岡山英雄牧師著「小羊の王国」の問題点3
2024年9月24日 米子復活教会牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
岡山英雄牧師著の「小羊の王国」の問題点を、これまででは黙示録7章の「14万4千人」の解釈についてと、「イスラエルの普遍性」というイスラエル論について批判的に検証し論じましたが、今回は黙示録11章の「二人の証人」の解釈の問題点を論じたいと思います。
Ⅰ岡山英雄牧師の解釈
岡山英雄牧師が黙示録11章に登場する「二人の証人」についてどのように解釈されているのかを最初に御紹介しておきます。以下の様に解釈されています。
「永遠の都をめざす神の民の姿が、黙示録に様々な幻によって描かれているが、その中で最も重要なのは『二人の証人』の幻(11:3~13)である。」
岡山英雄牧師は「二人の証人」を、「神の民」(教会)だと象徴的に解釈されていますが、その理由について以下に纏めご紹介しておきます。
1、岡山英雄牧師が二人の証人を「神の民」(教会)だと解釈する理由
①黙示録では燭台が教会の象徴とされているから
黙示録では教会が象徴的に燭台と呼ばれている(黙1:20)ことから、「燭台」と呼ばれている二人の証人は教会を意味している。
②二人の証人を殺す獣は文字通りの怪獣でなく「ローマ帝国」の象徴であるから
二人の証人を殺す「獣」(11:7)は、文字通り字義通りの怪獣ではなく、強大な支配権を持つ当時の「ローマ帝国」を象徴的表現している。そのような象徴的獣によって殺される「二人の証人」も象徴的に理解すべきであり、「二人の証人」は神の民(教会)の象徴である。
③黙示録11章~13章はすべてシンボル(象徴的)に表現されているから
以下は、象徴として取り上げておられる例
1)大きな赤い竜はサタンの象徴 2)荒野の女は神の民(教会)の象徴 3)地から上って来た獣は偽預言者の象徴
4)二人の証人が預言する1260日はあらゆる時代の神の教会が「世の光」として証言続ける期間の象徴
5)神の戒めを守りイエスのあかし(証言)を堅く守った者は、「死に至るまで命を惜しまず」、小羊の血とあかし(証言)のことばの故に「竜」に勝つ、「神の民」(教会)の象徴である。
2、荒布を着ての預言活動の意味
岡山牧師は、二人の証人が荒布を着て預言活動をする意味について、黙示録10章でヨハネが食べた巻物に関する味が「最初は口に甘く、食べると苦くなった」という体験と対応しているという。「黙10:10 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」。 巻物の味が口には蜜の様に甘く、腹では苦くなったというヨハネの体験は、神の証人の証言を信じる者には救いとなり、信じない者には裁きの宣言となるという事の象徴的出来事だと教えられている。二人の証人の宣教活動がそれに対応しているという。つまり、荒布を着ての宣教活動は、神のことばに応じなければその人には厳しい裁きが待っている事を象徴的に教えるものだという。そのような二人の証人のような預言活動をした者として、南ユダ王国の預言者であったエゼキエルと異邦人への伝道者パウロを取り上げている。
① エゼキエル
エゼキエルは、南ユダ王国が裁かれ行く事に関して、哀歌と嘆き悲しみが書かれている巻物を見せられているが同時に、南ユダ王国には悔い改めれば救われるチャンスがる事も示されました。エゼキエルは裁きと救いのチャンスに関するメッセージ語った預言者であったので、岡山牧師はエゼキエルも「口に蜜の様に甘い御言葉」と「腹では苦い御言葉」を語った預言者として例に取り上げている。
◆「エゼ2:10それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。」
◆「エゼ 3:17 『「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。 3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う』・・」。
②パウロ
パウロが自分の福音宣教に関して、受け入れる人にとっては「いのちの香り」(救い)となり、否定する人には「死の香り」裁き)となると証言しているので、岡山牧師はパウロの宣教活動で語られてきた福音のみ言葉は「口に甘く」「腹に苦い」ものであった例として取り上げている。
◆「Ⅱコリ2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。 2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」
3、二人の証人の殉教
岡山牧師は、二人の証人の殉教について、黙示録がキリストの十字架の死と関連して教えられている事から説き明かし、キリストの様に神のことばの故に死ぬ覚悟と、キリストの弟子達のように殉教する「殉教的信仰」を神の民(教会=現代の預言者)が持つ必要性を訴えているという。「殉教的信仰」とは、単に肉体の命を捨てる事でなく、日々の信仰の歩みで「地上的な価値を捨て」十字架を背負い自分に死に神に生きることだという。そのような殉教的信仰に生き、殉教した人物として「パウロ」と「ペテロ」を取り上げています。
①パウロの「殉教的信仰」
◆「Ⅰコリ15:31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です(日々死んでいる)。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」
◆「ガラ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
◆「Ⅱテモ4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」
※以上はパウロの「殉教的信仰」を証拠づける聖句として取り上げておらる。
②ペテロの殉教的信仰
◆「Ⅱペテ 1:14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」
※以上はペテロの殉教的信仰を証拠づける聖句として取り上げておられる。
4、「殉教的信仰」 によってもたらされる回心
岡山牧師は、ボウカムの「「殉教的信仰」によってもたらされる未信者の「回心」が黙示録の神学的核心だという教えを引用し、二人の殉教の死後の、復活、昇天、地震による7千の死、地上の民の回心が続いたと教えています。
Ⅱ岡山牧師の二人の証人に関する解釈の問題点
二人の証人を、「神の民」(教会)だと解釈する理由として取り上げてきました岡山牧師の主張を検討したいと思います。
1、黙示録では燭台が教会の象徴とされているから
黙示録では七つの教会が象徴的に燭台と呼ばれている(黙1:20)ことから、「燭台」と呼ばれている二人の証人は教会を意味していると解釈されています。しかし、1章2節の燭台と象徴的に呼ばれている教会は七つありますが、証人は二人であるという、七という数字と二という数字の違いに関しては何も論じられていない事に問題があります。例えば、二人の証人ではなく、七人の証人であれば、七つの教会が燭台と呼ばれている事と関連づけることは可能かも知れませんが、七つの教会と二人の証人、七と二の関連性が何も説かれずに、二人の証人を「神の民(教会)」だと象徴的に解釈するのは大変無理があり不自然だとしか言いようがありません。
① 二人の証人とアジアにある七つの教会の違いについて
アジアにある七つの教会(七という完全数により歴代の主の教会が代表的に論じられている)は、地上に存在する限り「世の光」としての使命があり金の燭台で象徴的に啓示されています。二人の証人(二には完全数の意味はありません)の宣教活動は異邦人が42ヶ月踏みにじる第3神殿(イスラエルの肉による神殿)が建っている「エルサレム」に限定されております。また、二人の証人は七つの教会の様に単に「燭台」と呼ばれず、「二本のオリーブの木」にも例えられています。しかし、アジアの七つの教会が「二本のオリーブの木」で象徴的に啓示されている箇所は何処にもありません。また、パウロはローマ書で異邦人キリスト者を野生のオリーブの枝に例え、ユダヤ人キリスト者を元木のオリーブの枝に例えていますが、オリーブの木だとは教えていません。以上により、二人の証人がアジアの七つの教会の象徴だと解釈するのは無理がある事を教えています。更に、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキアの七つの教会は文字通り、その都市、その地域にあった教会です。二人の証人が預言活動をする場所も「黙11:8主もその都で十字架につけられたのである」と、明確に文字通りエルサレムの都である事が啓示されています。それぞれの場所の地名が文字通りの場所として啓示されている事は、二人の証人がアジアの七つの教会(神の民)を象徴しているとは決して言えない事を示しています。
燭台という共通した部分だけを取り上げ、相違が他にある事に関して説明をしないのは、正しい解釈とは言えません。七つの教会の七と、二人の証人の二との関連性、二人の証人がオリーブの木で象徴的に例えられていますが、七つの教会はオリーブの木で例えられていない事、七つの教会のそれぞれが置かれている都市や地域と二人の証人が預言活動をしたエルサレムとの関連性について、何も語らず、二人の証人をいきなり「教会」を象徴しているという解釈に大きな問題があります。
②黙示録の二人の証人とゼカリヤ書の二人の油注がれた者は同一人物か
二人の証人を二つのオリーブの木と二つの二つの燭台に例えて預言している聖書個所は、黙示録以外にゼカリヤ書があります。ゼカリヤ書は終末における「イスラエル」の事が預言されており、その終末の預言の中で、二つの燭台と二つのオリーブの木で例えられている「二人の油注がれた人物」の事が預言されているのです。
◆「ゼカ 4:11 私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」 4:12 私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」 4:13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」 4:14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」
以上の預言は、黙示録11章で預言されている二人の証人は、終末に登場する事を預言する「二人の油注がれた者」だと解釈する事が大変自然な正しい解釈だと言えるでしょう。オリーブの木とイスラエルとは非常に深い絆があることを聖書は教えています。以下にそのことを論じたいと思います。
③オリーブの木とイスラエルとの関係性
1)モーセ律法とオリーブ油
オリーブの木は、古くからイスラエルの地において栽培され、モーセはイスラエルの地を「オリーブ油の地」だと表現しました(申命記9:8)。又、モーセ律法の祭儀には、オリーブの実から絞った「オリーブ油」が聖なる油として頻繁に使用されています。以下の通りです。
◆「出 27:20 あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。」
◆「出 29:40 一匹の雄の子羊には、 上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、 また注ぎのささげ物としてぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。」
◆「出 30:24 桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油を一ヒン。・・」
◆「レビ 24:2 「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。
◆「民 28:5 穀物のささげ物として、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパ。・・」
2)エルサレムとオリーブ山
オリーブの木とエルサレムも大変深い関係があります。それは、エルサレムの東には「オリーブ山」があり、キリストとの関係で大変重要な場所として聖書に登場します。一つは、地上に再臨されるキリスト(メシヤ)がオリーブ山に立たれることがゼカリヤ書で預言され、四福音書ではキリストの祈りの場である「ゲッセマネの園」がオリーブ山にあることが教えられ、キリストはそのオリーブ山にしばしば出かけておられます。また、主が復活され40日間活動された後、オリーブ山から天に昇って行かれたことも教えられています。
◆「ゼカ 14:4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。」
◆「マタ 21:1 さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。」
◆「マタ 24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
◆「マタ 26:30 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。」
◆「ルカ 19:37 イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、・・」
◆「ルカ 22:39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。」
◆「ヨハ 8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。」
3)イスラエル国家とオリーブの木
以上のように、オリーブの木はイスラエルと、又、キリストとも非常に深い絆があり、イスラエルを祝福する木となっています。それ故に、現代のイスラエルの国会議場堂の前には、7つの灯台(ともしびだい)があるメノーラと呼ばれる大きな燭台が設置されていますが、イスラエルの国章はそのメノーラの左右に二本のオリーブの枝が描かれています。
以上のように、オリーブの木はイスラエルを祝福する木としてイスラエルとは切っても切れない深い絆がある木ですので、黙示録11章で象徴的に二本のオリーブの木で教えられている二人の証人は、ゼカリヤが預言する二人のユダヤ人だと解釈することが自然な解釈です。ではなぜ、岡山英雄牧師は「二人の証人」を色々な理由をつけて「神の民全体(教会)」だと解釈されたのでしょうか。
2、二人の証人をアジアの七つの教会の象徴だと解釈する理由
既に論じてきましたが、それは「普遍性のイスラエル」(イスラエルの普遍性)という神学にその理由があります。「普遍性のイスラエル」というのは、イスラエル民族が終末における特別な役割があるとされながらも、キリストを信じるユダヤ人は「神の民(教会)」と一緒になってその特別な役割と使命が果たされるので、イスラエル民族としての特異性を越えて「イスラエルは普遍性」となっているというのです。また、主を信じたイスラエルの民が、神の民(教会)と共に、神の民(教会)の中でその使命を果たすので、教会も普遍化したイスラエル(神のイスラエル)となっているというのです。その神学の問題は「小羊の王国の問題点Ⅱ」で論じていますので参照にして下さい。
岡山英雄牧師が二人の証人を「神の民(教会)」だと象徴的に解釈するもう一つの理由は、「神の民(教会)」こそが、終末時代における中心的な役割を果たす使命があるからだという事です。「神の民(教会)」の「殉教的信仰」によって地上の民を回心に導くのが「黙示録神学の核心」だと論じられているのですが、実際はそうではないのです。それを否定する聖書の重要な真理が啓示されています。以下にそれを論じます。
3、終末におけるイスラエルの「残りの者」の活躍
岡山英雄牧師の「イスラエルの普遍性」、又は「教会は普遍的なイスラエル」であるという神学を否定する重要な真理とは、イスラエルのエリヤの時代から示されてきたイスラエルの「残りの者」(レムナント)と呼ばれる存在の活躍です。レムナントは ヘブル語では「マッツェヴェト」です。
聖書は終末時代にイスラエルの「残りの者」(レムナント)が存在し神に仕える事が預言されています。パウロがその真理をローマ書11章で教えています。
◆「ロマ 11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。11:3 『主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。』」11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。『バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。』 11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」
4、今も存在する残りの者とは誰でしょうか
パウロが教える「今も存在しているイスラエルの残りの者」を以下に列挙しておきます。
◆ペンテコステの日に聖霊降臨の恵みを受けた約120人のキリストのユダヤ人弟子たち。
◆教会時代(聖霊降臨日から空中再臨による教会携挙までの時代)においてキリストを信じる全てのユダヤ人たち(現在のメシヤニックジューも含む)。
◆教会時代(教会携挙)以後の時代においてキリストを信じる全てのユダヤ人たち。
◆異邦人世界に大リバイバルをもたらす14万4千人の童貞の青年ユダヤ人たち。
◆ゼカリヤ書でオリーブの木と燭台とで象徴的に啓示されているイスラエルを悔い改めに導く二人の証人。
◆エルサレムの第三神殿に立つ荒らす憎むべき者である反キリストとその軍隊の虐殺から、キリストの警告に従って山に(荒野)逃げるユダヤ人たち。
※現在のエルサレムにはAD70年に第二神殿が破壊されたままで、神殿はありません。しかし、現在のユダヤ人はエルサレムに新しい神殿を建てるための準備を着々と進め、祭司の訓練を行い、祭儀に必要な祭具はすでにすべてを整えています。またモーセ律法に従って聖めに必要なイスラエル産の赤毛の牝牛の飼育のために研究をしているといわれています。終末の時代に反キリストが神殿に立つことがキリストによって預言されていることは、エルサレムに第三神殿が建っていなければあり得ないことですので、第三神殿は必ず建つ事は間違いありません。そうでなければ聖書もキリストも嘘つきになってしまいます。
◆反キリストの軍隊の虐殺から守られる終末の3分の1のユダヤ人たち。
以上のリストに上がった「残りの者」については、預言者たちが預言している聖書個所を紹介しておきます。
①イザヤ書の預言から
◆「イザ 1:9 もしも、万軍の【主】が私たちに生き残りの者をわずかでも残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じになっていたであろう。」
※イスラエルの残りの者の存在は、神の一方的な憐れみによることが教えられています。
◆「イザ 10:20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、【主】に真実をもって頼る。」
◆「イザ 10:21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。」
※ここで預言されている残りの者は、上記に記述しているすべての「残りの者」を意味しています。
◆「イザ 10:22 たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。」
※終わりの時代に世界に散らされた離散のユダヤ人が、キリストを信じる信仰をもって約束の地に帰還する事が預言
されています。彼らは、反キリストの軍隊の虐殺から逃れたその時代の3分の1のユダヤ人であることが、ゼカリヤ13章8
節で預言されています。
◆「イザ 11:11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる。彼らは、アッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテ、海の島々に残っている者たちである。・・ 11:16 残されている御民の残りの者のためにアッシリアから大路が備えられる。イスラエルがエジプトの地から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」
※離散のユダヤ人たちの約束の地への帰還は、不信仰な状態と信仰ある状態の二種類が預言されていますが、イザヤ書11章は信仰ある状態でユダヤ人が約束の地へ帰還する事が預言されています。その信仰ある状態で約束の地へ帰還するユダヤ人が「残りの者」と呼ばれているのです。
◆「イザ 28:5 その日、万軍の【主】は、民の残りの者には輝かしい冠、栄えの飾り輪となり・・」
※約束の地に帰還した残りの者のために、「万軍の主」が彼らの輝かしい冠となり、また、栄えの飾り輪となって彼らを祝福されます。メシヤ的王国のイスラエルは「残りの者」によってスタートします。
◆「37:32 エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」
※反キリストとその軍隊の虐殺より逃れるために、キリストは山へのがれよと警告されましたが、そのキリストの警告に従って山へのがれたユダヤ人を指して「残りの者」とイザヤは預言しています。彼らの逃れる場所は、エドムにある「ボツラ」(別名ペトラ)です。(イザ34:6、63:1)
◆イザ 46:3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ」。
※パウロがローマ書11章で「ユダヤ人はすべて救われる」と預言していますが、それはイザヤが預言している母の胎内にいる時から神によって聖別されている「残りの者」がすべて救われることを意味しています。すでに記述していますが、預言者ゼカリヤは終末に存在しているすべてのユダヤ人の中の3分の1が反キリストの軍隊の虐殺より守られることを預言しています。それが残りの者と呼ばれるユダヤ人なのです。
②エレミヤ書の預言から
◆「エレ 23:3 しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。」
※エレミヤは、「イスラエルの残りの者」が、牧場と象徴的に表現される約束の地(メシヤ的王国のイスラエル)に帰還し、彼らの牧者であるメシヤ(ダビデの若枝)によってアブラハム契約の「子孫の増大」という約束に従って、多くの子を生んで増えることを預言しています。
◆「エレ23:5 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。 23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『【主】は私たちの正義』と呼ばれよう。 23:7 それゆえ、見よ、このような日が来る。──【主】の御告げ──その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた【主】は生きておられる』とはもう言わないで、 23:8 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた【主】は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」
◆「エレ 31:7 まことに、【主】はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらに向かって叫べ。告げ知らせよ、賛美して言え。『【主】よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』」
※エレミヤ書30章は、終末の時代に離散のイスラエルがアブラハム契約によって与えられている約束の地に帰還し、実質的所有することが預言されています。また、31章も同様に離散のイスラエルが約束の地に帰還し豊かな祝福を受けることが預言されています。その帰還する離散のイスラルの民をエレミヤは「残りの者」と呼んでいます。続けてエレミヤ31章では、やがて異邦人クリスチャンと異邦人の教会がおこぼれとして預かる、終末時代のイスラエルに対する「新しい契約」という重大な契約が啓示されています。罪の赦しの契約と聖霊の内住により心に律法が刻印される約束はイエス・キリストの十字架の死と復活によって実現しました。そのおこぼれに異邦人キリスト者もあずかっているのです。以下の聖句がそれを教えています
◆「マタ 26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」
◆「ヘブル10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。 10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 10:15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。 10:16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。 10:17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」 10:18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。 10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。]
② ミカ書の預言から
◆「ミカ 2:12 ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。」
※預言者ミカは、終末時代においてイスラエルの残りの者を「囲いの中の羊のように‥集める」と預言していますが、実は「囲いの中」と訳されているヘブル語は地名を意味する「ボツラ」が使用されています。日本語訳では形容的意味の「囲いの中」と訳していますが、英訳では地名として訳しています。“・・as the sheep of Bozrah・・” イザヤが終末のイスラエルが反キリストの軍隊より逃れる場所を「ボツラ」としていますので(参照:イザヤ34:5・6、63:1)ミカ書も英訳のように「ボツラ」と訳すことが正しいと思います。
◆「ミカ 4:7 わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。【主】であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。」
※ミカは、イスラエルの残りの者がメシヤ的王国のイスラエルの王となるメシヤに仕える事を預言しています。
◆「ミカ 5:7 そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、【主】のもとから降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みを置かず、人の子らに期待をかけない。」
※ミカは、ヤコブの信仰深い残りの者が、世界を祝福することを預言している。
◆「ミカ 7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。」
※ミカは、イスラエルの残りの者は神の「ゆずり」(神の所有)であるゆえに、神によって罪が赦される民だと預言しています。
③ゼパニヤ書の預言から
◆「ゼパ 2:7 海辺はユダの家の残りの者の所有となる。彼らは海辺で羊を飼い、日が暮れると、アシュケロンの家々で横になる。彼らの神、【主】が彼らを顧みて、彼らを元どおりにされるからだ。」
※海辺というのは、昔ペリシテ人が住んでいた地中海沿岸地域のことです。現在その海辺のガザ地区にパレスチナのアラブ人が住んでいますが、メシヤ的王国ではガザ地区も含め海辺の沿岸地域がイスラエルの残りの者の所有となることが預言されています。エゼキエル書に預言されているイスラエル12部族に割り当てられた土地の区分では、現在のガザ地区はベニヤミン部族が所有することが預言されています。
◆「ゼパ 3:13 イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを言わない。その口の中に欺きの舌は見つからない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はいない。」
※メシヤ的王国のイスラエルの残りの者の霊性の高さ、道徳性の高さと平和性が預言されています。
④ゼカリヤ書の預言から
◆「ゼカ 8:3 【主】はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の【主】の山は聖なる山と呼ばれよう。」 8:4 万軍の【主】はこう仰せられる。「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。 8:5 町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」 8:6 万軍の【主】はこう仰せられる。「もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。──万軍の【主】の御告げ──」 8:7 万軍の【主】はこう仰せられる。「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、 8:8 彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住ませる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。」・・・ 8:11 しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して、かつての日々のようではない。──万軍の【主】のことば─8:12 それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木が実を結び、地 が産物を出し、天が露を滴らすからだ。わたしはこの民の残りの者 に、これらすべてを受け継がせる。 8:13 ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」
※ゼカリヤ8章はメシヤ的王国におけるイスラエルの残りの者の祝福が預言されています。
⑤新約聖書におけるイスラエルの残りの者に関する教え
◆「使 15:17 それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ」
※使徒行伝15章は使徒会議で「異邦人キリスト者」に対する教会の在り方を論議していますが、その中でダビデ王国の復興(メシヤ的王国)におけるイスラエルの人々が「残りの者」と呼ばれています。
◆「ロマ 9:27 イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。」
※パウロはイザヤ書1章9節と10章22節の預言を引用して、終末時代においてはイスラエルの残りの者だけが救われる
ことを教えています。キリストを信じて救われるイスラエルは「残りの者」なのです。それ故に、黙示録7章で預言されてい
るキリストを信じて救われて世界宣教のために用いられる「14万4千人」のユダヤ人青年はすべて「ユダヤ人の残りの
者」なのです。
◆「黙 12:17 すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。」
※キリストを信じている女の子孫が残りの者と呼ばれていることで、女はイスラエルを象徴していることがわかります。そ
れはキリストを信じて救われる人々が「残りの者」と呼ばれるのは、旧約の預言者たちが預言するように「イスラエル」の
人々を意味しているからです。「残りの者」の概念には異邦人は含まれていないのです。
以上のように、イスラエルの「残りの者」(英語でレムナント)と呼ばれるイスラエルの民を中心に終末の歴史を神が統治されることを聖書は明確に教えています。それこそが黙示録神学の中核的教えとなっています。それはアブラハム契約の「イスラエル民族」が世界を祝福するという約束ときちっと呼応し調和しています。神が「神の民(教会)」を中核に終末の歴史を導かれることを黙示録は教えていないのです。その真理は、二人の証人が「神の民(教会)」という象徴的存在ではなく、ゼカリヤが預言する文字通り字義通りユダヤ人だということを教えています。
3、二人の証人を殺す獣は文字通りの怪獣でなく「ローマ帝国」の象徴であるから
「二人の証人」を殺す「獣」(11:7)は、文字通り字義通りの怪獣ではなく、強大な支配権を持つ当時の「ローマ帝国」を象徴的表現している。そのような象徴的獣によって殺される「二人の証人」も象徴的に理解すべきであり、『二人の証人』は神の民(教会)の象徴である。」
以上の、岡山英雄牧師の「二人の証人」を「神の民(教会)」だと象徴的に解釈理由は正しくありません。それは以下の理由によります。
①二人の証人は「エリヤのような」「モーセのような」権威と力を帯びている
第1に、彼らは預言している期間、預言者エリヤのように「天を閉じて雨降らせない権威と力」を持っている事と、エジプトからイスラエルの民を救ったモーセのように「水を血に変える権威と力」と何度でも思うままに「あらゆる災害によって地を打つ権威と力」を持っていることが教えられていることです。そのような力は「神の民(教会)」に与えられていませんので、彼らを神の民の象徴と解釈することはできません。
②黙示録は初代教会の時代とそれ以後の終末の艱難時代等の事を預言している書である
第二に獣が当時の「ローマ」の象徴だという解釈は適切ではありません。確かにローマは初代教会の多くのキリスト者を迫害しましたが、黙示録の預言は、1章から3章までは初代教会七つのアジアの教会のことを列記しながらも、それ以降は、もっと後の終末の艱難時代の事を預言しています。反キリストと偽預言者の出現とユダヤ人迫害、その軍隊の裁き、千年王国、エゼキエル書とは異なるゴグマゴグの連合軍との戦い、最後の審判、イザヤ書65章の新天新地の預言と異なる永遠の新天新地などについて預言しています。
◆「1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」
獣は初代教会時代に存在していた「ローマ」ではなく、ダニエル7章で、再臨のキリストが来臨するまでユダヤ人の聖徒を迫害し続ける恐ろしい一本の角で象徴的に啓示されている反キリストの事を意味しています。ダニエル書が教える一本の角によって迫害を受ける聖徒たちとは「神の民(教会)」のことでなく、明らかに終末時代、メシヤ再臨直前のユダヤ人のキリストを信じる「残りの者」事を意味しているのです。
◆「ダニ 7:19 それから私は、第四の獣について確かめたいと思った。それは、ほかのすべての獣と異なっていて、非常に恐ろしく、きばは鉄、爪は青銅であって、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。 7:20 その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた。その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。 7:21 私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。 7:22 しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」
③ダニエル書7章の小さな角と黙示録11章の獣と13章の獣は同じである
すでにご存知のように、聖書の啓示方法には再記述の原則という啓示方法があり、1つの啓示を別の角度から2回3回と啓示するという言う手法が使用されています。創世記1章の創造の啓示が、2章では別の角度から啓示されていますので、創造の順番が1章とは異なって啓示されています。アブラハム契約も様々な角度から複数にわたって啓示されています。ダビデ契約もそのように2回啓示されています、メシヤの初臨と再臨の預言もそうです。キリストの生涯も4つの角度から啓示されています。キリストの空中再臨の預言の啓示も1コリント15章で教えられていますが、1テサロニケ4章で別の角度から啓示されています。地上再臨も色々な角度から啓示されていますので、旧約聖書、新約聖書の両方を綿密に調べる必要があります。神の裁きに関する教えも色々な角度から啓示されています。終末に関する啓示は再記述の原則によって啓示され、又、まるでパズルのように要約的啓示されていますので、特に終末に関する解釈はその事を念頭に、その書の文脈や聖書全体を正しく読むことが求められます。又、聖書は約40人のユダヤ人たちを通して神が啓示されていますので、ユダヤ人の視点で聖書を読むことが求められています。以上の事を念頭に置いて聖書を読むためには、それぞれが構築した神学や教理をいったん傍らに置くという謙虚さが必要となります。もし、自分の構築した神学や教理が聖書のみ言葉と一致しなければ勇気と謙虚さをもって捨てる覚悟も求められます。黙示録11章において二人の証人を殺す獣は、再記述の原則により13章で詳細に論じられています。ダニエル書の預言する獣の10の角の間から出て3本の角を倒す他の角より大きい一本の角が、終末のユダヤ人の聖徒たちを迫害する反キリストのことを預言していることが分かります。ダニエル書に預言されているその一本の角が改めて黙示録では「獣」として登場します。その他の角より大きい角が小さい角とも呼ばれています(ダニ7:8)。では反キリストがなぜ「小さな角」で表現されているのでしょうか。それは、どんなに恐ろしいどう猛性を持った巨大な存在であっても、王や権力者を意味する角を三本倒す力や物事を見通す目で世界を支配する力と知恵があっても、自分は神だと大口をたたいても、彼は神の視点から見れば「小さな角」に過ぎないからです。そのダニエル書で預言されている小さな角は、黙示録11章では「獣」として登場し、黙示録13章では、ダニエル書に示されたバビロンのどう猛さ(獅子)、メド・ペルシャのどう猛さ(熊)、ギリシャのどう猛さ(豹)を兼ね備えたどう猛さを備えて出現する「反キリスト」として登場します。反キリストのどう猛さは、ダニエルが幻で見たローマのようにこの世には存在しない獣のどう猛さで表現されています。それは、彼はサタンの子であり、サタンが持っているどう猛さを持つ権威をすべて身に着けて登場するからです。(黙示録12:3、13:4)
≪ダニエル書が象徴的に教えている王および国について≫
①ネブカデネザル王が夢で見た立像
「2:32 それは頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、 2:33 すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできていました。」
「ダニ 2:37 王様、あなたはすべての王の王です。天の神はあなたに、国と権威と威力と威光を授け、 2:38 人間も野の獣も空の鳥も、どこに住んでいようとみなあなたの手にゆだね、このすべてを治めさせられました。すなわち、あなたがその金の頭なのです。 2:39 あなたのあとに他の国が興りますが、これはあなたに劣るもの。その次に興る第三の国は青銅で、全地を支配します。 2:40 第四の国は鉄のように強い。鉄はすべてを打ち砕きますが、あらゆるものを破壊する鉄のように、この国は破壊を重ねます。 2:41 足と足指は一部が陶工の用いる陶土、一部が鉄であるのを御覧になりましたが、そのようにこの国は分裂しています。鉄が柔らかい陶 土と混じっているのを御覧になったように、この国には鉄の強さもあります。 2:42 足指は一部が鉄、一部が陶土です。すなわち、この国には強い部分もあれば、もろい部分もあるのです。 2:43 また、鉄が柔らかい陶土と混じり合っているのを御覧になったように、人々は婚姻によって混じり合います。しかし、鉄が陶土と溶け合うことがないように、ひとつになることはありません。2:44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。 2:45 山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様にお知らせになったのです。この夢は確かであり、解釈もまちがいございません。」
②ダニエルが幻で見た獣
「ダニ 7:1 バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。彼はその夢を記録すること にし、次のように書き起こした。7:2 ある 夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。7:3 すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり 7:4 第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた。見ていると、翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のようにその足で立ち、人間の心が与えられた 7:5 第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にくわえていた。これに向かって、「立て、多くの肉を食らえ」という声がした。 7:6 次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。 7:7 この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。 7:8 その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。」
※ネブカデネザル王が夢で見た像とダニエルが幻で見た獣は、同じ「バビロン」「メド・ペルシャ」「ギリシャ」「終末の世界体制」を、人間の視点から見たもの(像)と、神の視点から見たもの(獣)で表現されています。聖書の再記述の原則により、像は人間の視点から啓示され、獣は神の視点から啓示されています。
③ネブカデネザル王が夢で見た立像とダニエルが幻で見た獣
ダニエルが幻で見たそれぞれの恐ろしい獣の中でギリシャ帝国の後に出現する獣は地上のどのような獣でも表せない凶暴さを持っている事を教えています。それは、古代の諸王国のどう猛性とローマのどう猛性を兼ねそなえた終末に現れる恐ろしい世界体制を象徴的に表しています。それは三つの世界体制で現れます。第1に「世界統一政府」、第2に10に分裂した世界体制、第3は1人の特異な王と7人の王による世界帝国です。この終末の世界帝国から反キリストが出現します。
≪ダニエル書7章の第4の獣で示されている終末の世界体制と反キリスト≫
世界統一政府の樹立
ダニエルは、やがて終末時代に登場する世界統一政府については預言しています。
◆「7:23第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く」。 全土を食いつくすと言うのは、世界を恐怖政治支配している事を意味しています。そはが一頭の獣がなしている事ですので、その獣の実態は「一つの主権」「一つの国」「一つの政府」の事を意味しています。それは「世界統一政府」と呼んでよいと思います。それがどれほど恐ろしい恐怖政治となるのか、ダニエルは「全土を食いつくし、踏みつけ、かみ砕く」と表現しています。ローマも確かに恐ろしい帝国で、多くの国々を支配しましたが、「地上の全土を食いつくし、踏みつけ、かみ砕く」という事はありませんでした。現代の終末時代に出現する第4の獣で象徴される帝国は第1に「世界統一政府」の事です。全ての国が、一つの政府のもとに支配を受けるのです。いつかは分かりませんがやがてロシアを中心とした北の連合軍である「ゴグ・マゴグ」によるイスラエル侵略戦争が勃発します。その時に、神さまはゴグ・マゴグの連合軍を大地震、同士討ち、、疫病、流血天からの豪雨、雹、火や硫黄によって悉く滅ぼされます。それによって、北の連合軍を構成するロシア、トルコ、イラン、エチオピアなどの反ユダヤ主義の国々は、弱体化していきます。侵略戦争は負ければ、侵略を試みた国は必ず弱体化していきます。その結果、世界の勢力争いの構造は変わり、それにより、第4の獣で象徴的に教えられているダニエルが預言する「世界統一政府」と呼ばれる帝国が誕生する可能性が出てきます。しかし、世界統一政府は長続きしません。やがて10の国に分裂します。
10の国に分裂した世界体制の到来
世界統一政府が10の国に獣の分裂した世界体制の到来についてダニエルは次のように預言しています。
◆「7:24 十本の角は、この国から立つ十人の王」。
やがて、私たちの住んでいる世界は「統一政府」から「10の国」に分裂し10ケ国の世界がやってきます。その10の国の指導者たちは、やはり、厳しい抑圧による統治をおこなうでしょう。しかしその10ケ国による世界支配も長続きしません。その10の国の世界に、ひとりの特異な王が新たに登場し、3人の王を除きます。
1人の特異な王と7人の王による世界帝国の到来
ひとりの特異な王と7人の王による世界統治についてダニエルは次のように預言しています。
◆「ダニ7:24彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す」。一人の特異な王とは誰でしょうか。その特異な王についてダニエルは詳しく預言しています。8節で次のように預言しています。
◆「7:8私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった」。
一人の特異な王が「小さな角」で象徴的に表現されていますが、その角に「人間の目のような目があり、大きな事を語る口」がありました。その角について、更に21節で次のように教えられています。
◆「7:21私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った」。
ダニエル書で、イスラエルの人々を「聖徒」と呼んでいますので、その角はイスラエルの人々虐殺する事が分かります。更に25節では次のように教えられています。
◆「7:25 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる」。この25節の小さな角で象徴される一人の特異な王が、誰であるかはっきりしてきました。それは創世記3章15節で預言されている、メシヤを生む女であるイスラエルに敵対するサタンの息子である反キリストだという事です。彼は、神の聖徒たちであるイスラエルを滅ぼし尽くそうとし、ふた時+ひと時+半時と言う大艱難時代の後半3年半において、当時のイスラエルを虐殺する事を許されました。それは明らかに反キリストです。一人の特異な王である反キリストと7人王による世界統治の時代に、パウロがテサロニケ第1の手紙5章2節でも教えている通りに、世界の人々が「平和だ、安全だ」「結婚式をあげよう」と一時的に偽りの平和な時が世界に訪れ、反キリストの人気が一気に上がるのです。その時に、イスラエルは、反キリストと安全保障条約を結ぶのです。
ダニエルが預言する通りに、バビロン、メディア・ペルシャの後にギリシアが出現したように、第4の獣である「世界統
一政府」と「10ケ国による世界支配「反キリストと7人の王による世界支配(偽の平和な時代)」が実現するのです。その後に、イスラエルは必ず、反キリストと「安全保障条約」を結ぶのです。
≪諸解釈≫
※ダニ9:24の「もう一人の王」についての解釈
A)「24節に登場する、もう一人の王とはⅡテサロニケ2:3・4ある未来に現れる不法の者をさす」とBIBLE naviは解釈しています。つまり反キリストだと解釈しています(P1366)。
※ダニ7:23の第4の獣についての解釈
A)古代のギリシャのアレクサンダー大王と後継者(N・ポーチャアス著ATD24ダニエル書/P163)。
B)ローマ(テンディル聖書注解/ジョイス・Gボールドウイン著/ダニエル書 P167)
第4の獣について以上のように諸説がありますが、文脈を文字通り字義通りに受け取るならば、私は終末時代に登場する「世界統一政府」という見解が正しい解釈だと判断しています。
≪反キリストの特徴≫
ひとりの特異な王は小さな1本の角で表されていますが、同時にその傲慢さをが、世の終わりに出現する獣で象徴されている「反キリスト」です。
◆「ダニ7:8この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。」
以上のダニエル7:8で預言されている小さな角は、世の終わりに出現する反キリストのことです。神の目から見れば小さな角であるにも関わらず、自分を神だと大口をたたくのが反キリストです。その小さな
角が聖書の再記述の原則により、黙示録11章で二人の証人を殺す獣と13章の獣(反キリスト)で啓示されています。反キリストはダニエル7章で啓示されているローマのどう猛さとバビロン、メド・ペルシャ、ギリシャのどう猛さを兼ね備えて艱難時代に登場するのです。七つの頭は、反キリストのどう猛さの完全さを象徴的に教えているのでしょう。それはサタンが持っている権威と力を委ねられてからでしょう。(参照:黙示録12:3)
ダニエル書と黙示録を合わせて獣のことを調べると、黙示録11章の二人の証人を殺すのは、初代教会時代のローマ帝国でなく、終末の艱難時代に登場するローマのどう猛性とあらゆる獣のどう猛さを兼ね備えた、反キリストを意味しているのです。彼は何としてもイスラエルを絶滅させて、キリストの再臨を阻止しようとするのです。彼の父である悪魔の世界支配の野望実現の道はただ一つ「イスラエルを絶滅させる」事だからです。
※11章の獣と、13章の偽預言者を象徴する小羊のような角を持った獣とは異なります。11章での獣は「底知れぬところ」から上ってきますが、13章の偽預言者を象徴的に表す獣は「地から上ってくる」と預言されているからです。
③黙示録11章~13章はすべてシンボル(象徴的)に表現されているから
岡山牧師が、二人の証人を象徴として解釈されているもう一つの理由は、「黙示録11章~13章はすべてシンボル(象徴的)に表現されているから」だという事です。以下の事を例象徴的に表現されている事例として取り上げています。
≪岡山英雄牧師が象徴として取り上げている事例≫
A、大きな赤い竜はサタンの象徴
サタンを象徴する大きな赤い竜は黙示録12章3節~5節に教えられています。その特徴は以下の通りです
◆火のように赤い竜
◆冠を被っている七つの頭と十本の角がある
◆竜は尾で天の星を3分の1を掃き寄せる
◆太陽をまとい、月を足の下にし、頭に12の星の冠を被っている女が子を産もうとしている子を食べようとしている
以上の赤い竜で象徴的に描かれているサタンの特徴について一つ一つ考察してみたいと思います
B、「火のように赤い竜」の意味
竜というのは、どんなこの世のどう猛な獣よりも恐ろしいどう猛を持っているので、サタンの恐ろしいどう猛さを教えています。キリストはサタンのことを「人殺し」だと教えられました。サタンのどう猛さは人を殺すことで表現されてきました。そのどう猛さで女が産む子を殺そうとしていることが描かれています。その竜が「火のように赤い」というのは、恐ろしい怒りに満ちていることを象徴的に教えています。その竜が12章9節では「年を経た蛇」とも呼ばれています。サタンが蛇で象徴的に教えられているのは、彼がキリストが教えられたように「嘘つき」「偽りの父」であるからです。彼が年を経たといわれているのは、アダムとエバを蛇を使って罪に誘惑した時から長い時間が経て存在し続けていることによります。サタンを「年を経た蛇」と黙示録が教えていることは、黙示録は旧約聖書に基づいて啓示されていることを教えています。それは、サタンに関する啓示だけでなく、多くの真理が旧約聖書に基づいて啓示されているのです。そのサタンに対して神は創世記3章15節で彼を「女の子孫」によって滅ぼすことを宣言されました。その旧約聖書の教えに基づいて、黙示録11章でサタンが巨大な赤い竜として火のような燃える怒りとどう猛さをもって食らいつくそうとする「女の子孫」が誰であるかを解釈する必要があります。創世記3章15節によれば、サタンは女と女が産む子孫「メシヤ」との間に敵意が存在することが教えられています。「創3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」。この神様の宣言がサタンへの宣戦布告となっており、サタンも神との戦いに勝つ道は「女と女の子孫」を食いつくすことだと悟ったのです。サタンはその敵を、メシヤとメシヤを産む母マリアを含むイスラエルだということを、アブラハムとその子孫イスラエルと結ばれた「アブラハム契約」によって知ったのです。
C、竜の「七つの頭と冠を被っている十本の角」の意味
黙示録11章で、サタンが「冠を被っている七つの頭と十本の角」で象徴的に表現されていますが、それはサタンの持っている権威と力によるどう猛性の完全さを象徴的に表現したものです。その、サタンが持っている権威と力による完全などう猛さが、彼の息子である反キリストにゆだねられ、反キリストを通してサタンのどう猛さが地上で現わされていきます。
D、「竜は尾で天の星を3分の1を掃き寄せる」の意味
サタンの堕落に関して、イザヤ14章とエゼキエル書28章で啓示されています。それらの啓示によると、サタンは、美の極みの存在、完全な存在の天使ケルブとして創造されたのですが、傲慢になり自分が神のように万物を支配する者になりたいという野望を抱きました。その時に、彼は神が創造された無数の天使(星で象徴的に表現されている)を自分の手下にすることに成功したのです。サタンに味方して堕落した天使(星)の数が無数の天使の3分の1だったのです。その時の様子をエゼキエル書は「商いが繁盛した」と象徴的に表現しています。
◆「エゼ 28:15 あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。 28:16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。」
※サタンに巧みに誘惑されて堕落したその堕天使が聖書に登場する「悪霊ども」なのです。
2、荒野の女は神の民(教会)の象徴
岡山英雄牧師は、サタンから逃れるために荒野に逃げ込んだ「女」は神の民(教会)を象徴していると論じられていますが、それは創世記3章15節の「原始福音」を無視された結果の解釈となっています。サタンとして象徴的に教えられている赤い竜が「年を経た蛇」と啓示された事によって、黙示録は創世記の出来事に基づいても啓示されていることが分かります。サタンが旧約聖書に基づいて啓示されているので、サタンから荒野に逃げた女も旧約聖書に基づいて解釈すべきなのです。
旧約聖書の教えに基づくとサタンが敵として滅ぼそうとするのは、創世記3章15節で啓示されているように「女」(イスラエル)と「女(イスラエル)が産んだメシヤ」なのです。しかし、彼は、女の子孫であるメシヤを滅ぼすことに失敗しました。女(イスラエル)の子孫であるメシヤは十字架で死なれましたが三日目に復活して天に上り、サタンの頭を打ち砕き勝利されたのです。サタンはメシヤに敗れたのです。サタンが、神に勝利する道はあと一つ、それはメシヤを産んだ「女」であるイスラエルを滅ぼすことです。それはイスラエルの残りの者が、復活のキリストに向かって「祝福あれ主のみ名によって来られる方に」(マタイ23:39)と叫ぶときに、キリストが再臨されることが預言されていることによります。キリストの再臨を阻止して、神に勝利し自分が万物の支配者になるために、ユダヤ人を撲滅させればよいことを彼は知っているのです。
荒野に逃げこんだ女は「神の民(教会)」だという岡山牧師の解釈は、旧約聖書(創世記)の教えに基づいて啓示されている黙示録には合わない解釈となっています。
「荒野に逃げ込んだ女」を旧約聖書(創世記)に基づいて「イスラエル」だと正しく解釈すると、女に関する黙示録12章の全ての教えが、旧約聖書の教えと調和していることが見えてきます。
▲女が太陽をまとい、月を下に踏み、12の星を冠としているという象徴的表現は「イスラエル」を表していることを創世記が教えています。ヤコブの子ヨセフは、太陽と月と星11の星が自分ひれ伏している夢を見たのです。そのヨセフの夢から黙示録12章の太陽をまとい、月を下にふみ、12の星は冠としている女は「イスラエル」を象徴的に描いていると解釈ができるのです。
▲女が生んだ男の子は、イスラエルが生んだメシヤ(キリスト)を意味しています。その証拠に男の子は「御座に引き上げられた」と教えられています。キリストは十字架で死に三日目に甦り、40日後、天の父なる神の右の座に着かれましたので、「御座に引き上げられた男の子」はキリストを意味している事が分かります。
▲女が生んだ男の子は、「鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。」と教えられています。「鉄の杖をもってすべての国を牧する」というそのような使命を帯びているのは、キリスト以外に存在しません。詩篇第2篇の「メシヤ預言」では、メシヤが鉄の杖をもって諸国を治めることが預言されています。「詩 2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」。
黙示録2:26b・27でティアテラ教会に約束されている、キリストの鉄の杖をもって諸国を治める権威は、教会の中の一部の勝利者に関するもので、教会そのもの(神の民全体)に対するものではないのです。キリストご自身は十字架の死と復活によってすでに勝利者となられたので、鉄の杖をもって諸国を治めるという権威を完全な意味では現在の世にではなく、メシヤ的王国(千年王国)で実行されるのです。現在の世でのキリストの権威は一部実行されていますが全面的に実行されていません。教会の中の一部の勝利者のキリスト者もメシヤ的王国(千年王国)においてキリスとト共に鉄の杖をもって諸国を治める権威を実行しますが、それは現在の世界においてではないのです。教会はキリストのみ体なる教会として、頭なるキリストにお仕えし、その中の勝利者はキリストの権威を一部キリストにあって実行することが許されていますが、諸国を支配する権威は現在の世界で実行することは許されていません。女が生んだ男の子は「教会」でもなく、又、教会が生んだ「勝利者」でもなく、イスラエルが生んだメシヤ(キリスト)なのです。
C、地から上って来た獣は偽預言者の象徴
黙示録13章には反キリストが恐ろしい獣で啓示されていますが、その反キリストを拝むように教え導く偽預言者が小羊のような二本の角を持った獣として地から上ってくることが啓示されています。偽預言者に従って反キリストを拝まないものを皆殺す権威と市場から閉め出す権威、又、すべての人の右の手か額に獣の刻印を受けさせる働きをすることが啓示されています。岡山英雄牧師の言われる通り、その偽預言者が「獣」で象徴的に啓示されています。
◆「黙13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。 13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。 13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。 13:14 また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」
D、二人の証人が預言する1260日はあらゆる時代の神の教会が「世の光」として証言続ける期間の象徴
黙示録11章3節に、「二人の証人」が1260日(3年半)にわたって預言すると啓示されています。その1260日を岡山英雄牧師は文字通り字義通りの1260日ではなく、「あらゆる時代の神の教会が『世の光』として証言を続ける期間の象徴的日数」だと解釈されています。しかし、その解釈は正しくありません。それは、第1に聖書のどこを調べても、「1260日」という具体的な日数の期間を「あらゆる時代の神の教会が「世の光」として証言を続ける長い期間を象と徴」していると教えている個所はないからです。また、二人の証人が預言活動をした場所がイスラエルのエルサレムだと黙示録は明言しているからです。更に、はっきりと、エルサレムが異邦人に踏みにじられると啓示されています。異邦人は「異教徒」でも「神に敵対するすべての人」(岡山牧師の解釈)でもないのです。異邦人は、聖書ではいつでもユダヤ人との対比で啓示されていますので、二人の証人は自分たちの死後42ヶ月間、異邦人から迫害を受けるであろうエルサレムのユダヤ人の救いのため預言活動をしている事が分かります。二人の証人は「神の教会」を象徴する人物でなく、ゼカリヤ書で預言されている二人のユダヤ人なのです。更に、預言と証言とは全く意味が異なる活動ですので、二人の証人の預言活動を教会の証言活動だと解釈する事には無理があります。また、岡山牧師の「教会を預言者」だという解釈も無理があります。確かに教会の中には「預言の賜物」を与えられているキリスト者は存在しますが、それをもって教会は預言者だということはできません。教会の使命は、旧約時代の預言者のように、また二人の証人のように神の言葉を明確に絶対的に預かって活動する事ではないのです。教会に属する聖徒は、キリストによって救われた喜びに基づき、キリストが救い主だと証明し証言する事を使命としています。もちろん、その証言活動はキリストの導きの中で、聖霊に励まされてなされるものですので、その時に主の細き御声がかかっている事は間違いありません。そのような主の細き御子を聞き分けて歩む教会の「キリストを主だと証明する証言活動」は、旧約時代の預言者や二人の証人の預言活動とは全く意味が異なるのです。預言活動は、個人の預言者が神の御声や御心を個々で絶対として知らせる活動ですが、教会の証言活動の場合は、それぞれの教会に属するすべてのキリスト者との話し合いの中で、神の御心を見極めて合議制によって証言活動が進められていくのです。もちろん、合議制によらず、キリスト者が個々で活動する事も許されてはいますが、それは教会の証言の中心にはおかれてはいないのです。使徒行伝15章の「使徒会議」がその事を教えています。
1260日という期間は11章の二人の証人の預言活動期間以外に、女(イスラエル)がサタンによる迫害から荒野で神によって保護され養われる期間として啓示されています。ユダヤ人は1年を360日で計算しますので、1260日は42ヶ月になりますから、黙示録は1260日を42ヶ月としても啓示しています。
◆「黙 11:2 神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。」
◆「黙 13:5 この獣には、大言壮語して冒瀆のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。」
そもそも、1260日という期間は、旧約聖書のダニエル書の預言に基づいて啓示されていますので、そのダニエル書で、その期間に何がおきると預言しているのかを学ぶ必要があります。
ダニエル書は、当時の古代世界に関して言及しながら終末のユダヤ人について預言している書である事は誰の目にも明らかです。では、1260日に関してダニエル書においてどのように啓示されているのでしょうか。
≪ダニエル書が教える1260日≫
黙示録の1260日(42ヶ月/3年半)について、ダニエル書では9章27節の「半週」という言葉で啓示されていますので、その半週についてダニエル書では何を教えているのでしょうか。それを知るには、ダニエル書がイスラエルの民と聖なる都のために70週が定められていると教えられているので、イスラエル民族のための70週について知る必要があります。ダニエル書9章は新約の神の民(教会)の事を一切啓示していません。
◆ダニエル書9章24節の70週とは何か。
◆「9:24あなたの民とあなたの聖なる都について七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
以上のダニエル書9章24節から27節までを見ると、イスラエル民族とエルサレムの為に神が70週を定めて、ご自身のご計画を進めていく目的が明確にされています。「神の民(教会)」の為でないのです。
では70週という期間の長さは何年を意味しているのでしょうか。聖書の預言解釈で重要な原則は、1日を1年の長さで計算している事と、1年を360日で計算している事です。それは、昔、神がイスラでエルをエジプトから解放し荒野へ導かれましたが、カデシュ・バルネヤから約束のカナンの地に40日間にわたって斥候隊を遣わされたときに、イスラエルの不信仰に対して、40日の斥候期間から40年間荒野を放浪させるという裁きを宣告されました。「民 14:34 おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる」。
以上の出来事から、神は1日を1年として計算されていることが分かります。それにより、旧約聖書の預言解釈
は「1日」を「1年」と計算するという原則が発見されてきました。その原則によりダニエル書の預言を解釈すると、70週は490日ですので、70週とは490年ということになります。その期間の年数を計算する最初の年についてダニエル書は「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから」(9:25)と教えています。その命令が出てから69週の後にメシヤの受難があることが預言されています。69週は年数にすると483年となり、メシヤの受難は命令が出てから483年が過ぎた後ということになります。キリストの誕生はBC6年ですので、キリストの公生涯の開始は24年となります。キリストの受難は公生涯に入られてから3年ですので、キリスト(メシヤ)の受難の年はAD27年となります。そのキリストの受難の年から483年をさかのぼって計算するとBC456年となります。「エルサレムを再建せよ」という命令がBC456年ごろに誰が出されたのかが分かってきます。それは、エズラ7章で啓示されているペルシャの「アルタシャスタ王」なのです。エズラ記より計算するとそれは「458年」となります。キリストの十字架の受難により、預言を「1日」を「1年」とするという預言解釈の原則の正しさが証明されました。
◆「エズラ7:7~13アルタシャスタ王の第七年にも、イスラエル人のある者たち、および、祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちのある者たちが、エルサレムに上って来た。エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。・・アルタシャスタ王が、祭司であり、学者であるエズラに与えた手紙の写しは次のとおりである。──エズラは、【主】の命令のことばと、イスラエルに関する主のおきてに精通した学者であった── 「王の王アルタシャスタ。天の神の律法の学者である祭司エズラへ。この件は完了した。さて、私は命令を下す。私の国にいるイスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたい者は、あなたといっしょに行ってよい。・・」。
以上のアルタシャスタ王の「エルサレム再建命令」は王の第7年となっていますので、彼の父の死後、彼が王として
即位をした年を調べると465年ですので、それから7年を足せば458になります。
「エルサレムを再建せよ」というアルタシャスタ王の命令はBC458年に発布されていますので、それにキリストの生
涯の始まりAD24年をプラスすると482 年となります。キリストの死は公生涯の始まりから3年後のAD27ですので、王の命令から数えると485年後にメシヤが受難したことになります。それはメシヤの受難が王の命令から483年以後という預言が成就した事を教えています。
以上のように、ダニエル書の70週の預言は、1日を1年として、字義通り文字通りにキリストの受難が成就しています。また、キリストご自身が、ダニエルの預言を文字通り字義通りに解釈されて、終末のエルサレム神殿に「荒ら憎むべき者が聖所に立つ」事を預言されています。(マタイ24:15)。このキリストの預言は、ダニエルの預言をキリストが字義通り文字通り解釈されていることを教えています。その事はダニエル書7章の70週の年数を解釈するうえで非常に重要な預言となっています。70週のうち69週という483年の預言は成就しましたが、残りの1週の7年の預言がまだ成就していません。その1週の7年において何がおきるのでしょうか。
≪490週の最後の1週である7年間に起きる出来事≫
第1に、ダニエル書で「やがて来たるべき君主」と呼んでいる反キリストが多くの者と契約を結びます。
◆「ダニ9:27彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び・・・、」。
反キリストがイスラエルの多くの者と安全保障の「契約を結ぶ」ことが、最後の1週である7年のスタートとなるのです。その時一部のイスラエルはその契約に反対をしますが、多くのイスラエルは「安全保障」の為に、神に信頼するよりも「反キリスト」に信頼するのです。そのイスラエルと人類の不信仰に対する神の怒りが臨みます。その怒りは、これまでイスラエルも人類も経験したことがない災いとなって示されますので、その7年を「艱難時代」とか「大患難時代」と呼ばれてきました。旧約聖書の預言者たちもパウロもその神の怒りの時を「主の日」と呼んでいます。「主の日」と呼ばれる7年の大
患難時代の始まりは、「反キリスト」と多くの者が契約を結ぶ時からスタートします。その事を裏付けているのがイザヤ書28章の預言です。イザヤ28章の預言では、イスラエルが反キリストと結んだ安全保障条約の故に神の怒りがイスラエルと全世界に下る事が預言されています。
◆イザ28:18 あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。・・・私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。 28:23 あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。・・」ダニエル書とイザヤ書の以上の二つの預言は、岡山英雄牧師の1週の半週1260日が「あらゆる時代の神の教会が「世の光」として証言続ける期間の象徴」という主張の間違いを明確に教えています。旧約聖書はダニエル書に基づく黙示録の7年の大艱難時代を「主の日」と呼んで預言しています。
≪聖書が預言する主の日≫
◆「イザ 13:6 あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、滅びが全能者から来るからだ。」
◆「イザ 13:9 見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。」
◆「エレ 46:10 その日は万軍の神、主の日であって、主があだを報いられる日、その敵にあだをかえされる日だ。つるぎは食べて飽き、彼らの血に酔う。万軍の神、主が、北の地で、ユフラテ川のほとりで、ほふることをなされるからだ。
◆「エゼ 30:3 その日は近い、主の日は近い。これは雲の日、異邦人の滅びの時である。」
◆「ヨエ 1:15 ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである。」
◆「ヨエ 2:1 あなたがたはシオンで/ラッパを吹け。わが聖なる山で警報を吹きならせ。国の民はみな、ふるいわななけ。主の日が来るからである。それは近い。」
◆「ヨエ 2:11 主はその軍勢の前で声をあげられる。その軍隊は非常に多いからである。そのみ言葉をなし遂げる者は強い。主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」
◆「ヨエ 3:14 群衆また群衆は、さばきの谷におる。主の日がさばきの谷に近いからである。」
◆「アモ 5:18 わざわいなるかな、主の日を望む者よ、あなたがたは何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光がない。・・ 5:20 主の日は暗くて、光がなく、薄暗くて輝きがないではないか。」
◆「オバ 1:15 主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。
◆「ゼパ 1:7 主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。」
◆「ゼパ 1:14 主の大いなる日は近い、近づいて、すみやかに来る。主の日の声は耳にいたい。そこに、勇士もいたく叫ぶ。」
◆「ゼカ 14:1 見よ、主の日が来る。その時あなたの奪われた物は、あなたの中で分かたれる」。
◆「一テサ 5:2 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。」
◆「二テサ 2:2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。」
第2に、半週の間、反キリストがエルサレム神殿(第3神殿)での犠牲の動物やその他の捧げものを捧げたりすることを
やめさせることが起きます。
◆「ダニ9:27半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」。
第3に、忌むべき者である反キリストが翼のうちに現れるということが起きます。
◆「ダニ9:27荒らす忌むべき者が翼に現れる」
この、荒らす忌むべき者が翼に現れるという預言を、キリストは「荒ら憎むべき者が聖所に立つ」(マタイ24:15)と解
釈されています。又、黙示録13章では、艱難期後半の42ヶ月の時に反キリストの偶像が立つ事だと教えています。
◆「黙13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。・・・13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。・・」
黙示録に登場する二人の預言者が活動する1260日という期間はその7年の前半を意味して使用されていることは間違いがありません。ダニエル書とキリストの預言に照らし合わせると、二人の証人が預言活動をする1260日を「教会が始まってから終わるまでの長い期間を象徴している」という解釈は間違っている事が分かります。
第4に、反キリストが絶滅することが起きます。
◆「ダニ9:27定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
イスラエルを絶滅させようとする反キリストとその軍隊の「絶滅」については、イザヤ、ミカ、ゼカリヤ、パウロなどが預言し、黙示録19章においても預言されています。
◆イザ 34:1 国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。 34:2 【主】がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。 34:3 彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。 34:4 天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。 34:5 天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。 34:6 【主】の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。【主】がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。 34:7 野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。 34:8 それは【主】の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」
◆「イザ 63:1 「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」 63:2 「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」 63:3 「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。 63:4 わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。 63:5 わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。 63:6 わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」
◆「ゼカ12:9 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。」
◆「Ⅱテサ 2:8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」
◆「黙19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。 19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。 19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。 19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。 19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。 19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。 19:17 また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、 19:18 王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」 19:19 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。 19:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。 19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」
以上、黙示録11章から13章までにおいて岡山英雄牧師が「象徴」として取り上げておられる「大きな赤い竜」、「荒
野の女」、「地から上って来た獣」、「二人の証人が預言する1260日」等について考察をしてきましたが、すべてが象徴的に啓示されているという解釈の問題点を取り上げました。特に二人の証人の預言活動の1260日の期間が「あらゆる時代の神の教会が「世の光」として証言続ける期間の象徴」だという解釈の問題点を論じました。岡山牧師は11章から13章はすべて象徴的に啓示されていると明言されていますが(小羊の王国/P99)、それは明らかに間違っているのです。黙示録11章~13章において、ヨハネが幻のうちに示された「二人の証人」以外に象徴的に啓示されていない項目を以下に紹介しておきます。
≪黙示録11章から13章において象徴的に啓示されていない項目≫
1)「彼らの主もその都で十字架につけられた」
2)「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々」
3)「大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々」
※この啓示は、字義通り文字通りに解釈する以外にない。
4)「神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たち」
※天の御座について24人の長老は文字通り字義通り24人の長老である。
5)「 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた」
※天の神殿が開かれた事と、その中の契約の箱が見えたことも字義通り文字通りに理解する以外にない。
6)「天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、」
※サタンは年を経た蛇や巨大な竜で象徴的に啓示されているが、天使ミカエルは字義通り文字通りの存在として啓示されている。
7)「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」
※勝利者の兄弟たちもの字義通り文字通りに理解する以外にない
8) 「女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」
※女は、イスラエルの象徴として啓示されているが、彼女が養われるために備え得られた場所は字義通り文字通り、
実際の荒野である。イザヤ書とミカ書は明確にエドムの荒野にある「ボツラ」だと預言しています。
(イザ34:6,63:1、ミカ2:12)
9)「そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。」
※反キリストの傲慢さは字義通り文字通り理解する以外にない。彼の傲慢さはダニエルが預言している。(ダニ7:8)
10)「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」
※反キリストの聖徒たちへの迫害と、世界支配も文字通り字義通りに理解する以外にない
11)「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
※小羊のいのちの書は、文字通り存在してる神の書です。神の書はその他に「いのちの書」と諸々の書があります。(詩 69:28 ピリ 4:3、黙 3:5、17:8 20:12、20:15、21:27、詩139:16)
12)「人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。」
※偽預言者たちの行う奇跡も文字通り字義通りに理解する以外にない
13)「その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」
※獣は象徴でも、獣がものをいうことや、彼を拝まない者は殺すことは字義通り起こる出来事である。
14)「 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。」
※偽預言者が、獣(反キリスト)の刻印をすべての人の右の手かその額に受けさせることも字義通り文字通りに理解する以外にない
15)「その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」
※偽預言者が、獣(反キリスト)の刻印を拒否するものを市場が締め出すことも字義通り文字通りに理解する以外にないのです。
以上のように、黙示録11章から13章においてヨハネが示された幻の多くは象徴ではなく「字義通り文字通り」に啓示されている事は明確です。岡山英雄牧師が「11章から13章の幻はすべてシンボル」で示されているという主張は当てはまらないのです。その事は、それを理由に「二人の証人」が「神の民(教会)」の象徴だとする主張も間違っていることを教えています。
【終わりに】
以上、黙示録11章の「二人の証人」が「神の民(教会」の象徴だと論じられている岡山英雄牧師の解釈の間違いを指摘させていただきました(「小羊の王国」P96~108)。私の以上の批判と指摘に疑問のある方はぜひその疑問をお寄せいただければと願っています。