「キリストのめんどりの翼の如き愛」
聖書:マタイによる福音書:23章:37~39節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】「聖書は信頼できる」
アメリカの偉大な将軍で、天才的な文学者と言われた人に、ルー・ウォレスがいます。彼は過激な無神論者でした。人々を勇気ある人生から逃避させると見えるキリスト教信仰に対して、彼は腹が立って仕方がありませんでした。ある時、彼は友達に対して、自分の名を世界に知らせる為にも一つの誓いを立てました。それは聖書の権威を撲滅するために、キリストを抹殺するために、一冊の本を書くというものでした。取り憑かれたように彼は研究を開始しました。それから5年間、キリストの生涯の地であったイスラエルに飛び、ヨーロッパとアメリカの主要な大学を訪ね、死に物狂いでキリスト研究に没頭しました。やがて、山のような資料に囲まれて、彼は「キリスト教撲滅論」を書き始めました。第1章を書き終え、第2章に取り組んでいたある夜のことでした。突然彼はペンを投げ出すと、いすから崩れ落ちて、そこにひざまずき、叫びました。「我が救い主よ。わが神よ。」それまでずっと彼の敵であったキリストに向かって、ルー・ウォレスは叫んだのです。「我が救い主よ。わが神よ。」と。彼は、聖書に教えられているキリストの存在が間違いなく歴史に基づくものだと確信したのです。彼は、ある時、妻に相談しました。「キリストを否定する為に、聖書を否定する為に集めたこの膨大な資料をどうすればよいのか」と。すると彼の妻が言いました。「その資料を使ってキリストの実在を証明する小説を書けば良いのではないですか」と。その妻のアドバイスによって彼が書いたのが映画にもなった小説「ベン・ハー」だったのです。チャールトン・ヘストン主役の1959年作の米国映画「ベン・ハー」は今も度々テレビで放映されている不朽の名作となっています。
イエス・キリストの生涯は間違いなく歴史的事実である事を、世界の約3000年の言語に翻訳され、世界のベストセラーを続けている聖書が繰り返し教えています。マタイによる福音書は、イエス・キリストが旧約聖書でユダヤ人と世界に約束されたメシヤ(救い主)でありユダヤ人の王であるという観点から、又、キリストの生涯が歴史的事実であったという観点から、キリストの生涯の史実性を教えている福音書です。
【無条件の愛はどこに】
1、無条件の愛は人にはなく、キリストにあり
私たち罪深い人間が、平安と喜びに満ちて生涯を歩んで行く上で、一番必要な事は、長所と短所、良い点と欠点、特異点と弱点のあるがままの自分が、無条件の愛に包まれ囲まれているという事実を知る事です。つまり、愛されているという事において、条件を付けない無条件の愛によって、空気のように包まれ囲まれ、永遠に愛されている事実に、目が開かれ、その愛を受け入れていくと、その人は、苦難の多い人生において、必ず平安と喜びに満たされて生きる力が与えられ、幸せな人生を送るという成功者になるのです。それが、無条件の愛の力です。では無条件の愛で、永遠に罪びとの私達を愛し続けておられる方は、果たして存在するのでしょうか。
母親は、産まれたばかりの我が子を無条件の愛で愛します、しかし、子どもが反抗期を迎え、親に背いたり、反抗的になると我が子と言えども、素直に愛する事に困難を覚えるものです。父親も同じです。人間の愛は素晴らしいものですが、それは条件付き愛なのです。恋人同士の燃えるような愛も素晴らしいものですが、それも条件付き愛です。親友同士の仲の良い愛も素晴らしいものですが、やはり条件付き愛なのです。無条件の愛と言うのは、愛する事に条件を付けないのですから、自分を憎む人、自分の命を狙う人、自分の陰口悪口を言いプライドを傷つける人、自分の幸福をつぶす人、自分の心や肉体を傷つける人をも愛する愛です。それは、キリストが教えられた「敵を愛する愛」です。そのような、愛は、罪びとの私達には無い愛です。しかし、キリストにはその愛があります。その愛を、キリストはご自分の御生涯を通して、特に、十字架の受難を通して明確にあらわされました。
2、十字架の苦難の中で示されためんどりの翼の如きキリストの愛
今日から19日迄の1週間は、キリストの十字架の受難を偲ぶ受難週となっていますので、キリストの十字架の受難から、キリストの無条件の愛を学びたいと思います。キリストが、十字架にお掛かりになる二日前に、キリストは、ご自分を十字架にかけて殺すであろう、律法学者という、旧約聖書を教える聖書学者や、ユダヤ教徒の模範として尊敬を受けていた宗教的に非常に熱心なパリサイ人たちに向かってメッセージをされました。めんどりがその翼の下に雛を集めるかのような、非常に優しい愛の心をもってメッセージをされました。それは、彼らの心の強欲、高ぶり、心の盲目、偽善性を「白く塗られた墓」とか「まむしの子」と呼び、断罪されたのです。彼らを、悔い改めに導き、神さまの赦しと平安の中に導く為でした。キリストはご自身の愛を、雛を優しく愛するめんどりの母性本能に例えられて教えられたように、キリストの御生涯は、優しさに満ち溢れものでした。当時のユダヤは、ローマの圧政によって苦しめられ、税金として多くのお金をローマに治めさせられていたので、経済的非常に貧しい中にありました。病人も非常に多くいましたが、多くの人は癒える事無く苦しんでいました。又、悪霊に取りつかれた人も非常に多く、肉体的、精神的に異常をきたして苦しんでいる人が多くいました。多くの人が、政治的に、経済的に、肉体的に、精神的に希望がない絶望の中に置かれていたのです。キリストはそのような人たちを「飼う者の無い羊のようだ」と、深く嘆き涙されていました。それ故に、ご自分に癒しを求めてくる人を、それがどのような病であっても、信仰がなくてもあっても、悉く癒されたのです。無賞です。無条件 の愛で癒されたので、当然、無償です。普通では考えられません。普通の人間なら、少しは報酬を求めるでしょうが、キリストには一切それがなかったのです。キリストは、お生まれになってから、十字架で死なれるまで、一度も悪意や貪欲を持たれた事がなく、思いにおいて、言葉において、行いにおいて一切罪を犯されなかったのです。約3年間寝食を共にした弟子達が、命をかけて、殉教をしてまでも、その真実を証明しました。キリストのなされた多くの奇跡、キリストの語られた素晴らしい教えとメッセージ、それは、ご自分に敵対する、律法学者、パリサイ人、そして祭司階級のサドカイ人たちを含めて、イスラエルの全民衆を、めんどりがその翼の下に雛を命がけで集め守り、保護し、安心を与えるよう、優しい愛を動機に全身全霊をもっての愛の熱情を燃えたしめておられたのです。その、優しい愛は、ローマの総督であったピラトにもローマの兵達にも向けられていました。ピラトは、ナザレのイエス・キリストは十字架にかけられて処刑をされるような罪が無いと判断しながらも、ユダヤ人から嫌われることを恐れて、ユダヤ人の叫びに負けて、キリストを十字架にかける事を決定したのです。そのような、ピラトさえキリストは愛されていたのです。又、ピラトの命令により、動物の小骨などが組み込まれている鞭で、キリストの背中をザクロのように割れるまでむち打ち、頭に五寸釘のような鋭い固いいばらの冠を被せ、その冠の上から葦の棒で打ち叩いた残虐的なローマの兵隊たちをもキリストは愛されたのです。どれほどの激痛がキリストを襲った事でしょうか。ローマの兵隊はキリストに紫のガウンを着せて「ユダヤ人王万歳」」と罵倒し、唾をかけ、拳骨で顔面を殴打し顔面はぼこぼこにしたのです。又、目隠しをさせて平手で打ち、「誰が打ったか当てて見よ」と罵りました。キリストの御顔は見る影もなくなりました。そして、両手両足をハンマーで十字架に釘付けにしたのです。又、ローマの兵隊たちは、キリストが苦しみ悶えている十字架の下で、キリストが着ておられた衣をくじ引きにしたりして笑いこけていたのです。彼らは、キリストに憐れみのかけらさえも示さなかった冷淡極まりない兵達でした。その彼らをも、キリストは雌鶏が雛を優しく愛するように愛し通されました。また、十字架の下にやって来て、「お前が救い主なら降りてこい、そうすれば信じてやる」とか、「神殿を打ち壊して三日目に建て直す者よ」とか、さんざん罵り続ける律法学者、パリサイ人、大祭司、祭司達、民衆を、キリストは絶対に罵る事無く、逆に、「父よ、彼らを御赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と、優しくとりなしをされたのです。驚くべきキリストの優しい愛です。めんどりがその翼の下に敵から守るために、優しく必死に雛を集める如き愛です。キリストは、十字架でもだえ苦しみながらも、ご自分を十字架につけた非情な彼らが、ご自分をメシヤだと信じて救われる事、ご自分の愛の翼の下に来る事を必死に願い祈られたのです。
3、私(佐藤)のキリストの十字架の愛の体験
わたしは19歳で洗礼を受けましたが、その最も大きな理由は、キリストの十字架の愛を知った事にありました。わたしは、15,6歳ごろから人生の目的や意味が分からす、悩んでいました。また、家族は沢山いたのですが、わたしの悩みを理解してくれる家族がいない事に孤独を覚えて苦しんでいました。また、小さい時から厳しい貧しさのゆえに起きる、父母の絶えない喧嘩や親子喧嘩を体験したりして、深い虚無感で苦しむようになりました。また、わたしをも含め世の中に嘘が多い事に苦しんできました。そうした中で、ある新興宗教に入信しようとしましたが、その新興宗教に誘ってくれた友人が「佐藤なあ。キリストは『汝の右の頬を打たれたら他の頬を向けよ』と教えているんだ。そんなナンセンスな事誰が出来るか」と、キリストを罵倒していたのです。わたしは、そのキリストの言葉に感動して、もし「右の頬を打たれても、恨まずに他の頬を出す事が出来れば、みんなが望んでいる世界平和がやすぐにやって来る」と思ったのです。その時から、キリストに関心を持つようになったのです。その後、ラジオ放送で、無料の聖書通信講座を受けるようになりました。テキストが無料で送られてきたのですが、いい加減な返答しかできませんでした。それでも大変丁寧に、優しく添削がなされて答案用紙が帰ってきたのです。添削をして下さっている方の優しい愛を私は深く感じていました。その優しい添削が嬉しくて聖書の勉強を続けたのです。ある時、テキストに、讃美歌が紹介されていました。メロディーはさっぱり分かりませんでしたが、その歌詞に私は深く感動したのです。次のような歌詞です。「カルバーリ山の十字架につきて、イエスは尊き血潮を流し、救いの道を開きたまえり、カルバリーの十字架我が為なり、ああ十字架、ああ十字架、カルバリーの十字架我が為なり」。この歌詞を読んだ時、自分を命がけで愛して下さっている方がいたんだと思い、涙、涙、嬉し涙が留めなく流れ、キリストに愛されている喜びでいっぱいになったのです。それからは、見るものすべてが十字架に見えるようになり、感動の日々を過ごすようになり、孤独から解放されたのです。
4、淵田美津雄(真珠湾攻撃の隊長)が体験したキリストの十字架の愛
わたし以上に、そのキリストの十字架の愛、赦しの愛、優しい愛に触れた方がいます。それは、大阪にお住いであった「淵田美津雄さん」です。淵田美津雄さんは、日本がハワイの真珠湾を攻撃した時の空軍機の隊長を務めた人です。映画「トラ・トラ・トラ」で有名になりました。淵田美津雄さんの事がネットで次のように紹介されていました。「淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月3日 奈良県生まれ、- 1976年(昭和51年)5月30日に73歳で没。、日本の海軍軍人、海軍兵学校52期。軍歴は1924年~45年21年間、最終階級は海軍大佐。戦後、キリスト教伝道者、と紹介されています。
淵田美津雄さんは大阪にお住みでしたので、わたしが洗礼を受けて間もない時、淵田美津雄さんを招いての伝道集会を私の教会が企画しました。会場は、神社の境内にある小さな小さな公民館でしたので、わたしは目と鼻の先程の至近距離で、直接、淵田さんのキリストを信じた体験談を聞くことが出来ました。それを短く纏めると次のようになります。
淵田さんは、日本の戦争は欧米の列強から日本とアジア諸国を救う正義の戦争だと信じ込んでおられました。しかし、戦争に負け、東南アジア諸国に残っている兵隊や多くの日本人を日本に復員させる役割を戦後の日本政府から仰せつかった事で、その間違いに気づいたのです。その役目の為に、東南アジア諸国に復員の為に船を貸してもらえないか交渉に奮闘しました。しかし、思うように船が集まりません。それどころから、何処へ行っても日本が非難されていた事に驚いたのです。淵田さんは、日本がアジアの人々の為の正義の戦争をしてきたのに、なぜ日本が非難されているのか理解できず苦しみました。その苦しみ中で、ある事が分かってきたのです。それは、教育勅語によって、天皇を現人神として絶対化して敬う事をアジアの人々にも強要した事です。教育勅語によって日本はアジアの人々の言葉を奪い、文化を無視して、祠を建て、鳥居を築き、アジアの人々にもその教えを強要して来たことに問題点があったという事に気づいたのです。正義と思っていた戦争は、実は、アジアの人々を痛みつける悪の戦争であったと分かり、深い絶望感と虚無感に囚われて、毎日毎日が暗い暗いものとなりました。そんなとき、東京の新宿駅で一人の米国の宣教師がキリスト教のトラクトを配っている事に遭遇しました。そのトラクトを受け取って読んで見るとそこには驚くべきことが書いてありました。それは、その宣教師は、自分が隊長で爆撃したあの真珠湾で、家族親族を多く失った犠牲者だったのです。それで、一気にトラクトを読みました、そのトラクトにはその宣教師がどうして日本にキリストの罪の赦しの福音を宣教しているのか、その理由が証されていたのです。それによると、彼は、日本の真珠湾攻撃で家族親族を多く失い、日本に対する憎しみと報復の執念に燃え、空軍に入隊して、日本を攻撃する為に、日本に向かっていましたが、途中で不時着陸し、日本の捕虜になってしまったのです。その時、聖書を差し入れしてくれるように頼み、聖書の差し入れが許されました。彼は、聖書を読んでいる時に、自分が日本人を憎んでいるこの憎しみの罪が赦される為に、キリストが十字架で身代りの刑罰をお受け下さったという、キリストの十字架の愛に触れて日本人を憎んでいた罪を心から悔い改め捨てたのです。そればかりか、もし、捕虜から解放され命があれば、日本の人々の救いの為に日本へ宣教師として遣わして下さいと神さまに祈ったのです。そのような証の最後にキリストの十字架上の祈りが紹介されていました。「ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」淵田さんはこの十字架上のキリストの愛のとりなしの言葉を読んだ時、正に自分は何も分からずに、正義だと思い込んで多くの米国人を殺してしまった。その自分の罪の赦しの為にキリストが十字架にかかり祈って下さったと知ったのです。その瞬間に淵田さんは泣き崩れ、神さまに「赦して下さい」と、心から悔い改めの祈りを捧げました。その後、淵田さんは洗礼を受け、伝道者になり、米国へ謝罪の為に赴いたのです。日本の教会は、「ドント ファゲット パール ハーバー(真珠湾を決して忘れるな!)」を合言葉にしているアメリカに今行けば、淵田さんの命に危険が及ぶと思い反対しました。アメリカの教会の牧師もいのちの保証がないので、「真珠湾攻撃の隊長であった事は伏してくれれば」という事で、教会での証を許可しました。しかし、集会が始まり、淵田さんが「真珠湾攻撃の隊長であった」という事を正直に告げると、会衆のみんなの顔が一気に緊張と怒りに満ちたものとなりました。しかし、続いて自分がなぜキリスト者になったのか、その証を語ると、会衆が皆、淵田さんの元にやって来て、涙を流して喜んで抱きしめてくれたというのです。その時、淵田さんは「キリストは私たちの平和である」と言う、聖書の御言葉の確かさを改めて教えられたと、証しをされていました。
5,キリストは私達の罪の赦しの為に十字架でとりなしの祈りを捧げて下さった
私たちの罪は、自分で分かっている罪も多くありますが、分からずに知らずして多くの人を傷つけ、悲しませている罪も結構あるのです。キリストはそのような罪を含め、全ての罪が赦されて、神さまと隣人との和解の喜びの中に私達が永遠に生きる事を願って、雌鶏の雛を優しく愛する如き愛をもって、十字架で尊い罪なき血を流されたのです。キリストの十字架で示された神さまの無条件の愛こそが、罪人の私達が、平安と喜びに満たされて幸福に暮して行く為に、絶対に欠かせないものです。
6、神の雌鶏の翼の如き優しき愛の啓示
①神が創造された美しい自然(被造物)によって
天地万物を創造された神さまの、めんどりがその翼に下に雛を集めようとする全人類への優しき無条件の愛は、先ず、神さまが創造された美しい自然の中で示されています。春は、百花繚乱で、美しい花がいっぱい咲く麗しい季節です。美しい花は、人を分け隔てする事無く咲き、私たちの心身に癒しを与えてくれます。美しい山、川、海、光輝く太陽と青空、恵みの雨、それら全ては人を分け隔てする事無く、私達を楽しませ、心身に慰めを与えてくれています。キリストをその自然に示されている神の無条件の愛を次のように教えられました。「マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」キリストの「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と言う教えは、若いわたしの心を深くとらえました。わたしは、そのキリストの教えによって、神に愛されていない人は一人もいない。全ての人が平等に愛されている事を確信しました。創造主の父なる神さまは、ご自身が創造された美しい自然や、美味しい果物や野菜や穀物、また、魚介類や多くの食用の動物の肉、海の幸、野の幸、山の幸をもって、ご自身の優しい愛を全人類に平等に示されています。
②世界のベストセラーを続けている聖書66巻によって
また、創造主の神さまは聖書を通して、その愛を示されています。どれだけ多くの人が、聖書を読んで、或は聖書の言葉によって、神の愛に触れ、幸福な人生を送るようになったか図り知れません。同志社大学の創始者の新島襄とその妻新島八重、明治の維新に関わった元サムライたちの西郷隆盛や勝海舟や内村鑑三、ライオン歯磨きの創立者・小林富次郎、森永製菓の創立者・森永太一郎、ソニーの創立者・井深大(まさる)、プロテスタントの小説家・三浦綾子、カトリックの小説家・曽野綾子、カネボウ化粧品の元社長の三谷康人、お笑い芸人の大村崑、映画俳優の「男はつらいよ」の渥見清、歌手のアグネスチャン、医師である旧千円札の野口英雄、聖路可病院の医師であった日野原重明、「酒は涙かため息かなどのヒット曲を出した昨曲家の古賀正雄の直弟子の小林幸子、ギターリストで歌手のアントニオ古賀、徹子の部屋の黒柳柳徹子、マンガ・サザエさんの長谷川町子さん、アンパンマンのやなせたかし、ヒット曲異邦人の久保田早紀、元オリンピックや世界チャンピオンのボクサー・村田諒太、新5千円札の津田梅子、花の詩画作家・星野富弘、インドのコルカタの貧しい人に尽くしたマザーテレサ、米国の黒人市民権の為に無病力で戦ったキング牧師、密林の聖者と呼ばれたシュバイツアーなどなど、多くの有名人が著名人が、聖書を読んで、或は、聖書の言葉に出会って、神さまの無条件の愛、めんどりの雛を愛する優しいキリストの愛に出会い、試練や苦しみの多いこの世にあって、神さまに愛されいてる喜びの中を歩来らまれたのです。
◆星野富弘の聖書との出会い その一人、詩画作家の星野富弘さんと聖書の出会いのエピソードを短くお伝えします。星野さんは、学校の教師でしたが、体躯の時間首の骨を折るけがをし、それから手足が動かない重度の障害者になりました。人生に絶望した星野さんは、やさしく看護して下さるお母さんが口入れてくれる食事をお母さんに向かって吐き出すような、すさんだ心を持つようになりました。そうした星野さんの事を心配して東京から友人がやって来て、お見舞いに聖書を置いていきました。星野さんは聖書に全く無関心でしたので、ベットの下に聖書を置きっぱなしにしておきました。しかし、あるひ、心が虚無と絶望感にさいなまされ苦しくて仕方がありません。その時ふと、友達がプレゼントしてくれた聖書を思い出し、読む事にしました。新約聖書のイエスキリストの事が書いてある福音書を読むうちに、イエス・キリストの愛に触れるようになり、キリストが自分の罪の赦しの為に十字架で命を捨てて下さったという事を信じたのです。その時から、神さまに愛されている喜びが与えられ、生きる意欲が湧きはじめ、看護婦さんたちに、鉛筆をお願いして口で字を書く訓練を始めたのす。口で字を書くことが出来るようになって驚いたことは、手で書いていた時と同じ字を口で書いている事を知った事です。それで、口でも字が書ける自信を持ったのです。それが花の詩画作家となる第一歩だったのです。
◆聖書の翻訳言語数約3000
星野さんに多大な影響を与えた聖書は、現在約3000の言語に翻訳されていいます。1450年ごろにドイツのグーデンベルグが活版印刷を発明し、最初に印刷をしたのが聖書でした。それから約575年が過ぎ、更にさらに他の本とは全く比較できない程、多くの人々に読まれ、世界のベストセラーを続けています。聖書は、使徒パウロが教えるように「優しき愛に満ちた神の愛の霊感による書」ですので、愛に飢え渇いている人の心を満たしてきたのです。神さまは、お造りになった美しい自然や美味しい海の幸、野の幸、山の幸を通してご自身の優しい愛を示されています。また、ユダヤ人に愛の霊感を与えて書かせた世界のベストセラーである聖書を通してご自身の愛を示されています。聖書を通して今も、イエス・キリストの十字架の愛、めんどりの雛を愛する如き優しきキリストの十字架の愛を示し続けておられます。柳瀬高が大ヒットさせた優しきアンパンマンは、実はイエス・キリストがモデだと言われています。 7、キリストが十字架にお掛かりになったのはなぜ
キリストが、何故十字架にお掛かりになったのか、その事を使徒のペテロが分かりやすく教えています。
◆「Ⅰペテ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」私達も、キリストが律法学者やパリサイ人を厳しく断罪されたのように、人を妬んだり恨んだり憎んだり、人からの称賛を求めたり、人を見下したりしています。又、口に出さなくても、行いに出さなくても、心の中でどれほど、多くの罪を犯している計り知れません。それらの多くの思いの邪悪な罪を初め、人を傷つけてきた言葉の罪や、具体的に犯してきた多くの罪を赦すことが出来るのは、天地万物を創造された創造主の神さまのみです。その創造主によって私達が赦される為に、キリストは十字架で私たちの恐ろしい罪の数々を背負って下さり、身代わりに父なる神より厳しい怒りもって裁かれ、罪なき血を流されたのです。キリストは、めんどりがその翼の下に雛を集め、保護し、安らぎを与えるように、私達に代わって裁きを受けて、永遠に全ての罪を取り除かれ私達を裁きから保護して下さったのです。その事実を事実として信じるだけで、あなたは、永遠に罪が赦され、永遠に幸福に生きる為に神様から永遠の命が与えられ、神の子として養子に迎えられるのです。
最後にその約束の言葉を御読みします。「ヨハ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者はさばかれない。」