受洗の証 
2024年9月29日
中山裕太
米子復活教会

私には、日本人の宗教観に対する疑問が物心ついた頃からありました。おみくじ、お守り、占い、日本書紀や古事記等にある多神教の神々、こういうものを子供ながらに非常な嫌悪感がありました。私はずっと「まことの神」を知りたいと思っていたのかもしれません。社会人五年目にして、私はなぜ生まれて、何を成さなけれればならないのか、そして死後どこへゆくのか、自らに降りかかる諸々の災難には、どのような意味があるのか、その疑問に対する答えを探求することを保留することがとうとう出来なくなって、去年の10月頃から浄土真宗について勉強をし始めました。浄土三部経といわれる、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経や法然、親鸞、蓮如らの著作物である教行信証、歎異抄などを勉強しておりました。そこには、「煩悩具足之凡夫」という言葉があります。頭からつま先まで人は煩悩で出来ているという意味です。ここから私は、全ての人は罪人であることを知りました。また「他力本願」は、自力救済の否定、すなわち善行や努力によって煩悩を取り除くことは出来ない。阿弥陀仏が建てた本願(約束)によって全ての人はその御名(南無阿弥陀仏)を唱えた者は救われるというもの。今となっては、この世にある諸々の宗教や哲学というのは、聖書から引用されているものがたくさんあるのではないかと考えております。嘘の中に真理が織り交ぜられている、ゆえに説得力があるといいましょうか、人の目に魅力的に映るというところに、私たちをまことの神から、真理から遠ざけようとする働きを感じずにはいられません。                            そのあと、川端康成、太宰治、三島由紀夫などの、大正、昭和の文豪らの本を文庫本で百冊ほど買って読み漁りました。ここではじめて「キリスト教」というものと私は出会いました。いつか聖書を読まないといけないなぁと考えはじめました。今度は、福田恒存、小林秀雄といった、大正、昭和の所謂、文芸批評家の本を読み漁るようになりました。福田恒存著の「私の幸福論」には、「自分や人間を超える、より大いなるものを信じればこそ、どんな不幸のうちにあっても、なお幸福でありうるでしょうし、また不幸の原因と戦う力も出てくるでしょう。まずなによりも信ずるという美徳を回復することが急務です。親子、兄弟、夫婦、友人、そしてさらにそれらを超えるなにものかとの間に。私たちは出発点においても、また終着点においても、宿命を必要とします。いいかえれば、はじめから宿命を負って生まれて来たのであり、最後には宿命の前に屈服するのだと覚悟して、はじめて、私たちはその限界内で、自由を享受し、のびのびと生きることができるのです。」と書いてありました。この本には、「大いなるもの」、「なにものか」、「宿命」といった、要すれば、「神」という存在を暗示している箇所が多々ありました。これが私の求めていた答えかもしれないと思い、否、「答えであってくれ」というような心情でした。そしてさっそく、聖書を読んでみようと思いました。創世記から順に、福音書と並行しながら、牧師のメッセージ聞いたり、解説書などを傍に置いて聖書を読む日々がはじまりました。それが、今年の1月頃でした。創世記から出エジプト記、レビ記、申命記、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音、使徒の働き、ローマ人への手紙までひと月で読みました。                                     そこには、創造主であり、全知全能であり、はじまりも終わりもない永遠のお方、悪にも善にも報いられるお方、いつも正しく、慈愛に満ちた、唯一の神が啓示されていました。天地が六日で創造されたことや、エデンの園でのアダムとエヴァの堕落、御使、悪魔、悪霊の存在、ノアの時代の大洪水、バベルの塔建設の後の、言語の分断と民族の離散、アブラハムの召命、選民イスラエル、こういったクリスチャンでない方であっても知っている、聞いたことがあることも私は全く知りませんでしたから、衝撃の連続でした。聖書の神は、私の諸々の疑問に的確な答えを持っておられました。これは、人が造った神ではない。諸々の宗教とは一味も二味も違う。この神によって私は造られたのだという確信は日に日に増す一方でした。どれひとつ作り話とは思えませんでした。そしてイエスが、過越の食事を弟子たちとされた後、ユダの裏切りがあって、議会に引き渡され、唾をかられ、拳で殴られ、平手で打たれ、不正な裁判があって、群衆の「十字架につけろ」という罵声や「ユダヤ人の王様、万歳」という嘲り、イエスでなくバラバの釈放を求めるなど、ゴルゴダの丘までの聖書箇所を読むと、涙が溢れてきました。私は、この二十二年間どれだけ多くの人を傷つけ、心の中で人を殺したり、嘲ったり、そうして「神」を悲しませてきたのだろうかと、はじめて自分の「罪」と向き合う機会となりました。私を含め、すべての人は永遠の死罪に値する恐ろしい罪を日々犯していることをはっきりと知らされました。私は、イエス・キリストの十字架による身代わりの刑罰以外に死罪に値する罪の赦しの方法はないと理解しました。これが私の証です。最後にヨハネの福音書15:4〜15:6を読みます。

「ヨハ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 15:6 だれでもわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」この聖句にあるようにいつもキリストという主人の下にとどまり続けるべき僕であることを覚えて、残りの人生を歩んで行きたいと思います。