地上で行った愛の言動、愛の犠牲的奉仕に対して冠が授けられ、メシヤ的王国で受ける報いを祝福として言い渡されます。しかし、人の目に愛のように見えて、実は愛で無かった一切の肉の言動や、犠牲の奉仕には何の冠も報いもありません。そうした肉の奉仕、肉の犠牲、肉の言動によった功績は全てが藁のように、木のように、草のように焼かれて滅びてしまうのです。肉の言動が全て焼かれるという事についてパウロは次のように教えています。
◆「Ⅰコリ 3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」。
以上のパウロの教えは、恐らく、キリストの名によって行った地上の肉の言動や奉仕を木、草、藁に例えて、その肉によった功績の痕跡を示す、地上にある全てが焼き尽くされるのだと思います。立派な神学書も、その歴史を記録した歴史書も、立派な建物も、立派な銅像も、立派な勲章や賞状も、立派な会社や事業も、全てが焼き尽くされ、肉の言動や犠牲の奉仕に関して地上においても誰も称賛しなくなるのだろうと思われます。私たちは、キリストの裁きの座に立っている場所で、地上に起きている肉の言動による全てのものを焼き尽くされている神の裁きの厳しさを改めて知らされ、お互い顔を真っ赤にして恥ずかしく思うのだろうと思います。木、草、藁に例えられる地上における肉の言動、肉の奉仕の為に決して有罪にされる事はありません。しかし、お互い大変恥ずかしく思うのです。その事を意味してパウロは「自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」と表現しています。しかし、逆に、人の目に隠れたどんな小さな言動や奉仕や犠牲を含めて、御霊による愛から出ているものは金、銀、宝石に例えられ、その言動に対しては、キリストから冠が授けられ、メシヤ的王国で受ける大きな大きな報いが言い渡されるのです。キリストはその報いの事を次のように教えられました。
◆「マタ 10:42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」
キリストの裁きの座では、どんでん返しが起きるのです。地上でこの人は大きな報いを受けるだろうと思われた人でなく、名もなく貧しい人、名の知られていない人、人の目に殆ど止まらず本当に隠れた奉仕に専念した人が、より素晴らしい冠と大きな大きな報いを受けるという事が起きるのです。キリストをその事を意味して「マタ 20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります」と教えられました。
パウロが定義した愛によるベストを尽くしての言動、奉仕、犠牲には、キリストの空中再臨による携挙後の裁きの座で、素晴らしい冠と報いが待っているので、パウロは次のように教えました。「Ⅰコリ15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」
主の業とは、、それがパウロの定義した御霊による愛を動機とした奉仕のことです。パウロは、愛を動機とした全ての言動、奉仕、犠牲には必ず、空中に来られたキリストによって報いが与えられるので、自分のからだを鞭たたいて奉仕に励むと証言しています。
◆「Ⅰコリ9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。 9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。 9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
パウロが、どんな犠牲を払ってでも御霊による愛をもって全力を尽くして福音宣教に励む理由は、失格者にならず、待っている神さまから報いとしての賞を得る為だと証言しています。 パウロは、そのように生きて来た自分に待っているのは義の冠だとも証言しています。
◆「Ⅱテモ 4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
パウロは、主の空中再臨時の携挙後に、報いを定めるキリストの裁きがある事を信じ、その時に義の冠と報いが自分を待っている事を確信していました。それ程、パウロは純粋に御霊による愛を動機に宣教に励み、キリスト者としての信仰の歩みをしてきたと、証言しました。
2、御霊の愛に生きる土台
先週、パウロが定義した御霊の愛に生きる為の土台は、神に愛されている喜びで心を満たす事、次に健全な自己愛で自分の心を喜びで満たす事、更に人の命はたちまち消えゆく霧に過ぎなく今日で終わる可能性があり、また、主の空中再臨が今日起こり、地上の生活が今日終わるかもしれない可能性がある事を思い、今日一日を喜んで全力を尽くして生きようとする心、その三つが愛に生きる土台だとお伝えしましたが、もう一つ土台があります。それは、主の空中再臨時に携挙された後に天でなされる、報いを定めるキリストの審判において立派な冠と幸いな豊な報いを受ける為に、御霊による愛をもって全力を尽くして仕事をし、奉仕をしますという強い動機を持つ事です。
愛する兄弟姉妹、あなたは、キリストの報いを定める裁きの座で、冠と祝福に満ちた豊かな報いを受ける為と言う動機で、パウロが定義した愛によって生きる事、愛の実践に励んで来られたでしょうか。
3、御霊の愛によって生きる秘訣
以上の4つ土台の上に、パウロの定義した愛に実際に生きる人生構築の為の秘訣を改めて学びたいと思います。その為にもう一度、パウロの定義した15の愛について、確認をしておきましょう。
4、15の愛の定義
①寛容 ②親切 ③妬まない ④自慢しない ⑤高ぶらない ⑥礼儀を重んじる ⑦自分の精神的利益、物質的利益を求めない ⑧怒らず ⑨人から受けた悪を思わない ➉不正を喜ばない ⑪真理を喜ぶ ⑫がまんする ⑬邪推を否定し全てを肯定的受け止めて信じる ⑭全てを肯定的に捕らえ未来に期待する ⑮全てを耐え忍ぶ
以上の15項目でパウロは愛を定義しました。以上の愛は、永遠の愛に絶えない愛だとパウロは教えています、つまり、パウロの定義した愛は、全ての人を永遠に愛する「神の愛」だという事を意味しています。それ故に、その愛は全ての人に平等に向けられている「神の平等の愛」を意味しています。また、全ての人に平等に向けられる愛ですので、その愛は同時に「神の無条件の愛」を意味しています。その愛は、永遠に尽きないので「神の無限の愛」を意味しています。
キリスト者には、パウロが定義した愛の15項目を意味する平等の愛、無条件の愛、無限の愛で人を愛する人生を構築する事が求められているのです。
5、愛に生きる事を妨げる古い人
ところが、キリスト者の内には、その愛の実践を妨げる厄介な大きな問題があります。それは、貪欲の塊である「古い人」と呼ばれる「罪の性質」を持った自分が残存している事です。古い人と呼ばれる罪の性質を持った自分からキリスト者の思いの中に、愛とは真逆の邪悪な思いがしばしば起きて悩ませています。罪の性質と言うのは、アダムの堕落によてこの世界に入りこんで来た罪の力によって貪欲な心を持ってしまう性質の事です。その罪の力をパウロは、罪の法則と呼んでいます。罪の法則の罪のギリシャ語は「アマルティア」と言う単数形の言葉となっています。英語では「SIN」です。人が犯す多くの罪はギリシャ語では「アマルティアイ」と言う複数形の言葉が使用されています。。英語では「SINS」です。単数形のアマルテイアは、罪の性質を持った古い人に働いて貪欲にさせ多くの邪悪な罪を犯させている悪の力です。複数形の罪アマルティアイは、単数形の罪アマルティアによって貪欲になった古い人が犯す多くの罪の事を意味しています。日本語訳では、単数形のアマルティアも、複数形のアマルティアも同じ「罪」と訳しているので、その意味の違いをすぐに理解が出来ないので、気を付けて文脈に沿って正しく理解をする必要があります。罪の性質を持った古い人は、全ての人に対して平等に寛容な心は持たせません。親切な心は持たせません。妬ませます、自慢させます。高ぶらせます。礼儀を失わせます。人の利益を求めさせません。人の悪を思い続けさせます。自分の利益の為に不正を喜ばせます。真理を喜ばせません。我慢させません、邪推で満たします。いつも否定的に物事をとらえさせます、全てを耐え忍ぶ事をさせません。
6、古い人を如何に対処するか
キリスト者が、罪の法則と言う悪の力で貪欲な心もって様々な邪悪な思いを持つ自分、古い人を正しく対処する信仰の知恵を会得していなければ、神の子として、神の僕としてパウロの定義する神の永遠の愛、平等の愛、無条件の愛、無限の愛で生きて、神の栄光の為に役に立つ生き方が出来ません。どうでしょうか。愛する兄弟姉妹方は、古い人を正しく対処する信仰の知恵を働かせて、永遠の愛、平等の愛、無条件の愛、無限の愛で日々を歩んでおられるでしょうか。まだ、会得していない人の為に、短くその真理をお伝えします。
①人が古い人となった原因
人は、全て、アダムの堕落によって罪の性質を遺伝的に受け継いで生まれています。罪の法則によって貪欲になるという罪の性質は罪犯して堕落したアダム以降、全て人が分け隔てなく遺伝によって受け継いで罪びととして誕生しているのです。聖書が人を罪びとと言う時は罪を多く犯しているか「罪びと」と言う事でなく、罪の性質を持って誕生しているので「罪びと」と呼んでいます。人は全て罪の性質を持って生まれた罪びとなので、生まれてから人は多くの罪を犯しているのです。その生れながらの罪びとを別名「古い人」と聖書は呼んでいます。
その罪びとの古い人が、神の聖なる性質に与り、キリストのように神の永遠の愛、平等の愛、無条件の愛、無限の愛、敵をも愛する愛もって生きる新しい人とする為に、父なる神さまは、御子なる神を人としてこの世界にお遣わしになりました。それが、2000年昔、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったイエス・キリストです。イエス・キリストが、遣わされた目的は多くありますが、ここでは二つ紹介しておきます。
②古い人が犯した罪(複数/アマルティアイ)を全て取り除いたキリスト
一つは、人類の過去・現在・未来の全ての複数の罪(アマルティアイ)を取り除く為です。もう一つは古い人を新しい人にする為です。最初の、人類の複数の罪を取り除くという、救いに関して多くのクリスチャンは良くご知っていると思います。それは、キリストが十字架で人類の全ての永遠の死罪に価する複数の罪を背負って、十字架で身代わりの刑罰を父なる神から受けられて、複数の罪の償いを完全に成し遂げられたという事です。全ての複数の罪の償いが十字架で終わりましたので、人類の全ての複数の罪は取り除かれたと聖書は教えています。つまり、人類は犯した罪が取り除かれたので、神によってその犯した罪のために怒りを受けて裁かれるという事は無くなったというのです。しかし、その救いは、その歴史的事実を信じる人のみに適用されますので、その救いを「信仰によって義と認められた」とパウロは教えています。キリストが、約2000年昔にエルサレムのゴルゴダの丘で、過去・現在・未来の全ての死罪に価する複数の自分の罪をキリストが背負って刑罰をお受け下さった時、自分の全ての罪は既に永遠に取り除かれ、永遠に赦されたと信じる人が、その救いを適用され、実際に永遠の刑罰から解放されるのです。その人を「信仰によって永遠の義人と認められた人」だと、聖書は教えています。
③人類の代表者である最初のアダムと最後のアダムであるキリスト
では、何故、イエス・キリスト一人だけで人類の全ての複数の罪を背負って身代わりの刑罰をお受けになる事が出来たのでしょうか。それは、キリストが人類の新しい代表者として遣わされた事によります。聖書は、最初に創造されたアダムは人類の代表者であった事を教えています。それは、彼が、約6000年前にエデンの園で、禁断の木の実である善悪知る木から取って食べたという罪は、同時に人類が犯した罪だとパウロは教えています。一人のアダムが犯した罪がなぜ人類の罪となるのでしょうか。それは、アダムが人類の代表者として人類を包含していた事にあります。人類はアダムに包含されていたので、人類は「アダムにあるもの」であると教えています。
聖書が次のように教えています。
◆「ロマ5:18ひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」
◆「Ⅰコリ15:22アダムにあってすべての人が死んでいる」
アダムがなぜ、人類を包含する人類の代表者として創造されたのでしょうか。それは、やがて、人として遣わされる神の御子キリストがアダムの創造の前に人類の代表者となっていた事によります。父なる神の胸の内に既に存在していた人となる御子なるキリストを、父なる神は人類の代表者とされていたのです。父なる神が、アダムを創造された時、父なる神の胸の内にあった人類の代表者であるキリストのひな型として創造されたのです。その事を、パウロが次のように教えています。「ロマ15:14アダムはきたるべき方のひな型です」と。
地上の歴史では、アダムが先に生まれ、キリストが約4千年後に生まれていますから、アダムがキリストのひな型と言うのは矛盾しているように思えます。しかし、父なる神の愛の想像のキャンパスには、既に、キリストが存在していましたので、その、父なる神の思いの中に描かれていたキリストがやがてベツレヘムので誕生するのでそのキリストを原型とし、アダムをそのひな型として創造されたという事であれば矛盾しません。
ベツレヘムにお生まれになってイエス・キリストは父なる神の思いに既に描かれていた人なるキリストは人類の代表者でしたので、そのひな型として創造されたアダムは人類の代表者として創造されたという事が分かります。又、ひな形のアダムが人類の代表者だという事は、原形のキリストも人類の代表者として父なる神の思いの中に描かれていた事が分かります。
キリストを原型に創造された人類の代表者であるアダムをパウロは「最初のアダム」と呼び、また、人類の代表者であるキリストを最後のアダムと呼んでいます。キリストを最後のアダムと呼んでいるのは、キリストの後には、人類を代表するアダムは出現しないからです。人類を代表するアダムはイエス・キリストで終わりますので、キリストの事が「最後のアダム」と呼ばれているのです。
④人類はキリストと共に十字架で死に、葬られ、共に甦った
イエス・キリストは最後のアダムとしてユダヤのベツレヘムにお生まれになりましたので、その時にとても重要な救いの出来事を天の父なる神さまはなされました。それは、人類を最初のアダムである血統から切り離して、最後のアダムであるイエス・キリストに移され、人類をキリストに包含させられた事です。それは、目に見えないですが実際に起こった歴史的な霊的出来事です。霊的事件です。キリストは、人類の代表者として約2000年昔ユダヤのベツレヘムにお生まれになったのです。
人類の代表者としてお生まれになった、イエス・キリストによって、父なる神は重大な二つの救いを実現されました。一つは、人類の代表者であるキリストに人類の全ての罪の責任を負わせられ、十字架でその責任を取らせられたのです。それが、人類の全ての複数の罪を背負って身代わりに刑罰をお受けになったという事です。もう一つの救いは、人類を最初のアダムの血統から切り離し、最後のアダムであるキリストに移し包含させられた結果、人類を包含したキリストが十字架で死んだ時に、人類が共に死んだという事です。同時に、キリストが墓に葬られた時、包含されていた人類も墓に葬られたという事です。更に、キリストが三日目に甦られた時に、人類も神の聖なる性質に与って共に甦らせ、キリストのように永遠の愛、平等の愛、無条件の愛、無限の愛で生きる人にして下さったという事です。天の父は古い人となった人類を、キリストと共に十字架で死なせた後、復活をさせて新しい人にするという救いの御業を、2000年昔にユダヤのゴルゴダの丘で実現されたのです。その救いの御業を私は「きよめの福音」と呼んでいます。キリストの十字架の死と葬りと三日目の甦りは「罪の赦しの福音」と共に「きよめの福音」を人類にもたらしたのです。それが天の父なる神の偉大な救いの御業なのです。
⑤きよめの福音を聖霊によって諭されるように祈りましょう
私たちが、第Ⅰコリント13章で定義された、愛を日々自薦して生きる為に、キリストの罪の赦しの福音と共に「きよめの福音」を悟り信じる事が不可欠なのです。もし、まだ「きよめの福音」を聖霊によって諭されていなければ、是非、悟れるように祈って下さい。天の父はその祈りに答えて聖霊によって「きよめの福音」を諭して下さいます。
きよめの福音を知った人は、日々自分に残存する古い人を対処する事が出来るようになります。その対処術を学ぶ前に、日々犯す罪の対処術を学んでおきます。
7、日々犯す罪の対処術
私達キリスト者は日々犯す、思いの罪、言葉の罪、行いの罪の対処術は、その全ての罪をキリストが十字架で背負って身代わりの刑罰を受け、血を流し取り除いて下さったという2000年前の罪の償いの御業に基づいて、私たちは、その罪を心から悔い改めて告白する事です。その他は何ももいりません。もちろん、具体的に隣人を傷つけ損害を与えている事が明確であれば、その事を隣人にお詫びし、必要であれば償いもする必要があります。それは、人としての良心的な在り方であり、それは父なる神に罪が赦される為の功績ではなりません。
◆「ヤコブ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。」
私たちの犯す永遠の死罪に価する罪の償いは、キリストの十字架で完了していますので、必要な事は明確な意思を持って罪を悔い改めて告白するだけでよいのです。Ⅰヨハネ1:9節にその事が教えられています。
◆「Ⅰヨハ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」
罪を告白した後、すぐに「罪をお赦し下さった事を感謝します」と赦しを受け取って下さい。その信仰によって、良心の呵責から解放され、父なる神との交わりが回復します。キリスト者にとって、良心の呵責から解されて、大胆に父なる神に近づき、何の遠慮もなく対話ができることほど幸いな事はありません。その交わりの回復があって、はじめて、父なる神の愛と全能の力を信じる信仰を働かせて、病気の癒しを初め、色々な奇跡を祈り求める事が出来ます。ハレルヤ!です。
その時、悪魔がその父なる神との交わりの回復を邪魔する事があります。それは、罪を告白した後、罪の赦しを信仰もって受け取った後に、尚罪意識の余韻が残り、良心がうずいてすっきりしない時があります。その時、悪魔の邪魔が入るのです。「良心がうずいているのは、罪が赦されていない証拠だ。罪を告白するだけでは赦されていないのだ。告白以外に、しなければならない事がある。もっと罪を強く反省しなきなさい。涙を流しなさい。悔い改めが弱い。もっと強く断食して、徹夜で悔い改めよ」と、悪魔はもっともらしい事をささやいて、明確に意志を持って心から罪を悔い改めて告白しているのに、罪意識の余韻を使って「赦されていない」として、いつまで罪意識で苦しみつづけ、天の父なる神との喜びに満ちた愛の交わり、対話、コミュニケーションを妨げるのです。それに対して、私達は大胆に、罪意識が残ってうずいていても、良心の呵責の余韻が残っていても、私は天の父なる神のみ前に、明確な意志を持って心から罪を悔い改め罪を告白したので、聖書の約束通り、天の父はすぐにその罪を赦して下さったのだ、と宣言して、罪意識の余韻、良心の呵責の余韻を気にしないようにして、生活をはじめるのです。そうすると、その信仰に聖霊が働き、悪魔が撃退され、気づいたら、良心の呵責がなくなって平安な心が与えられて生活をしている自分を傍らに見るのです。
9、日々顔を覗かせる古い人の対処術
①洗礼によって古い人はキリストと共に十字架で死に葬られ新しい人となった事を認め続けよ
次に、日々顔を出す古い人の対処術を学びます。 まず、私たちは、自分に残存する貪欲の塊である自我、古い人、古い自分は、洗礼を受けた時に、2000年昔のキリストと共に古い人は死んだという救いが適用され、古い人は死んでいる事を認め続ける事です。日々の生活で色々な場面で残存している古い人が顔を覗かせますが、その時、その古い人は十字架で死んだものとして強く否定して、十字架の死に委ねて安んじる事です。また、同時に、古い人はキリストと共に墓に葬られましたので、その古い人をキリストと共に墓に葬られた者として墓に委ねる事です。更に同時に、キリストと共に、神の聖なる性質もって三日目に甦り、キリストのように、神の永遠の愛、平等の愛、無条件の愛、無限の愛で隣人を愛する者となったという事実を認めて安んじて、私は愛の人になったと宣言する事です。つまり、パウロが定義する愛に生きる者となったと宣言する事です。次のように宣言しましょう。
「私は永遠に寛容な者となりました。私は永遠に親切な者となりました。 私は永遠に妬まない者となりました。 私は永遠に自慢しない者となりました。私は永遠に高ぶらない者となりました。私は永遠に礼儀を重んじる者となりました。私は永遠に自分の利益を求めない者となりました。私は永遠に怒らない者となりました。私は永遠に人の悪を思わない者となりました。私は永遠に不正を喜ばない者となりました。私は永遠に真理を喜ぶ者となりました。私はキリストにあって永遠にがまんする者となりました。私はキリストにあって永遠全てを信じる者となりました。私はキリストにあって永遠に全てを期待する者となりました。私はキリストにあって永遠に耐え忍ぶ者となりました」と日々大胆にその時その時に宣言しましょう。また、その上で、だから、隣人を以上の15項目の永遠の愛で愛します。平等の愛で愛します。無条件の愛で愛します。無限の愛で愛しますと、宣言して安心しておきましょう。その信仰に聖霊が働き、聖霊によって隣人愛の実践へと導かれるのです。
昔、敵に囲まれ危機的状態にあった、神さまは預言者ヨエルを通して、弱いイスラエルに対して「私は勇士だ」と宣言するように、命じられました。次の通りです。
◆「ヨエ3:9 諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。 3:10 あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ」
私達も大胆に日々宣言しましょう。「キリストにあって私は愛の人だ」と。私達キリスト者「愛に生きる」と言う「聖戦」に召されているのです。
②信仰体験の証
1)愛の人になった
私は、日本アドベント・キリスト教団の実行委員長を6年させていただきました。その時、若いひとりの牧師が教団に入ってきました。ところが暴言を吐くので、注意しましたが直そうとしませんでした。その若い牧師をどうしても愛する事が出来ず苦しみました。愛が無ければすべては空しいので、教団の次期実行委員長は断念しようと思い、妻にその事を言いました。夏のある日、悶々とした心でソファーに座っていると、突然、聖霊が細き御声をかけました「あなたは既に愛の人になっている」と。私は、その御声を聞いた時に、コロサイ書2章9節の「 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」と言う、み言葉を思い出し、改めて自分がキリストにあって神の性質で満ち満ちて「愛の人」とされているんだと諭されたのです。その体験から、毎日の生活で古い人が顔を覗かせば、それを退け、新しい愛の人になったと思いの中で安心して宣言するようにし、御霊の導きに従う努力をするようになりました。不思議な事に、その信仰と従順に聖霊が働き、平安と喜びで愛に生きている自分を傍らに見るようになったのです。
2)祈りの勇士になった
私のもう一つ体験が参考になるかと思いますので、証をさせて頂きます。
ある時、祈る事に疲れを覚えた時がありました。その時に、聖霊が私に教えて下さったのが、あなたは既に隣人の利益のために祈る者とされていますという、細き御声がかかりました。その御声によってそうだ、私は既に全ての人の利益、つまりその必要性と救いの為に愛をもって祈る者とされているんだと改めて気付かされたのです。その霊的事実を信じて私は告白しました。「私は喜んで隣人の利益のために祈るものだ」、と。そして祈り始めました。すると、不思議な事に多くの人々の必要と救いの為に、喜んで祈っている自分を傍らに見る事が出来たのです。その信仰の宣言に、聖霊が働きより深く祈るように引き上げて下さったのです。
③寛容な心で生きる術
日々の生活の中で、ある人の弱さや欠点や罪が目につき、いらいらしている心の狭い古き自分に気が付けば、すぐに次のように宣言しましょう。「狭い心の自分はキリストと共に十字架で死んだ者、墓に葬られた者、そして、キリストと共に寛容な者として甦ったのだ。私はあの人に対して寛容な者です。だから、寛容な心であの人に接し関ります」と宣言するのです。そして御霊の細き御声に聞き従うのです。その信仰による宣言と聖霊に従う従順に聖霊が働き、気づいたら寛容な心で、広い心で生かされている自分を傍らに見るようになるのです。
【終わりに】
以上が、あらゆる生活の場面で顔を覗かせては、御霊による隣人愛の実践を邪魔する古い人を対処し、新しい人として隣人愛の実践に生きる為の秘訣であり、信仰の知恵なのです。その様に生きるキリスト者は、残存している古い人(罪の性質)の力が弱まり、神の聖なる性質が拡張し強くなり、栄光から栄光へと人格が段々とキリストに似せられていくという漸進的「聖化」の恵みに与って行くのです。
聖霊様が、キリストのように永遠の愛で、平等の愛で、無条件の愛で、無限の愛で生きる為に必要な知恵と力を日々お与え下さるように祈りましょう。
◆「Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、霊なる主(キリスト)の働きによるのです。」(私訳)
