岡山英雄牧師著「小羊の王国」の問題点5
麦と毒麦のたとえ話の解釈について①
2024年10月10日 佐藤勝徳 

これまで、岡山英雄牧師の「小羊の王国」の問題点」を、4回にわたって論じてきました。「1」では「黙示録7章の14万4千人の解釈について」、「2」では「イスラエルの普遍性について」、「3」では黙示録11章の「二人の証人の解釈について」、「4」では黙示録11章の「1260日」の解釈について」批判的に論じてきました。岡山牧師は「正しい聖書解釈に基づかないのであればそれは単なる「空想話」(Ⅱテモテ4:4)でしかない」と論じているにも関わらず、以上の項目に関して自ら正しい聖書解釈から逸脱をされている事に気づいていないようです。

「パウロは、『人々が健全な教えに耳を貸そうとせず‥‥真理から耳をそむけ、空想話にそれていくような時代』についてテモテに警告した。(Ⅱテモ4:1~5)。終末に関してたとえどのような興味深い物語であったとしても、正しい聖書解釈に基づかないのであればそれは単なる「空想話」(同4:4「作り話」新共同訳)でしかない、神の民は「健全な教え」(同4:3)に基づいて終末的苦難の現実を直視し、その中でキリストの勝利に預からなければならない」(「小羊の王国」P65)

岡山英雄牧師が「小羊の王国」について、最も大事に論じているのはキリストがマタイ13章で語られた「麦と毒麦」のたとえ話の解釈に基づく「終末論」です。良い麦は神の国「平和の小羊の王国」を意味し、毒麦はサタンの国「憎しみと暴力の獣の国」を意味していると解釈し、その二つの「国」が創世記から終末時代にまで成長し「グローバル化」されていくと教えています。最終的にはキリストの再臨、最後の審判、新天新地の到来により「神の国」が勝利することを論じながら、その勝利に至るまで、その戦いに教会(神の民)が召されていると教え、現代のキリスト教会に、神の国「平和の小羊の王国」の神の民として自覚をもって、サタンの国「獣の国」による苦難下にあっても、「小羊なる主」に従い非暴力を貫くように励ましています(P167)。又、その神の民(教会)は、終末の艱難期の苦難の中を通ることによって、聖められ「栄光の教会」にされると希望を教えています。(P58)

「キリスト教終末論においては、「麦」と「毒麦」という、二つの対照的な成長過程を同時に視野を入れる必要がある。麦と毒麦の、二つの勢力のせめぎ合いは聖書全体を貫いている。毒麦の流れの始まりは、神への反逆としてのバベルの塔(創世11章)、その究極は大バビロン(黙示録17章)である。又、麦の流れはアブラハムへの祝福の約束(創世12章)から始まり、その実現として全世界への宣教、究極としての新しいエルサレム(黙示録21章)へ至る。R・ボウカムはこれらを『二つのグローバル化』」と呼んでいる」(同P37~38)

以上の「小羊の王国」の第1章「麦と毒麦」(P16~68)の解釈の問題点を論じていきたいと思います。
Ⅰ 「教会=神の民」論について
 岡山牧師は、「麦と毒麦の例え話の解釈」(同P16~P68)の中で、「教会=神の民」として考えていることを明確にされています。教会という用語を45回ほど使用され、教会を「神の民」と同一視されて「神の民」を18回ほど使用しています。「教会=神の民」論はカトリックの神学者であるハンス・キュンクや、プロテスタントの多くの神学者が教えています。

ハンス・キュンクは以下のように論じています。
「神の民という考えは後期ユダヤ教において(民族的ラビ的、ヘレニズム定、黙示文学的影響による)種々の誤った解釈にさらされたのであったが、以上の考察から見る時に、イエスをメシアとする信仰の下に集まった終末的な救いに与る者の共同体が、この考え方を自らに適用したのは当然だったと言える。この共同体は、メシアなるイエスを信じる事において真のイスラエルであり、真の民、終末の時の新しい神の民であるという自覚を日共に固めて行った。そして教会の宣教がユダヤ人の拒否を受ける一方、異邦人が信仰に入った事によって、イエスの弟子の共同体である教会は自ら新しいイスラエル、新しい神の民である事、つまり終わりの時における新しい神の民である事をますます確信するようになった。こうして共同体は、神の民という含蓄の深い由緒のある基本的概念を自らに適用するのを憚らなくなった。彼らは弟子とか、又、使徒行伝によればアンテオケで初めて部外者の側から『キリスト信者』と呼ばれたが、キリストを信じる者の本質はこれらの呼称ではなく、イスラエルという古くから名誉ある名称によって示されるのである。そしてこれと関連して『エクレシア』と並んで「神の民」の名称が第1に用いられる。神の民は『エクレシア』(神に呼ばれた者の集まり)の自己理解を表現する最古のかつ基本的な概念である。『キリストのからだ』」とか『神殿』の様な表象は、神の民に較べると二番手でしかない。それ故に、教会の基本構造は神の民という観点から理解をする必要がある」(ハンス・キュンク著「教会論上」1976年9月30初版/石脇慶総/里野泰昭共同訳、秋山憲兄発行、新教出版社/P188~189)

又、置換神学に厳しく反論している米国の神学者マービン・R・ウイルソンも、「私たちの父・アブラハム」の中で、教会の「神の民」論を論じています。ウイルソンは、パウロがローマ11章で教えている野生種のオリーブの枝である異邦人キリスト者はイスラエルの残りの者に接ぎ木されて、「神の民」とされていると論じています。(「私たちの父アブラハム」第1章「根とその枝」P16~33/他P40)。

◆「・・異邦人クリスチャンは、イスラエルに接がれることによって、満ち足りた人生と活力を注入されるのです」(同P30)
◆「・・異邦人クリスチャンはこの時から、生ける神を愛して従がった、あの神秘的な残りの者、イスラエルに接がれたのです」(同P31)。
◆「神のめぐみのみによって神の民とされた私たち(異邦人キリスト者)」(同P33)。

マービン・R・ウイルソンの「私たちの父アブラハム」を翻訳したのはBFPJAPAN出版部の複数の人たちですので、ウイルソンの神学に当然影響を受けています。BFPとは、現代のユダヤ人を物心両面で支援をしている国際的団体です。「BFP」に属している牧師や神学者も「教会=神の民」論を聖書的な教えとして、機関紙「オリーブ」で論じてきました。その一部を紹介します。「BFPは聖なる国民(Ⅰペテロ2:9)」になるという召しを真剣に受け止めています」オリーブ2017年/BFP国際会長のレベッカ・J・ブリーマ氏)。                                            しかし、Ⅰペテロ2:9を引用して「BFPが聖なる国民に召されている」というメッセージは、聖書の教えに一致しません。なぜなら、「聖なる国民」という尊称は、永遠の昔より神に選ばれたユダヤ人(イスラエル民族)だけのものだからです。私はその教えに対して疑問のレポートをBFPに送りました。係の人から後日担当の牧師から返答をしますという返事はありましたが、その後、担当の牧師からは何の返答もありません。

「教会=神の民」論を論じている松永希久夫牧師も「古い株の上に新しい別の枝を持ってきて接ぎ木をする。古いイスラエルに異邦人が継がれて、そこに新しいイスラエルができるのだというイメージを使うのです。」(松永希久夫牧師著「神の民の信仰]P157」

矢内昭二牧師も、新キリスト教辞典(1991年いのちのことば社発行)で「教会=神の民」論を次のように説明をしています。「聖書は実に多様なことばで教会について教えているが,特に,神の民,キリストのからだ,聖霊の宮と呼んでいる.この神の民という表現は,旧約においては選ばれた神の民としてのイスラエルを表し,新約においてはキリストの教会を表す術語となった(出エジプト19:4‐6,Ⅰペテロ2:9,10).この章句は聖書の教会論全体にとって決定的に重要なものである。」(ネットより)

私は、それらの人たちの論じる「聖書的根拠」を調べてきましたが、それぞれの聖書解釈に大きな問題があることに気付きました。置換神学者をはじめ、置換神学を批判する神学者も「教会=神の民」論の証拠として掲げる重要な聖書個所の解釈の問題点を最初に論じたいと思います。

岡山牧師も「苦難の時代における教会の在り方を考察することは、教会とは何か、世界とは何か、歴史とは何かを問う事である」(同P67)と教えていますので、まず「教会=神の民」論を検証したいと思います。岡山牧師は、「教会=神の民」論を短く「小羊の王国」で論じ、それを前提に「小羊の王国」を論じています。それは、教会を何度も「神の民」と表現を変えて論じている事で分かります。その岡山牧師の「教会=神の民」論を検証する前に、多くの神学者が「教会=神の民」論を論じる重要な聖書的証拠としているいくつかの重要な聖書個所を最初に検証しておきたいと思います。

1、Ⅰペテロ2章9節・10節の解釈
◆「Ⅰペテ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

① ペテロの手紙の宛先
 聖書66巻を正しく解釈する原則の一つは、いつの時代に誰に宛てて書かれたかを正しく知る事です。それを無視して、自分たちの神学や教理を読み込んでの解釈は間違った解釈を犯す危険が高くなります。
ペテロ書はAD60年代末に書かれた手紙で、宛先は「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々」(1 :1 )とされていますので、ペテロ書は当時の離散(ディアスポラ)のユダヤ人キリスト者に宛てて書かれた手紙だと分かります。離散(ディアスポラ)のユダヤ人は異邦人キリスト者を含めた離散のキリスト者ではないのです。その証拠となるのは、イザヤ書や詩篇で預言されている「メシヤ」をペテロはやがて実現するメシヤ的王国のイスラエル国家の「礎石」とペテロ書で呼んでいる事です。それは、イスラエルの指導者によって捨てられた初臨のキリストの事を意味しています。(Ⅰペテロ2:5~8)
◆「イザ 28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」
◆「詩 118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」

ペテロの手紙は、神がイスラエル民族と結ばれた「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」と言う、4つの無条件契約の実現としての「メシヤ的王国」を前提に書かれている事は明らかです。それが、キリストを「メシヤ的王国のイスラエルの「礎石」として紹介している事で明らかです。

また、宛先の当時のディアスポラのキリスト者を「選ばれた種族」、「王である祭司」、「聖なる国民」、「神の所有とされた民」、「神の民」と呼んでいる事です。それらはすべてユダヤ民族のキリスト者を指していますので、ペテロの手紙はディアウポラのユダヤ人キリスト者に宛てて書かれている事は間違いありません。更に、ユダヤ人との比較で「異邦人」(Ⅰペテ2:12、4:3)を登場させています。しかし、置換神学者や置換神学者以外の「教会=神の民」論を主張する神学者たちは(マービン・R・ウイルソンなど)、ペテロ書の異邦人をキリスト者と対比する「異教徒」とだと解釈しています。当然、置換神学者の  ウイリアム・バークレーも「異邦人」を異教徒として注解しています。(「ペテロ・ヤコブ」/大隅啓訳/三ヨルダン社1969年7月25日/P165~167)。新共同訳聖書は「異教徒」と意訳してります。しかし、それらは間違っているのです。なぜなら、聖書は「異邦人」をすべてユダヤ人との対比で使っているからです。聖書全体(新改訳改訂版3)では「異邦人」は113回使用していますが、全てイスラエル(ユダヤ人)との対比で使用しています。

≪新改訳聖書改訂版3に最初に使用されている異邦人≫
◆「Ⅱ列王 17:8 【主】がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」

≪口語訳聖書で最初に使用されている異邦人≫
◆「創 17:12 あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。」
※新改訳聖書改訂版3では「外国人」と訳されています。
≪口語訳も新改訳聖書改訂版3に最後に使用されている異邦人≫
◆「黙 11:2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」
ペテロ書を含め聖書は一貫して「異邦人」をユダヤ人との対比で使用していますので、ペテロの手紙の宛先は、当時のアジヤ地方に住んでいた「ディアスポラのユダヤ人キリスト者」であることは間違いありません。しかし、「教会=神の民」論を論じる置換神学者や置換神学を否定する多くの神学者も、2章9節・10節の「「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民、神の民」を、ユダヤ人キリスト者だけを指すのでなく、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者を含めた「教会の聖徒達」だと解釈して、教会=神の民、神の民=教会という教理を打ち立ててきました。しかし、その解釈は明らかに間違っています。その解釈の問題を以下に論じます。

2、Ⅰペテロ2章9節・10節の正しい解釈
≪すべて単数形である≫
① 選ばれた種族は明らかにユダヤ人キリスト者である
 種族というのは、明らかに血統的な一つの民族を意味しています。それは「種族」(ゲノス)が単数形で表現されているからです。「ゲノス」「は民族とも訳されています(ギリシャ語の逐語訳/ネットより)。世界の多くの種族の中で、神の選民として選ばれた種族(民族)はユダヤ人でしかありません。教会には、世界から多くの種族から救われた異邦人が加わり、教会が形成されていますので、教会は明らかに「選ばれた一つの種族」ではなく、「多くの種族から選ばれた多くのキリスト者」なのです。ペテロは、「多くの種族の中より選ばれたキリスト者」に手紙を書いたのではなく、「選ばれた一つの種族であるユダヤ人キリスト者」に向けて手紙を書いたのです。
② 王である祭司もユダヤ人キリスト者である
 ルーターは万民祭司論の聖書的根拠としてⅠペテロ2章9節の「王である祭司」を取り上げていますが、それは正確ではないのです。それはペテロ書の「王である祭司」(バスィレイオン イエラテュマ)は単数形であるからです。異邦人キリスト者を含めた全てのキリスト者が祭司であるという「万民祭司論」の聖書的根拠は黙示録1章6節と5章10節にあります。そこでは複数形の「バスィレイアン イエレイス」)が使用されているからです。
◆「黙 1:6 また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。」
◆「黙 5:10 私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」
ペテロは「万民祭司論」でなく「ユダヤ人キリスト者祭司論」を教えているのです。ユダヤ人は、アブラハム契約により世界を祝福する選民とされていますので、世界の国々、諸国の民に神の祝福を取り次ぐ仲立ちの役目があります。その仲立ちの役目を聖書は「祭司」と呼んでいます。イスラエルの民の使命は、民全体で世界を祝福する使命と権威を神から与えられると、モーセを通して約束を受けていました。

③聖なる国民もユダヤ人キリスト者である
「聖なる国民」と訳されているギリシャ語は単数形の「アギオン ラオス」が使用されていますので、ユダヤ人キリスト者を意味しています。新改訳聖書改訂版3の新約聖書では異邦人を含めた全てのキリスト者を「聖徒」(1回)、あるいは「聖徒たち」(複数形/61回)と呼んでいても、単数形で「聖なる国民」とは決して呼んでいないのです。
以上の、ユダヤ人キリスト者を「祭司の王国」或いは「聖なる国民」とペテロが呼んでいるのは、出エジプト記19章のモーセを通してイスラエル民族に与えられた約束に基づいています。
◆「出 19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

④ 神の所有とされた民もユダヤ人キリスト者を意味している
 ユダヤ人キリスト者はキリストを信じる前は、ユダヤ民族の「神の民」には変わりはないのですが、真の意味では「神の民」ではなかったので、ペテロは「2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」と言ったのです。Ⅰペテロ2章9節の「神の所有とされた民」も10節の「神の民」もそれぞれ「民」は単数形の「ラオス」が使用されていますので、神の民は異邦人キリスト者を含めたキリスト者の事でなく「ユダヤ人キリスト者」を意味して使用されています。「なぜなら、教会は多くの民族で成立していますので、複数形のラオイが使用されるはずだからです。その証拠に、新天新地の神の民は、ユダヤ人をはじめ多くの民族が住んでいますので、複数形の 「ラオイ」が使用されています。口語訳聖書では「神の民」と翻訳しているので、複数形かどうかわからないのですが、ギリシャ語原語は明らかに複数形のラオイ)を使用しています。正確には「神の諸国民」と訳すべきなのです。英訳のNKJVは“His people”と訳しています。

3、ローマ書11章のオリーブの台木と枝について
 Ⅰペテロ2章9節・10節の次に、ローマ11章でパウロはイスラエルと異邦人の関係をオリーブの木を例えに論じています。イスラエルは台木の枝として、異邦人は野生のオリーブの枝として論じています。又、オリーブの台木は、聖なる根より成長した木として論じています。不信仰なユダヤ人は、台木から切り離されたオリーブの枝に例えています。キリストを信じて救われた異邦人は、台木から切り離されていない信仰あるユダヤ人(残りの者)に接ぎ木されるのでなく、台木そのものに接ぎ木されていると教えています。パウロは「台木」を信仰あるユダヤ人だとは教えていません。又、聖なる根は、アブラハムとも、また、彼の子孫のイサク、ヤコブだとも教えていません。アブラハムも、イサクも、ヤコブも罪びとだからです。彼らも多くの罪を犯す者で、生まれながらにして罪の性質をもって生まれているのです。アブラハムの子孫は、イサク、ヤコブに続くイスラエルだけではありません。彼の子孫は、アラブ民族の先祖と言われるイシマエルをハガルによって生んでいます(創世記16:15)。また、妻のサラ亡き後にめとったケトラから、6人の男子が生まれています(創世記25:1~2)。彼らもアブラハムを先祖としていますので、アブラハムが聖なる根だとすれば、彼らも聖なる諸民族になってしまいます。

聖なる根とは、神が「アブラハム」「イサク」「ヤコブ」と契約を交わされた「アブラハム契約」なのです。その根はやがて「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」が加えられて台木として成長していったのです。その聖なる台木にアブラハム、イサク、ヤコブ、の血統であるイスラエル民族がすべて継がれてきましたが、信仰あるユダヤ人はそのまま継がれたままですが、不信仰なユダヤ人は台木から切り離されてきたのです。野生のオリーブの枝に例えられている「異邦人」は聖なる根である「アブラハム契約」と、又、「アブラハム契約」が成長し発展していった「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」という台木とは全く関係がない存在ですが、キリストを信じる信仰によりその台木につながれたのです。その結果、四つの無条件契約でイスラエルの民に約束されている多くの祝福に預かるものとなったのです。しかし、四つの無条件契約でイスラエルに約束されている祝福の中の「土地の約束」の祝福には異邦人は預かる事が出来ません。

 「教会=神の民」論」教える神学者たちは、聖なる根を「アブラハム」、又は「アブラハム、イサク、ヤコブ」とというイスラエル民族だと解釈しています。その解釈から、聖なる根によって成長した台木そのものを「イスラエル民族」、あるいは「神を信じるユダヤ人(残りの者)」と解釈しています。その結果、台木であるイスラエルに野生のオリーブの枝で例えられている異邦人キリスト者が接ぎ木されていると解釈しているのです。その解釈によって、神の民であるイスラエルと結ばれた異邦人キリスト者も「神の民」だと解釈するようになり、「教会=神の民」論の根拠としてきました。しかし、パウロはそのように教えていません。イスラエルは台木でなく台木のオリーブの枝だとはっきりと教えているからです。パウロは野生のオリーブの枝に例えられている異邦人キリスト者を、台木の枝である「イスラエル民族」、又は、「イスラエル民族の残りの者」に接ぎ木されているのでなく、台木に接ぎ木されていると教えています。パウロは、異邦人がイスラエルに接ぎ木され結ばれたので「神の民」となったとは教えていないのです。

◆「ロマ11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。 11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、 11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。 11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。 11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。 11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」

以上の聖句では、聖なる根と、聖なる枝との関係、又、台木と枝の関係を教えています。11:16~21に「枝」が6回使用されています。①「聖い枝」(信仰あるイスラエル) ②「折られた枝」(不信仰なイスラエル) ③「折られた枝の中で接ぎ木された枝」(罪を悔い改めたイスラエル) ④「野生種のオリーブの枝」(キリストを信じた異邦人) ⑤台木に接ぎ木された野生種の枝である異邦人キリスト者は台木の枝であるイスラエル人キリスト者に対し誇るな ⑥台木の枝(キリストを信じているイスラエル人キリスト者)

 パウロは、最初に16節で「オリーブの聖い根」を教えていますが、根はオリーブの台木を成長させますので、21節に根から成長した「台木」が出てきます。枝というのは、台木に成長して伸びてくるものですので、「根が聖ければ、枝も聖い」というのは、聖い根から成長した台木の枝も聖いという事を教えています。ここでの、聖なる根は「アブラハム契約」ですが、その根が台木として成長しました。それは、創世記でアブラハムに始まった「アブラハム契約」がイサク、ヤコブ、ヤコブの子孫イスラエル12部族に受け継がれていったことを教えています。また、「アブラハム契約」はさらに「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」として成長した台木となりました。その成長したアブラハム契約である台木の枝であったのがイスラエル民族でした。その中で、不信仰なイスラエルの人達は、神の裁きによって「アブラハム契約」などの4つの無条件契約という聖なる台木から切り離されてきたのです。それが「折られた枝」で例えられています。しかし、罪を悔い改めて罪赦されたイスラエルの民は、折られたオリーブの枝が台木に接ぎ木されるように、台木である「アブラハム契約」など4つの無条件契約に接ぎ木されてきました。その接ぎ木の中に、野生のオリーブの枝で例えられている「信仰の異邦人」が混じって、「アブラハム契約」が成長した「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」という台木につながれてきました。それは、神の憐れみによるものであるので、台木につながれている「野生の枝である異邦人」が台木の元々の枝であった「イスラエル」に対して傲慢になってはいけない、とパウロは警告しています。

 以上のパウロの教えには、異邦人を意味する「野生のオリーブの枝」が、イスラエル意味するオリーブの枝に接ぎ木されているとは教えていないのです。異邦人キリスト者は、もともと何の関係もなかった「アブラハム契約」が成長した台木に、キリストを信じた結果、接ぎ木されて台木にある祝福という養分に預かっているという事を論じていますが、「教会=神の民」だとは教えていないのです。野生種のオリーブの枝で例えられている「異邦人キリスト者」は、「土地の約束」を別として「アブラハム契約」という根から成長した「ダビデ契約」「土地の契約」「新しい契約」という台木に接ぎ木されて、その契約の中で本来イスラエル民族に約束されている「祝福」の一部におこぼれとして預かっているのです。

4、エペソ2章11節~22節の異邦人について
 エペソ2章11節~22節は、イスラエル人キリスト者と異邦人キリスト者の関係がより詳細に教えられています。
「エペソ2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、 2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

① キリストを信じる前の異邦人キリスト者について
1)肉において異邦人であった
2) イスラエル人(割礼者)から「無割礼の人々」と呼ばれていた。
3) イスラエルの国から除外されていた。
4) 約束の契約に対しては他国人
5)望みも神もない人達
6) 遠く離れた人々
② キリストを信じている異邦人について
1) キリストの血によって神とイスラエルに近い者となった。
2) キリストにあって敵意が除かれて、キリストを信じるユダヤ人と「新しいひとりの人」となった。
3) ユダヤ人キリスト者と一つのからだになった。(キリストのみ体なる教会となった)
4) ユダヤ人キリスト者と共に御霊によって神に近づく事ができる存在となった。
5) ユダヤ人キリスト者に対しては他国人でも寄留者でもなくなった。
6) 聖徒たち(ユダヤ人キリスト者)と同じ国民、同じ家族となった
7) 使徒が土台で、キリストは「礎」で建てられている霊的な「神の宮」の一員にされた。

パウロはローマ書で「オリーブの枝」を例えに、「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」の事を論じましたが、その関係をエペソ書ではより詳細に論じました。その中で、パウロは「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」とで新約時代の教会が存在している事を強調しています。その教会について以下のように教えています。
5、エペソ2章11節~22節の教会について
教会はユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者で新しいひとりの人である。
教会はユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者で一つの体(キリストのみ体なる教会)である。
教会は同じ国民(霊的国民)である。
教会は同じ家族(霊的家族である)。
教会は霊的な神の宮である。
 6、「教会=神の民」論をパウロは論じていない
 エペソ2章で「教会=神の民」という事が論じられていると思われるのは、新改訳聖書で「聖徒たちと同じ国民である」と訳されているエペソ2:19です。しかし、ギリシャ語原語を調べるとその解釈や翻訳に問題がある事が分かります。
2章19節の「同じ国民」と訳されているギリシャ語原語は複数形の「同じ市民たち」を意味する(スムポリタイ)が使用されているので「同じ国民」でなく、「同じ市民たち」と訳すべきなのです。新共同訳では「教会=神の民」論に基づき、「聖なる民に属するもの」と意訳していますので、気を付けなければなりません。パウロは、エペソ書の教会論においても「教会=神の民(単数形)」を論じていないのです。エペソ書2章でユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者で構成される重要な「教会論」において、「教会=神の民」論が論じられていない事に私たちは注目すべきだと思います。
7、ガラテヤ書6章16節の「神のイスラエル」
「教会=神の民」論の聖書的根拠としての重要な聖書個所であるⅠペテロ2:9・10、ローマ11:16~21、エペソ2:11~22は、いずれも「教会=神の民」論を教えていない事を証明しましたが、もう一つ重要な聖書個所はガラテヤ6:16の「神のイスラエル」という言葉です。置換神学者をはじめ置換神学を否定する神学者も「教会=神の民」論を論じる時に必ず引用するのがガラテヤ6:16の「神のイスラエル」です。岡山牧師は、イスラエルの普遍性という事を思いつき、そこから、教会が普遍的イスラエルとなっている、つまり、教会が神の民となっているという教理を打ち立てています。その教理の聖書的根拠としてガラテヤ6:16節を取り上げています。その解釈の問題については「小羊の王国の問題点2」(P7~P12)においてすでに詳細に論じていますのでここでは割愛します。

8、ローマ9章24節~26節
◆「ロマ9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。 9:25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。 9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
以上のローマ9:24~26も、「教会=神の民」論を論じる重要な聖書個所として、置換神学者やそうでない神学者も引用しています。しかし、パウロは決してローマ9:24~26で「教会=神の民」論を論じていないのです。9:24~26の重要なテーマは、神の憐れみです。神の憐れみによって多くのユダヤ人が信仰によって義とされ救われて来ましたその神の憐れみが、ユダヤ人だけでなく異邦人にも及んでいる事を、ホセア書2章23節の「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」の聖句と、1章10節の 「9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる」を引用しました。
パウロが引用したホセア書の預言の言葉は、神の反逆する北イスラエルの人々への終末における回復の預言が教えられています。それは、預言者エゼキエルやゼカリヤが預言するメシヤ的王国における「イスラエルの回復」の預言と同じです。パウロが、アブラハムのように神を信じる者こそ「真のユダヤ人」で、そうでない者はユダヤ人でないと論じると同じように、ホセアも「神を信じるイスラエルこそ真の神の民、真の神の子である」。そうでない神に反逆するものは「神の民でない」と論じています。だからと言ってパウロにしても、ホセアにしても、神の反逆する「ユダヤ人(イスラエル)」が血統的なユダヤ民族(イスラエル民族)でなくなったとか、神の民でなくなったとは論じていないのです。それは、神の反逆するユダヤ人を真の悔い改めに至らせるための厳しい裁きとしての「拒絶」を意味する言葉として語られているのです。それは、終末の時代において、反逆のイスラエルが「真の神の民」として復帰することが神の憐れみとして預言されている事で分かります。
では、なぜパウロは「ユダヤ人」に向けてのホセアの預言を異邦人に適用したのでしょうか。異邦人がユダヤ人のように「神の民」となったという事を論じる為でしょうか。そうではないのです。パウロの論点は、神の民でない「異邦人」がキリストを信じる信仰によって義とされた事は、将来、神の反逆しているユダヤ人が終末に受けると預言されている「神の憐れみ」に先取りするかのように預かっている事を主張するためなのです。パウロはホセア書の引用によって、キリストを信じる異邦人(教会)がイスラエルに代わって「新しいイスラエル」となったとか、異邦人(教会)が「普遍化されたイスラエル」になったとか「神の民となった」とは一切論じていないのです。それは、パウロが、ローマ9章から11章で、ユダヤ人と異邦人、教会とイスラエルを明確に区別しながら、イスラエル論を論じている事で分かります。

◆「ロマ 11:1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」
◆「ロマ11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」

9、Ⅱコリント6章16節~18節
 Ⅱコリント6章16節~18節も「教会=神の民」論を論じる重要な聖書的証拠として取り上げられていますので、考えてみたいと思います。引証聖句は、レビ記16章12節、出エジプト記29章45節、エゼキエル37章27節、エレミヤ31章1節、イザヤ52章11節、ホセア1章20節、イザヤ43章6節などです。パウロは旧約聖書の一ヵ所からだけでなく 多くの個所を組み合わせて、Ⅱコリント6章~16節を書いたことが分かります。パウロは、コリントの教会の人たちを「偶像崇拝」から決別させるために、旧約聖書において、神の民であるイスラエルに対する「偶像崇拝」からの決別を促す言葉と祝福の言葉や、メシヤ的王国において神の恵みによってイスラエルが偶像崇拝から決別させてくださる預言の言葉を引用しました。パウロがこれらの預言の言葉の数々を引用して、コリントの教会の聖徒たちに教えようとしたのは、「偶像からの決別と神の祝福」であって、教会が「神の民」だという事を論じようとしたのではないのです。その証拠に、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者で成立している教会について直接論じているエペソ2章で、教会は「新しいひとりの人」と論じていますが、「神の民」だとは一切論じていないのです。

「6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、 6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

Ⅱ 岡山牧師の「麦と毒麦のたとえ話」の解釈の間違いについて
 岡山英雄牧師は「教会=神の民」論を前提に、キリストの麦と毒麦のたとえ話を解釈されているので、その解釈は明らかに間違っているのです。その一つ一つを指摘して行きたいと思います。

1、キリストの証人
 岡山英雄牧師は、第Ⅰ章の麦と毒麦の「キリストの証人」において、聖書の終末論を論じる前に、聖書の歴史観は仏教のように輪廻転生説のような「循環的」でないことをまず論証され、聖書の歴史観は「直線的」であると論じています。「キリスト教は『創造』から『終末』に向かう直線的な歴史観を持つ」(同P21)。また、聖書の終末論は「オウム真理教」や「ノストラダムスの大予言」等異教徒が唱える「破壊的終末論」でない事を論証され、聖書の終末論は「希望的終末論」であると論じられています。キリストを信じる者は、キリストの証人として「直線的な歴史観」に基づく聖書の終末論に目をとめ、聖書的な希望に満ちた終末論により今がどのような時代なのか時代を正しく認識することの重要性を説かれています。以上の、岡山牧師の励ましは正しいと思いますが、その中で、一つの大きな問題点があります。それは、聖書の終末の希望に関して初代教会の人たちの希望を以下のように論じている事です。

「初代教会の聖徒たちが待ち望んでいたのは、死んで天で会うイエスではなく、この地上の来られるキリストであった。このように生き生きとした終末的な信仰のリアリティ、初代教会の持っていた燃えるような主の来臨への願い、「主は近い」という信仰告白を実生活において回復すること、それが現代の教会に求められているのではないだろうか。」(同P25)

① 初代教会の聖徒たちの希望について
初代教会の聖徒たちの希望について岡山牧師は「死んで天で会うイエス」ではなく、と論じていますが、それは大きな間違いです。初代教会の聖徒たちは、確かにキリストの地上再臨を待ち臨んでいました。しかし、それ岡山牧師が教えているように、地上に再臨されるキリストにより実現する黙示録21章の「「新天新地」を待望していたのではないのです。原始教会が待ち望んでいたのは、キリストの地上再臨によるイスラエルを中心とした「メシヤ的王国」を待望していたのです。その熱望は「マラナタ」という挨拶言葉で表現されていました。原始教会の時代は、まだ「黙示録の新天新地」が啓示されていない時代で、原始教会の聖徒達には知らされていなかったのです。岡山牧師も取り上げているパウロの言う「主は近い」というのは、あくまでイスラエルに約束された「メシヤ的王国」の成就の為に地上再臨されるキリストに対する信仰としての言葉であったのです。しかし、主の地上再臨を体験せずに死んでいく聖徒が多く起こり、改め てキリスト者の希望は何かを考えたり、あるいは聖霊によって奥義として新たに希望が示されてきたのです。その結果、原始キリスト教会には、聖書に啓示されている終末の希望が四つある事が明確にされてきました。

1) 死ねば霊魂で天のキリストと出会う希望
その一つは、死ねばその霊魂は父なる神やキリストのおられる天の御国に導かれるという希望です。
◆「ヘブル12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。 12:23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、 12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
2) 主の空中再臨による携挙の希望
二つ目は、主の空中再臨時に、既に死んでいる聖徒たちは永遠に朽ちない栄光の体に復活し、生きている聖徒たちは朽ちる肉体が変えられ、共に空中の主の元へ導かれ、主と共に天に引き上げられることです。
◆「Ⅰテサ4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
3) 主の地上再臨による「メシヤ的王国」実現の希望
三つ目の希望は、キリストの地上再臨により、この地上にイスラエル民族を中心とした「メシヤ的王国」が実現し、その「メシヤ的王国」の住民となり主にお仕えすることです。復活のキリストは、ダビデ王国復興としての「メシヤ的王国」は父なる神がお定めになった時に必ず実現する事を弟子達に教えられました。
◆「使1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』 1:7 イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。』・・」
4) 黙示録21章の新天新地の希望
四つ目の希望は、黙示録21章の文字通り字義通り永遠に続く「新天新地の神の国」に導かれることです。黙示録は原始キリスト教会時代の終り頃に啓示されたので、黙示録の新天新地の希望はその後において、教会の希望として新たに与えられたのです。
以上の四つの希望が初代教会において確立していました。それは全て聖書が証言していますので、その一つ一つを更に詳細に確認しておきたいと思います。

≪死後、天でキリストとお会いする希望について≫
死後、天でキリストにお会いすることはパウロやペテロなど初代教会の聖徒達が抱いていた希望でした。それはまた、キリストが約束された希望でした。
1) パウロの死後の希望
 パウロは、できれば早く死んで霊魂において天におられるキリストに会いたいと、彼が死後、天においてキリストと会う事を強い希望としている事を証言しています。
◆「ピリ 1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。 1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」
2) ペテロの死後の希望
 ペテロも、肉体を霊魂の着物(幕屋)に例えて、肉体が死ぬことは着物(幕屋)を脱ぐようなもので、霊魂は生きてキリストの元へ導かれることを強い希望として証言しています。また、天には朽ちない資産がキリスト者の為に蓄えられていると教え、天に望みを持つように教えています。
◆「Ⅱペテ1:11 このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。 1:12 ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。1:13 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。 1:14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」
◆Ⅰペテ 1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。」
3) へブル書が教える死後の希望
 へブル書は、人の死後、裁きが必ずある事を教えています。死後、未信者は裁かれて「苦しみのよみ〈ギ〉ハデス/〈へ〉シェオール」へ落とされ、キリストを信じているキリスト者は死後、その霊魂が「天に導かれる」ことを教えています。それ故、へブル書では希望の天の様子が詳しく描かれています。又、へブル書は旧約の聖徒達が「天の都」を強く希望として歩んでいたことをも教えています。
◆「ヘブル 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように・・」
◆「ヘブル12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。 12:23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、 12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
◆「ヘブル 11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。・・ 11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
※アブラハムの時代にすでに天の都(天のエルサレム)は建設されていたのです。
4) キリストが教える死後の希望
キリストは、「アブラハムの懐」とか「パラダイス」という言葉で、旧約時代の聖徒達は「よみにある安らぎの世界」に導かれた事を教えておられます。「よみ」にあるその「アブラハムの懐」とか「パラダイス」と呼ばれている安らぎの世界と旧約時代の聖徒達の霊魂は、キリストが復活されて天に上られた時一緒に天に引き上げられました。その旧約時代の聖徒達の事をへブル書では「全うされた義人の霊」と呼んでいます。「アブラハムの懐」とか「パラダイス」と呼ばれている「安らぎの場所」は、旧約時代は「ハデス」にありましたが、現在は天に存在していますが、将来は新天新地に移動するのです。以下の聖句は、パラダイスが「よみ」から「第三の天」へ、「第三の天」から「新天新地のエルサレム」への移動を教えています。

◆「ルカ 23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
 ※旧約時代のパラダイスは「ハデス」にあった事は、キリストが十字架で死んだ日に、強盗と一緒に「ハデス」に行くことを約束された事で理解ができます。
◆「Ⅱコリ 12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。・・12:4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。」
※旧約時代には「ハデス」にあったパラダイスが、新約時代には「第三の天」に移動していた事が、パウロの証言で確認できます。
※勝利の聖徒たちに約束されているパラダイスにあるいのちの木が、黙示録22章ではは新天新地の新しいエルサレムにある事を教えている事から、パラダイスは第三の天から新天新地のエルサレムに移動する事が分かります。


5)
主の空中再臨による教会携挙の希望 
主の空中再臨による教会携挙については、「小羊の王国の問題点Ⅳ」(P11~13)ですでに論じましたが、ここでは主な聖書個所と、追加文書を付け加えておきます。
◆「マタ 24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから」
◆「ヨハ 14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
◆「Ⅰコリ15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。」
※奥義とは、新約時代になって初めて啓示された神の御心を意味しています。主の空中再臨時に生きているキリスト者の肉体が「永遠に朽ちない栄光の体に変えられる」と言う神の御心は、新約時代になり始めてパウロに啓示された真理です。その奥義をパウロは改めて以下のⅠテサロニケ4章で教えています。Ⅰコリント15章とⅠテサロニケ4章13節~18節は、美しく呼応しています。
◆「Ⅰテサ4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
※主の空中再臨時において、まず死んだキリスト者が先に「永遠に朽ちない栄光の体」に甦り、天に導かれていた霊魂と一つになります。次に生きているキリスト者がそのまま肉体が新しい永遠に朽ちない体に変えられ、同時に霊魂が完全にされます。そのようにして空中におられるキリストの元に共に導かれ、共に天に携挙されていきます。その出来事は、 岡本英雄牧師が論じているように、キリストの地上再臨により、死んだキリスト者と生きているキリスト者が永遠に朽ちない栄光の体を与えられる事の順番だけが教えられているだけでなく、先に死んだキリスト者の霊魂が完全にされている事を教える為です。完全にされた霊魂の聖徒達とキリストは空中に来臨されることが明確に約束されています。地上のキリスト者の霊魂はまだ完全にされていませんので、順番としては2番手になっている分けです。Ⅰテサロニケ4章13節~18節はキリストの地上再臨を教えていない事は明白です。以下の聖句がそれを教えています
◆「Ⅰテサ 3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」
6) 天に携挙された花嫁なる教会の喜び
 主と共に天に携挙された花嫁なる教会の喜びは、第1に、地上の生き方に対する報いを決める審判が行われることです。第2は、花婿なるキリストとの結婚式に導かれることです。ユダヤの結婚式では、花嫁は結婚式の前に「ミクベ」と呼ばれる体をきよめる為の入浴が定められています。天の花嫁なる教会の「ミクベ」は、火によって行われます。それが「報いを定める審判」です。その審判では、キリスト者が地上で御霊によらず、肉によった奉仕や善行は全て木や草やわらのように焼かれてしまいます。御霊によって行った奉仕や働きは、宝石や金や銀に例えられ永遠に残り、豊かな報いは「第三の天」と「メシヤ的年王国」で受けるのです。その裁きこそが、「小羊の婚姻」天の結婚式の前の花嫁なる教会の「ミクベ」なのです。「小羊の婚姻」に導かれる為の花嫁なる教会の「ミクベ」というきよめは、地上の苦難や試練によってではなく、第三の天におられるキリストが直接「火」によって行ってくださるのです。
◆「Ⅰコリ3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
◆「Ⅱコリ 5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
◆「黙 19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから」
※天における「小羊の婚姻」に導かれる為の花嫁なる教会の用意は、キリストの報いを決める為の裁きによる火によって「ミクベ」を済ませたことを意味しています。
※「小羊の婚姻」の目的は、花婿なるキリストと花嫁なる教会(全てのキリスト者)との、愛の交わりがこれまでになく深められその喜びが満ち溢れる事です。
7) 地上再臨されるキリストに随伴する花嫁なる教会の特権
 第三の天において花婿なるキリストと婚礼を終えた花嫁なる教会は、キリストが反キリストの軍隊を滅ぼし、イスラエルの民をお救いになる為に地上再臨される時、花嫁なる教会はそのキリストと随伴する特権に預かる事が黙示録19章14節で啓示されています。
◆「黙 19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。」
天にある軍勢の中に「花嫁なる教会」が含まれているのです。それを証明するのは、二つです。一つは地上再臨されるキリストに随伴する「天の軍勢」が「白いきよい亜麻布」を着ている事です。19章8節では花嫁なる教会が「19:8光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された」と教えられています。教会は、地上でサタンの軍勢と戦う神の軍勢として召されてきましたので、天に挙げられた花嫁なる教会は「天の軍勢」となっているのです。
二つ目の理由は、「軍勢」というギリシャ語の言語が複数形になっている事です。ルカによる福音書では天の軍勢は、無数のみ使いたちを意味して使用されています。
◆「ルカ2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った」。
多くの天の軍勢ですが、不思議なことに「天の軍勢」は複数形ではなく「プレィソス ストラティアス ウーラニウー」という単数形が使用されているのです。それは、軍勢がどれだけ多くのみ使いで形成されていても、それは一つの軍勢、一つの軍団であるからです。それに対して黙示録19章14節の天にある軍勢の軍勢は「ストラテューマ」)という、複数形が使用されているのです。つまり、再臨のキリストに随伴する天の軍勢は、無数のみ使いたちによって形成されている「天の軍勢」と、多くの聖徒たちによって形成されている「花嫁なる教会の軍勢」と二種類の軍勢を指している事によります。ユダ書では「多くの聖徒たち」が再臨のキリストと共に来臨することが教えられています。
◆「ユダ 1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる」。
8) 地上に再臨されるキリストが反キリストの軍隊をお一人で滅ぼされる事を雲の上から目撃する教会
 キリストは、「荒らす憎むべき者」である反キリストの軍隊による絶滅寸前のイスラエルの民を救い、「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」に従ってイスラエルを中心とした「メシヤ的千年王国」を地上に実現される為に地上に再臨されます。その時、キリストはお一人で、来臨の輝きと口からの剣で、反キリストの軍隊を悉く滅ぼし尽くされます。教会はその時に、キリストが激しい怒りをもって反キリストの世界連合軍を悉く滅ぼされる義の裁きの栄光を目撃し、その真実と正義の裁きを喜び賛美する特権に預かるのです。それも、教会に与えられた大いなる希望の一つなのです。
キリストによる反キリストの軍隊を悉く滅ぼし尽くされる事を聖書は以下のように預言しています。
◆イザヤ書の預言
≪イザヤ34章1節~8節≫
「イザ 34:1 国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。 34:2 【主】がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。 34:3 彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。 34:4 天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。 34:5 天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。 34:6 【主】の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。【主】がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。 34:7 野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。 34:8 それは【主】の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」
※再臨のキリストが、イスラエルを絶滅させようとする反キリストの軍隊に対して復讐をされる事が預言されています。
その場所がエドムの地にある「ボツラ」でなされることも預言されています。
≪イザヤ63章1節~6節≫
「3:1 「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」 63:2 「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」 63:3 「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。 63:4 わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。 63:5 わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。 63:6 わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」
※主がお一人で反キリストの軍隊を悉く滅ぼし尽くされる事が預言されています。
◆ゼカリヤの預言
「12:9 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。」
◆パウロの預言
「Ⅱテサ 2:8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
◆黙示録の預言
≪黙示録17章13節・14節の預言≫
 「17:13 この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。17:14 この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」
≪黙示録19章11節~21節≫
「19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。 19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。 19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。 19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。 19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。 19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。 19:17 また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、 19:18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」 19:19 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。 19:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。 19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。
②メシヤ的王国で婚宴の喜びに教会は預かる
 キリストはイスラエルを中心とした「メシヤ的年王国」において、天で行われた花嫁なる教会との婚礼のお祝いとして「婚宴」を行われます。教会はその喜びに預かり、その婚宴を旧約時代の聖徒達がお祝いしてくれることが聖書に約束されています。以下の通りです
1)メシヤ的王国での婚宴の預言
「黙19:9御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った。」
2)聖餐式制定におけるキリストの約束
 「マタ 26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
※キリスト在世時代のユダヤでは、婚約式において花婿が花嫁にぶどう酒の入った一つの杯をわたし、その杯を花嫁が飲むと婚約が成立したといわれます。その後、婚約が成立した二人は一つの杯から共に葡萄酒を飲みます。キリストの聖餐式制定はその風習に沿って制定されたと言われます。聖餐式は、キリストの十字架の贖いの御業を覚えるとともに、現代においても花嫁なる教会が花婿なるキリストとの婚約関係の中にある事を自覚し、やがて天においてなされる婚礼の日を夢見、希望を深める為になされます。また、キリストが約束されたように「わたしの父の御国」と呼ばれる「メシヤ的王国」において婚宴が行われ、お祝いの葡萄酒に共に預かるという喜びが待っている事を希望として行われます。
古代のユダヤの婚約の風習について、イスラエルの公認ガイドを10年間されてきたスティーブンス・栄子師が以下のように説明をされています。

「婚約者との顔合わせ花嫁となる女性が12歳か13歳に成 長すると、父親が婚約者の男性と顔合わせをさせます。その時に、花嫁側に払う花嫁料も、双方の条件によって決められます。そうして花嫁側に払われた金額の一部は、未亡人になったり離婚されたりした時のために女性に持たせます。また、花嫁側の父親にも渡されます。結婚する娘は父親の仕事を手伝ったり、家業を継ぐことができないからです。花嫁料が決まると、頭金が払われ、正式な契約書に両者が署名をします。 その後、婚約した二人が一つの杯からブドウ酒を飲み、婚約が成立します。」 (ネットのオメガジャパンニュースレターより3)復活をした旧約の聖徒達と7年の大艱難時代にキリストを信じた聖徒達が婚宴に招待される

黙示録は「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」と教えていますが、その婚宴に招待される人々は旧約時代の聖徒達と、7年の大患難時代に救われた多くの聖徒達です。旧約時代の聖徒たちは「メシヤ的王国」が実現した時に栄光の体で復活をし(イザヤ26:19、ダニエ12:2~3)、7年の大艱難時代に救われた多くの聖徒たちは「メシヤ的王国」の住民として、それぞれの色々な国に住むことが許されます。そうした旧約時代の聖徒達と7年の大患難時代に救われた聖徒達が、花婿なるキリストと花嫁なる教会の婚宴のお祝いの席に招待され、共に食卓に着くのです。それが以下の聖句で教えられています。
◆「マタ 8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」
◆「ルカ 13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。」

以上が、黙示録の新天新地が実現するまでに、教会に与えられている希望です。原始教会は黙示録の新天新地が啓示されるまでは、又、ペテロの教える「正義に住む新天新地」が示されるまでは、イスラエルを中心とした「メシヤ的王国」を最大の希望としていました。やがて、その「メシヤ的王国」が永遠に続くのでなく1000年という期限付きだと、黙示録が啓示されて初めて知るようになりました。それからは、初代教会は黙示録の新天新地とその前に実現する「メシヤ的1000年王国」を共に待望するようになったのです。千年の「メシヤ的年王国」を待望する信仰をギリシャ語の1000を意味する 「キリア」から「キリアズム」と呼ばれ、その信仰が原始教会時代の一般的信仰であったと言われています。
以下は、その事を教えている百科事典からの引用です。(ネットより)                 
≪フランスの百科事典エンシグロペディア・ユニベルサリス≫
「西暦の最初の3世紀の間,西洋のキリスト教世界においては,千年期説がユダヤ人のキリスト教徒の中で非常に優勢であった。……千年期説はキリスト教の最初の幾世紀かの間,非常に深く浸透していた」。
≪アメリカ百科事典≫
「こうした見解を抱いていた人々は千年期説信奉者<ミレネアリアンズ>または千年王国説信奉者<キリアスツ>と呼ばれ,彼らの信条は千年王国説<キリアズム>(ギリシャ語でキリオイは1,000を表わす)と呼ばれた。こうした見解が,一般的ではなかったにせよ,少なくとも古代の教会の中でよく知れ渡っていたことは,あらゆる方 面で認められている」。
≪新ブリタニカ百科事典(1977年≫
 黙示録の中で,ユダヤ人の終末論[最後に悪が滅び,善が勝利を収めるという期待]とキリスト教との融合が完成した。……キリスト教史の最初の100年間[西暦33から133年]は,この種の千年期説,つまり千年王国説<キリアズム>(1,000を表わすギリシャ語から派生している)が,教会内で普通に教えられ,受け入れられていた」。

≪原始教会から新約聖書が完結した後の初代教会においての教会の希望のまとめ≫
①死後において霊魂でキリストと出会う希望
②キリストの空中再臨により肉体が永遠に朽ちないからだに変えられ、栄化された霊魂と一つになって主と第三の天に挙げられる希望
③第三の天において報いを決める裁きを受け(霊的ミクベに与る)、キリストとの婚礼に導かれる希望
④メシヤ的王国の実現の為に地上に再臨されるキリストに随伴し、メシヤ的王国の住民となる希望
⑤メシヤ的王国において、キリストとの婚礼をお祝いする「婚宴」の喜びに導かれる希望
⑥黙示録の新天新地の到来の希望
以上のように、多くの希望を初代の教会の聖徒達が抱いていたことを聖書は教えています。

岡山牧師の「初代教会の聖徒たちが待ち望んでいたのは、死んで天で会うイエスではなく、この地上の来られるキリストであった」というのは、初代教会の聖徒達が抱いていた希望を全面的に言い表していないです。岡山牧師がキリストの地上再臨の目的が「黙示録の新天新地」の成就の為と言う教えは、特に原始教会の人たちにとっては無縁であり、知りえない事でした。それは、黙示録が啓示されたのがAD90年以降であったからです。
2、切迫していると言われる「キリストの地上再臨」を示す聖書個所の検証
 岡山牧師は、切迫しているキリストの地上再臨を初代の教会の聖徒たちが待ち望んでいたことを示す証拠として、いくつかの聖書個所を掲げていますが(同P24)、それを検証したいと思います。
①黙示録22章7節
「22:7『見よ。わたしはすぐに来る。』・・」という、キリストの再臨切迫を教える聖句は、黙示録22章では他に2度あります。22章12節と21節です。「すぐに来る」という言葉の意味は何でしょうか。すぐのギリシャ語はいずれも「タクー」です。しかし、マタイによる福音書で訳されているギリシャ語の「すぐ」は「ユースース」と「ユーセオース」と「パラクレイマ」です。マタイによる福音書の「すぐ」という言葉は、全て時間的に「早い」という意味で使用されています。しかし、黙示録の「すぐ」は時間的に「早い」という意味だけで使用されていない事は、明らかです。それはキリストが「すぐに来る」と言われてから、約2000年の歳月が過ぎているからです。「一日は千年のようである。千年は一日のようである」という、ペテロが教える神の時間感覚で「すぐに来る」と言われたのでしょうか。そうではありません。ヨハネによる福音書14章において、キリストは、花嫁なる教会を迎える為に、天の父なる神の家に準備ができれば「迎えに来る」と約束されました。「ヨハ4:1 『なたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』・・」
ユダヤの結婚の風習では、花婿が父親の家に一角に新居を準備します。しかし、それだけでは花婿が花嫁を迎えに行けません。父親が花婿の新居の準備を見て「迎えに行きなさい」とGOサインを出して初めて迎えに行くことができます。キリストが「見よ、わたしはすぐに来る」と言われたのは、ユダヤの風習のように父なる神から「花嫁なる教会を迎えに行きなさい」とGOサインが出れば、喜び勇んで「すぐに来る」と言われたと解釈するのが正しいのです。キリストのその「すぐに来る」という約束に対して花嫁なる教会は「アーメン!主イエスよ。来たりませ」と、愛と喜びをもって応答する事が求められているのです。岡山英雄牧師は「すぐ」について一切解説せずに、「神の民」が応答するように教えています。黙示録では花嫁なる教会を一切「神の民」として教えられていない事に私たちは注意を払う必要があります。岡山牧師の、キリストの地上再臨の切迫の証拠としての黙示録22章7節の引用は明らかに間違っているのです。黙示録22章7節の「見よ、わたしはすぐに来る」という約束は、地上再臨の約束ではなく、ヨハネ14章1節~3節の「迎える(携挙)」の約束に従って花嫁なる教会を天に迎える為、つまり天に「携挙」するための「空中再臨」が約束されているのです。
②マタイ24章33節
 キリストの地上再臨が切迫している事を教えている聖句として次に岡山牧師が掲げているのは、マタイ24章33節「戸口に近づいているキリスト」です。
最初に、マタイ24章34節の「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」の意味を考えてみましょう。その前後の文脈でその意味が明らかになりますので、前後の聖句を正しく考察する必要があります。
「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」という主の警告の言葉は、「すぐに来る」という意味ではなく、主が地上再臨する前兆の出来事が起きれば「人の子が戸口まで近づいた」と知りなさいと教えられているのです。ではどのような前兆が起きれば、人の子が戸口まで近づいていると知る事ができるのでしょうか。
1)「御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、世界的リバイバル」が起きる事。(同24:14)
2)「荒らす憎むべき者(反キリスト)が、聖なる所(エルサレム神殿)に立つ」という出来事とイスラエルの大患難も到来(同24:15~22)
3)選民を惑わす偽キリストと、偽預言者の出現(同24:24~26)
4)暗闇が世界を覆い、天体がゆり動かされる事(宇宙的大震動)。(同24:29)
5)み使いが地の四方から選民であるイスラエルを集めるという出来事(同24:31)
 以上の前兆が起きれば「いちじくの枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことが分かるように、キリストの地上再臨が切迫している事を知る事ができます。いちじくの木は夏に実を結び、その後に9月が来ます。イスラエルの暦では、10月から新年が始まりますので、キリストはいちじくの木を使って終末論を説かれたのです。以上の前兆がなければキリストの地上再臨は切迫していない事を教えています。 「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」という、キリストのみ言葉によって、キリストの地上再臨が切迫しているという岡山牧師の教えは明らかに間違っているのです。
マタイ24章で、キリストは明らかに二つの再臨を説かれています。一つは五つの前兆が起きれば再臨が切迫していると予測ができる地上再臨です。もう一つは、前兆もなく突然やってくる、突如性の空中再臨です。その主の空中再臨がマタイ24章37節から51節で説かれています。明らかに24章36節までの教えとは異なっています。36節までは、人の子が来るという切迫は前兆で知る事ができると教えられていますが、37節から51節では前兆に関係なく突如やってることがいくつかの例で説かれています。
1) 突如やってきたノアの大洪水
2) 突如日常生活の中で一人は取り去られ、一人は残されるという出来事が起きる事
3) 突如やってくる泥棒
4) 突如帰ってくる主人
以上の5つの突如性によって教えられているキリストの再臨に出来事は、36節まで前兆によって知らされる切迫したキリストの再臨とは全く異なるのです。
マタイ24章では、一つの文脈で、キリストの地上再臨と教会携挙の伴う空中再臨が説かれているのです。それは、イザヤ書11章1節~10節の一つの文脈で初臨のキリストとメシヤ的王国の王となる再臨のキリストが説かれているのと似ています。ユダヤ人はそのような書き方をすることがあるのです。
「イザ 11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。 11:2 その上に、【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と【主】を恐れる霊である。 11:3 この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、 11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。

11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。 11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。 11:7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。 11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。 11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」
現代の私たちにとって、キリストの地上再臨はまだ切迫性がありません。それはその為の前兆としての出来事が起きていないからです。しかし、キリストの空中再臨は何の前兆もなく突如やってくるので、「今」かもしれないないという大変強い切迫性があるのです。突如やってくる空中再臨(教会携挙)の時期については、後に論じたいと思います。
③ヤコブ5章7節~9節
 岡山牧師は、キリストの再臨の切迫性を教えているとしてヤコブ5章7節~9節を取り上げておられますので、その聖句の正しい意味を考えてみたいと思います。
「ヤコブ 5:7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。 5:9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」
ここでは、ヤコブはキリスト者が「互いにつぶやき合ってはいけない」という、戒めを厳格に守る為に、キリストの再臨の切迫性を説いている事は間違いありません。しかし。この切迫性の教えは、キリストの地上再臨の為の切迫性ではなく、空中再臨の切迫性を説いているのです。キリストは父なる神の花嫁なる教会を迎えに行きなさいというGOサインが出れば、すぐに来られるので、それを「戸口に立っておられる」と婉曲的に表現したのです。もしそうでなければ、マタイ24章のキリストの教えとぶっつかってしまいます。なぜなら、前述していますように、キリストはマタイ24章でご自身の地上再臨が「戸口にまで近づいてる」ことを知る為の前兆を教えておられますが、初代教会時代から現代の時代までまだその前兆が起きていないからです。「戸口」という言葉を使っていても同じ意味ではないのです。それは、イザヤ65章の新天新地と、黙示録21章の新天新地、また、エゼキエル38章・39章のゴグマゴグの連合軍と黙示録20章のゴグマゴグの連合軍とが同じ意味でないのと同じです。
ヤコブは、キリスト者に対して、前触れがなく突然やってくる「主の空中再臨」にふさわしい生き方を教えているのです。キリストが空中再臨された時に、キリストに喜ばれるように「ふさわしい生活」を送る事をパウロもⅠテサロニケ5章でも教えています。
◆Ⅰテサロニケ5章1節~11節
 パウロはⅠテサロニケ13節~18節で主の空中再臨のことを教えた後に、5章の文書を続け、突如やってくる主の空中再臨とその後にやってくる「主の日」と呼ばれる神の裁きとしての7年の大患難時代の到来を教えています。キリスト者は、神の怒りを受け裁かれる事はありませんが、主の空中再臨に備えてふさわしい在り方をすることをパウロは教えています。
「5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。 5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。 5:3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。 5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。 5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。 5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。 5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。 5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。 5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。 5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。 5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」
④パウロの教えるキリストの再臨について
 岡山牧師は、パウロがキリストの地上再臨を待ち望んでいる証拠として、Ⅰコリント16章22節の「主よ、来てください」(マラナ・タ)とテトス2章13節の「キリスト・イエスの栄光ある現れを待ち臨む」を取り上げていますので、その一つ一つの聖句の意味を考察してみたいと思います。
1)Ⅰコリント16章22節
 「Ⅰコリ16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。」
 以上の「主よ、来てください」という、主のご再臨を待望する叫びは、主の地上再臨を待望する叫びでしょうか。それとも主の空中再臨を待望する叫びでしょうか。コリント書における主の再臨に関する言及は、他に2箇所あります。
◆「Ⅰコリ 4:5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」
以上の聖句における主の再臨に関する言及は、主の「空中再臨」です。それは、パウロが「神からの賞賛が届く」と教えている事にあります。それは「主の空中再臨」の目的の一つは、キリスト者の地上の歩みに関して「報い」を定める事にあるからです。
◆「Ⅰコリ 3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるように主の空中再臨で教会が天に携挙されたあと、報いを定めるキリストの裁きの座に全てのキリスト者導かれ、地上で御霊によって行った事、御霊によって語った事への報いが定められ、神からの賞賛を受けるのです。」
◆「Ⅱコリ 5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
◆「Ⅰコリ 11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
パウロのⅠコリント11:26の主の来臨に関する言及は聖餐式におけるものです。それも、やはり「主の空中再臨」に関するものです。それは、主の空中再臨により教会が天に携挙されますから、パウロは「主の来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」と、聖餐式を主が空中に来られるまで行う事を教えたのです。

では、Ⅰコリント16章22節の「主よ、来てください」はどちらの再臨待望を叫んでいるのでしょうか。それは4章5節と11章26節と同じで「主の空中再臨」を待望する叫びなのです。その最大の理由は、15章51節・52節でパウロは肉体が朽ちない栄光の体に変えられる事を教えていますが、それが「終わりのラッパ」と共に起きる事を教えていますので、それが主の空中再臨における出来事だという事が分かります。パウロが主の空中再臨を教えているⅠテサ4章6節に「ラッパ」が鳴りわたる事が教えられてます。「Ⅰテサ4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」
「Ⅰコリ15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
2) テトス2章13節
 パウロは、テトスにキリスト者は敬虔な生活を送りながら、キリストの再臨を待ち望む存在であることを教えていますので、その再臨は、マタイ24章やⅠコリント書やⅠテサロニケ書で論じられている、突然やってくる「空中再臨」と解釈するのが正しいと思います
「2:11 というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、2:12 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
【終わりに】
 前述しましたように、岡山牧師も「苦難の時代における教会の在り方を考察することは、教会とは何か、世界とは何か、歴史とは何かを問う事である」(同P67)と教えていますが、岡山牧師の「教会観」も現在の歴史を地上に再臨されるキリストが「戸口に近づいてる時代」という認識も、聖書の教えに合わない事を検証させていただきました。パウロもペテロも「教会=神の民」論を教えていません。また、確かに万物の終わりが近づいているという、終末認識をもって宣教活動をしていましたが、地上に再臨されるキリストが「戸口に近づいている時代」だという認識はなかったのです。     キリストが誕生されてから間違いなく「終末の時代」に入りましたので、現代はより一層世界の終末が近づいてる事は間違いありません。しかし、だからと言ってキリストの地上再臨が「戸口に立っている」という切迫した時代でない事は確かです。切迫している再臨は間違いなくキリストの「空中再臨」です。空中再臨は何の前兆もなく「突如」としてやってくるからです。私たちキリスト者は、イスラエルに対する神の御計画と教会に対する神の御計画に明確な違いがある事を認識し、同時に、切迫しているキリストの再臨は「地上再臨」ではなく、「空中再臨」だという認識をもって、今の終末の時代をサタンとその手下である悪霊と霊的戦いの為に励み、創造主の神の御前に御霊の愛に生かされ、罪を厳しく退ける厳格な正義の実を結びながら生きる事が求められているのです。

次回はさらに突っ込んで「麦と毒麦の解釈」を検証したいと思います。
疑問、質問があればぜひお寄せいただきますように宜しくお願いします。 知恵と啓示の御霊による助けをお祈りいたします。