≪はじめに≫
閉塞感が続く日本の福音宣教の突破口については、色々なご意見がありますが、、わたしはキリストを信じて救われればどのような人間に引き上げられ救われるのか、キリストを信じた人間のグローバルな人間像を一人ひとりの日本のキリスト者が確実に会得し、キリスト者が偉大な復活の勝利の主によって強力な自信を持つ事にあると信じます。日本のキリスト者が主にあっての強力な自信を持つようになる時に、日本における福音宣教に大きな突破口が開かれ、聖霊がそのキリスト者より川のように流れ、教会のリバイバル、地域のリバイバル、日本のリバイバルにつながっていくと信じています。日本のキリスト者が自信を持つためには、キリストを信じた瞬間に神さまが何をして下さったのか、その事に聖霊によって目が開かれておくことが必要だと思います。つまり、福音の全体像に目が開かれ、福音のパワーを知った日本のキリスト者の存在こそ、日本における福音宣教の突破口だと思います。福音宣教には、聖霊のパワーと牧会のパワーが必要である事は言うまでもありません。その聖霊のパワーと牧会のパワーの源はなんといってもキリストを信じたキリストに者にすでにあてられている11の福音にあります。
僭越な言い方かも知れませんが、日本の福音宣教の拡大には、多くの日本の牧師先生方が説き切れていない、聖書が教えている11の福音の全体像を日本のキリスト者が聖霊によって諭して頂く事が命だと思わされています。その11の福音は以下の通りです。
①罪の赦しと信仰義認 ②神の子とされる ③三位一体の神の内住 ④永遠に朽ちない栄光の体が与えられる ⑤聖化と栄化の恵み ⑥天にある全ての霊の祝福に与る ⑦天に国籍を持つ者となる ⑧万物の所有者となる ⑨キリストの御体なる教会(花嫁なる教会)の一員となる ➉メシヤ的千年王国の住民となる ⑪黙示録の新天新地の住民となる
今回は第1番目の「罪の赦しと信仰義認」の福音についてお伝えをします。
【罪の赦しと信仰義認】
1、キリストは全人類の代表者
約2000年昔、天の父なる神様は、ひとり子なる神をこの世界に救い主として遣わされました。そのイエス・キリストは、父なる神のみ前に全人類を代表するお方としてこの世界に遣わされましたので、パウロによって最後のアダムとか、第二の人と呼ばれています。パウロは、キリストを最初の人類の代表者であったアダムと比較して論じています。
◆「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)
生かす御霊は、正確な訳ではないと思います。それは霊なるキリストと御霊が混同されてしまう訳になっているからです。正確には「生かす霊」となったです。つまり、御霊とは区別されて霊なるキリストがキリスト者の霊の中に宿り、そのキリスト者を生かす霊となっているのです。
2、キリストと全人類は一つ
ユダヤ人も日本人も中国人も韓国人も世界の全ての人々は約2000年昔に、父なる神さまの一方的な恵みの意志によってキリストに結び付けられ一体化されました。それはキリストが全人類の代表者として遣わされた事によります。全人類を包含する全人類を代表する者として創造された第1のアダムは、最後のアダムとして人となられたキリストのひな型として創造されましたので、原型である最後のアダムとしてキリストが2000年昔にユダヤのベツレヘムで誕生された時に、全人類はキリストに包含されたのです。
◆「アダムはきたるべき方のひな型です。」(ロマ5:14)
3、十字架で全人類の罪を背負ったキリスト
キリストは全人類の代表者であったので一人で全人類の罪を負い、身代わりに神の刑罰を受け、全人類のために永遠の罪の赦しの道を開くことが出来ました。又、キリストは何一つ罪を犯されず、地上の生涯を全うされましたので、イスラエル民族の罪と全人類の罪を背負って身代わりの刑罰を父なる神よりお受けになる事が出来ました。もし、キリストが思いにおいて、言葉において、行いにおいてひとつでも罪があれば、いくら人類の代表者であっても、人類の全ての罪の責任を引き受けて刑罰を受ける資格はありませんでした。
①キリストはイスラエルの民を罪(複数)から救う救い主
マタイによる福音書では、天使が、夫ヨセフに、マリヤが聖霊によって身ごもっている子は「イスラエルの民」を罪から救う救い主であるので、「イエス」と名付けるように命じました。日本語のイエスはギリシャ語ではイエスースですが、ヘブル語ではイェホーシュアと言います。
ヘブル語のイェホシュア(又はイエシュア)は、日本語訳では「ヨシュア」と訳されています。ヨシュアは「主は助ける」或いは「主は救い」と言う意味があります。イエス・キリストは、旧約聖書で約50回預言されている初臨のメシヤ(キリスト)として、イスラエルの救いの為に来臨されました。罪から救うというのは、イスラエル民族の犯した全ての罪がキリストに転嫁されて、キリストが身代わりの刑罰を受けて、罪とその責任からイスラエルを解放し、赦されることを意味しています。
②キリストは全人類を罪(複数)から救う救い主
もちろん、罪からの救いは、キリストを信じるイスラエルの人たちだけでなく、全ての信じる異邦人にも与えられる神の恵みです。キリストはユダヤ人の王という罪状書きで死にましたが、その罪状書きは当時の世界の主要なヘブル語、ラテン語、ギリシャ語の3つの国の言葉で書かれていたました。それによって、キリストは全人類の救い主だと聖書は教えています。
「INRI は、イエス・キリストの磔刑においてその十字架の上に掲げられた罪状書きの頭字語(ラテン語:IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM)である。日本語では「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と訳される」(ネット/ウイキペディアより)
◆「ヨハ19:2ギリシャで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。」
パウロも次のように教えています
◆「Ⅰテモ 2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」
ヨハネ第1の手紙2章や黙示録でも次のように教えられています。
◆「Ⅰヨハ 2:2 この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」。
◆「黙 1:5 また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、・・」
「黙 5:9 彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、・・」
キリストは、過去現在未来の全ての人の罪、あなたやわたしの全ての罪を背負って、十字架で身代わりの刑罰を受けて、罪を取り除き、罪の責任として負わされる神の裁きから永遠に解放して下さったのです。永遠にです。
◆「ヘブル 9:12 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」
◆「ヘブル 13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、キリストはご自身の永遠の契約の血によって私達を罪と罪の責任から永遠に解放し救って下さったので、それを神学的に「贖罪」と呼びます。贖罪の「贖う」という言葉の意味は、代価を払って買い戻すという意味があります。キリストは罪なきご自身の尊い血を代価として払って、私達を罪と罪の責任から、父なる神の赦しの愛の懐に買い戻して下さったのです。それ故に、キリストは次のように教えられました。 ◆「マタ 20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
パウロはコリントの教会の聖徒達が不道徳の罪から離れる事を願って、キリスト者がキリストの尊い血と言う犠牲によって贖い取られた事を強調的に教えました。
◆「Ⅰコリ 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
◆「Ⅰコリ 7:23 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。」
キリストの贖罪の御業を、バプテスマのヨハネやへブル人への手紙の著者は「罪を取り除く」と教えています。キリストの贖罪の御業は、人類が犯してきた全ての罪を完全に取り除き、消し去りまったくゼロにしたのです。
◆「ヨハ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
バプテスマのヨハネは、昔、イスラエルの人たちが、エジプトから解放される時に、鴨居と柱に塗られた子羊の血によって滅びの天使が過ぎ越し、エジプトから解放されたという、過ぎ越しの出来事という「ユダヤ的背景」に基づいて、キリストを「世の罪を取り除く神の子羊」と、呼びました。バプテスマのヨハネは、ユダヤ人が体験した過ぎ越しの子羊によるエジプトからの解放を、全人類の罪が取り除かれる為に犠牲となる神の小羊であるキリストによる救いの御業に適用をしたのです。パウロも、キリストを過ぎ越しの子羊と呼んでいます。
◆「Ⅰコリ 5:7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」
過ぎ越しの子羊として、キリストはユダヤの過越し祭の時に十字架で死なれましたが、へブル人への手紙では、モーセ律法の贖罪の御業と比較してキリストの贖罪の御業を教えています。
「ヘブル 9:26 もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」
へブル人への手紙の著者は、モーセ律法の贖罪の為に犠牲となった動物の血は、罪を覆う事は出来たが、取り除くことが出来なかったと教えています。
◆「ヘブル 10:4 雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。」 ◆「10:11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。」
モーセ律法による、罪の赦しは、動物の犠牲により、罪を取り除くことでなく、罪を覆われる事によって与えられた神の恵みでした。その恵みの幸いを詩篇でダビデが次のように歌っています。 ◆「詩 32:ダビデによる。マスキール。幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。」
レビ記23章27節で教えられている例祭の一つ、秋の祭りの「贖罪日」はヘブル語では「ヨーム ハッキッフーリーム」です。キッフーリームは複数形の名詞ですが、語源が「罪を覆う」とか「罪を赦す」と言う意味がある動詞の単数形「カーファル」と言われています。(ネット/牧師の書斎より)
モーセ律法の動物の犠牲により贖罪は、罪を覆うだけで、取り除く力はありませんでした。しかし。キリストが十字架で流された血は、罪を覆うのでなく、罪を完全に永遠に100%取り除く力ある血でした。それ故に、キリストの十字架の血による贖罪のみ業は永遠である事を、へブル書は強調して教えています。
◆「ヘブル9:12 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」
キリストの贖罪の完全性、永遠性を信じる時に、その人は、自分が罪なき者として、天の聖所にいます聖なる父なる神さまの御前にいつでもどこでも大胆に出て祈ることが出来るようになります。その事をヘブル人への手紙で次のように教えています。 ◆「ヘブル 10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」
キリストはユダヤ人と全人類の罪を十字架で取り除くという偉大な贖罪の御業をなされた神の子羊ですので、黙示録では、特にキリストを神の子羊として賛美し、「子羊」が34回も登場します。
◆「黙 5:6 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。」
他5:7、5:8、5:12 、5:13 6:1、6:3、6:5、 6:7、6:9、6:12 6:16 、6:17、7:9、7:10、7:14、7:17、8:1、12:11、13:8 13:11、14:1、14:4、14:10、15:3、17:14、19:7、19:9、21:9、21:14、21:23、21:27、22:1、22:3)。
4、キリストを信じた者は永遠に「義」と認められる
誰もがキリストを信じた時に、その人に、キリストの贖罪のみわざが適用されて、永遠に赦された者となります。永遠に罪赦された人を、パウロは神に義と認められ、神との平和の中につまり神さまとの生きた交わりの中に生かされていると教えています。
◆「ロマ 3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
◆「ロマ 3:28 人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」
◆「ロマ 4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。」
◆「ロマ 4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」
◆「ロマ5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
5,義と認められた人は神の怒りから永遠に解放された
キリストを信じて義とされた人は、神さまの三つの怒りから解放されている事をパウロは教えています。
「5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」
①肉体が死んだ時に霊が苦しみの「ハデス(陰府)」に落とされる
永遠に罪が赦されず、「義」と認められなった人に臨む大きな裁きの災いが伴う「神の怒り」は、3種類あります。一つ目は肉体が死んだ時の怒りです。その時、その人の霊は苦しみの「陰府」(ハデス)に落とされ、苦しみ続ける事になります。キリストはルカ6章19節~31節で、罪を赦されなかった金持ちが「陰府」で苦しんでいる事を実話として教えておられます。又、キリストはご自身をメシヤとして受け入れなったカペナウムの町の人々が神さまに裁かれて「陰府」に落とされる事をも預言されています。(参照:マタイ11:23)。
②「主の日」と呼ばれる7年の大艱難時代の苦しみに遭遇する
二つ目の神さまの怒りの時は、旧約聖書で預言者たちが繰り返し預言して来た「主の日」と裁きの時です。その日には、この地上に大災害が臨みますが。その大災害に不信仰な全てのユダヤ人と全ての異邦人が遭遇するのです。それが7年続きますので「7年の大艱難時代」と呼ばれています。この7年の大艱難時代は、イスラエルと人類の不信仰に対する神の怒りとして到来します。7年の大艱難時代の詳細は別に学ぶ必要がありますが、その時代には、自然が3分2破壊され、3分2の人が亡くなります。海に生き物がゼロになる事や、一タラント(約30キロ)もするような雹が降る事も預言されています。
◆「黙 16:3 第二の御使いが鉢の中身を海に注いだ。すると、海は死者の血のようになった。海の中にいる生き物はみな死んだ。」
◆「黙 16:21 また、一タラントほどの大きな雹が、天から人々の上に降った。この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。」
罪が赦され義と認められたキリスト者は、神の怒りの「主の日」から解放される為に、空中に来臨される主によって、永遠に朽ちない体に与って、天に引き上げられるのです。いわゆる「教会携挙」の中に全員が含まれているのです。それによって、7年の大艱難時代から救われるのです。
◆「Ⅰテサ4:16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、4:17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
③黙示録20章の最後の審判により火の池に投じられ永遠に苦しみ続ける
三つ目の神の怒りの時は、黙示録20章に預言されている最後の審判における神の怒りです。この最後の審判における神の怒りは、キリスト信じなった未信者のみの霊に対するものです。未信者の霊は苦しみの「陰府」(ハデス)とか、海に漂っており、また死に閉じ込められています。怒りを受けるそれらの未信者の人たちの霊は、肉体を着せられて真っ暗闇で熱のある「火の池」(ゲヘナ)に投じられます。火の池は熱あっても光が全くない暗闇です(参照:ユダ1:6,13)。その裁きの座には、キリストを信じて罪が赦され「義」と認められたキリスト者は誰一人もおりません。パウロは、全ての人は生まれながら神の怒りを受ける「怒りの子」と呼んでいますが、キリスト者はキリストを信じたという、その信仰によって「怒りの子」でなくなり、神と永遠に平和の愛の交わりの中に生きる「平和の子」となったのです。
◆「エペ2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」
◆「黙20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。20:14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」
6、日々犯す罪の赦しの道
以上のように、ユダヤ人と全人類の罪の赦しの為に十字架にかかって、身代わりの刑罰をお受け下さり、死んで葬られ、三日目に甦られたイエス・キリストを自分の救い主だと信じた、その人はその瞬間に永遠に一生涯において犯す全ての罪が赦され、永遠の義人と認められ、聖なる天の父なる神さまと、永遠にいつでもどこでもどんな時でも交わりが出来る者とされました。それが、罪の赦しの恵みの福音です。その恵みの福音に預かった者が、毎日の生活の中で罪を犯し、良心のとがめを負った時、どうすればその犯した罪が赦され、良心の呵責から解放されるのでしょうか。それは、その罪を心から詫びてすぐに父なる神さまに告白する事です。すると、父なる神はその告白された罪だけでなく、気づいていない一切の罪である「不義」をも、キリストの十字架の血によってすぐにお赦し下さるのです。すぐにです。第Ⅰヨハネ1章で次のように約束されています。
◆「Ⅰヨハ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
悪魔は、罪赦されたキリスト者が「平安」に生きる事を喜びませんので、罠を仕掛けてきます。例えば、とんでもない大きな罪を犯したとすれば、悪魔は次のようにそのキリスト者を誘惑します。あなたの犯した大きな罪は、神に「罪を告白しただけでは赦されない。もっと苦しみ、嘆き、涙を流して徹底して悔い改めなければならない。告白しただけで赦されるというのは甘すぎる。もっと苦しめ」と。その悪魔の誘惑の声に、多くのキリスト者かかってしまって、いつまでも良心の呵責を負ってしまい、憂鬱な日々を送るのです。良心の呵責が残っていると、それ見ろ、告白しただけでは赦されないだろう、と誘惑の声をかけて攻めてくるのです。真面目なクリスチャンは、その誘惑の声をまともに受け止めて、良心の呵責を持ち続けて、仕事していても、遊んでいても、礼拝に出ても、喜びが湧いてこないのです。その悪魔の罠から解放される道は、やはり聖書の約束のみ言葉にあります。私達が、犯すどんな恐ろしい罪も大きな罪もキリストが全部負って下さって、父なる神より身代わりの刑罰をお受け下さったので、すでに罪の償いは終わっています。それは、日々犯す罪の赦しの償いの為に何の善行も難行苦行も涙を流し続け苦しみ続ける必要も無くなったという事です。良心の呵責を覚える罪を心から悔い改めて父なる神さまに告白すれば、父なる神さまは、その罪が赦される為の償いの血をキリストが流されているので、その血に従って、直ちにおゆるし下さるのです。それが、神の正しさです。キリストの十字架でどんな罪も赦される為の償いをキリストがなされたのに、その罪を心から悔いて告白しているにも関わらず、父なる神さまが赦さず、何等かの難行苦行などの行いをお求めになれがれなければ、父なる神さまは「義」で亡くなっしまいます。それは絶対にあり得ないのです。父なる神さまの義は、罪を悔い改めて告白する者を、キリストの流された贖罪の血によって直ちに御赦し下さる事です。ですから、ヨハネは、罪を告白すれば、神は愛だから赦すとは約束即せず、「神は真実で正しい方ですから」その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます、と約束したのです。
私達は、自分の良心に呵責を覚える罪を父なる神さまに「告白」すれば、すぐに「神さまお赦し下さった事を感謝します」と、赦しを過去形で表現して赦しを受け入れた事を表明しましょう。「お赦し下さった事を感謝します」と言う告白が信仰です。その時、良心の呵責の余韻があっても、気にしないようにする事です。悪魔は、気にするように誘惑しますが、その時に、「悪魔よ、わたしはキリストの血の故に赦されたんだ」と告白しましょう。その告白には十字架の血の権威が伴いますので、悪魔は退散していきます。その、告白(証しのことば)によって私たちは、いつまでも良心の呵責で苦しむように誘惑する悪魔に勝利するのです。それが黙示録で次のように教えられています。
◆「黙12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(悪魔」に打ち勝った。」
罪を心から悔い改めて告白した後、「神さまお赦し下さった事を感謝します」という告白し、赦しを受け入れましょう。また、告白後、例え良心の呵責の余韻があっても気にしない事です。悪魔はその余韻を使って「あなたは赦されていない」と誘惑しますが、その悪魔に向かって、「悪魔よ、わたしは赦されたんだ」と告白し、後は神さまに委ね、罪意識の余韻、良心の呵責の余韻を気にしないようにしましょう。そうすれば、その信仰に聖霊が働き、聖霊によって「良心の呵責から解放されている平安」が、やがて自分の心を支配している事を体験するのです。
7、自分が傷付けたり、迷惑をかけた隣人にお詫びし、隣人から赦しを得る事
良心の呵責から解放される為に、もう一つ重要な事があります。それは自分が罪を犯して傷付けたり、迷惑をかけた隣人にその罪をお詫びする事です。隣人に対して良心の呵責を覚える罪を犯せば、できだけ早く謝罪をしましょう。また、償いを必要とする過失や罪を犯していれば、謝罪と共に償いしましょう。ヤコブ書で次のように教えられています。
◆「ヤコブ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」 隣人に罪をお詫びする事が必要な時は、神さまがそのようにお導きになりますので、そのお導きにプライドを捨てて素直に従いましょう。そうすれば、良心の呵責から解放されます。しかし、償いをし、謝罪をしても傷つけられた隣人は赦さないかもしれません。その時は、いつか「和解の時」が与えられる事を神さまに折りつつお委ねしておきましょう。そうすれば、聖霊によって良心の呵責から解放されます。
8、キリストの贖罪の血の権威(力)は三方向に向けられている
① 父なる神さまの愛と義が満足して人の罪を赦す為
イエス・キリストの十字架の血の権威(力)の方向は、先ず「父なる神さま」に向けられています。イエス・キリストの十字架の贖罪の為に流された血は、先ず、父なる神さまの愛と義が満足する為に流された血です。つまり、愛と義に満ちた父なる神さまが先ずに見て、ユダヤ人と人類の罪の赦しの為の唯一の尊い血として満足する為に流されたのです。
1)キリストを象徴する過ぎ越しの小羊の血は、神さまが見る為であった
すでに論じてきましたが、キリストは過越しの子羊と呼ばれています。昔、イスラエルはエジプトから解放される時に、子羊の血を家の鴨居と柱に塗っております。それは家の中にいる者が見るためでなく、神がそれを見て過越す為でした。そのように、キリストの十字架の贖罪の血は先ず神さまが見て、信じる人々に罪の赦しを確実に保証する為でした
◆「出12:7 ・・その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。・・・12:13あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」
2)モーセ律法の贖罪日に捧げる動物の血は、先ず、至聖所に臨在されている神さまが見る為であった
モーセ律法では、イスラエルの人々の一年間の罪が赦される為に、第7の10日の贖罪日に山羊の犠牲の血が流され、その血を大祭司が先ず至聖所の聖なる神さまが臨在されている「贖いのふた(贖罪所)」に血を塗る事が命じられています。
◆「レビ 16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。」
以上のも言葉は、イスラエルの民の罪が赦される為に、贖罪日に流される山羊の血は、先ず神が見る為に流された事が分かります。キリストの血も、天の聖所にいます父なる神が見る為に流されたのです。
◆「ヘブル 9:12 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」
3)新しい契約の成就として、先ず、神が見る為であった
キリストの十字架の死によって流された血は、最後の晩餐でキリストが制定された「聖餐式」における「新しい契約の血」でした。新しい契約の血と言うのは、預言者エレミヤを通して、イスラエル民族と神が結ばれた「罪の赦し」の為に流された血でした。神は、キリストが十字架で罪なき尊いを血をイスラエル民族の罪の赦しの為に流したのを見てキリストを信じるイスラエル人を赦してこられました。もちろん、キリストを信じる異邦人もその新しい契約のおこぼれに与っているのです。
◆「エレ31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。・・31:34・・・──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
◆「ルカ22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』・・・」。
キリストの十字架の血は、先ず、愛と義に満ちた神が見て満足されたので、ペテロは「尊い血」と呼んでいます。
◆「Ⅰペテ1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
②人が見て罪の赦しを信じる為に
キリストの十字架の血は、神の次には人が見て、罪の赦しを保証する神の約束を確信し、受け入れる為に、また、御子の為に万物との和解を受け入れる為に流されました。
◆「ロマ 3:25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。」
◆「エペ 1:7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな
◆「エペ 2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」
◆「コロ 1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」
◆「ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」
◆「ヘブル 10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
◆「ヘブル 13:12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」
③悪魔を退散させる為
キリストの十字架の血は、キリスト者の罪を取り上げて神さまが有罪とするように訴える悪魔の訴えを退ける為に流されました。キリストが天において、キリスト者が日々犯す罪の赦しの為のとりなしの祈りの時に、携え上げられた十字架の血を父なる神に示しながら、とりなしをされているので、父なる神様はそれ故に悪魔の訴えを退け退散させておられます。又、キリスト者は悪魔が神さまに訴えている自分の罪の赦しを得る為に、その罪の赦しの為に流されたキリストの贖いの血によって、告白した事で「赦された」と告白し、証しする時に、悪魔は退散するのです
◆「ヘブル 12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」
◆「ヘブル 7:25 したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」
◆「黙12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。 12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」
【終わりに】
日本の福音宣教の閉塞感が打ち破られ、福音宣教が前進する為に、日本のキリスト者が知っておかなければならない11の福音の内、今回はキリストの十字架の血による「罪の赦しによる信仰義認」と言う「恵みの福音」の解き明かしをさせて頂きました。既に、充分ご存知のキリスト者も多いと思いますが、まだ、充分にご存知で無かったキリスト者の兄弟姉妹方や、まだキリストを信じていない方々の為に役に立てば感謝です。読者の皆様に神さまの平安がありますように。次回の「めぐみの福音」の解き明かしを楽しみにして頂ければ感謝です。