「パウロのイスラエルへの愛➉」
聖書:ローマ9章1節~5節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
私たちが、パウロのイスラエルの救いの為に断腸の思いでとりなしている事を学んでいる意義は非常に大きいものがあります。それは、パウロのようなユダヤ人キリスト者であるメシアニックジューと私たちのような異邦人キリスト者のユダヤ人の為のとりなしが
神がご計画されている、やがて終わりの時代に、世界を祝福する者として全てのユダヤ人が救われるという、国家的新生の為のそれが母胎となるからです。その事を、メシアニックジューの世界的神学者であるダニエル・C・ジャスターが「聖書が教えるイスラエルの役割」の中で次のように教えています。「ユダヤ民族こそが、彼らのメシヤとメシヤのメッセージを世界に運んだ忠実なユダヤ人使徒たちを通して教会を生んだ。教会の方にも召しがある。それは、ユダヤ民族が新生できるよう、とりなしの「胎」となる事だ」と。キリスト者のユダヤ人の救いと祝福をとりなしの積み重ねが、ユダヤ人を救いに導くための母胎として神様はお用い下さるのです。神さまのみ心と御計画は、キリストを信じて救われたキリスト者の信仰のとりなしの祈りによって進められていくのです。そのように、主は私たちキリスト者を神ご自身が、イスラエルに約束された全ての約束が実現して行くためのパートナーとして召されているのです。パウロが、イスラエルを愛して断腸の思いでとりなしをする第6番目の理由は「約束は彼らのもの」だからだと教えています。
神さまが、イスラエルと結ばれた「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」等に使用されている契約は、同時に「約束」として繰りかえし教えられておりますので、嘘のない真実な神さまにとっては、「契約」も「約束」も同義語としてお使いになっているのです。神さまは契約された事も、約束された事も、必ず実現される真実なお方です。パウロが、イスラエルに与えられた「約束」というのは、「アブラハム契約」等に基づいて、神さまがイスラエルに与えられた特別な約束がある事を教えています。その約束の中で、最大の約束は、メシヤ的王国の為の「メシヤの来臨」の約束です。アブラハム契約、土地の契約、ダビデ契約、新しい契約という、4つの無条件契約が全て成就するのは、約束のカナンの地でメシヤを王とする国家を形成しているイスラエルを中心としたメシヤ的王国がこの世界に実現した時です。
1、メシヤ的王国のメシヤがイスラエルのユダ部族から出現する預言
①ダビデの家系よりメシヤが誕生する預言
メシヤ的王国の実現に向けて最も重要な約束は、メシヤ的王国という名の通りに、メシヤがイスラエルのユダ部族から出現するという約束です。ロマ15:8で、キリストが神がイスラエルの先祖と約束された事を、確実に実現する保証として割礼の者であるユダヤ人としての生涯を歩まれた事が教えられています。
◆「私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり・・」と。ここでの約束というギリシャ語は複数形の「エパンゲリアイ」で、4つの無条件契約の実現とそれらの契約に基づく、数多くの約束がキリストによって実現する事を教えています。
創世記3章15節で女の子孫からメシヤが産まれると約束されましたが、その子孫がアブラハムの子孫から誕生する事が約束されたのです。
◆「創世記17:8わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。」
◆「ガラ3:16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。」
次に神さまは「アブラハムの孫のヤコブのユダ族からメシヤが誕生する事を約束されました。
◆「49:8 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。 49:9 ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。 49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」。
「シロが来る」のシロがメシヤだという事は、「国々の民は彼に従う」という約束から、はっきりと世界を支配する「メシヤ」を意味していると理解が出来ます。メシヤ的王国のメシヤは「ユダ族」から出ると、創世記の段階では明確にされていますが、ユダ族のどの家系から出現するのか、創世記の段階では分かりません。ユダは、エル、オナン、ベレツ、ゼラフ、シェラを生みましたが、その子孫からいくつもの家系が出現してきました。その一つが、ダビデの家系でした。ダビデ契約により、ユダ族のダビデの家系の中からメシヤ出現が明確に約束されました。
◆「Ⅰ歴代17:11・・わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」。
ダビデの家系からメシヤ出現がその後繰り返し預言されます。有名なのは「エッサイの根」という表現で預言されています。エッサイはダビデのお父さんですので、次のように表現されています。
◆「イザ 11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
◆「イザ 11:10 その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。」
パウロはイザヤ書11章10節をローマ15:12で引用しています。
◆「ロマ 15:12 さらにまたイザヤは、『エッサイの根』が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」。
パウロが引用したイザヤ11:10はヘブル語聖書からではなく、70人訳というギリシャ語訳から引用をしているとギリシャ語の教授である織田昭師が教えています。
更に、ミカ書では、ユダ族のベツレヘムと言う村からメシヤが誕生する事を預言しています。
◆「ミカ 5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
キリストが誕生された時に、ユダヤの祭司長達や律法学者達からメシヤがベツレヘムに出現する事をヘロデ王は知りました。その事を、東の国からやって来た博士達に知らせました。マタイはキリストは戸籍上ダビデの息子のソロモンの家系から誕生した事を教えています。ルカは血統的にはダビデの息子ナタンの家系から誕生した事を教えています。黙示録ではキリストの事を「ユダ族の獅子」(5:5)或いは、「ダビデの根」(5:5/22:16)と呼んでいます。
そのメシヤが、処女から誕生する事もイザヤは預言していました。
◆「イザ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
②メシヤ来臨の初臨と再臨の約束
そのメシヤの来臨には、初臨と再にという二つの来臨が預言されていましたが、キリスト在世時代の殆どのユダヤ人達はその事を悟っていませんでした。メシヤの来臨は、1回のみで、それによってメシヤ的王国がやって来ると信じていたのです。しかし、預言を注意深く調べれば、メシヤの来臨は初臨と再臨の2回の来臨が約束されている事が分かります。その事を、なぜユダヤ人達が悟れなかったのか、その理由は、初臨と再臨が重なった形で預言されていた事にあります。その代表的な預言をいくつか紹介します。
◆「イザ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」
このイザヤ9章では、メシヤが「みどりご」としてて誕生するという初臨の事が預言されていますが、同時にイスラエルを治める為にダビデの王座に着座されるという再臨の事も重ねて預言されています。
◆「イザ11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。 11:2 その上に、【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と【主】を恐れる霊である。 11:3 この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、 11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。 11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。 11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。 11:7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。 11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」
以上のイザヤ11:1~10においても、メシヤ来臨の預言が、初臨と再臨が重なった形で預言されているので、それを区別して理解する事が多くのユダヤ人には出来なかったようです。
◆「イザ49:1 島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。【主】は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。 49:2 主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。 49:3 そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」 49:4 しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、【主】とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」 49:5 今、【主】は仰せられる。──主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は【主】に尊ばれ、私の神は私の力となられた。── 49:6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
このイザヤ49章の神の僕がメシヤの事を意味しています。それは、6節を見ますと「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」と、明らかにメシヤだということが教えられています。その主の僕は、最初は、隠され、無駄骨というほど、イスラエルから拒絶される事が預言されています。しかし、最終的には、イスラエルと世界の救い主になる事が預言されています。つまり、この箇所もメシヤの来臨に初臨と再臨がある事を預言しているのです。
2、メシヤ初臨の様相
①初臨のメシヤによる癒しと心の解放の約束
◆イザ61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、 61:2 【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、・・」
このイザヤ61:1~2aの預言は、ルカによる福音書4章において、メシヤの初臨における活動を教える預言だとキリストご自身が教えられました。
◆「ルカ 4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。 4:18『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、 4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。』 4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。 4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』」
②メシヤが平和の王として子ロバに乗ってエルサレムに入場する預言
◆「ゼカ 9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ロバに乗られる。それも、雌ロバの子の子ろばに。」
このゼカリヤの預言が、メシヤ来臨の初臨を預言していることを、キリストは、実際にロバの子に乗ってエルサレムに入場された事によって示され、成就しました。
◆「マタ21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。 21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ロバの背に乗って、それも、荷物を運ぶロバの子に乗って。』」21:6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。 21:7 そして、ろばと、ロバの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。 21:8 すると、群衆のうち大勢の者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。 21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
③受難のメシヤの約束
1)メシヤのイスラエルと人類の罪の赦しの為の受難の預言
受難のメシヤ来臨の約束は沢山ありますが、主なものをいくつか確認しておきたいと思います。その代表的な預言はイザヤ書53章です。53章には、メシヤガイスラエルと人類の罪の赦しの為に罪を背負って身代わりの刑罰をお受け下さる事、病を背負って下さることが預言されています。
◆イザ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」
◆「イザ彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
イザヤのメシヤ受難の預言は、ナザレのイエス。キリストが十字架で死なれた事で成就しました。
2)過越し祭の犠牲の羊
過ぎ越し祭の犠牲の羊は、過越し祭の時に十字架にかかり、イスラエルと人類の贖罪の御業を成し遂げられたキリストを予型的に預言していました。キリストはバプテスマのヨハネとパウロから過ぎ越しの小羊と呼ばれています。ユダヤ人は過ぎ越し祭の食事で「マッツア」と呼ばれる種なしパンを食べますが、なぜかそのマッツアに、沢山の穴をあけるそうです。その意味は、一般のユダヤ人は分からないそうですが、メシアニックジュ―のユダヤ人は分かるそうです。それは、いのちパンだと言われたナザレのイエス・キリストの受難を意味いしているという事です。
3)初臨のメシヤがイスラエルから拒否され、銀貨30枚で売られる預言
「ゼカ11:13 【主】は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。」 ユダによって、銀貨30枚で売られたキリストは、初臨のメシヤとしてゼカリヤ書で預言されていました。
4)初臨のメシヤの受難の時の預言
(1)メシヤの受難はAD70年にローマによってイスラエルが滅ぼされる前その預言は、創世記49章の「シロが来る」という、預言の中で見出すことが出来ます。イスラエルは、AD70年までは、サンヒドリンという70人議会を構成する、大祭司や律法学者やパリサイ人と呼ばれる指導者がいましたが、AD70年にイスラエルには指導者いなくなりました。シロと呼ばれるメシヤが来るまでは、イスラエルには指導者がいる事が預言されています。
◆「【口語訳】創49:10 つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。・・」
「つえはユダを離れず、立法者の杖はその足の間から離れる事が無い」というのは、ユダ部族からイスラエルの指導者がなくならないという「ユダ部族の優位性」を意味していることばです。しかし、「ユダ部族の優位性」はシロと呼ばれるメシヤが来るまでの事だと預言されています。メシヤであるキリストが来臨され、天に帰られた後、AD70年にイスラエルはローマによって滅び、ユダ部族の指導者もいなくなった事で創世記49:10の預言が成就しました。それと同じような預言がエゼキエル書21:26~27に教えられています。
◆「エゼ21:26 神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる。 21:27 廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」かぶり物が脱がされるというのは、祭司たちが被っているかぶり物が脱がされる事です。冠が取り去れるというのは、王が冠る王冠が取り去られる事です。王冠が取り去れるという預言は、南ユダ王国がBC586年に滅ぼされた時に成就し、それが今日まで続いています。イスラエルは王政でなくなり王冠を冠る人はいません。祭司のかぶり物が取り去られたのは、AD70年にローマによって滅ぼされ時に成就しました。今日まで、エルサレム神殿は無く、かぶり物を被って祭儀を行う祭司は誰もいません。そのような、状況がメシヤが来た時に起きるというエゼキエルの預言は、キリストの来臨以後に成就しましたので、キリストの初臨はAD70年までに実現する事を教えている預言となっています。
「AD70 年にエルサレムの神殿が破壊されたときに、イス ラエル民族の戸籍が失われ、 誰がユダ族かは不明となっ た。」と言われています。
(2)ダニエル書9章の70週の預言
キリストの初臨の時ついてダニエル書9章の終末預言である「70週」の預言があります。その預言から、キリストがいつ受難されるのかが計算できます。
◆「ダニ9:24あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。 9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。
やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」。この70週の預言には、メシヤの受難の時と、反キリストによるイスラエル絶滅危機と救いが預言されています。
◆「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない」。
「油注がれた者」と呼ばれるメシヤの受難は、エルサレムを再建せよという命令が出てから7週+62週で合計69週の後に起こる事が預言されています。聖書預言解釈の原則で1日は1年と計算しますので、1週間の7日間は7年となります。7年かける69週では483年となります。メシ受難は「エルサレムを再建せよ」という命令が出てから483年後ですので、その命令がいつ出たのかが分かると、メシヤの受難の時が分かります。
キリストが誕生したのが、ヘロデ大王が亡くなる2年程前のことです。ヘロデが亡くなったのが今日の歴史研究でBC4年と言われています。彼がベツレヘムとその周辺の2歳以下の子どもを殺害する可能性はBC6年以降と言うことにとなります。エルサレム再建命令は、4種類あります。キリスト誕生BC6年とすると、キリストが33歳で亡くなっていますので、それはAD27年となります。そこから逆算すると、エルサレム再建命令の年が浮かんできます。それは、アルタシャスタ王の再建命令のBC458年です。483年~BC458年を引くとAD25年となります。キリストが死んだのがAD27年ですので、483年の後であるAD25年の後にメシヤが死ぬという預言が成就した事になります。
ダニエルは70週の終末預言のなかで、メシヤがいつ受難するのかが預言されており、その通りに成就したした事は驚くべき神さまの偉大な御業としか言いようがありません。
5)初臨のメシヤの復活の預言
初臨のメシヤが受難の後、死より復活する事が預言されています。
◆「イザ 52:13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」。
◆「詩16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
ペテロはペンテコスの時の説教で、詩篇169~10を、メシヤ復活の預言として引用をしています。
◆「使2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。 2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
6)メシヤの葬りの預言
◆「イザヤ53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。」
イザヤ書のメシヤ葬りの預言が成就した事を福音書が教えています。十字架で処刑された極悪人は葬られる事無く、ゴルゴダの死体捨て場に放置されていましたが、キリストの死体は金持ちの「アルマタヤの「ヨセフ」が自分のまだ使っていない新しい墓に葬ったのです。それによって、キリストは罪なきメシヤだという事が証明されました。
◆「ヨハ19:41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。 19:42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」
7)メシヤの凱旋(昇天)の預言
◆「イザ53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」 パウロが、初臨のキリストの凱旋(昇天)の預言の成就を教えています。
◆「4:8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 4:9 ──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。 4:10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──。」 メシヤが昇天された時の分捕り物とは、陰府と呼ばれるハデスのアブラハムの懐(パラダイス)に平和の中に置かれていた、旧約時代の聖徒の霊を意味しています。天に挙げられた彼らをヘブル書は「全うされた義人の霊」と呼ばれています。
【終わりに】
以上の様に、キリストの初臨の様相を聖書は詳細に多く預言していますが、最大の預言は、メシヤの受難と復活です。復活のキリストは、弟子達に、そのメシヤの受難と復活に関して聖書全体から説き明かされました。当時の弟子達は、キリストから繰り返しご自身の受難と復活について教えてもらいながら、その事に目が開かれていなかったのです。当時のユダヤ人達は、メシヤの来臨に初臨と再臨が預言されている事に目が開かれていませんでした。、メシヤは一度だけ来臨されて、即、ダビデ王国の復興である「メシヤ的王国」を実現して下さる思っていたのです。メシヤが、イスラエルと人類の罪の赦しの為に受難を受け、殺されるという事には、目が閉じられていたのです。パウロもそうでした。しかし、パウロは復活のキリストに出会い、目が開かれ、改めて聖書を読みなおし、聖書のいたるところに初臨のメシヤの「受難」が預言され約束されている事に気が付きました。ユダヤ人は、ダビデ王国の復興である「メシヤ的王国」の約束については、心から信じて待望していました。しかし、それが、初臨の受難のメシヤが、再臨されて実現されるという事については、まったく目が閉じられていました。今もそうです。パウロは、聖書の約束の多くが「メシヤ的王国」という、将来の終末の出来事に関するものだという事は良く知っていたのですが、それを実現し成就するのが、再臨のメシヤによることについては全く目が閉じられていました。そのかつての自分の様に、同胞のユダヤ人が十字架につけて殺したナザレのイエスが、旧約聖書が繰り返し預言しているメシヤだと、気が付かないの事に、パウロは心を痛め、彼らの目が開かれて、十字架にかかり葬られ三日目に甦られたナザレのイエスこそ、救い主だと諭されて救われる事を願いました。私達も、パウロのとりなしに倣って、神が世界の祝福の為に特別にお選びになって愛されているイスラエルの人々の救いと祝福の為に熱心に祈りましょう。又、自分の家族や友人知人の目が、聖霊様によって開かれ、自分の罪の為に十字架において身代わりの刑罰をお受けになったキリストが自分の救い主だと諭されるように祈りましょう。聖霊が、あなたをイスラエルと日本の同胞の救いと祝福の為に、パウロのように熱心に祈る者へと引き上げて下さるようにお祈りします。