岡山英雄牧師著「小羊の王国」の問題点4 ~黙示録の1260日の解釈について~
2024年10月1日/米子復活教会/鳥取復活教会牧師:佐藤勝徳

【初めに】
これまで、岡山英雄牧師の「小羊の王国」の問題点」として、黙示録7章の「14万4千人の解釈」と、「イスラエルの普遍性」というイスラエル理解と、黙示録11章の「2人の証人の解釈」の問題点を取り上げて批判的に論じました。今回は、黙示録11章の2人の証人の活動期間「1260日」の解釈の問題点を取り上げます。

Ⅰ岡山牧師の解釈
岡山英雄牧師は、「小羊の王国」で1260日に関する解釈をP109~P120において論じています。その第1項「過去と未来の三年半」では、①三年半の重要性 ②三年半の過去性 ③三年半の未来性 ④苦難の限定を論じ、第2項「現在の三年半」では、①象徴的期間 ②三年半の現在性 ③三年半―過去・現在・未来を論じています。
岡山牧師は、以上の見解を以下の図のように表現されています。
【第1項「過去と未来の三年半」】
1、三年半の重要性
岡山牧師は、黙示録の「三年半」という「時」の啓示の重要さについて論じていますが、要約すると以下のようになります。「黙示録において四十二ヶ月として3回(11:2、3、13:5)、千二百六十日として2回(11:3、12:6)、一時と二時と半時として1回(12:14)と、11章から13章において繰り返し啓示され、その三年半は黙示録4章~18章全体にかかわっている啓示であるから、黙示録20章に限定されて啓示されている「千年王国」に比較して、はるかに注目すべき期間である。神の民の終末的苦難の期間を、過去、現在、未来において解釈するのは、神が「昔いまし、今いまし、後に来られるお方」(4:8)であるからである。このような時に関する理解は、黙示録の解釈だけでなく、聖書終末論にとって極めて重要である」
2、三年半の過去性
岡山牧師の、三年半の過去性を要約しますと次の通りです。「黙示録をヨハネが執筆した一世紀末の時代は、ヨハネを含め多くのキリスト者が苦難の中にあり(黙1:9、2:13、2:9、3:9)、殉教者も多くいた(黙6:9)。ヨハネはそのような苦難の中にあるキリスト者を慰め励ます為に黙示録を書いたのである。「獣」「偽預言者」「大バビロン」は当時大帝国の政治的、宗教的、経済的側面を象徴しているのである。苦難の三年半は初代教会時代にすでに来ていたのである。(Ⅰヨハネ2:18)

3、三年半の未来性
岡山牧師の、三年半の未来性を要約しますと次の通りです。「反キリスト、荒らす憎むべき者、不法の人、滅びの子、海から上ってくる獣は、一世紀のローマ帝国、特に皇帝の王権を象徴するとともに、来臨直前に出現する巨大な世界帝国の支配権を指し示す。今はいないがやがて未来に来る獣(黙17:8)が四十二か月の間、神の民を攻撃する。この獣は、竜や偽預言者と共に終末的世界戦争であるのハルマゲドンの戦いを起こす。黙示録は、未来の来臨直前の全世界的な迫害の時代をも三年半と呼んでいる。」

4、苦難の限定
岡山牧師の、終末の神の民の苦難の限定を要約しますと次の通りです。「主は神の民の苦難の期間を主が短くしてくださる(マタイ24:22)ので、苦難の三年半は文字通りの可能性がある。神はイスラエルのエジプトの隷属期間は四百年と定められ、バビロンの捕囚期間は七十年と定められた。そのように、終末の民の苦難の期間をひと時と二時と半時(ダニ7:25、12:7、黙示録12:14)と定められた。獣によって四十二か月の間(黙11:2、13:5)踏みにじられた神の民は、来臨のキリストによって救い出され千年間王となり新しい天のエルサレムの民とされるのである」

【第2項「現在の三年半」】
1,象徴的期間
岡山牧師の、三年半の象徴的期間を要約しますと次の通りです。「主は、その日その時がいつであるかは誰も知り
りません(マルコ13:32)と教えられたので、三年半を文字通りに解釈する事には無理がある。千年(20章)が神の完全な祝福を表す象徴的期間であるように、三年半(11章―13章)もまた、神の民の苦難の象徴的短期間ととるほうが良い」

2、三年半の現在性
岡山牧師の、三年半の現在性を要約すると次のようになります。「三年半の現在性を示すのは、女が荒野で保護され養われる期間としての千二百六十日(12:6)である。この幻において三年半はキリストの昇天と共に始まり、来臨によって終わる期間を示している。それはダニエル書で教えられている(ダニ7:25、12:7)。ヨハネはダニエル書の表現を用いて、旧約で預言されている終末的な苦難の時代がキリストの到来とともに始まっていることを示した。三年半はサタンの転落から始まる。サタンが天から落ちたのは、イエスと弟子たちとの宣教によってである(ルカ10:18)。神の民の終末的苦難の三年半はイエスと弟子たちによる福音宣教によって既に始まり、その後の全時代に関わり、現代に至っている」

3、三年半―過去、現在、未来
岡山牧師の、三年半―過去、現在、未来を要約すると次のようになります。「三年半の苦難とは、黙示録が書かれた時代の一世紀の教会の現実であり、あらゆる時代において地上の教会が直面する困難の象徴であり、その頂点として来臨直前の全世界的な苦難である。艱難期前携挙説は、三年半の未来性のみを強調し、千年期後再臨説説は三年半の過去性のみに注目して、それぞれ他の重要な側面を見落としている。黙示録が書かれたのは、一世紀末の苦難の中にある神の民を励ますためであるとともに、全時代の神の民を奮い立たせる為であり、又、来臨直前の全世界的な苦難の時代に神の民が堅くたつためでもある」

Ⅱ岡山牧師の「三年半」の象徴的解釈の問題点
1、三年半の重要性
①千年王国との比較
「黙示録の『三年半』の重要性は、それが4章~18章全体に関わり、千年は20章に限定されているから」とその理由を論じられていますが、その見解は間違っています。それは、20章において「千年」が6回も繰り返し啓示されていることによります。20章のたった1つの章ですが、その1つの章で「千年」がなぜ6回も繰り返し啓示されているのかについては一切説明がありません。聖書が同じことを繰り返し啓示するときは、その重要さを読者に気付かせるためなのです。以下にそのことを論じます。

②主の弟子たちと初代教会初期の最大の希望
黙示録は21章の新天新地」の神の御国を最大の希望として啓示していますが、その希望を教会が持つようになったのは黙示録が啓示されてからです。それまで、教会の最も重要な希望は何だったのでしょうか。それは復活のキリストが四十日にわたって語られた「神の国」です。「使 1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
わずか1節ですが、復活のキリストが語られた「神の国」は非常に重要なテーマではないでしょうか。言及されているのが1節だけだから「重要ではない」とは言えないのです。では、復活のキリストが40日にわたって弟子たちに語られた「神の国」とは何を意味しているのでしょうか。それは、弟子たちの質問で理解ができます。「使1:6そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか』」。この弟子たちの質問から、復活のキリストが語られた「神の国」とは「イスラエルの為に国を復興する」ことだと理解ができます。弟子たちが「今こそ」と期待するほど、復活のキリストが「イスラエルの為に国を復興する」と言う「神の国」をお語りになっていたのは間違いがありません。しかし、ただ、その実現の時については一切教えておられなかったので、「今こそ‥ですか」という弟子たちの質問に対して「使1:7いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」と返答されました。その返答には二つの重要な真理が教えられています。それは第1に、「イスラエルの為に国を復興する時とか、どんな時ということについては弟子達知らなくてもよい」という事です。もう一つは、弟子たちが尋ねた「イスラエルの為に国を復興する時は父なる神がお定めになっている」という事です。以上の復活のキリストの返答で重要な事は「イスラエルの為に国を復興する」という「神の国」の到来を否定されず、肯定されているという事です。
「イスラエルの為に国を復興する」という神の国とは具体的にどういうことを意味しているのでしょうか。それは15章の使徒会議でエルサレム教会の指導者であった主の兄弟ヤコブが明確に示しています。「使 15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。 15:18 大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる』・・」。
ヤコブが引用したアモス書9章11節から18節では、「ダビデの倒れている仮庵を起こす」というイスラエル国家の復興が見事に預言されています。「 9:11 その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。 9:12 これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。──これをなされる【主】の御告げ── 9:13 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。 9:14 わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。 9:15 わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない」とあなたの神、【主】は、仰せられる。」
キリストはもちろんですが、ヤコブをはじめ、弟子たちも、多くのイスラエルの人々も永遠に続くと約束されている「イスラエルの国の復興」に関するアモスの預言を知っていたのです。それ故にヤコブは使徒会議でアモスの預言を引用しながら、「異邦人キリスト者」に対する神の約束を伝えました。
アモスが預言する「復興したイスラエル」という神の国の実現は、神がイスラエルの民と結ばれた四つの無条件契約によります。四つの無条件契約については「小羊の王国の問題点Ⅱ」で詳細に論じていますので、それを参考にしていただければ感謝です。詩篇89篇は神が、ダビデと約束した「ダビデ契約」を必ず実現すると繰り返し堅く誓っておられますので、それをご紹介しておきます。
③ダビデ契約実現の為の固い神の誓い
1)「詩89:3わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。 89:4 わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」
2)「詩89:28 わたしの恵みを彼(ダビデ)のために永遠に保とう。わたしの契約は彼に対して真実である。
3)「詩89:34 わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。89:35 わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。 89:36 彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。 89:37 それは月のようにとこしえに、堅く立てられる。雲の中の証人は真実である。」「
以上の詩篇89篇で神が堅く実現するとダビデと約束された「ダビデ契約」がどれほど重要か、繰り返し誓われたことで分かります。ダビデと結ばれたダビデ契約は、聖書の中で非常に重要な契約として繰り返し啓示されていますので、以下にダビデ契約の全文を紹介しておきます。
1)Ⅱサムエル記のダビデ契約
「Ⅱサム7:11 【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』 7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 7:14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。 7:15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。 7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

2)Ⅰ歴代誌のダビデ契約
「Ⅰ歴代17:10 わたしはあなたに告げる。『【主】があなたのために一つの家を建てる。』 17:11 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 17:12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。 17:13 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。 17:14 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」
緑で示しました「お前の王座」「彼の王座」「あなたの王座」は、ダビデが復活をして「イスラエルの為に復興する神の国」の永遠の王となることが約束されています。黄色で示しました「彼の王座」はダビデの子孫であるキリストが「イスラエルの為に復興する神の国」の永遠の王となることが約束されています。その神の国では復活したダビデ王が君主としてその神の国の王の王であるキリストに仕える事が預言されています。(エゼ 37:25、44:3、45:7、17、22、464、8、10他)
アモス書9章と詩篇89篇の2つだけでも、「イスラエルの為に復興した神の国」の素晴らしさが見事に表現されているではありませんか。その神の国が神学的に「メシヤ的王国」あるいは「メシヤ王国」と呼ばれてきたのです。これ以後は聖書がイスラエルの為が繰り返し啓示している「イスラエルの為に復興が約束されている神の国」を「メシヤ的王国」或いは「メシヤ的千年王国」と記述させて頂きます。

3)旧約聖書でいつまでも続く「メシヤ的王国」は千年と啓示された
神が旧約聖書で繰り返し約束されている「メシヤ的王国」はいつまでも続くと約束されていましたが、それが黙示録で「千年」と期間が限定されて啓示されたのです。聖書の「いつまでも」とか「とこしえ」「世々限りなく」等と啓示されている言葉は、文字通り字義通り「時間的制限がない」という意味と、時間的に制限のある「長い期間」という意味で使用されていますので、それぞれの文脈で、又、聖書全体の文脈でいずれかを判断しなければなりません。旧約聖書で「いつまでも続く」と約束されている「メシヤ的王国」は、黙示録20章により「千年」という期間だと啓示されたのです。そのように黙示録20章の千年は、旧約聖書のメシヤ的王国の「いつまでも」を表す言葉として啓示されているのです。それは、いつまで続くかわからない「長い期間」という象徴としてではなく、文字通り字義通りの「千年」という明確の期間を意味して啓示されていることを教える為です。また、創世記1章の神の創造の最終目的は千年のメシヤ的王国ではなく、黙示録21章の罪もなく、死もなく、病もなく、苦しみもない、文字通り字義通りに永遠に続く「新天新地」(イザヤ書の65章の新天新地とは明らかに異なる)の創造である事をイスラエルと人類に知らせる為です。千年が終わり、最後のゴグ・マゴグ(エゼキエル書38章、39章のゴグ・マゴグとは明らかに異なる)のサタンの世界連合軍との戦いで神が勝利をされるという出来事と、その後に続く、最後の審判、罪と死のある世界の完全消滅の滅亡により、これまでの天地の刷新でも根本的改革でもない全く新しい新天新地の到来をメシヤ的王国の住民であるキリストを信じるイスラエルと人類は体験的に知るのです。
黙示録20章の「メシヤ的千年王国」の約束は、聖書の多くの個所で預言されている事から、黙示録4章から18章に関わりがあるとされている「三年半」の「艱難期」より重要だという事が分かります。黙示録で20章だけに「メシヤ的千年王国」が啓示されているのは、その詳細が旧約聖書ですでに数多く啓示されている事によるのです。

2、三年半の過去性
岡山牧師の、「三年半の過去性」という見解を、「黙示録が書かれた時代はすでに初代教会の人々が、獣の象徴である「ローマ」によって厳しい迫害と苦難に遭遇していたからだ」とその理由を教えています。又、「獣、偽預言者、大バビロンは当時大帝国の政治的、宗教的、経済的側面を象徴しているからだ」とも論じています。果たして、黙示録11章の獣、13章の反キリストの獣と偽預言者の獣と、そして14章以降繰り返し登場する大バビロンが、果たして当時の大帝国「ローマ」の政治的、宗教的、経済的側面を象徴しているのでしょうか。その間違いを以下に論じます。

①黙示録11章の獣と13章の獣
聖書で、神が人間のどう猛性、残虐性を獣で象徴的に啓示されているのは「ダニエル書」です。バビロンは「獅子」、ペルシャは「熊」、ギリシアは「豹」で、ローマのどう猛性を含んだ終末の帝国が「得体のしれない獣」で象徴的に啓示されています。その詳細は「小羊の王国の問題点Ⅲ」で記述していますので、お読みただければと思います。神が、それぞれの国を「獣」で象徴的に啓示されたのは、それぞれの国々の「どう猛性」「残虐性」がそれらの獣が持つ「どう猛性」や「残虐性」に似ている事にある事は誰もが理解できることです。それぞれの獣の持つ「どう猛性」「残虐性」が「政治的側面」「宗教的側面」「経済的側面」に表現されては行きますが、それらを象徴していない事は明らかです。確かに、初代教会の時代は、「ローマのネロ皇帝」による迫害がありましたが、それでもパウロは「不法の人」とか「滅びの子」と呼ばれる獣はまだ来ていないと断言しています。岡山英雄牧師はそのパウロの言葉を一切引用し説明せず、Ⅰヨハネ2:18の「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」を引用して、獣で象徴される「反キリスト」は初代教会時代にすでに来ていたと論じられています。しかし、それは大きな間違いなのです。それは、Ⅰヨハネ2:18が教える「反キリスト」は、黙示録11章13章で登場する「反キリスト」とは別物だからです。ヨハネは、反キリストの定義を以下のように教えています。
◆「今や多くの反キリストが現れています」
◆「Ⅰヨハ2:22御父と御子を否認する者、それが反キリストです」
◆「Ⅰヨハ 4:3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です」
以上の、ヨハネが定義する初代教会の時代に出現した「反キリスト」は、ギリシア思想の「霊は善」、「物質は悪」とする二元論のグノーシス思想によって、キリストの受肉説を否定する「偽りのキリスト論」を宣教する「偽教師たち」の事を指して教えているのです。それ故に「反キリストたち」(アンティクリストイ)と複数形で教えています。それは黙示録11章と13章で啓示されている「反キリスト」とは全く異なるのです。黙示録に登場する獣で象徴的に教えられている「反キリスト」は一人の人物なのです。偽教師をヨハネが「反キリスト」と呼んだのは、おそらくイエス・キリストの終末の前兆の教えに「多くの偽キリスト」の出現が預言されていたからだろうと思います。キリストが「偽キリスト」とされた者たちは、偽りのキリスト論を教えますから、そのような偽り者たちをヨハネは「反キリストたち」(アンティクリストイ)と呼んだ可能性があります。しかし、獣で象徴的に啓示されている一人の「不法の者」「滅びの子」(Ⅱテサロニケ2:3/単数形)という反キリストはパウロが教えるように、初代教会の時代にはまだ出現していなかったのです。それ故に、「三年半」という「艱難期の過去性」という教えの根拠にはⅠヨハネ2:18の聖句は相応しくなく、「三年半の過去性」という教えが聖書に一致していないことは明らかです。
④黙示録14章、16章、17書、18章,19章の大バビロン
岡山牧師は、黙示録17章に啓示されている「大バビロン」を、初代教会時代の「ローマ帝国の政治的、宗教的、経済的側面を象徴している」のだと解釈されて、「三年半」の過去性を教えておられますが、それも明らかな間違いです。それは、黙示録14章、16章、17書、18章、19章で啓示されている「大バビロン」の描写が初代教会時代のローマ帝国とは全く異なるからです。14章、16章、17章、18章、19章で「大バビロン」がどのように啓示されているのでしょうか。その主な特徴を取り上げますが、明らかに古代ローマ帝国を表していません。
※大バビロンについては、このレポートでは「三年半の過去性」の否定の為に、「初代教会時代のローマ帝国」だけに焦点を合わせていますが、岡山牧師は、黙示録17章の「大バビロン」はあらゆる時代に現れる神に反逆する性質を持った、道徳的に、性的に、霊的に退廃したどう猛な「獣の国」の象徴だと教えられています。その問題点は次回に論じたいと思います。

1)不品行のぶどう酒を、全ての国々に飲ませた大バビロン(14:8)
この、大バビロンの罪は、初代教会時代のローマに当てはまりません。それは、ローマは確かに大帝国でしたが「全ての国々」を支配していなかったからです。

2)神の裁きで3つに裂かれ、1タラントの雹が降り注ぐ大バビロン(16:19~21)
この大バビロンの滅びの描写も「ローマ帝国」に当てはまりません。大バビロンは三つに裂かれ、一タラント(約25キロ)もするようなる雹が降ることが預言されていますが、古代ローマ帝国にはそのような事は起こっていません。古代ローマ帝国は東西二つに分裂した後、滅びの道を辿っていきました。「古代ローマ帝国は西暦395年に東西に分裂した後、東ローマ帝国は1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで1,000年以上にわたって続いたが、西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の嵐の中、476年に滅亡した。」(ネット/大和総研のコラムより)
又、古代ローマにおいて、一タラント(約25キロ)もするような雹の塊が降り注いだというような記録はありません。

3)大水の上に座っている大淫婦の大バビロン(17:1)
この箇所の「大水」は世界の全ての人々を象徴的に表現したものだと、15節で解説されています。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です」。大淫婦と呼ばれる大バビロンは世界の人々を支配する権力の座に着いて、世界中に偶像を拝ませる統一宗教を起こすので「大水に上に座っている大淫婦」と黙示録は象徴的に啓示しています。それは、初代教会時代の「ローマ帝国」を意味していません。初代教会の迫害時代においてローマ帝国は偶像宗教の国でしたが、世界統一宗教を生み出してはいません。聖書はイスラエルの偶像崇拝の罪を霊的姦淫として教えています(エレ13:27、エゼ 6:9、ホセ4:12他多数)。黙示録の著者であるユダヤ人の著者ヨハネは、旧約聖書で教えられている偶像崇拝という霊的姦淫を世界に広げ統一宗教を生み出す大バビロンを象徴的に「大淫婦」として教えたのです。それ故に、大バビロンは額に「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名が書かれるのです。(17:5)

4)獣の上に乗っている大バビロン(17:3)
反キリストを象徴する獣の上に大バビロンが乗っていますが、それも古代ローマとは異なることを教えています。反キリストは古代ローマが持っていた恐ろしいどう猛性と残虐性を持っていますが、その反キリストが大バビロンを乗せている事は、大バビロンと反キリストとの深い関係性を象徴的に教えています。それは、反キリストは大バビロンに自分の拠点を構え大バビロンを使って世界支配を行う事を意味しています。それは古代ローマ帝国とは一致しません。
以上の事は、岡山牧師が論じる「あらゆる時代に現れた『獣の国』」に当てはまりません。

5)一瞬にして滅びる大バビロン(18:2、9、10、15、17、19、21)
黙示録は、終末の大繁栄の都市「大バビロン」が一瞬にして滅びることが預言されています。その滅びが「あっという間」に来たことを「一日のうちに」「一瞬のうちに」と4度強調して預言されています。大バビロンと深い関係にある地上の王たちはバビロンの滅びを泣き悲しみます。また、その様子を見ていた大バビロンの大繁栄の恩恵にあずかっていた商人たちも大変驚き泣き悲しむことも預言されています。それも、古代ローマを表していません。ローマは時間をかけて滅んでいきました。

6)大バビロンは悪霊どもの巣窟となる(18:2)
大バビロンは滅びた後、悪霊どもの巣窟となることが預言されています。これも、古代ローマを表していません。現在の悪霊どもの巣窟は「空中」です(エペソ2:2)。黙示録12章で天使ミカエルの軍勢に敗北し、天から地に落とされたサタンとその手下どもの悪霊たちは、崩壊後の大バビロン跡を巣窟とするのです。古代ローマの時代が滅びた後も、サタンと悪霊どもの巣窟は「空中」なのです。

7)大バビロンは預言者と聖徒達と地上の全ての人を迫害した責任が問われる(18:24)
大バビロンは、終末の世界において迫害されて流す預言者や聖徒達の血、および大バビロンに逆らう地上の全ての人の流す血の責任を問われる都市となる事が預言されています。これも古代ローマを表していません。初代教会時代の聖徒達の迫害は、ローマだけでなく、エルサレム、小アジア地方、ギリシアなどで起きています。その責任は古代ローマだけに問われていませんので、終末の大バビロンと古代ローマは異質のものだと分かります。

8)大バビロンの滅びの煙は世々に立ち上る(19:3)
黙示録は、大バビロンの滅びの煙が「永遠に」(世々に)に立ち上ると預言されています。それは古代ローマには当てはまりません。現在、古代ローマの立ち上っている滅びの煙を見る事はありません。では、大バビロンの「滅びの煙」が「永遠に立ち上る」とは何を意味しているのでしょうか。それは、艱難時代の後に続く「千年王国」においても、その煙が立ち上り続ける事を意味しているのです。それは、おそらく千年王国の住民となった異邦人に対して、不信仰に対する神の厳しい裁きを認識させる視覚教材となるのです。

以上のように、黙示録で啓示されている大バビロンと古代ローマ帝国とは全く異なるものなので、大バビロンを「古代ローマ帝国の象徴」として「三年半の過去性」を論じるのは明らかに間違っているのです。また、岡山牧師が、大バビロンの象徴だと教えられている「獣の国」も、古代ローマと同じく黙示録の「大バビロン」とは異なっています。

3、三年半の未来性
①「反キリスト」はローマの支配権や皇帝の王権の象徴ではない
岡山牧師は、「三年半の未来性」の根拠として、黙示録や聖書が預言する終末の時代に登場する「反キリスト、荒らす憎むべき者、不法の人、滅びの子、海から上ってくる獣」(全て同一人物)は、一世紀のローマ帝国、特に皇帝の王権を象徴するとともに、来臨直前に出現する巨大な「世界帝国の支配権」を指し示すという解釈に基づいていると論じています。この解釈の問題は、「反キリスト、荒らす憎むべき者、不法の人、滅びの子、海から上ってくる獣」を古代ローマ帝国の、特に皇帝の王権を象徴するものと解釈したことです。それは、「三年半の過去性」で古代ローマが大バビロンを象徴していない事を証明した通り、これから歴史に登場する「反キリスト、荒らす憎むべき者、不法の人、滅びの子、海から上ってくる獣」は、古代ローマ皇帝の王権を象徴するものでないのです。「反キリスト、荒らす憎むべき者、不法の人、滅びの子、海から上ってくる獣」は一人の人物を意味し、それは、創世記3章15節で預言された「女の子孫」であるメシヤとの間に敵意をもつ「サタンの子孫」を意味しているからです。「反キリスト、荒らす憎むべき者、不法の人、滅びの子、海から上ってくる獣」と呼ばれる1人の人物は、決して古代ローマの皇帝の王権という抽象概念を象徴するものではありません。

②「反キリスト」は終末の世界帝国(大バビロン)の支配権の象徴ではない
また、「反キリスト、荒らす憎むべき者、不法の人、滅びの子、海から上ってくる獣」が、黙示録が終末に登場する事を預言している世界帝国の支配権を意味している、という解釈も明らかに間違っているのです。「反キリスト、荒らす憎むべき者、不法の人、滅びの子、海から上ってくる獣」は1人の人物であり、世界帝国と呼ばれる大バビロンの支配権という「抽象概念」を意味していないのです。反キリストという一人の人物を「王権」とか「支配権」を意味するという「象徴的解釈」を根拠に「未来の三年半」を論じることは明らかに間違っています。

③「三年半」は時代を象徴する期間ではなく、文字通り字義どおり「三年半」である
確かに「三年半」は未来に起きる「三年半」ですが、その根拠はダニエル書9章27節の反キリストが多くのものと「一週の間」契約を結ぶという「一週」と、「半周でいけにえと献げ物を廃止する」という預言にあります。キリストがダニエル書9章27節の「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す」に基づいて、「マタイ24:15『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──5:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」と言われた出来事は、明らかに反キリストとの契約期間「一週(七年)」の後半の「半週」(三年半)に起きる出来事です。その出来事を黙示録は13章で預言しているのです。「黙示13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」
反キリストがエルサレムで、又、イスラエル全体において、又、世界において大暴れし、イスラエルの人々を虐殺したり、逆らうものを虐殺する出来事は、最後の一週(七年)の後半の「半周」(三年半)に起きる出来事であることをダニエル書9章と黙示録13章は明確にしています。ダニエル書9章の四百九十年の終末預言と最後の「一週」の終末預言は、「一日を一年」とする預言解釈の原則に従って解釈する必要を教えています。それは「一日一年」とするという預言解釈の原則に従ってダニエル書の預言を解釈する時に、その預言がキリストの十字架に死なれた時と一致している事で明らかにされたからです。岡山英雄牧師の「1260日」(三年半)を過去の初代教会の迫害時代を象徴しているとか、未来の来臨直前の反キリストによる迫害時代を象徴しているという解釈は明らかに間違っているのです。
④「三年半」が字義通り文字通りの「三年半」だと教える重要な根拠
「三年半」が字義通り文字通り「三年半」であることを教えている重要な根拠については、すでに論述してきましたが、あえて再度述べておきたいと思います。それは、黙示録に啓示されている「時」「月」「年数」などを字義通り文字通りに解釈するための重要な根拠ともなっているのです。
≪黙示録の預言の「時」「月日」「年数」を解釈するための原則≫
「一日を一年」として、ダニエル書9章の「七十週」を解釈する事が重要な原則です。それは次の理由によります。昔、イスラエルの民がカデシバルネヤから、約束の地であるカナンに斥候隊が遣わされ四十日間にわたって偵察をして帰ってきました。遣わされた12人の斥候隊の中でヨシュアとカレブ以外は不信仰な報告した為に、イスラエルの民はその影響を受けて不信仰になり、神の命令に従ってカナンの地へ行こうとしませんでした。その不信仰を神は裁き、偵察期間が40日だったので、「一日を一年として」荒野を40年間放浪すると宣告されました。「民14:33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。 14:34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。」
以上の出来事から、ダニエル書の「七十週」の預言を「一日を一年とする」を原則に解釈することが理解されてきました。その正しさは、ダニエル書9章の「七十週」(490日)の預言に沿って、メシヤが受難した事で証明されました。
エズラ記にバビロン捕囚となったイスラエルの民に対してペルシャの王のアルタシャスタ王が「イスラエルに帰還してエルサレム神殿と国の回復を命じた」ことが啓示されていますが、ダニエル書はその命令から「六十九週後」にメシヤの受難が起きることを預言しています。その預言を「一日を一年とする」という、預言解釈の原則に従って解釈すると、キリストが十字架で死んだのが「483年以後」となっているのです。その詳細はすでに「小羊の王国問題点Ⅲ」に論じていますが、再度以下に紹介しておきます。

「その期間の年数を計算する最初の年についてダニエル書は『引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから』」9:25)と教えています。その命令が出てから69週の後にメシヤの受難があることが預言されています。69週は年数にすると483年となり、メシヤの受難は命令が出てから483年が過ぎた後ということになります。キリストの誕生はBC6年ですので、キリストの公生涯の開始はAD24年となります。キリストの受難は公生涯に入られてから3年ですので、キリスト(メシヤ)の受難の年はAD27年となります。そのキリストの受難の年から483年をさかのぼって計算するとBC456年となります。それによって「エルサレムを再建せよ」という命令がBC456年ごろに誰が出されたのかが分かってきます。それは、エズラ7章で啓示されているペルシャの「アルタシャスタ王」なのです。エズラ記より計算するとそれは「458年」となります。
◆「エズラ7:7~13アルタシャスタ王の第七年(BC458年)にも、イスラエル人のある者たち、および、祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちのある者たちが、エルサレムに上って来た。エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。・・アルタシャスタ王が、祭司であり、学者であるエズラに与えた手紙の写しは次のとおりである。──エズラは、【主】の命令のことばと、イスラエルに関する主のおきてに精通した学者であった── 「王の王アルタシャスタ。天の神の律法の学者である祭司エズラへ。この件は完了した。さて、私は命令を下す。私の国にいるイスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたい者は、あなたといっしょに行ってよい。・・」。

以上のアルタシャスタ王の「エルサレム再建命令」は王の第7年となっていますので、彼の父の死後、彼が王として
即位をした年を調べると465年ですので、それから7年を足せば458年になります。
「エルサレムを再建せよ」というアルタシャスタ王の命令はBC458年に発布されていますので、それにキリストの公生涯の始まりAD24年をプラスすると482 年となります。キリストの死は公生涯の始まりから3年後のAD27ですので、王の命令から数えると485年後にメシヤが受難したことになります。それはメシヤの受難が王の命令から483年以後というダニエルの預言が成就した事を教えています。


ダニエル書の最後の一週の七日間は「一日を一年」とする預言解釈の原則に従えば、「七年」となり、その半週の三年半は文字通り事後通り「三年半」(1260日42ヶ月)となります。それは岡山牧師が教えている「過去の三年半」「未来の三年半」として、初代教会の苦難の時代、あるいは終末の反キリストが大暴れし、イスラエルと聖徒達が迫害を受ける終末の迫害時代だという象徴的な意味はないのです。

4、三年半の現在性
岡山牧師が、終末の「三年半」を象徴的に解釈される根拠とし2つの聖書個所を示されています。1つは、キリストの「その日その時がいつであるかは誰も知りません」(マルコ13:32)です。もう1つは黙示20章の千年です。それは「千年」が「神の完全な祝福」を表す象徴的期間と解釈され、それに沿って黙示録11章から13章で示されている「三年半」も象徴的に解釈すべきであるというのです。その解釈の問題点を以下に論じます。

①キリストの「その日その時がいつであるかは誰も知りません」の意味
「マル13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 13:27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。 13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。 13:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」
以上のキリストの終末に関する預言は、明らかにキリストの地上再臨の様子や前兆を預言されています。その地上再臨の様子や前兆預言を順番に観察してみたいと思います。

◆地上再臨されるときの様相
1) 人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。
2 ) 再臨のキリストが、み使いたちによって世界に離散している選民ユダヤ人を四方から集める

◆キリストが地上再臨される直前のしるし的出来事
1) 「にせキリストとにせ預言者たち」による選民ユダヤ人への惑わし。
2) 選民ユダヤ人の苦難
3) 闇の世界の到来。
4) 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされる。

◆地上再臨の預言に関するキリストの警告
1)いちじくの木から、たとえを学びなさい
イスラエルでは10月から新年が始まるので、夏に実るいちじくの実が実り始めたら、その一年の終わりが近づいている事を教えています。そのように、キリストが預言された再臨を知らせる為の「しるし」(前兆)に気が付けば、主の地上再臨が直前であること(戸口まで来ている事)を教える終末のしるしとして確信するように教えられました。

2)この世界は、必ず滅び去るが、それはキリストの預言が全部成就した後である
キリストが預言されたことは、地上再臨と再臨直前の「しるし」としての預言、そしてアブラハム契約、ダビデ契約などのイスラエルと結ばれた契約の成就としてのメシヤ的王国到来(神の国)の預言です。罪と死が存在するこの世界は千年のメシヤ的王国後に起きることを、黙示録20章は預言しています。

3)キリストの地上再臨の時は誰も知らない
キリストはご自身の地上再臨の時については「誰も、み使いも、ご自身も知らない」事と、それは父なる神だけがご存じだという事を強調されました。
なぜ、地上再臨の時について、主はご自身も含めて誰も知らされていないことを強調されたのでしょうか。これまで、「三年半」には象徴的意味はなく文字通り字義通り「三年半」だという事を聖書的に証明してきましたが、そうするとダニエルが預言する「七十週」の最後の週「七年」の半周(三年半)において現れる「反キリスト」の出現から、三年半後にキリストの地上再臨が起きると計算ができます。そのように計算できることはキリストが教えられた「その日その時は誰も知らない」という教えに確かに矛盾するように見えます。しかし、矛盾しないのです。それはキリストの「空中再臨」に関する教えを正しく知る事によってその矛盾が解決します

4)キリストの空中再臨に関する代表的な聖句
キリストの空中再臨に関する預言は多くありますが、その代表的な聖句はヨハネ14章1節~3節です。
◆「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
父の家とは天にあるエルサレムの都です。その天のエルサレムは、黙示録21章において啓示されている「天から降ってくる新しいエルサレム」の事です。キリストが十字架で死に三日目に復活をして天に昇られて、父の家である新しいエルサレムに「弟子たち(キリストの花嫁なる教会)」の為の場所を準備されました。準備ができたら、また来て、わたしのもとに迎えます。わたしがいる所に「弟子たち(花嫁なる教会)」をおらせるためだと約束されました。しかし、まだその約束は実現していません。それは、父なる神が「迎えに行くように」とGO!サインを出されていないことにあります。ご存じのように、ヨハネによる福音書では、キリストはご自分の語る言葉も奇跡の御業もすべては父なる神の命令によっていると教えられました(ヨハネ12:50他)。キリストは十字架の死と復活と昇天により、「弟子たち(花嫁なる教会)」を「迎える準備」を天のエルサレムに整えられましたが、後は父なる神のGO!サインを待っておられるのです。父なる神の「GO!サイン」があれば、キリストはすぐに「弟子たち(花嫁なる教会)」を迎えに再臨されるのです。それが黙示録22章で「わたしは、すぐに来る」という約束で示されています。
以上のキリストの空中再臨に関する教えは、イスラエルの古代の結婚の風習と似ています。古代のイスラエルの風習では、婚約した花婿が父親の家の一角に花嫁を迎える新居を準備します。その準備ができても花婿はすぐに花嫁を迎えることはできません。父親が花婿に「花嫁を迎えに行きなさい」と、GO!サインが出て、初めて花婿は花嫁を迎えに行くのです。キリストも父なる神のGO!サインが出れば、「弟子たち(花嫁なる教会)」を迎えに来られるのです。それが「空中再臨」です。パウロがⅠテサロニケ4:16~18でその空中再臨を教えています。キリストはすでに準備された天のエルサレムの新居に「弟子たち(花嫁なる教会)」を迎える為に、今は父なる神のGO!サインを待っておられるのです。そのGOサインがいつ出るかは、キリストもみ使いたちも知らされていません。空中再臨と七年の艱難期がなければ地上再臨は起こりません。空中再臨の時が分からなければ、また、七年の艱難期が来なければ当然地上再臨の時はわかりません。その為に、キリストは「その日その時は誰も知らない」と教えられたのです。しかし、キリストの「空中再臨」の預言と、その後に続く「七年」の艱難期がダニエル書の預言通りにやってくれば、キリストの地上再臨の時が「七年後」だと分かるように聖書は啓示しているのです。艱難期七年後(後半半周の三年半後)にキリストが地上再臨されるという解釈は、「その日その時は誰も知らない」というキリストの教えとなんの矛盾もないのです。
BFP(イスラエル支援国際団体)がネットの「ティーチングレター」で、ヨセフとマリヤの結婚を例に、花婿が花嫁を父親の「GO!サイン」で迎えに行くという、古代イスラエルの結婚の風習について以下のように教えています。
「・・・当時のイスラエルでは、一旦婚約が確定すると男性は実家に戻り、結婚式に備え始めます。伝統的には、一年後に式が持たれることになっていました。畑を備え、耕し、作物が植えられ、父の家に妻を受け入れる準備として部屋が作られます。彼が花嫁を迎えるために、万全の配慮と取り組みがなされ、すべてのことに細心の注意が払われました。・・・ヨセフは、花嫁を迎える準備に専念し、マリヤは、彼が迎えに来るのを根気よく待っていたことでしょう。彼女の花嫁衣装が用意され、花嫁介添人は準備を整え、夜に到着した場合に備えてランプの手入れをし、彼女の必要に応えました。そしてついに、ヨセフの父親は息子がした仕事を見届け、花嫁をその両親の家から連れて来てもよいとゴーサインを出します。」

5)黙示録20章の千年王国の千年の意味
岡山牧師は、黙示録20章で6回も啓示されている「千年」を「神の完全な祝福を表す象徴的期間」だと解釈されて、その解釈にそって「三年半」をも象徴的期間だと解釈しています。しかし、その解釈は間違っているのです。聖書は「千」を「多い」とか「長い」だけでなく、「少ない」という事を意味する「象徴的数字」として使用しています。しかしどこにも「千」を完全数としては使用していないのです。口語訳聖書の「コンコルダンス」で引用されている聖書の「千」が以下のように使用されています。

◆人の数を示す字義通り文字通りの「千」として。
出18:21、25、民数31:4、5、6、14、48、52,54、申命1:15、士師9:49、15:15、Ⅰサム8:12、13:21、17:18、18:13、22:7、29:2、Ⅱサム18:1、19:17(18)、Ⅱ列王24:16、ダニ5:1、ヨブ33:23、黙6:15、9:18
「出18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。

◆物の数やはかりの分量や長さを示す字義通り文字通りの「千」として
Ⅰサム25:2、Ⅰ列王3:4、Ⅱ歴代1:6、エズ1:9、10、雅歌8:11、ネヘ3:13、エゼ47:3、4、5、8:27、ヨブ42:12、
「Ⅰサム 25:2 マオンにひとりの人がいた。彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメルで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。 25:3 この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。」

◆多いことを象徴する「千」として
申命1:11、32:30、ヨシュア23:10、Ⅰ歴代12:14、詩91:7、伝道7:28、イザヤ30:17、アモス5:3、雅歌4:4
黙5:11、ヨブ9:3、
「黙5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。」

◆少ないことを象徴する「千」として
Ⅰサム18:7、21:11(12)、29:5
「Ⅰサム18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」

◆年月や時間の長さを象徴する「千」として
出20:6、34:7、申命5:10、7:9、詩84:10、90:6、伝道6:6、Ⅱペテ3:8、Ⅱ列王15:19、エズ8:27
「詩84:10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」
以上の聖句が示すように、聖書は「千」を文字通り字義通りの「千」なのか、それとも象徴としての「千」なのか分かるように啓示しています。また、「千」に完全数の意味を持たせている聖書個所はありません。黙示録20章に6回啓示されている「千年」は、完全数という象徴的意味を持たせていませんし、長い期間という「象徴的意味」を持たせていないことは明らかです。もし、黙示録が「千年」に長い期間という象徴的意味を持たせているなら、他の聖句のように、「千年のように」とか、「幾千年」とかすぐに象徴的数字だと分かる文言で啓示されているはずです。また、文脈で暗示的に示されているはずです。黙示録20章の「千年」は、他の聖書個所で字義通り文字通りの意味で啓示されている「千人」、「一千人」、「一千頭」、「一千キュビト」、「一千くびき」、「一千シケル」、「一千タラント」、「一千ダリク」と同じように「千年」と書かれているのです。
以上のように黙示録20章の「千年」は字義通り文字通りの「千年」として啓示されていますので、終末の「三年半」も字義通り文字通りに解釈しなければならないのです。したがって、「三年半」を初代教会から現在も続く時代を意味するという、岡山牧師の象徴的解釈は成り立たないのです。
ダニエル書9章の終末預言の「四百九十日」「七十週」「一週」「半周」を、「一日を一年で解釈する」という預言解釈の原則で解釈すると、キリストの十字架で死なれた時が、ダニエル書9章が預言するメシヤ受難の時の成就であった事が分かります。その事は、ダニエル書9章に基づいて啓示されている黙示録の「1260日」(42ヶ月)、「半周」(三年半)も、「一日を一年とする」という預言解釈の原則を適用して解釈しなければならない事を教えているのです。したがって、岡山英雄牧師の黙示録の「三年半」を、初代教会からキリストの地上再臨まで続く「長い期間」の象徴だとする解釈は間違っている事になります。「1260日(三年半)」を文字通り字義通りに解釈すると、以下の図のように、終末の出来事を時系列に表すことができます。

【終わりに】
以上、黙示録11章の「1260日」という終末の「三年半」は、文字通り字義通りの「三年半」であり、岡山牧師が論じている「過去の三年半」「未来の三年半」「現在の三年半」という、象徴的解釈が間違っている事を指摘しました。
以上の、小生のレポートに疑問質問があれば、お寄せいただければ感謝です。正しい聖書的終末論が現代の日本のキリスト教界に広がり、主の空中再臨による「教会携挙」の恵みと、主の地上再臨によって実現するイスラエルを中心とした「メシヤ的王国」と言う「神の国」、その後に実現する黙示録21章の字義通りの文字通りの新天新地の神の国を待ち望むキリスト者が多く起こされることを祈っています。