「何一つ乏しい事が無い」
聖書:詩篇23篇1節~6節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
先週、「祈りは聞かれる」と言う題で、マタイ7章7節~11節のキリストの祈りに関する教えを学びました。今朝も祈りについて学びたいと思います。祈りは、キリストを信じて罪が赦され義とされ、神の僕の立場、神の子の立ち場を回復し、神さまとの生きた交わりの中に生きる人が、神の栄光と人々の救いと必要の為と言う、神と人を愛する動機をもって祈る事です。祈りはそのような動機が求められます。もう一つ求められるのは、神は祈りに必ず答えて下さるという信仰が必要です。また、何事も思い煩わないで、万事を感謝しながら祈る事も必要です。思い煩わない為には、詩篇23篇でダビデが告白しているように「主が牧者なので、自分は何一つ乏しい事が無い」という満たされた心を持つ事が必要です。イエス様は、弟子達にご自身を牧者として信じる信仰から来る満たされた心で神さまに仕える者となる事を願って、地上で、弟子達の前で全世界をもってしても書きしるす事が出来ない数多くの奇跡をなさいました。病人の癒し、盲人の癒し、耳の聞こえない人の癒し、口のきけない人の癒し、死人の甦り、嵐のガリラヤ湖を命令で鎮める奇跡、魚が獲れない時間に大量の漁をする奇跡、五つのパンと二匹の魚で5千人以上の人のお腹を満た奇跡す、カナの婚礼で水を葡萄酒に変える奇跡など、キリストは弟子達の目の前で数多くの愛の奇跡をなされました。それによって、キリストは、愛に満ち満ちた全能の御自身が共にいて下されば何も思い煩ったり心配する必要がないという、「いつも満たされた心で生きる」事が可能だと確信を持たせようとされたのです。
現在の私達にもキリストは4つの福音書を通して、ご自身の愛の奇跡の御業と愛の御言葉によって、「主が共にいて下されば何も乏しい事が無い」という満たされた心養おうとされているのです。キリストが五つのパンと二匹の魚で5000人以上の人たちのお腹を満たす奇跡をなされる時に、パンを買うお金が無い弟子達にもお腹を空かしている群衆に「どこからパン買ってきて食べさせようか」と尋ねました。キリストは、彼らにそのお金が無い事はご存知でした。なのに、群衆に「どこからパン買ってきて食べさせるようか」と尋ねられたのでしょうか。それは弟子達が、どれほどご自身が不可能を可能にする救い主だと信じているかどうか試されたのです。つまり、主が共にいて下されば「何も心配は無いという満たされた心」を持ってご自身の質問に応じるかどうかを試されたのです。彼らは、まだ、その心を持っていませんでしたので、少しつぶやくように、ピリポが「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と返答しました。また、アンデレも少々不満げに「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」と返答したのです。弟子達は主のテストに失敗しました。その後、主は五つのパンと二匹の魚で5千人以上の人のお腹を満たす奇跡をなさったのです。お腹を満たす方は心も満たすお方です。私たちはどうでしょうか。主から人間的に考えてとても不可能だと思う事をなすようにリクエストされればどのように応答するでしょうか。思い煩って、とても出来ませんと否定するでしょうか。それとも、不可能を可能にして下さる主が共にいて下さるからだいお丈夫ですと、満たされた心で「ハイ、分かりました」と主のリクエストに応じ従うでしょうか。
1、主が牧者である
「何一つ乏しい事が無い」と 満たされた心になる為には、ダビデのように天地万物を創造された愛と正義と慈しみと憐れみに満ち満ちた全知全能のお方が自分の「牧者」だと信じる信仰が先ず必要です。ダビデは、創造主の神さまを「羊飼い」に例え、創造主を信じるイスラエルの民を羊に例えました。羊そのものは、大変弱く、貧しく、満ち満ちた存在ではありません。敵である野獣と戦う術がありません。また、自分でみどり豊かなえさ場を探す能力がありません。一度迷えば、自分で羊飼いのもと、仲間のもとを帰る事が出来ません。大変な方向音痴です。そ様に羊そのものは、他の動物に比較して色々な意味で大変弱い無力な貧しいものです。にも、関わらず、羊の心はいつも満たされているのです。それは、自分たち羊を愛し、世話をして敵から守ってくれる羊飼いが共にいてくれるからです。彼らは、自分の弱さ無力さ貧しさに目を留めず、羊飼いの愛の心に目を留めているのです。羊飼いは、愛をもって羊たちを毎日緑豊かな餌場、のどを潤す憩のみぎわに導きます。敵の野獣がいても羊飼いが追っ払てくれますので安心です。危険な道を通る時も怪我しないように崖か落ちないように守ってくれますから安心です。迷えば、必死になって探してくれますので安心です。怪我をすれば介抱をしてくれますから安心です。羊たちは、羊飼いがいるので、何にも心配する事無く、思い煩く事無く、乏しい事が無いと安心に満ち満ちているのです。その羊のように、ダビデは、自分は弱く、無力で、貧しい者であるが、天地万物を創造された全知の全能の愛と正義と慈しみに満ち溢れた生ける創造主の神さまが、羊飼いのように自分を愛し、世話をし、守り、日々導いて下さり、必要を満たして下さると、信じ切っていましたので、「主はわたしの牧者です。私には乏しい事はありません」と、告白できたのです。ダビデの心は創造主の愛を信じる切る信仰によって心を満たされて歩む体験を積み重ねていました。祈りは、創造主の神さまが愛と正義と慈しみによって、自分を幸いに導いて下さると、信じ切る信仰の安心感に満ち満ちた心で祈る事が必要なのです。
2、ダビデが体験した創造主の心身の養いと守り
ダビデは、創造主の神さまに対して、従えば必ず心身を満たし守って下さるお方だと体験していました。その体験の故に、「詩23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」と告白する事が出来ました。
①野獣と巨人ゴリアテを打ち負かすダビデ
ダビデは、幼い時からお父エッサイの手伝いで羊の世話をして暮らしていました。その、羊が獣に命が狙われた時、神の奇跡の力によって獣と戦い羊を守るという体験をしていました。ダビデは、約3メートルもあるような敵のペリシテ人の大男ゴリアテを神の力によって石一つで打ち倒しましたが、そのゴリアテと戦う前に、イスラエルのサウル王に以下のように証をしています。
◆「Ⅰサム17:34 ダビデはサウルに言った。『しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、 17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。 17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人(ゴリアテ)も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。』17:37 ついで、ダビデは言った。『』獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった【主】はあのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます』・・ 」。
②サウル王から守られたダビデ
ダビデは、イスラエルの第2番目の王として、サムエルから油注ぎを受けていましたが、最初の王となったサウルに妬まれて、命を狙われるようになりました。若きダビデが巨人ゴリアテを倒したので、サウル王に優って民衆から尊敬を受けるようになった事によります。イスラエルの女たちが笑いながらサウルとダビデとを比較して次のように歌い交わしました。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(Ⅰサムエル18:7)。その歌を聞いたサウルの心に一気にダビデへの妬みの炎は燃え上がり、その炎は生涯消える事無く、ダビデの命を狙い続けたのです。その為に、ダビデはイスラエルの荒野を逃げまわりました。しかし、イスラエルの荒野を逃げまわるだけではいつかはサウルに殺されると悟ったダビデは、サウルから命を守るために非常手段を取りました。それは、敵であるペリシテ人の地に逃れる事でした。神さまは、色々な方法でダビデの命をサウルから守られました。ある時、約600人の家来と家族を連れて敵のペリシテ人の地に逃れ、ペリシテ人の味方だと信頼させるために、ペリシテ人の軍隊と一緒になってイスラエルと戦いをしおようとしましたが、ペリシテの領主アキシュ以外の領主たちは「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と謳われているダビデを信頼せず、戦地から追い返しました。追い返された、ダビデと600人の家来達が住む事が許されていたペリシテの村に戻ると、アマレク人によって、家族と全ての持ち物財産が奪われてしまっていました。ダビデを信頼してついて来た家来たちは、ダビデに失望し、その責任はダビデにあるとして、ダビデを石で打ち殺そうとしたのです。その時、ダビデは非常に深く悲しみ悩みました。しかし、ダビデは、その苦難と悩みとに打ち負かせられることなく、その為の知恵と力と愛を神から得た適切に対応したのです。その事を聖書は次のように教えています。
◆「Ⅰサム30:6 ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、【主】によって奮い立った。」ダビデの羊飼いである創造主の神さまが、その苦難による悩みに打ち任せられないように、ダビデの心を直接奮い立たせて下さったのです。
③敵との戦いの為に戦術を祈り求めたダビデ
ダビデは、その生涯の中で、死の陰を歩むいのちの危険にさらされる事が幾度かありましたが、創造主の憐れみと恵みと助けにより、守られてきました。そうした体験に基づき「死の陰の谷を歩むとも恐れません」という、告白が生まれてきたと思います。又、ダビデは、敵との戦いにおいて、一度も負けた事が無いのです。その理由は、敵とどのように戦えば良いか、いつも創造主の神さまに祈り、その戦術の知恵を創造主から与えられてきたからです。ダビデがイスラルの王となった時のペリシテ人と戦いにおけるダビデの祈りと神の戦術がⅡサムエル5章に記録されています。
◆「Ⅱサム5:18 ペリシテ人は来て、レファイムの谷間に展開した。 5:19 そこで、ダビデは【主】に伺って言った。「ペリシテ人を攻めに上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」すると【主】はダビデに仰せられた。「上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」
◆「Ⅱサム 5:22 ところがペリシテ人は、なおもまた上って来て、レファイムの谷間に展開した。 5:23 そこで、ダビデが【主】に伺ったところ、【主】は仰せられた。「上って行くな。彼らのうしろに回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。 5:24 バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき、【主】はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。」
④ダビデの罪と失敗
連戦錬磨のダビデではありましたが、ダビデは完全ではなかったので、幾度か神さまへの不従順の罪の故に神さまの裁きにもあっています。バテシバとの姦淫とそれを隠す為に、バテシバの夫ウリヤを戦場で死ぬようにしかけ殺すという大変恐ろしい罪を犯し、裁きを受けました。数えてなならない兵の数を数え、神に信頼しないで人間の肉の力で敵と戦おうとした不信仰の罪を犯し、神の裁きを受けました。子育ての失敗で、長男アブサロムを甘やかし、アブサロムの謀反で命を狙われ、荒野を逃げまわるという苦い、苦しい、悲しい経験もしました。そうした、いくつかの大失敗と罪がありましたが、ダビデは心から一つ一つを悔い改めたので、神さまから罪が覆われて赦されるという事を体験してきました。その体験を詩篇51篇で告白しています。バテシバと姦淫を犯し、夫ウリヤを死に追いやった時のダビデの悔い改めの詩篇です。
◆「詩< 51 > 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき 51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。 51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください 51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。 51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。 51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。 51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。 51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。 51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。」
詩篇51篇は、二度と同じ罪を絶対に犯したくないという、ダビデの悔い改めの心が披瀝されています。その砕けし悔いた心を神様は重んじられて彼の罪を覆いゆるされました。旧約時代のモーセ律法では、、罪の赦しの為に、罪は犠牲の為にささげられる動物の上に転嫁され、その動物が身代わりに死んで血を流します。しかし、動物の血は、人の罪を取り除くことが出来ませんが、神の目に罪を覆う事が出来ました。罪が覆われるとは、神さまはその罪の責任を問う事をしない不問にして下さったという事です。ダビデの罪は、動物の犠牲によって取り除かれませんでしたが、罪が神の目に覆われ不問にされて赦される事が出来ました。ダビデはその喜びを次のように歌っています。
◆「詩 32:ダビデによる。マスキール。1 幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。」
しかし、神さまは罪を覆われ赦されますが、それは一時的ですので、贖罪日になると罪を思い出しては良心が痛むようにされたので一度覆われた罪の為に、再び犠牲の動物の血を流して罪が再び覆われるようにして、一時的な罪の赦しに与るようにされたのです。一度の動物の犠牲で、ユダヤ人の罪は永遠に罪が取り除かれて、永遠にゆるされる事が無いので、罪の赦しを得る為に、毎年贖罪日に繰り返し繰り返し犠牲の動物の血が流されました。もちろん、神の愛と罪の赦しを信じた人は、永遠に義と認められ、死後裁かれて苦しみのよみに落とされる事はなく、陰府の慰めのアブラハムの懐に導かれ、現在は、キリストによって天の御国へ引き上げられています。
以上のダビデも、私達と同じく、幾たびか、不従順の罪を犯して神の怒りをかっていましたが、罪が覆われるという罪の赦しの中に生きていました。その赦しの中において、ダビデは、いくさの時に戦術方法を神さまにお聞きし、神さまの与えて下さった戦術方法で戦った結果連戦錬磨の勝利を遂げたのです。ダビデは、従えば必ず祝福されるという事を体験的に知っていたのです、その喜びを詩篇23篇で表しているのです。「主が牧者であるから、乏しい事が何もない」と言う満ち満ちた心を持つ事が出来たのは、従えば、必ず精神的にも物質的に経済的に満たされてきたという、体験によって、生み出されてきました。それがダビデの生涯の確信となっていたのです。
ダビデは、色々な苦難や問題に遭遇し、一時的には悩んだり苦しんだり思い煩ったりする事がありましたが、従う自分を羊飼いである愛に満ちた創造主の神さまの偉大な力に助けられる体験を幾度もしてきたのです。それ故に、主は我が牧者、我に乏しきことあらじ」と満ち満ちた心をもって、神さまをいつも喜び、感謝し賛美する「満たされた心」でいつも祈りを捧げる事が出来ました。
3、既に満たされているキリスト者
①全ての罪が完全に永遠に取り除かれたキリスト者
実は、私達キリスト者は旧約時代に生きたダビデ以上に満ち満ちた心で、神さまをいつも喜び感謝しつつ、また、万事をいつも喜び感謝しつつ、満たされた心で祈る可能性の中に生かされています。
第1に、キリストが十字架で私達の全ての罪を一時的覆うのでなく、永遠に完全に取り除いて下さったからです。2000年昔エルサレムのゴルゴダの丘で十字架に掛かり葬られ三日目に甦られたイエス・キリストを私の罪を完全に取り除いて下さった、私を私の全ての罪から永遠に解放して下さった救い主だと信じる人に、その罪を取り除いて下さったという、2000年前のキリストの十字架による御業が、その人に適用され転嫁され、その人の全ての罪を神は実際に永遠に取り除いて下さるのです。それが永遠の罪の赦しです。それによって、良心の呵責から解放され、その結果、生ける神さまと愛のコミュニケーションが可能とされたのです。十字架で流されたキリストの血の故に神さまと愛のコミュニケーションができる者となったので、キリスト者は日々神様に何の遠慮もなく、罪赦された平安な満たされた心で神さまになんでも祈る事が出来るのです。ダビデ以上に罪赦された心を持って祈る可能性を全てのキリスト者に与えられているのです。
②キリスト者の霊三位一体の神が永遠に内住されている
第2は、キリストを信じた人は罪が赦されただけでなく、キリストがその人の霊の中に永遠に内住して下さるようになりました。ダビデが、告白した主はわたしの羊飼いという、主なる神は実はイエス・キリストであったのです。ダビデはその事を知っていませんでしたが、ダビデの霊的羊飼いとしてダビデの生涯にいつも関わって彼を助け、恵み、祝福して下さったのは、実は、まだ人となる前の神の子のイエス・キリストだったのです。ですから、キリストはご自分を「善き羊飼い」だと言われました。善き羊飼いと言うのは、ご自身が善き神だと言われているのと同じです。善なる創造主の愛と正義と慈しみと知恵と力は最高に喜ばしき完全な善です。創造主の全てが最高の完全な善だという事は、創像主の御業は全てが最高に喜ばしき完全な善だという事を意味しています。ダビデもその事を良く知っていましたので、万物を創造し、万物を統治し、人類の歴史を導いておられる創造主の主なる神を、いつも心の底から喜び感謝し賛美を捧げていました。ダビデの心は、創造主を最高に喜ばしき完全な良き羊飼いとして、いつも喜び感謝し賛美する心で満たされていたのです。その創造主が人となって下さったキリストです。そのキリストが今は、信じる全てのキリスト者の霊に内住し、キリスト者の魂の羊飼いとして、全ての生活、万事に関わっておられるのです。キリストの内住の恵みは、キリストを信じた人の霊には、父なる神、子なる神、御霊なるの三位一体の神さまが内住されいる事を意味しています。父なる神は、御子なる神によって天地万物を創造されました。その御子なるキリストが人となって地上に生きおられた時、父なる神は、その人となった御子なるキリストを通して御業をなさいました。父が御子によって御業をなすという事は永遠に変わらない父なる神の在り方です。今も、内住の父なる神は私達の魂の羊飼いとなって下さったキリストを通して、私達に最高に喜ばしき最善の完全な御業をなさっています。内住のキリストは、最高に喜ばしき完全な良き羊飼いとして、父なる神の命令に従って、私達の為に必要な最善の御業をなさっています。また、キリストは、その父なる神の命令による御業を「御霊」によってなされています。羊飼いである霊なるキリストは、御霊によって私たちを導き、御声をかけ、必要な良き御業をなさっているのです。父は子によって、子は御霊によって良き御業をなされているのです。それが三位一体の神の在り方です。
③善き羊飼いのキリスト
キリストは、神ですが人となった善き羊飼いとして、私達の内側から御霊によっていつも喜ばしき最高の御業、完全な御業をなされ、私達に体験させられているのです。私たちはその内住のキリストを讃える喜びで満たしつつ、日々の生活のなかで、全ての必要について天の父に祈る事が出来るのです。天の父もキリストも御霊なる神も私たちをあらあらゆることで満たそうと心を燃やされているのです、私達はその霊的事実によって、、ダビデ以上に主なる神である、キリストを私の良き羊飼い、私には何一つ乏しい事が無いと告白できる可能性が与えられているのです。内住のキリストは、御霊によって導きを与えておられるので、そのキリスト者が従えば必ず祝福して下さるのです。 ダビデは、自分の霊の中に永遠に羊飼いである神さまが住んで下さるという祝福に与っていませんでした。その祝福はキリストを信じる者が与るようになったのです。それ故に私達キリスト者は、ダビデ以上に「私には乏しい事が無い」と告白する可能性を持っているのです。
4、霊的に乏しい事は無いキリスト者
①洗礼の恵み
キリスト者は、キリストを信じる信仰だけで、永遠に罪が赦され、義とされ、霊に永遠の命が与えられ、また、神の聖なる性質が造りこまれて神の子とされました。また、洗礼を受けた時に、キリスト者は2000年昔のキリストの十字架の死と葬りと復活と昇天と父なる神の右の座に着座するという偉大な祝福が適用され転嫁されました。それは目に見えない霊的な事実です。目に見えるキリスト者は、罪が赦され義とされ神の子とされ、三位一体の神を内住させていますが、古い人の性質が残存して、日々様々な貪欲による邪悪な思いを持つという現実の中にあります。その現実の古い人の性質を残存させているキリスト者が、その古い人の罪の性質による邪悪な思いと罪から自分を解放して、御霊に実を魂に結びながら生きて行く為に、神さまは、洗礼の時に2000年昔のキリストの十字架の死と葬りと復活を適用し転嫁されました。罪の性質を堕落したアダムによって遺伝によって受け継いでいる人類は、全て罪アマルティアに支配されて、貪欲になり様々な邪悪な罪を犯しています。生まれながらの人間である古い人は罪の生産工場となっているのです。最初のアダムは全人類の代表者として創造されたので、全人類は最初のアダムに包含されました。それ故に、ダムがエデンの園で犯した罪は、全人類が犯したとパウロは教えています。しかし、最初のアダムに包含されていた全人類は、キリストが2000年昔にユダヤのベツレヘムにお生まれになたった時に、最初のアダムの血統から切り離されて、その赤子のキリストに移され、キリストが全人類は包含されました。全人類を包含されたキリストが2000年昔にキリストが十字架で死なれたので、その時に、目に見えない時事実として全人類も共に死にました。同時、全人類はキリスト共に葬られ、キリスト共に復活し、キリストと共に昇天し、キリスト共に父なる神の右の座に着座しました。しかし、その一連のキリストの出来事に与るのは、キリストを信じて洗礼を受けたキリスト者です。ですからパウロは、ロマ6章で、水のバプテスマによって、キリスト者は2000年昔のキリストに結び付けられ、2000年昔の十字架の死と葬りと復活がそのキリスト者に適用されて転嫁されたので洗礼を受けたキリスト者はその時に、キリストと共に実際に十字架で死に、キリストと共に葬られ、キリスト共に甦ったのだと、洗礼の意味を説いています。
②神の徳で満ち満ちているキリスト者
目に見える、キリスト者は古い人の罪の性質を残存させていますが、目に見えない霊的事実では、その罪の性質を持った古い人は洗礼によってキリスト共に死んで共に葬られ共に甦った者となったのです。それは、父なる神がなされた実際に起きた霊的事実なのです。目に見えない霊的事実では、キリスト者は、キリスト共に死に葬られ甦って、罪を全く犯す事が無い完全な人間、キリストのように、聖く、正しく愛と赦しと喜びと感謝と平安満ち生きる神の徳で満ち満ちたものとされたのです。パウロはコロサイ書でその事を教えています。
◆「コロ 2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」
現実の私たちは罪が赦され義とされ、神の子とされて一部は大変豊かにされましたが、古い人の罪の性質を持っているので、キリストのように生きるという事においては大変貧しいものです。しかし、そのような貧しい現実の私たちは目に見えないキリストにあっての霊的事実では、キリストのように聖く、正しく愛と赦しと喜びと感謝と平安満ち満ちて生きて行く神の徳で満ち満ちた完全な者とされているのです。それは、単なる教理や教えではありません。キリスト教的観念ではありません。それはキリストにあっての霊的事実なのです。私達キリスト者その霊的事実にいつも目を注いで、私には乏しい事は無いと告白する事が求められているのです。キリスト者はキリスト共に復活し神の徳でみちみちて、キリストのように生きる事においいて何一つ乏しい事は無い者とされたのです。それを霊的に乏しい事が無いと言います。 キリスト者は霊的には満ち満ちたもの、乏しい事が何一つない者とされているのです。では、経済的物質的にはどうでしょうか。
5、物資的、経済的に乏しい事が無いキリスト者
私たちは、洗礼によって2000年前のキリストに結び付けられ、キリストと共に死に、共に葬られ、共に甦り、共に昇天し、共に天の父なる神の右の座に着きました。私たちを包含して下さったキリストは、万物の所有者です。全世界の富の真の所有者です。そのお方と一体化された私達も、キリストと共に万物の所有者、全世界の富の所有者にされたのです。つまり、洗礼を受け、キリストと共に天にあげられた全てのキリスト者は万物を所有する所有権が与えられたのです。それは、ちょうど、銀行にお金を預けているような関係です。銀行にあずけているお金は銀行が管理しています。その管理されているお金の所有権は預けた人にあります。ですので必要な手続きをすれば実際にそのお金を引き出して使う事が出来ます。その様に、万物は父なる神とキリストの御手の中にありますが、その所有権がキリスト者にも与えられているのです。万物の中には人材も含んでいます。キリスト者は、神に仕える事において、必要な物質、お金、人材の全ての所有権がキリストにあって既にあてられているのです。パウロはコリント書で次のように教えています。「Ⅰコリ3:21 ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。 3:22 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。 3:23 そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」
所有権が与えられている万物の中から実際に必要なものを手にして実際に使用できるのは、祈りと従順です。銀行に預けているお金を引き出すにはそれなりの手続きが必要ですが。私たちが、霊的事実として所有権が与えられているキリストの御手、父なる神の御手にある万物から、必要なおかね、物質、人材が与えられる為には、万物の所有権が与えられているという事実に立って、満ち満ちた心で、大金持ちだという満ち満ちた心で、御霊に日々従がいつつ、いつも万事を喜び感謝しながら、具体的に必要なもの、お金、人材を祈り求める事です。それが、実際にキリストから、父なる神さまから必要なものに満たされて歩む為の手続きです。キリスト者はキリストにあって、万物の所有権が与えられ、物質的にも満ち満ちたものとされているのです。先週もお伝えしましたが、私たちは父なる神によって大金持ちのキリストと一体化されているので、乏しい事は何ひとつないのです。
現実の私たちは、霊的にも物質的にも非常に貧しいものですが、目に見えない霊的事実では、霊的にも物質的に非常に豊かなものとされているのです。その霊的事実にたって、「わたしの牧者であるキリストにあってはわたしは何一つ乏しい事が無い」と、告白する信仰を父なる神はとても喜ばれるのです。その信仰告白と共に、いつも神さまと万事を喜び感謝しつつ御霊に従い、神の栄光の為、人々救いと必要の為に、具体的必要な事を祈り求めるキリスト者の祈りは答えられて行くのです。
【終わりに】
私達は、現実の霊的に物質的乏しい私達に目を留め、思い煩って生きるのでなく、キリストにあっての霊的に物質的に満ち満ちたものとされている霊的事実に目を留めて、いつも「乏しい事が無い」と満たされた心で歩んでいきたいと思います。聖書は思い煩ってはいけないと教えているのに、私達が、霊的に、物質的経済的心配をし、思い煩うのは何故でしょうか。それは、父なる神が、キリストを信じて洗礼を受けたキリスト者をキリストにあってどれほど霊的にも物質的にも満ち満ちたものとされたか、その霊的事実に十分心の目が向けられていない事にあります。あらゆる事で、思い煩わない為に、キリストを信じて洗礼を受けたものの、キリストにあっての満ち満ちた豊かさに目を日々止めて、ダビデのように「私の羊飼いであるキリストにあって、私には何一つ乏しい事が無い」といつも大胆に告白し、「満たされた心」で祈りましょう。
