2024年7月28日礼拝メッセージ
「新生の恵み」
聖書:ヨハネ3:1~8
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
キリスト教の救いの教理の中に「新生」と言う教があります。その新生とは何かを今日は学びたいと思います。 1、新生は神の御国を導かれる為の絶対条件
キリストは、夜密かに身元にやって来たユダヤ人の指導者であるニコデモに「新生」について教えられました。次の通りです。「「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」 とキリストは、新生する事が神の御国に導かれる為の「絶対条件」だと教えられました。しかし、ニコデモは、その事が理解出来ませんでした。そのニコデモにキリストは続けて「「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と教えられました。人が新生するのは、水と御霊によることを教えられました。ニコデモは増々分からななくなりました。彼は、「水から生まれる」という事は、理解が出来ていましたが、御霊によって新生するという意味が分かりませんでしたが、ユダヤ人は人が母の胎内で育ち羊水と共に生まれてくる事の慣用句として「水から生まれる」と言っていたのです。その事をイザヤが48章で次のように教えています。
◆「イザ48:1これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、【主】の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない」と。
新改訳で「ユダの源」と訳されていますが、口語訳では「ユダの腰から」と訳され、新共同訳では「ユダの水に源を発し」と訳されています。ヘブル語原語を調べると「水」を意味する「マイム」が使用され、直訳すれば「ユダの水から」となります。イザヤは、普通の誕生でユダからイスラエル民族が生まれた事を、ユダの水から生まれたと表現したわけです。それと同じ意味で、キリストは普通の誕生で生まれる事を「水から生まれる」と言われたのです。
神学者や牧師方が、「水から生まれる」という事を、「水の洗礼によって」とか、「悔い改めの涙によって」とか、「み言葉によって」とか、色々解釈していますが、それはユダヤ的視点から解釈する事を知らなかった事から起きた間違った解釈となっています。普通の誕生で生まれた人は、アダムが罪を犯した結果、罪の性質をもって生まれ、神さまとの交わりの断絶という霊的死を負って生まれています。その事をパウロは、人は皆アダムにあって死んでいるとか、人は生まれながら神の怒によって裁かれる「神の御怒りを受けるべき子ら」と呼んでいます。
◆「Ⅰコリ 15:22 アダムにあってすべての人が死んでいる」。
◆「エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
人は皆、罪に堕落したアダムから遺伝によって生まれ、遺伝によって罪の性質を持ったまま生まれているのです。人は、アダムにあって生まれなければならないのです。それは、最後のアダムであるキリスを信じる信仰によって、神の子として誕生する為です。 2、神の子として誕生し新生する条件は信仰だけ
それでは、神の子として誕生する条件は何でしょうか、それは、ナザレのイエスキリストが聖書の預言に従って人類の全ての罪を背負って十字架にかかり、身代わりの刑罰を父なる神によって受けて尊い血を流し死なれ、三日目に甦られました。その出来事を正しく理解して、神の怒りによる永遠の裁きからお救い下さる「救い主」だと信じる信仰だけがその条件です。その信仰に、聖霊が働き、その人を神の子として誕生させて下さるのです。その事をパウロは、Ⅰコリント15章で次のように教えています。「Ⅰコリ15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、・・」。キリストは、旧約聖書の預言に従って、イスラエルと人類の罪の赦しの為に、その罪を全部背負って十字架にかかり、身代わりに神の刑罰を受けて、罪の償いをされました。その事を、聖書は罪の贖い、つまり「贖罪」と呼んでいます。 贖いというのは、代価を払って買い戻すという意味ですが、キリストが十字架で流された血は、人類を罪の責任から贖い出したのです。そして、イザヤの預言通りに葬られたのです。又、イザヤの預言通りに、三日目に墓の中より栄光の体で甦られたのです。以上の三つの事を正しく理解した上で、キリストを自分の救い主だと信じる時に、聖霊が働き、その人に神の命である永遠の命が与えられ新しく生まれ変わらせるのです。キリストは、その聖霊を風に例えて神秘的な聖霊の実在と働きをニコデモに教えられました。「ヨハ3:8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」。 風は思いのままに吹き、どこからきて何処へ行くか誰も分からないのですが、確実に存在しています。そのように、御霊によって生まれる者も、御霊がどのようにして自分に働きかけるのか、分からないのですが、キリストを信じた結果、確実にその人に働き、新生の恵みに与らせのです。
3、新生の為の救いの3要素を正しく理解する
では、聖書の預言通りに起きた、人類の罪のためのキリストの十字架の死と、葬りと、三日目の甦りを正しく理解するというのはどういう事でしょうか。十字架の死と葬りと三日目の甦という最も大事な福音を正しく理解する事を、「救いの3要素」だと神学的に呼ばれています。福音の3要素が、パウロがロマ書で教えている、キリストについてのことばであり、コリント書で教えている「十字架のことば」であり、ペテロが教えている「種」で例えられている「神のことば」です。又、ヤコブ教えている、「真理のことば」です
◆「ロマ 10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」
◆「Ⅰコリ 1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」 ◆「Ⅰペテ 1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」
◆「ヤコブ 1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」 以上の様に、罪びとを新生に導く神のことばとは、救いの為の福音の3要素を正しく理解する事を助ける役割をしていることばの事です。
①罪の為のキリストの十字架の死を正しく理解する
1)人の罪は全て死罪に値する事を理解する
罪の為のキリストの十字架の死を正しく理解するという事は、第1に罪びとの犯す罪は全て「死罪に値する罪」だと理解する事です。神さまは、良心を通して、人の犯す罪は「死罪」に値する事を教えられています。法律では、全ての罪が「死刑」に値する罪だとは定めていませんが、人間を創造された神さまは人の内部に備えられた「良心」によって人の罪は「死罪に値する」事を教えておられます。それは、犯した罪によって人が良心の呵責を持つと、神に対してでも、人に対してでも、自由な交わりが出来なくなります。神さまと人に対して喜んで顔を上げる事が出来ないというその「交わりの断絶の感覚」が良心の呵責によって襲ってきて、喜びが消え、憂鬱になっていきます。それは「死の感覚」です。その死の感覚こそが、私達に、罪は「死に値する事を教えているのです。 パウロがその事をローマ書で次のように教えています。 ◆「ロマ1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」
良心には、罪を罪として示して、罪を認めさせるという「認罪」の機能があります。その、良心の機能は人によって敏感度が異なります。敏感な人は、良心の呵責に激しく苦しみ、その為に、精神的に病んでしまったり、時に自死に走る時があります。しかし、逆に良心が焼かれた状態の人は、罪を罪として認めることがほとんでなくなっています。しかし、それでも良心がなくなってしまうわけではありません。人が罪を認めようが認めまいが、良心は、人に罪を指摘し続け、罪は死罪に値する事を教え続けています。良心は、人の罪は、聖なる神に対しても人に対しても永遠に顔を上げる事が出来ない「死罪」に値するものだと教えているのです。パウロは、創造主を認めていようが認めまいが、創造主は実際に実在されているので、人の良心にモーセの十戒の安息日律法を除いた、全ての道徳的律法を刻印されていると教えています。
◆「ロマ2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。──・・」
2)キリストが十字架の死をもって罪を償われた事 人の犯す罪が「死罪」に値する事は、キリストが十字架の死をもって「償われた」事で明らかにされました。もし、人の犯す罪が、難行苦行や善行で赦されるならば、キリストは十字架で死ぬ必要はありませんでした。人の犯す全ての罪は、神の御前には死罪に値するので、難行苦行や善行を罪の償いとしては神はお認めになりません。難行苦行や善行による償いでは死罪に価する罪は赦されないのです。キリストはその事をご存知でしたので、ご自分の肉体の死をもって、人類の死罪に値する罪を償われたのです。
3)罪なきキリストのみが死罪に値する人類の罪を償う事が出来る
では、なぜキリストは人類の死罪に値する罪を償う事が出来たのでしょうか。それは、キリストは、約33年の生涯において思いの罪、言葉の罪、行いの罪を一切犯されなかったことにあります。キリストが一つでも罪を犯せば、それによって人類の罪を償う資格は無くなり、ご自分の犯した死罪に値する罪によって裁かれ死んでいかなければなりません。しかし、キリストには一切罪がなかったのです。使徒たちがその事を次のように証言しています。 ◆「Ⅰペテ 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」
◆「ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
◆「Ⅰヨハ 3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。」
4)キリストが罪を一切犯さなかったのはなぜか
パウロは、エデンの園でアダモの犯した罪の結果、世界には人間に罪を犯させる原理として罪(アマルティア))が入り込んだとロマ書5章で教えています。その結果、人類はその原理である罪に全て支配されて、全ての人が恐ろしい罪を犯しているとロマ書3章9節~18節で教えています。日本語訳の「罪」は、ギリシャ語で単数形と複数形に区別して教えています。複数形の罪は「アマルティアイ」で、それは人が犯した多くの罪を意味しています。単数形の罪は「アマルティア」で、それは多くの罪を人間に犯させる原理として罪を意味しています。人間は全て、原理としての罪である「アマルティア」の力に引っ張られて「貪欲」を持つ「「罪の性質」を持っており、誰ひとり罪の原理である「マルティア」に勝つ事が出来ないのです。しかし、キリストだけが罪の原理である「アマルティア」に勝つ事が出来、思いにおいて、言葉において、行いにおいての罪を一切犯さない生涯を歩む事が出来たのです。それはなぜでしょうか。それは、罪を一切犯さない神の聖なる性質を持った神そのものである神の子が、人となられたお方であったからです。キリストには罪の原理である「アマルティア」の力で心に「貪欲」を持つという事は一切なかったのです。キリストは、聖霊によって母マリアが身ごもり生んだ神の御子ですので、キリストには罪の性質は無く、神の聖なる性質をもって誕生されたのです。キリストは人でありながらも万物を創造された神さまであったのです。ローマ9章で、パウロはイスラエルから出たキリストは「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」と褒め称えています。ヨハネによる福音書では、キリストは万物を創造されたことばであり、父なる神の懐におられた神そのものである神の独り子であると教えられています。そのお方が肉体を持った人間となられたとヨハネは教えています。コロサイ書でもへブル書でも、神の御子であるキリストが万物を創造された事が教えられています。マタイによる福音書では、キリストは聖霊によってマリヤさんが身ごもって生まれたと教えています。キリストは神である神の御子が聖霊によって人として誕生し、アダムの遺伝によって生まれているその他の人類が受け継いでいる罪の性質を持たずに、神の聖なる性質と神の永遠の命をもって誕生されたのです。キリストは神であり人なのです、又、人であり神のなのです。罪の原理である「アマルティア」になびく罪の性質をもって生まれている罪びと区別されて、神が人となられたお方がキリストです。
◆「ヘブル 7:26 このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」それ故にキリストは、神さまとの深い愛の交わりである祈りを欠かすことなく、祈りつつ悪魔の全ての誘惑を自由意思ですべて退け、何の罪も犯さずに生涯を歩むことが出来たのです。しかし、キリストが罪を犯さなかったというのは、ロボットの様に神に従ったのでなく、ご自分の自由意思を働かせながら、神に従順の生涯を歩まれた結果でもあるのです。パウロが次のように教えています。 ◆「ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
ヘブル書でも次のように教えられています。
◆「ヘブル 5:7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」
◆「ヘブル 12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」 5)キリストは最後のアダムである
ではなぜ罪なきキリストはたった一人で全人類の罪を負う事が出来たのでしょうか。それは、キリストが最後のアダムであったからです。最後のアダムだとキリストが呼ばれているのは、エデンの園で創造された最初のアダムと比較して語られている事によります。最初のアダムが、人類を包含する人類の代表者として創造されていたので、彼がエデンの園で善悪を知る木から取って食べた罪の行為は、全人類の罪の行為であったので、全人類はアダムと共に有罪となったとパウロはローマ5章で教えています。 ◆「ロマ5:18・・・ひとりの違反によってすべての人が罪に定められた・・・」
◆「ロマ5:19・・・ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた・・」
アダムはキリストのひな型として創造されたとパウロは教えています。ひな型であるアダムが全人類を含む人類の代表者として創造されたという事は、アダムの原型であるキリストは全人類の代表者として、父なる神の御思いの中に描かれていた事を教ええいます。キリストは、人類最後の代表者である、最後のアダムとしてユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。それ故に、たった一人で全人類の罪を負って、罪を贖い御業をなすことが出来たのです。
6)キリストはなぜ過越し祭の時に、十字架で死なれたのか
ではなぜ、キリストはあのユダヤの過越し祭の時に、十字架で死なれたのでしょうか。もし、別の時に別の方法で死なれとしたら、それは、人類の罪の贖い御業となる事は出来なかったのでしょうか。実は、キリストが、神が定められた過越し祭の時に十字架で死ぬ事は、神が定めた時と定めた方法であったのです。先週も学びましたが、ダニエル9章では、キリストの受難の時が終末の70週の預言の計算から、AD25年以後だとされていました。キリストはその事をご存知でしたので、十字架におかかりになる時を繰り返し「わたしの時」だと教えられました。
◆「ヨハ 2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
◆「ヨハ 7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」
◆ヨハ 7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていません」 ◆ヨハ 13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。 パウロも、キリストのじゅんなん時を「神が定められた時」と教えています。
◆「ロマ 5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」
◆「Ⅰテモ 2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」
キリストが、十字架に挙げられる事は、旧約聖書で、青銅の蛇が木にかけられあげられたことで預言されていました。ヨハネが次のように教えています。
◆「ヨハ3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」モーセが荒野で蛇をあげたという出来事は、民数記21章9節に教えられています。
◆「民 21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」。
なぜ、モーセが荒野で青銅の蛇を造って木にかけたのか、そのいきさつが民数記21章5節から8節で次のように教えられています。
◆「民 21:5 民は神とモーセに逆らって言った。『なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした』。 21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。 21:7 民はモーセのところに来て言った。『』私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。 21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」。ヨハネは、この出来事は、キリストがイスラエルと人類の罪の赦しの為に木にかけられてあげられる事を預言したものとして、聖霊によって知らされていたので、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」と教えました。キリスト在世時代、イスラエルを支配していたローマに逆らった反逆者、或いは極悪人の死刑方法は、十字架にかける事でした。その為、当時、あげられるというのは「十字架の処刑にされる事」を意味して使われていました。パウロも、キリストが十字架にかけられる事を預言している言葉として、申命記21:;23の「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」を引用して次のように教えています。「ガラ3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。」と。又、キリストは過越し祭の時に屠られる子羊として、預言されていましたので、キリストは神が定められた過越し祭の時に、神が定められた十字架で死ぬという方法で人類の罪を完全に償って下さったのです。それ以外の時、それ以外の方法でキリスが死んでも、それは愛と正義の神の御心ではないので、それをもって、人類の罪を神はお赦しになる事は出来ないのです。バプテスマのヨハネも、キリストの事を「過越しの子羊」として知らされていたので、キリストを「世の罪を取り除く神の子羊」とよびました。パウロもキリストを「過越しの子羊」と呼んでいます。「Ⅰコリント5:7b私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」
預言者ダニエルを通して定められた時の過越し祭で、神が定められた方法である十字架でキリストが死なれた事によって、キリストの死が、全人類の罪を取り除く為の身代わりの死であった、と神が正式に公認されたのです。以上が、聖書が預言する私たちの罪の為のキリストの十字架の死でした。その事を先ず理解して信じる事が新生という救いの為の第1の要素です。 ②キリストの葬りを正しく理解する事 次に神の子として新生するという救いの為の第2の要素は、キリストが「葬られた事」を正しく理解する事です。旧約聖書で、メシヤの受難と共に葬りの事を預言しているのはイザヤです。イザヤ53章で次のように預言されています。「イザ 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。」。その預言の通り、裕福なアルマタヤのヨセフがキリストを自分の墓に葬りました。
◆「27:57 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。 27:58 この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。 27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、 27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った」。
聖書の預言通りにナザレのイエスが金持ちの墓に葬られた事は、ナザレのイエスは間違いなく、イザヤが預言する受難のメシヤだという事と、メシヤは確実に死んだという事と、キリストは政治的反逆者や極悪人ではなかったことが証明され、キリストの死は間違いなくイスラエルと人類の罪の赦しの為の身代わりの死であったことを確証したのです。当時、政治的反逆者や極悪人が十字架で処刑され死んだ後は、丁寧に葬られる事は許されず、ゴルゴタの丘の死体捨て場に投げ捨てられたのです。死んだキリストの遺体がそのようにされず、丁寧に葬られた事は、キリストは神が遣わされたメシヤだという事を教えています。その事を理解してキリストを神が自分の為に遣わして下さった「救い主だ」と信じる事が、神の子として新生するという救いに与る為の第2の要素です。
③キリストの三日目の復活の意義を正しく理解する事 イザヤは、メシヤの受難と葬りの次に預言しているのが、メシヤの復活です。キリストの三日目の復活の意義を正しく理解する事が、キリストを信じて救われる為の第3要素です。
◆「イザ52:13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」 メシヤの復活は詩篇でも預言されています。 ◆「詩16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。 16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」 この詩篇16篇をペテロは聖霊が降ったペンテコステの日に次のように引用して、キリストの甦りの事実を伝えました。 ◆「使 2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。 2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。 2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。 2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。 2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。 2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』 2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。 2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。 2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」。
では、キリストの復活がなぜ預言されていたのでしょうか。それは、キリストには罪がなかった事を証明する為です。人の死というのは、アダムの罪の結果人類にやって来た呪われたものです。罪と死は切り犯すことができません。キリストが十字架で死なれ甦られたのは、キリストの十字架の死は、罪びとの死ではなく、罪なき者の死であったことを証明したのです。キリストガ復活された事によって、キリストの十字架の死が人類の罪の赦しの為の、贖罪の死であったことを証明したのです。その事を理解して、復活のキリストを自分の救い主だと信じる事が、罪びとが神の子として新生するという救いに与る為の第3要素です。
以上の救いの為の3要素を正しく理解して信じた人は救われているとパウロは教えています。では、救いの3要素を理解して信じた人が救われるという事、神の子として新生するという事は、その人の魂に、霊に、何がもたらされたのでしょうか。次に、救いの実態、新生の実態を学びたいと思います。
4、救いと新生の実態 ①罪の永遠の赦しによる信仰義認の恵み 救いの3要素に基づき、キリストを信じて救われ、神の子として新生の恵みに与るというとは、実際に何が神さまから提供されるのでしょうか。救いと新生の実態は何でしょうか。それは第1に、その人が一生涯において犯す、思いの罪、言葉の罪、行いの罪が信仰を持った瞬間に永遠に赦され、永遠に何一つ罪を犯さなかった「義人」と認められる事です。パウロがその事を次のように教えています。
◆「ロマ3:22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」。
ヨハネは以上のパウロの教えを、信じる者は裁かれて「滅びる事がない」と教えています。
◆「ヨハネ3:16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、・・」。 以上の救いの3要素を理解してキリストを信じた人は「永遠に罪が赦され永遠の義人として認められます。それを神学的はに「信仰義認」と言います。「信仰義認」の恵みによって、神さまとの生きた愛の交わりである祈りを安心して捧げる事が出来るようになるのです。素晴らしい救いです!
②魂に「永遠いのち」が付与される 次に信仰の結果、魂に与えられるのは神の永遠の命です。ヨハネが次のように教えています。
◆「3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。救いの3要素を理解してキリストを信じた人は、罪が赦され、同時に神の聖なる永遠の命が与えられているのです。第1ヨハネ5章でも次のように教えられています。 ◆「Ⅰヨハ5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」
③魂に神の聖なる性質が造りこまれている
キリストを信じて義とされ、永遠の命を得たその人には、魂に神の性質が造りこまれます。パウロが次のように教えています。 ◆「コロ2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」
◆「Ⅱペテ 1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
⑦新生したキリスト者の霊には、霊なる復活のキリストが内住されている ◆「ロマ8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」 ◆「コロ 1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」 ⑧新生したキリスト者の霊の中には御霊が内住される
◆「ロマ8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。・・・8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
◆「Ⅰコリ 6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」
⑨新生したキリスト者の魂にはキリストの心が与えられている
◆「Ⅰコリ 2:16 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。しかし、私たちはキリストの心を持っています。」
5、新生の恵みに生きる道
以上の様に、救いの3要素を理解してキリストを信じたキリスト者、新生して、魂に永遠の命と神の性質が与えられ、キリストの心を持つ者と、キリストの様に聖く、正しく、愛と謙遜に満ちてて生きる者と既にされているのです。キリスト者はすでに、隣人の罪を赦し、敵を愛する者とされています。その事を、実際に体験させて下さるのが父なる神とキリストの命令によって働かれる内住の聖霊です。キリスト者は既に自分に対するどんな人の罪も赦す者とされているので、その事実に立って安んじ「赦します」と宣言すると、聖霊が働き、聖霊によって隣人を赦している自分を体験するのです。それは御霊の実を魂に結んで生きる事を意味しています。御霊の実を魂に結ぶことが出来るのは、キリスト救いの3要素を理解して信じ新生し、永遠の命と神の聖なる性質に与っているキリスト者のみです。
キリストはご自身を葡萄の木であり、私達新生したキリスト者をその枝だと教えられました。私達は、新生してキリストの枝となり、キリストと同じ神の聖なる性質がなければ、ブドウの実に例えられる御霊の実を魂に結ぶ事はできません。渋柿が渋柿しかなりません。リンゴはリンゴの木にしかなりません。なしの木にリンゴはなりません。そのように、新生してキリストと同じ永遠の命と神の聖なる性質を魂に与えられたキリスト者のみが「御霊の実を結ぶ」のです。パウロなキリストを信じて新生をしたキリスト者に向かって次のように命じています。「ガラ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と。御霊によって歩むという事は、キリスト者の霊と一つになって下さっている内住の御霊が御霊の実を結ばせて下さると、その働きに信頼して、その導きに従って歩む事です。キリストを信じて新生したキリスト者は、御霊の導きの声を聞き分ける事ができるので、パウロは「御霊によって歩みなさい」と命じました。御霊の働きに信頼するという事は、キリストを信じて新生したキリスト者の自分は、神の永遠の命と神の聖なる性質にあずかり、キリストの様に愛と正義と聖さと謙遜に満ちて生きて行くものと既にされているという新生の事実安んじながら、御霊に日々聞き従えば、御霊の実を結ばせて下さることを信じる事です。私はキリストの様に愛と正義とさ聖さ謙遜をもっていきるものです、と宣言し安んじましょう。その安心に基づく信仰の宣言と従順に聖霊が働いて、御霊の実を実際に結ばせて下さるのです。それが、御霊によって歩む事です。信仰に働いて下さる御霊に信頼しながら、日々御霊に聞き従う事が、「御霊によって歩む」事です。救いの3要素を信じて罪が赦され、新生して神の永遠の命と神の聖なる性質を与えられたキリスト者が、日々、御霊の実を結びながら歩む秘訣は、「御霊によって歩む」事です。その事をパウロは、ロマ8章でも教えています。「ロマ8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
【終わりに】
ハレルヤ!あなたが救いの3要素を理解して、キリストを自分の救い主だと信じる信仰をお持ちであれば、あなたは、永遠に罪がゆるされ、永遠の義人として神から認められ、いつでもどこでもどんな時でも自由に神さまに祈る事が許されています。また、御霊によってあなたは神の子として新生し、永遠の命と神の聖なる性質が魂に与えられ、キリストの様に生きる者とされています。そして、キリストが約束されたように、必ず神の御国へと導かれるのです。また、日々の生活で内住の御霊の導きに聞き従って生きていれば、必ず聖霊が働きガラテヤ22節23節で教えられているの「御霊の実」である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制」を魂に実際に持ちながら、魂に結びながら歩む者とされているのです。それが、新生の恵みに生きる道です。