岡山英雄牧師著「小羊の王国」の問題点2
2024年9月18日 米子復活教会牧師:佐藤勝徳

イスラエルの普遍性について
【はじめに】
 2024年9月10日にアップしました、岡山英雄牧師の著書を批判した「小羊の王国」の問題点1」では、黙示録7章のイスラエル12部族14万4千人をユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者を含めた「神の民全体」(教会=イスラエルの普遍性)だと解釈されている事を問題として取りあげ、その問題点を詳細に述べさせていただきました。今回は岡山英雄牧師の「イスラエルの普遍性」という神学的見解の問題点を取り上げます。
黙示録で啓示されているイスラエルは文字通り字義通りの意味で解釈すると「イスラエル民族」(ユダヤ人民族)となります。(※バビロン捕囚帰還後、イスラエルとユダヤは同義語として使用され、キリスト時代はそれが普通になっていた)。岡山英雄牧師はパウロがローマ書9章~11章で説く、イスラエル民族の特殊性(パウロの同胞の為の命がけのとりなし、イスラエルはみな救われる、イスラルの神の召命と賜物は変わらない等)を認め、終末時代のイスラル民族には特別な役割がある事を教えています。しかし、なぜか黙示録の解釈において「イスラエル」を字義通り文字通りに「イスラエル民族」(ユダヤ民族)と解釈しないで、イスラエルの普遍性を説き、黙示録のイスラエルを「神の民全体」(教会=普遍性のイスラエル)だと象徴的に解釈されているのです。その、聖書的根拠としてガラテヤ書3章28節とコロサイ書3章11節、エペソ2章11節と,16節、そしてガラテヤ書6:16節を掲げておられます。

◆「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜならあなたがたはみな、キリストイエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28、コロサイ3:11参照)
また、現代のイスラエル国家を形成しているユダヤ人には、狂信的なシオニストが多く存在し、パレスチナ人に暴力的になっているという事を理由に、現代のイスラエルは民族としてそのまま神の民だとは認められない。新約聖書の教えではキリストにある神の民である教会こそ普遍的イスラエルである、と論じられています

「しかし、この国には『大イスラエル主義』を唱える狂信的なシオニストも数多くあおり、占領地のパレスチナ人への非人道的な武力弾圧など、現代国家としての問題や矛盾を数多く抱えており暴力的な国家としての現代の「イスラエル」をそのまま肯定することはできない。むしろ、新約では、民族的な区別を越えた神の民の普遍性が強調されている。」 (改定「小羊の王国」P229~230)

岡山英雄牧師が上記で批判されている「大イスラエル主義」とは何か以下にその定義を紹介しておきます。

※大イスラエル主義の定義(ネットの日本大百科全書より)

「離散したユダヤ民族がユダヤ国家を建設して復興と存続を目ざすシオニズムのなかで、主流派の社会主義シオニズムに対し、旧約聖書に登場する古代ユダヤ=イスラエル王国の最大版図を意味する「エレツ・イスラエル」(イスラエルの土地)を最重要視する非主流派、修正シオニズムの流れ。1920年代にヤボチンスキーVladimir Jabotinsky(1880―1940)によって組織化され、当時はヨルダン川東岸(現在のヨルダン)を含むユダヤ国家の建国を目ざした。1931年にヤボチンスキーらが設立した民族武装組織イルグンは、彼の死後、第二次世界大戦中からメナヘム・ベギン(後の首相)を指導者として反イギリス独立闘争を展開した。

イスラエル建国後のイルグンの後継政党や右派政党が1973年に結成したリクードのほか、ヨルダン川西岸への入植地建設を支持する諸勢力が大イスラエル主義の流れを汲(く)む。1995年11月のラビン首相暗殺は、宗教的大イスラエル主義の過激派の青年による犯行だった。
 2010年には同地域への入植者が30万人を超えたが、そのうち大イスラエル主義者による入植地が4割以上を占めるといわれる。基本的には和平交渉で占領地返還や領土的妥協を拒むが、現状では占領地問題についてある程度の妥協もやむをえないとする現実派からいっさいの妥協を拒否する強硬派までがある。」
最初に、イスラエルの普遍性の「聖書的根拠」とされているガラテヤ3:28、ロサイ3:11、エペソ2:1、16、ガラテヤ6:16の解釈の問題点を指摘したいと思います。
Ⅰ ガラテヤ書3章28節、コロサイ書3章11節、エペソ2章1節、16節、ガラテヤ6:16の解釈について
 先ず、岡山英雄牧師の言う「イスラエルの普遍性」という言葉の定義を纏めておきたいと思います。岡山英雄牧師は置換神学的イスラエル論を否定しています。しかし、イスラエル民族の特殊性を認められながら、その上で「イスラエルの普遍性」(普遍性のイスラエル)いうイスラエル論を論じておられます。その教えを要約すると「イスラエルの普遍性」の定義は以下の様になると思います。

「聖書において、イスラエル民族は世界を祝福する使命を帯びた特別な選民とされているが、現代のイスラエル国家は暴力国家であるがゆえに、イスラエル民族だけで世界を祝福するという使命は果たせない。イスラエル民族が世界を祝福するという使命は、キリストを信じたユダヤ人が、異邦人のキリスト者である新しい神の民と共にそれを遂行する。そのユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者を含めた神の民全体(教会)が、普遍性のイスラエルである」

※「イスラエルの普遍性」が神の民(単数形)全体で起こっている出来事だと論じられているのです、岡山牧師の「神の民全体(教会)」を「普遍性のイスラエル」と私は呼び直しています。
1、ガラテヤ3章28節とコロサイ書3章11節の解釈の問題点
 以上の「普遍性のイスラエル」というイスラエル論の最初の聖書的根拠として「ガラテヤ3章28節」と「コロサイ書3章11節」を取り上げ次のように解説されています。「イスラエルと異邦人との『隔ての壁』は、キリストによって打ち壊され(エペソ2:14)両者は『一つのからだ』 (同2:16)とされ、十字架によって神との和解がなされた。それは両者も友「一つの御霊」(同2:18)において神にちかづくことが出来る。『外見上のユダヤ人』であること。『「割礼を受けているかいないか』は重要ではなく、大切なのは「新しい創造」(ガラテヤ6:15)である。それゆえ新約の神の民は。「神のイスラエル」(同6:16)とも呼ばれていると。(P230)

①イスラエル民族と異邦人の隔ての壁とは何か
  ガラテヤ3:28とコロサイ3:11のみ言葉が「普遍性のイスラエル」を教えていると解釈されている理由として、最初にエペソ書の2:14~16で教えられている、イスラエルと異邦人との「隔ての壁」をキリストが打ち壊された事を取り上げておられます。では、キリストが打ち壊された両者の『隔ての壁』とは何でしょうか。
キリスト時代の神殿を「第二神殿」とか「ヘロデの神殿」と呼ばれていますが、その神殿の外側には異邦人が入る事が許されている異邦人の庭がありました。また、異邦人が入る事を禁じ、ユダヤ人のみが入る事が許された神殿の内側の庭がありました。そのユダヤ人に与えられた優位性というのは本来、異邦人を祝福する為のものでしたが、いつしかユダヤ人は傲慢になり異邦人を見下げるようになりました。又、異邦人は、神が選ばれたユダヤ人の優位性を喜び感謝すべきなのですが、そうした区別を異邦人のプライドの故に喜び受け入れる事が出来ませんでした。又、ユダヤ人から見下げられている事で異邦人はユダヤ人を憎み敵意を持つようになりました。そのユダヤ人と異邦人の敵対している関係をキリストは打つ砕く為に、ユダヤ人の罪と異邦人の罪を背負って十字架で死なれた時に、その敵意をも十字架におかけになり滅ぼされました。それによって、内面の敵意と言う隔ての壁を討ち砕かれ、キリストにあって和解の道が両者に開かれ、一つ御霊によって共に聖なる神に近づくという、偉大なる祝福の道が開かれました。キリストはそうした内面の隔ての壁である敵意だけでなく、やがてAD70年に、ローマによってユダヤ人と異邦人を隔てている神殿の壁も打ち壊され神殿そのものも滅ぼされました。(エペソ人への手紙が書かれたAD62頃は未だエルサレム神殿は崩壊されていなかったのですが)

②隔ての壁を打ち破ったキリストの御業
1)最初のアダムと最後のアダムであるキリストとの関係
  ではどうして、キリストは十字架でユダヤ人と異邦人の隔ての壁である敵意を打ち砕かれたと言えるのでしょうか。それは、キリストが約2000年前にユダヤのベツレヘムに誕生された時、キリストは最後のアダム(Ⅰコリント15:45)として誕生されたことによります。最初のアダムは、最後のアダムであるキリストを原型に創造されました。アダムと言う名は個人名としても使用されていますが、ヘブル語では複数形になっていますので全人類を含んでいる事を意味する名となっています。彼が、全人類意を含む全人類の代表者として創造されたのは、最後のアダムとしてベツレヘムの村に全人類を含む全人類の代表者としてキリストがお生まれになったからです。その全人類の代表者キリストを原型にして最初のアダムは創造されたのです。「ロマ5:14アダムはきたるべき方のひな型です。」

 太古の昔、エデンの園で罪を犯した最初のアダムの罪は、全人類が犯した罪でもありました。全人類は最初のアダムと共に罪を犯し、最初のアダムと共に罪に堕落しました。「ロマ5:18ひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」「ロマ5:19ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」。その結果、この世界に罪と死がこの世界に入りました。それだけでなく、全人類は罪の性質をアダムからの血統によって遺伝的に継承してきました。罪の性質を遺伝的に継承している人の事をパウロは「古い人」と呼んでいます。その古い人から出てくる邪悪な感情や言動をパウロは肉の働きと呼んでいます。(ガラテヤ5:19~21)。ユダヤ人と異邦人が持っているそれぞれの敵意と言う隔ての壁は、罪の性質をもって生まれた人間(古い人)から生じている邪悪な感情です。キリストはその両者の邪悪な感情を古い人と共に十字架で滅ぼされたのです。何故そう言えるのでしょか。

2)最初のアダムの血統から全人類は切り離されて最後のアダムであるキリストに移された
 キリストが最後のアダムとして誕生をされた時に、罪の性質を持っている全人類は最初のアダムの血統から切り離されて、キリストご自身に移行され、キリストの中に全人類は包括されました。それ故に、キリストは最後のアダムと呼ばれています。

キリストに包括された全人類は、キリストが十字架で死なれた時に共に死んだとパウロは教えています。
◆「Ⅱコリ5:14私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」。同じ真理をパウロはガラテヤ書でも教えています。
◆「ガラ6:14 この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」。
隔ての壁である敵意を持っている全人類は。ユダヤ人も異邦人もキリスと共に死に、その時の隔ての壁も死に滅ぼされたのです。キリストの十字架の死は、単に全人類の為でなく、全人類を包括する共同の死であったのです。それによってキリストはユダヤ人と異邦人の隔ての壁を打ち砕かれました。それだけでなく、ご自身の復活の中に全人類を包括されて甦られ、隔ての壁を持つユダヤ人と異邦人が共に隔ての壁を持たない神の性質を持った新しい人にされたのです。その、全人類に対する救いの御業は、洗礼を受けた人に適用されています。(ローマ5章12節~7章25/コロサイ2:8~12/ガラテヤ2章19節~20節、3章27節)

  キリストを信じて洗礼を受けたキリスト者はユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、全ての人が平等に分け隔てなく、隔ての壁が取り除かれ、神の性質を持った新しい人に甦る(キリストを着る)恵みに与っています。又、平等に御霊によって神に近づく恵みが与えられています。その人たちによって一人の新しい人が創造されました。そのあたR志位一人の人は同時に、一つのキリストの御体なる教会を形成しているのです。。(エペソ2:15~16)

以上の教えは、ユダヤ人とギリシャ人(異邦人)との区別が無くなったり、奴隷と自由人の区別が無くなったり、男と女との区別が無くなって「普遍性のイスラエル」となった事を教えようとしたのではないのです。あくまでも神の福音の恵みに与る平等性が教えられ強調されているのです。パウロ書簡には、奴隷と自由人、男と女とを区別しながらそれぞれに必要なメッセージが説かれています。また、ペテロ書やヤコブ書は明らかに、異邦人クリスチャンと区別してユダヤ人クリスチャンに宛てての書簡となっています。

◆「エペ 6:5 奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。」
◆「エペ 6:8 奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。」
◆「Ⅰコリ 7:2 淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。」
◆「Ⅰコリ 11:5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。」
◆「ヤコブ 1:1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。」
◆「Ⅰペテ 1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々・・」

以上の様に、聖書はユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷、男と女をそれぞれ区別しながら手紙が書き送られています。

しかし、岡山英雄牧師によれば、イスラエル民族は、キリストを信じる神の民全体(教会)「普遍性のイスラエル」の中で、はユダヤ人と異邦人との区別が取り去られ、イスラエル民族を超越して「普遍性のイスラエル」として異邦人と共に「世界を祝福する」使命を果たすというのです。「普遍性のイスラエル」ではイスラエル民族としての独自性、特殊性、特異性は問題ではなく、神の民全体(教会)「普遍性のイスラエル」として、ユダヤ人は異邦人と共に「世界を祝福する」事が重要だと岡山英雄牧師は論じられています。果たしそうでしょうか。以下にその教えの問題を論じていきます。

③外見上のユダヤ人の問題とユダヤ人が肉体の割礼を受けている事について
1)外見上のユダヤ人が、ユダヤ人として否定されていない
  「外見上のユダヤ人」について、パウロはローマ書で「ロマ2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、・・ 2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、・・その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と教えています」。 このパウロの教えは旧約聖書において一貫しているものです。神は、常に心を見られています。

「Ⅱ歴代 16:9 【主】はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。・・」
  どんなにモーセ律法に従った立派な祭儀を行っても、心が伴わない祭儀を神が忌み嫌われる事を聖書は教えています。心の伴わない祭儀は祭儀ではないのです。しかし、だからと言ってモーセ律法の「祭儀」を神は否定したのではありません。心の伴った祭儀が行われる事を求めて形骸化した祭儀を否定されたのです。
◆「詩51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
  51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。 51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。」
 パウロが「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではない」と教えたのは、神がアブラハム、イサク、ヤコブの血統より誕生してきた外見上のユダヤ人を選民として否定したという事でありません。昔、預言者ホセアがイスラエルの民を神の民でないと預言した事がありました。
◆「ホセ1:9 主は仰せられた。「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」。
この預言は、神が、イスラエルの民を実際にご自分の民でないとしたというのではなく、それは、イスラエルの民が心の伴った真の神の民、神の真のイスラエルと呼ばれるほど霊性が良くなる事を求めての神の厳しさを表わす婉曲的表現が使われているのです。その証拠に、その後のホセアの預言には神に反逆するイスラエルを何度も神が「わたしの民」と呼び、イスラエルを神の民として愛されている事が教えられています。
◆「ホセ 6:11 ユダよ、あなたにも刈り入れが定まっている。わたしが、わたしの民を元どおりにするときに。」
2)ユダヤ人が割礼を受ける事は否定されていない
パウロは割礼の事についてはローマ書とガラテヤ書で取り上げ、真の心の割礼を論じています。しかし、だからと言ってユダヤ人が外見上の体の割礼を受ける事を拒否してよいという事は教えていません。
◆「ロマ2:28外見上のからだの割礼が割礼なのではありません」
◆「ガラ6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません」。
以上のみ言葉はどういう意味でしょうか。それは、アブラハムから始まり、モーセ律法で教えられている「肉体の割礼」を否定したのではありません。これも、ユダヤ人に神を心から愛する事を強く求めたパウロの「婉曲的表現」なのです。その証拠に、パウロは[「ローマ 3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。 3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」と、ユダヤ人の割礼の益について論じています。また、ローマ9章から11章において、キリストを否定する、神に反逆する信仰のない外見上の肉体の割礼あるユダヤ人がどれ程神に愛されているかを説いています。
◆「ロマ10:21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
◆「ロマ11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。 11:27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。 11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。 11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。」
「ロマ15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり・・」
割礼はモーセ律法の以前に、神がアブラハムと結ばれた契約の儀式でした。それは、キリストが十字架でモーセ律法を終わらせたとしても、なお続いているイスラエル民族との契約です。異邦人には関係がありません。パウロが「割礼を受けているかどうかは重要な事でなない」と言ったのは、ユダヤ人に割礼を受けなくても良いと言ったのではないのです。ユダヤ人は神とアブラハムとの契約において、割礼を受けなければならない民族である事は永遠に変わらないのです。
◆「創17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」 17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。 17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。 17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。・・わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。」
しかし、新約の時代において、キリストを信じて義とされるという心の割礼を受けなければ、それも無意味になってしまうと、パウロは割礼を受けているユダヤ人に警告として教えているのです。ユダヤ人は選民としての割礼を受けつつ、キリストを信じることが求められている民族なのです。
生まれて8日目に割礼を受ける事は、異邦人のどの習慣にもないもので、異邦人とユダヤ人を区別する重要な儀式となっています。「生まれて8日目の割礼」は、世界を祝福する使命を帯びたユダヤ民族に神が与えられた重要な儀式であるという事を認識し感謝しましょう。それはユダヤ人と異邦人との区別を明確に教える為のものです。
3) 割礼を必要としない異邦人にとっても、割礼を必要としているユダヤ人にとっても大切なのは新しい創造である
 パウロがガラテヤ書で問題としているのは、割礼を受けたユダヤ人クリスチャンが、異邦人が罪赦され救われ、神の義に与るには、キリストを信じる信仰だけで駄目で、ユダヤ人の様に「割礼を受ける必要がある」という、信仰+割礼(律法の行い)という律法主義の福音、呪われた福音を伝えたことでガラテヤの教会が惑わされた事です。
◆「ガラ1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。・・」
◆「ガラ3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」
◆「ガラ 6:12 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです」
以上のみ言葉から分かりますように、ガラテヤ書には律法主義の福音を伝えたユダヤ人キリスト者とその福音に惑わされたガラテヤ地方の異邦人キリスト者、又、信仰による義という真の福音を信じているパウロとパウロと同じ様に真の福音に立つユダヤ人、また、真の福音に立つ異邦人が登場しています。そのガラテヤ書に登場する以上の人たちを考えると、「神のイスラエル」は真の福音に立つ「ユダヤ人クリスチャン」を意味していると解釈するのが大変自然です。

4)新しい創造とは
 新しい創造とは、キリストの様にその人格が栄光から栄光へと変えられていく事です。それはキリストにある成人へと人格が成熟していく事を意味しています。父なる神のキリストによる創造と救済の御業の目的は、キリストを長子とするキリストのような神の子を多く生み出す事です。

◆「ロマ 8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」
◆「Ⅱコリ 3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
◆「コロ 1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。 1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」

キリストは、ご自身を信じた全ての人が、罪赦されるだけでなく、その人格が御自身の様に無条件の愛と、正義と、聖さと、謙遜に満ちる事を願って、その為に私たちの罪と、私達自身を背負って十字架にかかり、身代わりの刑罰を受けて下さいました。また、私達の古い人が死ぬ為にも死なれ、私達の古い人が復活して神の性質に与りご自身のような人格を持つ身となる為に復活をされました。その、キリストの福音を信じる信仰により「聖化」という「新しい創造」の恵みに与るのです。その恵みに与るのは、キリストを信じる信仰だけで罪が赦されて御霊に与っている事を信じている異邦人キリスト者です。また、割礼を異邦人に強要しない真の福音に立ったユダヤ人キリスト者です。その真の福音に立ったユダヤ人キリスト者をパウロは「神のイスラエル」と呼んだのです。そう解釈する事が、ガラテヤ書とローマ書全体の文脈に沿っているのです。更にその問題は以下に論じていきます

Ⅱ神のイスラエルとは
1、ガラテヤ書6章16節の「神のイスラエル」を解釈する二つ立場
  新改訳第3版「ガラ 6:16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」                                                              原語のギリシャ語では以下のようになっています。


 以上のガラテヤ書6章16節の「神のイスラエル」の解釈において、字義通り文字通りキリストを信じたユダヤ人だと解釈する立場と、新約の神の民(教会)だと解釈する二つの立場があります。それは新改訳聖書第3版で訳されている接続詞「すなわち」のギリシャ語の「カイ」に関する解釈の違いよって起こっています。ギリシャ語のカイ」は私の手元にある英訳では多くが‘and‘と訳されていますが、ESVは‘with‘、RSVは訳さずイコールにしています。日本語訳では「すなわち」(新改訳第3版/詳訳聖書)、「そして」(新改訳2017)、「また」(口語訳、ラゲ訳、永井訳、日本正教会訳、)「つまり」(新共同訳)など色々と訳されています。尾山令仁訳(現代訳聖書)では、「神のイスラエル」を意訳して「神の教会」と訳しています。リビングバイブルも意訳して「真の神様のものとなった、至る所のクリスチャン」と訳し、創造主訳聖書も「創造主の教会に」と意訳しています。文語訳では訳さずに「この基準に従って進む人々」と「神のイスラエル」をイコールにして訳しています。「カイ」の意味は、「そして」「又」「と」という事で、前後の文書の区別する接続詞として最も使用されていると言われています。しかしその「カイ」を区別でなく前後の文書と「同じ」を意味する「すなわち」「つまり」として使用される事もあるそうですが、それは大変まれだと言われています。

「カイ」の訳し方で、「この基準に従って進む人々」と「神のイスラエル」をイコールと考えている神学者と、「この基準に従って進む人々」と「神のイスラエル」を区別して考えている神学者がいる事が分かります。イコールとして考えている神学者は神の民としているキリストの教会を「新しいイスラエル」と理解している事が分かります。区別して考えている神学者はイスラエルと言う名は「イスラエル民族」だけを指す言葉であり、教会は「新しいイスラエル」ではないと理解している事が分かります。岡山英雄牧師は前者に当たります。

※岡山英雄牧師の様に一般のクリスチャンの間で教会を「神の民(単数形)」と呼ぶ事が通説になっていますが、聖書のどこにも教会を「神の民(単数形)」と呼んでいる箇所はないのです。以前超教派による牧師のセミナーで講師のレジュメに「教会は神の民」と教えられていましたので質疑応答タイムの時に、わたしは質問をしました。「教会を『神の民』と呼んでいる聖書個所をご存知ですか」と。それに対して講師の神学者は、「それは知りませんが、私は伝統に沿ってその様に述べています」という事でした。大変優秀で某神学大学の校長をされ、カルバン研究で名高い神学者であっても教会を「神の民」と呼んでいる聖書個所を提示する事が出来なったのです。

2、神の民全体(教会)は「普遍的イスラエル」なのか 
 ガラテヤ書6章16節の「神のイスラエル」を文字通り字義通りに、キリストを信じるイスラエル(ユダヤ人)なのか、それとも、象徴的に「神の民」(教会=霊的イスラル)の事なのか、それを見極めるには接続詞の「カイ」の理解以外に、聖書全体で「イスラエル」という名がどのように扱われているのかを知る必要があります。それによって、ガラテヤ書16章16節でパウロが教えている「神のイスラエル」に正しい理解が与えられ、接続詞の問題も解決していきます。

3、「イスラエル」と言う名前の由来
 聖書はイスラエルと言う名が正しく理解される為に、その由来を教えています。イスラエルと言う名は、多くのクリスチャンが既に知っているようにアブラハムの孫である「ヤコブ」がみ使い(神)と相撲のような格闘をとった時に与えられた特権的な祝福の名前です。そのイスラエルの意味はこれまで、「神の皇太子」とか「神に勝利した者」という意味があると教わってきましたが、ウイキペディアと日本百科全書は「神の支配」、東京都立図書館は「神と闘う人」、HATENA BLOGでは「神は勝利される」、「神は争われる」、もしくは「神と争った者」を意味すると教えています。どれが本当なのか詳細は分かりませんが、「イスラエル」は神が祝福された「名」である事は間違いありません。神はヤコブに別名「イスラエル」という特別に祝福された個人名を与えられたのです。それは人間が勝手に考え造り出した名前ではなく、神が特別にヤコブの為に考えられた「聖なる名前」なのです。
◆「創32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。 32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。 32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」 32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」 32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」・・」 32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。」(参照/ホセア12:3~4)

4、「イスラエル」は聖なる名である 
創世記に啓示されている様にどうして神はヤコブを祝福して「イスラエル」という祝福の名を特別に与えられたのでしょうか。それは、先ずヤコブの神の祝福を求める粘り強い信仰によります。彼は、お兄さんから一杯の飲み物で長子の特権を手に入れたり、母リベカの指示に従って良心の痛みを覚えながら父イサクをだまして祝福を受けたりして人として当然非難されても仕方がないあり方をした事もありました。しかし、神はなぜか彼を非難して呪うことなく、罪が増し加わったところに恵みを注がれるお方として、彼を逆に祝福され続けました。それは、彼が心底から神の祝福を求める信仰を抱いていたからです。様々な苦難と試練を通して彼が打ち砕かれ、信仰の人としてその人生を全うする事を神が御存じだったのです。彼は地上の旅路を終える前に聖霊によって、自分の子どもたちの将来について預言し、特にユダ部族からメシヤが出現する事を預言しました(創49:8~12)。彼は預言者としての役割を果たしていたのです。又、死の床で神への礼拝を深々と捧げました。新改訳ではその様子を「創47:31イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした」と訳していますが、口語訳では「イスラエルは床のかしらで拝んだ」と訳しています。彼の生涯は神への深い信仰で貫かれていたので、聖書は彼の事を「完全な人」であったと教えています。

「穏やか」と訳されているヘブル語は「完全」と言う意味の形容詞の「ターム」が使用されています。「ターム」はノアとヨブの人となりに関しても使用しています。ノアの事を聖書は「創6:9 ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。」と教えています。ヨブについても「ヨブ 1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」と教えられています。ノアとヨブの事を聖書は「全き人」と教えているのと同じヘブル語でヤコブを紹介しているので、ヤコブの事も「穏やかな人」ではなく「全き人」「完全な人」と訳すべきだと思います。「ターム」には「穏やかな」という意味はないのです。キリスト教の長い歴史の中で、ヤコブの名の意味が「かかとをつかむ者」という意味がある事から、「人を押しのける我の強い人」と教えられてきましたが、そうではないのです。ネットの牧師の書斎で以下のように教えられていました。

ヤコブは兄エサウの『かかと』(ヘブル語で「アーケーヴ」)を掴んで生まれ出たことから、「かかとをつかむ」(動詞「アーカヴ」とされ、『ヤーコーヴ』(固有名詞)と名づけられました。日本語では「ヤコブ」、英語ではJacobと表記されます。このことのゆえに、人を出し抜くとか、人の足を引っ張るというイメージを持たれたりしますが、ヘブル語にはそのような意味はありません。むしろ、聖書のヤコブに対する評価は霊的な事柄に対して純粋であったということです。

押しのける者を意味する「ヤコブ」と言う名は単に、双子として兄のエソウの後に生まれてくるときの様子によってつけられたもので、それ以外の理由はないのです。

ヤコブは神の目にはノアやヨブの様に「全き人」として映っていたのです。ヤコブが、別名「イスラエル」という祝福された聖なる名で呼ばれるようになったのは、彼の「神の祝福に何としても与りたい」と願う彼の純粋な信仰の故である事を聖書は教えています。同時にそれはアブラハム契約に基づいていました。創世記28章で、アブラハム、イサクに与えられていた「アブラハム契約」をヤコブとヤコブの子孫に継承させることを神は既に約束されていました。

◆「創 28:13 そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。 28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。」

神は、ヤコブとその子孫に世界を祝福するという使命を与えられましたが、それに相応しい名として神は「イスラエル」を「聖なる名」として与えられたのです。

5、「新しいイスラエル」及び「普遍性のイスラエル」と言う名は「聖なる名」ではない

「イスラエル」という固有名詞は人間が考え出した肉による名でなく、ヤボク川の渡し場で天使と格闘した時のヤコブの信仰と「アブラハム契約」に基づいて、イスラエル民族の為に神が特別に考えられた「聖なる名」なのです。イスラエル民族以外には「イスラエル」という聖なる名が与えられた民族が存在しないのは勿論、キリストの教会にも与えられていないのです。聖書のどこにも、神が教会を祝福し「新しいイスラエル」と呼ばれた事はありません。教会を「新しいイスラエル」と言う名で呼び始めたのは置換換神学者などによります。反ユダヤ主義者のAD1世紀後半から4世紀にかけて教会を指導した教会初期の有名な教父たちによったのです。彼らは、キリスト殺しのユダヤ民族は契約の民でなくなり、彼らに与えられていた祝福の契約は「新しい霊的イスラエル」である教会に置き換えられたと考えたのです。「新しいイスラエル」と言う名は人間が勝手に考え出した「神学名」であり、聖なる名ではありません。AD1世紀後半から4世紀の教会初期の有名な教父で置換神学者であったのは誰かについて、マービン・R・ウイルソンの著書「私たちの父アブラハム」に詳細に教えられています。そこで教えられている教父たちの名や書籍をご紹介しておきます。(順不同)

①アンテオケのイグナチウス ②殉教者ユスチヌスと著書(ユダヤ人とトリュウホンとの対話) ③バルナバの手紙
④オリゲネス ⑤ヒエロニムス ⑥アウグスティヌス ⑦キプリアヌスと著書「ユダヤ人対する3部作」
⑧ヒッポリュトスと著書「ユダヤ人に対する解説的論文」 ⑨テルトゥリアヌスと著書「ユダヤ人への反論」
⑩イレナエウス ⑪ミラノのアンブローズ司教 ⑫黄金の口と言われた名説教で有名なアンテオケのジョン・クリソストムと著書「ユダヤ人に反対する説教」

 以上の反ユダヤ主義者であった教会初期の教父たちについてマービン・R・ウイルソンは次のように批判をしています。「彼(パウロ)は、神がご自分の民(イスラエル民族)を拒絶されない、と強く主張しました。なぜなら「神の賜物と召命は変わる事がない」(ローマ11:29)からです。しかし異邦人は、自分達こそが旧いイスラエルに置き換わる、真のイスラエルである、と公言したのです。異邦人教会は「新しいイスラエル」として、イスラエルに与えられている地位を、霊的に彼らから取り上げたのです。このような置き換えの解釈の幾つかは・・初期教父たちの著作の中で、より一層発展した」

(「私たちの父アブラハム」P138~142)

反ユダヤ主義の初期の教父たちが考えた「新しいイスラエル」と言う名は勿論、岡田英雄牧師が教えている「普遍性のイスラエル」という名は、聖書のどこにも教えられていない、又、暗示されていない人間が勝手に考え出した神学者による「肉の名」であり、断じて「聖なる名」ではないのです。

6、創造主の神はイスラエル民族を永遠に愛されている
 聖書は、創造主の神がイスラエル民族を永遠に愛されている事を繰り返し教えています。
「申 7:8 しかし、【主】があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、【主】は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」
以上のみ言葉は、エジプトで奴隷として苦難の中にあったイスラエルの人々を、主である創造主の神が、彼らを愛してエジプトから贖いだされた、つまり救い出された事を教えている神のイスラエルへの愛のみ言葉です。このイスラエルへの愛のみ言葉が、それ以後、聖書に幾度も啓示されています。その幾つかを以下にご紹介します。
◆「Ⅰ列王10:9【主】はイスラエルをとこしえに愛しておられる」
◆「Ⅱ歴代9:8あなたの神はイスラエルを愛して、これをとこしえに確立された・・」
◆「詩 47:4 主は私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。
◆「イザ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
◆「イザ 54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。
◆「イザ 54:10 たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、【主】は言われる。」
◆「イザ 63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」
◆「エレ31:3 主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」
預言者ゼカリヤは、神はイスラエルをご自身の瞳として愛されている事を教えています。
◆ゼカ 2:8 あなたがたを略奪した国々に主の栄光が私を遣わした後、万軍の【主】がこう言われたからだ。『あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。・・』」(参照:申命記32:10)
以上の他に旧約聖書で、イスラエルとイスラエルの都エルサレムを愛される愛が多く啓示されていますが、神のイスラエルへの愛が聖書に一貫して流れています。それ故に神は、イスラエルを代名詞や象徴的な特別名前で繰り返し呼んでおられます。「聖なる民」「宝の民」「祭司の国」「瞳」「妻」「子」「長子」「恋人」「ヤコブの泉」「エシュルン(正しい者の意)」「わたしの証人」などです。

イスラエルが苦しみのエジプトから解放され、40年の荒野の旅を終えてやがて約束の地に導かれようとする時に、モアブの王、バラクが占い師バラムに「イスラエルの呪い」をしつこく願いました。その時、イスラエルを愛する神が占い師バラムに直接臨まれて「イスラエルを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われる」とアブラハム契約の言葉を彼に示されたのです。その時、神がイスラエルをどれほど強く愛されているかを示されています。
◆「民24:2 バラムが目を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、神の霊が彼の上に臨んだ。24:3 彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。

 24:4 神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。 24:5 なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。 24:6 それは、延び広がる谷間のように、川辺の園のように、【主】が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。 24:7 その手おけからは水があふれ、その種は豊かな水に潤う。その王はアガグよりも高くなり、その王国はあがめられる。 24:8 彼をエジプトから連れ出した神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼はおのれの敵の国々を食い尽くし、彼らの骨を砕き、彼らの矢を粉々にする。 24:9 雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を横たえる。だれがこれを起こすことができよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」

7、創造主の神はご自身を「イスラエルの神」とか「イスラエルの聖なる者」と呼ばれた
①イスラエルの神
 聖書に「イスラエルの神」と「イスラエルの聖なる者」という、神の名が繰り返し啓示されていますが、それは「イスラエル民族の神」「イスラエル民族の聖なる者」という意味です。神が、ご自身の名に「イスラエル」を「冠」としてお呼びになっている事によって、イスラエル民族と「アブラハム契約」「モーセ契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」という、5つの特別な契約を結ばれた神だという事を強調されてきました。そのような民族は「イスラエル民族」以外に世界のどこにも存在しません。「イスラエルの神」は聖書全体で195回使用され、新旧約聖書において一貫して教えられている重要な「神観」として啓示されています。以下にその聖書個所を掲げておきます。

①出エジプト記で4回使用(5:1、24:10、32:27、34:23)  ②民数記で1回使用(16:9)
③ヨシュア記で14回使用(7:13、7:19、7:20、8:30、他) ④士師記で7回使用(4:6、5:3、5:5、6:8、11:21、1他)
⑤ルツ記で1回使(2:12) ⑥Ⅰサムエル15回使用(1:17、2:30、5:7、5:8、5:10他)
⑧Ⅰ列王で20回使用(1:30、1:48、8:15、8:17、8:20他) ⑨Ⅱ列王9回使用(9:6、10:3、14:25、18:5、19:15、他)
⑩Ⅰ歴代史で14回使用(4:10、15:12、15:14、16:4、他) ⑪Ⅱ歴代史で22回使用(2:12、6:4、6:7、6:10、6:146他)
⑫エズラ記で13回使用(1:3、3:2、4:1、4:3、5:1、6:14他) ⑬詩篇で8回使用(41:13、59:5、68:35、69:6、72:18他)
⑭イザヤ書で13回使用(17:6、21:10、21:17、24:15、他) ⑮エレミヤ書で49回使用(7:3、7:21、9:15、11:3、他)
⑯ゼキエル書で7回使用(8:4、9:3、10:19、10:20他) ⑰ゼパニ書では1回使用(2:9)
⑱マラキ書で1回使用(2:16) ⑲マタイ伝で1回使用(ルカ15:31) ⑲ルカ伝で1回使用(1:68)

②イスラエルの聖なる者
 「イスラエルの聖なる者」と神が御自身を呼んでおられる箇所も多くあります。以下のその聖書個所を掲げておきます
①Ⅱ列王1回使用(19:2) ②イザヤ8回使用(37:23、41:14・16・20・43:3・49:7他)③エゼキエル1回使用 39:7
「イスラエルの神」と「イスラエルの聖なる者」という「神名」は永遠に変わらない不変の「(神名)となっているのです。

神が聖書全般にわたって御自身をイスラエル民族だけに関連付けて「イスラエルの神」「イスラエルの聖なる者」と呼ばれた事は、ガラテヤ書 6:16の「神のイスラエル」という名称も、神をイスラエル民族だけに関連付けている名称として使用していると解釈するのが大変自然です。                    

 

③聖書は教会に対して「普遍性のイスラエル」という名を与えていない 
 教会は「キリストの花嫁なる教会」「キリストの御体なる教会」という特別な名が与えられていますが、「神のイスラエル」とか「神の民(ラオス/単数形)」とは名付けられていません。教会は多くの民族で成立していますので、「神の諸民族」であっても「神の民(ラオス/単数形))ではありません。黙示録の新天新地に住む全てのキリスト者は「その(神の)民」と呼ばれていますが、その民と言うギリシャ語は「複数形(ラオイ」」になっているので、直訳すれば「その(神の)諸民族」という事になります。


新天新地においても、花嫁なる教会を含めすべての聖徒は、「神の民(単数形)」と呼ばれず「神の諸民族」と呼ばれているのです。「イスラエル」と言う「名」は、神が結ばれた5つの契約に基づく「イスラエル民族」だけに与えられた「専有的固有名」です。その名を教会が使う事は、神に無断で使っている「罪」だという事を覚える必要があります。この世においても、法律的に固有の名前を所有している会社や企業の名を無断で使うと「罪」となるのと同じです。「イスラエル」は「イスラエル民族」だけに神が特権的使用されている「専有的固有名」であり、「聖なる名」なのです。以上の理由により、ガラテヤ書16章6節の「神のイスラエル」は、「神の民全体(教会」ではなく、イスラエル民族のユダヤ人クリスチャンだけが使用できる神による「専有的固有名」だという事ご分かります。、聖書は決してキリストを信じる「神の民全体(教会)」を意味して「普遍性のイスラエル」とは呼んでいないのです。岡山英雄牧師の主張は完全に否定されています。
8、聖書は「イスラエル」という名を全て「イスラエル民族」を意味して使用している
以上の真理は聖書が「イスラエル」という名を全て「イスラエル民族」意味して使用している事で証明されています。
聖書大辞典で調べましたが、旧約聖書において「イスラエル」という名は大変多く使用されている事が分かりました。ヤコブ個人を指して50回、それ以外は全てがイスラエル民族を意味して使用されています。新約聖書では76回使用されています。聖書全体で2367回使用されています。ガラテヤ書6章16節を除くと、2366回です。それらは全て「イスラエル民族」を意味して使用されています。その事実は、ガラテヤ6章16節の「神のイスラエル」も、「イスラエル民族のユダヤ人クリスチャン」を意味して使用されているという有力な証拠となっています。聖書は一貫して「イスラエル」をイスラエル民族として使用していますので、ガラテヤ書6章16節の「神のイスラエル」だけを、神の民全体(教会)を意味する「普遍性のイスラエル」と解釈するのは大変無理がある事が分かります。
◆聖書の「イスラエル」の使用回数(口語訳の聖書語句大辞典より)
①ヤコブの名として (50回)
(創世33回、出エジプト3回、民数2回、士師1回、Ⅰ列王1回、Ⅱ列王1回、Ⅰ歴代7回、詩篇1回、ホセア1回)
②イスラエル民族名として(2367(回)
1)創世:8回 2)出エジプト:152回 3)レビ:64回 3)民数:241回 4)申命:81回、5)ヨシュア:136回、6)士師:165、842
7)ルツ:4回 8)Ⅰサム:140回 9)Ⅱサム:133回 10)Ⅰ列王:182 11)Ⅱ列王160回 12)Ⅰ歴代100回、719
13)Ⅱ歴代168回 14)エズラ:21回 15)ネヘミヤ:24回 16)詩篇:70回 17)箴言:1回 17)伝道:2回 18)雅歌:1回 287
19)イザヤ:82回 20)エレミヤ:78 21)哀歌:3回 21)エゼキエル:185回 22)ダニエル:5回 23)ホセア:47回 397
24)ヨエル:5回 25)アモス:17回 26)オバデヤ:1回 27)ミカ:14回 28)ナホム:2回 29)ゼパニヤ:4回
30)ゼカリヤ:6回 31)マラキ:3回 32)マタイ12回 33)マルコ:2回 34)ルカ:12回 34)ヨハネ:4回 35)使徒:15回
36)ローマ:12回 37)Ⅰコリント:1回 38)Ⅱコリント:3回 39)ガラテヤ:1回 40)エペソ:1回 41)ピリピ:1回 122
42)ヘブル:3回 43)黙示録:3回

Ⅲ キリストの教会観とパウロのイスラエル論
1、キリストの教会観
 新約聖書において、キリストは「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と約束されましたが、そのキリストが一度も「教会」を「神のイスラエル」とお呼びになった事がありません。また、教会を「イスラエルの普遍性」として論じられた事がありません。それは置換神学者が教えるようにガラテヤ書6章16節の「神のイスラエル」が、民族的イスラエルに置き換えられた「教会」を意味する「霊的イスラエル」でない事と、同時に岡山英雄牧師が論じる「普遍性のイスラエル」を意味する神の民全体の「教会」を意味していない事を証明する有力な証拠となっています。

2、パウロのイスラエル論(永遠の神の召命と賜物を受けている民族)
パウロはロマ書9章~11章で特別に「イスラエル論」を論じています。何故でしょうか。1章1節~5章11節迄においてキリストを信じる者の与えられる「神の義」(信仰義認論)が論じられ、5章12節~7章においては神の義に叶った「罪から解放の福音」「律法から解放の福音」が論じられています。8章では、「罪から解放の福音」「律法からの解放の福音」にキリスト者を生かす「御霊」による神の義が成就する事を教えています。つまり、1章から8章は神の義が論じられているのです。9章になるとパウロは突然「イスラエル論」を論じ始めます。何故でしょうか。それは、神の義を論じる場合、信仰義認や「罪からの解放の福音」「律法からの解放の福音」を論じるだけでは不十分だからです。それは、聖書が創造主の神をイスラエルに対する「契約の神」として啓示されている事によります。創造主の神は、イスラエル民族と「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」という、4つの無条件契約と、条件契約の613か条あるモーセ契約を結ばれました。613か条あるモーセ契約はキリストが悉く成就されましたので、キリストによってモーセ律法の神の義が成就しました。それ故に、モーセ律法はキリストの十字架の死で終わりました。パウロがその事を教えています。

◆「ロマ10:4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」

しかし、イスラエル民族と結ばれた他の4つの無条件契約は未だ完全に成就していませんので、もし、その契約を神が成就されなければ神が「義」でなくなってしまいます。神が「嘘つきの神」となってしまいます。そうでない事を証明する為に、パウロは、イスラエル民族と結ばれた4つの無条件契約を神は必ず完全に成就してご自身が「義」である事を証明されると、どうしても論じる必要に迫られたのです。その為に彼は9章から11章において「イスラエル論」を論じました。もし、イスラエルと結ばれた「無条件契約」を神が完全に成就しなければ神は「義」でなくなってしまうのです。神はイスラエル民族と結ばれた4つの無条件契約を成就されて、ご自身の「義」を必ず示されるというのがパウロの主張です。神は、その4つの無条件契約の中の「世界を祝福する」という契約におこぼれとして教会を与らせておられますが、教会は「土地の契約」など他の契約には与っていません。神は教会と一度もイスラエル民族と結ばれた4つの無条件契約を結ばれた事はありません。イスラエルと言う呼び方は、神が一つの条件契約(モーセ契約)と「4つの無条件契約を結ばれた「特別な民族」だという意味で使用されているのです。その為、パウロはイスラエル民族と教会をいつも厳格に区別し、現在、福音に敵対しているイスラエル民族は、神に天地万物の創造前から世界の祝福の為に選ばれ、4つの無条件契約が与えられ、それに基づく「神の召命と賜物」は永遠に変わらない事を教えています。

◆「ロマ11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。 11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません」と。

ではどうして、イスラエル民族は「永遠の召命と賜物」を神より受けていると言えるのでしょうか。以下にその事を論じていきます

3、イスラエルは契約の民である
 既に論じてきましたが、神がイスラエル民族と結ばれた「一つの条件契約」と「4つの無条件契約」を聖書がどのように教えているのかを以下に論じて行きたいと思います。一つの条件契約と4つの無条件契約を正しく学ぶ時、ガラテヤ書6章の16節の「神のイスラエル」が文字通り字義通りにイスラエル民族の中のキリストを信じる「ユダヤ人聖徒達」を意味している事が分かってきます。

①モーセ契約(613のモーセ律法/シナイ契約/条件契約)
  神が、モーセを通してシナイ山でイスラエルに与えられたシナイ契約のモーセ律法は613か条あるとユダヤ人の間に伝統的に教えられています。イスラルの人たちがそのモーセ律法を覚え、それを実行する事を目的に与えられた律法が「衣の裾に4つ房を付ける律法」でした。「民 15:38 イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。15:39 その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである」。この律法に従ってキリストはご自分の衣の裾に房を付けておられ、それを見ては、モーセ律法613か条を思い起こしておられたのだろうと思います。モーセ五書からモーセ律法613か条を数えるのは大変努力が要ります。私は250程数えましたが、それ以上なかなか進みません。しかし、ネットでユダヤ人のラビであったマイモニデスがそれを纏められ、それが公開されていましたので、今はそれを参考にしています。キリストは、ご自分が守るべきモーセ律法を全部実行し守られたので、613か条すべての律法を守られた事になります。それは、律法は集合体で、一つを破れば全部破った事になる事をヤコブが教えています。「ヤコブ 2:10 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」。ですから、キリストがユダ族のユダヤ人独身男性として、守る必要のある律法を全部守った事は、女性や既婚者や、また、祭司やレビ人が守る必要のある律法などをも含めて全部守られた事になります。キリストは、モーセ律法613を悉く成就されたので、十字架の死によってモーセ律法613を終わらせました。

◆「ロマ 10:4 キリストが律法を終わらせられた」。キリストの十字架の死によってモーセ律法を守らなければならない律法の時代は過ぎ去りました。安息日の掟も、十分の一の献げ物の掟も終わっています。今は、キリストの律法の時代となっています。
◆「Ⅰコリ 9:21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。」
◆「ガラ 6:2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」
モーセ律法は終わりましたが、ユダヤ人はモーセ律法613(シナイ契約)を授かった律法の民となのです。
②モーセ律法付与の目的
631か条のモーセ律法がイスラエルに与えられた目的は二つあります。
1)選民の自覚
613か条のモーセ律法がイスラエルに与えられた目的は、イスラエル民族が他の偶像崇拝の異邦人民族とは異なり、世界の祝福の為に特別に選ばれた「選民」だという事を神が自覚させる為でした。
◆出 23:24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。また、彼らの風習に倣ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。
◆「レビ 18:3 あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。」
2)律法を守れば「祝福の民」となる
613か条のモーセ律法がイスラエルに与えられたもう一つの目的は、モーセ律法を守れば、世界を祝福する「聖なる民」「祭司の王国」となるという事でした。モーセ律法は、救いの為の条件ではなく、エジプトから救われたイスラエルが神の愛に応答して祝福を受ける為、つまり世界を祝福する「聖なる民」「祭司の王国」となる為の条件として与えられたものです。
◆「出19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
モーセ律法は、ユダヤ人に与えられた律法を守れば「神の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」となるという条件契約になっています。キリストがその613か条の律法を全て実行されたので、キリストを信じるユダヤ人は条件を守った者と認められ義と認められました。それ故にペテロはユダヤ人キリスト者を全て単数形で「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神の所有とされた民」と呼びました。ペテロは、ユダヤ人キリスト者を異邦人キリスト者と区別しています。またの「教会(神の諸民族)」とは明確に区別している事が分かります。その事は、ガラテヤ書6章16節でパウロが語る「神のイスラエル」は「教会(神の諸民族」)とは区別して「ユダヤ人クリスチャン」を意味して使っている事が分かります。
◆「Ⅰペテ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」
③アブラハム契約
 創世記でアブラハム、イサク、ヤコブと交わされた「アブラハム契約」が11回啓示されています。その内容を要約しますと、「世界を祝福する民となる」「子孫の増大」「約束の土地の付与」となります。
1)第1回目の契約箇所:創世記12:1~3  2)第2回目の契約箇所:創世記12:6~7
3)第3回目の契約箇所:創世記13:14~17 4)第4回目の契約箇所:創世記15:5~7
5)第5回目の契約箇所:創世記15:17~19 6)第6回目の契約箇所:創世記17:1~8
7)第7回目の契約箇所:創世記18:17~18 8)第8回目の契約箇所:創世記22:15~28
9)第9回目の契約箇所:創世記26:2~5  10)第10回目の契約箇所:創世記28:13~15
11)第11回目の契約箇所:創世記35:11~12

1)アブラハム契約は無条件契約である
以上の、11回にわたって神がイスラエルと交わされたアブラハム契約は創世記15章で無条件契約(片務契約)であることが教えられています。神が臨在するシャカイナグロリーだけが切り裂かれた契約の犠牲の動物の間を通られ、アブラハムは通っていない事から、アブラハム契約は無条件契約であることが示されています。

◆「15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、 15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、 15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」
神がイスラエルと結ばれたアブラハム契約の実現に向けて神がどれ程重要視されているか、聖書は何度も教え強調されています。
2)アブラハム契約は永遠の契約である
◆「創 17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。 17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」 17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。 17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。 17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。 17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。 17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

3)神はアブラハム契約の神である
既に論じていますが、神が御自身の事を「イスラエルの神」「イスラエルの聖なる者」と呼ばれているのは、アブラハム契約に基づいています。それはアブラハム契約の条文を読めば明白です。「創17:7わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである」。この約束の条文に従って、「イスラエルの神」「イスラエルの聖なる者」という神名以外に「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とか「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神名で神は御自身を啓示されています。
◆アブラハム、イサク、ヤコブの神(3回啓示)
「出 3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、【主】が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。」(他/使 3:13、 7:32)
◆アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神(6回啓示)
「出 3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。」(他/出 3:15、4:5)
キリストも復活論争において「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神名を使って論争をされています。
「マタ 22:32 『わたしはアブラハムの、イサクの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」(他/マルコ12:26、ルカ20:37)

キリストは、アブラハム契約に従って、生きている者の神は陰府において霊で生きているアブラハム、イサク、ヤコブを必ず甦らせて、彼らを約束の地に立たせられる事を強調されました。
④土地の契約(モアブ契約/パレスチナ契約)
 申命記章29章~30章迄において、神は「アブラハム契約」において交わされた「約束の土地」の契約をモアブの地で改めてイスラエルと交わされましたので、神学的に「モアブ契約」とか「土地の契約」とか「パレスチナ契約」と呼ばれています。
◆「申 29:1 これは、モアブの地で、【主】がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」
申命記29章では律法に従えば祝福、背くならば呪われると教えられています。その29章だけを見れば条件契約の様に思えるのですが、実は30章ではそれが無条件契約になっているのです。それは、神に背いたイスラエルがAD70年ローマによって滅び、3分の1が殺され、3分の1が奴隷となり、3分の1が世界に散って行きました。神に呪われ裁かれ世界に散った後、世界からイスラエルを神が不信仰な状態で約束の地に帰還させられることが旧約聖書に繰り返し預言されています。その預言が1948年5月14日に成就しました。

しかし、イスラエルは反キリストの出現により再び国を失い世界に離散します。そのイスラエルを神は今度は信仰ある状態で約束の地に帰還させられます。神はイスラエルを「神を愛する民」「神の御声に聞き従う民」、律法の「戒め全てを守る民」とされるのです。それによって、イスラエルは約束の地を得ると神は約束されています。信仰ある霊性をもってイスラエルが約束の地に帰還する為に、イスラエルの霊的リバイバルがエゼキエル書とゼカリヤ書に預言されています。エゼキエル37章の枯れた骨の出来事とゼカリヤ12章のイスラエル民族の悔い改めの出来事がそれを教えています。

◆「申30:1 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、【主】があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、 30:2 あなたの神、【主】に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、30:3 あなたの神、【主】は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。 30:4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。 30:5 あなたの神、【主】は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。 30:6 あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、【主】を愛し、それであなたが生きるようにされる。 30:7 あなたの神、【主】は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。 30:8 あなたは、再び、【主】の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行うようになる。」

神は創世記の11回のアブラハム契約で約束された土地に関して、改めてモアブの地で無条件契約として、イスラエルに付与する事を約束されました。それほど、神は、イスラエルに「約束の地」を与える事について固執されているのです。私たちはそれを忘れてはならないのです。その神の固執は聖書全体に響いています。オーケストラのトランペットの様に、約束の地を必ずイスラエルに与えるという神の御心が強く高く強く鳴り響いているのです。それは約束の地に関する聖書個所を読めばわかると思います。私は280ヶ所確認できました。その響きを実感して頂くために主な聖書個所を以下に紹介させて頂きます。

⑤聖書の約束の土地に関する言及
1)創世記(30回)
アブラハム契約に基づく「約束の地」に関する言葉が、創世記では30回あります。主なものを2ケ所紹介します。

◆「創13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。 13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。 13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。 13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」 13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。」
◆「創17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
2)出エジプト記(16回)
◆「出 6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」
◆「出33:1 【主】はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。」
3)レビ記(5回)
◆「レビ25:38 わたしはあなたがたの神、【主】である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。
4)民数記((13回)
◆「民 13:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。 13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
5)申命記(49回)
◆「申11:24 あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる。」
6)ヨシュア記(11回)
◆「ヨシ11:23 こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて【主】がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。
7)士師記(2回)
◆「士2:1 さて、【主】の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない』
8)ルツ記(1回)
◆「ルツ1:7 そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた」
9)Ⅰサムエル(1回)
◆「Ⅰサム22:5 そのころ、預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」そこでダビデは出て、ハレテの森へ行った」
10)Ⅱサムエル(1回)
◆「Ⅱサム7:10 わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。」
11)歴代(1回)
◆「Ⅱ歴代30:9 あなたがたが【主】に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、【主】は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」
12)エズラ記(8章1節~36と10章7節2回)
◆「エズ8:1 アルタシャスタ王の治世に、バビロンから私といっしょに上って来た一族のかしらとその系図の記載は次の通りである。」
◆「エズ10:7 そこで、彼らは、捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するようにと、ユダとエルサレムにおふれを出した。
13)ネヘミヤ記(5回)
◆「ネヘ9:7 あなたこそ神である【主】です。あなたはアブラムを選んでカルデヤ人のウルから連れ出し、彼にアブラハムという名を与えられました。 9:8 あなたは、彼の心が御前に真実であるのを見て、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の地を、彼と彼の子孫に与えるとの契約を彼と結び、あなたの約束を果たされました。あなたは正しい方だからです。」
14)詩篇(41回)
◆「詩105:6 主のしもべアブラハムのすえよ。主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。
 105:7 この方こそ、われらの神、【主】。そのさばきは全地にわたる。
 105:8 主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。
 105:9 その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。
 105:10 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。
 105:11 そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」
15)イザヤ書(35回)
◆「イザ14:1 まことに、【主】はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。
16)エレミヤ書(30回)
◆「エレ32:37 「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。 32:38 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 32:39 わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、 32:40 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。 32:41 わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」
17)哀歌(1回)
◆「哀4:22 シオンの娘。あなたの刑罰は果たされた。主はもう、あなたを捕らえ移さない。」
18)エゼキエル書(12回)
◆「エゼ47:13 神である主はこう仰せられる。あなたがたがイスラエルの十二の部族にこの国を相続地として与える地域は次のとおりである。ヨセフには二つの分を与える。 47:14 あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。」
19)ダニエル書(2回)
◆「ダニ12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」
20)ホセア書(7回)
◆「ホセ 1:10 イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。」
21)ヨエル書(5回)
◆「ヨエ2:18 【主】はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。 2:19 【主】は民に答えて仰せられた。「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する。わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の間で、そしりとしない。」
22)アモス書(3回)
◆「アモ9:14 わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。 9:15 わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない」とあなたの神、【主】は、仰せられる。
23)オバデヤ書(2回)
◆「オバ 1:17 しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する。」
24)ミカ書(3回)
◆「ミカ7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。 7:19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。 7:20 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。
25)ゼパニヤ書(4回)
「ゼパ3:19 見よ。その時、わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、足のなえた者を救い、散らされた者を集める。わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう。 3:20 その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの繁栄を元どおりにするとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と【主】は仰せられる。」
26)ハガイ書(1回)
「ハガ2:6 まことに、万軍の【主】はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。 2:7 わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の【主】は仰せられる。 2:8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。──万軍の【主】の御告げ── 2:9 この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の【主】は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。──万軍の【主】の御告げ──」
27)ゼカリヤ書(11回)
「ゼカたしは来て、あなたのただ中に住む。──【主】の御告げ── 2:11 その日、多くの国々が【主】につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の【主】が私をあなたに遣わされたことを知ろう。
 2:12 【主】は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」
⑥エゼキエル書におけるイスラエル12部族への約束の地の分割の預言
  以上の旧約聖書において何度も強調されている約束の地が「アブラハム契約」と「土地の契約」に基づいて、預言者エゼキエルは神が約束通りにイスラエル12部族に約束の地を分割して与えられる事を預言しています。

◆「エゼ48:1 部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、ハマテを経て北のほうへダマスコの境界のハツァル・エナンまで──東側から西側まで──これがダンの分である。 48:2 ダンの地域に接して、東側から西側までがアシェルの分。 48:3 アシェルの地域に接して、東側から西側までがナフタリの分。 48:4 ナフタリの地域に接して、東側から西側までがマナセの分。 48:5 マナセの地域に接して、東側から西側までがエフライムの分。 48:6 エフライムの地域に接して、東側から西側までがルベンの分。 48:7 ルベンの地域に接して、東側から西側までがユダの分である。・・・48:22 君主の所有する地区の中にあるレビ人の所有地と、町の所有地を除いて、ユダの地域とベニヤミンの地域との間にある部分は、君主のものである。 48:23 なお、残りの部族は、東側から西側までがベニヤミンの分。 48:24 ベニヤミンの地域に接して、東側から西側までがシメオンの分。 48:25 シメオンの地域に接して、東側から西側までがイッサカルの分。 48:26 イッサカルの地域に接して、東側から西側までがゼブルンの分。48:27 ゼブルンの地域に接して、東側から西側までがガドの分。 48:28 ガドの地域に接して南側、その南の境界線はタマルからメリバテ・カデシュの水、さらに川に沿って大海に至る。48:29 以上が、あなたがたがイスラエルの部族ごとに、くじで相続地として分ける土地であり、以上が彼らの割り当て地である。──神である主の御告げ──」

エゼキエル書は、イスラエル12部族の割り当て地だけでなく、甦ったダビデ王の為の割り当て地やレビ人や祭司たちの割り当て地についても詳細に預言しています。これらの預言は象徴的に解釈する事が出来ません。文字通り字義通りに、神はアブラハム契約と土地の契約に従って「イスラエル12部族」に約束の地を割り当てられるのです。

⑦ダビデ契約
 以上の「約束の地」に関する「アブラハム契約」「土地の契約」に対して、肉付けとして「ダビデ契約」を神はダビデ王と結ばれました。Ⅱサムエル記7章12b節~16節とⅠ歴代17章の二か所に啓示されています。
◆「Ⅱサム7:12bさらに【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』 7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 7:14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。 7:15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。 7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
◆「Ⅰ歴代1710bわたしはあなたに告げる。『【主】があなたのために一つの家を建てる。』 17:11 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 17:12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。 17:13 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。 17:14 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」
以上の二つのダビデ契約を、全てを詳細に論じる事はこの紙面では出来ませんが、重要な事はサムエル記ではダビデがダビデ王国(イスラエル)の王として永遠に立つことが約束され、歴代誌ではメシヤが神の家であるエルサレム神殿と神の王国であるイスラエルの王として永遠に立つことが約束されている事です。
アブラハム契約と土地の契約に基づく約束の地には、メシヤと復活したダビデが永遠の王として立つことが約束されています。エゼキエル書ではダビデ王がメシヤである王に仕える「君主」となる事が預言されています。

1)メシヤがメシヤ的王国の王となる預言
◆「エゼ21:27 廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」
※わたしが授ける権威を持つ者=メシヤ的王国の王となるメシヤを意味している(参照創世記49:10)
◆「エゼ43:5 霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、【主】の栄光は神殿に満ちていた。 43:6 ある人が私のそばに立っているとき、私は、神殿からだれかが私に語りかけておられるのを聞いた。 43:7 その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住所である。」
 ※主なる神(メシヤ)がメシヤ的王国のイスラエルの王として、エルサレム神殿に王座を設け永遠に住まわれる
2)復活のダビデがメシヤ的王国のイスラエルの王となる預言
◆「エゼ 37:22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。
◆「エゼ37:24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」
3)エゼキエル書の復活したダビデが王なるメシヤに君主として仕え、祭儀を行う預言
◆「エゼ 44:3 君主だけが、君主として【主】の前でパンを食べるために、そこに座ることができる。彼は門の玄関の間を通って入り、そこを通って出て行く。」(その他/ 45:7、16、17、22、46:2、4、8、10、12)
4)ダビデ王に割り当て地が与えられる預言
◆「エゼ 48:21 聖なる奉納地と町の所有地の両側にある残りの地所は、君主のものである。これは二万五千キュビトの奉納地に面し、そこから東の境界までである。西の方も、その二万五千キュビトに面し、そこから西の境界までである。これは部族の割り当て地にも接していて、君主のものである。聖なる奉納地と神殿の聖所とは、その中央にある。48:22 君主の所有する地区の中にあるレビ人の所有地と、町の所有地を除いて、ユダの地域とベニヤミンの地域との間にある部分は、君主のものである。」
⑧エゼキエル書以外でメシヤが「メシヤ的王国」でイスラエルの王となる事を預言する聖書箇所
1)創世記49章10節
◆「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。」
2)民数記24章17節
◆「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る」
3)Ⅰ歴代17章11節~14節
◆「・・わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。17:12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。 17:13 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。 17:14 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」
4)詩篇2篇6節
◆「詩2:6 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
5)詩篇24篇7節~10節
◆「24:7 門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。24:8 栄光の王とはだれか。強く力ある【主】。戦いに力ある【主】。24:9 門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。24:10 栄光の王それはだれか。万軍の【主】この方こそ栄光の王。」
6)イザヤ2章2節・5節
◆「イザ2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち・・2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも【主】の光に歩もう。」
7) イザヤ書9章6節・7節
◆「イザ 9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」
8)イザヤ11章1節~3節
◆「イザ11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。 11:2 その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主】を恐れる霊である。11:3 この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
9)エレミヤ書23章5節・6節
◆「エレ 23:5 見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。23:6 彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『【主】は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である。」
10)ミカ書5章2節
◆「ミカ 5:2 ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
11)マタイによる福音書20章21節~23節(マルコ10:35~40)
◆「マタ 20:21 イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」 20:22 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。 20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
12)マタイ23章39節
◆「マタ 23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
13)マタイ26章28節(マルコ14:25)
◆「マタ 26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
14)マルコ13章27節
◆「マル 13:27 そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」
15)ルカによる福音書1章31節~33節
◆「ルカ1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。 1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
16)ルカによる福音書1章67節~68節
◆「ルカ1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。 1:68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、 1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」
17)ルカによる福音書22章16節
◆「ルカ 22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
18)使徒行伝1章16節~17節
◆「使徒1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」
⑨エゼキエル書以外で復活したダビデがメシヤ的王国のイスラエルで王となる事を預言する聖書箇所
1)Ⅱサムエル7章16節・17節
◆「Ⅱサム・・7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」 7:17 ナタンはこれらすべてのことばと、これらすべての幻とを、そのままダビデに告げた。
2)詩篇89篇3節・35節・49節
◆「詩 89:3 「わたしはわたしの選んだ者と契約を結びわたしのしもべダビデに誓う。・・89:35 わたしはかつてわが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わないと。89:49 主よあなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは真実をもってダビデに誓われたのです。」
3)イザヤ55章3節
◆「イザ 55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」
4)エレミヤ書30章9「エレ 30:9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。」
5)エレミヤ書33章15節                                                          ◆「エレ 33:15 その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。」
6)ホセア書3章5節
◆「ホセ 3:5 その後で、イスラエルの子らは帰って来て、自分たちの神である【主】と、自分たちの王ダビデを尋ね求める。・・」
7)アモス書9章11節
◆「アモ 9:11 その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。」
以上の様に聖書は「ダビデ契約」に基づき、メシヤ(キリスト)がメシヤ的王国のイスラエルの王となる事と、復活したダビデ王もイスラエルの王となる事が預言されています。ダビデはキリストとの関係では「君主」と呼ばれています。イスラエル民族にはアブラハムに約束された約束の地がメシヤ的王国のイスラエル国家の領域となり、キリストと復活したダビデ王により愛と正義と知恵によって統治されるのです。そのメシヤ的王国のイスラエルの霊性が素晴らしく高くなることが「新しい契約」に基づき聖書に多く預言されています
⑩エレミヤ書31章33節~34節の新しい契約
◆「エレ31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
以上の預言者エレミヤによる終末時代におけるイスラエルに与えられる「新しい契約」の条項は4つあります。
1)キリストの律法がイスラエルの民の心の中に刻印される。  
 2)キリストの律法が刻印されたイスラルの民に対して神が彼らの神となり、イスラエルが神の民となる。
 この条項は、神が「イスラエルの神」と呼ばれる事と、イスラエルが「神のイスラエル」と呼ばれる事を約束しています。
ガラテヤ書の6章16節の「神のイスラエル」は、キリストを信じて罪が永遠に赦され、心にキリストの律法の刻印を受けたユダヤ人クリスチャンにおいて一部が成就しています。「神のイスラエル」は岡山英雄牧師の論じる「普遍性のイスラエル」という神の民全体(教会)の名ではなく、エレミヤが預言する新しい契約に基づくイスラエル民族に与えられた契約の名前となっています。
3)全てのイスラエルの民がキリストを信じ神を体験する民となる。
4)イスラエルの人々の罪がキリストの十字架の血によって永遠に赦される。
⑪新しい契約に基づきメシヤ的王国のイスラエル民族の霊性が高くされる預言

1)神様からいつも喜ばれている高い霊性(イザヤ65:18~19)
◆「イザわたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。 65:19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。」
2)神様をいつも喜びたたえ、感謝している高い霊性 (イザヤ12:4~6)
◆「イザ12:4 その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。 12:5 【主】をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。 12:6 シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」
◆「イザ 51:3 まことに【主】はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を
【主】の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」
◆「イザ61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」
3)神様に祈るとすぐに答えられる高い霊性(イザヤ65:23)
「イザ65:24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」
4)誰からも神様について教えてもらう必要がない高い霊性(エレミヤ31:34)
◆「エレ 31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。」
5、神様にいつも従順な生活を送る高い霊性(エゼキエル36:37~38)
◆「エゼ 36:37 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。 36:38 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが【主】であることを知ろう。」
◆「ミカ 6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」
◆「ゼカ 8:23 万軍の【主】はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ』と言う。」
6)信仰からくる揺るがない平安を継続させる高い霊性(詩篇46篇)
◆「詩46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。 46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。 」
◆「46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」
7)罪を退ける高い道徳性(詩篇24:4)
◆「詩24:3 だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。 24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」
8)正義に満ちた高い道徳性
◆「イザ61:10 わたしは【主】によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。 61:11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ。」
 イスラエルにとって、正義の一つは神の如く謙遜である事が含まれています。預言者ゼパニヤは次のようにイスラエル人々に告げました。新改訳では「柔和」と訳されている言葉が、口語訳では謙遜と訳されています。英訳では謙虚とか謙遜と言う意味の“humilityと訳されています。ヘブル語原語はアナワーです。このアナワーは箴言15:33 22:4にも使用され、新改訳聖書でも口語訳聖書でも謙遜と訳されています。新共同訳では「身を低くする」と「謙遜」と訳されています。
 この、「謙遜」とか「柔和」とか「身を低くする」訳されている「アナワー」という正義の心は、キリストが最も深く示された正義の心でした。また、パウロもペテロもキリストに倣って非常に大事にしていた正義の心でした。
9)真実の愛に満ちた高い道徳性
神様が、イスラエルの人々に求められたのは「真実の愛」でしたので、当然、メシヤ的王国のイスラエルの人々は真実の愛に満ちて、世界の多くの人々に神様の祝福をもたらします。
◆「ホセ 6:6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」
 イエス様もこのホセアのみ言葉を2回も引用されて、愛の大切さを説かれました。「マタ 9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」
◆「マタ12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」
10)神の御心を正しく教える高い霊的能力
 イスラエルの人々は神様の御心を異邦人に正しく伝える高い霊的能力を身に付けるので異邦人から「主の祭司」とか「神に仕える者」と呼ばれる事が預言されています。
◆「イザ61:6 しかし、あなたがたは【主】の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。」

【終わりに】
旧約聖書はメシヤ的王国のイスラエルの人々は、非常に高い霊性と道徳性を身につける事を詳細に預言しています。しかし、現在のイスラエルはそうではありません。殆どが、キリストを信じていません。1948年5月14日にイスラエル国家が再建されてから、現在まで、アラブの人たちによるテロとの戦いが続き、その対応に苦慮し、ガザ地区とヨルダン西岸地区にテロから守るための防護壁を造らざるを得なくなっています。また、イスラエルをパレスチナから撲滅させようとするアラブ連合軍と4回の中東戦争をせざるを得ない事や、レバノンに拠点を置いてイスラエルにテロを繰り返してきたパレスチナ解放機構のテロとの戦いの為にレバノン戦争を2回せざる得ない状況に追い込まれてきました。そうした、国家存亡をかけての厳しい戦争の中で、イスラエル軍の間違った暴力的な殺戮が数は少ないのですが何度かあった事は事実です。しかし、それをもってイスラエルを暴力国家とは批判できないのです。イスラエルはアラブの人たちとの平和的な共存を強く願っています。その証拠は多くありますが、その一つは1967年の第3次中東戦争(6日戦争)で獲得したイスラエルの国家の倍以上の面積がある「シナイ半島」を全部エジプトに変換した事です。信じられないような譲歩です。

パレスチナのハマスはイスラエルに向けて時に年間1万発のロケット弾を撃ち込んでくると言われています2021年5月においても、沢山のロケット弾が撃ち込まれ、それを殆ど迎撃したのですが、その後、イスラエル軍はガザ地区のパレスチナに報復攻撃をしています。更に2023年10月7日には、イスラエル南部の人々に対してテロを行い残虐な方法で多くのイスラエルの人々を殺戮し、200人以上を人質にしました。それに対して、イスラエルはガザ地区からテロ組織の「ハマス」を殲滅せんとしてガザ地区への攻撃が続けられています。ハマスによる「フェイク」が多くあるので、ガザのパレスチナの人々の犠牲の人数は正確には分かりませんが、かなりの人々が犠牲になっています。その是非は別として、常にアラブの人たちが先にテロを行い、ロケット攻撃などでイスラエルの人々の命を狙っています。そのテロに根底にあるのは、ユダヤ人というだけでユダヤ人全ての撲滅を掲げる「反ユダヤ主義」です。多くのメディヤは殆どその事を報道せず、イスラエル国防軍の行った報復攻撃によって被害を受けたパレスチナ国民の被害状況を伝える事に強調点を置き、反ユダヤ主義感情を煽り立てています。この問題は、別に詳細に論じたいと思っていますが、岡山英雄牧師の「現在のイスラエルが暴力国家」だという批判も、聖書が教える「イスラエル」に関して間違った神学に基づく批判となっている事を指摘するにとどめておきます。また、例え現在のイスラエルの人たちがキリストを否定し、又、多くの問題を抱えていても、それによって神の選民としての「召命と賜物」は、「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」という4つの無条件契約の故に永遠に変わらず保持されているのです。そして、キリストは十字架の死と復活により、彼らに与えられている4つの無条件契約が完全に彼らに成就することを「保証」されたのです。「ロマ15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり・・」

※中東問題の原因について、米子復活教会のブログに4回に渡ってアップしていますので、それもお読みいただければ感謝です。