「十分な恵みの中で」
聖書:Ⅱコリント12章1節~10節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
今は、キリストの復活をお祝いする幸いなイースターに相応しく、百花繚乱の季節で教会の庭も命に溢れています。赤白のつつじ、君子ラン、道丹つつじ等々。キリスト者の霊に内住されている復活のキリストは、白百合に例えられていますが、この悩みや苦しみの多い世にあって、力と平安と喜びと希望に生きて行くための力の源泉となって下さっています。
【謙遜の為に】
1、パウロの体験
パウロは、第3の天にまで昇る事が許される程、どの使徒達よりも非常に高い霊性が与えられていました。それ故に、彼は、傲慢になる危険性がありましたので、神さまは悪魔を使って、彼の肉体に大変つらい病を与えられました。その病は具体的には何か分かりませんが、彼は「肉体に与えられた棘で、サタンの使い」と呼んでいますのでその棘により、顔が歪んでしまうほどの相当厳しい苦痛が伴っていたと思います。その肉体の棘は、サタンがパウロの伝道の邪魔をしようとしてサタンがもたらした悪でした。その悪の肉体の棘は、パウロの伝道活動にとって大変邪魔になっており、パウロの伝道を妨げていたのです。パウロは、伝道の為と言う、大変重要な使命を果たす為には、その「棘」と呼んでいる病がない方がよいと思い、時を定めて神の全能の力による癒しを求めて3度も神さまに「癒して下さい!」と必死に祈ったのです。その必死の祈りに、神さまの答えが返ってきました。それは「棘を取り去り癒す」という返答ではありませんでした。それは「わたしの恵みあなたに充分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という返答でした。つまり、彼を悩ませている彼の肉体的病の弱点が残されたままで、その弱点をはるかにしのぐ神さまの全能の力が完全に働いて助けるというものでした。パウロが自分の高い霊性の故に、多くの人を伝道によって救いに導いたという事で、他の使徒たちや多くのクリスチャンに対して傲慢になる危険があったのです。そこで、神さまは肉体に激しい苦痛を与えるサタンのもたらす棘を許されました。神さまはパウロが棘の刺さったままの肉体の弱さの中で、完全に働く神の力、キリストの復活の力、聖霊の力で多くの人たちを救いに導くことができたと、へりくだって神に栄光を帰する事が出来るようにして下さったのです。
2、人間の傲慢の傾向性が砕かれる為に
人間は、自分に何か知恵や力がよってできる事があると、どうしても、神に栄光を帰する事よりも、自分に栄光を帰するという傲慢になって、神を崇めず、自慢の罠に陥り、人を見下してしまう罪深い傾向性を持っています。口では、神さまの恵みとおかげですと言いながらも、心のどこかでは密かに自分を誇っているのが人間の浅ましさだと思います。そうした人間が、徹底してへりくだって、神さまにより頼み、神さまの力と知恵、キリストの知恵と力、聖霊の知恵と力により頼んで事をなし、自慢する事無く神に栄光を帰し、へりくだって歩んで行く為には、弱さを身に負っているという事は善い事だと、パウロは教えています。弱さは、私達キリスト者が神さまにより頼んで、神の栄光の為に、多くの人々救いと必要の充足の為に用いられるには必要な善なのです。悪魔の悪意の業や出来事や災い、人の過失や罪による悪意の業や出来事や災いをも神は許可しながら、それを善として、喜ばしき事として、私達キリスト者に体験させておられるのです。さまざまな悪の災いや苦難を神はご自身の栄光の為に、キリスト者がよりよい祝福の中に導かれる為に、善としてキリスト者に体験させておらるのです。それは人間の傲慢性を砕き、徹底して神により頼むへりくだった者とするという善の為です。
今、皆さんが、この弱さがなければ良いのにと思っておられる何かの弱さゆえに悩んでおられる事がおありでしょうか。精神的病、肉体的病なども弱さの一つです。年老いて、聴力低下、視力低下、体力低下、知力低下も弱さです。わたしは、特に体力の低下に苦しんでいます。昨日も、妻が庭に布団を干したので、その布団を担ぐだけで、息が上がってしまいました。しばらく、呼吸を整えてから再び布団を担ぎましたが、体力の低下を感じています。しかし、常に、パウロに神さまがお答えになった「わたしの恵みはあなたに充分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という、御言葉を思い起こして、私の老いた体力減退症の体に、神さまの力が注がれて支えられると信じて、神さまにお委ねしています。パウロは、キリストの力が増々自分に注がれて、キリストの力を誇る為に、自分の弱さを誇っていると証言しています。皆さんの中で、老化による難聴や視力低下、体力低下にもしお悩みであれば、神さまに感謝しましょう。それは、復活のキリストが復活の力で、耳を守り、目を守り、体を守って下さるためであり、それによって私たちがキリストの力を誇り、自分の弱さを誇る為に与えられている善なる弱さであるからです。弱さは、私達が増々神さまの力、キリストの復活の力により頼んで神さまの力を実際に体験し、神さまに栄光を帰する為の神さまの恵みなのです。高血圧、肥満症、その他、色々な病で苦しんでいる人があれば、それも、神さまが皆様の心臓に神の全能の力を与え、太った体を支えて下さる為であり、キリストの復活の力と自分の弱さを誇る為に与えられている弱さです。人を愛せない、赦せないと自分の心の弱さに悩んでいる人は安心してください。その弱さに神の力、キリストの力、聖霊の力が働き、その力によって人を喜んで愛し、赦す人になるのです。東京の山谷で伝道されている森本春子牧師の事についてネットで次のように教えられていました。少し長いですが、御紹介します。森本春子伝道師はおそらく今は96歳でしょう。
3、森本春伝道師に表された神の全能の力
≪「山谷の母」(ネットより)≫
東京の北千住の山谷にドヤ街があります。そこは安く泊まれる所です。「宿」を反対から読んで「ドヤ」と言い、いわゆる日雇労務者、ホームレスたちが多くいる場所です。今日はそこに行かれた女性牧師、愛の伝道師「森本春子さん」の話をさせて頂きます。ドヤ街には女性もいますが、多くは男性でありちょっと怖いのですが、そこに行って「神は愛です」「信じれば救われます」といつも絶叫していたそうです。
時には酔っ払った男性を張り飛ばすことがあるそうです。ですから森本春子さんは、よっぽど怖い女親分みたいな方のように思うかもしれませんが、実は凄く臆病で小さい時は夜も一人でトイレに行けなかったそうです。ところが彼女は神様に出会って変えられたのです。
そのきっかけは、5歳の時から教会学校に行き始め「神様はいつでもどこでも、どんな時でも守って下さる方、助けて下さる方」という風に思えるようになってからです。それで何があってもすぐ「神さま」と言ってお祈りするようになったのです。では順調なクリスチャンとして歩んだのかと言いますと、そうではないのです。
実は両親が離婚して、義母から典型的な意地悪を徹底して受けたのです。体のあちこちがミミズ腫れ、鞭打たれたり、いろいろな仕事をさせられました。冬の寒い日に外で洗濯をさせられ、やっと終わって洗濯物を持ってくると、わざわざ溝の泥水に投げられてやり直し。滅茶苦茶な事をずっとされたのです。でもどういうわけかそのお義母さんを憎む気持ちにならなかったそうです。「神様がいつも一緒、私を守って下さる。」という考えがあったからです。ですから春子ちゃんが怒っている顔を見たことがない」というのが当時の周りの人の評判だったのです。
そのお義母さんは韓国の方で、春子さんも韓国に連れて行かれて結婚する事になりました。「初めて会う人と結婚なんてとんでもない。」と思い「神さま、どうしましょう。」とお祈りすると「行きなさい。」と思わされて、相手のことも何も分からないで結婚したそうです。彼女は「クリスチャンの医者であること」を願いました。相手の方は、中国の大富豪で、しかも医者でした。彼女の祈りが全部叶えられていたのです。幸せな結婚をしたように思うのですが、その後朝鮮戦争で無一文になり日本に帰国し、とても貧しい生活の中で病気になったご主人の世話が大変だったようですご主人は排便する力もなく春子さんが手でかき出したりなど、徹底的にお世話して、一時期「私は何故こんなに苦しい事ばかりあるんでしょうか。」と神さまに言ったりしていたのですが、こういった事柄の一つ一つが後に山谷で仕えて行くための備えだったのです。彼女の言葉をご紹介します。
≪森本春子さんの証言≫
「『私が山谷につかわされたのは、またたく星がキラキラと光る、すばらしい夜のことでした。南千住の駅前に降りて、空を仰いだ時には、澄み渡った夜空にきらめく星を見ながら、本当に神の天地創造のうるわしさに見とれてしまったのです。それを見ていたら、自分が何だか吸い込まれそうになってしまって、「えーっ」と思ってしまったのです。しかし、現実の厳しさの中に飛び込んでいく時間は容赦なくやって来ます。ついにその時間が来て、私は山谷に行く踏切を渡ったのです。その時でした。
皆さん、私の目に映ったのは、それまでの私の想像を絶するような、初めて目にする光景でした。2月の、骨まで凍るような寒さの中で、沢山の人があちらこちらに血みどろになって倒れていたのです。私はもうびっくりしてしました。そして「わあ、どうしたの」と走っていったのです。「おじさん、おじさん、どうしたの」「うっ」と振り向いた顔が血だらけだったのです。「うわあ、もう、ダメダメ」私はそう思いました。お酒の臭いがぶわーっとしたのです。
その時、私は、「あーっ、この人はアル中なのだ」と思ったのです。それからあたりを見ると、あちらこちらに70~80名の人が横たわっていました。そうして歩いていくと、私の目の前にゴミの山がありました。そこを通りかかったら、ゴミだと思っていたそのものが、なんと起き上がってきたのですよ。よく見ると、それは一人の女の人でした。顔が大きく、目はつり上がり、口はへの字になっていました。すると、彼女は起き上がって、「わたしの人生、どうして血だらけなの。ねえ」こういうのですね。それを聞いたとたん、いやあ、私はもう驚きのあまり、息が詰まってしまいました。私は、その時、その人たちの姿の中に、人間の原罪の深さをいやというほど知ったのです。この罪の泥沼の中に落ち込んでしまって、アル中になり、麻薬中毒になり、はい上がりたくてもはい上がることができない。一度そこに入ったら最後、深みまでどっぷり浸かってしまって、はい上がることがどうしてもできないのです。彼らのその姿を見たとき、人間の原罪の深さが、私の骨の髄にまで、鋭く深く刻み込まれてしまったのです。私は、彼らを救うのに、自分がなんと無能であり無力であるかを思い知らされたのです。私は、思わず主の御前に叫びました。「主よ。助けてください。あなたが十字架にかかられたのは、彼らの罪を赦すためではなかったのですか。主よ、どうぞ彼らをあわれんで助けてください。救ってください」。それから突然、私は気が狂ったように叫んだのであります。「主よ、私に聖霊の力をください」そのときでした。驚くべきことに、天から熱いお湯を頭のてっぺんめがけて「ワッー」と注がれたような気がしました。その、どうにも言い様のないものが、私の頭のてっぺんから手の指先、足の指先まで、瞬間的にじーんと浸透したのですね。いやあ。みなさん、かつて経験したことのないような、驚くばかりの、神様の炎のような愛の怒涛が、私を押し流すかのように押し迫ってきたのです。私はもう、気が狂ったように聖書と聖歌とを持って、叫びだしたのです。そして私は、歩きながら、横たわっている一人ひとりに触れていったのです。「神は愛なり。キリストは救い主なり。汝らキリストを信じなさい。そうすれば救われますよ」と夢中で叫んでいたのです。』」
森本春子さんは決して元々強い人ではありませんでしたが、神さまにふれた時に変わったのです。
◆「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
ある程度年数を重ねてくれば「もう自分は変わりっこない」そう思いますよね。でも人は《だれでも》変わることができるとはっきり聖書は言っているのです。森本春子さんは、90歳を超えておられますが、まだ牧師として頑張っておられます。炊き出しもします。彼女が神の愛を語り続けて行く時に、ただ炊き出しのために来ていた人がポツポツと神様を信じるようになって来たのです。神様に一番縁遠いと思われているような、そういう人たちが次々と神さまを信じるようになり、今では、あの山谷の地で千人の人が礼拝をします。たった一人の捨て身の行動が、山谷の地域柄を人情味ある地へとどんどん変えていったのです。
≪神の力を体験するには≫
森本春子さんは不思議に自分をいじめた義母を憎まず、最後にはこのお義母さんに仕えるのです。お義母さんが暴漢から刺された事が分かった時、駆けつけました。天に召されるお義母さんが「あなたは『春子ちゃん』と皆に可愛がられていた。本当にいい子だったんだよ。でも私はあなたに本当に悪い事をしたねぇ。」と優しい言葉で彼女に語りかけて下さったのだそうです。そんな事が出来るのはどうしてですか。本当に義母を赦していたからです。それは人間の力ではありません。神様が彼女にそういう力を下さったからなのです。
あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ40:28~31)
あなたは疲れていませんか。その人には力が与えられると言っています。春子さんのように事あるごとに神様に求めたらよいのです。すぐに応えられたように思えなくても、なお神さまを待ち望んでいく時に、新しい生き方や考え方が開かれてくるのです。この道を共に踏み出して行けたらと思います。」(以上はネットからです)
以前、私はテレビで見て知ったのですが、森本春子さんは心臓が悪くて、医者から説教をしたら死にますと、ドクターストップがかかっていたのです。しかし、彼女は、弱いところに神さまの力が完全にあらわれるという約束を信じて、絶叫の説教を続けたのです。
彼女は、現在ではユーチューブで証をしています。18回も死んで18回復活をして、今も現役で伝道を続けておられるようです。森本春子伝道師の絶叫の説教でどれだけ多くの山谷の労働者が救われたか計り知れません。
4、キリスト者に与えられている神の十分な恵み
パウロは神様から「わたしの恵みは十分である」と教えられました。それは、パウロだけではなく、イエス・キリストを信じている全てのキリスト者には、十分な恵みが与えられている事を教えています。その十分な恵みは、霊的恵み、物質的恵みで十分満たされているという事です。キリスト者は キリストを信じた時に11の福音の恵みに与っています。それは、十分な神の恵みです! 11の福音の恵みは次の通りです。①永遠の罪の赦しによる信仰義認の恵み ②永遠の命が与えられ神の子として新生した恵み ③三位一体の神が霊に内住して下さった恵み ④永遠に朽ちない栄光の体が与えられる約束の恵み ⑤聖化と栄化の約束の恵み ⑥すでに天にある全ての霊の祝福に与っている恵み ⑦キリストと共に天に座し、天に国籍を持った恵み ⑧万物の所有権を得た恵み ⑨キリストの御体なる教会(花嫁なる教会)の一員となった恵み ➉メシヤ的千年王国の住民となる約束の恵み ⑪黙示録の新天新地の住民となる約束の恵み。
私達は、以上の11の福音の恵みにすでに預かっていますので、その福音に生きる事が求められています。その為に神の全能の力が必要です。いつも罪の赦しによる信仰義認の福音に生きる為に、神の子として生きる為に、万物を所有者として生きる為に、キリストの御体なる教会の一員として生きる為に、聖化の道を歩む為に、御国へ希望、栄化の希望、永遠に朽ちない栄光の体に与る希望、メシヤ的王国への希望、黙示録の新天新地への希望に満ちて生きる為に、神の全能の力を求めましょう。
5、罪の赦しと信仰義認、そして内住の神の福音に生きる
その第1の十分な霊的恵みは、なんといっても、キリストを信じた人は全て、永遠に罪が赦され、義とされている事です。罪が赦されているという事は、永遠に義とされて、天地万物を創造された全知全能の父なる神と、いつでも、どこでも、どんな時でも、自由にお話が出来、生きた交わりが出来る者となったという事です。それをパウロは「神さまとの平和」とか「神さまとの和解」と呼んでいます。
◆「ロマ5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 」
◆「コロ 1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです」。
キリスト者がキリストを信じて永遠に罪が赦され、義とされたという事は、永遠に全知全能の父なる神さまと何の遠慮もなく自由に愛の交わりが可能になったという事です。そのお交わりを通して、神さまはそのキリスト者に必要な知恵や力、愛を注ぎ、神の栄光と人々の救いの為に、お用い下さるのです。弱ければ弱いほど、その人が神さまに助けを祈り求めれば、神はご自分のお力を喜んで注ぎ助けて下さるのです。そのようにして、その人が喜んで神さまをたたえ礼拝するものへと引き上げられるのです。
今、当教会の聖書研究会では士師記を学んでいます。先週と先々週は、士師であるギデオンを通して神さまはご自身の全能の力を働かせて、イスラエルを滅ぼそうとする「ミデヤン人、アマレク人、東の人々」を滅ぼされた事を学びました。その時代のイスラエル人達が、神さまに逆らって偶像崇拝者になっていましたので、神様は怒りをもって彼らにミデヤン人を使って7年間苦しみを与えられました。ある時、ミデヤン人は、イスラエルを滅ぼそうとアマレク人や東の人々と連合して、約13万5千人の大軍隊でイスラエルに対峙しました。イスラエルの人々は神さまに自分たちの罪を悔い改めて助けを求めました。神様はイスラエルの祈りに答えてイスラエルを救う士師としてギデオンをお立てになりました。。ギデオンが、ミデヤンとの戦いの為にイスラルの人々に召集をかけたところ、3万2千人が集まりました。しかし、神さまは多すぎると言われました。 それは、もし3万2千の兵士でミデヤンを打ち破ったとすれば、イスラエルが自分たちの力で勝利したと自分たちを誇るからだと教えられました。 ◆「士7:2 そのとき、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。 7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。」
3万2千人から1万人にイスラエルの兵士は少なくなりましたが、それでも神さまはまだ多いと告げられました。ギデオンが、兵士たちを水のある所へ連れて行ったときに、神さまは、水を犬が舐めるように水を飲む者と、跪いて飲む者は退け、口に手を当てて水をなめた者だけを選ぶようにギデオンに指示しました。結果、その数はわずか300人となりました。約13万5千人の大軍隊に対してたった300人では、どう考えても勝ち目はありません。人間の力で勝つ事は不可能となりました。しかし、たとい300人であっても、神さまの全能の力で勝つ事が出来ると信じるように、神さまはギデオンを導かれました。その結果、ギデオンと300人のイスラエルの兵士たちは、神の全能の力を信じて、夜襲をかけて13万5千人の敵の軍隊を滅ぼしたのです。ギデオンと300人のイスラエルの兵士たちの信仰に答えて、神さまは、ミデヤン人達が同士討ちをするようにされたのです。
私達は、色々な問題や弱さ、人間の力ではどうしようもない事柄に遭遇した時、それは、神さまがご自身の全能の力を信頼して祈り求めるように導かれているのです。
5、最近の私の体験
金曜日の夜、教会から家に帰る途中、スーパーマーケットマルイによりました。その時、後ろのドアを開けようとしたら、大事な財布やカードが入っているカバンを入れた青色の袋がドアに挟まれて垂れさがっていました。途中で何も引っかからず良かったと安堵しましたが、家に帰ってから袋を見ると底は穴が開いていました。もう少し走っていれば、穴が大きくなってカバンを紛失していたかも知れないと思うと、マルイに立ち寄って良かった。神さまはわたしに、今後は何ごとも祈り深くあるようにと警告をされたと思いました。わたしの弱さは、少々おおざっぱなところがある事です。その為に、これまで何度か失敗をしておりますので、神さまは年老いた77歳の私に、もう少し注意深くあるように、祈り深くあるようにと、優しく教えで下さったものと思います。
又、昨夜、遅く家に帰った時、2階の部屋のドアが閉まって開かない妻が言いますので、わたしは神さまに「神さまのお力と知恵で開ける事が出来ますように」と祈りました。すると、神の知恵が与えられて壊れて開かなくなっていたドアを開ける事が出来たのです。
6、キリスト者の霊に内住されている全能の神
全能の創造主の神さまは、全宇宙に満ちておられどこにもおられますが、同時に、キリストを信じて罪赦されたキリスト者には特別に関わり、キリスト者の霊をご自分の住所にされてお住みないっているのです。イエス様は、ご自分の体をさして、「この神殿を壊して見よ、三日で建て直す」と言われましたが、実は、私たちの体もイエス様のように全能の神さまがお住み下さっている神殿となっているのです。
◆「Ⅰコリ 3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」
◆「Ⅰコリ 3:17 もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です」。
◆Ⅱコリ 6:16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
新共同訳では、「神の宮」は「神の神殿」と訳されています。 私たちキリスト者のからだは「神の神殿」として、父なる神、御子なる神キリスト、そして聖霊なる神である三位一体の神さまがお住いなのです。全能の三位一体の神さまは私たちの弱さを癒される事も度々ありますが、パウロのように弱さを残されたままにされている事も多くあります。それは、その弱いところに、神さまの全能の力を注いで助けて下さる為です。その為に、神さまはキリスト者の霊をお住いにされているのです。
キリストは弟子達に、人にできない事は神にできない事は無いと教えられました。十分な恵みの中に生かされている私達に必要な事は、神さまの全能の力を誇り、自分の弱さを誇る事です、
◆「マタ19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
◆「Ⅱコリ12:9b 私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」