「愛の実践の秘訣③」
Ⅰコリント13章1節~13節
牧 師 : 佐 藤 勝 徳

 「Ⅰコリ13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。 13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。 13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

【はじめに】

パウロが定義する15の愛の実践の秘訣をこれまで3回に渡っておお伝えしてきましたが、如何でしょうか。皆さんの日々の生活の中で、御霊による愛の実践がなされているでしょうか。今朝も、更に詳しく「愛の実践の秘訣」を学びたいと思います。もう一度愛の15の定義を確認しておきます。
①寛容 ②親切 ③妬まない ④自慢しない ⑤高ぶらない ⑥礼儀を重んじる ⑦自分の精神的利益、物質的利益を求めない ⑧怒らず ⑨人から受けた悪を思わない ➉不正を喜ばない ⑪真理を喜ぶ ⑫がまんする ⑬邪推を否定し全てを肯定的受け止めて信じる ⑭全てを肯定的に捕らえ未来に期待する ⑮全てを耐え忍ぶ

先週は「寛容」についての実践をお伝えしました。今朝はその後の14の愛の実践についてお伝えしたいと思います。

1、親切の実践

親切とは、相手の立場に立ち、思いやりを持ってその人のために尽くし、実際に手助けなどの行動をすることです。漢字の「親」には「親しい」「身近に接する」という意味があり、「切」には「心から」「ひたすら強く」という意味があり、「心から深く親しく接する」という思いが込められています。ギリシャ語では親切と訳されている名詞クレーストテース(χρηστότης)は、友好的で助けになる行為、好意、優しい気遣いを意味しています。その人間の親切な心は、病気や怪我や災害や災難で苦しみの中にある人に良く向けられます。しかし、その苦しみの中にある人が、日ごろから関係が良くない人であった時に人間の心の中に問題が生じます。言葉では「かわいそうに」と言いながら、心のどこかで「いい気味だ」とせせら笑う大変おぞましい自分がいる事を知るのです。日頃から関係が良くない人が苦しみの中にある時に心の中で「いい気味だ」と、せせら笑うおぞましい自分が「古い人」です。そのようなおぞましい古い人が顔を覗かせれば、すぐに否定し殺しましょう。殺すとは、キリストと共に死んだ者としてキリストの十字架の死と墓にゆだねて安んじ、死んだと宣言する事です。それが古い人を殺すことです。同時に、キリストと共に甦って誰に対しても親切な者となった事を認めて安んじて「私は親切な者だ」と宣言しましょう。その信仰と告白に聖霊が働き、聖霊によって親切な心が宿るのです。又、御霊の導きに従いましょう。

神さまは、苦しみの中にある全ての人に対して分け隔てなく、親切を実践されます。神さまの親切は、「憐れみ」とか「慈しみ」とか「恵み深い」と言う言葉で表現されます。昔、ユダヤ人がエジプトから解放された時、紅海が割れて道が出来、その道を通って救われました。しかし、後を追って来たエジプトの兵隊は再び紅海が正常になり、紅海に沈んで滅んでいきました。その時に、エジプトの兵隊が滅んだことを天使たちが大いに喜びましたが、その天使達に対して神さまは、何故喜ぶのだ。エジプトの民も私が愛をもって造った作品だと、とがめられたという伝説がユダヤにはあると、「イスラエル永遠のこだま」の著者であるユダヤ教のラビ、アブラハム・J・ヘシェルその著書で教えています。

私たちは、イスラエルを祝福する理由は、「アブラハム契約」により、神さまがイスラエルを通して全世界の人々に親切をもって救いと祝福をもたらす為と言う、御心とご計画をお持ちだからです。ですから、私たちは、イスラエルの祝福を祈る共に、イスラエルに敵対するアラブの人たち、中東の人たちに対しても、親切な心で神の救いと祝福に与るように祈る必要があります。神さまは全ての人の救い主としてキリストを使わされました。私達の主は全ての人の救い主です。私たちは、全ての人への親切を先ず祈りで表現しましょう。苦しんでいる全ての人に分け隔てなく神の助けがあるように祈りましょう。祈り以外に、親切を具体的的に実践するように聖霊が導かれたら、「私は親切なものです。感謝します。だから親切を実践します」と、宣言して御霊に従いましょう。

一人の少年が、自分の友達がその日食べる事に困っているのを知って、その友達に必要な食べ物が与えられるように毎日祈るようになりました。その少年にある時、神さまが「あなたの持っている食べ物を与えなさい」と命令されました。少年は、その日から祈るだけでなく、日々、その友達に食べ物を分け与えるようになったというのです。

※箴言にその親切と優しさについて次のように教えられています。
◆「箴 31:20 彼女は苦しむ人に手を差し出し、貧しい人に手を差し伸べる。」
◆「箴22:9 善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。」
◆「箴言19:17 寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」
◆「箴14:21b貧しい者をあわれむ人は幸いだ。」

※モーセ律法では親切については次のように教えられています。

◆「申 15:7 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。・・15:11 貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」
◆「レビ 19:34 あなたがたとともにいる寄留者は、あなたがたにとって、自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない。あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである。わたしはあなたがたの神、【主】である。」

モーセ律法では親切と言うのは、人の苦しみを自分の苦しみとして、苦しんでいる隣人を自分と思って必要な愛の実践をする事です。

※ではキリストの律法ではどのように教えられているのでしょうか。
◆「 5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。 5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

パウロもローマ書12章で次のように教えています。
◆「ロマ12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。 12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。 12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

ヤコブも次のように教えています。
◆「ヤコブ1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」

2、妬みの否定の実践

愛は妬まずとありますように、次に妬みの否定の実践について学びましょう。妬みと言うのは、自分の身近な人が褒められたり、幸福になったり、経済的に豊かになったり、社会的に自分よりも名誉や地位が豊かになる事を不愉快に思う事です。その感情は男女の関係で嫉妬ということばでよく表されます。自分の好きな人が、自分より他の人に好意を寄せると心が激しく嫉妬に燃え不愉快になり、それを放置していると、時にそれが殺人事件へと発展していく事があります。妬みと訳されているギリシャ語はゼーロス(ζῆλος)で、英語のジェラシーの語源です。ゼーロス本来は「熱意」「情熱」「熱心」という意味ですが、激しい感情ゆえに「ねたみ」や「張り合い」という悪い意味にも転じて用いられるようになりました。不愉快や殺意を持たせる妬みの感情は、古い人からの邪悪な感情です。邪悪な妬みの感情は、古い人が十字架でキリストと共に死んだ時に共に死んだのです。ですから邪悪な感情を死んだものだと否定し、十字架の死に委ね、「自分はキリスト共に甦って、隣人が称賛される事、隣人が幸福になる事、隣人の名誉や地位が上がる事、誰かが自分の好きな人から好かれる事をうらやましく思わず、喜ぶ者となりました」と安心し、宣言しましょう。そして、御霊の導きに日々従がいましょう。その信仰と従順に必ず御霊が働き、隣人の幸福を心から喜べるようにして下さるのです。

3、自慢と高ぶりの否定の実践

①自慢

自慢と言うのは、人からの称賛を求めて、自分の知恵、知識、能力、善行、功績、血筋、血統、系列、学歴、信仰深さなどを人に見せびらかすことです。自慢はまるで、羽を広げている雄のキジのように人にみせびらかす事です。その自慢的な態度は「ラッパを吹く」と、揶揄されてきました。箴言でも次のように教えられています。
◆「箴 20:6 多くの人は自分の親切を吹聴する。だれが忠実な人を見つけられるだろうか。」

②高ぶり

以上の自慢は、高ぶりに通じて行きます。高ぶりは、自分より知恵や知識の劣っている人、体力や能力が劣っている人、善行をせず怠けている人、人格が劣っている人、功績の乏しい人、血筋や血統に立派人物がいない人、社会的地位や名誉が低い人、経済的に貧しい人、差別を受ける立場にある人を、見下し侮辱して喜ぶ心です。又、信仰の弱い人や聖化に道を歩んでいない人や、信仰的に劣っていると思う人たちを見下げ、侮辱する事です。それを霊的傲慢と言います。傲慢には、自分の人格を誇る人格的傲慢、能力を誇る力の傲慢、善行を誇る道徳的傲慢、経済的物質的繁栄を誇る物資的傲慢等がります。

キリストは霊的傲慢に陥っていたパリサイ人を次のように批判されました。
◆「ルカ18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

ヤコブも、自慢と高慢は差別を生む事を教えています。

「ヤコブ 2:1 私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。 2:2 あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。 2:3 あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」と言うとすれば、 2:4 あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。 2:5 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。 2:6 それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。 2:7 あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。 2:8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。 2:9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」

以上の自慢と高慢、自慢と傲慢、自慢と高ぶりは、人からの称賛を貪る古い人から出ている邪悪な思いです。そうした邪悪な思いも古い人と一緒に十字架で死にましたので、それを強く否定し、十字架の死に委ねましょう。そして、古い人はキリストと共によみがって自慢しない謙遜な者となった事を認め、自分謙遜な者、自分を無にして全ての人を自分より優る尊い人として喜び尊ぶ者となりましたと日々宣言しましょう。そして日々御霊の導きに従いましょう。

③謙遜

謙遜と言うのは、先ず、罪深い自分は生かされる資格の無い者で、神の恵みと憐れみによって生かされているという事実を認めている事です。自分が誇りたくなる全ては神さまの憐れみと恵みによって与えられたもので、私はただただ感謝するだけで、何一つ自慢できないものですと、全て神さまに栄光を帰する事です。それが自慢しない心です。また、全て人は神の尊い形に似せて創造された神さまの愛の作品で、神さまからキリストのように尊い存在として尊ばれている存在だと、神の視点で全ての人を見つめる事です。その上で、憐れみと恵みによって与えられている自分の能力や全てを傍らにおき、自分をゼロにして、全て人を自分より尊い存在だと認めて喜ぶ事です。それが、自慢しない高ぶらない謙遜を意味します。

④救われたキリスト者の実態

キリスト者同志が、互いに謙遜になって、尊重し合うためには、キリストを信じた時に、そのキリスト者がどのように救われ、どのように高く引き上げられたかをお互いに認め合う事が必要です。では、キリストを信じたキリスト者はどのように救われ、どのように高く引きあげられたのでしょうか。

1)永遠に全ての罪が取り除かれ、永遠に罪が赦されたものです。
2)信仰によって、キリストが地上で全ての律法を守ったというキリストの義が転嫁され、永遠に義人と認められたものです。

◆「ロマ 10:4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」
キリスト者はキリストが救い主だという、真理を信じたので、その信仰が義と認めらたという意味の義認と、もう一つの義認は、キリストの律法を完全に行ったというキリストの行いの義が、信じる者に転嫁されて義とされたという義認があるのです。キリストは、人類の代表者ですので、人類の全ての罪がキリストに転嫁されて、人類の罪は十字架でとりのぞかれました。また、キリストは人類の代表者ですので、キリストの律法の行いの義が、信じる者に転嫁され、信じる者はキリストにあって行いにおいて義と認めらたのです。それをキリストの義の転嫁による義認と言います。

キリスト者はただ罪が赦され、信仰が義と認められただけでなく、キリストの律法の行いの義の転嫁と言う恵みに与っているのです。

3)永遠の命に与り神の子として新生した者
キリストの父なる神は、キリストを信じた全てのキリスト者の父となって下さったのです。父なる神はキリストの父なる神であり、同時にキリスト者の父なる神であるのです。それ故に、キリストは「天にまします我らの父よ」と、呼びかけて祈る事を教えられました。キリストを信じた者は、永遠の命を得た結果、神によって神の子として養子になった事をヨハネは教えています。

「ヨハ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
キリスト者が神の養子となり、キリストの父なる神がキリスト者の父なる神となって下さったので、パウロはなんどもなんどもキリストの父なる神を「私たちの父なる神」と呼んでいます。

「ロマ 1:7 ロマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」

◆「Ⅰコリ 1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「Ⅱコリ 1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「ガラ 1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「エペ 1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「ピリ 1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「コロ 1:2 コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「コロ 1:3 私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。」
◆「Ⅱテサ 1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、私たちの父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ
◆「Ⅱテサ 1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「Ⅱテサ 2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、 あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」

4)聖化と栄化の約束が与えられている者

キリスト者は罪が赦され義と認められ、キリストの義の転嫁を受け、神の子と言う養子の身分に引き上げらたのです。この神の養子になったという事は、神の御心によって天地の造られる前からあらかじめ決められていたことで、そのキリスト者はしみも傷も無い神の子となるように、つまり、霊なる主によって栄光から栄光へと同じ姿である人格に似せられる聖化の恵みが準備されました。最後には完全にキリストのようになる栄化が約束されました。

◆「エペ1:4b すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
◆「Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、霊なる主キリストの働きによるのです。」
◆「Ⅰテサ 5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
◆「Ⅰヨハ 3:2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」

5)栄光の体に与る者

キリストを救い主だと信じる信仰によって永遠の命が与えられ、神の養子に引き上げられた結果、内面が、人格

が、霊と魂が聖化され栄化されるという約束を受けているのがキリスト者です。しかし、それだけではありません、罪に堕落し、病気や怪我で苦しみ、老いてシミやしわが増え力が衰える老化の苦しみを負った肉体が、病気をしない、怪我で苦しまない、老化で苦しまない、永遠に朽ちない体に与るという、体の贖いの約束も与えられています。その約束と希望をパウロはロマ書8章、Ⅰコリント15章、Ⅰテサロニケ4章で教えています。

◆「ロマ8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
◆「Ⅰコリ 15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」
◆「Ⅰテサ4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

永遠に朽ちない栄光の体に与るのは、神の養子とされたキリスト者へ必然的な約束です。それが、主の空中再運の時に起こるのです。

6)アバ父よと呼ぶ御子の霊を内住させている者

しかし、神の養子にされたという事は、それだけではありません。キリストを信じる者の霊には、アバ父よと呼ぶ御子の霊の内住が恵みとして与えられています。アバ父よと呼ぶ御子の霊である、聖霊が内住されて、キリスト者が神の養子、神の子となった事を証明して下さっています。私達が、父なる神さまに向かって「天の父なる神さま」と、親しく呼びかけ、祈るようにされているのは、アバ父よと呼ぶ御子の霊の働きによるのです。その事をパウロはロマ8章とガラテヤ書で教えています。

◆「ロマ8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」
◆「ガラ 4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」

しかし、キリスト者が養子にされたという事はそれだけではありません。キリストから、兄弟と親しく呼ばれるようになったのです。パウロは、キリストは神の子となったキリスト者の長子、つまり兄だと教えています。キリストが、キリスト者の兄だという教えはロマ書とヘブル書で教えられています。

◆「ロマ 8:29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」
◆「ヘブル2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。 2:12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」

7)羊飼いである主の御声を聞き分ける者

私達キリスト者は、内住のキリストによっていつも「兄弟よ」「姉妹よ」と親しく呼ばれ喜ばれ尊ばれているのです。しかし、キリスト者が神の養子にされたという事はされだけではありません。内住のキリストが魂の牧者、監督者となって下さって生活の全ての領域に関わって、必要な導きや教えや命令や指示を与えて下さっています。私たちは、主の羊として愛され、主の御声を聞き分ける霊の耳が与えられているのです。その事を教えているのがヨハネとペテロです。

◆「ヨハ 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
◆「Ⅰペテ 2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

7)父なる神から愛の訓練を受ける者

しかし、神の子とされたキリスト者にはそれだけでありません。父なる神より、愛の訓練を受ける者とされているのです。父なる神は罪に厳格なお方ですので、神の子となったキリスト者が神の子に相応しく罪に厳格な者となる事を願っておられます。その為に、罪を犯せば悔いあらためるように導かれます。しかし、その導きを無視して罪を犯し続ければ、父なる神は、罪に厳格な神の子とする為に、訓練としての試練を与えられます。それは、神の子とされたキリスト者の特権です。その恵みがヘブル書12章で教えられています。

「ヘブル12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。 12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。 12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。 12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。 12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

神の子とされたキリスト者は罪を犯さないように、父なる神から厳しい愛の訓練を受けますが、決してだからと言って永遠の救いを決して失う事はありません。キリスト者が、自分の犯した罪の為に、厳しい試練にあった時は、父なる神の愛の訓練として感謝しましょう。父なる神から愛の訓練を受ける事は神の子とされたキリスト者の特権です。キリストが祈りの教えで、あなたがた悪い者であってっも、自分の子どもには良いものを与えるのだから、なおさら天の父は良いものをくださらない事があろうかと教えられました。その様に、神の子とされたキリスト者は父なる神からいつもよいもので祝福しようと特別な愛と保護の中に生かされています。その祝福に導かれ、神さまとの何の遠慮も無い交わりの中に導かれるために、罪を悔い改めなければ、特別な訓練として試練を望ませて下さるのです。私達は父なる神を頭とし、キリストを長兄とする、神の霊的大家族のお互い一員であるのです。

その他、まだまだ多くの特権がキリスト者に与えられていますが、以上のように、キリスト者は神の目には非常に尊い存在として引き上げられています。キリスト者はその事実をしっかりと意志を持って受け止めて日々感謝しましょう。お配りしました「キリスト者が大変尊い存在として愛されている事に対する神への感謝」を聖書に挟んで下さって日々感謝して頂きたいと思います。

【終わりに】

キリスト者同士がお互いに、謙遜な心で尊びあう為には、お互いがどれ程多くの特権に与り、神の目に尊い者として

喜ばれ愛されているのかを先ず認め合う事が必要です。その上で、もし、隣人のキリスト者に対して、見下したり侮辱したりする古い人からの傲慢な思いが心に浮かべば、すぐに、その邪悪な思いをキリストの十字架と墓に委ね、キリストと共に甦って、隣人のキリスト者を、神の視点で見て尊び、自分より優る存在として喜ぶ者とされていると感謝し、宣言しましょう。その後に御霊の導きに従いましょう。その信仰と従順に聖霊が働き、隣人のキリスト者に対して、傲慢は過ぎ去り、謙遜な心で接している自分を傍らに見るようになるのです。

もちろん、隣人のキリスト者だけのへの謙遜ではありません。謙遜は全ての人へ向けられるべきキリスト者の徳です。

全ての人に対してキリストにあって「謙遜な者とされて感謝します」と日々宣言し感謝して、傲慢な古き人を対処しましょう。

パウロが定義した愛の中の、親切、妬まず、自慢せず、高慢にならずという、愛の実践を全ての人に平等に向ける為の秘訣は、古い人がキリスト共に十字架に死、共に墓に葬られ、共に甦ったという「きよめの福音」を日々適用しつつ御霊に従う事です。その信仰と従順に、御霊が働いて、御霊によって愛の実践が可能となるのです。是非、その愛の実践の為の信仰の知恵を祈って会得して下さい。天の父は祈りに答えてその知恵を与えて下さいます。