「パウロのイスラエルへの愛⑧」
聖書:ロマ9章1節~5節
牧師:佐藤勝徳

【はじめに】
聖書には、神さまが愛するイスラエルを表す代名詞とか象徴的表現がいくつかあります。「ヤコブの泉」(申33:38)。「エシュルン(イスラエルの理想的姿を表す正しい者という意味)」(申命33:28)。「神の瞳」(ゼカリヤ2:8)。「神の妻」(ホセア2:16)。「永遠に愛されているもの」(エレミヤ31:3)。「高価で尊い者」(イザヤ43:4)。「主の証人としての主の僕(約22回)」(イザヤ43:4他)「聖なる民」「宝の民」(申命7:6))「祭司の王国」(出エ19:6)などです。以上の様に、罪に満ちた世界に創造主の神さまの祝福と恵みをもたらす神の僕として選ばれ、神さまから、ヤコブの泉、エシュルン、わが瞳、わが妻、わが祭司、わが民と呼ばれ、神さまから永遠に愛され続けているのです。神さまのイスラエルへの愛は永遠の愛であり無条件の愛ですので、例え彼らが神さまに反逆する民となって裁かれて苦しみにあっていたとしても、神さまはイスラエル民族すべてを捨てられる事は無いのです。また、その召しと賜物は永遠に変わらないのです。とパウロが以下のように教えています。

◆「ロマ11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。」
◆「ロマ11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。」以上の二つのみ言葉は、イスラエルはキリストを十字架につけて殺したので、選民としての資格を失い、イスラエルと結ばれた恵みの契約は全て、新しいイスラエルである教会に置き換えられたという、オリゲネスやアウグスチヌスが構築した「置換神学」の教えを完全に否定しています。

【新しい契約とは】
神がイスラエルと結ばれた、イスラエルのものである4つの無条件契約の中に「新しい契約」があります。それは預言者エレミヤを通して与えられたものです。                                                   ◆「エレ 31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」 以上のみ言葉から、新しい契約の条項が3つある事が分かります。
【新しい契約の条項】

1、神の律法がイスラエルの民の心に刻印される
1番目の契約条項は、神の律法イスラエルの民の心に刻印されて、永遠に律法がその心におかれるという事です。神の律法が心に刻印されると、その人は刻印された律法を守る事が出来るという意味がありますので、律法を刻印されたイスラル民族は全て神の律法を守る民族となるという約束です。

2、神がイスラエルの神となり、イスラエルが神の民となる
2番目の契約条項は、1番目の契約条項の成就の結果、神とイスラエルの相互の愛が深まり「神がイスラエルの神、イスラエルが神の民となる」という、神さまとイスラエルの民の交わりが永遠に途絶える事無く続く約束です。

3、神について誰からも教えられる必要がなくなる
3番目の契約条項は、1番目と2番目の契約条項の成就の結果、イスラエルの民は、誰からも神さまについて、教えを受けたり、伝えたりする必要が無くなるという事です。イスラエルの民は、幼い時から親からも、誰からも神さまについての教えを受ける必要がなくなるのです。イスラエルの民はメシヤ的王国で色々な教育は受けなければならないとしても、神さまについての教えは誰からも教えられる必要がなくなるのです。メシヤ的王国のイスラエルの民の高い道徳性や霊性は、詩篇等でも詳細に教えられています。

①高い道徳性
◆「詩 24:3 だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。 24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。 24:5 その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。 24:6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。」

※この詩篇では、メシヤ的王国の主の山に登って礼拝する、イスラエルの人々の道徳的高さが預言されています。

②高い霊性と一致性
◆「エゼ37:22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。 37:23 彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 37:24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。」                                                  ※エ※エゼキエルは、メシヤ的王国のイスラエルは復活したダビデ王を中心として、過去の古代のイスラエルの様に南と北に分裂したように二度と分裂することなく完全に一致して神様に忠実に仕える民となる事を預言しています。
イスラエルの高い霊性と道徳性に魅力を感じる異邦人
◆「ゼカ 8:23 万軍の【主】はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ』と言う。」
※ゼカリヤは、メシヤ的王国の祝福されたイスラエルの高い霊性と道徳性に魅力を感じ、10人の異邦人が1人のユダヤ人の裾を固くつかんで、自分たちをエルサレムに連れて行ってほしいと懇願すると預言しています。
④イスラエルが世界の支配者になる
◆「ダニ7:27 国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』  」                                   ※ダニエルは、メシヤ的王国では、高い霊性と道徳性を身に着けたイスラエルが、世界の諸国を支配する事を預言しています。このことは、申命記においても、主に従うイスラエルは、世界のリーダーになる事が約束されています。
◆「申 28:13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、【主】の命令に聞き従い、守り行うなら、【主】はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。

4、永遠の罪の赦し
新しい契約の4番目の契約条項は、イスラエル民族の過去の全ての罪が永遠に赦され、神は二度とイスラエル民族の罪を思い出さないという事です。

以上にお伝えしてましたメシヤ的王国のイスラエルに与えられた新しい契約による高い霊性と道徳性は、新しい契約の第4番目の条項である「永遠に罪が赦される」という契約があって初めて実現されるものです。

以上の、新しい契約を初め4イスラエルに与えられた4つの無条件契約が全て成就し、イスラエルの人々を祝福する為に、キリストは割礼のあるユダヤ人となって十字架でイスラエルと全人類の全ての罪を背負って、身代わりの刑罰をお受け下さったのです。パウロが次のように教えています。                                                      ◆「ロマ15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり・・・。」

5、新しい契約の一部にユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者は既に与っている

①聖餐式
キリストは、十字架におかかりになる前の夜に、ユダヤの過越し祭の食事の時に、聖餐式を制定されました。その時に、キリストは葡萄の杯を手にして次のように言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」と。この時、キリストはエレミヤが預言した「新しい契約」の罪の赦しの約束に基づいて、聖餐式を制定されています。キリストはエレミヤによって預言されている「新しい契約」は「わたしの血」によって成就する事を聖餐式の制定文で教えられたのです。

パウロは、その新しい契約の一部に、現在の多くのユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が与っているので、コリント人への手紙11章で、主の制定された聖餐式に基づいて聖餐式について教えています。「11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、 11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

現在の私達異邦人キリスト者は、イスラエルと結ばれた新しい契約のおこぼれに与っているのです。キリストが流された十字架の血は、イスラエルの人々の永遠の赦しだけでなく、キリストを信じる異邦人である私たちをも新しい契約に預からせて頂く為の血であったのです! キリストはイスラエルのキリスト者と異邦人キリスト者の永遠の罪の赦しの為に、十字架で罪の刑罰を身代わりに受けて罪なき尊い血を流されたのです。

②聖化の恵み
また、メシヤ的王国のイスラエルに約束された高い霊性と道徳性を、メシヤ的王国が実現する前の現在の時代においても体験できる為に、キリストは十字架で死に葬られ、三日目に甦り、天に昇り、天の父なる神の右の座に着座され、父なる神から聖霊の注ぎをお受けになったのです。その、キリストの一連の出来事に、イスラエルのキリスト者と異邦人キリスト者が全部共に預かっていると聖書は教えています。全てのキリスト者はキリストにあって「聖化の恵み」に既に与っているのです。その聖化の道を歩む為には、パウロは水のバプテスマの意義を教えています。                                                                       ③バプテスマ(水の洗礼式)の意味

パウロはロマ書6章で、キリストを信じているものがキリストに与る為に受ける「水のバプテスマ」の意義を教えています。

1)キリスト共に十字架で死に葬られた                                                    バプテスマの第1の意義は、バプテスマを受けた者はキリストの十字架の死と葬りに与る事です。2000年昔、キリストが人類の最後の代表者を意味する「最後のアダム」としてユダヤのベツレヘムにお生まれになった時に、全人類はキリストに包含させられました。キリストは全人類の罪だけでなく、ご自身に包含された全人類そのものを背負って十字架で死なれ、葬られました。罪に堕落した全人類は、キリストに包含されて、既にキリスト共に十字架で死に葬られたのです。その、神の救いの御業に聖霊によって諭された人が、初めて洗礼を申し出て、自分が2000年昔にキリスト共に十字架で死んで葬られたという歴史的救いの事実を、洗礼によって公に言い表す事によって、再び、個人的にそのキリストとの共同の死と葬りに与るのです。

◆「ロマ6:3 キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」

2)キリストと共に甦る
バプテスマの第2に意義は、2000年昔、キリストが甦られた時に共に甦った事を、バプテスマの水から上がった事によって公言し、再び個人的にそのキリストの復活に与り、キリストの復活の命によって歩む者とされる事です。
◆「ロマ6:4bキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」。

以上の、水のバプテスマの意義を正しく教えて「洗礼」に導く指導者がどれほどいるでしょうか。洗礼は、永遠の救いに与る為の保証でもなく、また、証明でもありません。永遠の救いに預かったキリスト者がエレミヤを通して約束されている「高い霊性」という「聖化」の道を歩むために、なされる聖なる礼典なのです。

④なぜ、キリストとの共同の死と葬りと復活が必要なのか
では、なぜ私たちはキリストとの共同の死と葬りと復活に与る必要があるのでしょうか。それは、古い人と呼ばれる生まれながらの人間と罪(アマルティア)の関係を知れば正しく理解できるようになります。

1)古い人と古い人を支配している罪(アマルティア)

2000年昔にキリストと共に十字架で死んだ私たちをパウロは「古い人」と呼んでいます。

◆「ロマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」。

◆「Ⅱコリ私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」
キリスト共に十字架につけられた古い人とはどういう人でしょうか。それは、アダムが罪に堕落した結果、アダムからの遺伝によって罪の性質を受け継ぐようになった人の事です。その古い人は、罪(アマルティア)の奴隷になっているとパウロは教えています。                                                                      ◆「ロマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」                              罪びとの私達を奴隷にしている罪というのは、数々の犯す多くの複数の罪の事でなく、多くの色々な罪を犯すように、古い人である私達に働いて貪欲を起こさせる悪の力、悪の原理、悪の法則の事です。パウロはそれを単数形の罪である「アマルティア」で言い表しているのです。その罪(アマルティア)は、アダムが罪に堕落した時に悪魔が世界に入り込ませたもので(ロマ5:12)、全ての人がアマルテイアに支配されて、恐ろしい罪の数々を犯していると、パウロは教えています。                                                                    ◆「ロマ 3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪(アマルティア)の下にあると責めたのです。 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」                      以上が、罪(アマルティア)に支配されている全人類の恐ろしい罪に堕落した実態なのです。人間の犯す恐ろしい罪は、全て貪欲から起こっているとヤコブは教えています。                                                ◆「1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みま。」                                                          肉体的に、物質的に貪欲に陥るのが、性欲、食欲、金銭欲、物質欲などの欲です。人から褒められたい,よく見られたいという精神的貪欲は、「承認の欲求」「称賛の欲求」から起こり、目に見えない創造主の神さまから褒められる事を求めないで人から褒められる事を求める事を意味しています。パウロはその事を次のように教えています。「【口語訳】ガラ1:10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」

肉体的貪欲と物質的貪欲と精神的貪欲を、生まれながらの人間である古い人に働いて持たせているのが単数形の罪である「アマルティア」なのです。                                                        2)古い人は罪(アマルティア)に絶対に勝てない

古い人の罪の性質というのは、単数形の罪(アマルテイア)の力によって「貪欲」を持つという傾向性の事を意味しています。それはちょうど、私達がどれほど頑張って意志の力を振り絞っても、引力の法則に勝てない事に似ています。私達の肉体は引力の法則に負ける命の性質があるように、私たちの肉体も心も、単数形の罪(アルティア)が持たせようとする貪欲を持たないように、どんなに意志の力を振り絞って頑張っても、持たないという事は出来ないのです。私達人間の持つ肉体的、物質的、精神的貪欲は、罪(アマルティア)の力に絶対に勝てない古い人によって大変自然に起こって来る現象なのです。

3)神さまの能動的な救いの御業
私達が、貪欲に打ち勝って、自然にキリストの様に愛と正義と聖さと謙遜に満ちて歩むという、非常に高い道徳性と非常に高い霊性に与るという、新しい契約を体験させるために、神さまは、生まれながらの古い人である私たち全人類を、最後のアダムと呼ばれる人類最後の代表者であるキリストに結び付けて下さったのです(Ⅰコリント15:45)。2000年昔に、ユダヤのベツレヘムにキリストがお生まれになった時に、全人類はそのキリストに結びつけられました。それは、人間の信仰や意志に関係なく、創造主の神がエレミヤを通してイスラエルと結ばれた「新しい契約」に基づく、恵みの意志によるのです。キリストがイスラエルと全人類の罪を負われたのも、その新しい契約に基づく恵みの意志であったのです。その救いの出来事は全て、神の能動的な恵みの意志によるものであり、人間側では全く受動的な神の救いの御業であるのです。2000年昔、結び付けられた古い人である全人類を、キリストは背負って十字架で死なれたのです。キリストが背負われたのは罪だけではありません。古い人をも背負って下さったのです。キリストが十字架で死んだときに、古い人である私も共に死んだのです。それは、神がなされた目に見えない歴史的霊的救いの御業なのです。それは、キリストの十字架の両サイドにそれぞれ強盗共が十字架につけられた死んだ事が歴史的事実であるように、それは歴史的霊的事実なのです。そして、キリストが葬られた時に、共に葬られたのです。又キリストが甦られた時に共に甦り、罪(アマルティア)の力に決して負けない新しい神の性質に預かったのです。それを、聖霊によって諭されたキリスト者が、その事実を認める信仰告白として、能動的にキリストに与るバプテスマを受け、自分はキリストと共に完全に死んだ事、キリストと共に完全に死んだので葬られる事、そして、キリストと共に勝利者になっている事を意味する、水のバプテスマ受けるのです。

4)信仰によって
今も私たちの目の前に実在する古い人という自分は、大変恐ろしい存在です。罪(アマルティア)によって貪欲を持たされた古い人は、それ故に、人を妬んだり恨んだり憎んだり殺意を持ったり、人を批判したり裁いたり悪口陰口を言ったり、不平不満を持ったり、自己中心になったりしています。そんな嫌な古い人である私は間違いなく自分の目の前に実在しているのです。しかし、同時に、霊的歴史的事実として。キリストにあっては2000年昔に十字架ですでに死んで、葬られ、甦り神の聖なる性質に満ち満ちて新しい自分にされているのです。水のバプテスマでその救いを能動的に証し、再び個人的にその救いに与りました。そのキリストにあっての霊的歴史的事実に、目を向け安んじましょう。その信仰に聖霊が働いて、そのキリストにある霊的歴史的事実を日々体験させて下さるのです。それが、エレミヤを通して神がイスラエルと結ばれた「新しい契約」のおこぼれに与っている事を意味しています。

【終わりに】
キリストは十字架の死と復活の御業によって、新しい契約である「永遠の罪の赦し」と、高い道徳性と高い霊性を身に着けて歩む「聖化の道」を備えて下さいました。その事に、まだ気が付かない多くの同胞のユダヤ人の霊的盲目に、パウロは心を痛め、彼らが、既に新しい契約の一部を実現されたキリストが、後に再臨されて、新しい契約の全てをイスラエルに成就される方であると信じる信仰に導かれるように、断腸の思いで祈ったのです。キリストを信じて、新しい契約の一部におこぼれとして与っている異邦人キリスト者である、私達もパウロに心を合わせて、神が目の瞳として、我妻として、わが宝の民として、エシュルンとして、ヤコブの泉として愛されているイスラエルの救いとエルサレムの平和の為に祈りましょう。

あなたが、預言者エレミヤを通してイスラエルに与えられた「新しい契約」の恵みに与る為に、キリストを信じる信仰に導かれますようにお祈りします。