2024年12月22日
クリスマスメッセージ③「キリストはインマヌエルの神」
聖書:マタイ1章222節~23節
牧師:佐 藤 勝 徳

【はじめに】
聖書は全部で旧新約を合わせて66巻あり、約40人のユダヤ人が書いた書です。現在、聖書は約3600の言語に翻訳され、世界中で読まれている唯一の書です。その聖書には開口一番創世記第1章1節に「初め神が天と地を創造された」と書かれてあり、天地万物は偶然によって出来たのでなく、創造主の愛と知恵と力によって出来たと教えています。「初めに神が天と地を創造された」という、このことばを読んで、世界は人間を中心に動いているのでなく、創造主を中心に動いていると諭されて、クリスチャンになったのが同志社大学の創設者「新島襄」でした。新島襄が諭され信じたその創造主が、現在の天地万物を6日間で創造され、最後に創造の冠として人間を創造された事が創世記第1章で教えられています。創造主の神さまは、人間を尊いご自身の形に似せて創造されました。人間がなぜ尊いのか、その根本的な絶対的理由は、人間は全て創造主の形に創造されたからだという事です。
1、創造主はなぜ人を創造されたのか
ではなぜ、創造主の形に似せて尊く創造されたのでしょうか。創造主が、人間を創造して何か足らない部分を満たすためでしょうか。そうではありません。創造主は、天地万物を無から創造できる全知全能の神さまで、無限のお方です。永遠に変わらないお方です。物質的にも、精神的にも何も不自由がない不足がない、完全なお方、十全充満のお方です。パウロが、使徒行伝で次のように教えています。「17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。 17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです」。神さまが永遠に完全で十全充満なお方ですので、そのお方がないかをするという事の動機は、神に創造されるものの幸福を熱心に思う、無償の愛、私がない無私の愛、無条件の愛です。その愛を、ギリシャ語では「アガペー」と呼んでいます。、神は人間をアガペーの愛でお造りになったのす。それは、神は三位一体の神だと理解するとその理由がよりよく分かるのです。創造主の神さまは、父と子と聖霊との間に愛の交わりの喜びが永遠に満ち満ちたお方です。その、交わりの喜びを体験することは、人間にとって最高最善の幸福だとご存知でしたので、その幸福を人間にも体験させようとして、三位一体の神さまが、協議をされて人を神の形に似せて創造する事を決められたのです。その人間に、ご自身が創造された地球をとその中にある全ての動植物を神の愛と正義と知恵と力で統治し管理させて、平和で幸福に満ちた世界を築かせようとされたのです。その為に、人は神さとの愛の交わりの中で、神様の正義と愛と知恵と力に満ちている時、世界とその中にある全てのものを統治し正しく管理する事が可能であったのです。その為に神様と生きた交わりの中にとどまり続ける必要があったのです。人間が、神さまの御心に従って世界とその中にある全てのものを正しく統治し管理するには、神さまとの愛の交わりの中にとどまり続け必要があったのです。その為には、人間は神さまの愛の導きや愛の命令にいつも喜んで聞き従う事が必要でした。しかし、最初に創造されたアダムとエバは、取って食べてはいけないと禁じられた善悪を知る木の実から取って食べて神に背き、神さまとの愛の交わりを自分から絶ち切って、神さまから遠ざかるようになったのです。その時、神さまは、ご自身の方から彼らに近づき、身を隠しているアダムに向かって「あなたはどこにいるのか」と、問いかけられたのです。人間は、罪を犯すと良心の呵責を体験します。良心の呵責による心の疼きがあると、人は、愛と正義の神さまを厭い、聖なる神様から遠ざかる習性を身に着けてしまったのです。また、隣人に対しても心を閉ざす習性を身に着けてしまったのです。多くの人は、自分が、罪深いものだと、良心の働きを通して知らされています。良心の働きを通して、罪は裁かれるべきものだと人間に知っています。良心を通して、罪を知った人間は、裁かれたくありませんから、その罪を隠そうとしたり、その罪を思い出させるような人から遠ざかろうとしたり、また、沈黙をしたり、色々と逃げ隠れして、人との愛の交わり、神様との愛の交わりを自ら断ち切っていくのです。人間社会において、起こっている様々な問題の最も深い原因は「良心の可食を通して、心が不安と恐れ」の中にある事です。普段は、心の底に押さえ込んでいるその罪意識と不安と恐れが表面に出てこないのですが、一人になった時、ある出来事を体験したりしたとき、同じような罪を犯している人の事がニュースになったり、警察に逮捕された事を知った時に、罪意識が表面に出てき、押さえていた不安や恐れが再び心を覆うようになるのです。そうした、良心を通して罪意識を持っている人間に最も必要な事は、全ての罪が赦され、罪意識から完全に解放される事です。その事を知っておられる神様は、罪意識でくるしんでいるひとりひとりにいつも近づいて、罪の赦しをお与え下さる為に、「あなたはどこにいるのか」と問いかけておられるのです。「あなたはどこにいるのか」と言う神の問いかけの意味は、場所の事でなく、正義と愛の神さまとの愛の交わりの中に留まるという、人間本来の在り方の事を意味しています。聖なる正義と愛に満ちた神さまとの生きた愛の交わりという人間本来の在り方からどうして離れたのかと、神様は人類にいつも問いかけておられるのです。その、問いかけの言葉が、今も全世界に、全宇宙に鳴り響いているのです。あなたは、どうして聖なる神である私との愛の交わりから離れ、遠ざかっているのか、私は、あなたの罪を一切赦し、良心の呵責から解放し、罪意識から解放し、不安と恐れを取り除き、あなたを私との愛の交わりの中に導く為に、イエス・キリストをその為の救い主として遣わしました。キリストは、あなたと全人類の罪の赦しの為に、あなたと全人類の身代わりとなって十字架で刑罰を受け、罪を完全に取り除き、あなたは既に赦されているのです。その救いの事実を事実として受けとめ信じるだけで、あなたは永遠に罪が赦され、永遠の義人として永遠の平和と幸福の中に生きるのです。このメッセージを神さまは、いま、全世界の人々に鳴り響かせておられるのです。その救いの事実を受け止めた人は、罪が赦されるだけではありません。救い主であり天地万物を創造された創造主の神であるイエス・キリストがその人の心の中に永遠に住んで下さるのです。「1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。 1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

創造主であり救い主である全知全能の愛に満ちたお方、いつくしみ深いお方、人の痛みや苦しみや悲しみをご自分の痛み苦しみ悲しみとして、私達以上に苦しみ痛み悲しみ覚えておられるお方が、信じるあなた心の中に永遠におられるのです。キリストはその後生涯において、政治的圧力による苦しみ、経済的物質的苦しみ、差別される痛み苦しみ、十字架の受難の道で、さげすみと肉体の極限の苦しみ、神様から見放される孤独の苦しみを味わいながら、十字架で私たちの罪の身代わりに刑罰をお受けになりました。罪を除いて、キリストが、理解できない、同情できない、人の心身の痛みや苦しみはありません。ヘブル書の著者が次のように教えています。「ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」。今年、あなたは、色々な苦しみや悲しみや悩みを体験してきた事でしょう。実は、その時、あなたの心に内住されているキリストは、あなたの痛み苦しみ悲しみをご自分の痛み苦しみ悲しみとして、あなた以上に痛み苦しみ悲しんで、あなたに深い同情、思いやりの心を向け続けてこられたのです。私と妻は、長男聖慈を失い、今も、時々思い出しては、涙をながしています。私は、聖慈の死を通して、息子に先立たれる親の悲しみや痛みを初めて体験しました。それによって、色々な理由で子を失った親の気持ちをが、少し理解できるようになり、同情をするようになりました。人間は、同じような体験をしないと隣人の痛みを理解し共有できない弱さがあります。それは、人となられたイエス・キリストも同じでした。キリストは様々な痛みや悲しみや苦しみを体験されたので、天において、地上で苦しんでいる一人ひとりの苦しみや悲しみや痛みを深く理解しながら、共に泣き、共に苦しみ、共に痛み、共に悲しんでおられるのです。それ故に、キリストはその名は「インマヌエル」と呼ばれているのです。インマヌエルとは「神我ら共にいます」と言う意味だと、聖書は教えています。「1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)。救い主が「インマヌエル」と呼ばれるという預言は、イザヤによるものです。イザヤ7章14節に次のように預言されています。「イザ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。キリストは「私たちと共にいます神さま」なのです。共にいるという事は、いつも、共に痛みや苦しみや悲しみを共有しながら、あるがままの私達を無条件の愛で愛し、祝福で満たそうと心を燃やし、私達と生きた交わりをして、実際に聖霊によって神の義と平安と喜びで心が満ち事を願って、共に永遠に心の中に住んで下さっているという事です。聖慈が入院している時、妻は「足跡」「フットプリント」と言う、詩を送説明と共に聖慈の携帯に送りました。聖慈からは、妻に「慰めらたわあ」と言う返信が帰ってきました。その時、聖慈は深い不安と痛みの中にあったと思いますが、フットプリントと言う詩を通して、キリストがインマヌエルの神だと改めて諭されたのだと思います。フットプリントを紹介します。

◆あしあと(Footprints)
ある夜、私は夢を見た。 私は、主と共に、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上に二人の足あとが残されていた。 一つは私の足あと、もう一つは主の足あとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 私は、砂の上の足あとに目を留めた。 そこには一つの足あとしかなかった。 私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつも私の心を乱していたので、 私はその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ、私があなたに従うと決心したとき、 あなたは、すべての道において、私と共に歩み、 私と語り合ってくださると約束されました。 それなのに、私の人生のいちばんつらい時、 -3- 一人の足あとしかなかったのです。 いちばんあなたを必要としたときに、 あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、 私にはわかりません」。 主は、ささやかれた。 「私の大切な子よ、 私は、あなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない ましてや、苦しみや試みの時に。 足あとがひとつだったとき、私はあなたを背負って歩いていた」。
ノアの大洪水の後、神様はノアを通して、人類と契約を結んでくださいました。それは、人類がノアの時代の人々以上に罪深いものとなっても、決して大洪水で人も全ての動物も滅ぼさないという、約束でした。その、約束のしるしとして神様は、大空に虹をかけられたのです。虹は、神さまが、愛をもってアダムに呼びかけられた「あなたはどこにいるのか」という、神さまの愛の呼びかけなのです。神さまは、アダムが罪を犯し堕落した後も、いつも共におられたのです。虹を見た時に、あなたは、あなたを愛している神さまがあなたと共におられるインマヌエルの神だとお思い出して神様の愛をたたえて下さい。「あなたはどこにいるのか」と問いかけながら、共にいて下さる神は、キリストの十字架の死は、あなたの罪を赦し、キリストが永遠にあなたの心に住み、心の中よりキリストがインマヌエルの神として、あなたを助けようと語りかけている事を覚えて下さい。
共にいます神であるキリストこそ、神さまがダビデに約束された正義と愛と平和に満ちた、エデンの園が回復したかのような美しい自然が満ちる「メシヤ的王国」の王となるお方です。インマヌエルの神、「その名はインマヌエル」と呼ばれるキリストの地上再臨を待望する信仰が深められるように祈りましょう!インマヌエルの神であるキリストよ来たりませ。そして、この地上を戦争が一切ない平和な世界にして下さい。アーメン!
最後にヘブル書の13:5~6のみ言葉をお読みします。「ヘブル 13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 13:6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」