シリーズ神学ミニレポート
2025年5月9日
「聖書的福音宣教論2」
【はじめに】
日本の福音宣教の閉塞感が打ち破られ、福音宣教が前進する為に、日本のキリスト者が知っておかなければならない福音の全体像の11の福音の内、前回は、「罪の赦しと信仰義認」についてレポートしました。今回は「神の子とされる」事と「三位一体の神の内住」の恵みについてレポートします。
キリストを信じる信仰のみによって与えられる11の福音の全体像を今回も以下の通りにお伝えしておきます。
①罪の赦しと信仰義認 ②神の子とされる ③三位一体の神の内住 ④永遠に朽ちない栄光の体が与えられる ⑤聖化と栄化の恵み ⑥天にある全ての霊の祝福に与る ⑦天に国籍を持つ者となる ⑧万物の所有者となる ⑨キリストの御体なる教会(花嫁なる教会)の一員となる ➉メシヤ的千年王国の住民となる ⑪黙示録の新天新地の住民となる
1、キリスト者は神の子として新しく生まれ変わった
キリストを信じたキリスト者は、罪が赦され「義」と認められ、キリストの義が転嫁され、以下の三つの怒りから解放されました。①肉体の死後の怒り ②7年の大艱難時代の怒り ③最後の審判の怒り。キリスト者は三つの怒りから解放される恵みと同時に、神の子として新しく生まれ変わる恵みに与りました。それを神学的には「新生」と呼びます。以下が「新生」を教えている聖書の言葉です。
◆「ヨハ1:12 しかし、この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」
◆「ガラ3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」
◆「ヤコブ1:18 この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。」
◆「Ⅰヨハ3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。」
◆Ⅰペテ 1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」
◆「ペテ 1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」
◆「Ⅰヨハ 3:9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」
◆「Ⅰヨハ 4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」
◆「Ⅰヨハ 5:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んで下さった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。」
①神の聖なる性質の造り込み
キリスト者が神の子として新生をした事は、そのキリスト者には、「神の聖なる性質」が造りこまれた事を意味しています。以下がその事を教えている聖書の言葉です。
◆「コロ2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。2:10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。」
◆「Ⅱペテ1:4 その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
神の性質が造りこまれたキリスト者の事を、パウロは「古いものは過ぎさり、全てが新しくなった者」だと教え、又、神に再創造された神の愛の作品だと教えています。
◆「Ⅱコリ5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」
◆「エペ 2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
②永遠の命の付与
キリスト者がキリストを信じて神の子とされたという事は、そのキリスト者には「神の性質」以外に「神の永遠の命」が付与された事を意味しています。以下がその事を教えている聖書の言葉です。
◆「ヨハ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」
◆「ヨハ 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
◆「ヨハ 5:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
◆ヨハ 6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
◆「ヨハ 6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」
◆「ヨハ 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
◆「使 13:48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。」
◆「ロマ 5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」
◆「Ⅰテモ 1:16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」
◆「Ⅰヨハ 2:25 これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。」
◆「Ⅰヨハ 5:11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。」
◆「Ⅰヨハ5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。5:13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです」
2、キリスト者は霊の中に三位一体の神を宿している
キリストを信じて「罪の赦しと信仰義認」の恵み、及び「新生」の恵みに与った、キリスト者には、更に天地万物を創造された全知全能の偉大な神である三位一体の神がそのキリスト者の霊に永遠に内住される恵みが与えられています。聖書は旧約聖書も新約聖書も、創造主の偉大な神は、三位一体の神だと教えています。三位一体の神と言うのは、神は父・子・聖なる3位格の神が独立しつつ唯一の神であるという、神概念です。旧新約聖書が啓示する三位一体の神概念を弁証をしていく為に、最初に三位一体の神概念を定義しておくことが重要と思いますので、私の言葉で定義しておきます。
≪三位一体の神の定義≫
「聖書に啓示されている創造主の神は唯一の絶対の神であるが同時に父・御子・聖霊の独立の三つの位格によって存在している。ラテン語で位格は神の人格性を意味する「ペルソナ」と言います。神の人格と人の人格を区別する為に「ペルソナ」を日本語訳では「位格」訳されて使われています。この三つの位格の神は独立しているが唯一の神としては同等で同質なのです。同質はギリシャ語では「ホモウシオス」ですが、ラテン語では「スブスタンスティア」と言います。「スブスタンスティア」は同一実体とも翻訳されています。三つの位格の神はそれぞれが別々の役割と働きを担っています。父なる神は万物の源であり、御子と聖霊によって万物を創造されました。御子なる神は、父なる神の命令により人類の罪の赦しと救いの為に人となり、神であり人であるお方(人性と神性を併せ持ち、それ故に神の意識と人の意識を持つ一人の人格者)として十字架にかかり、葬られ、ハデスに下り三日目に御復活し、今も父なる神の右に座してとりなしをされ、全人類の唯一の仲保者として、人を救う働きを担っておられます。また、偏在の神として父なる神の命令によって万物を保持し統治し、父なる神の設計に従って人類や生物を産みだし創造されています。聖霊は、父と御子によって遣わされて、万物を管理し、人々に働きかけて啓示の光をもって心の目を開き、キリストを創造主の神である「主」として信じるように導かれている。又、神を神として崇めるように知性を啓発して真理を諭される働きを担っておられる。特に信じる者の魂に神の永遠の命を与え神の性質を造りこみ新生させ神の子としている。又、永遠に信じる者の霊の内に内住され、キリストの似姿に変えて行く聖化の恵みを与えておられます。更に、キリストの御体なる教会の管理者として、福音宣教と教会形成と教会成長のための働きを父と御子の命令によって担っておられます」。 不十分ではありますが、以上が私の三位一体の神概念の定義です。
※キリスト教事典による三位一体の定義(P451)
「聖書の神は父・子・聖霊という三つの位格(ペルソナ)とひとつの実体(スブスタンスティア)において存在する」
以上の「三位一体の神概念」が、聖書にどのように啓示されているのか、旧約聖書と新約聖書を分けてお伝えします。
①旧約聖書で啓示されている三位一体の神
≪ヘブル語文法による暗示的啓示≫
旧約聖書では三位一体の神が漸進的に啓示されており、文法においてその真理が啓示されています。ヘブル語文法においては名詞や動詞や形容詞などには男性形と女性形があり、又、複数形と単数形があります。つまり4つの変化形があります。そして名詞が男性形であれば、それに関わる動詞や形容詞も男性形です。名詞が単数形であれば、それに関わる動詞や形容詞も単数形です。名詞が女性形であれば、それに関わる動詞や形容詞も女性形です。名詞が複数形であれば、それに関わる動詞や形容詞も複数形です。以上のヘブル語文法の法則をもとに、真の神をさす「神」、或いは「主」と 翻訳されているヘブル語の言葉が単数か双数(ヘブル語は自然の世界にペアで存在しているものを、双数形で表現する)か複数か、或いは文脈においてどのように漸進的に啓示され使用されているのか学びます。それによって、旧約聖書において啓示されている創造主の唯一の真の神が三位一体の神として啓示されていることを詳しく知ることが出来ます。
≪エロヒームの原則的使用方法≫
創世記第1章の真の神を教えるヘブル語の複数形のエロヒームの使用回数28回で、全て「神々」でなく「神」と翻訳されています。それは、旧約聖書において「神は唯一」だと啓示されている事によります。又、複数形エロヒームに関わる動詞は全て単数形で表現されています。この文法は、本来のヘブル語文法ではありえないので、この事実は、神は複数の位格の存在でありながら、単数の存在である事を暗示的に啓示していると言う事が出来ます。ただ、位格の数がいかほどかはこの時点ではわかりません。聖書のヘブル語用法では真の神を表す場合、他の一般のヘブル語文法とは違って複数形のエロヒームと言う名詞に関わる動詞は単数形で表現する事を原則としていると言われています。
創世記1章1節でその事が分かります。 ※「創1:1はじめに神は天と地とを創造された。」創世記1章1節の「創造された」と翻訳されているヘブル語動詞「バーラー」は男性形で単数となっています。この「バーラー」は神のみに使用されていると言われています。しかし、天と地を創造された「神」はヘブル語の複数形の名詞である「エロヒーム」が使用されているのです。
※J-バイブルでは、真の唯一の神をさす単数形エルは250回)ほど使用。しかし唯一の真の神をさす言葉として複数形エロヒームは2500回ほど使用。この事実は唯一の神が複数の位格である事を暗示的に啓示している事を教えています。
※J-バイブルでは、エロヒームは2602回旧約聖書に記載されているので、偶像を意味する言葉として使用されているのは100回ほどです。偶像を意味してエロヒームが使用される時は、その動詞は必ず「複数形」が使用されていると言われています。しかし、例外的に、唯一の真の神をさすエロヒームに対して、複数形の動詞や形容詞が使用されている箇所がわずかあります。以下の通りです。
(1)創20:13「 神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、・・」の「離れて、行き巡らせ」と翻されている動詞が複数形。 (2)創35:7において(現れた)と翻訳されている動詞が複数形。
(3)Ⅱサム7:23において(行って、来られて、進んで)と翻訳されている動詞が複数形。 (4)詩篇58:11において(さばく)と翻訳されている動詞が複数形。
(5)ヨシュア24:19「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。きないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。」 ここで使用されている形容詞の「聖」は複数形。
(6)詩篇149:2「イスラエルにその造り主を喜ばせ、シオンの子らにその王を喜ばせよ。」ここで使用されている形容詞の「造り」は複数形。
(7)イザヤ54:5「あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。」ここで使用されている形容詞である「あなたの夫」は複数形。
(8)伝道12:1「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。・・」ここで使用されている形容詞である「あなたの造り」は複数形。
≪真の唯一の神が「われわれ」と複数形の1人称代名詞で啓示されている≫
(1)創1:26「さあ人を造ろう。われわれのかたちに似せて、われわれにかたどって。・・」
(2)創3:22「神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」
(3)創11:7「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」
(4)イザヤ6:8「わたしはまた主の言われる声を聞いた『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』」。
以上のように旧約聖書では4か所において、唯一の真の神が、ご自身を言い表すのに1人称単数形の代名詞「われ」でなく、1人称複数形の代名詞「われわれ」を使っています。それは、唯一の真の神が複数の位格で存在している神である事を暗示的に啓示しています。しかし、その位格の数は明確ではありません。
≪文脈よりの弁証≫
ヘブル語の文法によって、神が唯一であるが同時に複数の位格で啓示されている事が理解出来ます。しかし、唯一の神が2位格なのか、3位格なのか、4位格なのか或いはそれ以上なのかを解明する事はできませんが文脈を調べれば、唯一の神の位格が3位格である事が明確に理解できます。
(1)エロヒームが2位格で啓示されている文脈
◆「詩篇45:6・7神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」
― 解 釈 ―
「あなた」が神を指していますが、同時に「あなた(神)の神」が啓示されていますので、この文脈では神が2位格で啓示されている事がわかります。
◆「ホセア1:7しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、【主】によって彼らを救う。しかし、わたしは弓、剣、戦い、および馬、騎兵によって彼らを救うのではない。」
― 解 釈 ―
ホセア1:7は1:6の続きですので、1:7の「わたし」は「主」をさしている事が分かります。1:7の「わたし(主)は」、「彼らの神、【主】 」によって彼らを救う」と、「主」が2位格で啓示されています。
(2)ヤーウエ(HWHY神聖四文字)が2位格で表現されている文脈。(ヤーウエという固有名詞が日本語訳では「主」と一般名詞で翻訳されている。)真の神だけがヤーウエという固有の名前をもっている。
◆「創19:24そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、」
― 解 釈 ―
硫黄と火とによってソドムとゴモラを滅ぼされる 「【主】」は、その硫黄と火とを「天の【主】のところから」降らせておられるので、この文脈では「主」が2位格で啓示されている事が分かります。
*口語訳
◆「ゼカリヤ2:6「主は仰せられる、さあ、北の地から逃げて来なさい。わたしはあなたがたを、天の四方の風のように散らしたからである。 2:7 さあ、バビロンの娘と共にいる者よ、シオンにのがれなさい。 2:8 あなたがたにさわる者は、彼の目の玉にさわるのであるから、あなたがたを捕えていった国々の民に、その栄光にしたがって、わたしをつかわされた万軍の主は、こう仰せられる、 2:9 「見よ、わたしは彼らの上に手を振る。彼らは自分に仕えた者のとりことなる。その時あなたがたは万軍の主が、わたしをつかわされたことを知る。」
― 解 釈 ―
口語訳のゼカリヤ2章6節から8節では、「わたし」と言う「主」と、その主である「わたし」を遣わされた「万軍の主」の2位格の主が啓示されています。9節は「わたし(主)」を遣わされた「万軍の主」の言葉が啓示されています。9節では「万軍の主」が「万軍の主」を遣わしたことが教えられ、やはり2位格の「万軍の主」が啓示されています。
(3)イザヤ6:8の神の一人称単数形代名詞と一人称複数形代名詞
◆「イザヤ書6:8「わたしはまた主の言われる声を聞いた、『「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』・・・」。
― 解 釈 ―
この聖句では神が自らを一人称単数形代名詞であらわし、同時に一人称複数形代名詞で表現されています。その事は神が唯一でありつつ同時に複数の位格で存在されていることを教えています。
(4)エロヒーム(複数形)とエル(単数形)がセットで使用されている個所
◆「創33:20 そこに祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。」
◆ 「ヨシュア22:22 力ある者、神、主。力ある者、神、主。主は知らしめす。イスラエルもまた知らなければならない。・・」
― 解 釈 ―
エロヒーム(複数形)とエル(単数形)の神がセットで啓示され使用されている事は、唯一の神が2位格以上の存在である事を暗示的に教えていると言えます。
(5)神が3位格で啓示されている文脈
◆「イザヤ42:1 わたしの心の喜ぶわたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」
― 解 釈 ―
イザヤ42章1節では、4回使用されている「わたし」と言う神と、その神が選んだ者と言うメシヤなる神とその神の霊と言う3位格の神が啓示されています。
◆「【新共同訳】イザ48:12 ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。 48:13 わたしの手は地の基を据え/わたしの右の手は天を延べた。わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。 48:14 皆、集まって聞くがよい。彼らのうちに、これを告げた者があろうか。主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い/主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。 48:15 わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる。 48:16 わたしのもとに近づいて、聞くがよい。わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。今、主である神はわたしを遣わし/その霊を与えてくださった。・・」
― 解 釈 ―
イザヤ48章12節から16節では、12回使用されている「わたし」と言う神と、4回使用されている「主」と言う神と、1回使用されている「霊」と言う御霊なる神の3位格の神が啓示されています
※このイザヤ48章16節は旧約聖書においてもっとも明確に三位一体の神を啓示していると言われています。この文脈では「わたし」が子なる神であり、「わたしと御霊を遣わされた神である主」は父なる神であることを啓示しています。
※新改訳聖書では、人を漢字の「私」を使用し、主なる神を一人称単数で表現する時はひらがなの「わたし」で表記することを決めています。イザヤ46章16節の「私」は翻訳委員会の理解では人となっていますが、それは明らかな誤解です。ヘブル語の文脈では「わたし」は全て子なる神を指しているので「私」ではなく、新共同訳のように「わたし」と翻訳するのが正しい翻訳となるでしょう。
◆イザヤ61:11 神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」
― 解 釈 ―
イザヤ61章11節では、2回使用されている「主」と言う父なる神と、3回使用されている「わたし」というメシヤである子なる神と、1回使用されている「霊」と言う御霊なる神の三位格の神が啓示されています。
◆「イザヤ 63:7 私は、【主】の恵みと、【主】の奇しいみわざをほめ歌おう。【主】が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。63:8 主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。 63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 63:10 しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。 63:11 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。 63:12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、 63:13 荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。 63:14 家畜が谷に下るように、【主】の御霊が彼らをいこわせた。」このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。」
― 解 釈 ―
イザヤ書63章7節~14節では12回使用されている「主」と言う父なる神と、1回使用されている「ご自身の使い」というメシヤである子なる神と、3回使用されている「御霊」と言う御霊なる神の三位格の神が啓示されています。
≪ヘブル語で1をあらわすエハドの使用方法からの弁証≫
(1)唯一の神を表す為に使用されているヘブル語「エハド」
◆「申命記6:4聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである」。
この聖句はユダヤ人が最も重要な言葉としている聖句の1つで、シナゴクでは1度は必ず朗読すると言われています。又、ユダヤ人が死の時に最後に唱える言葉でもあるそうです。ユダヤ教のラビはこの聖句を根拠に三位一体を否定し、神は絶対的唯一だと教えています。 しかし、ここで使用され「ただひとり」と訳されているヘブル語「エハド」は旧約聖書では絶対的な「1」として使用されたり、文脈によって集合体の「1」としても使用している事を見落としているか、或いは三位一体論を否定する為に、その事実を無視して絶対「1」として神を理解した可能性があります。
(2)ヘブル語の「1」を表す「エハド」が文脈により、絶対「1」として使用されている例
1日(ヨーム エハド)→創世記27:45、33:13、民数記11:19、Ⅰ王4:22 その他多くあります。
第1の名(シェム ハ エハド)→創世記2:11
(3)集合体の「1」として使用されている例
1つの民(アム エハド)→創世記34:16 「二人は一体である」の1体(バシャル エハド)→創世記2:24民はいっせいにの(ハ アム キ イィシュ エハド)(エズラ記3:1)
「エズ 3:1イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はいっせいにエルサレムに集まって来た」。
この聖句では「いっせい」と訳されていることばが「エハド」です。42,360名の多くのイスラエルの人が集合体の1つ(エハド)で表現されています。(参照ネヘミヤ8:1)
以上聖書のエハドの使用方法と、唯一の神が複数形の名詞エロヒームで表現されている事と、唯一の神がご自身の事を一人称複数形「われわれ」と表現されている事と、或は、唯一の神が文脈の中で2位格や3位格で啓示されたりしている事などを総合的に判断しますと、結論として申命記6:4の「ただひとり」は絶対「1」でなく集合体としての「1」として解釈することが理にかなっていると言えます。
② 新約聖書で啓示されている三位一対の神
旧約聖書で啓示されている三位一体の神を理解する事は少々しんどい作業ですが、新約聖書では、より明確に啓示されていますので、以下に短くお伝えします。
(1) 父なる神の啓示
マタイによる福音書6章では、キリストが弟子達に主の祈りの中で「天にいます私たちの父よ」と呼びかけて祈るように教えられたように、天には「父なる神」がおられる事をキリストは教えられました。新約聖書では父なる神が沢山啓示されています。以下はその聖句の一部です。
◆「マタ 24:36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」
◆「マタ 26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」
◆「ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」
◆「ルカ 23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」
◆「ヨハ 5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
◆「ヨハ 12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
◆「ヨハ 17:5 父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」
◆「ロマ 1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「Ⅰコリ 1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
◆「ヤコブ 1:17 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」
◆「Ⅰペテ 1:2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」
◆「Ⅱペテ 1:17 この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
◆「Ⅰヨハ 1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」
(2) 子なる神の啓示(キリストは子なる神であり万物の創造者)
ヨハネによる福音書では、「ことば」であるキリストが万物の創造者であり、又、子なる神だと教えています。
◆「ヨハ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
◆「ヨハ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
◆「ヨハ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
パウロも、ヘブル人への手紙の著者もキリストが御子なる神であり、万物の創造者だと教えています。
◆「ロマ9:5 父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」
◆「コロ1:16天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
◆「ヘブル1:2 ・・神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」
③御霊なる神の啓示
ヨハネによる福音書では、キリストが御霊なる神を「別の助け主」だと教えておられます。
◆「ヨハ 14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
◆「ヨハ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
◆「ヨハ 15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」
◆「ヨハ 16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」
④父なる神・子なる神・御霊なる神が同等同質である
キリストは、弟子達に全ての人を弟子として「父と子と聖霊の名によってバプテスマ」を施すことを命じられ、父なる神と子なる神と聖霊なる神とが同等同質である事を教えられました。又、パウロも、父なる神と子なる神と御霊なる神の3位格の神が同等同質である事を書簡の最後の祝祷で教えています。
◆「マタ 28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、・・」
◆「Ⅱコリ13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」
⑤神は唯一である
新約聖書も神が唯一である事を教えているます。
◆「Ⅰテモ 1:17 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」
以上のように、新約聖書も旧約聖書と同様に、神は唯一でありつつ、父なる神・子なる神・御霊なる神と言う3位格の神でもある事を教えています。3位格の神は別々の位格を持った独立の神ですが同時に唯一の神ですが、決して複数の神ではありません。三つで一つですので、決して複数の神と呼んではならないのです。そこで、神学者たちが生み出しのが「三位一体の神」と言う神学用語でした。聖書全体からの考察によって、神は唯一ですがユダヤ教の説く「単一神」ではありません。「三位一体の神」なのです。父も神、子も神、御霊も神でありつつ3つの位格の神が同時に永遠に唯一の神であるというのが、聖書の教えです。その神を表現するのに一番適している神学的用語が「三位一体の神」だと言えるでしょう。
≪キリスト者の霊に内住されている聖霊≫
パウロは、キリスト者の霊(心)の中に宿っている事を特に強調して教えています。
◆「ロマ8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。・・ 8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
◆「Ⅰコリ3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」
◆「Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
「ガラ 3:2 これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
「ガラ 3:5 あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。
「ガラ 3:14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。
「ガラ 4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。
◆「エペ 1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。 1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです」。
≪キリスト者の霊に霊なるキリストが内住している≫
聖書は、キリスト者の霊の中には、聖霊なる神だけでなく、子なる神であるキリストが霊によって内住されている事を約束しています。
◆「1ヨハ1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― 1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――」
永遠の命をヨハネは、御子なるキリストだと教えていますので、キリスト者が霊に永遠の命を得ている事は霊なるキリストを得ている事になります。パウロは、ユダヤ人キリスト者だけでなく異邦人キリス者の中にもキリストが霊の中に永遠に内住されていると教えています。 ◆「コロ1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」。
キリスト者の霊の中に霊のキリストが宿っているので、その関係を一つ霊だとパウロは教えています。つまり、キリスト者の霊と霊なる主は永遠に一体化された存在とされたのです。キリスト者を通して主が人に触れられる時、同時にその人はキリスト者の霊に触れるのです。キリスト者の霊に触れる者は同時に霊なる主に触れるのです。
◆「Ⅰコリ 6:17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
≪キリスト者の霊に霊なる父なる神が内住されている≫
罪が赦された人の霊の中に、キリストが永遠に内住されている事は同時に、聖霊と父なる神が宿っている事を意味しています。それは、御子なるキリストと聖霊と父なる神は共に永遠に一体の関係の中にある三位一体の神であるからです。
父なる神の内住についてはヨハネが次のように教えています。
◆「Ⅰヨハ4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。 4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。 4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」
私たちの罪の為に身代わりの刑罰を受ける為に、私達の全ての罪を背負って十字架にかかり、三日目にご復活をされた神の御子キリストを救い主と信じ、罪赦された全ての人の霊の中に、なんと、愛に満ち溢れた父なる神、御子なる神キリスト、聖霊なる神である栄光の三位一体の神が永遠に内住して下さっているのです。
【終わりに】
キリスト者の霊の中に聖書が啓示している栄光の三位一体の神が、永遠に内住されている目的は、キリスト者の生活の全てに関わって、また、福音宣教の奉仕の為に、必要な力と愛と知恵と導きと助けを与えて下さる為です。キリスト者はその為には、いつも最善の神を喜びつつ、常に自分を無にして、自分の知恵や能力の全て神の手に委ねて、産まれたばかりの赤子のようになって、心を低くして神さまに何事も祈りつつ取り組む事、そして神のなされている万事に対して感謝に溢れながら、日々主のお導きに従う事です。それが、聖霊に満たされ続け、隣人を救う福音を宣教する為の神の力を受け続ける道なのです。