「キリストの復活の意義」
聖書:ヨハネによる福音書:2章18節~22節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
今年の平和の内に偉大なるイエス・キリストのご復活をお祝いする「イースタ―讃美礼拝」を、創造主の天の父なる神さまにお捧げ出来る恵みを心から感謝しています。私は牧師になって50年以上が過ぎ、ほぼ毎週のように礼拝でメッセージを語ってきました。一年は52週ありますから私は約2600回メッセージを語ってきた事になります。しかし、信仰の成長を遅々たるもので、やっと牧師のスタートラインに立ったような思いです。どれだけ、イエスキリストと創造主の父なる神の偉大さ悟ってきたか、はなはだ疑問です。昨日、聖書を読んでいて、パウロが自分の願いは「この身でイエス・キリストがあがめられる事」だと、証言しているのを読んで、改めてパウロの信仰のすごさに驚きました。パウロは、イエス・キリストに虜になった使徒です。パウロの信仰と比較すれば、私など、とても足元にも及ばないとつくづく思います。どれだけ、イエス・キリストの栄光を、イエス・キリストの魅力を皆様にお伝えsいてきたか、はなはだ疑問ですが、「キリストのご復活の意義」と言う、メッセージで、キリストの栄光、キリストの魅力を少しでもお伝えできればと願っています。
1、三日目に甦らなければならない
マタイ16章21節で、イエス・キリストは弟子達に、ご自分が「長老たち、祭司長たち、律法学者達から多くの苦しみを受けて、殺され、三日目に甦らなければならない」と示し始められました。それは、旧約聖書でその事が預言されていた事によります。詩篇118篇の「家の建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった」という言葉は、メシヤ預言となっています。家の建てる者たちと言うのは、イスラエル国家の指導者達を意味しています。キリスト時代の指導者達と言うのは71人で構成されていた71人議会の人たちでした。71人議会はサンヒドリンと呼ばれています。その構成メンバーは、長老たち、祭司長たち、律法学者たちでした。長老たちと言うのは、パリサイ人たちを意味しています。2000年昔、彼らがローマに支配されていた時代のイスラエル国家の宗教的、政治的指導者達でした。その彼らから、キリストが捨てられる事を、詩篇118篇は「家を建てる者たちの捨てた石」と預言していたのです。その石が「礎の石」となったというのは、その石がイスラエル国家と世界のメシヤとなるという事です。弟子達は、当時に聖書学者達から、メシヤが受難して、イスラエルと全人類の為に、罪を贖う事を一切教えられていませんでした。その当時の聖書学者たちは、ダニエル書7章13節で預言されているように、メシヤは雲に乗って栄光の姿で顕れる事を教えていたのです。そうした、間違った教えから弟子達を解放する為に、キリストは苦心しました。メシヤの受難と復活を教える時を父なる神に祈り求めていたのです。キリストの偉大さは、どんな教えも、自分勝手に自由に語った事は一度も無いという事です。キリストは、恐らく旧約聖書は暗記するほど学んでいただろうと思います。ユダヤ人の中には、これまで旧約聖書を全部暗記した人がいたと聞いたことがあります。普通の人間にそれが出来るなら、キリストにできないはずはありません。キリストは、ご自分の受難と三日目の復活の預言は知り尽くしておられました。しかし、だからと言って、自分の考えや思い付きで、ご自身の受難と三日目のご復活に関してお語りになった事は一度もないのです。全て、父なる神に相談しながら、祈りながら、父なる神が示された時、或は命じられた時に初めて、弟子達や群衆に向かって神のみ言葉をお語りになったのです。それは、言葉だけではありません、キリストのなされた全ての奇跡の御業も、全ては、父なる神の命令に従ってなされたのです。それが、人となられた神の子のキリストの偉大さです。キリストが次のように証言をされています。
◆「ヨハ 8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」
◆「ヨハ 12:49 わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。」
2、キリストの謙遜の偉大さ①
私たちの住んでいるこの世界には多くの偉人が出現し、そして尊い言葉や教えを残しています。また。愛の実践があります。しかし、もし、その言葉や教え、又、愛の実践が、創造主の父なる神から命じられた言葉や教え、又、愛の実践でなければ、それらは、人にとって尊い言葉であっても、又、尊い愛の実践であっても、創造主の父なる神からは、悪として責められ裁かれるのです。キリストは、自分の思いのままに、旧約聖書の教えやみ言葉を語ったり教えたりする事はありませんでした。また、自分の思いのままになされた愛の実践は一つもなかったのです。そのキリストの偉大な謙遜の生き方こそが、本来の人間の在り方なのです。キリストは、旧約聖書を知り尽くしていても、その豊かな知識を自分の思いのままに語った事は一度もありません。自分に奇跡が出来る力があるからと言って自分の思いのままに奇跡を行った事は一度もありません。キリストは、自分をいつも無にして、ゼロにして、自分の知っている全ての事を傍らにおいて、自分の力を傍らにおいて、何も知らない無力な赤ちゃんのようになって、父なる神との交わりの中に留まり続け、父なる神が命じられた事だけを教え語り、また、愛の実践をなされたのです。父なる神への従順に徹する事が、キリストの正しい生き方であり、謙遜な生き方であったのです。そのキリストの生き方こそが、人間の本来の正しい幸福な生き方、父なる神から祝福を受ける為の生き方であるのです。そのキリストの偉大な謙遜は、父なる神だけに向けられていませんでした。ご自分と関わった弟子達や全ての人に対してもキリストは徹底して謙遜でした。それは、全ての人を自分より優る尊い高貴な人として喜びつつ尊敬の念を持ち続けられた事です。その謙遜は、弟子達の足を洗われた事で示されました。当時のユダヤ社会では、家の人の足を洗うのは奴隷の仕事でした。キリストはその奴隷の位置に立って、弟子達の足を洗われたのです。弟子達はびっくり仰天です。彼らは、びっくりしながら、キリストが自分の足を洗われるのを不思議な思いで見つめていたのです。その、彼らに向かってキリストは「あなた方が私を師とし、主としているのですから、あなた方も互いに足を洗い合いなさい」と、教えられました。キリストを尊敬し信頼している、全てのキリスト者は、キリストの謙遜に倣って全ての人をいつも自分より優る高貴な人として喜びつつ尊敬し、奴隷として仕えなさい、と、パウロ先生は教えています。父なる神さまと全ての人に対して謙遜であるキリストを偉大なお方として尊敬しているならば、あなたがたもキリストのように謙遜であれとパウロ先生は教えているのです。
◆「ピリピ 2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
3、キリストの謙遜の偉大さ②
キリストは、無限の御子なる神であるのですが、2000年昔に、わたしやあなたの不従順と全ての罪が赦され、永遠の命を得て、永遠の祝福と幸福の中に生きる事を願われて、小さな小さな人となって下さいました。そのキリストの偉大な謙遜は、父なる神さまに何事も聞き従って事をなすという、謙遜と従順で示され、又、人に対しては、全ての人をいつも自分より優る高貴な人として喜び尊敬しつつ、奴隷となって仕える姿で現されました。その謙遜の最も明確な現れが、十字架であなたやわたしが一生涯で犯す、全ての不従順と罪を全部背負って、私達の身代わりに刑罰を父なる神よりお受けになり、私たちの永遠の幸福の為に、奴隷としてお仕え下さった事の中にあります。キリストの十字架の死は、キリストが私達罪びとをご自分より優る高貴な存在として喜びつつ尊敬をし、いつも喜んで奴隷の心を持っておれれた事を教えているのです。キリストは、ご自分を十字架につけたピラト、ローマの兵隊たち、律法学者たち、祭司長たち、パリサイ人たち、一般の民衆たち、自分を捨てて逃げ去った全ての弟子達を、また、地上に存在する全ての人を、そしてあなたはわたしを、ご自分より優る尊い高貴な存在として喜び尊敬しながら、全ての罪を喜んで負って父なる神より身代わりの刑罰をお受けになったのです。十字架のキリストは神と人とに対して徹底して仕える奴隷の姿をあらわしているのです。その、キリストが、十字架で死んで葬られ三日目に甦られた意義は、キリストは、徹底して愛と正義と従順と謙遜の人生を歩み通され、思いにおいて、行いにおいて、言葉において何ひとつ罪を犯されなかった完全に聖なる人であったことを、証明した事です。本来、死と言うのは人類が罪に堕落した事によってこの世に入って来た不自然なものです。パウロが次のように教えています。
◆「ロマ5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです」。
アダムが罪を犯したことで、死がこの世界に入りこんで人は死ぬようになったというのが。聖書の教えです。死は、大変不自然なもので、人類の敵です。聖書は死を敵だと教えています。
◆「Ⅰコリ 15:26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。」
人は全て罪に堕落しているので、全ての人が敵である死を体験するのです。しかし、キリストは、聖霊によって母マリヤに宿り、罪の性質がなかったので、貪欲になる事は一切なく、その為、思いはいつも聖いものでした。言葉と行いも先ほどお話をしましたように、徹底して従順の道を歩む為に、父なる神さまに大きな声で叫び祈り、その祈りの答えとして聖霊の助けを得ながら、自分の意志で聞き従がい、従順の道を選択し続け、何一つ罪を犯す事が無かったのです。
◆「ヘブル 5:7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
4、キリストの復活はキリストに罪がなかった事を証明した
何一つ罪を犯さなかったキリストは、本来ならば、死ぬべき肉体を負う必要が無かったのです。しかし、人類の罪を負ってどうしても十字架で身代りの刑罰を受けて血を流し死ぬ必要がありましたので、罪の性質とは無関係でありつつも死ぬべき肉体をもってお生まれになり罪なきご生涯をお過ごしになる必要があったのです。又、キリストは、罪以外は罪に堕落した人間が負っている弱さは全て負われたのです。お腹もすくし、疲れるし、肉体的に傷ついたり、苦しんだりされました。それは、救い主としての使命を果たすためでした。キリストは甦って、ご自身は本来死ぬべきものでない聖なる者だという事を証明されました。また、甦って、十字架の死は人類を罪から解放するための救いの御業としての死であった事を証明されました。それがキリストの復活をされた意義でした。キリストは人類の罪を取り除く為の身代わりの刑罰を受けて死に、その使命を果たされたので、いつまでも罪なき肉体を死の中に閉じ込めておいて朽ち果てる事を父なる神は許されず、三日目に甦らせる事をご計画されていたのです。それが、旧約聖書のヨナの物語で預言されていました。
ヨナが死んで陰府として与えられていた大きな魚の中で、自分の死んだ体を傍らにして、神に逆らった罪を悔い改めましたが、その時、神はヨナの肉体を復活させ彼の霊と結び合わせて、魚の口から吐き出せて、再び預言者としての活動を開始させられたのです。キリストはそのヨナのように、ご自分が死んで地の中心にある「ハデス」陰府」に三日間いる事を預言されました。
◆「マタ 12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」
キリストの死後三日目の復活の意義は、キリストには一切罪がなかった事の証明の為であった事です。使徒行伝でペテロがその事を教えています。
◆「使徒 2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。 2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。 2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。 2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。 2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。』・・」
5、キリストの復活はキリストが全能の創造主の神である事を証明した
復活のもう一つの意義は、キリストは全知全能の創造主の神だと証明した事です。キリストは、普通の愛と正義と謙遜に満ちた人間ではなく、全知全能の偉大なる創造主の神が人となったお方であるという事を、最も強く私達に教えているのが、キリストが、死んで葬られ陰府に下り、三日目に陰府よりご自分の亡骸のあるお墓に行かれて、ご自分でその亡骸を永遠に朽ちない栄光の体に甦らせた事です。いのちの無い、腐ってしまっているご自分の亡骸に命を吹き込み、永遠に朽ちない栄光の体に甦らせたというのは、キリストが無から有を呼び出す、全知全能の神だと言いう事を私達に教えているのです。
ある時、わたしが神さまの前に静まっている時に、突然キリストはわたしに語りました。「わたしは全能の神である」と。しかし、わたしにキリストがご自身の事を直接に「全能の神である」と、お語りになられた事に不思議に思っておりました。しばらくしてから、又、声がかかりました。「わたしのおこなった地上の全ての奇跡は、わたしの力でおこなったものだ。わたしの復活も私の力によるものだ」と。わたしはそれを聞きながら、ご自身の復活以外の全ての奇跡はキリストご自身の力による事は理解していましたが。ご自身の復活は父なる神さまがなされた事だと思っていましたので、キリストの説明に納得がいかず、首をかしげました。すると、キリストは次のように返答をされました。「わたしは『この神殿を打ち壊して見よ。三日でそれを建てる』・・と言ったではないか」。その御声によって、わたしは、やっと、キリストは、父なる神さまがお住いであったご自身の肉体と言う神殿が、ピラトやローマの兵隊やユダヤの指導者たちによって十字架で殺され壊されたあと、三日目に地球の中心にある「ハデス(陰府)」より、ご自身の亡骸が葬られているお墓に、霊であるご自身が行かれて、ご自身の亡骸に命を吹き込み、永遠に朽ちない栄光の体に復活をさせられた事を、やっと信じる事が出来たのです。その事を、わたしが証として、ある牧師方やクリスチャン新聞の編集顧問に証をすると、受け入れてもらえませんでした。わたしは反対の意見を受けて、キリストの復活について、改めて聖書を調べて見ましたが、聖書は、キリストがご自身の力で復活をしたという事と父なる神さまがキリストを甦らせたという、両方が教えられている事が分かりました。
①キリストがご自身の力で復活をした事を教えている聖句
◆「ロマ 1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
◆「ピリ 3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、」
◆「ヨハ2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。 2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
②キリストが父なる神によって復活した事を教えている聖句
◆「使 2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」
◆「使3:15 ・・いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」
◆「使4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」(他、使5:30、10:39、13:29、33、17:31、ロマ8:11、10:9、Ⅰコリ6:14、15:15、Ⅱコリ4:14、ガラ1:1、エペソ1:20、コロ2:12、Ⅰテサ1:10、ヘブル13:20、Ⅰペテ1:21)
以上の多くの聖句は、父なる神がイエス・キリストをご自分のお力で甦らせた事が明確に教えられています。では、数は少ないのですが、キリストご自身がご自分のお力で死んで三日も経ったご自身の亡骸を甦らせたという聖句と、どう整合性を図れば良いのでしょうか。それは、キリストがなされた奇跡は全て、父なる神の権威によってなされた事を、考慮すれば整合性が図れます。キリストは、あくまでも父なる神の御命令と権威のお力によって、ご自分の全能の力でご自分の亡骸を甦らせました。それは同時に父なる神によって甦らせられたと言えます。それは、ちょうど、天地万物を直接創造したのは神の御子ですが、神の御子は父なる神の命令と主権の力によって創造したので、聖書は、御子が創造したという表現と、父なる神が創造したという二通りの表現をしています。その事からも、以上の論理の整合性が図られ、矛盾が取り去られます。
③神の御子が天地万物を創造した事を教えている聖句
◆「ヨハ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」、
◆「コロ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
◆「Ⅰコリ8:6・・また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」
◆「ヘブル1:1b神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」
④父なる神が天地万物の創造主である事を教えている聖句
◆「Ⅰコリ8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。」
◆「黙 4:11 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」
◆「黙 14:7 彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼【新改訳改訂第3版】
【終わりに】
「この神殿を壊して見なさい。わたしは、三日でそれを建てよう」とキリストが言われた事を字義通り文字通りに解釈すれば、キリストがご自身の力でご自身の神殿である肉体を甦らせたという事が分かります。ヨハネによる福音書は、キリストの復活を含めてキリストが行った全ての奇跡は、キリストが父なる神の命令に従って天地万物を創造された全知全能の神だという事を証明している「しるし」だと教えています。
◆「ヨハ2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。」
私達、罪びとの罪の赦しと永遠の救いの為に、キリストが十字架で身代りの刑罰をお受けになった事が、絶対的に有効である事を示したのが、キリストの復活でした。また、キリストがなぜ、思いにおいて一切罪を犯さなかったのか、それは、聖なる全知全能である神の御子が聖霊によって人となられ、罪の性質がなく完全に聖なるお方であった故でした。その事を、キリストはご自分のお力で、ご自分の亡骸に命を吹き込み永遠に朽ちない栄光の体に甦らせる事で証明されました。それがキリストの復活の意義です。
ご復活をされたキリストは、今も天において私たちの救いの為にとりなしをされていますが、同時に信じる者の霊の中に住んで下さって、罪の力に負けて、神の律法を守れないこの死のからだに、ご自身の死人を甦らせる全能の力を与えて、貪欲な心を持たないように、罪を犯さないように、助けて下さるのです。ハレルヤ!信じましょう。