2024年12月15日
クリスマスメッセージ②「キリストの謙遜を身に着けて」
聖書:ピリピ2:1~11
牧師:佐藤勝徳
「ピリ2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、 2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。 2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。2:10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
【はじめに】
パウロは、ピリピの教会の異邦人キリスト者たちに対して、自分がどれほど彼らを愛しているのかを、挨拶の中で語っています。「ピリ1:8 私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です」と。パウロのこの愛の挨拶は、ローマ9章1節~4節で、「同胞のイスラエルを人の救いの為に、自分が呪われてもかまわない」と証言した事と同じ愛をパウロが彼らに抱いている事を教えています。そのピリピの教会の人たちが「キリスの日」と呼ばれる「キリストの空中再臨の時」に、純真で非難される事がなく、キリスト・イエスによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉が現わされる事をパウロは祈っている事を告げました。
1、キリストの福音に相応しい生活を命令するパウロ
その彼らに、パウロは一つの事を実行するように命じています。それは、キリストの福音に相応しい生活を送る事です。福音とは、神であるお方が人となって、人類の罪を全部背負って身代わりの刑罰を受けて、葬られ、三日目に甦り、天に昇られて、救いの御業をなされた事です。それが、神が人類に与えられた喜ばしきおとずれの福音です。その福音には、神さまの人類への愛が示されていますので、そういうわけでと言う事で、2章1節から11節において福音に相応しい生活について、解き明かしをしています。
2、福音に相応しい生活とは
福音に相応しく生きるという事は、第1に、神様の愛に対して、キリスト者同士、互いに励まし合い、愛をもって慰め合い、御霊の交わりを保ち、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにする事だと教えています。その一つ一つを少し学んで見ましょう。
① 互いに励まし合う
第1の「互いに励まし合う」とはどういう事でしょうか。キリスト者も、日々の生活の中で自分のの醜さや弱さや欠点や失敗などで悩むことがあります。そのキリスト者に必要なのは、同じ主にある兄弟姉妹に弱くても、醜くても、欠点や失敗が多い者であっても、赦され、愛され、受け入れられている安心感が与えられる事です。それが、大きな励ましになり、それが互いに励まし合う事です。
② 愛をもって慰め合う
第2の「愛をもって慰め合う」とはどういう事でしょうか。キリスト者もこの地上で多くの試練や苦難を体験します。そうした試練の中で、大変厳しい試練に遭遇する事もありおます。又、愛する者を失い深い悲しみの中を通らなければならない事もあります。そのようなキリスト者に必要なのは、同じ主にある兄弟姉妹による「慰め」です。私達は、そのようなキリスト者の為に、神さまの慰めを祈り求め事が良くあります。それも必要な事ですが、同時にキリスト者自らも、悲しみの中にある人に慰めを与えるものとなる必要があるのです。その為に、自分の知恵や感情により頼まず、神さまの導き祈る必要があります。
③御霊の交わり
第3の「御霊の交わり」とは何でしょうか。それは、いつも神さまと神さまの御業を喜び賛美しっ感謝しつつ御霊の導きに従って歩み、互いにキリスト者は腹の底からら御霊が川の如く流れるようにする事です。それが御霊の交わりを持つ事です。それが、互いに足を洗い合う事です。
④愛と憐れみ
第4番目の「愛情と憐れみ」とは何でしょうか。それは、1番から~3番目の、キリスト者の福音に相応しい在り方をまとめたものと思います。
⑤私の喜びが満たされるよう
第5番目の「私の喜びが満たされるよう」と言うのはどういう事でしょうか。それは、パウロのように神様に忠実に仕え、聖書の御言葉を忠実に伝え、教会の一致の保持をいつも求めている教会の指導者を喜ばせる事です。神さまと聖書の御言葉を忠実に伝えている教会の指導者が喜ぶ事は、キリスト者同士が一致を保つ事です。キリスト者同士の一致の保持と言うのは、教会はキリストの御体を構成し既に御霊によって互いに助け合い励まし合うという、一致の中に既に置かれているので、その事実に安んじ感謝する事です。その上で、御霊の導きに従う事です。それが、御霊の一致を保って生きることです。御霊の一致はいつも見解が一致する事ではありません。どんなに見解の不一致があっても、御霊によって愛の交わりを絶やさない事です。それが御霊の一致を保つ事です。それが、神様に忠実に仕え、聖書の御言を忠実に伝え、教会の一致の保持を求めているパウロのような教会の指導者を喜ばせるのです。その事をパウロは次のように教えています。「同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにする」事です。それが、御霊の一致を保持するあり方です。これが、私たちの米子復活教会と鳥取復活教会が「「同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにする」為に、聖書により共通の理念を作成した理由です。私達は共有してきたその理念に基づいて互いに交わりを持ち、御霊の一致を保持し、活動をする事を目指してきました。米子復活教会の理念、鳥取復活教会の理念は以下の通りです。
「私たち米子復活教会と鳥取復活教会は聖書に基づき、天地万物の創造主である全知全能の父なる神を喜び礼拝し、御体なる教会の頭である生けるキリストに御霊によって従い、主にある兄弟姉妹を神の家族として愛し祝福し、国内外に向けて福音を宣教し、世の光・地の塩として隣人愛の実践に御霊によって生かされ、主の空中再臨と地上再臨を待ち望みつつ、選民イスラエルを祝福する事をその存在の目的とする」。
以上の理念は2021年の総会で改定されたものです。その理念において、米子復活教会と鳥取復活教会の兄弟姉妹が「同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにする」という存在目的が教えられています。
2、キリストの福音に相応しく生きる為の土台的あり方
パウロは以上のように福音に相応しい生活とは何かを論じ、次に、パウロは、福音に相応しい生き方をするための一番大切な土台とも言える事を命じました。それは「2:3 何事でも自己中心や虚栄からることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。」と言う命令です。パウロはへりくだりの消極面と積極面を教えています。
① 自己中心の否定
へりくだりの消極面について、パウロは先ず、自己中心を戒めています。自己中心と言うのは、自分の貪欲を中心に生き、又、自分の都合以外、他人の気持ちや都合を顧みない在り方をする事です。先ずそのような「自己中心」を否定しなさいとパウロは戒めています。そのような自己中心こそ、パウロがローマ書で教えている「古い人」です。
② 虚栄の否定
次にパウロは「虚栄」を否定するように戒めています。虚栄は、神様からの賞賛で満足する事をせず、人からの賞賛を求める生き方です。人は、言動の動機が「人からの賞賛を求める事である」と、偽善的言葉や、偽善的行為が多くなります。人からの賞賛を求めての偽善的言葉、偽善的行為に生きる事が「虚栄に生きる」事を意味しています。古い人はいつも、人の評価を気にして、人から賞賛を受けようとして、様々な偽善的言葉を巧みに使用し、様々な偽善的行為を巧みに行うのです。それは間違った称賛で自己満足をしようとする虚栄です。
③ キリストを模範とするへりくだりの命令
パウロは自己中心と虚栄に生きる事が無いように消極面について命令をした後に、「へりくだり」の積極面について命令をしています。積極面の「へりくだり」は、自分の知恵や知識や体験や様々な能力をいつも傍らにおいて、自分を無にする事です。キリストがその模範者です。キリストは人類の罪からの救いの為に、ご自分が神である事を傍らに置いて、ご自分を無にされて、人間の赤ちゃんの姿となられました。それが、世界で一番初めのクリスマスの出来事です。キリストは天地万物を創造された全知全能の栄光の神さまです。その栄光を傍らに置いて、最も貧しい中に、家畜小屋で生まれ、死人を包む白い布を産着とされ、家畜の餌となる藁を敷いた飼い葉桶の中に寝かされました。それは、キリストが心を低くされ、へりくだられた事を意味します。そのへりくだりが、人類の全ての罪を十字架で背負って、身代わりの刑罰をお受けになる事を良しとされたのです。
④父なる神への従順
キリストのへりくだりは、先ず父なる神様に対して従順の生涯で示されました。キリストは自分がどんなに優れた知恵や知識や力があっても、決して勝手にそれに頼らず、それを傍らに置いて自分を無にしていつも父なる神に聞きながら、父なる神の命令に従ってご自身の知恵や知識や力を使われました。キリストは、自分勝手に話をされる事はありませんでした。また。自分勝手に奇跡をされた事はありませんでした。キリストの全ての言葉と奇跡の御業と、生活の全ては父なる神のお導きと命令に基づいていました。キリストが十字架で死なれたのも、全て父なる神のお導きと命令によりました。そのキリストをパウロ次のように教えています。「ピリピ2:6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」と。キリストのへりくだりは、先ず父なる神様への徹底した従順で示されました。
⑤全ての人の僕として
次にキリストのへりくだりは、人間との関係では、いつもご自分を無にして、御自分と関わる全ての人を自分より尊い存在として尊敬をされ、僕となってお仕えになった事で示されました。その際たる出来事が、全ての人の罪を負って十字架で身代わりお刑罰をお受けになって死ぬという出来事でした。十字架のキリストは、人類の罪の赦しと永遠の幸福の為に徹底して人類の僕となった姿を示されたのです。その僕の姿をキリストは弟子達との関係でも示されていました。それは、洗足の出来事で明確にされました。キリストは、弟子達をご自分の主人の位置において、自分を奴隷の位置において弟子達の足を洗われた事がヨハネ伝で教えられています(参照ヨハネ13章4節~11節)。それが私たちの模範としての示されたキリストのヘリくだり、キリストの謙遜でした。そのキリストがご自身の事を、「マタ11:29わたしは心優しく、へりくだっている」と、明言されています。
父なる神への徹底した従順と、全ての人を自分より優れた者として尊び喜びながら全ての人の僕としてお仕えになったキリストのヘリくだりを、パウロは私たちの模範だと教えています。
3、キリストの如く謙遜に生きる道
福音に相応しい生活の土台は、自分を無にして、父なる神様への徹底した従順と、全ての人を自分より優る存在として尊び喜びながら僕として仕えるへりくだりです。そのような生き方は、人間の意志の力では実践できません。それは聖霊のお力によります。聖霊のお力を頂いて、へりくだって謙遜に神と人の前に歩む秘訣は、自己中心で、虚栄に生きる傲慢な古い人は、2000年昔、キリストともに十字架で死んだ事、そして、キリスとト共に甦りキリストのような謙遜な人に既にされている事を聖霊によって諭され、その諭された真理に基づいて、自分はキリストにあってへりくだった者とされている者だと認めて安んじる。その平安の中で、日々聖霊の導きに従う事です。その信仰と従順に聖霊が働いて、キリストにある謙遜な新しい聖なる自分を傍らに見るようになるのです。「我ならぬ我の現れ出て」という恵みを聖霊によって体験していくのです。そして、いつも、自分を無にして隣人を自分より優る存在として喜び尊びながら、僕の位置に自分を置いて仕える恵みを体験していくのです。
4、王の王となられたキリスト
キリストは地上の生涯において、謙遜であっただけではありません。キリストの謙遜は、キリストの聖なる性質であって、永遠に変わらないのです。それ故に、天に導かれても、決して傲慢になる事なく父なる神に従順にお仕えになっています。また、天から、地上の全ての人をご自分より優る存在として尊ばれています。キリストは永遠に謙遜なお方ですから、謙遜な父なる神は、キリストに対して全ての名に優る名を与えられ、王の王とされ、万物を与えられ、万物の王とされました。パウロが次のように教えています。「ピリピ2:9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」と。キリストは、ご自分を私たち罪びとに対して僕の位置に置きながらも、同時に王の王として私たちを愛と正義をもって、又、主権をもって上から統治されています。キリストは父なる神と私たちの僕でありつつ愛と正義に満ちた王の王なのです。それ故に、上から主権をもって命令する権限をお持ちです。キリストが、弟子達に対して謙遜な心をお持ちになりながらも、愛と正義に満ちた主として王として上から命じると言う主権を行使されていました。それは、上から目線で人を見下すという傲慢とは異なります。キリストは下からの目線で弟子達を見つめつつも、愛と正義に満ちた主として王としての上からの目線で主権をもって命令する事は、正しい事、聖なる事、喜ばしき事として実行されていたのです。
5、メシヤ的王国のキリスト
キリストは、やがて地上に再臨されて、イスラエルを中心としたメシヤ的王国を実現されます。その時に、世界で一番高い山に建設されたエルサレム神殿にお住いになって、王の王としてイスラエルと世界を愛と正義で統治されます。詩篇第2篇では、キリストは鉄の杖でメシヤ的王国の王たちを統治される事が預言されています(詩篇2篇9節)。
キリストは永遠に謙遜な方ですので、永遠の王の王として、神の主権を上の位置から行使できるお方です。それは、神様にとっては正しい事だからです。メシヤ的王国のキリストは「全ての名に優る名を与えられた永遠の王」として、専制君主として、メシヤ的王国を支配されるのです。聖書で、神さまが永遠の王の王として、専制君主として愛と正義をもって、厳しい命令を下したり、厳しい裁きをなさる時、その背後には、ご自分を無にして地上の全ての罪人を御自分より優る尊い存在とされているという謙遜な心があるのです。
6、キリストの謙遜を身につけなければ人は傲慢になる
キリストの心である「へりくだり」という謙遜を身につけておかないと、キリスト者は、与えられた自分の地位を乱用する危険性があります。これまでの長い教の歴史において、教会の指導者たちが傲慢になって、教会の信徒を抑圧して来た出来事や、反ユダヤ主義によって「置換神学」を構築し、ユダヤ人を迫害してきた出来事の原因は、教会の多くの指導者がキリストの謙遜を見失い、キリストの謙遜を身に着けなった事に事にあるのです。もちろんその事は、教会だけの事でなく、この世の政治の世界においても、色々な企業の世界においても、家庭においても、上に立つ人たちが、キリストの謙遜を身につけてこなかった結果、弱い立場にある者を不当に抑圧し数々の人権侵害の罪を犯してきたのです。
【終わりに】
これまでの人類の歴史において神の聖なる主権は、キリストの謙遜を身に着けた人を通して顕されてきました。聖書を書いた約40人のユダヤ人の預言者たちがそうでした。また、キリストを信じたキリスト者の中で、傲慢な古き自分が2000年昔にキリストと共に十字架で死に、キリストと共に甦ってキリストの如く謙遜な新しい自分にされたという事を、聖霊によって諭されたキリスト者がそうです。
クリスマスは、ご自分を無にして、へりくだって人となり、罪びとの私たちをご自分より優る尊い存在として喜び、私達罪びとを主人の位置に置き、ご自分を僕の位置に置かれたキリストの謙遜を学ぶ時です。また、父なる神さまに十字架の死まで聞き従われた、キリストの従順を学ぶ時です。更に、やがて地上に再臨されたキリストが、イスラエルを中心としたメシヤ的王国の王の王となって世界を愛と正義の聖なる専制君主として治めて下さることを、喜んで待望する事が、アドベンとト(降誕節)の季節を過ごす為の精神でもあります。
私達は専制君主と聞くと、罪に堕落した傲慢な独裁者をイメージしてしまいますが、キリストは決してそのようなお方でありません。キリストには傲慢は一切ありません。いつも全ての人をご自分より優る存在として尊ばれ、僕の位置においてお仕えくださる謙遜の心を永遠にお持ちなのです。キリストはその謙遜を土台にして、永遠の聖なる専制君主としてメシヤ的王国の世界を、人間の貪欲から起きる罪と悪を鉄の杖をもって厳しく裁きながら、戦争が決して起きないようにされる平和の王なのです。永遠に謙遜なお方であり、永遠に王の王であられるイエス・キリストを心から喜び賛美しましょう。
以上の謙遜なキリストを模範として謙遜を身に着けて生きる事が、キリスト者にとって福音に相応しく生きて行くための土台なのです。