岡山英雄牧師著 「小羊の王国」の問題点9
麦と毒麦のたとえ話について⑤
2025年1月15日
牧師:佐 藤 勝 徳

 

 【はじめに】 
岡山英雄牧師は、マタイ13章のキリストの「麦と毒麦のたとえ話」から、終末の教会の使命について論じていますが、要約すると次のようになります。「終末に拡大する獣の国によって多くの苦難を受ける終末の教会が、その苦難によってきよめられ、その教会が拡大する獣の国によって悪に満ちていくこの世界を、改革し改善し、神の国である小羊の王国の拡大に寄与していく」と。その例証とし旧約の聖徒達、預言者達、神の民であるイスラエルの苦難を取り上げています。その問題点を前回は詳細に纏めましたが、今回は、岡山牧師が論じる終末の時代における教会の苦難の目的と意義を検証します。

【教会の苦難】
 岡山牧師は小羊の王国の56ページ~68ページにおいて「教会の苦難とその意義と目的」を論じています。その中で、キリストの苦難、12使徒達の苦難、パウロの苦難、イスラルの出エジプトの際にエジプトに臨んだ災いと黙示録の災いとの比較、艱難期前教会携挙説の批判、ディスペンセーショナリズムの批判、艱難期後携挙説の正当性、破局的終末論の批判、終末的苦難時代の教会に関する研究の必要性などを論じています。以上の、項目の中の「キリストの苦難」、「12使徒たちの苦難」、「パウロの苦難」、「イスラルの出エジプトの際にエジプトに臨んだ災いと黙示録の災いとの比較」、「艱難期前教会携挙説の批判」「ディスペンセーショナリズムの批判」「艱難期後携挙説の正当性」等についての見解を検証したいと思います。

Ⅰキリストの苦難
 「キリストはすべての栄光を捨て、「悲しみの人」(イザヤ53:3)として地上を歩み、「小羊」として十字架で屠られた。イエスの苦しみは激しくて「悲しみのあまり死ぬほど」であった。(マタイ26:38)。しかし、主はゲッセマネで祈りによって勝利し、最後の晩餐の席上、ユダの裏切りのために夜の闇の中へ去って行った後に(ヨハネ13:30)、残された使徒たちにやがて来る苦難の時について語る。」(P56)

 以上のように、岡山牧師はキリストのご生涯の苦難の部分を短くまとめておられますが、それは、キリストがそのご生涯において苦難を受けられたように、キリストを信じる使徒たちも教会も苦難を受ける事を強調するためです。既述していますが、その教会の受ける苦難の意義と目的は、教会がきよめられ、きよめられた教会によって悪が拡大する世界を神の国(小羊王国)に改革改善するためというのが、岡山牧師の教えです。しかし、それはこれまで批判してきましたようにそれは明らかに間違っているのです。最後の晩餐における主が教えられた聖餐式制定の意義と主が晩餐の席でお語りになったことを正しく学ぶときに、その間違いが明確になりますので、その事を確認しておきたいと思います
1、最後の晩餐での聖餐式制定の意義
 主が十字架におかかりになる前夜の過ぎ越し祭の時、最後の晩餐の席で制定されました「聖餐式」の意義と目的は、十字架で裂かれたご自身の御身体を象徴するパンを食べ、その裂かれた御身体から流れる罪なき尊い血を象徴する葡萄酒を飲む事によって、ご自身の十字架の愛と罪の赦しの恵みをいつも新たに思い起こさせる為です。そのご自身の血を主は「多くの人の罪の赦しの為に流される契約の血」だと教えられました(マタ26:28)。その契約の血による「罪の赦し」は、預言者エレミヤがエレミヤ書31章で預言したイスラエルの民に神が終末において付与される「新しい契約」の中に含まれているものです(エレ31:34)。それ故にルカによる福音書では「新しい契約」(22:20)だとキリストは教えられました。

なぜ新しいのか、それは、キリストが十字架で贖いの血を流されるまでの、モーセ律法の動物の血による贖罪は、人の罪を覆う事は出来ても取り除く力が無かった事によります。キリストの贖罪の血はユダヤ人を含め全人類の罪を取り除く力がありますので、エレミヤが預言する新しい契約の中にキリストの血によって罪を取り除く「罪の赦し」が含まれていたのです。それをキリストは「新しい契約の血」と呼ばれたのです。へブル書がその事を教えています。
◆「9:26しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」

◆「ヘブ10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。・・10:11すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。」
以上のキリストによる「新しい契約の血」が含まれる、エレミヤによる「新しい契約」に全面的に与るのは、イスラエル民族だけだという事を聖書は明確にしています。
◆「エレ31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

◆「ヘブル 8:8 神は人々の欠けを責めて、こう言われました。 「見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。」
2、最後の晩餐とメシヤ的王国の約束
 では、なぜ、終末の時代において、神はイスラエルと新しいの契約を結ぶ事を約束されたのでしょうか。それは、イスラエルと結ばれた「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」等の3つの無条件契約によって「イスラエルの復興したダビデ王国(メシヤ的王国)」は実現した時に、イスラエル民族の老いも若きも全ての民が霊的に祝福を受ける為だという事をエレミヤは教えています。
◆「エレ 24:5 「イスラエルの神、【主】は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。 24:6 わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。 24:7 また、わたしは彼らに、わたしが【主】であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」

キリストが最後の晩餐の席で教えられたやがて十字架で流される「契約の血」は、エレミヤが預言した新しい契約をメシヤ的王国においてイスラエル民族に実現するためであったのです。もちろん、メシヤ的王国において新しい契約がイスラエルに全面的に実現する前に、既にキリストを信じるユダヤ人も異邦人も、キリストを信じる全ての者が新しい契約の中の「血の契約」と、「心に刻印される律法」に与っている事を聖書は教えています。
◆「ヘブル10:15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。 10:16 『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』 10:17 『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』・・」
キリストが、聖餐の儀を最後の晩餐の席で制定された時、その思いの中にあったのは、特にやがて実現するイスラエル民族とイスラエル民族を中心とした「メシヤ的王国」の世界の事でした。最後の晩餐である聖餐の時にお語りになった以下の三つ言葉でそれを確認する事が出来ます。
◆「マタ 26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(参照/マルコ14:12)
※父の御国は、明らかにメシヤ的王国のイスラエルの事を意味しています。
◆「ルカ22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
※エゼキエルはメシヤ的王国において守られる「過越の祭り」を預言しています(45:21)。キリストはエゼキエルが預言するメシヤ的王国の過越祭で過越の食事をされる事を約束されたのです。

◆「ルカ 22:29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。 22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」
※最後の晩餐の席で弟子たちの間に起きた議論について、ルカは次のように教えています。「この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」と。その彼らにキリストは、心を低くして仕える者となるように教えられた後に、ご自身の国であるメシヤ的王国において、弟子たちに「王権を与える事」と、「ご自身と食事をする」事と、イスラエル12部族を裁く「王座に着く事」を約束されたのです。
3、最後の晩餐で教えられたキリストの弟子たちの試練の意義と目的
 岡山牧師は「最後の晩餐の席上、ユダの裏切りのために夜の闇の中へ去って行った後に(ヨハネ13:30)、残された使徒たちにやがて来る苦難の時について語る」と、教えていますが、それは「ルカ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」ということばの事を指して、そのように論じています。キリストは確かにペテロと他の弟子たちがサタンによって信仰の試練に遭遇する事を教えられていますが、その試練の目的と意義は、「弟子たちが試練によってきよめられて、悪に満ちた世界を改革し、『小羊の王国』(神の国)に変えていくためだ」という事は、一切教えられていません。キリストはペテロに臨むサタンによる厳しい試練があっても、ご自身のとりなしの祈りで信仰が守られ立ち直る事の約束と、立ち直ったときはサタンの試練の中にある他の弟子達を力づける事を命じる為であったのです。

弟子たちがサタンによって「信仰がふるいにかけられる」という試練の意義と目的は、キリストのとりなしの力と神の保護の力を信じる信仰を強める為でした。キリストのとりなしの祈りで信仰が守られた12弟子たちは「メシヤ的王国」でキリストと共にぶどう酒を飲み、過越の食事を共にし、メシヤ的王国のイスラエル12部族を裁く権威ある立場を神から授けられるのです。岡山牧師はその事に関して一切論じていません。なぜでしょうか。それは「メシヤ的王国」に関する教えを「作り話」だと断定されている事にあります(P64、P220)。しかし、最後の晩餐の席でキリストが弟子たちにお語りになった「試練」の教えの意義と目的は、ご自身のとりなしにより信仰が守られた12弟子たちが、ご自身が約束された通りに必ずメシヤ的王国で、キリストと共にぶどう酒を飲み、過越の食事を共にし、メシヤ的王国のイスラエル12部族を裁く権威が神から授けられる事を確信させる為であったのです。
4、聖餐式のもう一つの意義と目的                                                  キリストはご自身を花婿とし、弟子達を花嫁の立場に置かれてきました。古代のユダヤでは、花婿と花嫁の婚約式において、花婿が花嫁にぶどう酒を差し出し、そのぶどう酒を花嫁が受け入れ飲むと、その婚約が成立したと言われます。聖餐式は、そのユダヤの風習に沿ってキリストが制定されたもので、花嫁なる教会がキリストの血を象徴する聖餐式の杯を飲むと花婿なるキリストと花嫁なる弟子達(教会)との婚約が成立している事を覚える為にあります。同時に、婚約が成立している花嫁なる教会が、やがて第3の天での花婿なるキリストとの「結婚式」に導かれる事と、メシヤ的王国において祝宴が行われる事を確認し(参照/黙19:7、9)、その希望を深める為に聖餐式を行うのです。その事を、ネットの「牧師の書斎」で銘形秀則牧師(北海道砂川市空知太栄光キリスト教会)がつぎのように説明をしています。
ユダヤの婚礼のしきたりでは、婚約時に二人は杯を交わしますが、花婿となる者はその杯を飲みません。飲むのは花嫁だけです。なぜなら、花婿となる人は結婚するまでの間(おそらく1年間)は、花嫁のために身をきよめるために、また酒の席で放蕩に走って誘惑を受けないようにするために、杯を口にしないようです。口にできるのは結婚式を挙げてからです。イェシュアとその弟子たちとの「最後の晩餐」が「婚約式」であったとするならば、イェシュアが言われたことば『これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』という意味が容易に理解できるのです。」
岡山牧師は最後の晩餐で、弟子達と神の国であるメシヤ的王国で「ぶどう酒を飲むこと」と「過越祭の食事をする」というキリストの約束のことばに関しては一切触れず、また、キリストが信じる者の受難の意義と目的について「教会がきよめられて世界を改革し神の国へと変えていく」という事は一切語っておられないにも関わらず、キリストがその事を語っているかのように教えているのは、明らかに間違っているのです。

Ⅱ12弟子達とパウロの苦難の意義と目的
  ユダがキリストを裏切り、12使徒から外され、新たに使徒が1人加えられ再び12使徒となりましたが、その12使徒たちの苦難については使徒行伝において記録されています。又、ユダヤ教から回心したパウロの迫害についても使徒行伝で詳細に記録されています。新約聖書の中には、その12使徒たちの中で、マタイとヨハネとペテロが書いた文書があります。それ以外には、パウロが書いた文書とキリストの弟ヤコブが書いた文書とペテロの甥っ子であるマルコが書いた文書が収められています。その彼らの書いた文書の中で、キリスト者が受ける苦難によって、キリスト者の霊性がきよめられ聖化される事は教えいても、そのきよめの意義と目的が「悪に満ちた世界を神の国へと改革していく事」だとは一切教えていないのです。キリストも同様です。それ故に、岡山牧師は、それを証明する明確な聖句や聖書の個所は一切提示出来ないのです。

Ⅲ新約聖書が教える教会の苦難の意義と目的
 新約聖書は、教会の苦難の意義と目的は「聖化される」「報いの授与」「聖霊の助けに与る」「神の慰めを受ける」「耐えられない試練はない事を知る」「感謝して神に栄光帰す」などなどの為だと教えています。

1、聖徒の人格が聖化される為
新約聖書が教える教会の苦難の意義と目的の第1は、聖徒の人格が聖化される為です。以下の聖句がそれを教えています。

◆「ロマ5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5:5 この希望は失望に終わることがありません」
◆「ヤコブ1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
◆「ヘブル12:10b霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

2、信仰の報い受ける為に
新約聖書が教える教会の苦難の意義と目的の第2は、天において報いを受ける為です。

◆「マタ5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」
3、聖霊の助けを受ける為に
新約聖書が教える教会の苦難の意義と目的の第3は、聖霊の助けを体験する為です。

◆「ルカ 12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。 12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」
4、神より慰めを受け、その経験により試練の中にある聖徒達を慰める為に
新約聖書が教える教会の苦難の意義と目的の第4は、試練の中で神より慰めを受け、その経験により試練の中にある聖徒達を慰める為です。

◆「Ⅱコリ1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」
5、耐えられない試練がない事を知る為に
新約聖書が教える教会の苦難の意義と目的の第5は、キリスト者が耐えられない試練がない事を知る為です

◆「Ⅰコリ 10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
6、試練をも最高最善の神の御業だと感謝し神に栄光を帰する為に
新約聖書が教える教会の苦難の意義と目的の第5は、キリスト者が試練をも最高最善の神の御業だと感謝し神に栄光を帰する為です。

◆「Ⅰテサ5:16 いつも喜んでいなさい。 5:17 絶えず祈りなさい。 5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
Ⅳイスラルの出エジプト際にエジプトに臨んだ災いと黙示録の災いとの比較
  岡山牧師は、教会が受ける試練の目的を「悪に満ちた獣の国である世界を改革し、小羊の王国を実現させるためである」と論じるその証明として、右図の通りに「イスラルの出エジプトの際にエジプトに臨んだ10の災いと黙示録の災いとの比較」を表で示し、イスラエルと言う神の民も教会という神の民も試練の中で神の助けを受けつつきよめられ、その目的を実現していくと教えています。しかし、この比較表は、イスラエルの出エジプトの際の10の災いの何種類かと黙示録の災いに共通点があるという以外は何も比較するものはありません。その理由は、イスラエルの出エジプトの際にエジプトに下った10の災いと黙示録の災いの意義目的が明らかに異なるからです。1、エジプトに下った10の災いの目的
イスラエルの出エジプトの際にエジプトに下った10の災い重要な目的は、アブラハム契約の成就の為に、エジプトのパロ王の頑なな心を砕き、イスラエルをエジプトから解放するためでした。「創15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。『あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。 15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる』」。以上のアブラハムとの約束に従って、奇跡による10の災いと紅海の道を通らせてイスラエルをエジプトから解放された事を神は「鷲の翼に載せて連れ出した」と教えられました。「出 19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。』・・」

2、図表の問題点
①保護される神の国の民
図表の問題点は、岡山牧師は「イスラエルが出エジプトの際にエジプトに下った災いから守られたように、黙示録の艱難の中で「神の国の民」である教会が守られる事を示している事」だと論じている事です。しかし、もし、黙示録に登場するキリストを信じる聖徒たちを、岡山牧師が論じるように「教会」(神の国の民)だとするならば、それは明らかに間違った見解だと分かります。それは、出エジプトの際に下った10の災いが続いている期間、イスラエルは一切災いに合わないばかりか、迫害による殉教も起こりませんでした。しかし、艱難時代の災いが続いている期間、黙示録に啓示されている聖徒たちには、様々な災いが臨み反キリストによって殉教の死を遂げる者も多く起こる事が預言されています。その違いをなぜ岡山牧師は論じようとしないのでしょうか。

②黙示録に啓示されている7年の大艱難時代の聖徒たちの試練
1)7年の大艱難時代の聖徒たちが様々な災いと殉教の死を遂げる
 「黙7:14 そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。7:15 それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。7:16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない」この約束は、地上で苦難を受けて天に導かれた艱難時代の聖徒達への約束となっており、地上では明らかに苦難を受ける事が預言されています。

黙示録7章16節は、明らかに7年の大艱難時代を通って来た聖徒たちが、殉教の死と言う試練と、その大艱難時代の中で「飢え」「渇き」「炎熱」という、厳しい災害を受けてきた聖徒たちだと教えています。又、黙示録14章13節もその事を教えています。
◆「黙14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」
黙示録はその他に、殉教の死を遂げた聖徒たちの魂の叫びと大バビロンによって殉教した聖徒たちの血に関して預言しています。
◆「黙 6:10 彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
◆「黙 16:6 彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。」
◆「黙 17:6 私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見て、非常に驚いた。」
◆「黙 18:24 この都の中に、預言者たちや聖徒たちの血、また地上で屠られたすべての人々の血が見出されたからである。」
◆「黙 19:2 神のさばきは真実で正しいからである。神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」
2)市場から閉め出される試練
「黙13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」

この聖句は、7年の大艱難時代の後半3年半において、獣と呼ばれる反キリストの刻印を受ける事を拒否した人たちが市場から閉め出されて生活に苦しむことが教えられています。では、その獣の刻印を拒否するのは誰でしょうか。それは大艱難時代にキリストを信じた聖徒たちです。黙示録20章4節がその事を教えています。
◆「黙 20:4 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」
以上のように、7年の大艱難時代の聖徒たちが、岡山牧師が教えるように「教会」だと解釈すれば、教会はその時代に多くの災いと労苦と殉教の死と言う、多くの試練を通過することとなるので、試練の中で教会が神によって保護されるという、岡山牧師の図表で示された主張は成り立たない事が分かります。
3、7年の大艱難時代の災いの目的
①不信仰なイスラエルと世界と反キリストを裁き滅ぼす為
それに対して、黙示録の7年の大艱難時代の災いの目的は、不信仰なイスラエルと不信仰な世界と反キリストを裁き滅ぼす事だと明確にしています。それがダニエル書9章で預言されています。「ダニ9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

以上の聖書個所は、メシヤの受難と不信仰なイスラエルが、反キリストと7年の安全保障条約を結んだことで神への反逆が表面化し、その為に、神の怒りによる裁きが下る事を預言したものです。イスラエルが反キリストと「安全保障条約」を締結した事が神の怒りを買う事が預言されているのはダニエル書以外に、イザヤ書28章14節~22節でも預言されています。「28:15 あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。・・・ 28:18 あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。・・・28:22・・・私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ」。
ダニエル書9章27節の「彼」は「反キリスト」の事です。(参照/黙示録13章)。7年の大艱難時代の最後に、地上に再臨されたキリストが、反キリストとその軍隊を滅ぼし、いずれも獣と呼ばれる反キリストとその預言者を火の池に投じられます。それが7年の大艱難時代のクライマックスです。「黙示録 19:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。 19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べ・・」。反キリストが再臨のキリストによって滅ぼされる事は、原始福音と呼ばれる創世記3章15節の預言に基づくものです。「創3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」。
「お前の子孫」はサタンが生む息子「反キリスト」の事です。 「女の子孫」はイスラエルが生んだメシヤである「イエス・キリスト」の事です。「敵意を置く」は反キリストとイエス・キリストの間に直接対決の争いが生じる事です。7年の大艱難時代は、反キリストと再臨のイエス・キリストとの「直接対決の舞台」を設置する役割を果たします。結果、再臨のキリストが大勝利をおさめ、敗北した反キリストは滅され永遠の火の池に投じられるのです。
◆「黙19:19 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。 19:2すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」
②イスラエルの残りの者が救われ、異邦人諸国に大リバイバルをもたらし、メシヤ的王国の住人を起こす為
以上のように 7年の大艱難時代の災いの目的と意義は、第1に、神が不信仰なイスラエルと不信仰な世界を裁き滅ぼすことです。第2は、メシヤ的千年王国の住人となるイスラエルと異邦人を起こす為です。その時代のイスラエルの人口は反キリストの虐殺によりは3分の1に減少する事がゼカリヤにより預言されています(ゼカリヤ13:8)。また、異邦人諸国ではキリストを信じるわずかな聖徒だけが残り、不信仰な人々は皆滅ぼされる事がイザヤ書に預言され、そその預言が黙示録では7年の大艱難時代実現し成就する事が教えられています。

◆「イザ 13:9 見よ。【主】の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。 13:10 天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。 13:11 わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。 13:12 わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。
◆「イザ 24:1 見よ。【主】は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。・・24:6 それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。」
◆「黙6:4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。
◆「黙 6:8 私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。」
◆「黙 8:11 この星の名は「苦よもぎ」と呼ばれ、水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
◆「黙 9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。」
黙示録の艱難の目的は、厳しい裁きによる災いの中で、残りの者と呼ばれるその時代の3分の1のイスラエルの人々がキリストを信じる信仰に導かれ、メシヤ的千年王国の住人になる為です。また、裁かれ滅びる異邦人の中より精練された金の様に少なくなった異邦人がキリストを信じる信仰に導かれ、メシヤ的千年王国の住人となる為です。以上のように7年の大艱難時代の艱難の目的は、罪を悔い改めキリストを信じたイスラエルの残りの民とキリストを信じて反ユダヤ主義を徹底して退けながら、迫害で苦しんでいるユダヤ人を助けた異邦人の諸国の民を「メシヤ的千年王国」の住民にする為なのです。
以上のように、イスラエルの出エジプトの際に下った災いと黙示録の艱難時代に下る災いの意義と目的は明らかに異なりますので、違うものを比較しても意味がない事は当然の事です。以下にその事を続けて論じます。
1、イスラエル民族の試練の意義と目的
  前回のレポートで既述していますが、旧約聖書のどこにも神の民であるイスラエルが経験した試練の意義と目的は岡山牧師が論じるような「悪の世界を改革する為」と言う事を教えられていません。罪深いイスラエルの民は、「40年の荒野試練」、「士師時代のペリシテ人による試練」、「統一王国の分裂」、「BC721年の北イスラルのアッシリヤによる滅亡」、「BC586年の南ユダのバビロンによる滅亡」、「AD70年のローマによる滅亡」など、神の裁きによって多くの試練を受けてきました。その意義と目的は、どんなに罪深いイスラエルであっても、「アブラハム契約」、「土地の契約」、「ダビデ契約」、「新しい契約」と言う4つの無条件契約を神がイスラエルと結ばれた故に、必ずその約束の成就として「復興したダビデ王国」と言う「メシヤ的王国」をイスラエルの為に実現されるいう事を、イスラエルの民に信じさせる為でした。岡山牧師は、出エジプトの際の10の災いと黙示録の災いが似ている部分があるので、イスラエルの民がその災いから守れたように、新約の神の民である「教会」もその災いの中にあって守られ、きよめられて「獣の国」である悪に満ちた世界を「小羊の王国」に改革していくと論じています。しかし、既述している通りに、そのような教会の存在の意義と目的を教えている新約聖書の個所はどこにもありません。そこで、岡山牧師が自分の神学の正当性の強調の為にとった方法が「艱難期前教会携挙説」の批判と「ディスペンセーション」の批判と、黙示録7章のイスラエル14万4千人と9章のイスラエルの二人の証人を「教会の神の民」だと解釈する事でした。岡山牧師の黙示録7章のイスラエル14万4千人と9章のイスラエルの二人の証人を『教会の神の民』だ」と言う解釈の間違いについては「問題点Ⅰ」と「Ⅲ」で詳細に論じていますので参考にして下さい。このレポートでは岡山牧師が「空想話」(P64~P65)だとして「艱難期前教会携挙説」と「ディスペンセーョン」を批判するその批判を検証したいと思います。

2、艱難期前教会携挙説の批判と否定の問題
岡山牧師が空想話として否定する「艱難期前教会携挙説」とは、ダニエル書とイザヤ書と黙示録などが預言する7年の大患難時代の前に、キリストが空中に再臨された時に、先に死んだ全ての「キリストにある聖徒」を永遠に朽ちない栄光の体に甦らせ、次に生き残っている全ての「キリストにある聖徒」の体を永遠に朽ちない栄光の体に変えて、その聖徒たちが共に空中にまで来られた主の下に導かれ、その後第3の天に引きあげられると言う説です。この説では、教会は7年の大艱難時代には地上にいなくなります。そうすると「艱難を通してきよめられた教会が悪に満ちた獣の国である世界を小羊の王国に改革していく」という、岡山牧師の説が成立しなくなります。それが、岡山牧師の「艱難期前携挙説」を空想話と批判し否定し、「艱難期後携挙説」を主張する最大の理由です。その聖書的根拠としている聖書個所は、黙示録3章10節の「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」を取り上げています。それ以外には、黙示録7章「イスラエル14万4千人」と9章の「イスラエルの二人の証人」を『教会の神の民』だと解釈している事と黙示録3年半(1260日を長い時代だと象徴的解釈している事と黙示録のバビロンを「ローマ」だと象徴的に解釈して取り上げています。さらに、イスラエルの普遍性という見解により、キリストを信じたイスラエルと異邦人キリスト者で構成する教会を「普遍的イスラエル」(神のイスラエル)と解釈した事をもってその理由としています。しかし、それらの解釈や見解の間違いは既に論じてきましたので、ここでは黙示録3章10節の「試練の時には」の解釈について論じたいと思います。

Ⅴ「試練の時には」
黙示録3章10節の「試練の時には、あなたを守ろう」についての解釈は二つあります。第1に、それは岡山牧師が聖書的だと主張する「7年の大艱難時代の時に、その艱難の中で神が教会を守られる」と言う解釈です。その説によると、主の空中再臨による教会携挙は「艱難期後携挙説」となります。つまり、7年の大艱難時代の最後に空中に再臨されたキリストによって教会が一度空中に挙げられ、それから天に引き上げられることなく地上再臨されるキリストに随伴して「千年王国」に導かれるというのです。図にすると右図の様になります。

第2には「艱難期前携挙説」です。この説は、7年の大艱難時代が始まる前のいつかの時点で、キリストが父なる神のGOサインで空中に再臨され、先に死んだキリスト者を永遠に朽ちない栄光の体に復活させ、次に、生きているキリスト者のからだを永遠に朽ちない栄光の体に変えて空中に引き上げ、そのまま天に導かれ、地上の大患難時代の艱難に合わないようにしばらく天に留まらせるという説です。それは、神学的には「教会携挙」と呼ばれています。やがて天に引き上げられた花嫁なる教会は、キリストがイスラエルを反キリストから救い、メシヤ的王国を実現するために地上に再臨される時に、天使の軍勢と共にそのキリストに随伴する事が黙示録で預言されています。図にすると右図の様になります。岡山牧師が「艱難期後携挙説」を聖書の教えだと論じる聖書解釈の前提は、「教会が試練の中できよめられ、悪と暴力に満ちた世界を改革して行く使命がある」と言う教会論にあります。岡山牧師の教会論によれば、教会は7年の大艱難時代において地上に存在し続ける事になります。それとは異なり、「ディスペンセーション」では、「試練の時には」と訳されている「には」を「から」と訳し、「試練の時から」とします。つまり、7年の大艱難時代と言う試練の時に、教会は地上に存在せず、天に引き上げられていると論じます。では、どちらの解釈が聖書的に正しいのかを以下に論じていきたいと思います。
1、ギリシャ語原語から

 「試練の時には」の「には」と訳されているギリシャ語は「エク」です。「エク」の第1の意味は「~から」ですので、英訳のNKJVでは「フロム ザ アワー トライアル」と訳し、TEVも「フロム ザ タイム オブ トラブル」と訳しています。英訳はいずれも「エク」は「から」を意味するので、「フロム」と訳しているのです。新改訳や口語訳や新共同訳の邦訳では、教会は試練の時に地上で存在し続けるが、神さまが試練の中で守って下さると解釈し「試練の時には」と訳しています。どちらの翻訳が正しいのかは、すでに論じました7年の大艱難時代の聖徒たちと、艱難時代前に携挙された教会の聖徒たちとを黙示録が区別して教えている事で「エク」は「試練の時に」でなく「試練の時から」が正しい訳だと分かります。又、次の天の礼拝に関する啓示でもそれが明らかです。
2、天の24人の長老の礼拝
黙示録が教える天の礼拝風景は多くありますが、その一つは二十四人の長老たちの礼拝風景です(4:4、10、5:8、11:6、19:4)。新約聖書では「長老」はイスラエル指導者と教会の指導者を意味して使用されています。

①イスラエルの指導者を意味する長老
「マタ 26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり・・」(他29回使用)。

②教会の指導者を意味する長老
「使徒15:2bパウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった」(他34回使用の内黙示録13回使用)。

3、黙示録の24人の長老が携挙された教会の指導者である証拠
①7年の大艱難時代前に天で礼拝を献げている
 黙示録には天上での礼拝を献げている24人の「長老」と言う言葉が13回使用されています。彼らが大艱難時代の前に携挙された「教会の指導者」である事は、大艱難時代が始まる事を教える黙示録6章の前の4章と5章において先ず登場する事です。

②天で受ける報いの金の冠(義の冠)を被っている
次に彼らは頭に「ステファヌース)と呼ばれる金の冠を被っていた事です。この金の冠は「勝利の冠」と呼ばれ、報いとして与えられる冠です。パウロはそれを「義の冠」(Ⅰテモテ4:8)と呼びました。教会が天に携挙されてキリストの裁きの座の前に立ち、報いを決める裁きを受けますが(Ⅰコリント3:8~10、Ⅱコリント5:10)その時にパウロが「義の冠」とよび黙示録では「金の冠」と呼ぶ、報いとしての「冠」「ステファヌース」が授けられるのです。24人の長老が「ステファヌース」を被っている事は、彼らが明らかに主の空中再臨の時に、永遠に朽ちない栄光の体に与って天に引き上げられている事を教えています。「金の冠」である「ステファヌース」を被っている24人の長老は、「金の冠」を霊魂ではなく永遠に朽ちない栄光の体の頭に被っている事は、黙示録19章に啓示されている復活されたキリストが永遠に朽ちない栄光の体の頭に冠を被っている事で分かります。キリストの冠は「ステファヌース」でなく、王族が被る冠「ダイアデマ)」す。その違いはあっても、キリストが復活の永遠に朽ちない栄光の体で「ダイアデム」を被っておられるように、24人の長老たちは永遠に朽ちない栄光の体の頭に「ステファヌース」を被っている事は間違いないのです。

③白い衣を着ている
 「白い衣」は、キリストを信じる信仰によって「義とされた事」を象徴として教えています。白い衣を着た24人の長老はキリストを信じて「義とされた」キリスト者の集まりである教会の指導者だと分かります。(黙示録7:13、14)

④)24人の長老は三位一体の神に礼拝をささげている
24人の長老たちは、父なる神と御霊なる神と「小羊であるキリスト」に礼拝をささげていますので、それは明らかに三位一体の神を信じる「教会の指導者」を意味しています。

⑤「24」の数字の象徴的意味
 「24」という数字は、旧約聖書ではモーセ律法の「祭司」を象徴する数字です。Ⅰ歴代24章に、ダビデ王の時代に祭司としての奉仕をする為に、アロンの子どもエルアザルの子孫が18組に分けられ、アロンの子どもイタマルの子孫が6組、合計24組に分けられたことが記録されています。その事から、「24」は象徴的に祭司の数として使用されています。黙示録の天上の長老24人は、当然モーセ律法の祭司でなく、大祭司キリストに仕える祭司である事を象徴的に表し、彼らはキリストの祭司として天において礼拝をささげているのです。

黙示録の幻の中で、これから将来において起きる7年の大艱難時代前に、天において「24人の長老」が礼拝をささげている事は、7年の大艱難時代前に教会が天に携挙される事を教えています。その長老たちは空中に再臨されたキリストによって、永遠に朽ちない栄光の体が与えられて天に携挙されるのです。(Ⅰテサロニケ4:15~18)
4、黙示録4章から18章まで、地上の教会が啓示されていない。
 7年の大患難時代前に教会が天に携挙された事は、黙示録4章から18章にかけて一切、地上の教会が啓示されていない事で分かります。19章になって天で花婿なるキリストとの婚礼をあげる「花嫁なる教会」が啓示されていますが、4章から18章までは一切地上の教会が登場しません。それは、7年の大艱難時代には地上に教会が存在していない事を教えているのです。

5、主の日である7年の大艱難時代の災いに合わず、安息が教会に約束されている
「Ⅱテサ1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

以上のⅡテサ1:7の主の再臨は、まだ、キリストの花嫁なる教会が地上に存在し迫害を受けている時に起きる事が約束されていますので、それは明らかに主の空中再臨の事を教えています。主の空中再臨の時に全ての真の聖徒たちが天に携挙され、来るべき7年の大患難時代の災いに合わないように約束されているのです。それが信仰の報いとし主が与えて下さる安息なのです。
6、主の日である7年の大艱難時代の神の御怒りから救われる教会
「Ⅰテサ 1:10 御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」

「やがて来る御怒り」とは、Ⅱテサロニケ2:2でパウロが「主の日」と呼んでいる7年の大患難時代において顕される神の「御怒り」を意味しています。それは旧約聖書で預言者たちが繰り返し預言しています。(詳細は「小羊の王国の問題点Ⅵ」で論じています)。Ⅰテサロニケ1:10の再臨の御子によって教会が「やがて来る御怒り」から救われる事は、御子の空中再臨によって教会が天に携挙される事を意味しています。なぜなら、黙示録20章の最後の審判において顕される神の怒りは、未信者のみに対するものなので、最後の審判の座の前には教会が存在していない事は明らかです。最後の審判の白い御座には、既に地上に再臨され、地上のメシヤ的千年王国で王として君臨されるキリストが着座されるので、再臨の御子が教会を「来るべき御怒り」から救ってくださるというのは、最後の審判の神の御怒りからの救いではなく、空中に再臨される御子によって、7年の大患難時代である「主の日」の神の御怒りをからの救いを意味している事は間違いありません。その事をⅠテサロニケ5章1節から9節で教えられています。
◆「Ⅰテサ 5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
 5:3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。・・ しかし、・・ 5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」
7、ひとりは取り去られ、ひとりは残る
  キリストは、マタイによる福音書24章の終末と再臨前兆の教えで、明らかに異なる二つの再臨を説かれています。一つは、荒らす憎むべきものである反キリストがエルサレム神殿の聖所に立った(参照ダニエル9:27、黙11:1・2)後に起きる再臨です。それは、キリストがイスラエル民族を撲滅しようとする反キリストの世界連合軍を滅ぼし(参照イザ34:1~8、63:1~6、Ⅱテサ2:8、黙14:14~20、19:11~21)、地上にイスラエルと結ばれた4つの無条件契約「アブラハム契約」「土地の契約/モアブ契約」「ダビデ契約」「新しい契約」の成就としてイスラエルを中心とした「メシヤ的王国」を実現するための再臨です。キリストは、反キリストによって絶滅の危機から守られたその時代の3分1の残りの者であるイスラエル(ゼカリ13:8~9)の「主の名によって来られる方に祝福あれ」(マタ23:39)という叫びに応じて地上に再臨されます。キリストの地上再臨はイスラエルが反キリストと7年の安全保障条約を結んだ7年後に起きる事(ダニ9:27、イザ28:14~19)を聖書は明確にしています。キリストの地上再臨は、今の私たちにはいつ起こるのかその時は分かりませんが、7年の大艱難時代の中にある人達は、その時を明確に知る事が出来るのです。その時代の人々にとっては、キリストの地上再臨は、突如的出来事ではないのです。7年の大艱難時代は、ノアの時代に突如洪水が押し寄せたように、突如的にやってくる苦難です。マタイ24章37節~44節でキリストが教えられた「ノアの時代のように突如やってくる苦難の時」と突如やって来る「主の再臨」は、7年の大艱難時代と空中再臨を意味して教えておられる事が分かります。キリストが空中に再臨される時に、そこに共にいる一人のキリスト者は天に上げられ、一人の未信者は残るという現象が、一日で起きるのです。その時は、地球上に住む者にとっては、ある人は朝であり、ある人は昼であり、ある人は夜の出来事となります。その出来事をキリストは「マタ24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」と教えられたのです。一人が携挙され一人が地に残るという出来事は、キリストが突如空中に再臨された時に起きる「教会携挙」以外に説明のしようがありません。

8、「エーアポスタシア」(女性名詞単数形)の翻訳について
 パウロは、Ⅱテサロニケ2章でキリストがマタイ24章で教えられた教会携挙の出来事と反キリストの出現の出来事が、「主の日」と呼ばれる「7年の大艱難時代」到来を教える重要で明らかな印としての歴史的出来事だと教えています。

◆「Ⅱテサ2:2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日(7年の大艱難時代)がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教「エー アポスタシア」が起こり、不法の人(反キリスト)、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」
邦訳聖書で「背教」と訳されているギリシャ語「エー アポスタシア」(女性名詞単数形)は、「携挙」と訳すのが正しいのです。その理由は先ず、定冠詞「エー」が付いた単数形が使用されている事です。背教とは、キリストを信じる信仰や神から離れ、不道徳的な生き方や偽りの教えの中に生きる事を意味していますので、定冠詞付きの単数形のことばで表すことはできないと思います。キリスト教の歴史の中で、初期の時代から、キリストを正しく信じる信仰から離れた異端とされる背教が既に複数出現していますので、単数形の「エー アポスタシア」を終末の「主の日」の到来の歴史的印にすることはできません。次に名詞の「エー アポスタシア」について、口語訳の聖書語句大辞典で調べると、新約聖書では1回しか使用されていない事です。また、「アポスタシア」の動詞「アフィステーミ」の変化形が全て「離れる」「離れ去る」と訳されている事です。動詞の変化形「 アフィエーシン」(マタ4:11、黙示2:4)は「離れ去り」「離れてしまった」、第二アオリスト形「アペステー」(ルカ4:13、使徒12:10、)は「離れた」、「離れ去った」 「アポスタンタ」(使徒15:38)は「離れて行った」、「アポスタス」(使徒19:9)は「離れ」、「アポステー」(Ⅱコリ12:8)は「離れ」、「アポステートー」(Ⅱテモ2:19)は「離れよ」と訳され、「背教」を意味して使用されていません。しかし、背教の意味で使用されている箇所が二つあります。それは第1テモテ4章1節とへブル書3章12節です。しかし、それが「背教」だとすぐ分かるように、その前に「テース ピステオース」(信仰から)とか「アポ セオウ」(神から)と言う言葉が付け加えられているのです。それらの言葉なし使用される動詞の変化形は全て「背教」の意味でなく、「離れる」と訳されています。以上のギリシャ語の翻訳と、その他の多くの聖書個所からⅡテサロニケ2章3節の「エー アポスタシア」(女性名詞単数形)は、「背教」ではなく、教会が地上から離れて天に引き上げられる「携挙」と訳すことが正しい事が分かります。
Ⅱテサロニケ2章1節の「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります」と言う聖句は、キリストの空中再臨と教会が集められることが一つの出来事とされているので、7年の大艱難時代前に主の空中再臨があり、その時に教会携挙が起きる事は明らかです。「教会携挙」と、「反キリストの出現」は、聖書の終末論を学んでいるキリスト者にとっては誰もが、明確に理解できる歴史的出来事です。
Ⅵディスペンセーショナリズムに対する批判
 岡山英雄牧師が「ディスペンセーション」を批判し否定する大きな理由の一つは、その説が歴史的に「新しい」という事です。次のように批判しています。「艱難期前携挙説は、きわめて歴史の浅い近代の新説である。・・・『患難期前携挙説』が突然十九世紀にイギリスに現れ、二十世紀にアメリカにおいて広まった。その歴史は二千年のキリスト教史の十分の一にも満たない。もし、この説が正しいのなら初代教会も宗教改革者たちも、終末に関する重要な真理を知らなかった事になる。この説の神学的根拠となっているのは十九世に前半イギリスのJ・ダーヴィによって唱えられた(古典的)ディスペンセーショナリズムであって、二十世紀にアメリカのファンダメンタリズム運動と結びついて急速に広まった。この神学は、創造から終末までの歴史をいくつかの時代区分(ディスペンセーション)から成り立つと考え、アダム、カイン、アブラハム、モーセ、ペンテコステなどをそれぞれ時代の区切りとする。そしてイスラエルは特別な民族として、教会とは異なる独自の役割を果たす事を強調する」

以上の、岡山牧師の「艱難期前携挙説」の神学的根拠である「ディスペンセーション」に対する批判の1つ1つが正しいかどうかを検証したいと思います。
1、ディスペンセーションとはどのような神学体系なのか
 岡山牧師の「ディスペンセーション」と言う神学体系の批判を再度紹介しておきます。「この神学は、創造から終末までの歴史をいくつかの時代区分(ディスペンセーション)から成り立つと考え、アダム、カイン、アブラハム、モーセ、ペンテコステなどをそれぞれ時代の区切りとする。そしてイスラエルは特別な民族として、教会とは異なる独自の役割を果たす事を強調する」
 以上の岡山牧師の「ディスペンセーション」に対する説明に限って言えば、ディスペンセーションは二つに分けて説明ができます。第1は「時代区分」です。第2は「神のご計画には、イスラエル民族に対する計画とキリストの教会に対する計画の区別」があるという事です。

①時代区分説
 最初に「時代区分」とはどういう事なのかを確認しておきたいと思います。

「ディペンセーション」は、第1に聖書66巻の創世記の天地創造から黙示録の新天新地の創造に至るまでの全歴史をいくつかに区分して聖書を解釈しているという事です。その例として、岡山牧師は「アダムの時代」「カインの時代」「アブラハムの時代」「モーセの時代」「ペンテコステ以降の時代」を紹介しています。この例にあげられている「時代区分」の説明は、大変不十分で、読者に誤解を与えていると思いますので、現代において、「ディスペンセーション」を聖書的に整理して教えているユダヤ人神学者の「アーノルド・フルクテンバウム博士」による時代区分を紹介しておきます。アーノルド・フルクテンバウム博士は、ハーベスト・タイムの中川健一牧師の紹介でその名が日本で広く知られるようになりました。以下に紹介するフルクテン・バウムは博士のその時代区分が非聖書的かどうか読者の方々に検証をして頂きたいと思います。
1) 罪なきの時代又は無垢の時代(創1章28節~3章:6節/アダムから堕落迄)
※天地創造からアダムとエバが罪に堕落する迄の歴史ですので、「罪なき時代」とか「無垢の時代」と呼ばれています。それは大変相応しい表現と思います。

2) 良心の時代(創3章9節~8章14節/堕落からノアの大洪水迄)
※アダムとエバが罪を犯したときに良心が働きだしましたので、神はその良心に働きかけられるようになり、人がその良

心に沿って生きるようにされました。そのような時代が始まったので「良心の時代」と呼んでいます。
3) 人間統治の時代(創8章15節~11章9節/ノアの大洪水からバベルの塔迄)
※ノアの大洪水の後、神の形に似せて創造された人間の命を殺める者は、人によって死刑に処せられる事が定められました。つまり、人間による社会の秩序維持が始まったのです。それで「人間統治の時代」と呼んでいます。神は人の良心に直接働かれながらも、人間が社会の秩序維持の為に考え出す「法律」によって統治する事を良しとされました。

4) 約束の時代(創12章~出エ18章27節/アブラハムの時代から律法の付与迄)
※神はアブラハムとアブラハム契約を創世記12章で結ばれ、その後もアブラハム契約を繰り返し結ばれました。アブラハム契約がアブラハムの息子イサクに継承され、イサクからヤコブに継承され、ヤコブからその子孫イスラエルに継承されていったことを創世記12章から出エジプト記19章までに繰り返し教えられているので、その歴史を「約束の時代」と呼んでいます。

5) モーセ律法の時代(出エ19章1節~使徒1章16節/シナイ山からカルバリの丘迄)
※モーセ律法が出エジプト記20章で与えられ、キリストが十字架の死によってモーセ律法を終わらせたので(ローマ10章4節)、その長い時代を「律法の時代」と呼んでいます。

6) 恵みの時代(使徒2:1~黙示19章21節迄/ペンテコステから大艱難時代まで)
※聖霊の働きにより、神の恵みにより、キリストを信じる信仰のみによって罪が赦され義とされるという救いの賜物が与えられるようなりましたので、キリストの十字架の死以後の時代を「恵みの時代」と呼んでいます。

勿論、旧約時代も恵みによって神が信じるように教えられた真理を信じる事によって罪が赦され「義」とされていました。その事で有名なのが、アブラハムが夜空の星のように子孫を与えるという、神の約束を信じて「義」とされた出来事です。現在の時代は、神の恵みにより「キリスト」を信じる者が「義」とされる時代です。
7) 千年王国時代(黙20章1節~10節/キリストの1000年王国)
 恵みの時代の中に含まれる「教会時代」と「7年の大艱難時代」の後に、イスラエルと結ばれた4つの無条件契約の成就として「メシヤ的王国」が千年続きますので、その時代を「千年王国時代」と呼んでいます。又、キリストはその王国を「神の国」と呼ばれたので「御国の時代」とも呼ばれています。

以上のように、聖書の歴史を「7つに区分」して、聖書を解釈するアーノルド・フルクテンバウム博士の「ディスペンセーション」を読者の皆さんはどのように思われるでしょうか。非聖書的で空想話だと断言し否定できるでしょうか。
2、神のご計画にはイスラエルに対する計画とキリストの教会に対する計画があり区別されている
 「神のご計画にはイスラエルに対する計画とキリストの教会に対する計画があり区別されている」という、「ディスペンセーション」の教えを岡山英雄牧師は非聖書的な教えだと否定していますが果たしてどうでしょうか。イスラエルに対する神のご計画と、教会に対する神のご計画とに区別がある事を知る最大の手掛かりは、神がイスラエルと結ばれた4つの無条件契約を調べれば一目同然です。その詳細は「小羊の王国問題点Ⅱ」で既に論じてきましたのでここでは概略だけお伝えします。

《イスラエルに対する神の特別な計画》
①アブラハム契約
 アブラハム契約の主な条項は3つです。1つはカナンの地をアブラハムが歩いた範囲を約束の土地としてアブラハムとその子孫に与えるという約束です。2つ目は、子孫を空の星のように、海辺の砂のように増大させるという、血統的子孫の増大です。3つ目は、世界を祝福する民となるという約束です。以上の、アブラハム契約がイサクとヤコブに受け継がれて行きました。神は創世記において「アブラハム契約」を合計11回にわたって、アブラハムとイサクとヤコブとに結ばれました。それ故に神はご自身の事を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれるようになったのです。

◆「創17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
◆「詩105:9 その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。 105:10 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。 105:11 そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」②土地の契約(モアブ契約)
 アブラハム契約の条項に「約束の土地の付与」があるのですが、申命記29章から30章において、神はモアブの地で改めて「約束の土地の付与」を無条件契約として結ばれました。

◆「申 29:1 これは、モアブの地で、【主】がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」
③ダビデ契約
 ダビデ契約の主な条項は4つあります。1)永遠のダビデ王朝の約束 2)ダビデの息子ソロモンの祝福の約束 3)ダビデがダビデの王座に永遠に着く約束 4)ダビデの子孫であるメシヤがイスラエルの永遠の王となる約束

1)ダビデ王に対する約束
「Ⅱサム 7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

※「あなた」はダビデの事を指している。
2)ダビデ王の子孫であるメシヤに対する約束
「Ⅰ歴代17:14 わたしは、をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」

※「彼」はダビデの息子の中から王となるシヤを指している。
④新しい契約
 エレミヤの書31章において神がイスラエルと結ばれた「新しい契約」の条項は主に2つです。一つ目は「永遠の罪の赦し」の約束です。二つ目は全てのイスラエルの人々に神の御言葉を刻印し、誰からも「主を知れ」と教えられなくてもよい非常に高くて、深い霊性付与の約束です。

◆「エレ31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。 31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ── 31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」
⑤イスラエルに対する神のご計画を教える聖書個所
以上の4つの無条件契約を神が、アブラハムとイサクとヤコブとその子孫イスラエルとダビデと結ばれたという事は、イスラエルがどんなに恐ろしい反逆的な民となっても、キリストを十字架で殺したとしても、それらに関係なく、なんとしても神は約束を守り成就されるという事を教えています。もし、神がご自分の憐れみと恵みと愛によってイスラエルと結ばれた4つの無条件契約を成就しなければ、神は大ウソつきの神となり、キリストの十字架の贖罪と勝利の復活も、教会の存在も、黙示録の新天新地の約束も何の意味もないものとなって、聖書の全体が崩壊してしまうのです。ですから、四つの無条件契約を何としても成就する為のご計画を立て、キリストの十字架の贖罪と勝利の復活を実現させ、教会を存在させ、将来において、イスラエルと結ばれた4つの無条件契約の成就の保証とされたのです。(ローマ15:8)。神はその成就に向けて人類の歴史を進めておられるのです。それが、イスラエルに対しての特別なご計画として聖書は一貫して教えているのです。神は、バビロンで捕囚の民となっているイスラエルの人々に次のように預言し、約束されました。

◆「エレ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」。へブル書においても、神の無条件契約であるアブラハム契約に基づくイスラエルに対する神の計画がある事を教えています。
◆「ヘブル 6:12 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。 6:13 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、 6:14 こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」 6:15 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。 6:16 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。 6:17 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」預言者イザヤは、神が決められた計画は誰も止める事が出来ない絶対的なものだと繰りかえし教えています。
◆「イザ 14:27 万軍の【主】が計画されたことを、だれがくつがえせるだろうか。御手が伸ばされている。だれがそれを押し戻せるだろうか。」
◆「イザ 46:10 わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。
ペテロはキリストがユダヤ人によって十字架にかけられ殺された事は、神の予知とご計画によると教えています。
◆「使 2:23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。」
パウロは、神のイスラエルに対する特別計画は永遠に不変であることを、ローマ書9章~11章で教えています。ローマ書は「神の義」について組織的に論じていますが、その神の義の一つが、「神のイスラエルに対する特別な計画は永遠に不変的な真理」として実現される事です。もし、神がイスラエルに対する特別なご計画を実現しないと、神はご自分の義をお捨てになる事になります。それはあり得ないので、パウロはイスラエルに対する神の召命とご計画が永遠に変わらない事を教えています。
◆「ロマ11:1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」
◆「ロマ 11:29 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」
キリストが割礼のある者と呼ばれるイスラエルの僕として生涯を歩まれたのは、神がイスラエルの先祖と結ばれた約束の確証(必ず実現するための保証の事)となられる為であったとパウロは教えています。
◆「ロマ 15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、・・」
⑥「イスラエルの神」と言う神の呼称の意味
 神がご自身の事を聖書全体で195回以上にわたって「イスラエルの神」と呼ばれて啓示されている理由は何でしょうか。それは、ご自身がイスラエル民族と永遠に切っても切り離すことができない永遠の神だという事を教えています。「愛の神」とか「正義の神」などが神の聖なる永遠の属性を表すように、神は「イスラエル民族の神」だという言うご自身の立場が永遠に変わらない事を意味して「イスラエルの神」だと195回以上にわたって聖書に啓示されたのです。つまり、イスラエルと4つの無条件契約を結んだ神として、その約束の成就の為にイスラエルに対して特別な計画を立て、その計画を必ず実現する神だという立場にご自分を永遠に置かれた事です。それは、同時にイスラエル民族を永遠に愛する立場にご自身を置かれた事を意味しています。

◆「申 14:2 あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民だからである。【主】は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」
◆「イザ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
◆「イザ 49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。
◆「エレ31:1 「その時、──【主】の御告げ──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」 31:2 【主】はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」 31:3 【主】は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」
◆「ゼカ 2:8 あなたがたを略奪した国々に主の栄光が私を遣わした後、万軍の【主】がこう言われたからだ。『あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。』
⑦「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神名の意味
 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6、マタイ22:32他多数)という神名について、すでに詳細に既述しましたので、ここでは要点だけをお伝えします。それは、神が、「アブラハム契約」をアブラハムから、イサクへ、イサクからヤコブへと継承させ、「アブラハム契約」を必ず成就する「アブラハム契約の神」だという事が教えられている事です。

以上のように、聖書は神がイスラエル民族と結ばれたアブラハム契約を中心として結ばれた4つの無条件契約の故に、わざわざご自身の神名を「イスラエルの神」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として、その約束の成就に向けてイスラエル民族の為に特別なご計画を立てて人類の歴史を導かれている事を明確に啓示しています。それは、イスラエル民族に対する特別なご計画があるという「ディスペンセーション」の神学的主張の正しさを聖書が明らかに保証している事を意味しています。終末時代におけるイスラエル民族には特別なご計画はないと主張する置換神学者のやアドベンチストの「未来主義の否定」の「イスラエル観」、また、「イスラエルの普遍性」という岡山牧師の「イスラエル観」を聖書が全面的に否定している事が分かります。神のイスラエルに対する神の特別なご計画を図に表すと以下のようになります。

3、新説であれば非聖書的なのか
 岡山牧師は、「艱難前教会携挙説」(ディスペンセーションは近代に構築された「神学体系」だという事で、次のように批判し否定しています。「艱難期前携挙説は、きわめて歴史の浅い近代の新説である。・・『患難期後教会携挙説』は、初代の教会から現代まで広く受け入れられてきた。2世紀から3世紀にかけての初代教父の全て、また中世から宗教改革を経て18世紀に至るまで、たとえ軽視される事はあっても、この説を否定する者はなかった」(P63)と。しかしそれは、聖書的に正しい批判でしょうか。

①ベレヤ人の如く
 「新説」への聖書的態度の模範者として、聖書が教えているのが「ベレヤのユダヤ人」です。彼らは、パウロからキリストの十字架の死と復活による罪の贖いのメッセージを初めて聞きました。当時のユダヤ人は、メシヤの受難については知らされていませんでしたので、彼らにとっては「新説」だったのです。多くのユダヤ人はそれを否定し、パウロ達を迫害したのですが、「ベレヤのユダヤ人」はそのような非聖書的な態度をとりませんでした。彼らは、素直な心でパウロの伝えている「新説」が果たして、聖書が教えている真理なのかかどうか毎日調べたのです。次のようにルカは教えています。「使17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」と。ベレヤのユダヤ人たちは、パウロの説く「十字架の福音」をユダヤの長い歴史の中で多くの有名なラビたちから教えられてきたユダヤ教の伝統の教えに反するから駄目だと決めつけずに、果たして聖書の教えなのかどうか、「聖書主義の精神」で改めて聖書を学び直したのです。その「ベレヤのユダヤ人」をアドベンチストの牧師やその他に多くの聖書主義の牧師が「ベレヤ人」と呼んで、「聖書主義者」の模範者にしてきました。ルカが教える「ベレヤ人」の新説に対する姿勢が、「ディスペンセーション」を「新説」として批判し否定する神学者や牧師に求められているのではないでしょうか。

②弟子たちのように
 メシヤの受難と復活に関する聖書の教えを、当時のパリサイ人や律法学者たちから学んでこなかった弟子たちは、復活のキリストから、「聖書全体」にわたって「メシヤの受難と復活」に関して教えてもらいました。弟子達も、ベレヤ人の心をもっていたので、「メシヤの受難と復活」について聖書全体から体系的に組織的にキリストから教えを受ける事が出来、「メシヤの受難と復活」を聖書が教えている真理だと確信できたのです。ルカが次のように教えています。

◆「ルカ 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」
弟子達も、ユダヤ教の伝統の教えに縛られていたのですが、キリストによってそれから解放され、正しいメシヤ観を復活のキリストを通して聖書によって持つ事が出来たのです。私たちも、キリスト教の伝統とされる教えがいつも正しいとは限らない事を知っておく必要があります。間違った伝統的な教えから解放される道は、「新説」に対して弟子たちの如く、ベレヤ人の如く聖書全体を体系的に組織的に学び直す謙虚さ、素直さをもって対処する姿勢ではないでしょうか。「新説」とされる「ディスペンセーションに対しても、その姿勢が必要だと思います。
③置換神学的「教会論」と「終末論」からの解放
 私は、最近まで「時代区分説」(ディスペンセーション)と聞くと、自分で検証もせずにすぐに否定してきました。それは、アドベントの神学校で教授から「未来主義の否定」という言葉で、イスラエルの未来の希望を教える「時代区分説」(ディスペンセーション)を否定する教えを受けてきた事によります。又、私のアドベントの牧師仲間からも「時代区分説」を否定する言葉を聞かされてきたことも原因しています。「新説」を、改めて聖書全体から体系的に組織的に学び直すのは決して簡単な事でない事は、私の個人的な体験からも知らされて来ました。「新説」に対して「弟子達の如く」「ベレヤ人の如く」聖書全体から組織的に体系的に学ぶ事は決してたやすい事でないのです。しかし、私は神さまの憐れみで新説とされる「未来主義」である「時代区分説」(ディスペンセーション)を聖書全体から組織的に体系的に学ぶように導かれてきました。その結果、ディスペンセーションを否定する最大の根源は、初期キリスト教時代に「反ユダヤ主義者」であった「教父たち」によって構築されて来た神学体系である「置換神学」にある事を知りました。又、置換神学以外に「契約j神学」による伝統的な「終末論」と「教会論」にもそれがある事に気が付くようになりました。岡山牧師がキリスト教初期の時代から伝統的に教えられてきたとする「艱難期後再臨説」が正しいかどうかは、伝統的だからでなく、聖書が教えているかどうかで判断しなければなりません。

④ディペンセーショナリストであるチャールズ・C・ライリーの応答
ディスペンセーショナリストであるチャールズ・C・ライリーは彼の書いた「ディスペンセーション主義」(2018年6月出版/前田大度訳/エマオ出版より)という本の中で、「新説」を理由に「ディスペンセーショナリズム」を批判し否定する神学者や牧師に対して、以下の様に要約して応答をしています。「ディスペンセイション主義の反対者たちの言う、ディスペンセイション主義は新しい教えであり、しかも分派活動から生まれたものであるという批判は全く不正確である。ディスペンセイション主義的概念はダービー以前からあり、ダービーはディスペンセイション主義的概念を体系化し広めるのに大きな役割を果たしました。そのような、体系化が教会史の初期に行われなかったのは、教理的議論が時間をかけて発展してきたために当然の事です。・・・それができるのは、ただ聖書だけです」(P89)。※「それができるのは聖書だけです」と言うのは、「ディスペンセイション主義を批判できるのは聖書だけ」で、歴史的時間の「旧い」「新しい」では無いという事を意味しています。

以上の要約の前にライリーは、カルヴァンたち宗教改革者の教えを当時の人たちが新説だとして批判し否定している事への応答としての、カルヴァンのことばを紹介しています。「第一に、これを「新しい」と呼ぶのは、神に対する大きな悪である。神聖なみことばが目新しさのゆえに批判されてはならない。・・・・これらが長らく人知れず葬られていた責任は、人間の不敬虔さにある。今や、神の恵みによって、これが我々に取り戻されたのだ。・・」(P71)
ディスペンセーショナリズムは、ただ時代を区分して聖書を解釈しているのではありません。様々な聖書の教えを体系的に組織的に論じながら聖書を解釈していますので、一度、ディスペンセーショナリストである「チャールズ・C・ライリー」や、ユダヤ人神学者の「アーノルド・フルクテンバウム博士」の著作やCDに耳を傾けて下さるようにお勧めします。
4、「艱難期後携挙説」について
 岡山牧師が聖書的に正当だと主張する「艱難期後携挙説」の聖書的根拠とされるいくつかの証明の間違いを既に検証してきました。更に、岡山牧師はⅠテサロニケ4章、マタイ24章、Ⅰコリント15章などのみ言葉に基づいて「艱難期後携挙説」の正当性の証明を論じていますので、それを検証したいと思います。岡山牧師はまず次のように論じています。

「また『終末のラッパ』に注目するなら、艱難期後携挙説が支持される。Ⅰテサロニケ4章ではキリストは「神のラッパの響き」(4:16)の中を来臨され、死者の復活、生き残っている者の携挙が起こる。そしてマタイ24章においてもイエスは「大きなラッパの響き」(24:31)と共に来臨される。この来臨のラッパについてはⅠコリント15章でも言及されている。「終わりのラッパ」(15:52)と共に、死者と生き残っている者がともに「朽ちない」からだを受ける。さらに、黙示録においても「第七のみ使いが吹き鳴らすラッパ」(11:15)は主の来臨を示している。これらは来臨に伴う終末的ラッパとして同一のものであると考えられる。・・」(P61)
◆ラッパについて
岡山牧師は、キリストの来臨の際に吹かれるラッパについて4か所の聖句を取り上げています。Ⅰテサロニケ4:16、

マタイ24:31、Ⅰコリント15:52、そして黙示録11:15です。そして、それらの4つのラッパは全てキリストの来臨に伴う同一のラッパだと解釈しています。以上の、岡山牧師のラッパに関する教えも聖書の教えとは異なった教えとなっています。Ⅰテサロニケ4章16節と、Ⅰコリント15章52節は、明らかに主の空中再臨の時に吹かれるラッパですが、マタイ24章31節は、主の地上再臨時に吹かれるラッパとなっています。マタイ24章15節~32節は、7年の大艱難時代後半に、イスラエルの民が体験する苦難が教えられています。キリストの以下のことばでそれは明らかです。
≪7年の大艱難時代の後半3年半におけるイスラエルの苦難を教えるキリストのことば≫
①「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば・・」(24:15)

※預言者ダニエルはイスラエルの人々の為に預言しました。
※キリストの語られた「聖なる所」はエルサレム神殿を意味して使用されています。現在、エルサレムには神殿はありませんが、大艱難時代後半3年半が始まる前までには必ず、第3エルサレム神殿が建つのです。
②「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」(24:16)。
※明らかに、ユダヤにいる人々は「ユダヤ人」を意味しています。それは、反キリストがユダヤ人を撲滅させようとしているからです。サタンは、ユダヤ人が復活のキリストに向かって「主の名によって来られる方に祝福あれ!アーメン主イエスよ。来たりませ」と、叫ぶときに(マタ23:39)、キリストが地上に再臨するので、その叫びをさせない為に、ユダヤ人を撲滅しようとしています。ユダヤ人を撲滅さえすれば永遠にキリストの再臨がなく、自分が神に代わって地上を支配できると野望を抱いているのです。その野望実現の為に、自分の息子である反キリストによってユダヤ人撲滅を計っているのです。その彼の計略の一つが「反ユダヤ主義」を広める事でした。キリスト教会の初期の時代からキリスト教文化圏にはびこって来た「反ユダヤ主義」、アラブのテロリストたちが抱いている「反ユダヤ主義」、今日、中東問題を契機に世界に拡大しつつある「反ユダヤ主義」の背後に、ユダヤ人を撲滅させて自分の野望を実現しようとする悪魔の企てがある事を、私たちは知っておく必要があります。
③「冬や安息日にならないように」(24:20)。
※ユダヤの天気は、雨季と乾季に分かれ、冬は雨期で雨が降り「ワディ」呼ばれる川が水で満ちて反キリストから逃げる事が困難になります。又、安息日はユダヤ人の習慣で、交通機関が全てストップし、反キリストから逃げる手段を失ってしまいます。キリストはそうしたユダヤの気候や習慣に基づいて警告をされました。
④「すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます」(24:31)。
※「選びの民」と言うの「イスラエルの民」の事です。四方から集めますというのは、大艱難時代に世界に散っていた離散のユダヤ人を集める事を意味しています。反キリストの世界連合軍によって、イスラエルは再び国を失い、イスラエルの人々は、多くはキリストの「山へ逃げなさい」に従って山の先にあるエドムのボツラに逃げ伸びますが、その他のユダヤ人は世界に散っていきます。そうした離散のユダヤ人を全てキリストは集める為にみ使いにラッパを吹かせます。
⑤いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。(24:32)
※ユダヤでは、いちじくの実は夏に実ります。その実りの為に、枝が柔らかくなり葉っぱが出てきます。それを見ると、ユダヤの人々は、いちじくが実を実らせる夏が近い事を知ります。その事から、キリストはユダヤ人に終末の前兆に十分に心を止める事を教えられました。一年の初めは秋から始まりますので、夏は一年の終わりを意味しています。キリストが教えられたイスラエルに臨む様々な前兆は、終末とメシヤ的王国の到来を告げる印なのです。
以上の5つのキリストのことばから、マタイ24章15節から32節は、艱難期後半のイスラエルに臨む苦難の後に、ご自身がイスラエルを反キリストから救うために地上再臨される事を教えられています。マタイ24:31のラッパは、キリストが地上に再臨する前に「離散の民」となった選民イスラエルを呼び集める為にみ使いが吹くラッパです。黙示録11章15節のラッパは、キリストの来臨を知らせるラッパではありません。黙示録で御使いが吹くラッパは、第7の封印の裁きの中に含まれ、第1のラッパから第7のラッパまでは、やはり、艱難期の世界に災いをもたらす為に吹かれるラッパとなっています。キリストの再臨とは全く関係がないラッパです。第7のラッパは、これまでになく厳しい「災い」をもたらす七つの神の怒りの鉢をもった七人の御使いを呼び出す為に吹かれるのです。
以上のように、Ⅰテサロニケ4:16、マタイ24:31、Ⅰコリント15:52、そして黙示録11:15示されているラッパは同一ではないのです。岡山牧師はなぜ、4つのラッパを同一だと考えてしまったのでしょうか。それは、教会の艱難期後携挙説を主張するためです。岡山牧師の「艱難期後携挙説」は聖書の教えには全く合わないのです。4か所の聖書個所で教えられている「ラッパ」を同じ一つのラッパだという事を前提に、続けて以下のようにまとめています。
「(1)終末的苦難 (24:4-28) (2)天変地異(24:29) (3)キリストの来臨(24:30) (4)ラッパによる招集(24:31)
これらの箇所を総合すると、終末的な「苦難に続いて」(24:29)天変地異があり、キリストが来臨し、「ラッパ」によって自らの民を集める。そしてその「ラッパ」とともに、死者の復活と生き残っている者の「空中への引き上げ(携挙)が起こる。それゆえ「空中への引き上げ」は、終末的苦難の時代の後である。すなわち神の民は、「産みの苦しみ」としての終末的苦難を地上において受け、その後、「雲の中に引きあげられ」(Ⅰテサロニケ4:17)来臨の主と「会う」。そして地上に戻ってくる。この『会う』(アパンテーシス)は迎えに行って戻って来ることを意味する」(P62)
以上の纏めの問題点は、マタイ24章4節から31節を「(1)終末的苦難 (24:4-28) (2)天変地異(24:29) (3)キリストの来臨(24:30) (4)ラッパによる招集(24:31を一つに纏めてしまった事です。
(1)の24:4―28は、明らかに二種類の終末的苦難が預言されています。それは第1に24:4~13です。そこには全人類に対しての警告的終末のしるしとして苦難が預言されていますです。24:14は、その艱難時代に起きる世界的リバイバルも預言されています。第2は24:15~28です。そこには反キリストによって7年の大艱難時代後半3年半にイスラエルに臨む苦難です。岡山牧師は、何故、24:4~28までには、二つの別々の苦難が教えられているにも関わらず一つにして纏めてしまったのでしょうか。
(2)の天変地異は、7年の大艱難時代後半に世界的に起きる天変地異の災いをイスラエルの人々も遭遇する事を教えています。
(3)のキリストの来臨について、岡山牧師はその目的を二つ教えています。その第1は『ラッパ』によって自らの民を集める。・・」事です。それは聖書を歪曲している教えです。キリストは「自らの民を集める」とは言われずに、「四方から選びの民を集めます」と預言されたのです。岡山牧師は、「選びの民」を「教会」と解釈し「自らの民」と言い変えたのです。第2の目的は「『ラッパ」』ともに、死者の復活と生き残っている者の「空中への引き上げ(携挙)が起こる」という事です。この教えも「艱難期後携挙説」を言わんがために考え出されたものです。なぜならマタイ24章の地上再臨の教えでは、「教会携挙」は一切教えられていません。岡山牧師は、マタイ24章のキリストの地上来臨の預言の中に、無理矢理にⅠテサロニケ4章の空中再臨を持ち込んで解釈しているのです。
岡山牧師は「この『会う』(アパンテーシス)は「迎えに行って戻って来ることを意味する」と教えていますが、それは大きな間違いなのです。
◆「会う」(アパンテーシス)の意味。
 ギリシャ語の「アパンテーシス」の意味について、岩隈直著のギリシャ語辞典では次のように説明されています。「[出]会う事、遭遇、(好意的、敵対的に)[某]に向かって、を出迎えに;使28:13、Ⅰテサ4:17」。「アパンテーシス」)の第1の意味は「会う」事ですが、第2の意味として「出迎えに」と言う意味がある事が教えられています。「出迎える」という時は、二つの場面が想定されます。一つ目はある人を出迎えて、その人と共に元居た場所でない別のところに行くという事です。二つ目は、ある人を出迎えて、その人と共に元居た場所に戻ってくるという事です。岡山牧師は、「アパンテーシス」を「出迎える」の意味に解し、第2番目の場面を想定し、「アパンテーシス」は「迎えに行って戻ってくる」を意味すると判断したのだと思います。 しかし、それは、キリストの来臨に関するヨハネによる福音書14章2節3節の教えと明らかに矛盾をしています。キリストは次のように約束されました。「ヨハ14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」。キリストの以上の約束を図式にすると次のようになります。

岡山牧師が、キリストの教えと真逆の事を論じている事は、キリストの「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」と言う約束で明らかです。キリストは、天から「弟子達(教会)」を迎えに行くのは、弟子達を天の父の家に導き、ご自分と共に天におらせるためである、と明言されています。教会は空中まで迎えに来てくださった主を迎えに出て、主と再び地上に戻ってくるのでなく、そのまま主と共に天の父の家に導かれるというのが、キリストの約束なのです。岡山牧師は、キリストの地上再臨の目的は、まず「ラッパによって自らの民(教会)を集める事だ」と教えていますが、大きな間違いです。キリストが教会を迎えて下さる再臨は「空中再臨」によるのです。地上再臨は、既述している通り、イスラエルと結ばれた4つの無条件契約の実現の為だという事です。イスラエルに対する神のご計画の略図を紹介しましたが、最後に教会に対する神のご計画を以下の略図で紹介しておきます。
【終わりに】
 今回は、岡山牧師が「小羊の王国」で、「教会は艱難期の中で苦難によってきよめられ、罪に満ちた世界を改革し、再臨のキリストによって完成していただく事」だと論じている「教会の存在目的と意義」を検証しました。その中で、「艱難期後携挙説」の間違いや、「ディスペンセーション」に対する間違った批判をも検証させて頂きました。

現代の日本の教会において、正しい聖書的終末論に基づき、キリストの空中再臨と教会携挙、地上再臨による「メシヤ的王国(千年王国)を待望する「再臨待望信仰」が深められていく事を願っています。

これらのことをあかしする方がこう言われる。
『しかり。わたしはすぐに来る。』
アーメン。主イエスよ、来てください。
   黙示録22章20節