2025年1月5日礼拝メッセージ
「神の峻厳を見よ」副題:「最後の審判からの解放の道」
聖書:伝道の書12章13節~14節
牧師:佐藤勝徳

【はじめに】
 聖書は創造主の愛について一貫して教えていますが、同時に創造主が悪意による悪や罪を忌み嫌い憎まれる正義の神だという事も一貫して教えています。
1、神の正義は悪と罪を裁く事によってご自身の正義を示されている創造主の正義は、罪や悪を裁く事によって示されています。
①アダムとエバへの裁き
アダムとエバが禁じられた「善悪を知る木の実」から取って食べたので、神さまエデンの園から追放し、永遠の命の木から遠ざけ裁かれました。
②カインへの裁き
神さまは、カインには、弟アベルを殺さないように彼の良心に呼びかけ警告されましたが、カインはアベルを殺害してしまいました。カインは神に裁かれ、さすらい人となりました。
③ノアの時代の人への裁き
ノアの時代において、暴虐に満ちた世界を神は大洪水で裁かれました。
④バベルの塔の時代の人々への裁き
その後、大洪水を生き延びたノアの家族8人から再び人口が増大したましたが、人類は再び創造主の神さまに背き、天まで届かせようとバベルの塔の建設を始めました。それは、神さまを除外した人間の幸福追求であり、創造主への反逆罪として神は裁かれました。神は、バベルの塔の建設を言葉の混乱で中止させ人類を世界に散らされました。
⑤モーセの十戒に違反したイスラエルの裁き
モーセの十戒によって、何が正義の神に忌み嫌われ怒りを買うのか明確にされました。偶像崇拝の罪、神の聖なる名を汚す霊的罪、安息日を守らない罪、親不孝、殺人、姦淫、盗み、偽り、貪りなど、道徳的罪がなんであるかを明確にされました。モーセ律法を通して、それらの罪を犯せば、神が怒り、正義をもって裁かれる事が教えられました。偶像崇拝と神の名を汚す事、呪術、などの霊的罪、殺人、姦淫、親不孝、安息日尊守の違反などの罪は「殺されなければならない」と「死刑」が命じられました。また、イスラエル民族j全体に対して、613か条のモーセ律法に違反する罪を犯せば、必ず神は怒りをもってイスラエル民族全体を裁き、異邦人諸国による侵略でイスラエル国家が滅びる事を、多くの預言者たちを通して警告をされました。しかし、イスラエルはそれらの罪を悔い改めなかったので、BC721年(或いは722年)に北イスラエルを裁かれ、アッシリヤによって滅ぼされました。又、南ユダ王国はBC586年にバビロンによって滅ぼされました。イスラエルが異邦の王たちによって国を失っている間、異邦の王たちの暴虐がイスラエルと世界を苦しめました。その暴虐な王たちも神の怒りによって裁かれ、滅びて行きました。イスラエルはバビロン捕囚から70年後、神さまがイスラエルと結ばれたアブラハム契約、土地の契約により再び国を再興する恵みに与ります。しかし、再び、神さまに背き、AD70年ローマによって滅ぼされ、3分1のユダヤ人が虐殺され、3分の1のユダヤ人が奴隷になり、3分の1のユダヤ人が世界に散って、離散の民(デイアスポラ)になりました。

聖書は、創造主の神様が愛の神さまであるが、同時に悪と罪を憎まれる正義のお方だと教えています。神の御心に叶わない、不従順、偶像崇拝、不道徳などの罪や悪に対しては、先ず、忍耐をもって神が悔い改めを促されます。その促し従って罪を悔い改めれば赦されます。しかし、悔い改めなければ忍耐限りを尽くされたあと、必ず怒りをもってその人を、又、イスラエル民族を罰して様々な災い不幸をもって裁かれてきました。もちろん、全ての不幸や苦難が必ずしも、人間の罪によらず、神の愛の計画によるものもあるという事を、聖書はヨブ記を通して、又、キリストの御生涯を通して、迫害を受けた多くのキリスト者を通して教えられています。全ての不幸や苦難が、即、罪の故だとは決めつけられません。しかし、この世界に起きる多くの苦難と災いという不幸が、人の犯す罪、国家の罪によって、起きています。その事を、伝道の書12章13節14節は教えています。「伝12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。12:14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」
2、正義の神は怒ること遅く慈しみ深いお方
伝道の書12章13節では、、人間の正しい在り方は第1に「神を恐れる」と言う、神への畏敬の念を持つ事です。神は人を愛して祝福と幸福でいつも満たしたいと、無条件の愛、無私の愛、無賞の愛で愛されています。しかし、人が神に背き罪を犯せば、その祝福や幸福を与える事を差し控えられ、その背きの罪を悔い改めるように忍耐をもって促されます。神は、罪びとが裁かれるよりは、罪をおゆるしになる事を優先されます。神さまは怒る事遅く慈しみ深いお方です。モーセに神様がご自身の事を次のように啓示されました。「出34:5にそこに立って、【主】の名を宣言された。34:6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、34:7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である」と。又、預言者エゼキエルには「悪人が裁かれて死ぬ事を喜ばない」と、ご自身を啓示されました。「エゼ 33:11 彼らにこう言え。『わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』・・」
3、正義の神さまは悔い改めない者を裁かれる峻厳なお方
神さまは、罪びとが裁かれて不幸になったり死んだりする事を決して喜ばれません。その優しさと愛の故に、罪人に必ず悔い改めのチャンスを与え、赦そうとされるのです。しかし、その神の慈愛と忍耐の富を軽んじて悔い改めなければ、神は悪を憎み忌み嫌わる正義の故に必ず厳しい裁きをもって臨まれます。その神さまを深く尊敬しながら、喜びながら、裁かれる事を恐れて罪から離れる事です。それが、神を畏敬の念をもって恐れる事です。神を恐れる事について箴言では次のように教えられています。
「箴 1:7 【主】を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」
「箴 8:13 【主】を恐れることは悪を憎むこと。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれごとを言う口を憎む。」
「箴 9:10 【主】を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」
「箴 14:26 力ある拠り所は【主】を恐れることにあり、それは主の子らの避け所となる。」
「箴 14:27 【主】を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」
「箴 15:16 わずかな物を持って【主】を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。」
「箴 15:33 【主】を恐れることは知恵の訓戒。謙遜は栄誉に先立つ。」
4、神さまを恐れる事は罪を離れ正しい生活を送る事
 愛と正義の峻厳な神さまを畏敬の念をもって恐れる生活は、神さまの豊かな祝福にあずかる、人としての正しい在り方です。伝道の書が次のように教えています。「神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」。神を畏敬の念をもって恐れる事は「神の命令を守る事」です。それが、人間の正しい在り方の全てであり、それに何かを付け加える教えは無い一つ無いというのです。それが、全てだと。愛と正義の神さまを畏敬の念をもって恐れ、日々神様の命令に聞き従って歩む人は必ず、報いとして祝福されます。伝道の書12章14節で次のように教えられています。「12:14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」
人が見ていようが、見ていないようが人間のなす全ての事が神の裁きの対象だと伝道の書は教えています。神を恐れて聞き従った良い業には、神様は報いとして「祝福と幸福」を与え、逆に、神さまの命令に背く悪や罪に対しては、悔い改めなければ厳しい怒りと裁きもって、不幸と災いをもたらされます。
神さまに隠し通せる罪は何一つありません。神は全てお見通しのお方で全知全能のお方です。神が怒りをもって裁くとお決めになれば、誰もその裁きを邪魔する事はできません。神は、全知全能で、御自身がなすと決めた事を必ず実行されるお方です。イザヤが次のように教えています。「イザ14:24 万軍の【主】は誓って言われた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの図ったとおりに成就する。」
「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの図ったとおりに成就する。」と断言されるお方のなす事を邪魔できるものは、この宇宙には誰も存在しません。悪魔も堕落天使達も、もちろん人間もです。詩 89:32 わたしは杖をもって彼らの背きをむちをもって彼らの咎を罰する。箴言には、神さまに罰せられるべき罪が教えられています。
◆「箴 6:29 隣人の妻と姦淫する者は、これと同じこと。その女に触れる者はだれも罰を免れない。」
◆「箴 11:21 悪人が罰を免れることは決してない。」
◆「箴 16:5 心の高ぶりはすべて【主】に忌み嫌われる。断じて罰を免れない。」
◆「箴 17:5 貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。」
◆「箴 19:5 偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も逃れられない。」
◆「箴 19:9 偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる。」
◆「箴 19:19 激しく憤る者は罰を受ける。たとえ彼を救い出しても、ただ、これを繰り返すことになる。」
◆「箴 28:20 忠実な人は多くの祝福を得る。しかし、富を得ようと急ぐ者は罰を免れない。」
◆「箴 30:10 しもべのことを、その主人に中傷してはならない。そうでないと、彼はあなたをののしり、あなたは罰を受けることになる。」
神さまが、忍耐の末、悔い改めなければ「罰する」とお決めになったら必ず罰を実行され、誰も止められません。預言者ナホムが次のように教えています。
◆「ナホ 1:3 【主】は怒るのに遅く、力強い方。決して罰せずにおかれることはない。」
5、祈りが神に聞き入れられない理由は罪にあり
正義の神さまは、神に聞き従う者の祈りには、お答え下さって祝福を与えて下さるのです。私たちが、神様に祈りを聞き届けて頂く為の最も重要な事は、神に聞き従っている事です。神に背いているのに、どんなに祈っても、神は聞き届けられません。イザヤは、人の祈りが聞き届けられないのは、神に背く罪が原因だと教えています。
◆「イザ59:1 見よ。【主】の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。59:2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」
神さまが聞き届けて下さる祈りは、その人が、神の前に罪が赦され正しい在り方をしている時です。礼拝で聞き届けられる祈りを捧げるには、一週間の全ての罪が赦され、神様との生きた交わりの中にあるという、正しい在り方をしている人の祈りです。誰の祈りでも聞かれるという事はないのです。礼拝においていつ指名されても良いように、神さまに1週間の全ての罪が赦されて、神様との生きた交わりを回復してその中にとどまり続けている正しい在り方を保持しておくことが求められます。日曜日の礼拝に参加して奉仕者になるには、そのように自分を整えておく必要があります。神様が喜んでお聞きくださる賛美は、神様に罪赦されて、神様との生きた交わりを保持しているキリスト者の賛美です。神が喜んでお受け下さるの礼拝は、全ての罪がゆるされ、神さまとの生きた交わりを保持しているキリスト者の礼拝です。私たちは、礼拝を捧げる前に、1週間の全ての罪を悔い改め、神さまに赦された喜びと感謝の心を準備して、礼拝に参加しましょう。6、祈りを聞き届けて下さる神さまとは
祈りを聞き届ける神さまは、先ず全知のお方です。全知でなければ、人の祈りにどう答えればよいのか知恵がありません。祈りに答えるお方は全能のお方です。全能でなければ、悪魔や悪霊共が祈りの邪魔した時に、祈りに答える事が出来ません。祈りに答えるのは、無条件の愛がなければ祈りに答えられません。神さまが無条件の愛のお方でなければ、欠点のある人の祈りは聞き届けられません。人間の祈りにお応えできるのは「無条件の愛」をお持ちの神さまです。次に、祈りに答えて下さるのは、罪や悪を忌み嫌う正義の神さまです。もし、神さまが、罪を犯している人間の祈りに答えれば、神さまは正義の神でなくなります。また、罪を悔い改めない者の祈りに答えれば、その人は増々罪深いものとなります。祈りに答えるというのは、責任が伴うものですので、神さまは間違った祈りや、罪を悔い改めない者の祈りに答える事を差し控えられます。
7、神さまに祈りが聞き届けられる人とは
答えられる祈りを捧げる人ととなるには、先ず、キリストが一生涯の全ての罪を背負って身代わりの刑罰をお受け下さって全ての罪が2000年昔に取り除かれた事を信じる信仰によって、罪の赦しを確信しておくことです。2番目には、日々良心のとがめを感じる罪を犯せば、すぐにその罪を心から悔い改めて告白しましょう。すると、父なる神は、キリストの血の故に、その告白された罪をすぐに赦されます。ヨハネが次のように約束しています。「Ⅰヨハネ1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」。神さまは良心のとがめがある罪を、心から申し訳ありませんでしたと悔いあらための心を持って告白すれば、キリストの十字架の血の故にすぐにおゆるし下さいます。その時、良心のとがめの余韻が残っている時があります。その場合は、その余韻に騙されて、まだ罪が赦されていないと思って再び告白をしてはいけません。それは、神が赦されいる事を信じていない不信仰になります。それは、悪魔の罠です。悪魔は、罪を告白した後も残っている良心のとがめの余韻を使って、あなたは、まだ許されていないとささやくのです。その悪魔のささやきにごまかされないでください。その時、聖書の言葉に立って、良心のとがめの余韻があろうとなかろうと、心から悔い改めの心を持って告白した罪は、父なる神によってすぐに赦されたと過去形で許しを受け取りましょう。その信仰に、聖霊が働いて気が付いたら、赦された平安の中に自分が生かされている事を知るのです。罪の赦しによって心に平安がある人の祈りが神さまに受け入れられ、応答が期待できる祈りなのです。祈りが聞かれる人というのは、キリストの十字架の血が自分の罪の赦しの為であったと信じて、神様から永遠に赦され、、永遠の義人と神に認めて頂いている人、また、日々の生活で人神を恐れ、神の命令を守り、罪があれば、即告白して即赦しを得て、心に平安を保っている人、そのような人の祈りに神は耳を傾け、御自身の力ある御腕を働かせて、祝福を与えて下さるのです。
8、キリストを救い主として受け入れない人の永遠の運命
しかし、十字架で全ての罪を背負って身代わりの刑罰をお受けになったキリストを、信じない人はどうなるのでしょうか。先ず、その人は、この地上で命を終える時、その霊は苦しみのよみに落とされます。また、その苦しみのよみのなかで、黙示録20章に啓示されている、最後の審判の時まで、苦しみ続けなければなりません。最後の審判の時には陰府から肉体を着せられて、白い御座にお着きのキリストの御前にっ導かれます。その人は、地上で犯した罪に従って、苦しみの軽重が事なる、火の池に投じられます。その火の池は、熱は有りますが光はありません、真っ暗な孤独の世界です。火の池に投じられた人は、真っ暗な中で孤独と熱により永遠に苦しみ続けます。慰めは永遠にありません。それが、愛と正義に満ちた創造主の、罪赦されなかった人々への最善の裁きです。痛みつつも、神の真実と正義に基づく、最高最善の喜びほめたたえるべき裁きです。この最後の審判の時は、歴史的時間的にはまだ先です。しかし、キリストを信じないで死んだ人にとっては、時間を超え、歴史を超えて瞬間的にやって来るのです。時間や歴史の長さの観念がない永遠の世界の中で起きるのです。
【終わりに】
キリストを信じて救われた私たちは、日々内に住んで下さっている魂の監督者、魂の羊飼いであるキリストの細き御声に聞き従いながら、どれ程、熱心に家族友人知人の為に祈らなければならないでしょうか。また、キリストの十字架の福音をどれだけ熱心に伝えなければならないのでしょうか。パウロは、その事を良く知っていましたので、私は福音の為には何でもすると言いました(Ⅰコリント9:23)。
あなたの今年一年間の生活、何を中心にして歩まれますか。愛と正義の神さまを恐れ、御霊の細き御声に聞き従いながら、家族の救いの為、隣人の救いの為に熱心に祈る事と福音宣教を生活の中心に置かれますか、神様は、救いの為に祈る人、福音宣教に心を燃やす人の祈り必ずお答えになり、救いの御業、宣教の御業を推し進めていかれるのです。
最後の審判から解放される道は、ただ一つ、十字架のキリストをわが救い主と心から信じる信仰です。まだ、キリストを信じてない人は、今、信じる事を心からお勧めします。預言者は、神が罰すべき時は必ず罰せられると預言しています。今日は、後総合聖歌684番「裁きの日は近づけり」を捧げますが、キリストの不信仰な人への裁きの言葉「不義なる者よされ、我知らず」と言う、歌詞を初めて読んだ時、そのような裁きの言葉を愛する者へ発しなければならないキリストの断腸の思いが、私の胸に響いてきました。その裁きの座に立って最後の審判を断腸の思いでなさるキリストの愛と正義の心を思い浮かべながら賛美しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハレルヤ!偉大なる創造主の天の父を賛美します。

新年が明け、アドベントの群れのご一同様は、宣教のビジョンに燃えて

新しい年をお過ごしのことと、お喜び申し上げます。

皆様に、お礼のメールを送らせて頂きます。今年元旦礼拝に、一人の姉妹が

主のみ言葉を示され、新会堂建築返済金残り10カ月分を捧げて下さいました。それに

よって、1月6日に、銀行からの借金を全部返済が完了しました。新会堂建築は

小さな群れにとっては大きなチャレンジでしたが、主がそのチャレンジを

祝福してくださり、多くの不思議な御業によってこれまで支えて頂きました。

また、主にある皆様方の尊い献金とお祈りによるものと、心から感謝を申し上げます。

新会堂が主の栄光の為に、又、多くの人々救いの場として用いられるように続けて

お祈り頂ければ感謝です。宜しくお願いします。

新しい年、皆様の信仰の歩みが豊かに祝福されますように合わせてお祈りいたします。

 

2025年元旦礼拝記念写真(ラインでの参加者合わせて30名が出席)