「愛の実践の秘訣④」
聖書:Ⅰコリント13章1節~13節
 牧 師 : 佐 藤 勝 徳

 【はじめに】
 今朝もⅠコリント13章で定義されている愛の実践についてご一緒に学びたいと思います。もう一度愛の15の定義を確認しておきます。
①寛容 ②親切 ③妬まない ④自慢しない ⑤高ぶらない ⑥礼儀を重んじる ⑦自分の精神的利益、物質的利益を求めない ⑧怒らず ⑨人から受けた悪を思わない ➉不正を喜ばない ⑪真理を喜ぶ ⑫がまんする ⑬邪推を否定し全てを肯定的受け止めて信じる ⑭全てを肯定的に捕らえ未来に期待する ⑮全てを耐え忍ぶ

先週は「寛容」についての実践をお伝えしました。今朝はその後の14の愛の実践についてお伝えしたいと思います。 先週は親切の実践、妬みの否定の実践、自慢と高ぶりの否定の実践について学びました。今朝は礼儀を重んじる愛の実践について学びたいと思います。

礼儀を重んじる事については、隣人に対してと創造主神さまに対しての両面を学びたいと思います。聖書の教える礼儀は、この世の社会に一般的に通じるものと、通じないものがあります。それは、世界観、社会観、道徳観、霊的観がこの世の社会と異なる事が多くあるからです。この世の社会の礼儀と共有できる「一般的礼儀」について最初に学んでおきたいと思います。

1、一般的礼儀

①約束を守る事

礼儀で一番重要な事は「約束を守る」事です。

約束事に色々なものがあります。買い物に関する約束、事業や仕事に関する約束、時間に関する約束、趣味や遊びや娯楽に関する約束、スポーツ競技における約束、会社や組織運営に関する約束等があり、そうした約束事が、色々な規則、規約や申し合わせ事項で表現され、その規約や規則や申し合わせ事項に従って、約束を守る事、それが一般的な社会的礼儀として尊重されます。そうした約束事をきちんと守って生きる事を「良心的」と言います。パウロは、キリスト者としていつも「良心的」に生きていると証言しています。キリスト者は、日々良心的に生きるという礼儀を重んじて生きる事が求められています。又、それを道徳的と言います。キリスト者が愛に生きるというのは、先ず一般社会においても尊重される「礼儀正しく、良心的に、道徳的に正しく生きる」という、愛の実践に生きる事です。その中には、間違いを犯せば素直に謝罪する事、良い事をして頂ければ素直に感謝する事等が含まれています。時間や様々な約束事を守るという礼儀に反する言動は、結果として信頼を失うという不幸と言う滅びを招きます。

②全ての人を尊ぶ事

この世の社会でも、全ての人を尊ぶ事が道徳的に正しいという事が教えられます。それ故に、人をいかなる理由があろうとも軽蔑したり侮辱したり差別をする事は、人間としての礼儀に反する事だと教えられています。その礼儀として日本国憲法では、居住の自由、職業選択の自由、婚姻の自由、表現の自由、思想信仰の自由等が設けられています。別紙の本国憲法で保障されている自由権をご覧ください。放縦ではなく、人の当然認められるべき自由を尊重する事が、日本の社会では非常に重要な礼儀となっています。それが全ての人を尊ぶ事です。しかしキリスト者が、人を尊ぶという理由付けには、この世の社会にないものがあります。それは、第1に一人一人が母の胎内で、創造主の愛によって神の形に似せて、又、個性豊かに創造された創造主の愛の作品であるという事です。全ての人は創造主の愛の作品として平等に無条件に尊ばれ喜ばれ愛されています。その神の愛が、全ての人に太陽を昇らせ、恵みの雨を降らせておられるという事実で示されています。つまり神が創造し与えておられる計り知れない恵みの数々によって全ての人は平等に愛されて生かされている事が示されています。また、キリストはその平等の愛を、全ての人が罪赦されて永遠の喜びと祝福の中に招かれる事を願って、十字架で全ての人の罪を背負って身代わりの刑罰をお受けになりました。その十字架の死と復活と言う救いの御業によって、創造主の全ての人への平等の愛が示されました。それは、その平等の愛は敵を愛する愛でもあります。

全ての人を平等に尊敬するという礼儀を守る為の、思想的、精神的動機は、全ての人が創造主によって大変尊い存在として尊ばれているという、聖書の教える真理を真理として認める事にあります。 創造主の神さまは全ての人が救われて真理を悟るに至る事を望んでおられますが、その為に、いつも。謙遜をもって全ての人を自分より優る存在だと尊重する礼儀を尽くしておられます。

万物は神から出て神によってなり神に帰するものですが、多くの人はそれを認めません。常に神のものを盗んで生活をしています。実は、人は神の前には大変な盗人なのです。私たちは自分のものと言えるものは本来ありません、全てが神のものなのです。つまり、自分の能力も、時間も、家財産も全ては神さまのもので、自分の自由になるものは何一つないのです。神さまおのとして神さまに聞き従ってあらゆるものを使用するというのが正しい在り方です。キリストはその生き方の模範を示さえました。しかし、多くの人はそうしません。神のものをいつも盗んで生活をしているのです。それでも、神は深く忍耐して、人が自分の罪に気が付き、悔い改めるように良心に訴えかけて待っておられます。その忍耐の理由は、全ての人を自分より尊い存在として見ておられるからです。

先日、アメリカ映画で「エクソダス」という映画が放映されていました。イスラエル人が400年間苦しめられていたエジプトからモーセにより神の様々な奇跡の御業によって救い出される3Dで描かれた歴史的大作映画です。私は二度見ました。その中にどうしても違和感を感じる場面が何度かありました。それは、モーセに語っている創造主の全知全能の無限の神が小さな小学生のような少年の姿で描かれていた事です。最初に見た時その場面を見て、違和感を感じました。2回目を見た時も同じよう違和感を覚えました。その神である少年がモーセに「私は私だ」と、自分を絶対の神だと語るのです。二度目を見終わった時、私は、映画監督は「何故神さまを少年の姿で表現したのか」と少し考えました。私はやっと答えを得たと思いました。聖書では、神はいつも謙遜なお方として啓示されています。罪びとの私たちをご自分より優るものとして深く尊ぶ謙遜な心で見つめておられる事です。映画エクソダスで神を少年の姿で何度も登場させる事で、スケールの大きい奇跡をなさる全知全能の偉大なお方の謙遜を描こうとしていたんではないかと思いました。しかしノンクリスチャンの監督の思いは別にありました。天地万物を創造された全知全能の神の純粋さ、ピュアを少年で表したかったようです。その監督の思いとは異なりますが、 聖書では天地万物を創造された神さま、全知全能で無限の神さまは、御自身の目から見れば、無きに等しいような小さな小さな塵に等しい私達、又、御自身のきよさから見れば汚れに汚れた罪びとの私達に対して、御自身をまるでゼロであるかのようにして、無にして、小さな、汚れに満ち、罪に満ちた私たちを、御自身より尊い存在として尊んで下さっているのです。また、御自身が王の王、主の主であられるのに、ご自身を罪びとの私達の奴隷の位置において仕えるものの姿で働いておられるのです。その謙遜なお姿が人となられた神であるイエス・キリストによって明確に啓示されました。イエス・キリストのご生涯と受難の十字架の死がその事を教えています。そのような想像しがたい神さまの謙遜に私は長い間違和感を覚えてきたのですが、それが聖書によって啓示されている神さまなのです。神さまの偉大な謙遜に、違和感を感じるのは、神のような謙遜を私たちが持ち合わせていない事によります。私たちは多少の謙遜を示すことは出来ても、神さまのように、無限の御自身とは比較にならない無きに等しい小さなものに対してご自分を無にして謙遜を示すことは誰も出来ません。

③全ての人尊ぶ愛の実践の秘訣

では、神さまのように、イエス・キリストのように自分を無にして、自分の持っている全てを傍らにおいて、隣人の全ての人を尊ぶという実践はどのようにしたら出来るのでしょうか。それは、第1に、いつも人を見下さして喜ぶ傲慢な心は古い人から出ている邪悪な思いだと認識する事です。次に、そのような傲慢は、古い人と一緒にキリストの十字架で死んだという事実を認める事です。更に同時に、死んだ古い人はキリストと共に甦って、全ての人をイエス・キリストのように、父なる神のように自分を無にして、自分の持てる全てを傍らにおいて、生まれたばかりの赤ちゃんのように自分を低くしながら、自分より優る尊い存在として喜び尊ぶ者となったという、キリストにある霊的事実に立つ事です。つまり、私は全ての人をキリストのように、父なる神のように尊ぶ謙遜な者と既にされていますという事実を受け入れ安んじ、自分と神様に向かって「私は謙遜な者です」と宣言する事です。その信仰に聖霊が働き、聖霊によってすべての隣人を尊ぶという礼儀を尽くして生きる事が出来るのです。

2、神様への礼儀

次に、少し視点を変えますが、人間の創造主の神さまへの礼儀について学びたいと思います。天地万物を創造された全知全能の神さまは、知性、意志、感情と言う人間が持っている魂の機能をお持ちの人格神です。聖書には、神さまの意志、知性以外に、神さまは怒り、悲しみ、喜び、苦しみ、熱情などを表す聖なる感情をお持ちのお方だと啓示されています。その神様に対して、礼儀を払わなければ、神さまの感情を逆なでしてしまう結果を招きます。人への礼儀に反すると、人の感情を逆なでて不愉快な思いを与えてしまいますように、神様への礼儀を失うと神さまの聖なる感情に不愉快な思いを与え、神さまの感情を逆なでてしまう事になります。神さまは人間のように傷つく事はありませんし、すぐにその感情をあらわにされる事はありませんが、その礼儀に反する行為を改めないと、それは正義に反する罪ですので、神さまの正しい怒り、正しい不愉快の感情の表現として裁きが下り、私たちは不幸を招く事になります。もちろん、神様は大変忍耐深いお方ですので、私たちが礼儀に反したからと言ってすぐに怒られるという事はありません。しかし、忍耐の限りを尽くされても、その礼儀に反する事を止めなければ怒りが下るのです。では神様への礼儀とは何でしょうか。

①神さまに愛されている事を信じて喜ぶ事

第1に、聖書の教えている通りに、愛される資格のない罪深い自分が、創造主の神さまの無条件の愛、無償の愛、平等の愛、永遠の愛でいつもいつもどんな時でも愛されているという事実を信じて、神様にいつも喜びと感謝を絶え間なく捧げる事です。第1テサロニケ5:16~18の「いつも喜び絶えず祈り全ての事に感謝せよ」という御言葉の実践です。又、その喜びと感謝を毎週日曜日にみんなで集まって捧げる礼拝において捧げる事です。1週間愛し続けて下さった事を覚えて、賛美と祈りを通してその喜びと感謝を表す事です。神さまの無条件の愛、無償の愛、平等の愛、永遠の愛はイエス・キリストの十字架の罪の贖いの御業によって表されました。もし、キリストが十字架で身代りの刑罰を受けて罪の償いの為の血を流して下さっていなければ、誰も、神さまに向かって喜びをささげ、感謝を捧げ、祈りを捧げ、礼拝をお捧げする事は出来ないのです。キリストの贖罪の血だけがそれを可能にしたのです。神さまに毎週の日曜日に礼儀としての礼拝をお捧げ出来るのは、あくまでも、神さまの憐れみと恵みによるキリストの贖罪の血によっているんだという事、礼拝はキリストの血と言う尊い代価が払われて可能となった大いなる価値のある罪びとの営みだという事をいつも覚えて心から喜びと感謝を込めて礼拝を捧げる必要があります。それが、礼拝における大事な神様への礼儀です。また、その神様の愛は、神様はお造りになった被造物を通して教えられているので、被造物を通して示されている神様の無条件の愛、無償の愛、平等の愛、永遠の愛を喜び感謝するという礼儀を絶えず尽くすように繰り返し聖書は教えています。少し目の事を考えてみましょう。

目のイラストをご覧ください。

複雑で精巧なものを生み出せない偶然では 複雑で精巧な目を生み出せない。 人の目は、人が物を見て喜び楽しむという幸福の為に、創造主の神さまが愛をもって複雑に精巧にお造り下さった愛が凝縮されている愛の作品です。物を見る人の目には、右記のイラストでは約20の複雑な役割を果たす部署があり、複雑に連携しながら見るという作業が行われています。人間の目の網膜には光を感じ取る「桿体」と呼ばれる細胞が約1億2千個と、色や形を感じとる「錐体」と呼ばれる細胞が約650万個見事に配置されています目で物の形や色が見分ける事で、景色を楽しんだり、植物、お花を楽しんだり、喜びが与えられストレスが癒されます。その為に、神様は多くの細胞を使って見事に目を愛をもってお造り下さっているのです。

②神さまの全知全能を喜ぶ

 次の神さまへの礼儀は、神さまの全知全能の力を喜び讃えることです。神さまはご自身のその全知全能と言う完全な知恵と無から有を呼び出す全てが可能なお方だという事を、御自身が創造された万物を通してまず啓示されています。その神の全知全能を讃えている御言葉が、聖書の開口一番「初め神が天と地を創造された」と言う御言葉です。聖書は「創造主の不可能を可能にする力、無から有を呼び出す力、その為の全知と言う知恵」を同時に讃えることばで始まっていますので、聖書の多くの箇所で「全知全能」が創造主が如何に偉大なお方かを讃える賛美が多くあります、使徒信条でも、「我は天地の造り主、全知全能の父なる神を信ず」が一番最初に唱えられています。又、神さまはイスラエルの歴史を通してご自身の全知全能の力を示してこられました。しかし、イスラエルは、それにも関わらず、全知全能の神の可能性を信じて従うという事をしばしば拒否してきました。神さまは被造物を通してイスラエルの歴史を通してご自身が全知全能の創造主だと示されてきましたが、人類の歴史も、イスラエルの歴史もそのお方の偉大な可能性信じて従て歩むという事を多くの人は拒否してきたのです。私たちはそうならないように、日曜日の礼拝でいつも、不可能を可能して下さる創造主の全知全能をしっかりと覚えて全身全霊で創造主を讃える事が創造主の神さまへの礼儀なのです。

「詩147:4 主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。 147:5 われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。」

アブラハムがイスラエルの先祖として選ばれた理由は、彼は不可能を可能にする、「無から有を呼び出す」という、神の全能を心底から信じた信仰にありました。聖書で以下のように教えられています。

◆「創 15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」

◆「ロマ4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。 4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。 4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」

③神さまはいつも最善をなされている善なるお方だと信じて喜ぶ

次の礼儀は、父なる神さまが、いつも最善のみをなされている「善なるお方だ」とを信じて喜ぶ事です。最善と言うのは、祝福としての最善と裁きとして最善、また、人間の罪や悪魔の悪意によって起こる悪を許可されて与えて下さる最善があります。ヨブは、悪魔の悪意の願いに神さまが応じられて、神様が許可された悪魔の悪の災いを受けました。その神様が許可された悪魔の悪を、ヨブは神の最善の御業として受け止めて感謝しました。イエス様は、十字架にかかられる時、弟子のペテロに不思議な事をお伝えになりました。それは、弟子達の信仰が麦のようにふるいにかけるようにという悪魔の願いを神さまはお聞きなったというのです。イエス様は、父なる神さまが、悪魔の悪意による願いを受け入れ弟子達の信仰が振るいにかけられ不信仰に陥る事を預言されたのです。改め理不尽な事を神様なさるなあと思ったのですが、その後に、その疑問を取っ払うかのような約束が続いていました。それは、私があなた方の信仰が無くならないように祈ったので、あなたが信仰に立ち直ったら他の弟子達を励ましなさい」という約束です。

弟子達は、自分がどんなに弱い者か十分に知りませんでした。自分の意志の力でどんなことがあっても命がけで主をメシヤとして信じる信仰は持ち続けられると思っていたのです。ですから、主に向かって「あなたの為には命を捨てる覚悟です。獄に捕らわれる覚悟を持っている」と豪語しました。そんな豪語が、悪魔のふるいによって簡単に吹飛んでしまったのです。キリストが預言された通り、弟子達は、主がゲッサマネの園で捕縛された時、全ての弟子が主を捨てて逃げ去って行きました。また、ペテロは主が預言され通りに、鶏が鳴く前に3度主を強く否定し裏切りました。彼らは、、3年間主を信じて従い通してきたにも関わらず、いざとなると彼らに内在している貪欲の古い人が騒ぎ簡単に主を裏切り捨てたのです。彼らは、自分の内にある貪欲の古い人の力の強さを知らなかったのです。

悪魔が神さまに許可されて、キリスト者に内在している古い人を使えば、キリスト者は恐ろしい罪を犯す危険がある事を、父なる神さまは弟子達に悪魔を使って教えられたのです。しかし、キリストのとりなしの祈りは悪魔の力以上に優るものであることを、弟子達は同時に教えられました。御自身を裏切った弟子達の為のとりなしにより、彼らは信仰を取り戻すという恵みに導かれたのです。その後、聖霊の注ぎを受けて、信仰が強められて行きました。私たちが信仰を守り続けて行くためには、又、信仰が強められる為には、キリストのとりなしと聖霊の力が必要だという事を聖書は教えています。ぜひ、悪魔の力には勝てない自分の弱さを認め、心を低くして主のとりなしに感謝しつつ、聖霊の助けによって信仰を守り通せるように、信仰を強めていただけるように祈りましょう。

「ルカ22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。

水野源三さんは、自分の罪性、古い人の本質は神を殺す恐ろしいものだと知って「私がいる」と言う詩を作りました。その詩は、そのような恐ろしい古い人を残存させている罪深い者を愛する神さまの愛に深く感動して作られました。

神様は、悪魔の悪意の業、人間の悪意による罪の業などを許可しそれを善なる御業として、万物を統治し、人類の歴史を導かれておられるお方です。人間の人道主義的な優しさから見れば理不尽と思えるような出来事、災い、試練がこの世界に多くあります。その多くは直接的には悪魔の悪と人類の罪がもたらしたものですが、それを神さま許可されてご自身の最善の御業として人類に与えておられるのです。
神さまの最善の御業には、私たちに幸福や祝福をもたらす恵みとしての最善の御業があり、それがこの世界に満ちています。同時に、理不尽と思えるような厳しい試練や災いをも最善として、神さまは深く痛みつつも与えておられるのです。私たちも試練や災いを痛みつつもそれを喜ばしき善として喜び感謝をささげましょう。それが神さまへの礼儀です。神さまへの礼儀とは神さまがいつも罪に堕落したこの世界に対して最善をなされているという真理を真理として信じて受け入れて、神さまに喜びと感謝の礼拝を捧げる事です。聖書は、神様は善にして善を行われる最善の神だと教えています。

◆「119:68 あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください。」

2、神様への礼儀としての礼拝の在り方

礼拝では曲付きの賛美と曲無しの賛美を捧げま。、曲無しの賛美が交読文です。私たちが、礼拝で、捧げる賛美や詩篇などの交読文を心込めて捧げるには、事前に知らされた賛美の曲の歌詞や交読文の聖書個所をよく読んでおいて、その意味を深く理解しながら捧げる事が求められます。また、体調を整え、声を整え心を整えておくことも重要な準備です。時々、NHKで交響曲を聞きますが、その本番の為に、交響楽団は指揮者に従って、指揮者の願う曲想通りにひけるように何度も何度も繰り返し練習して本番を迎えます。私はこれまで、教会を交響楽団に例え、キリストがその指揮者だと教わってきましたが、礼拝の賛美の指揮者は目に見えませんが主イエス様です。主イエスの御心に沿って父なる神への礼拝をお捧げ出来れば感謝です。礼拝で捧げる賛美が御心に叶う最善の賛美となるように主の助けを祈って、事前に歌う練習をしておきましょう。しっかりと意味をかみしめつつ、最善の声で、最善の体調で腹の底から声を出してささげられるように、事前に主と共に準備をして置くことが礼拝をお捧げします神さまへの礼儀なのです。最高最善の賛美を捧げましょう。体調を最善に整え、声を整え、又、心を整えて祈りつつ礼拝に臨みましょう。そうすると、聖霊が働き深い喜びに満ちた礼拝へと導かれて行くのです。

礼拝についてパウロはエペソ書で次のように教えています。

◆「エペ5:18b御霊に満たされなさい。 5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」 ヘブル書では賛美は神にささげる唇の実だと教えられています。
◆「ヘブル 13:15 それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」 神さまへの捧げものは献金だけではありません。賛美も重要な捧げものなので、私たちは自分の賛美が神さまに捧げる最高の捧げものとなるように、体調を整え、声を整え、心を整えて礼拝に臨みましょう。心を尽くすことについて、ひとつの例をお伝えしたいと思います。

先日、NHKで新プロジェクトXと言う番組がありました。その番組では、名古屋城の本丸御殿の修復工事が放放映されていました。名古屋城の敷地には、高いお城以外に、屋根の低い絢爛豪華な本丸御殿が建っています。その名古屋城本丸御殿は1945年の年の空襲で焼失したしまったものでした。その復元に成功したのは、膨大な実測図や古い写真が第1級資料として保存されていた事によります。その膨大は資料を元に、2009年から10年をかけて寸分違わず、忠実に木造復元されました。その中で、襖の引手や釘隠しなどの約3000個の錺金具(かざりかなぐ)の復元には、現代の職人たちの壮絶な闘いと最新技術が注ぎ込まれていました。私は、その繊細で緻密は仕事ぶりのその様子を見ていて、私はどれほど繊細に忠実に神さまに仕え礼拝を捧げて来ただろうかと深く反省させられました。

3、人と神様への愛の礼儀を妨げる古い人の対処術
しかし、以上の、人は神さまの愛を信じて喜んでいても、又、神さまがいつも最善をなさっていると喜び感謝していても、神様への礼儀を実践させない古い人が残存しています。パウロは、罪人の古い人は罪(単数形のアマルティア)によって、神様への礼儀を捧げる事を嫌がる性質を持っているとローマ書3章9b節~18節で教えています。
「ロマ3:9b私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

キリスト者に残存している貪欲の塊である古い人は愛の実践の一つである人への礼儀と神様への礼儀を尽くす事を嫌がるのです。古い人は喜んで、自分を無にして全ての人を自分より尊い存在だと喜ぶ思いとは逆に、人を見下げ侮辱し、意見を聞こうとしないのです。もし、何らかの理由で、人を毛嫌いする邪悪な思い、見下げて裁く思い、侮辱して喜ばない思い、意見を聞こうとしない思いがある事に気づいた時は、それは古い人からの邪悪な不遜な礼儀に反した思いですので、すぐにキリストとの十字架で死んだものとして強く否定して十字架に委ねて殺しましょう。そして、キリストと共に新しい人として甦り、自分を無にしてその人を自分より優るものとして尊びつつ喜んで意見を聞く礼儀あるものにされている」という霊的事実を認め信じ安んじて自分と神さまに宣言しましょう。その信仰に聖霊が働きキリストにある「謙遜な自分」を体験させて下さるのです。

罪アマルティアに支配された貪欲の塊である古い人は人への愛の礼儀を尽くせないだけでなく、愛に満ち最善をいつなさっている創造主の神さまへにも愛の礼儀を尽くさせないのです。

イエス様の時代のパリサイ人や律法学者や祭司たちの多くが古い人を丸出しにしていました。神殿は立派で祭儀も立派に行われていましたが、口先の礼拝で心がこもっていませんでした。自分たちの名誉欲や地位の安泰と言う欲望に捕らわれていました。その結果、神さまであるキリストを否定し、十字架に付けて殺したのです。貪欲の塊である古い人は神さまを殺すことを、当時のキリストを否定し殺したパリサイ人や律法学者や祭司や大祭司が証明しました。

私たち、キリスト者に残存している古い人と言うのは、それほど恐ろしい存在なのです。礼拝において、神様への礼儀として、献身の精神により全身全霊で最善の礼拝を神さまに捧げる事を、もし心のどこかでしんどいな、厳しいな、嫌やなあと言う思いがあったとしたら、それは古い人から出ている悪い思いです。神さまに対して、そのような悪い思い、礼儀に反する邪悪な思いに気が付けば、それは古い人から出ているものとして強く否定し、キリストの十字架の死に委ねて殺しましょう。そして、「キリストのように父なる神さまを喜んで愛し、神様への礼儀として全身全霊で礼拝をささげるものと既にされている」と言うキリストにあっての霊的事実を認め信じ安んじて宣言しましょう。その信仰に聖霊が働き、聖霊によって神さまに喜んで愛の礼儀を尽くして生かされている自分を知るのです。

以上が、全ての人への愛として礼儀を尽くして生きる道、愛に満ち、最善のみをなされている神様への礼儀を尽くすて生きる道です。その道を会得されるようにお祈りします。