2025年1月12日礼拝メッセージ
「神の峻厳を見よ②」
聖書:伝道の書12章13節~14節
牧師:佐 藤 勝 徳
【はじめに】
この地上に起きる全ての出来事は、良い事も悪い事も、幸いな事も不幸な事も、事故による怪我、又、病や天災や人災などによって起きる全ての災いも、7日から現在も燃え続けて街を廃墟にさせたロサンゼルスの山火事も、7日に起きたマグニチュード6,8のチベットの大地震も、これまでの宇宙と地球上に起きた全ての出来事の背後には、神の愛と正義による善意による神の恵みとして御業と、人類の罪に対する厳しい怒りによる裁きとして御業、その他、人間には理解が出来ない「ただ神の栄光が現れる為」の御業が、複雑に絡んで起きています。それに、対して私たちの出来る事は、神の恵みとして理解できる出来事には喜びと感謝を捧げる事です。また、自分が体験している災いが、自分の罪に原因があると示され理解した時は、直ちに罪を悔い改める事です。次に、人が様々な災いや苦しみの中に置かれている時は、その苦しみを自分の事として共有する事です。また、喜びと感謝を捧げる事は、恵みの出来事だけでなく、万事の背後に神の愛と正義による善意によるという事実に立って、万事を深く喜び感謝する事です。この世界は、例え悪魔や悪霊による災いがあっても、人の故意の罪や失敗による災いがあっても、その背後には、神の愛と正義による神の善意が働いているという事実に立って、万事を善として喜び讃えるべきなのです。それ故に、パウロは、キリストにあっていつも喜びながら万事を感謝するように教えています(Ⅰテサロニケ5章16節~18節)。災いの下にある人の罪や失敗を、私たちはすぐに批判し裁く罪の傾向性がありますが、人の失敗や罪も先ず裁くことでなく、その事を痛みつつも裁きや批判は神さまに委ねる事です。又、災いの下にある人に、「感謝しましょう」と言う必要はないのです。あなたは、黙ってその人の痛みを共有しながら、神に向かって万事を喜び感謝していれば良いのです。
1、人の全ての善悪に対する裁き
伝道の書12章14節を、ヘブル語原語を見ますと、神がお裁きになる人間の善と悪に対する裁きが、2種類に分けられています。第1は、人の目に明らかな人間の行う全ての業です。第2には人の目に隠れた善悪の行いです。人間の手や足で行った全ての善と悪の業、又、口で語った全ての善と悪の言葉が神さまの裁きの対象になります。キリストは、言葉に関しての裁きを教えられました。「マタ 12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません」。現代において、口にする言葉と言うのは、電話や携帯電話やパソコンなどで、SNSで通信する全ての通信も、口にする言葉に匹敵します。発信した無益な情報も裁きの日には神さまに申し開きをしなければならないのです。私達は口にする言葉や携帯やパソコンによる情報発信も、神様の御心に叶うように神さまの助けを日々祈り、神さまの導きに従いましょう。また、人の目に隠れた善悪の業や思い善悪も裁きの対象になります。
2、最後の審判
黙示録の20章に教えられているキリストによる最後の審判は、キリストを救い主として信じなった未信者の方のみが裁かれる裁きとして教えられています。その時、キリストは、日本語で「陰府」、ギリシャ語で「ハデス」、ヘブル語で「シェオール」と呼ばれている場所にいる未信者の霊に、生前の肉体を復活させて着させ、裁きの座である白い御座に導かれます。また、「陰府」でなく、海にさまよっていた未信者の霊も、同様に生前の肉体を復活させ着せられて、白い御座のキリストの前に導かれます。そして、数々の書物が開かれて、未信者の方たちが行った全て罪と悪が記録された書物が開かれその罪に従って裁かれます。未信者の人たちは闇と熱の火の池に投じられます。そんの、罪の重い人は苦しみが大きくなり、罪の軽い人は苦しみが減少されます。それぞれが、闇の火の池で軽重の違った苦しみを負ったまま永遠に苦しみ続けるのです。黙示録20章の最後の審判の記事を読んで確認しておきましょう。
「黙20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
3、いのちの書
聖書はいのちの書が2種類ある事を教えています。一つは地球上に存在した全ての人の名とその行いが記されている書物です。最後の審判が下った後、そのいのちの書から未信者の人たちの名は全て消され、その人たちは闇と熱の火の池に投じられ永遠に苦しみ続けます。
①未信者の人たちの名が消されるいのちの書
◆「詩 69:28 彼らがいのちの書から消し去られますように。正しい者と並べて彼らが書き記されることがありませんように。
◆黙 3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」
◆「詩 139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」
◆黙 20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
②小羊のいのちの書
2種類目の「いのちの書」は、天地が造られる前から神の僕として選ばれた人の名が知るされている書です。それは「小羊のいのちの書」とも呼ばれています。そこに名の記されている人は、罪が裁かれて陰府に投じられるという事は絶対にありません。
◆「ピリ 4:3 そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。」
◆黙 13:8 地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。
◆「黙17:8 あなたが見た獣は、昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ますが、滅びることになります。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときからいのちの書に名が書き記されていない者たちは、その獣が昔はいたが今はおらず、やがて現れるのを見て驚くでしょう。」
◆「黙 21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。」
4、未信者の人たちは死後の裁かれて苦しみの「陰府」に落とされる
未信者の人たちの最後の審判は黙示録20章で教えられていますが、未信者の人たちが地上で死んだ時に、その人の霊は裁かれて苦しみの陰府に落とされる事が聖書に教えられています。キリストは不信仰なカペナウムの人々に向かって次のように宣告をされました。
◆「マタ 11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。」イザヤ書では、神に背いたバビロンの王であるネブカデネザルが下界である苦しみの陰府に落とされる事が預言されています。
◆「イザ14:4 あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。 14:5 【主】が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。 14:6 彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。14:7 全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。 14:8 もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。』 14:9 下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。 14:10 彼らはみな、あなたに告げて言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』 14:11 あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。」
未信者の人たちの霊は、死後苦しみのよみに落とされる事がヘブル書で預言されています。
◆「9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」。死後、全ての人の霊は一度全部父なる神の元へ導かれます。その後、天の御国へ導かれる人と、陰府に落とされる人とが分けられます。伝道の書に次のように教えられています。
◆「12:7 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」
5、7年の大艱難時代の後半3年半に反ユダヤ主義者となった偽の自称クリスチャンや未信者への裁き
最後の審判までに未信者の裁きがもう一つあります。それは、7年の大艱難時代の後半3年半において、苦しみの中にあるキリストの兄弟であるユダヤ人に助けの手を差し伸べなかっ「反ユダヤ主義者」た未信者と偽りの自称クリスチャンへの裁きです。7年の大艱難時代の真のキリスト者は苦しみの中にあるユダヤ人に助けの手を差し伸べますが、真のキリスト者ではなく偽りの自称クリスチャンは、反ユダヤ主義者となって、苦しみの中にあるユダヤ人を助けようとしません。その事をキリストはマタイ25章で山羊と羊に分ける審判の例えで教えられています。
◆「マタ25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。 25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。 25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』 25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
以上のキリストの例え話は、よく人道主義的な愛の実践の教えとして解釈されていますが、このたとえ話は単なる人道主義的な愛の実践を教えるものではありません。7年の大艱難時代の後半の3年半、サタンの息子として生まれた反キリストの政策により、反ユダヤ主義が全世界に広がって行きます。その時、ユダヤ人はこれまで経験した事が無い苦しみを経験します。過去の歴史において、ユダヤ人は十字軍による迫害と虐殺、ロシアの反ユダヤ主義者による「ポグロム」よ呼ばれる虐殺、ヒットラーによる「ホロコースト」と呼ばれる虐殺など、多くの苦しみを体験してきました。しかし、反キリストによる迫害と虐殺はそれらの過去の迫害や虐殺とは比較できない恐ろしいものだとキリストは預言しています(マタ24章21節)。艱難時代後半の3年半において反キリストが拡散させた「反ユダヤ主義」に染まった世界において、ユダヤ人は恐ろしい迫害に合い、痛みつけられ、牢にぶち込まれ、飢え渇き、着る物もなく寒さと病気に苦しみます。又、流浪の生活が強いられます。そのような時、食べ物や飲み物を与え、着物を与え、宿を貸し、牢で苦しんでいるユダヤ人を真のクリスチャンは自分の命を犠牲にしながらも見舞います。それは、反ユダヤ主義を否定しているクリスチャンです。彼らはキリストの兄弟であるユダヤ人への愛を実践するのです。そのようなクリスチャンはキリストが「御国」とばれた「メシヤ的王国」を受け継ぎます。それが、王が右に分けた羊に例えられています。
逆に、反ユダヤ主義に染まった偽の自称クリスチャンはユダヤ人に助けの手を差し伸べません。そのような人は、王によって左に分けられた山羊に例えられ、永遠の刑罰会う事をキリストは教えられました。もちろん、例え話に出てくる王は、キリストご自身であり、王の兄弟であり小さい者とは、ユダヤ人を意味しています。
神さまはイスラエルと結ばれた、「アブラハム契約」、「土地の契約」、「ダビデ契約」、「新しい契約」と言う4つの無条件契約の成就として、罪に堕落した私たちの世界を戦争が一切ない平和な「メシヤ的王国」にする為に、キリストを再び地上に遣わされます。つまりキリストの地上再臨です。その時、キリストは、メシヤ的王国に入れる人と、そうでない人を分けられるのです。
以上のように未信者への裁き3種類あります。1つは現在も毎日死後に行われており、死後それらの人の霊は苦しみの「陰府」に落とされている裁きです。2つ目は、未来の7年の大艱難時代において反ユダヤ主義者となった全て未信者は、平和なメシヤ的王国への入国がが許されず、永遠の刑罰を受け苦しみの「陰府」に落とされる裁きです。3つ目は、「黙示録20章で教えられている最後の審判で闇の火の池に投じられる永遠に苦しみ続ける裁きです。では信者への裁きはどのように行われるのでしょうか。
6、キリスト者への裁き
キリストを救い主と信じたキリスト者の裁きは、キリストが空中に再臨され天に携挙された時にあります。主の空中再臨の時に、全てのキリスト者は、永遠に朽ちない、永遠に罪を犯さない、永遠に病気をしない栄光の体を着せられて天に携挙されます。それを神学的に「教会携挙」と呼びます。天に挙げられた全てのキリスト者は先ず、キリストの裁きの座の前に導かれます。その時、地上で聖霊によって行った善行には冠が授けられ、メシヤ的王国での報いが決められます。しかし、聖霊によらず、人の真面目さや知恵や力と言う「肉」で行った業は裁かれ、全て木や藁や草のように焼き尽くされます。その裁きの座に全てのキリスト者が立たされます。肉の行為と言う罪に関してキリスト者も言い開き(弁明)しなければならないのです。
◆「Ⅱコリ 5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」
◆「4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
①弁明し謝罪する為に
キリスト者へのさばきは、キリスト者を有罪にする裁きではありません。良き報いを定める為のさばきです。御霊による善行には、良き報いが定められ、人の目に良しとされても神さまが良しとしない「肉」による善行は、良き報いが一切与えられないという裁きです。その時、キリスト者は自分の肉の行い関して弁明し謝罪をするのです。
②良き報いを受ける善行
弁明し謝罪する肉の行いが少なくなる様に、キリスト者は日々御霊によって歩む霊的訓練をする必要があります。いつも最高最善の事をなされている創造主の天の父、救い主キリスト、別の助け主である御霊の三位一体のの神をいつも思いにおいて口において、また、手を挙げて喜ぶ喜びには良き報いがあります。又、万事を神の最高最善の御業として思いにおいて口において手を挙げて喜ぶ事も良き報いの対象になります。それが、日々の隠れた善行の一つです。創造主の三位一体の神さまは永遠に善なるお方で永遠に喜び讃えるべきだという事実を事実として認める信仰は、必ず人間関係に反映していきます。先ず、自分との関係に反映されます。自分はどんなに欠点があっても、神さまと全ての人にとって最高最善の人間だと喜ぶ「自己受容」の喜びに繋がっていきます。
③自己受容とレーナ・マリアさん
何年か前に、米子のビッグシップにスゥエーデンの歌姫と呼ばれる「レーナ・マリアさん」をお呼びして、クリスマスコンサートをした事があります。私が是非お呼びしてコンサートをしたいと思ったのは、彼女の驚くべき証を知った事にあります。彼女は両腕がなく、左足は右足の半分しかないという、重度の身体障害者で誕生しました。幸いにして、ご両親がクリスチャンであったので、幼い時から創造主の愛を教えられて育てられていました。その、ご両親の教育とご本人の信仰によって、「自分は創造主の愛の作品であり、もし、生まれ変わるとすれば同じ障害者で生まれたい」という、驚くべき証を口にするようになりました。私は、その証に感動して、なんとしても米子でクリスマスコンサートをして頂き、成功をさせたい思いました。米子や境港の教会の先生方の協力と祈りを共にしながら取り組みました。結果、2000人入るビッグシッップに約1800人の方が来場されました。ほぼ満員になったのです。創造主の神さまのなさることは、いつも最高最善だと詩篇は教えています。
◆「詩 119:68 あなたは善にして善を行われます」。 レーナ・マリアさんは善にして善を行われている神さまを信じていましたので、自分との関係がとても平和でした。「自己受容」がほぼ完ぺきでした。どんなに自分に欠点があっても、レーナ・マリアさんのように自分を創造主の神さまによる愛の最高傑作だという事実を事実として「自己受容」出来る人は、自分との関係において平和に生きる事が出来るのです。私は、中学生のころから、自分の背が低い事や、自分の顔に劣等感を持つようになりました。しかし、その自分が創造主によって創造されたという、聖書の真理を知ってからはその劣等感から解放されました。色々な弱さや欠点があっても、そのような自分をも神の愛の傑作品として受け取め「自己受容」が出来るようになったのです。
④他者受容
創造主がいつも最高最善の事をなさっているという事実を事実として受けとめる時に、「他者受容」が出来るようなり隣人との関係が平和になります。自分が、創造主の愛の傑作品であるという事を認め喜ぶようになれば、隣人も創造主の愛の最高最善の傑作品だと認めて喜ぶようになるのです。それが、キリストの言われた「自分を愛するように、自分の隣人を愛せよ」と言う事です。三浦綾子さんは、「隣人への愛は、自分をどのように愛するかにかかっている」と何かの本に書いておられた事を覚えています。「隣人に対しては、自分を愛するようにしか愛せない」のです。自分が、創造主の神さまによる最高最善の愛の傑作品だと喜ぶ「自己受容」が出来れば、その人は必ず自分の隣人をそのように思って喜ぶ「他者受容」が可能となり、隣人との平和な関係を築くのです。夫婦が、美しい幸いな平和な関係を築く最大の秘訣は、お互いが、創造主の神さまが与えて下さった最高最善のパートナーだという事実を受け入れて互いに喜び合う事です。それが、夫婦の最も重要な誠実さです。ポール・トゥルニエと言うスイスの精神医学者は、「その誠実さがあれば、一時的に喧嘩して愛が冷えたとしても、冬の後に必ず春が来るように、愛が戻って来る」のです、と教えていました。その誠実さは、夫婦だけでなく、自分の血のつながりのある家族や親族に対して、血のつながりの無い職場の同僚の人に対して、同じ教会の兄弟姉妹に対して、また、日々出会う全ての人に対して持てば、自分から平和の関係を崩すという事はほぼ無くなります。
どんなに欠点がある人も、全ての人が、創造主による最高最善の愛の傑作品だと思うその思いは、神さまの聖なる御霊の思いであり、御霊の心ですので、そのような思いをもって生きるキリスト者の思いに対して、必ずキリストのさばきの座に立った時に、良き報いが与えられるのです。
7、心を見る神さま
王として失格したイスラエルの最初の王「サウル王」の後の王様選びの時に、預言者サムエルは神さまからエッサイの息子たちから選ぶように導かれました。サムエルはエッサイの所に赴き、彼の息子たちに対面しました。8人の兄弟がいたのですが、その中でサムエルはエリアブと言う息子が「王に相応しい」と思いました。その時に、神さまはそれを否定され、サムエルに次のように言われました。「Ⅰサム 16:7 【主】はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る」と。その後6人息子がサムエルの前にきましたが、いずれもその心が神さまの御心に叶わないことが分かりました。サムエルはエッサイに、他に息子はいないのかと尋ねると、末っ子のダビデ連れてこられました。そのダビデの心は神の目に叶っていたので、イスラエルの第2代目の王として選ばれました。
◆「Ⅰサム16:12b【主】は仰せられた。『さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。』 16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。【主】の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」
神さまが人間の心を見ておられる事については、予見者ハナニを通して、ユダの王アサに対しても神さま語っています。
◆「歴代下 16:9 主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」。
神さまに向かって「心を全うする」というのは、神さまの全能の力を信頼する信仰を意味しています。南ユダのアサ王は、イスラエルのバシャ王が攻めてきたときに、異邦人のアラムの王と同盟を結びましたので、アラムの王がバシャの軍隊を退けました。その時に、予見者ハナニは、アサ王が、全能のイスラエルの神により頼まず、異邦人のアラムの王に頼ったという不信仰を厳しく責め「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」と語ったのです。神さまは、人が何をしたかよりも、どのような心で事をしているのか、その心の在り方で、その行為が良き報いを受ける為の善行かどうかを判断されるのです。
人の目に隠れた心を見ておられる神さまは、キリスト者の善行もその心の動機によって良き報いを受けるかどうかを判断されます。神さまは、キリスト者の慈善行為や愛の奉仕などに良き報いを与えて下さいます。しかしキリスト者の心に自分の慈善行為や愛の奉仕を、自分の自慢の為、自分が称賛を受ける為と言う、動機があれば良き報いはありません。人は、自分の自慢の為に、何かを善行を行えば必ずその善行や奉仕を誰かに伝えます。その善行を、最も身近な一人にでも、自分の自慢する為に、自分が称賛を受ける為に告げれば、例え多くの人の目に隠れていても、そのような、慈善活動や愛の奉仕には神さまからの報いは一切無いとキリストは教えられています。 ◆「6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
右手のしている事を左の手に知らせるなと言う意味は、最も親しい者にも知らせるなという事です。右手にとって最も親しい関係にあるのは左手です。最も親しい者にであっても、自分の慈善行為を知らせれば、それはもう隠れた善なる行為でなくなってしまっているのです。神さまから良き報いを受ける隠れた慈善行為、愛の奉仕は、自分からは誰にも決して知られないように、語らないようにそっと行う日々の善行です。
【終わりに】
神さまの御心に叶う心は、神さまとの関係では、先ず、喜ばしき善なる神を善なる神として、いつも喜び賛美し感謝する信仰の心です。又、善なる神のなさる事はいつも喜ばしき最善の御業だと信じて喜ぶ心です。更に、神さまの全知全能を信じて、いかなる問題に遭遇しても、神さまに助けを求める信仰の心です。次に。人間との関係において御心に叶う心は、自分を神が見るように見つめる自己受容の心を持つ事です。自己受容とは、自分が神の目には「高価で尊い存在」だと喜ばれている事を信じて、自分を喜び受け入れる健全な自己愛を持つ事です。次に、隣人の全ての人が自分にとって最高最善の喜ばしき存在として神さまから与えられている事を信じて、隣人の存在を大いに喜ぶ「他者受容」の心を持つ事です。以上の、神さまの御心に叶った人の目に隠れた信仰の心には、神さまの豊かな報いが必ずあるのです。神さまは、人の全ての善悪に対して、裁きをなさるお方です。十字架のキリストを救い主として否定する「不信仰」と言う悪には、厳しい永遠の裁きが待っています。神さまを恐れ、キリストを正しく理解した上で、納得した上で信じる信仰は、真の信仰として神さまは喜ばれその人の罪を永遠に赦され、決して裁かれる事はないのです。神さまは全ての人がキリストを信じて救われ、決して裁かれない事をいつも熱く願っておられる、慈しみ深いお方です。