「愛の実践の秘訣⑥」
聖書:Ⅰコリント13章1節~13節
牧 師 : 佐藤勝徳
「Ⅰコリ13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。 13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。 13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
【はじめに】
これまで、神さまへの愛の礼儀について2回学んで来ましたが、今朝は、礼儀は縦の関係を重んじる事であり、神さまと神さまによって立てられた上に立つ人対して「従順」であることが愛の礼儀だという真理を学びたいと思います。
1、神さまはキリスト者に従順を求めておられる
キリスト者は、天地万物を創造された創造主の天の父なる神さまを王の王、主の主として認め信じ礼拝をお捧げしているので、その日々の生活でも、創造主の天の父なる神さまに対して「従順」を持って、その信仰を表明する事が求められています。その人の信仰が口先だけでなく、心からの信仰かどうかが試される試金石は天の父への「従順」です。もちろん、現状ではキリスト者は誰も栄化されていないので、キリストのように100%「従順」であることは不可能ですが、「従順」がその生活の特徴となっている必要があります、それがキリスト者の健全な霊性を意味しています。従順を特徴とする生活を送る事は、愛と正義に満ちた父なる神さまへのキリスト者の愛の礼儀です。
①従順の模範者キリスト
父なる神さまに対して愛の礼儀としての「従順」の模範者は何といっても、イエス・キリストです。イエス・キリストは私たちの尊い救い主ですが同時に父なる神に対して「愛の礼儀として従順」の良き模範者だとペテロは教えています。
◆「Ⅰペテ 2:21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」
パウロはキリストの父なる神への従順を次のように教えています。
「ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
②十字架を負って従う
イエス・キリストのご生涯を、父なる神さまへの愛の礼儀としての従順の模範とする事は、そこには時には大きな自己犠牲が伴う事が教えられています。自己犠牲が伴う「従順」な生き方をキリストは「自分の十字架を負う事だ」と教えられました。その自己犠牲とは、絶対に手放したくない愛着のある人、愛着のある仕事、愛着のある趣味、愛着のある家財産等を捨てるという事です。愛着の薄い事を手放すことは左程苦しくありませんが、愛着の強いあるものを捨てるという事は、大変な痛みや悲しみや苦しみが伴うのです。ですからそれが自己犠牲であり、十字架を負うという事を意味しています。もちろん、従順にいつもそのような大きな自己犠牲が伴うわけではありません。人生の中で、時に神さまはそのような大きな自己犠牲が伴う「従順」を求められることがあるのです。アブラハムにとって最大の自己犠牲はモリヤの山で愛着のある息子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさいと言う神さまの命令に従う事でした。きっと、アブラハムは想像絶する苦悶を抱いた事だろうと思います。天地創造と言う映画ではその「アブラハムの苦悶」が見事に描かれていました。
ではイエス様にとっての愛着は何だったでしょうか。それは、父なる神さまとの愛の交わりです。キリストは、人類の罪の贖いの為に、自分の肉体を身代わりの刑罰として捧げ十字架で血を流すことを、ご自分の最大の使命として覚悟して日々を歩んでおられました。それは、もちろん厳しい厳しい自己犠牲の道ですが、イスラエルと人類を愛する故に喜んでご自分の肉体を犠牲にするという心をお持ちでした。御自身の罪を一切犯さなかった肉体を犠牲にし、罪無き血を流すことが、イスラエルと人類の唯一の救いの道だとご存知でしたので、厳しい苦しみの道でしたが喜んでその受難の道に突き進んで行かれました。ところが、十字架にお掛かりになる前の夜、ゲッセマネの園でお祈りされている時、呻き苦しみ汗を血の滴りのようにながら「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」とお祈りをされました。その祈りは「死ぬほどの悲しみ」の中で捧げられた祈りでした。
キリストは何を深く悲しまれたのでしょうか。ある注解では、これまで覚悟して来た十字架の受難の厳しさを改めて知らされた結果、そのように祈られたと解説していますが、それは、その解釈は、十字架の肉体の苦難を覚悟して歩んで来たキリストにはふさわしくない解釈だと思います。その苦悩は、これまで十字架の苦難について、人間メシヤとして知らされていなかった新たな苦難が示された事にあります。それは、父なる神との愛の交わりの完全な断絶です。父なる神との愛の交わりは、キリストが最も愛着のあるもので、絶対に手放したくないものでした。肉体の厳しい苦難は覚悟できていましたが、十字架の苦難には「父なる神との愛の完全な断絶」が伴う事はゲッセマネで初めて示されたのです。キリストがどれ程父なる神さまとの親しい愛の交わりの中に生きていたか、それは「アバ父よ」と祈られた祈りで示されています。「アバ」と言うのは、赤ちゃんが初めて言葉を覚えて、甘えるようにお父さんに呼びかけることばです。キリストはまるで生まれて間もなく言葉を覚えた赤ちゃんのように、この地上で誰も知らない最も親しいことばで、この地上で誰もが発したことが無い父なる神への最も親しい感情で「アバ父よ」と呼びかけて祈っておられたのです。この地上の誰もが知らない、味わった事が無い非常に強い愛着のある父なる神との愛の交わりの完全な断絶が十字架で起こる事を示されたのです。それが、キリストが取り除いてほしいと願われた杯であったのです。キリストは、その事を願いながら、祈りの最後には、御心がなりますようにと祈っています。その杯は、キリストが人生の中で一度も体験したことが無い、父なる神の臨在が完全に無くなる事です。キリストは、生まれてから、十字架の苦難を受けるまで、父なる神の親しい臨在がなくなるという事は一切なく、いつも父なる神の臨在の中で親しい交わりに生きておられたのです。キリストは父なる神に捨てられ、父なる神はキリストから完全に離れ、父なる神の臨在がなくなり、心は完全な闇に覆われる事、それが、ゲッセマネで示された苦難の「杯」でした。キリストは、十字架でイスラエルと人類の罪の赦しの為の肉体の苦難と死は覚悟できていましたが、ゲッセマネで初めて示されたその苦難の杯について、すぐに受け入れる事が出来なかったのです。キリストは、その苦難の杯は自分だけでなく、父なる神も同時に味わう苦難なので、父なる神の苦難をも思うとすぐにその杯を受けいれる事が出来ず、三度取り除いて下さいと祈りました。しかし、その祈りにはいつも「、御心がなりますように」と最後に付け加えられました。結果、父なる神の返答は一切なく、その父なる神の沈黙は「杯」を受け取る事が御心だとキリストは理解し、十字架の苦難の道を歩む覚悟を新たにされたのです。
非常に強い愛着のあるものを手放す、それが大きな自己犠牲の「十字架を負う」事です。その大きな自己犠牲が伴う「十字架を負って従う」という、従順の命令がキリスト者の地上の生活のなかで、示される事が一度や二度はあるかもしれません。
私は、純粋に聖書をもっと深く学びたいと願って神学校に入学しましたが、3年目にして、神学校を止めて、一般の生活戻りたいと思いました。また、牧師になる能力が無いと分かり、早く神学校を止めようと思いました。聖書を学び神学を学ぶ事は、勉強の苦手な、また、罪にまみれた私には大きな重荷となってきたのです。しかし、ウオッチマンニーの「キリスト者の標準」に出会い、罪の赦しの福音がより良く分かりましたので、牧師になる覚悟が出来ました。牧師になって経済的な苦しみはありましたが、私にとって一番つらかったのは、伝道しても伝道しても救われる人が非常に少なく、思ったように教会が延びなかった事です。また、説教が苦手でしたので、土曜日は私には精神的に非常につらいものがありましたから、もう牧師を辞めようと何度も思ってきました。しかし、神さまの答えは、牧師を続けなさいと言う事でしたので、牧師を続けてきました。それは19歳の時に示された神さまの御心を知っていた事にあります。それは19歳の時、クリスチャン生活が苦しくなって信仰を捨てようとしましたが、その時に神さまの声がかかったのです。「信仰を持ち続けなさい。あなたでないと救われない人、あなたでないと慰められない人、あなたでないと助けられない人がいますよ」と言う声でした。私は、その時はそれが神の声だと分からず、たんに自分の思いの中に湧き起こって来た思いだと思っていましたが、その思いに私は本当だと同意して信仰を保持し続けてきたのです。今振り返ってそれが「神の声」だっと理解が出来ます。自己犠牲の伴う「十字架を負う」と言う従順は、キリストが祈りによって体験されたように、祈りの中で神さまが必要な助けや力を与えて下さるので、それによって負って行けるものです。私は、クリスチャンになって祈らずに一日を終えるという事は無かったと思います。特に、自分が創造主によって創造された者だという事が分かってから特に祈るようになりました。又、牧師になって、どれほど祈りの為に時間を割いてきたか計り知れません。祈りの中で、必ず「十字架を負う」と言う従順の力があたえられるのです。神さまに日々従がうという従順の力は祈りの中で養われて行きますので、日々祈りの時を持つ事、教会で心を合わせて兄弟姉妹と祈り時を持つ事が如何に重要な事かが分かります。
父なる神への従順を教える聖書個所を幾つか紹介しておきます。
◆「ロマ 1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。」
「ロマ 15:18 私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。」
「ロマ 16:19 あなたがたの従順は皆の耳に届いています。」
「ロマ 16:26 永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、・・」
「Ⅱコリ 2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうか、試すためでした。」
「コリ 7:15 テトスは、あなたがたがみな従順で、どのように恐れおののきながら自分を迎えてくれたかを思い起こし、あなたがたへの愛情をますます深めています。」
「Ⅱコリ 10:6 また、あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する用意ができています。」
「ピリ 2:12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。」
「ピレモ 1:21 私はあなたの従順を確信して書いています。私が言う以上のことまで、あなたはしてくださると、分かっています。」
以上の聖句は、パウロが伝道者として召されたのは、異邦人を神への従順に導く為であったという事が証されています。パウロは、キリストを信じたキリスト者が父なる神さまに対して愛の礼儀として「従順」の道を歩むように宣教し、祈り、牧会している事を語っています。私たちは、父なる神さまに対する愛の礼儀として「従順」に生きるためにキリストの福音を聞き、信じ、救われているのです。私たちの救いの目的は、父なる神さまへの愛の礼儀として従順に生きる事です。
③キリストを通して
現在、父なる神さまは、キリストを通して私たちに必要な導きの御声をお掛けになります。父なる神は、キリストをキリスト者の魂の監督者、牧者にして下さいました。キリストは私たちの魂の牧者として監督者として日々私たちの祝福を熱く願って、必要な導きの御声をお掛けになっています。キリストの愛の導きの御声をかけられていないキリスト者はひとりもいません。キリストはキリスト者のあらゆる生活に関わって、必要な愛の導きの御声をお掛けになっています。それは、キリストの羊である全てキリスト者に、キリストの導きの御声を聞き分ける「霊の耳」を与えて下さっているからです。これ迄何度かお伝えしてきまいたが、キリストが次のように約束されています。
◆「ヨハ 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」
大変すばらしい偉大な約束です。キリストはご自身を信じる全ての人の霊に中に内住されて、内側から魂の羊飼いとして、監督者として必要な導きの御声をお掛けになっているのです。
私は大体12時に寝て、朝は7時頃に起きるのですが、先日は朝5時半に目覚めました。7時までまだ時間があると思い寝ようとしましたが、主が祈るように導かれたと感じ寝るのをやめて祈りの座に着きました。キリストの御声は多くの場合は「導きと感じる」と言う方法で示されます。もし、あなたの生活のなかで、主の導きだと感じたら是非、その感覚に従って下さい。導きに従った時は、必ず平安或は喜びがそれに伴います。それが、主の導きに従って歩んでいる証拠です。もし、平安或は喜びが無ければ、導きを祈り直してください。主はあなたの霊に内住されている最も親しい牧者、監督者です。必ず生活の全て事で必要な導きの御声をかけておられます。その事を信じて、導きと感じる所に大胆に歩んで下さい。従順は小さな自己犠牲小さな十字架を負う事の連続ですが、そこには大きな祝福が伴うのです。
④聖霊を通して
しかし、キリストはご自身の導きの御声を聖霊によってなされています。キリストは聖霊を「別の助け主」だと教えられました。
◆「ヨハ 14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
◆「ヨハ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
◆「ヨハ 15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」
◆「ヨハ 16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」
又、パウロは聖霊つまり御霊を「アバ父よと呼ぶ御子の霊」だと教えられ、キリスト者は聖霊つまり御霊に日々導かれている「神の子」だと教えました。
◆「ロマ8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
又、パウロは、キリスト者の霊に中に聖霊つまり御霊が与えられ、その御霊が御国へ導かれ、又、主の空中再臨の時に体が栄光の体に贖われる事の保証、つまり、全体にそうなるという神の刻印だと教えています。
「エペ 1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。 1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
使徒ヨハネは、キリスト者に内住されている聖霊つまり油が全ての事を教え、その教えに従う事はキリストに留まる事だと教えました。キリストが葡萄の木の例えで教えられた通りに、キリストに留まっているなら実を結ぶという祝福を受けるのです。キリストは次のように教えられました。「私は葡萄の木。あなた方はその枝である私に留まっているならならば実を結ぶ」と約束されました
「ヨハ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」
以上の、キリストに留まるというのは、キリスト者の霊の中に与えられている油である聖霊の教えに従う事です。
ヨハネが次のように教えています。
「Ⅰヨハ2:27 あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」
キリスト者はなんと素晴らしい祝福の中に生かされている事でしょうか。神の子として、神の僕として神さへの愛の礼儀としての従順の道を守れるように、父なる神さまから発した導きの御声が魂の監督者であり牧者であるキリストに届き、キリストからキリスト者に内住されいている別の助け主であり、油である聖霊によってその御声が届き、その聖霊に届けられた父なる神の御声が、聖霊によって、油によって一人一人のキリスト者に日々届けられているのです。父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神の三位一体の神の見事な連携によって、神の導きの御声がキリスト者の霊の耳に届けられているのです。
父なる神さまへの愛の礼儀としての従順は、キリスト者の内に内住されている御霊の導きの御声に日々聴き従う事です。
⑤聖書的原則的従順
また、聖書の教えているキリスト者として守らなければならない原則的な生き方、原則的な生活を守る事です。聖書的原則的従順以下の通りです。
①日々祈りの時と聖書を読む静まりの時を持つ事
②毎週の日曜日の礼拝に喜んで集う事
③神さまの恵みに感謝して献金を捧げる事(額はそれぞれが神さまに相談して決める事)。
④福音宣教に励む事
⑤マラナ・タと主の空中再臨を日々待つ事
⑥良心的に生きる事
⑦国の法律を守る事
⑧仕事を忠実に行う事
⑨教会奉仕を忠実に行う事
➉イスラエルの祝福を祈る事
⑪メシヤ的王国の実現を祈る事
以上の11の項目は聖書の教えるキリスト者が従うべき父なる神への愛の礼儀としての聖書的原則的従順を意味しています。その原則的従順の生活送る枠の中で、日々、御霊の導きの御声を聞き分けて従う事が父なる神さまへの愛の礼儀として従順を意味しています。
しかし、従順と言うのは父なる神さまだけに示す愛の礼儀ではなく、人間の縦の関係において示さなければならない重要な愛の礼儀です。
2、人間の縦の関係の中で示す愛の礼儀として従順
①親子関係
親子関係では、子は親に従う事が、親への愛の礼儀だと聖書は教えています。
◆「エペ6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、 6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。」
◆「コロ 3:20 子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。」
②夫婦関係
夫婦関係では、妻は教会がキリストに従うように夫に従う事が、妻の夫への愛の礼儀として教えられています。
◆「エペ 5:22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」
◆「エペ 5:24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。」
③職場の上司との関係
多くの職場では、上司がいて、その上司の下に働く従業員の方がおられます。新約聖書の時代では、奴隷制度がありましたので、奴隷であるキリスト者は、自分の主人をキリストのように尊敬をして従う事が、奴隷としての主人への愛の礼儀だとパウロは教えました。その教えは、現代の社会に適用すれば、色々な職場で上下関係が設けられていますが、部下は、上司に対して従順であることが愛の礼儀だという事が出来ます。
◆「エペ 6:5 奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。」
④社会の上に立つ人との関係
どの国家においても上に立つ人たちがいますが、その国家の上に立つ人たちに対して尊敬をもって従う事が、キリスト者に求められている愛の礼儀です。もちろん、上に立つ人たちが、人権を無視したり、人間に認められている自由を侵害したり、間違った戦争したりする時は、当然反対の声を上げて抵抗する事は許されます。しかし、通常の日々の生活の中では、上に立つ人たちを尊敬し、従う事がキリスト者に求められている愛の礼儀です。
それは、上に立つ人たちが社会の安寧の為に設けた法律や規則や制度を重んじて従う事を意味しています。パウロとペテロがその事を教えています。
◆「ロマ 13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」
◆「コロ 3:22 奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。」
◆「Ⅰペテ2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 2:14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」
◆「Ⅰペテ 2:18 しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。」
⑤教会における関係
教会においても、教会の指導者と一般信徒の兄弟姉妹との関係においては、一般信徒の兄弟姉妹は、教会指導者に従う事が、愛の礼儀として教えられています。
◆「ヘブル 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」
◆「Ⅰテモ 5:17 よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。」
◆「Ⅰペテ 5:5 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。
長老と言うのは「教会の指導者」を意味してペテロは使用しています。
以上のように、聖書は神と人との縦の関係と、人と人の縦の関係においては、上に立つ者に、その下にある者は愛の礼儀として「従順」であることを教えています。教会の指導者に聞き従うというのは、聖書がはっきりと教えているように、指導者が語る聖書の御言葉に聞き従う事です。礼拝において、教会の指導者が忠実に語るみ言葉を聞くだけでなく、それ実践し従う事です。それが、教会の指導者に対する礼儀として従順を意味しています。
「ヤコブ1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」
【終わりに】
≪従順に生きる道≫
しかし、キリスト者の内に残存している古い人は、従順をとても忌み嫌います。たとえそれが愛から出た善なる命令であると分かっていても、命令に聞き従う事を嫌がります。又、命令調で命令される事も嫌がります。命令調で言われると「むっとして」、偉そうに言わんとってと反発するのです。それは古い人です。古い人はいつも自分を絶対化し、自分を親分にする傲慢者であるからです。兄弟姉妹方の中に、神に従順であれ、親に従順であれ、夫に従順であれ、上司に従順であれ、上に立つ国家の指導者に従順であれ、教会の指導者に従順であれと聞けば、心のどこかにそれを嫌がり否定する思いが湧いたり、又、日々の生活の中で、親や夫や上司や上に立つ高官や教会の指導者に従う事を聖霊が導かれても、従う事を拒むとしたら、それは、古い人から出ている邪悪な不従順だと覚えて下さい。その古い人の邪悪な不従順な思いと不従順は、キリストと共に十字架で死んだものとして殺して下さい。そして、キリストと共に甦り神さまと人に対して愛の礼儀として「従順に生きる者とされている」という霊的事実をしっかりと認め、安んじ感謝し、「私は神さまと人に対して従順なものです。私は従順に生きる事が出来ます」と大胆に神さまと自分に向かって宣言しましょう。その信仰と宣言に聖霊が働き、聖霊の力で神と人に対して従順に生きる事が喜びとして意欲が湧いて来る事を知らされるのです。
神さまと人に対しての愛の礼儀として従順な生活送る為に、キリストにあっての「きよめの福音」をしっかりと適用しましょう。しかし、「愛着を捨てる」という「十字架を負う」という従順は祈りの中で、「十字架を負って歩んで行けるように助けて下さい」と助けを祈る祈りの中で養われる事を覚えて下さい。
