「ここに愛がある」
聖書:ヨハネの第1の手紙4章10節
牧師:佐 藤 勝 徳
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。「(Ⅰヨハネ4章10節)
【はじめに】
2025年を恵みとしてお与え下さった創造主の神さまに感謝します。昨年は、元旦早々、能登半島で地震が起きました。その爪痕は今も残り、災害復興がなかなか進まない状況の中にあります。その後、大洪水の被害もあり、石川県の方々は、私達の想像以上に厳しい中に置かれている事が、たびたびテレビを通して報じられてきました。個人的には、昨年は、長男が死んだ事、最初の曾孫が亡くなった事など悲しい出来事がありました。私たちの住んでいる世界は良い事、楽しい事、幸いない事が多くありますが、同時に罪に堕落した世界ですので、様々な自然災害、戦争、事故、又、事件に巻き込まれて苦しみや悲しみなどを体験せざるをえません。
1、試練に押しつぶされない為に
そうした、様々な悩みの多い世にあって、私達が、苦難や試練にも押し潰される事無く、耐えながら、平安と喜びに満ちて力強く生きて行く道を、創造主の神さまは備えて下さいました。それは、イエス・キリストが十字架で私やあなたの一生涯の思いの罪、言葉の罪、行いの罪、全ての罪を背負って、本来私達が受けなければならない聖なる神の怒りと刑罰を受けて下さった事です。それによって、私達が罪の責任を負わされず、永遠に赦される道が開かれました。御子なるキリストは十字架の死によって、父なる神の罪びとの私たちへの怒りをなだめて、赦される道を開いて下さいました。そこに創造主の父なる神さまの私たちへの愛が最も深く、最も強く示されています。その事をヨハネは次のように教えています。「Ⅰヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」と。そこで、年の初めに、神の御子であるキリストの十字架によって示された神さまの愛をお伝えしたいと思います。
2、人間の愛
私達人間が、幸せや喜びを感じるのは、先ず、誰かから愛されている事を体験する事です。私達にとって、その体験を最初にさせてくれるのが、多くの場合はお母さんです。また、それに続いてお父さんです。そして、成長する段階で家族の人、親戚の人、近所の人、保育園や幼稚園の先生や友達、学校の先生や友達などとの出会いの中で愛を体験していきます。その中で、褒められたり叱られたりしながら、多くの人とのかかわりの中で、人間愛を体験し、愛される喜びを知りながら育っていきます。しかし、同時に、人間の不完全さや罪深さをも体験し、傷つけたり、傷つけられたり、喧嘩したり、争ったり、時に命を奪ったり、命を奪われたりもするほど、お互いの関係に深い溝が出来て、人間同士の愛の関係の破綻をも経験していきます。離婚もその一つです。現在、日本では約2分おきに一組のカップルが離婚していると言われています。人間の愛は、お互いの罪や欠点によって消えていく不完全なものです。又、人間の愛は条件付きです。自分が求める条件が満たされなければ、その人を愛する事が出来ないのです。又、人間の愛は永遠でありません。人は死ぬからです。
3,創造主の神の愛
人間の不完全な愛、条件付き愛、限りがある愛であっても、人間はその愛を必要としています。しかし、人間には、そのような問題や欠点のある人間の愛と共にもう一つ重要な愛が必要なのです。それは、人間の愛のように不完全な愛ではなく、罪や汚れがない完全な聖なる愛、条件付き愛ではなく、長所短所のあるあるがままを受け入れ愛する「無条件の愛」、限りがある愛ではなく「永遠に続く愛」が必要なのです。そのような愛をお持ちなのは、天地万物を創造された全知全能の父なる神さま以外にありません。Ⅰヨハネ4章10節の「私たちが神を愛したのではなく、神が私たち愛して下さった」の神とは、天地万物を創造された全知全能の父なる神さまの事を意味しています。創造主の神さまが「父」と呼ばれるのは、それほど創造主の神さまは人間に最も親しい神さまだという事を教えています。
4、真の神とは
創造主の父なる神さまは、何もない無の世界に永遠の昔から存在されている始めも終わりもない永遠の神さまです。存在する為に始めがあったり、造られたり、又、終わりがあれば神さまではないのです。人間の手によって造られた神は偶像と呼ばれていますが、偶像の神と言うのは存在しない嘘の神なのです。又、人間が自分で考えた想像上の神も偶像であり、存在しない、嘘の神なのです。
創造主の父なる神さまは全知全能の完全なお方ですので、天使からも人間からも仕えられなければならない、何か不足しているという事はありません。何もない無からなんでも自由に物を創造する事が出来る全知全能のお方ですので、物質的に何か不足して困る事はない完全な充足充満のお方です。また、精神的に誰かから愛されなければ孤独で寂しいとか、悲しむとか、そのように精神的に不足のある方でもありません。精神的にもいつも完全に充足充満している完全なお方です。創造主の父なる神さまは、全ての事でいつも永遠に満ち満ちておられ、愛と喜びと平安と幸福に満ち満ちたお方です。幸福そのもののお方です。
そのお方が、何かをする時は、いつも自分以外の存在に対しては、その存在の為にどうする事が最善で幸福な喜ばしい事なのかと言う、無私と無償の愛と善意を動機になされるのです。その愛は、罪や欠点がない完全な愛、聖なる愛です。何ひとつ、陰りや曇りがない完全な善意そのもの、光そのものです。神さまの聖なる愛、完全な善意は神さまの永遠のご本質であり、永遠に変わりがなく、宇宙に全世界に満ち満ちているのです。旧約聖書の創世記1章で、神さまは、6日間で天地万物を創造された事が教えられています。創造された全てのものは、神さまの無私の聖なる愛と完全な善意により、完全な知恵と力である全知全能によって創造されたのです。父なる神さまの完全な、聖なる愛、無私の愛、無償の愛、無条件の愛、永遠の愛、知恵と全能の力は創造された万物の一つ一つに刻印されています。その万物は、神さまは愛ですよ! 神さまは完全な善意のお方ですよ! 神さまは知恵と力に満ちていますよ!と叫んでいるんです。
◆「ヤコブ1:17 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」
5、万物の存在の原因(創造か進化か)
先日、私は虹の写真を見ていました。青い大空に七色の虹が明確に色分けして見事に絵で円を描くように美しく映っていました。私は、それを見て、「あ、虹は創造された」と深く感じました。実は、神様は、ご自身が創造された万物を、誰もが、「あ、造られた」と分かるように見事に設計し、私達の幸せを願って無私の愛を込めて超緻密に丁寧に造られたのです。万物がどうして存在しているのか、その原因を神話やおとぎ話としてではなく、科学的な根拠に基づいて教えている説は世界に二つしかありません。それが、学校やNHKなどのメディヤが教えている、全ては偶然の積み重ねで自然に出来たという「進化論」です。もう一つは、学校やメディヤではほとんど教えないのですが、聖書が教えている創造主の神さまがそうそうしたという「創造論」です。偶然とか自然と言う意味は何でしょうか。それは、そこに何か良い物が存在する為に、愛とか知恵とか目的とか計画性などが一切無くても、勝手にできるという事です。それが、進化論の教える「偶然とか自然」と言う意味です。皆さんに、コピー用紙をお配りしました。それをご自分の目の前においてください。そのコピー用紙に、人間の知恵や力を使わずに、そこにほっといていれば、コピー用紙は、勝手に自然に偶然に見事な紙飛行機になったり、何か素敵な折り紙で作った動物や花などになるでしょうか。一億年もすれば、どうでしょうか。紙はぼろぼろになって、風に吹かれて何処に行ったか分からなくなりますね。しかし、人間が知恵と力を使って自分で作りたいものをイメージして作れば、アッと今にできますね。コピー用紙で、自分の作りたいものをイメージして作ってみてください。あなたは、ご自分が作った折り紙の創造主です。もし、折り紙を作る時に、その折り紙で誰かを楽しませたという思いが込められていれば、その折り紙はあなたの愛を伝えているメッセンジャーです。会堂を見回して下さい。柱のあちらこちらにリースが飾られています。リースの一つ一つにはリースを作って下さった某姉妹の私たちを楽しませようという愛情が込められています。リースはしゃべりませんが、某姉妹の知恵と力と愛情を私たちに伝えているメッセンジャーになっているのです。そのように、父なる神さまは、ご自身が創造された綺麗な花、楽しい動物、雄大な大空や美しい自然や山々、広大な無限と思われる宇宙に存在する無数の星、太陽や月等々は、神さまの無私の無条件の愛と全知全能を伝えるメッセンジャーになっているのです。
年末に某姉妹から、私に星野富弘さんの詩画と、三浦綾子さんが書かれた「泥流地帯」の一節が写真で送られて来ました。星野さんの詩画は、土から生え出た美しい水仙が描かれ、その傍に「なぜかわからないけど 土の中から生まれたものは みなきれい」と詩が添えてありました。泥流地帯では土について次のように綴られていました。「柔らかい、言いようもないやさしい土の感触を地下足袋の裏に感じながら、耕作はふと良子を振り返った。良子は疲れたのか、畠にしゃがみこんで、手で土をいじっている。その良子の向こうに陽炎がゆらめき、五、六センチほどに伸びた秋蒔きの小麦畠が広がっている。(ふしぎだな)」です。星野富弘さんも、三浦綾子さんも土に関して深い感動を覚えておられるのが良く分かる詩画と文書となっています。そこに込められているのは、土は創造主が愛と知恵と力を込めて創造された愛の作品だという事と、土は、神さまの愛と知恵と力
を信じるように伝えるメッセンジャーになっている事を、私たちにそれとなく知ってほしいと詩画や小説を通して星野さんも三浦さんも伝えようとされています。
6、キリストの十字架の死は創造主の父なる神の愛を最も強く発信している
罪びとの人間が必要としている神さまの聖なる無私、無償の無条件です。その愛を神さまはお造りになった万物を通して発信をされています。。それを私たちが正しく聞き受け止める時に、悩みや苦しみの多い世において、幸福に暮す為に必要な喜びと平安がやって来るのです。しかし、その創造主の愛が、最も強く発信されているのは、神の御子であるイエス・キリストの十字架の死です。ヨハネの手紙を書いたキリストの弟子の一人であるヨハネは、「私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」と教えています。御子と言うのはイエス・キリストの事です。なだめと言う言葉は、ある人が誰かが怒っているその怒りを鎮める為に、何かをすることを「なだめる」と言います。神の御子キリストが「なだめの供え物」となった言うのは、十字架の死によって、創造主である父なる神が、罪を犯している私たちを怒っている怒りをしずめられた事を意味しています。
7、ここに愛がある
あなたやわたしの一生涯において犯す全ての罪を負わせて、私やあなたへの向けるべき怒りと裁きを父なる神さまは十字架のキリストに向けられた、キリストの命を十字架上でお取りになりました。それによって、罪びとの私たちへの怒りと裁きの神の正義の心が宥められました。父なる神さまの罪びとを怒る怒りの心がなだめられた結果、私たちはどんなに恐ろしい罪を犯していても、決して神の怒りと裁きに会う事が無いようにされたのです。そこに、罪びとの私たちに永遠の平安と喜びと幸福を何としてでも与えようという、父なる神さまの聖なる愛、無私の愛、無償の愛、無条件の愛、永遠の愛が示されているのです。その事を、ヨハネは「ここに愛がある」と、教えているのです。十字架でなだめの供え物となったキリストを通して示されている神の愛は、、神が万物に込められたあなたやわたしへの愛以上に、更に深く、強く、明確に示されているのです。十字架で死なれ宥めの供え物となったキリストは、創造主の父なる神の聖なる愛、無私の愛、無償の愛、無条件の愛、永遠の愛を信じるように、あなたやわたしに叫び続けておられる父なる神のメッセンジャーなのです。
【終わりに】
創造主の父なる神さまは、2025年の元旦礼拝を通して、あなたに呼びかけておられます。ご自身が創造された万物を通してあなたへの愛を発信しているように、「なだめの供え物となった十字架のキリストを通して、あなたへの罪の赦しの愛、無条件の愛、無私の愛、無償の愛、無条件の愛、永遠の愛を発信していますよ」と。是非、万物を通して、又、なだめの供え物となられた十字架のキリストを通して、あなたに示されている創造主の父なる神さまの愛を信仰をもって心に受け止めて下さい。その信仰が、あなたに必要な神さまに愛されている喜びと平安と幸せな心を宿らせ続けるのです。
万物を通して、又、さらに強く十字架のキリストを通して示されている父なる神さまの罪の赦しの愛、無私の愛、無償の愛、無条件の愛、永遠の愛で愛されている事を信じて、喜びと平安の中に生きる人は、聖霊によって、神の罪の赦しの愛、無私の愛、無償の愛で、無条件の愛で家族の人や友人や職場の人や、多くの隣人を、敵である人も愛する者へと変えられて行くのです。
是非、皆様が、父なる神さまの聖なる愛、罪の赦しの愛、無私の愛、無償の愛、無条件の愛、永遠の愛を信じる信仰からくる喜びをもって生かされる新年となりますようにお祈りします。又、聖書は、若い人たちが、若い時から創造主の父なる神さまに愛されている事を信じて、幸せな人生を歩むように呼び掛けています。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」(旧約聖書/伝道の書12章1節)