パレスチナ問題の根源的、直接的、間接的原因Ⅳ
2024年8月18日
米子復活教会/鳥取復活教会牧師:佐藤勝徳
【初めに】
前回の緊急レポートでは、第2次中東戦争と第3次中東戦争の責任のある直接的な根源的原因は、イスラル国家の撲滅を掲げて戦争を始めた「アラブ諸国」にある事をお伝えしました。今回は「第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)と「第1次レバノン戦争(ガリラヤ平和作戦)の直接的で根源的原因についてレポートさせていただきます。
1、第4次中東戦争の概要
①ウイキペディアによる概要
「1973年10月6日、イスラエルにおけるユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」(贖罪の日、ヘブライ語: יום כיפור、英語: Yom Kippur)に当たったこの日、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河、ゴラン高原正面に展開するイスラエル国防軍(以下イスラエル軍)に対して攻撃を開始した。 「ヨム・キプール」の日に攻撃を受けた上、第三次中東戦争以来アラブ側の戦争能力を軽視していたイスラエルはアラブ側から奇襲を受け、かなりの苦戦を強いられたが、(イスラエル軍の主力である)予備役部隊が展開を完了すると、アメリカの支援等もあって戦局は次第にイスラエル優位に傾いていき、10月24日、国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵入していた。 純軍事的にみればイスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが、戦争初期にとはいえ第一次、第二次、第三次中東戦争でイスラエルに対し負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実は「イスラエル不敗の神話」(イスラエルはアラブ側に対して決して負けない)を崩壊させ、逆にイスラエルに対して対等な立場に着くことができたエジプトは1979年、エジプト・イスラエル平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された」
②世界史の窓の概要
ナセルに代わってエジプトの大統領となったサダトは、国号をエジプト=アラブ共和国に改めると共に、第3次中東戦争で奪われたシナイ半島などの奪還をめざし、軍備増強を密かに進めた。 1973年10月6日、エジプト軍はシナイ半島で、シリア軍はゴラン高原で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始、不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。エジプト大統領サダトの主導した奇襲作戦は成功を収め、中東戦争で初めてアラブ側が勝利を占めたかに見えた。しかし、ようやく体制を整えたイスラエル軍は反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。 アラブ側ではこの戦争を「十月戦争」または「ラマダン戦争」といい、イスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。
2、第4次中東戦争の直接的根源的原因
ウイキペディアも世界史の窓も、第3次中東戦争が停戦してから約6年後の1973年10月6日に起きた第4次中東戦争勃発の原因は、第3次中東戦争でイスラエルに占領されたシナイ半島などの奪回の為に、エジプト軍とシリア軍が、奇襲攻撃をした事だと教えています。第4次中東戦争の責任のある直接的原因は、エジプトとシリアの「アラブ側」にある事は明白です。エジプトとシリアは1967年の「6日戦争」で大敗を喫し、エジプトはシナイ半島という広い領土をとガザ地区をイスラエルに占領される羽目になり、シリアはゴラン高原を占領されました。ヨルダンは西岸地区を占領されたのです。停戦後、国連が「イスラエルとの平和的共存」を前提に、イスラエルに占領地を全部返還する事を決議しました。(国連決議252号)。それをイスラエルは受諾しましたが、アラブ諸国は否定し、アラブの首脳たちは三つのノー「イスラエルと和平せず、交渉せず、承認せず」で応答しました。つまり、イスラエルとの平和的共存の為ならば、イスラエルからの占領地返還をいらないと、自らイスラエルに占領された土地を放棄したのです。しかし、「占領地を奪い返す事」を諦めたのではありません。そのチャンスを虎視眈々と狙っていたのです。そのチャンスが1973年10月6日の日でした。1973年10月6日は、ユダヤ人にとっては非常に重要な「贖罪日(ヨム・キプール)」でした。イスラエル国民の過去1年の罪を神さまに赦して頂く為に、断食して罪を悔い改めたりする日でした。安息日の掟のように、全ての仕事を休む日でした。ネットの「イスラエル編集部」がユダヤ教の「贖罪日」について次のように教えています。
エジプトとシリアはユダヤ人にとって最も神聖な日とされ、ユダヤ人が最も油断している「贖罪日」に奇襲攻撃をすることに狙いを定めていたのです。この「ヨム・キプール戦争」も、単に占領地の奪回だけを狙ったものでなく、イスラエル国家の消滅とユダヤ人絶滅を狙ってアラブ人が起こした戦争だったのです。もし、この戦争で、アメリカの支援がなければ、イスラエルはアラブ連合軍に滅ぼされていたかもしれないのです。イスラエルの国防相であった「ダヤン」は「イスラエル崩壊の危機を感じ取り、深い落胆を見せ、テレビインタビューで「第3神殿(イスラエルの事)の崩壊」の可能性を話すつもりでいたが、ゴルダ・メイール首相にストップをかけられました。そのゴルダ・メイール(メイアともいう)首相は、アメリカのニクソン大統領にイスラエル崩壊寸前にある事を暗に示し、支援を要請したのです。・・イスラエルの兵士たちはダヤンが首相に発言した言葉――新生ユダヤ共和国という「第3神殿」が危機さらされている事態になっている――を耳にしたわけではないが、何もかも失うかもしれないと直感し、自分達の見ている前で、イスラエルを滅亡させるわけにはいかなかったので、厳しい状況の中、、逃亡も降伏もせず、戦線に踏みとどまり、軍を再編成し、戦略を改めて軍事的に優位に立つ事に成功したのです。(「イスラエル/民族復活の歴史」P300~308)
3、第3次中東戦争停戦(1967年6月)から第4次中東戦争が勃発する(1973年10月)までの紛争とテロ
①消耗戦争 (1969年~1970年)
第4次中東戦争が起きるまでに、1969年から約3年間、エジプトとイスラエルの間に「消耗戦争」が起きました。ウイキペディアで次のように教えています。「消耗戦争は、ユダヤ人とアラブ人の一連の武力紛争である中東戦争の内の一つで、第三次中東戦争後の1967年頃から1970年にかけてイスラエルとアラブ連合共和国(現在のエジプト)の間で勃発した武力紛争である。この戦いはイスラエルとエジプトの争いであるが、当時エジプトと友好国であったソビエト連邦(ソ連)の軍事顧問や、紛争後期にはソ連軍の戦闘部隊が直接参戦していた。なお、この紛争と同時期にパレスチナ解放機構(PLO)やそれを支援するヨルダンもイスラエルに対して攻撃を仕掛けていた。・・ この消耗戦争はアメリカ合衆国の仲介で停戦し、イスラエルとエジプト・ソ連連合軍の間で兵力引き離しが行われているが、第三次中東戦争でイスラエルが侵略したエジプトのシナイ半島やシリアのゴラン高原は両国に返還されなかったためアラブ世界の人々の反感は解決されず、3年後にはエジプトとシリアが同領土を取り返すためイスラエルを攻撃し、第4次中東戦争が勃発」
②1969年8月PFLPによるトランス・ワールド航空840便ハイジャック事件
1969年8月、パレスチナ解放機構(PLO)の下部組織であるパレスチナ解放人民戦線(PFLP)は、イスラエルのイツハク・ラビン(当時は国連特命全権大使)がトランス・ワールド航空40便(ローマ – アテネ – テルアビブ)に搭乗するという情報を掴んだ。29日、2人のハイジャック実行犯(サレーム・イサウィとライラ・カリド)は、ハイジャックを決行、しかしラビンは搭乗していなかった。ライラは840便の航路を変えさせ、シリアのダマスカス国際空港に着陸させた。乗客・乗員127名のうち、イスラエル人の2名を除く全員がそこで解放された。トランス・ワールド航空840便(ボーイング707型機)の機首部分は爆破された。同年12月、イスラエルは捕虜にしていたシリア人・エジプト人の71人の兵士の釈放と交換で2名の人質を解放させた。(ウイキペディアより)
③1970年スイス航空330便爆破事件(ウイキペディアとダニエル・ゴーディスより)
-概要と背景-
1970年2月21日、スイス航空330便はスイスのチューリッヒ空港からイスラエルのテルアビブを経由して、香港の啓徳国際空港に向かう定期便として予定されていた。使用機はコンベアCV-990コロナド(機体記号HB-ICD)で、38人の乗客と乗員9人合わせて47人が搭乗していた。離陸から9分後に、爆弾が航空機の後方の貨物コンパートメントで爆発した。操縦士は緊急着陸のために空港へ引き返そうとしたが、コックピットが煙のために計器を見るのも苦労する事態となり、さらには爆発による火災で電気ケーブルが焼損したために電力が喪失し、スイス航空機は西にますます逸れて、空港から25km離れた森林に時速780kmの高速で激突し、全員が犠牲になった。この時の事故機とチューリッヒ空港の管制室との会話は録音されており、330便の「こちら330便、墜落中…さようなら、皆さん」が最後の交信となった。 スイス史上最悪の飛行機爆破テロ事件について、パレスチナ過激派のPFLPが犯行声明を出した。これは同派テロリストがスイスで有罪判決を受けたことに対する報復として行ったものであり、爆弾の起爆に気圧の変化によって作動する気圧起爆装置IEDが使われた。これはイスラエル向けに発送される航空郵便の小包に隠されていたことが判明した。以上の爆破事件でイスラエル人が17人犠牲となりました。ダニエル・ゴーディスは、この爆破事件が起きた同日にパレスチナ人がミュンヘンの老人ホームを襲撃し、7人の年老いたユダヤ人が殺されたと報告しています。(「イスラエル/民族の復活の歴史」P293)
④1970年9月のPFLPによる旅客機5機同時ハイジャック事件
パレスチナ解放機構(PLO)の下部組織であるパレスチナ解放人民戦線(PFLP)は1970年9月に5機の旅客機に対する同時ハイジャック事件を起こしたが、その目的は、「反ユダヤ主義」による、イスラエル人への襲撃でした。その為にイスラエルのエル・アル航空機だけでなく、アメリカやスイスの航空機合わせて4機が同時にハイジャックされたのです。事件は、ヨーロッパ各国からニューヨークの国際空港ジョン・F・ケネディ空港に向かう時刻に発生しました。犯人たちは、ヨルダンのザルカ近郊の砂漠地帯に作られた「革命空港」に向かうように命じました。4機のハイジャックされた旅客機のうち、トランス・ワールド航空のボーイング707とスイス航空のダグラスDC-8に対するハイジャックは成功し、ヨルダン方面に行き先を無理やり変更され、6日中にPFLPの別動部隊が待ち受ける「革命空港」に強制着陸させられた。しかし、エル・アル航空のボーイング707においては、アムステルダム国際空港を出発して間もなく、犯人の稚拙な行動により、ハイジャック活動が行われることが事前に一部の乗客や客室乗務員らに感知された上に、ハイジャックを警戒して便乗していたイスラエルのスカイマーシャルが、客室乗務員からの通報を受けて2人のハイジャック犯のうち1人を射殺し、残る1人も飛行機の機内における銃撃戦の末に乗客や乗員らが取り押さえ、その後ロンドンのヒースロー空港に緊急着陸したことにより失敗に終わった。もう一機も失敗に終わっている。その後の9月9日には、バーレーン発ベイルート経由ロンドン行きの英国海外航空775便も同じくPFLP率いる犯人グループにハイジャックされて、他の2機と同じくヨルダンの「革命空港」に強制着陸させられ、乗客105人と乗員9人が人質にされた。(ウィキペディアより)
④1970年「黒い9月」の戦争/ヨルダン国とパレスチナ解放機構の戦い(アラブ人同士の戦い)
「1967年6月、第3次中東戦争でエジプトを主体とするアラブ軍はイスラエルに敗北し、パレスチナ人の居住地であるヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)とガザ地区、シナイ半島を占領され、多数のパレスチナ難民が生まれ、周辺のアラブ諸国に逃れた。この敗北はアラブ諸国に大きな衝撃を与え、パレスチナ難民の救済のためにはパレスチナの地を奪回しなければならないと言うことが共通の目的となった。1964年5月にエジプトのナセル大統領の支援の下に発足していたPLOでは、1969年2月に明確な武力闘争を掲げるファタハの指導者アラファトが議長に就任、ゲリラ戦術によるイスラエルに対する抵抗とパレスチナの解放を実力で勝ち取る路線へと転換した。
1970年にはPLOの各派のパレスチナ・ゲリラが旅客機4機をハイジャック、爆破するという事件を起こした。パレスチナ・ゲリラはヨルダンを基地に活動し、ヨルダンの王政を批判するようになったので、ヨルダンのフセイン国王はパレスチナ・ゲリラ基地の排除をねらい、1970年9月16日にPLOと戦闘を開始、ヨルダン内戦となった。このアラブ同士の争いを解決するためエジプトのナセル大統領が和平交渉を仲介しようとしたが彼自身が急死したため失敗に終わった。その結果、PLOはレバノンに逃れざるを得なくなり、この同じアラブ人であるヨルダン政府による弾圧をパレスチナ人は「黒い9月」といって嘆いた。(ネット世界史の窓より)
世界史の窓では、「・・・『パレスチナの難民の為にはパレスチナを奪回しなければ』として、PLOが組織されたと教えていますが、それは建前であって、PLOの本音は、イスラエル国家との平和的共存を否定し、パレスチナの地からイスラエル国家を滅ぼす事でした。その事についてダニエル・ゴーディスが次のように教えています。「PLOの正式名称は「パレスチナ人解放機構『』ではなく『パレスチナ解放機構』、つまり、組織の目標は民族の解放だけでなく、パレスチナという土地の解放でもあり、同地からユダヤ国家を抹消し、アラブ人の国を建国する事にある。その事はPLOの当初の憲章で明確にしている。(1964年版憲章第24条)。」(「イスラエル/民族復活の歴史]P287」
⑤PLOの下部組織PFLPなどのテロ活動の活発化
PLOは本拠地をレバノンのベイルートに移したが、そのころからPLO内部にも過激な集団が現れ、分裂と対立を繰り返しながらそれぞれ競うようにして、以前から行っていたテロ活動をより活発に展開した。PLOに所属する政治集団パレスチナ解放戦線(PFLP)に協力した日本赤軍は1972年5月にイスラエル・テルアビブ近郊のロッド空港で無差別銃撃事件を起こし、同年1972年9月には同じくPLOの主流派ファタハに属する「黒い9月」グループはミユンヘン・オリンピック襲撃事件を行い、その他にもドイツのバーダー=マインホフ=グループなど国際的なテロ組織が参加してハイジャックや空港襲撃を繰り返した。
1)1972年5月の日本赤軍のテルアビブ近郊のロット空港無差別銃撃事件(ウキペディアより)
1972年5月の日本赤軍のテルアビブ近郊のロット空港無差別銃撃事件はについて、ウイキペディアが詳細に報告しているので、全文を如何に記載します。それによって、テロ組織であるパレスチナ解放人民戦線「PFLP」の残虐さが理解できることでしょう。
≪テルアビブ近郊のロッド空港乱射事件≫
テルアビブ空港乱射事件・ロッド空港の虐殺は1972年5月30日にイスラエルのテルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で発生した、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の対外作戦部PFLP-EO)が計画し、当時「アラブ赤軍」などと自称した日本人政治活動家(後の日本赤軍)3名が実行したテロリズム事件。 プエルトリコ人(アメリカ合衆国籍)17人、イスラエル人8人、カナダ人1人の、計26人の民間人が殺害され、80人が重軽傷を負った無差別テロであった。
-事件の経緯-
サベナ機ハイジャックの失敗
1972年5月8日に、パレスチナ過激派テロリスト4人が、ベルギーのブリュッセル発テルアビブ行きのサベナ航空のボーイング707型機をハイジャックしてロッド国際空港に着陸させ、逮捕されている仲間317人の解放をイスラエル政府に要求した(サベナ航空572便ハイジャック事件)。しかし、イスラエル政府はテロリストによる要求を拒否し、ハイジャックしているテロリストを制圧し、犯人のうち2人は射殺され、残る2人も逮捕された。93人の人質の解放に成功したものの、乗客1人が銃撃戦で死亡した。
PFLPと日本赤軍派の協力
そこで、PLOの組織であるパレスチナ解放人民戦線(PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは赤軍派の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。 なお本事件は一般に「日本赤軍による事件」と呼ばれることが多い。しかし、正確には「日本赤軍の前史」ともいえるが、日本人グループはPFLPへの国際義勇兵として参加したもので、当時は独立した組織との認識は共有されていなかった。自称も「アラブ赤軍」「赤軍派アラブ委員会」「革命赤軍」「レッドスターアーミー」(岡本公三)等であり、「日本赤軍」との呼称が登場するのは事件発生後で、組織としての公式な名称変更は1974年である。 犯行を実行したのは、赤軍派幹部の奥平剛士(当時27歳)と、京都大学の学生だった安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生だった岡本公三(当時25歳)の3名である。 フランスのパリ発ローマ経由のエールフランス機でロッド国際空港に着いた3人は、スーツケースから取り出したVz 58自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別に乱射した。 乱射後、岡本は飛行場に飛び出すとイスラエル航空機に向けて自動小銃を数発発射、続いてスカンジナビア航空機のエンジンに手榴弾2発を投げつけた後、畑の方向へ走って逃走を始めた。ロッド空港職員クロード・シャナン・ゼイトゥンは、武器を持たなかったが、岡本を追いかけ、200-300m逃げたところで、岡本が持っていた自動小銃を弾き飛ばし、彼を逮捕した。岡本が拘束された一方、奥平と安田は死亡した。2人の死について、「奥平は警備隊の反撃で射殺。安田は手榴弾で自爆した」として中東の過激派の間では英雄化された。
この無差別乱射により、乗降客を中心に26人が殺害され、80人が重軽傷を負った。死者のうち17人が巡礼目的のプエルトリコ人(アメリカ合衆国籍)、8人がイスラエル人、1人はカナダ人であった。教会が企画したプエルトリコの巡礼ツアー参加者は、巡礼のために長年お金を貯めてきた。そのうちの一人カルメロ・カルデロン=モリーナは、妊娠中の女性に弾丸が当たらないように、自分の体を盾にして守り、殺害された。11歳のアダム・ザミールは親戚を出迎えているときに殺害された。 犠牲者の中には、後にイスラエルの大統領となるエフライム・カツィールの兄で著名な科学者だったアーロン・カツィールも含まれている。
イスラエルのテルアビブの近くにあったロッド空港乱射事件で現在も日本の警察から国際手配を受けている岡本公三は、現在はレバノンで生存しています。その岡本公三についてウキペディアは次のように教えています。(要約しています)「イスラエル政府は当初は岡本公三に対して死刑求刑を検討していたが、最終的に終身刑が求刑され、終身刑が判決として確定した後に服役。1985年5月にイスラエルとPFLP-GCとの捕虜交換により釈放。リビア・シリアを経由して、日本赤軍が本拠地としていたレバノンに戻り合流した。その後、1997年にレバノンに潜伏していた岡本を含む日本赤軍メンバー5人が検挙され、禁固3年の判決が確定し、2000年3月出所。岡本以外の4人は禁固刑の執行後、日本に送還された。しかし、岡本についてはイスラエルと対立するレバノン政府は岡本の政治亡命を認めた。 2000年3月2日に報道陣の前でイスラム教に改宗する。2002年に、テレビ朝日の報道番組「ザ・スクープ」が、レバノンに潜伏中であった岡本の独占取材を実施、潜伏先住居内でインタビューを行っている。その中で、被害者への謝罪らしき言葉を述べているが、2001年に壊滅した日本赤軍がまだ存在しているか否かについては、把握できていない様子だった。その一方で、「まだ事件当時の24歳のままの気持ちである」とも語っている。 現時点で、PFLP、ヒズボラなどイスラエルと敵対する勢力の庇護を受けてレバノンのベイルート郊外のアパートに在住している。2010年4月28日に、ベイルートの奥平剛士の墓前で行われた日本のロックバンド、頭脳警察のメンバーPANTAによる追悼ライブに姿を見せた。 2016年5月14日、滞在先のベイルートで共同通信の取材に応じ、パレスチナに骨をうずめたいと語り、死者の多くがプエルトリコ人だったことに「犠牲者には哀悼の意を表したい」と謝罪の言葉を口にした。2017年4月下旬、ベイルートで毎日新聞の取材に応じ、・・「事件はテロではなく、PFLPと共同で起こした武装闘争だった。武装闘争は今も昔も最高のプロパガンダになる。」と語り、自らのテロ行為への反省と謝罪について何も答えなかった。岡本を保護しているPFLPは「日本のメディアの本格的な取材に応じるのはおそらくこれが最後」としている。パレスチナ側の支援組織が「岡本が死ぬまで面倒を見る」という姿勢を堅持している。 2022年5月30日、レバノンの首都ベイルートにて開催されたテルアビブ空港乱射事件から50周年を記念する集会に支援者に付き添われ参加した。また、東京都内でも岡本公三の支援団体による集会が開催され、約100人が参加した。 2022年5月31日 在日イスラエル大使は、以下の内容をツイッター上に投稿した。 『1972年にロッド空港で発生した乱射事件から50年を記念する集会に参加した岡本公三容疑者、および先週末出所した重信房子元最高幹部が温かく迎えられる姿を見て愕然としました。』」
日本の赤軍派の若者たちによる「ロッド空港乱射事件」の背後にあるのは、「反ユダヤ主義」です。「反ユダヤ主義」こそが「パレスチナ問題」の根源的原因です。 ウイキペディアが教えるように、現在レバノンに在住している乱射事件の犯人の一人である岡本公三は 「反ユダヤ主義」の思想を76歳の高齢になっても持ち続け、同じ「反ユダヤ主義」を持つ日本人とパレスチナ人から「英雄視」されているのです。PLOのテロ集団を初め、アラブの「反ユダヤ主義者」は、世界と一緒になってユダヤ人撲滅を常に模索しているのです。その一つの証拠が、日本の若者3人を扇動して「ロッド空港襲撃事件」を起こさせ、生存している岡本公三を今なお英雄視している事です。この点について飯山陽氏が2024年1月1日に発行した著書、「ハマス・パレスチナ・イスラエル(メディアが隠す事実)」で次のように教えています。「パレスチナ解放戦線PFLPは今も岡本を匿い、彼を軍神の如く崇めています。・・PFLPは日本赤軍が殺戮した多数のプエルトルコ人について、あんな奴らはイスラエルの占領の片棒を担ぐ仲間だとレッテル貼りし、死んで当然だと豪語した。‥パレスチナ建国の為には、占領者イスラエルを殲滅しなければならない。その為一人ひとりが戦い、イスラエル人を殺さねばならないという思想を正しいと信じる人にとっては岡本も重信(日本赤軍最高幹部の重信房子)もテロリストではない。「抵抗の戦士」なのです。(P276~279)
2)1972年9月の「ミユンヘン・オリンピック襲撃事件」 (ウイキペディアより)
1972年9月にドイツのミユンヘンで開催されたオリンピックの時に、PLOの一組織のテログループで「黒い9月」と称するファタハが、イスラエルのオリンピック選手を自動小銃などで襲撃し、イスラエルのアスリート11名が殺害される事件が起きました。その事件について、ウキペディアが以下の通りに詳細に教えています。 -事 件 発 生-
「1972年8月26日から9月11日にかけて開催されていたオリンピックの選手村に、9月5日4時40分頃[、パレスチナのテロリスト組織「黒い九月」のメンバー8名が敷地のフェンスを乗り越えて侵入した。この時、彼らがフェンスを乗り越えるのを目撃している警備員がいたが、リュックサックを背負っていたこともあり、夜間に外出した選手達が人目を忍んで戻ってきただけだと思い、気に留めなかったという。イスラエル選手団の宿舎を発見したメンバーは、持ち込んだAK-47等の自動小銃や手榴弾などで武装・覆面した上で、午前4時頃に選手村内のイスラエル選手団宿舎へ突入した。犯人グループは上階のイスラエル選手団居住フロアに侵入、ウェイトリフティング選手のユセフ・ロマーノとレスリングコーチのモシェ・ワインバーグの2名が抵抗したことから殺害し、死亡したワインバーグを庭先に放置したのち、9名を人質に取った。なお、この襲撃時にレスリング選手だったガド・ツォバリが窓から脱出しており、彼が一時拘束された中での唯一の生存者である。 午前5時30分頃、巡回していた警察官がワインバーグの遺体を発見する。その際に立てこもる『黒い九月』側に気づき、事件が発覚した。『黒い九月』の占拠部隊は、宿舎から2ページの宣言文からなる犯行声明を警察側へ投げ入れ、イスラエルに収監されているパレスチナ人のほか、日本赤軍の岡本公三やドイツ国内で収監中のドイツ赤軍幹部など234名を午前9時までに解放するよう要求した。この事件は、午前6時20分にはテレビの生中継で報道が始まり、事件の最後まで実況中継されることとなる。」
-交 渉-
「地元警察は、やむを得ず時間稼ぎのため交渉を行うことにした。午前8時45分頃、ミュンヘン警察本部長はオリンピック関係者2人とともに玄関先で占拠部隊のリーダーと交渉を行い、まだイスラエル当局と協議中であることにし、期限を午後0時にまで延長させた。ただし、解放されなければ人質2人を射殺する条件であった。西ドイツは、事件発覚直後からイスラエルとの交渉を開始していたが、イスラエルの首相ゴルダ・メイアはこの要求を拒否するとともに、イスラエル国防軍部隊による事態解決を西ドイツに打診するが、西ドイツの法律は外国軍の国内での活動を制限していたこともあり、西ドイツ側は自国で対応するとして拒否した。 これにより、西ドイツ当局は交渉による解決を一切断念することに追い込まれ、武力のみの解決を強要されることになった。しかし、この時点では当局側は占拠部隊の正確な人数を把握していなかったため、「イスラエルと交渉中である」と騙し何度も期限延長させていた。 午後5時頃、当局側はオリンピック関係者を人質の確認と称して宿舎へ潜入させることに成功した。このオリンピック関係者がそのとき見た占拠部隊のメンバーの人数は5人であることから、当局側は5人と断定して突入の準備を行い、地元警察側に突入部隊を編成して突入直前までいったが、テレビやラジオで実況中継されていたため、テレビを見ていた占拠部隊に気がつかれてしまい中止することになった。 その後、交渉が行なわれ、占拠部隊は飛行機でエジプトの首都カイロへ脱出することを要求し、当局はそれに合意した。午後10時ごろ、占拠部隊と人質は宿舎の地下から当局が用意したバスで宿舎から200m離れた草地へ移動、そこから2機のヘリコプターで空港まで行き、その後は用意された飛行機に乗り移って国外に脱出する手筈であった。だがこれは表向きの話で、実際はバスでの移動途中、もしくは空港で犯人グループを狙撃し、人質を解放する計画であった。」 -終 結-
午後10時30分、占拠部隊と人質を乗せたヘリコプターがフュルステンフェルトブルック空軍基地に着陸した。基地には、占拠部隊を狙撃するために警察官が待ち構えていた。狙撃する警察官は軽装で、H&K G3自動小銃の一般警察用モデルを使用し、管制塔バルコニーに3人と滑走路上に2人が向かい合うように配置されていた。 占拠部隊のリーダーと副リーダーは安全の確認のために、用意されたルフトハンザドイツ航空のボーイング727へ入った。事前の計画では機内に警察官を配置して待ち伏せを行う予定であったが、機内には誰もおらず、2名は案内役すらいないことを不審に思い、ヘリコプターへ走って逃げ戻った。その時、滑走路上の狙撃手の1人が発砲し、副リーダーは太ももを負傷したが、リーダーがヘリコプターまでたどり着き、警官側に応射した。これに対し警官側も応戦を始め、銃撃戦になった。 占拠部隊はヘリコプターに立てこもり、狙撃手として配置されていた警官隊は装備が不十分なため応援部隊を待つことにした。空港周辺に詰めかけたマスコミと野次馬による交通渋滞に阻まれて到着が大幅に遅れた応援部隊は、事態がほぼ収束した午後11時30分頃、ようやく現場に到着した。 最終的に、ゲリラの1人が手投げ弾で自爆し、人質が乗ったヘリコプターが爆発、炎上した。人質たちは、両手を後ろ手に縛られ、目隠しのまま、数珠つなぎにされていたため逃げることができなかった。結果的に人質9名全員と警察官1名が死亡するなどという最悪の結末で事件は終結した。犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名は逃走を図るが、その後、逮捕された。だがこの3名は同年10月29日のルフトハンザ航空615便ハイジャック事件で解放されることになる。
以上の、「ミユンヘン・オリンピック襲撃事件」について、ダニエル・ゴーディスは次のように見解を述べています。「最も悪名高いテロ事件は、1972年9月のミユンヘン・オリンピックの襲撃であろう。パレスチナ武装組織「黒い9月」のテロリストたちが、オリンピック村のイスラエル人用宿泊区域に乗り込み、イスラエル人選手を人質にした。ドイツの特殊部隊は人質解放に失敗し、銃撃戦の末、イスラエルの選手11人が死亡した。イスラエル国民の頭によぎったのは、ナチスによる大虐殺から30年――テレビに映るこの戦慄的な事件を世界中が見守る中、よりによってドイツでユダヤ人の血が流されたことだった」。(「イスラエル/民族復活の歴史」P323~324)
3)1972年 10月29日のルフトハンザ航空615便ハイジャック事件
-概要- (百科事典、科学ニュース、研究レビュー序章より)
ルフトハンザ615便ハイジャック事件は、1972年10月29に西ドイツの刑務所からミュンヘン虐殺の生存犯人3人(PLOの一組織のテログループで「黒い9月」)の釈放を目的として発生した航空機ハイジャック事件である。 ルフトハンザドイツ航空の旅客機がダマスカス発フランクフルト行き複数経由便のベイルート〜アンカラ区間で「黒い九月」組織の支持者らに拿捕されたとき、西ドイツ当局は捕虜の釈放要求に応じた。彼らはザグレブ空港で引き渡され、ハイジャックされた飛行機はトリポリに飛ばされ、人質全員が解放された。釈放されたミュンヘン襲撃犯らはリビアの指導者ムアンマル・カダフィ大佐から亡命を認められた。 西ドイツ政府はこの行動に対してイスラエルや他の国々から批判された。
4、1973年10月6日~1977年10月13日までのパレスチナ人によるハイジャック事件
1)1973年12月17日パンアメリカン航空110便ハイジャック事件
-概要-(百科事典、科学ニュース、研究レビュー/序章より)
1973年12月17日、パレスチナのテロ組織がイタリアのローマのフィウミチーノ空港を皮切りに一連の攻撃を行い、34人が死亡した。攻撃は空港ターミナルへの侵入と人質取りで始まり、パンナム機への焼夷弾爆撃、ルフトハンザ機のハイジャックと続いた。 パンナム航空110便はイタリアのローマを出発し、レバノンのベイルートを経由してイランのテヘランに到着する予定だった。 1973年12月17日、離陸直前に空港ターミナルと航空機が攻撃され、武装したパレスチナ人武装集団によって航空機に放火され、航空機に乗っていた30人、ターミナル内で2人が死亡した。 。攻撃後、武装集団はルフトハンザ303便をハイジャックし、さらに2人を殺害した。彼らは最終的にクウェート当局に拘束された。
2)1977年10月13日ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件
-概要-(ウキペディアより)
1977年10月13日、スペインのパルマ・デ・マヨルカ空港から西ドイツのフランクフルト空港に向かう予定だったルフトハンザ航空181便(ボーイング737-200型機)が、マヨルカ空港離陸後にドイツ赤軍(RAF)と共闘するパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のメンバー4人(男女それぞれ2名ずつ)によりハイジャックされた。ハイジャック後、181便は中東各地を転々とし、途中の南イエメン・アデンにおいて機長が殺害されるという悲劇の後、最終的にソマリアのモガディシュにあるモガディシュ国際空港に着陸していたが、そこにソマリア政府との交渉で投入の承認を受けた西ドイツ国境警備隊(当時。現連邦警察)の対テロ特殊部隊「GSG-9」が突入したことで解決された。本事件においてGSG-9は181便への突入僅か5分でハイジャック犯4人のうち3人を射殺・1人を逮捕して人質全員を救出、GSG-9隊員1名とスチュワーデス1名がそれぞれ軽傷を負っただけで事件を解決することに成功した。
5、三つのノーがもたらした混乱とPLOのアラファトの登場
1967年の6日戦争にイスラエルに敗北したアラブ諸国(エジプト、シリア、ヨルダン)は、国連が提示した、イスラエルとの平和を条件に、イスラエルが占領したゴラン高原、西岸地区(東エルサレムを含む)、ガザ地区から、イスラエルが撤退するという事を拒否し、「イスラエルと平和を結ばず、イスラエルを承認せず、イスラエルと交渉せず」の三つのノーで応答しました。その結果、西岸地区とガザ地区はイスラエルの占領が事実上続くこととなったのです。しかし、国連はそれを良しとしなかったのです。そこでヨルダンは、ガザ地区、西岸地区をパレスチナ解放機構(PLO)による自治を提案し、それを国連もイスラエルも承認する結果となりました。その承認を受けたPLOが、結果として「パレスチナ問題」をより混乱させる結果を生み、第4次中東戦争勃発までの間に、多くの事件を引き起こしてきたのです。そのPLOの指導者がヤセル・アラファトでした。彼は、エジプトのナセル統領から注目され、パレスチナ問題の全権を委任され、ナセルの支援により「パレスチナの指導者」に迎えられて1969年にPLOの議長としてパレスチナ解放運動の指導者に立つこととなったのです。その彼の指導により、以下の通りに世界各地でテロが頻発しました。それは、世界の目を「パレスチナ」に向けさせ、世界と一緒になって「ユダヤ人」をパレスチナの地から追放し、絶滅させ、パレスチナの地にアラブ国家を樹立する事を目論んでいたのです。そのアラファトの野望についてダニエル・ゴーディスが以下のように教えています。 「1950年代の後半、ヤセル・アラファトはパレスチナ民族解放運動「ファタハ」を結成した。・・1968年、ファタハはパレスチナ解放機構に加盟する。ファタハはすぐPLOの中で有力な存在となり、アラファトが権力を掌握した。影響を受けたのはイスラエルだけではない。事実、PLOは国際テロ組織を立ち上げ、全世界を不安定にしてしまった。イスラエルでは、ユダヤ人とアラブの2民族が共存できるように、占領地を譲渡すべきだと主張する声が上がったが、PLOは妥協するつもりは全くなかった。シオニズムに対する姿勢はPLO憲章に謳われている。
――シオニズムは、当初から植民地主義の運動であり、その目的において侵略的で拡張主義、その構成においては人種主義と差別主義、その手段と目標においてはファシストのそれである。イスラエルは、破壊的な運動の急先鋒かつ植民地主義の柱であり、特に、中東、広くは国際社会の緊張と混乱の恒久的な源泉である――
ファタハはPLOを乗っ取り、国際的に有名になったアラファトはその議長になった。事実上、ヤセル・アラファトはパレスチナ人の政治指導者になっていた」。(「イスラエル/民族復活の歴史」P285~286)
ファタハの指導者からPLOの指導者になったアラファトの登場により、世界を舞台にイスラエルに対するテロ活動が活発になり、パレスチナ問題がより混迷を深めて行きました。アラファトが率いるPLOとその下部組織「PFLP(パレスチナ人民解放戦線」、「黒い9月」が起こしたテロや紛争事件を1の②以降に既述しましたが、以下に再度箇条書きで再度お伝えしておきます。 ①1969年8月PFLPによるトランス・ワールド航空840便ハイジャック事件
②1970年2月21日PFLPによるスイス航空330便爆破事件
③1970年2月21日パレスチナ人によるミユンヘン老人ホーム襲撃事件
④1970年9月のPFLPによる旅客機5機同時ハイジャク事件
⑤1970年「黒い9月」の戦争/ヨルダン国とPLOとの戦い。PLOはパレスチナからレバノンに逃亡
⑥1972年5月、PFLPの要望に応じて日本の若者3人(後に赤軍と呼ばれる)が実行した、テルアビブ近郊のロット空港無差別銃撃事件 ⑦1972年9月のPLOの下部組織「黒い9月」と称するファタハによる「ミユンヘン・オリンピック襲撃事件」 ⑧1973年12月17日パレスチナのテロリストによるパンアメリカン航空110便ハイジャック事件
⑨1977年10月13日PFLPによるルフトハンザ航空181便ハイジャック事件
アラファトが率いるPLOのテロリストたちによる、数多くのテロ事件により、アラファトは国際的な非難を受けるようになりましたが、アラファトの作戦は成功したのです。パレスチナの民族運動が国際的な関心事となり、外交面でイスラエルを追い込んだのです。(ダニエル・ゴーディス著「イスラエル/民族復活の歴史」P293)。
アラン・ダーショウイッツも次のように述べています。「しかしながら、パレスチナ人のテロリズムは、パレスチナ人の苦悩を世界に知らせるという意味では、成功であった。民族憲章でうたっているように、彼らはイスラエル壊滅とユダヤ人の追放を求めている。道義の観点からすると、彼らの要求は、チベットやクルド民族或いはバスクのような国家なき非占領民と比べると、はるかに説得力に欠けている。しかし、世界に股にかけたPLOのテロリズムのおかげで、他の人々の差し迫った苦痛を一気に飛び越して、パレスチナ人の方を前面に押し出した。パレスチナ人テロリストは、1968年から1990年までの間に一般住民を数千人殺した。海外旅行中の人、ヨーロッパ各地のシナゴーグで礼拝中の人、オリンピック選手団、保育園の子どもたち、外交官、キリスト教徒の巡礼者が犠牲になった。彼らは旅客機を爆破し、ショッピングモールに爆弾を仕掛けた。或いは子どもたちに手榴弾を投げ、実業家に手紙爆弾を送った。或いは、巡行客船をハイジャックし、車イスの乗客を海中に投げ込んで殺した。これは、全て戦争犯罪であり、国際法違反であるにも関わらず、国際社会、特に国連は、グローバルなテロをやらない国家なき集団を押しやって、PLOに繰り返し論功行賞を行い、様々な特権を与えた。‥パレスチナテロが一般市民を残虐かつ大量に殺害すればするほど、外交上の認知を国連から与えられ、その認知度が高まった事がよくわかる。国連は、国のない集団がいくらかある中で、テロの規模と程度共に群を抜くPLOだけを選び、国連の特別オブザーバーの地位と外交特権を与えた。そのパレスチナ側とPLOは国連の分割決議を拒否し、国連加盟国であるイスラエルの存在を否定し、国連安保理決議242を拒否したのである。そして、パレスチナ全域の支配とユダヤ人大量を追放を要求している。PLOが要求を通す手段として、テロリズムを中心に据えるのは、少しも不思議ではない。テロリズムは国連ばかりか、ヨーロッパの各首都やバチカン、一部の大学教授あるいはオピニオンリーダ―にも有効である」(著書「ケース・フォー・イスラエル」P135~136)
4、1982年6月6日、第1次レバノン戦争(ガリラヤ平和戦争)の勃発とその原因
①レバノンに拠点を移動したPLO
1982年6月6日に第1次レバノン戦争が勃発しましたが、その戦争の原因の第1は、イスラエルとの平和的共存を拒否しているアラファト議長が率いるPLOが拠点をレバノンに移していた事です。1970年「黒い9月」の戦争と呼ばれるアラブ人同士の戦争で、ヨルダン国と戦ったPLOはパレスチナからレバノンに逃亡し、拠点を「レバノン」に置き活動を始めるようになりました。その、アラファトのPLOがイスラエルの市民を狙ってロケット弾を撃ち込み始め、それが日常茶飯事になり、イスラエル市民は防空シェルターに逃げる日々が多くなり、イスラエルの子どもたちは怯えながら幾晩も過ごすようになったのです。1982年の時点では、レバノン南部では15000人以上のパレスチナ人ゲリラが活動をしていました。そうした中、「イスラエル史上最悪のテロ攻撃」と呼ばれるテロが起きました。それは1978年3月11日起きました。パレスチナのテロリスト集団が海からイスラエルに上陸し、海岸沿いをハイファに向かって走っていたバスを乗っ取り、イスラエル人38人を殺害し、71人に負傷を負わせたのです。このテロに対する応酬として、イスラエルはPLOを攻撃するためにレバノンに侵攻しました。それは「リタニ作戦」と呼ばれ、レバノンへの第1回電撃作戦でした。しかし、その時点ではまだレバノン戦争とは呼ばれていませんでした。(イスラエル/民族復活の歴史)P325~326) アラファトが率いるPLOがレバノンに拠点を置いたころから、レバノンはキリスト教の武装組織マロン派と、PLOとの内戦が始まり、その内戦でPLOはレバノンに拠点を置くことを更に強固なものとしたのです。このことについて、ハマスの息子で元テロリストであったモサブ・ハッサン・ユーセフが彼の著書「ハマスVSイスラエル(何が彼らを争いに掻き立てるのか?!)」で次のように証言しています。「その新しい拠点から,PLOはイスラエルに対いして「消耗戦」を仕掛けた。ベイルートのレバノン政府は,PLOのイスラエル北部への終りの見えない砲撃やミサイルの攻撃をとめさせるには、弱すぎた。そして、1982年、イスラエルは4か月にわたる武力作戦の後、PLOを追放してレバノンに侵入した。アラファトと生き残った1000人の戦闘員は、チュニジアへと追放された。しかし、そこからもPLOはイスラエルへの攻撃を開始し、ヨルダン川西岸とガザの軍の戦闘員を招集し続けた。(同署P362~363)
②1978年のキャンプ・デービッド合意に強く反対したPLO レバノン戦争のもう一つの原因は、1978年のキャンプ・デービッド合意と呼ばれる「エジプトとイスラエルの和平交渉」にアラブ諸国とパレスチナが強く反対した事でした。ネットの世界史の窓で次のように教えられています。「1978年、米大統領カーターが仲介し成立した、エジプトとイスラエルの和平、国交樹立の合意。1978年9月17日、アメリカ大統領カーターの別荘キャンプ=デービッドで、エジプトのサダト大統領と、イスラエルのベギン首相が会談、12日間にわたる協議の結果、エジプトはイスラエルを承認し、国交を開くこと、その代償としてイスラエルはシナイ半島を返還し、ガザ地区とヨルダン川西岸のパレスチナ人の自治について交渉をすることで合意した。合意は翌年3月エジプト=イスラエル平和条約として結実し、シナイ半島はエジプトに返還されたが、その他の地区の返還は実現しなかった。 また、他のアラブ諸国とパレスチナ解放機構(PLO)はこの合意に強く反発した」。 ![](https://yonago-revival.church/wp-content/uploads/2024/08/795316b92fc766b0181f6fef074f03fa-6.png)
キャンプ・デービッド合意を強く反対したアラファトのPLOは、既に多くのテロ活動をイスラエルに対して行っていましたが、キャンプ・デービッド合意後後もイスラエルへのテロを繰り返し、レバノン国境での緊張がさらに高まりました。
③パレスチナのテロリストによる駐英イスラエル大使「シュロモ・アルゴヴ」狙撃事件
レバノン戦争と呼ばれる戦争に至ったのは、もう一つの大きなテロ事件が起きた事によります。それは、1982年7月3日パレスチナのテロリストたちが駐英イスラエル大使「シュロモ・アルゴヴ」をロンドンで狙撃した事件です。そのテロ事件で、イスラエルの堪忍袋の緒は切れたのです。その時のイスラエルの首相ベギンは「なぜ自分たちは自ら守ろうとせず、攻撃にじっと耐えねばならないのか」と自らに問いかけたと言われています。 レバノン戦争の直接的な根源的原因は、レバノンに拠点を置くアラファトが率いるPLOによる日常茶飯事的ロケット攻撃と度重なる厳しいテロにあったのです。イスラエル国家は、そのPLO殲滅の為に、1982年6月6日に「ガリラヤ平和作戦」を発動し、第1次レバノン戦争が始まったのです。(ダニエル・ゴーディス著「イスラエル/民族復活の歴史」P326)
【終わりに】
今回のレポートでは、第4次中東戦争勃発の責任ある直接的根源的原因は、1967年の第3次中東戦争でイスラエルに敗北し、イスラエルに多くの土地を占領されてしまった土地の奪回の為に、エジプトとシリヤが奇襲作戦で戦争を始めた事にあったとお伝えしました。また、第1次レバノン戦争勃発の責任ある直接的根源的原因は、PLOによるイスラエルに対する数多くの「テロ活動」にあった事をお伝えしました。次回は、第1次レバノン戦争勃発から、現在のイスラエルとハマスとの衝突の直接的根源的原因について報告をしたいと思います。