2024年12月8日
クリスマスメッセージ①「創造主の父なる神の愛」
聖書:ヨハネによる福音書3章16節
牧師:佐 藤 勝 徳
【はじめに】
今週は、イエス・キリストの誕生日をお祝いするクリスマスを迎える準備としての降誕節第2週となります。降誕節は別名「アドベント」とも言います。キリストは、今、ハマスやヒズボラなどのテロリストと戦っているイスラエルの都エルサレムのすぐ近くにある「ベツレヘム」と言う、小さな村の家畜小屋でお生まれになりました。そのお方の誕生を記念して世界の多くの国々ではお祝いをします。ギリシャ語で救い主を意味するキリストの事を「クリストス」と言いますので、その最初のクリスをクリスマスのクリスに使っています。「マス」は、ラテン語で贈り物とかいう意味があると言われています。そのマスをクリスマスのマスに使用しています。ギリシャ語の救い主を意味するクリストスのクリストとラテン語の贈りものを意味するマスとの合成語が「クリスマス」なのです。日本人の私たちとは何の関係も無いと思われる、イスラエルのベツレヘムにお生まれになったイエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを、何故日本の多くの人たちは楽しむのでしょうか。多くの人はケーキを食べたりシャンペンを飲んだり、クリスマスソングを歌ったり、又、恋人同士のロマンチックのデートの日としてその楽しい雰囲気を楽しんでいます。それも、別に悪くはないのですが、キリストがなぜお生まれになったのか、その意味を知って、クリスマスを楽しめばもっと意義のあるクリスマスを楽しむことが出来るでしょう。キリストは私たち人類の全ての罪を十字架で背負って、身代わりの刑罰を父なる神よりお受けになり、私たちの罪を償い、私達が永遠に赦されて、永遠に神様の祝福を受け継ぐものとして下さる為に、2000年昔、ユダヤのベツレヘムにお生まれになったのです。クリスマスは、キリストが罪からの救い主として誕生して下さった事を感謝してお祝いすることが本当のお祝いなのです。その事を覚えながら、クリスマスのケーキやご馳走を楽しむことが意義のある良きクリスマス会です。
1、私のキリストとの出会いの体験
私がキリストについて、最初に知ったのは、中学の3年の時でした。ある時、私の友人が突然私に言ったのです。「佐藤な、キリストは汝の右の頬を打たれた他の頬を向けよ」と教えているんだ。そんなナンセンスな事誰が出来るか」と、強い調子で文句を言うように、キリストについて何にも知らない私に言うのです。15歳の私は、そのキリストの言葉を初めて知って驚きました。もし「右の頬を打たれても、他の頬を向ける事が出来れば、世界は望でいる世界平和があっという間に実現するんではないか。なのになぜ、その言葉を批判するのか」と、私は友人の、そのキリスト批判の言葉に疑問を持ったのです。それが私のキリストとの最初の出会いでした。 2番目の出会いは17歳の時でした。私は16歳頃から、人生の意味や目的が分からず苦しみ、非常に虚無的になり、自殺症候群になっていました。人間は死んで人生が終わるなら、しんどい人生を長く生きる必要ないのではないか、いつ人生を終わっても良いのではないかと考えるようになり、、いつも自殺を考えるようになりました。そんな最中、引っ越しをした家の近くに「萱島クリスチャンセンター」という教会で特別集会があり、その看板を見て初めて教会の門をくぐりました。その特別集会でお話をされていたのが、青森の寺田と言う牧師でした。ズーズー弁で語っておられました。その話の中でいくつか強い印象を持った体験談を聞いたのですが、その一つが、「ミス青森」と呼ばれた「岩谷さん」の体験談でした。岩谷さんは銀行に勤めておられたのですが、男性職員からちやほらされる岩谷さんに妬みを持っていた友人が、休憩時間に岩谷さんを倉庫に呼び、劇薬を顔にかけるという事件を起こしたのです。美しい顔を無茶苦茶にされた岩谷さんは、病院に入院している時、毎日友達を憎み、恨みつづけていました。そんな岩谷さんの事を知った、ある教会の牧師さんが岩谷さんを見舞い、聖書を置いていきました。岩谷さんは初めて新約聖書を手にして読み始めました。その中で、キリストの言葉が心にグサッと刺さったのです。それはマタイによる福音書15章16節~20節で教えられているキリストの言葉ですした。
◆「マタ15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。 15:17 口に入る物はみな、腹に入り、厠に捨てられることを知らないのですか。 15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。 15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。 15:20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」そのキリストの言葉に出会って岩谷さんは大事なの外の顔形でなく、心だと思わされ、自分がこれまで自分の顔形という容姿を誇り、心が傲慢になっていた事、そして、今は、劇薬をかけた友人を憎む憎しみの心で満ちている事、その心が良くならないとだめだ。この自分の醜い心の罪が赦されるために、キリストは身代わりの刑罰を十字架でお受け下さったという、その救いの御業に岩谷さんは感動して、キリストを自分の救い主だと信じたのです。その結果、あれほど友達を憎んでいた憎しみが消え、逆にその友達を赦し、大切に思う優しい心が満ちて来たというのです。私は、その体験談に大変感動し、お話の最後に寺田牧師が「キリストを自分の救い主として信じる人は手を挙げて下さい」と招かれました。私は迷わずすぐに手をさっと上げました。私は、キリストには嘘がない事を確信し、心からキリストを真実なお方として信じたのです。私は、ずーっと嘘のない世界を追い求めていたので、その時に、キリストには嘘がないと思ったのです。それが、キリストと出会った2番目の体験でした。その後に知った事ですが、岩谷さんは劇薬を自分の顔にかけた友達が刑務所を出所した時、身元引受け人となり、その友達と共同生活をし、やがて伝道者として献身をされ神学校に行き、牧師になったというのです。なんという、驚くべき人生、アメージングドラマでしょうか。
3番目の体験はやはり、17歳の時でした。私は急性肝炎になり2ヶ月入院し、1か月は自宅で療養していました。入院をする前、私は、毎日体がだるくてだるくて、生きる気力を失っていました。昼は松下電器の本社の部品工場で働き、夜は、淀川工業高等学校・定時制・の電気科に通っていましたが、急性肝炎で顔や手足に黄疸が出て、苦しんでいました。ある夜、こんなしんどい体で生きなければならないのかと思うと、寝れなくて、悶々としていました。聖書は既に持っていましたので、聖書を開いて読んで見ました。その時読んだ聖書個所はマタイ6章34節でした、次のように教えられていました。
◆「マタだから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」私は、そのキリストの言葉を読んだ時に、キリストってなんという事を語っているんだろうか。誰も生きる事に色々と心配をし思い煩って生きているのに、どうして「思い煩うな」なんて言うんだろうかと不思議に思ったのです。しかしその時です、不思議な事が私の心に起こったのです。それは、その言葉の真意につい突然目が開かれるように分かったのです。私は次のように思ったのです。「そうだキリストは『あなたの人生を私に任せなさい」と言われているんだ」と。その結果、私は、すぐに全てキリストに委ねる決心をしました。そのとたんに、あれほど明日生きる事を思い煩い悶々としていたのにかかわらず。そのような憂鬱な気持ちがなくなり、深い安らぎの心が与えられたのです。深い平安を与えられた私は、ぐっすりと眠り事が出来ました。3時間程しか寝ていませんでしたが、生まれて初めてと言っても良いほど、大変すがすがしい気持ちで目覚める事が出来、その日は、喜んで仕事に出かける事が出来たのです。
4番目の出会いは次の通りで。私は、その後、ラジオの「朝の光」と言うキリスト教放送番組を良く聞くようになりました。その時の牧師は「羽鳥純二」と言う先生でした。東大の大学院を出てから共産党委員になっておられたのですが、先にクリスチャンになっていたお兄さんの羽鳥明先生によって教会に誘われ、キリストを信じた先生でした。その羽鳥先生のお話の一つ一つが、渇いている私の心を潤してくれました。それは渇いているのどを潤す美味しい水のようでした。その「朝の光」が無料で聖書通信講座の受講生を募集していましたので、私は、聖書をもっと深く知りたいと思い受講を申し込みました。私は、私はもともと本を読むのが苦手でしたので、送られてくるテキストをいい加減に読み、いい加減に答えを出して送っていました。その私のいい加減な返答のテキストに対して、毎回大変きれいな赤字で親切に丁寧に添削がされて送り返してきたのです。どのようなお方が添削をして下さっているのか知りませんでしたが、愛を込めて心を込めて送って下さっている事に私は喜んでいました。ある時、テキストに私の知らない讃美歌が紹介されていました。それは聖歌399番の「カルバリの山の十字架」という讃美歌でした。どのようなメロディーで歌うのか知りませんでしたが、その歌詞を読んだ時、私は感動の涙を流しながら読んでいました。私はそのキリストの十字架の愛を賛美している歌詞を通して、私の為に命がけで私を愛して下さっている人がいると思うと、私は感動の涙を抑える事が出来ませんでした。私は、キリスをなぜか過去の人でなく、現在存在している人として受け止めたのです。その後、電信柱や、テレビのアンテナなど、十字になっているものを見ると、キリストの十字架の愛を思い出し「ああ十字架」「ああ十字架」と毎日愛されている喜びを抱きながら生活するようになりました。それがキリストとの第4番目の出会いでした。
2、御子を救い主として遣わされた父なる神
今も復活して天にいて、私たちの為にとりなしを捧げながら救い主としてのお働きされ、聖霊によって多くの人々を救いに導いておられるイエス・キリストは、若い小さな私に聖書の言葉を通して、又、救われた人の体験談を通して、又、讃美歌を通してり聖霊によって出会って下さっていたのです。そのキリストを聖書は「神の御子」と呼んでいます。その神の御子を救い主として、私達に賜りお遣わ下しさったのが、御子なる神のお父さんである父なる神さまだと聖書は教えています。ヨハネ3章16節に次のように教えられています。
◆「ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
3、私の創造主との出会い
聖書は、その父なる神さまが、御子なるキリストによって天地万物を創造された創造主の神さまだと教えています。その事を教えているのが、聖書の創世記1章1節の「初めに神は天と地を創造された」と言うことばです。聖書は天地万物が創造主によって創造されたという事実を聖書の一番最初に書いてあるのです。人間を含め、天地万物が創造主によって創造されたと聞くと、私達日本人の多くは、それは歴史的事実ではなく、おとぎ話や神話のように受け取っているのではないかと思います。私もそのひとりでした。教会で、創世記の創造物語を牧師が説教で取り上げると、私は、キリストを信じていながらも、ついて行けませんでした。躓いていました。神さまが、土の塵でアダムを創造された事や、アダムのアラバ骨からエバ(イブ)を創造された物語などを聞くと、私は心の中でつぶやいていました。「そんなおとぎ話は、子どもに聞かせるもので大人に聞かせるような話ではないだろう」と。そのように、キリストを信じていても創造主が分かりませんでした。その為に、未解決な問題を抱えていたのです。それは、人生の意味目的、人の生きる意味目的が分からないという問題でした。キリストを信じて、孤独感から救われていましたが、生きる意味目的がはっきりしないので、教会に通っていても、聖書を読んでいても、教会学校の先生として奉仕をしていても、いつもその問題が付きまとって、心が苦しくなったのです。私は、その問題を解決する為に、自分一人で色々と考える時を持ちました。学校では、進化論教育で、人間は偶然の積み重ねでサルから進化して来たと教えられていました。もちろん、その進化論を正しく理解して信じていた訳はないのですが、進化論の教えの影響により、そう簡単に創造主を信じる事が出来ませんでした。その為に、生きる意味や目的が分からず苦しんでいたのです。そんな私がある時、家の中で食卓の前に座って色々と考え始めました。自分の目の前にある食卓やその上にあるお茶わんや湯飲み茶わん、また、部屋に置いているラジオや時計など色々と見まわしていて気が付いたことがありました。それは、全部存在目的があるという事です。同時にそれらは、人の手によって造られたものだという事実です。又、もう一つ気付いた事がありました。それは、人間によって造られた物は、全部、造った人間の為に存在しているという事実です。造られた物は、造った者によって存在目的が与えられている。同時に造られた物は、造った者に為に存在し、造った者に所有権があるという事は、もし人間が創造主によって造られたとしたら、生きる意味は目的があり、同時に、その所有権は創造主にあるという事になる。しかし、私は絶対的確信を持つまでにはいかず、生きる意味や目的がなんであるか未可決のまま深い虚無感を持ったまま月日が過ぎて行きました。ある時、死んでしまうんではないかと思うほど、強烈な虚無感による苦しみ襲われました。その強い虚無感の為、私は誰もいない部屋に駆け込んで行き、一人になって、必死に聖書を読みました。その時、私が読んだのは旧約聖書のイザヤ書43章1節でした。次の言葉です。
◆「イザ43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」私は、イザヤ書の深い意味を知りませんでしたが、ヤコブとかイスラエルと言う名前を、自分の名に置き換えて読んで見たのです。「佐藤勝徳よ、あなたを創造された主はこういわれる。佐藤勝徳よ、あなたを造られた主はいまこう言われる。『恐れるな、わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ』」と。そのように読んだ時、わたしは、喜びで満たされたのです。それは、造られたものは、造った者にその所有権があると、わたしが考えていた事とイザヤ書の「あなたはわたしのものだ」ということばとがピタッと一致した事によります。その時、わたしは思わず創造主の神さまに向かって「そうです!」と、鉛筆で太く聖書に書いて応答したのです。又、私の人生の意味や目的は私をお造り下さった創造主がご存知だと確信できたのです。その結果。わたしの心は晴れ晴れとなり見る物すべてがバラ色で美しく感じるようになったのです。人生の意味目的が分からず虚無感で苦しんでいた私が、虚無感から解放されたのです。その喜びの体験に至るまでに、もう一つ大事な体験をしていました。それは、教会の青年キャンプに参加した時の事です。鳥取県の湖山池で青年キャンプがありました。わたしは、勤めがありましたので土曜日と日曜日の二日間だけ参加し、日曜日の夕方には、汽車で大阪に帰りました。そのキャンプの講師は、ラジオのキリスト教番組の「朝の光」でお話しをされていた「羽鳥純二牧師でした。羽鳥先生の聖書のお話しのタイトルは、「国籍は天にある」でした。そのお話の中で、耳の耳小骨の仕組みについてのお話がありました。耳には、音を聞く為に、三つの耳小骨があり、その三つの小さな小さな骨は、母の胎内で大きさがいったん決まれば、二度と大きさを変えないというのです。他の骨は生まれてから、成長段階で全て大きくなって行きますが、耳小骨と呼ばれる三つの小さな骨だけは大きさを変えないというのです。その理由は、耳が音を聞き分ける為、聞いた音の振動が鼓膜に伝わり、その振動で先ず三つの耳小骨に伝わります。耳小骨に伝わったその振動が蝸牛官に伝わって、蝸牛官に沢山ある神経線維が震えて電気信号に変換されて脳に伝わります。それによって脳が音を瞬時に聞き取っているのです。もし三つの耳小骨が、人が誕生してから大きさを変えれば、鼓膜から伝わって来る振動を耳小骨は以前とは異なった振動を蝸牛官伝得る事になり、以前聞いたお母さんの声と、今日聞いたお母さんの声が異なって、赤ちゃんとお母さんのコミュニケーションが成立せず、赤ちゃんは精神的に情緒的にいつも不安定になり人間として健全に成長しなくなる、人間として健全に生きて行けなるくなるというのです。わたしは、その耳の仕組みのお話を聞いたときに、「あ、人間は造られている!」と深く感じ取ったのです。生まれて初めて「造られた」という被造物意識を持ったのです。その時の体験が、イザヤ書43章1節を読んだ時に、創造主と出会うための準備として背後にあった分けです。そのような体験の後、人間を含め天地万物を創造されたのは、父なる神の設計に基づき、御子なる神が創造されたという事を、ヨハネによる福音書1章1節で知るようになりました。ヨハネによる福音書1章1節から3節は以下のように教えています。
◆「ヨハ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
4、神の御子が「ことば」と呼ばれる理由
このヨハネ1章1節~3節では、神の御子が「ことば」だと教えられています。神の御子が「ことば」だというのは、神の御子が目に見えない霊なる父なる神を目に見えるように教えて下さるお方だという事です。人間の使用する言葉と言うのは、人間の目に見えない思い、感情を表すものです、そのように御子なる神は目に見えない霊なる父の御性質や御心を目に見えるように表して下さって来られたので、「ことば」と呼ばれています。そのことばなる神と父なる神は天地が造られる前の時間空間物質などが一切存在しない永遠の昔から、共に深い愛の交わりの中に存在されていました。その事をヨハネは「「ヨハ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。」と表現したのです。そのことばである神の御子が、父なる神の設計された天地万物を、父なる神の命令に従って全て創造されて、父なる神の御心を示されたのです。その事が「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と教えられているのです。天地万物をどのように造るのかを考えられ設計されたのが父なる神であり、その設計に基づいて天地万物を愛と知恵と力によって創造されたのが「ことば」と呼ばれる御子なる神です。その霊で存在されている御子なる神が、父なる神の命令で人類の全ての罪を背負って、十字架にかかり、身代わりに父なる神の刑罰を置く下さる為に、乙女マリヤより生れ、人となって下さったのです。それがクリスマスです。それはヨハネによる福音書1章14節では次のように教えられています。
◆「ヨハ 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」天地万物の創造主なる「無限の神の御子」が小さな小さな人間になったからと言って「全知全能の偉大な神」である事を全てお捨てになったのではありません。小さな人間となってその人性の中にに神であるご自分を隠されたのです。見たところ、神であるという事が分からないようにされたのです。ベツレヘムの家畜小屋で母マリヤによって聖霊によってお生まれになった赤ちゃんの中に全知全能の偉大なる神はご自身を隠されたのです。しかし、人となったご自身が同時に全知全能の神である事を、沢山の奇跡をもって示されました。癒しを求めてくる全ての人の病を悉く癒し、人に取りついた悪霊を悉く追いだし、死んで4日経った人を甦らせ、そして、死んだご自身の肉体を死んでから三日目に甦らせました。そうしたキリストの奇跡を目撃したヨハネは、その奇跡があまりにも多いので、キリストの奇跡を全て書物にしてもその書物を全世界をもってしても納められないと教えています。
◆「ヨハ21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」ヨハネによる福音書では、キリストの奇跡を「しるし」と呼んでいます。つまり、キリストの奇跡は人となられたキリストご自身が全知全能の神だという事を示すしるしだというのです。その一つを紹介したいと思います。キリストの親戚の人がガリラヤのカナで結婚式を挙げました。その祝宴の席で大事なぶどう酒が底をつき始めました。母マリヤは、息子のキリストに相談しました。その時、キリストは僕たちに120リットル入りの水ガメ6つに水を入れるように指示しました。僕たちは言う通りにしました。ところが、僕が汲んで宴会の席に持っていくとなんと極上の葡萄酒になっていたのです。その奇跡をヨハネは目撃していましたので次のように教えています。
◆「ヨハネ2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」「ご自分の栄光を顕された」と言うのは、キリストご自身が神だという栄光を顕されたという事です。
5、御子なる神がなぜ人ととなられたのか
では、なぜ神の御子が人となる必要があったのでしょうか。それは、全ての人が罪赦されて、永遠の義人とされ、永遠の命を得て、永遠に神の愛に愛されている喜び平安で満ち溢れて、永遠に偉大なる愛の神さまと共に生きる為です。それが、ヨハネによる福音書3章16節の意味です。
◆「ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」「神は」の「神」は父なる神を意味しています。御子なる神は、父なる神にとって最高最善の最も大切な存在です。父なる神にとって、御子なる神は、これだけは絶対に手放したくない、苦しめたく無いいう、宝の中の宝です。その御子なる神はお一人ですので、ヨハネは「ひとり子」と呼んでいます。そのひとり子なる神の御子を、断腸の思いで、この世と言う、人類を愛して人類にお与え下さったとヨハネは教えています。この世と言うのは、罪に堕落した人類の事です。そのの中に、あなたやわたしが含まれていますので、この世よ言う言葉を自分の名に置き換えて読んで見て下さいす。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに(自分の名)を愛された。それは御子を信じる(自分の名)が滅びる事無く、永遠の命を得る為である」と。。
6、父なる神はなぜ御子なる神を人類にプレゼントする必要があったのか
では、なぜ、信じる者が滅びる事無く永遠の命を得る為に、天地万物を創造された神の御子が、父なる神のプレゼントとしてこの世に人として遣わされる必要があったのでしょうか。その第1の理由は、人類は全て罪犯しているので、誰ひとり、人類に代わって罪の身代わりの刑罰を受ける資格がない事です。人類の罪の身代わりに刑罰を受ける事が出来るのは、罪のない人に限られています。しかし、そうした人は人類の中に誰もいません。そこで父なる神は、御子なる神を人としてこの世に遣わされたのです。そのお方が、ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったナザレのイエス・キリストです。その、イエス・キリストがもし一度でも思いにおいて、ことばにおいて、行いにおいて過失の罪や故意の罪を犯せば、もはや人類の救いの道はありません。その事を良くご存知であったイエス・キリストは思いにおいて言葉において、行いにおいて過失や故意の罪を犯さないように、完璧な生涯を歩む為に、どれほど祈りの時間を割き、苦闘して祈られたか計り知れません。それ故にキリストはいつも聖霊に満たされて歩まれる事に心を砕かれました。キリストは聖霊に満たされながら、いつも弟子達を自分より優る御主人のように思い尊びながら、人と神に仕える僕の道を全うされ、十字架の死に至るまで父なる神に従われました。パウロがピリピ2章6節から9節で次のように教えています。
◆「ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
キリストは、一度も、ご自分を人より優ると思われた事がなく、徹底して心を低くしながら、自分の思いで勝手に人を批判したり裁いたりした事がなく、徹底して傲慢の罪や全ての罪を退け、過失の罪や、故意の罪を思いにおいて、言葉において、行いにおいて犯す事が無い完璧なご生涯を歩まれたので、父なる神は、十字架で全人類の罪を負わせられ、全人類に代わって身代わりの刑罰を与えられたのです。弟子のペテロが次のように証言しています。
◆「Ⅰペテ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」では、人の罪が赦される為に、何故キリストは十字架で罪を負い、身代わりの刑罰を受け死ななければならなかったのでしょうか。それは。人の犯す全ての罪は、神の御前には死罪に価するからです。神様は人間に良心を通してその事を教えておられます。良心がマヒしておらず、正常に働いている人は、罪を犯せば良心を通して心がうずきます。良心を通して罪の責めを感じる人は、二つの事を知ります。第1に自分は裁かれるべき存在だという事です。もし、罪が赦されなければ、神との交わり、隣人との交わりが永遠に途絶えたままとなるという事を知るのです。人を裁くことが出来るのは、罪のない聖なる神さま以外にありません。人は良心を通して、聖なる神の裁きを感じ取り、同時に、赦されなければ、永遠に神と隣人との交わりがなくなるという事を知らされているのです。それによって人は、犯した罪は永遠の死に価するという事知っているのです、社会の法律では、罪が全て死刑に価するとは決められていませんが、その社会の法律とは異なって、全ての人に与えられている良心を通して、全ての罪は死罪に価する事が示されています。キリストはそれを御存じでしたので、人類の死罪に価する全ての罪を人類の唯一の代表者、最後のアダムとしてご自分お一人で、背負って地獄の苦しみを受けながら、身代わりの刑罰を十字架で受けて、人類の全ての罪を償い、人類を罪から解放されたのです。その事実を事実として認め、キリストを自分を罪の責任から解放して下さった救い主だと認める人、つまりキリスとを自分の救い主だと信じる人は、その信仰を持った瞬間に、聖霊によって全ての罪が赦された喜びが与えられるのです。また、父案る神から罪を一切犯さなかった正しい人、義人とした認められ、神の愛と力に満ち満ちた永遠の命が与えられ、敵をも愛する人へと、変えられて行くのです。その事を教えているのがヨハネによる福音書3章16節です。
「◆「ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。最後に、一人の宣教師の証をお伝えします。それは、38年間日本の宣教師としてご活躍をされた英国のスティーブ・メティカフ宣教師のあかしです。2014年7月15日の産経新聞の記事からです。
「炎のランナー」の遺言
第二次大戦中、日本軍に捕らわれながら、戦後半世紀以上にわたり、宗教面から日本人を支えた英国人の宣教師スティーブン・メティカフ氏がこの6月、永眠した。86歳だった。同氏は17歳になった1944年の冬、中国にある日本軍の収容所でランニングシューズをプレゼントされた。贈り主は、24年のパリ五輪男子400メートルで金メダルをとった後、宣教師として中国に渡ったエリック・リデル氏だった。その人生は、後に映画「炎のランナー」で描かれた。リデル氏は脳腫瘍を患い、収容所の核な暮らしの中、43歳で他界。シューズは若者への形見となった。もう一つ残したのが、「敵を愛せよ」と言う聖書の言葉だった。 自分たちを苦しめた敵をどう愛せよというのか。「憎しめば自己中心となるが、祈れば神が中心となる。神が愛している人を憎むことは難しい。祈りは、君の人生の姿勢を変える」遺言は若者を変えた。25歳から38年間、北海道や青森、宮城、千葉などで宣教活動に従事し、帰国後も15年間にわたり英国の日本人教会を支えてきた。 ロンドンの教会で行われた葬儀には、家族や友人のほか、英国在住の日本人も参列し、しめやかに行われた。愛とゆるしとの生きざまは多くの日本人の心の平安と救いを会与えている。(内藤泰朗記者)
キリストは、岩谷さんやスティーブン・メティカフ氏の心に、敵を赦して愛する心を与えられました。キリストは、私たちの罪からの救い主であり、敵をも愛する心を持たせて下さるお方です。