「創造主と共に歩みましょう」
聖書:伝道の書12章1節14節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
今日は、子どもの日に因んでの礼拝ですので、子どもたちの幸せ、平安、喜びの為に、メッセージを準備させて頂きました。子どもの日の前後は、春の連休で、家族そろって旅行に行ったり、行楽地に遊びに行ったり、万博に出かけたり、美味しい食事をしたり、それぞれの御家庭が色々と計画して、日ごろとは違った楽しみの時をもってリフレッシュしようとされています。人間の心と言うのは、外側の環境に影響されて、喜んだり悲しんだり苦しんだりします。寒い、熱い、お腹がすいた、のどが渇いた、病気や怪我、友達から悪口を言われた、陰口を言われた、批判されたなど、外側から受ける悪い事で、心は喜びや幸せや平安を失ってしまう大変弱い存在です。逆に、適当な気候や美しい景色を満喫したり、美味しいものを食べたり、人から褒められたり、喜ばれたりすると、嬉しくなったり、喜んだり、幸せを感じたりします。ですから、人は外側の環境に左右されて人生を一喜一憂して生きているわけです。そのような、私達が、外側の環境に左右されることが、だんだん少なくなって、心の平安を保って生きる率が多くなっていくには、私達を創造された全知全能の創造主と共に歩む事が必要だと聖書は教えています。
1、伝道の書12章1節~2節の解釈
若い時は、大きな病気は、障害がなければ、何かあっても体力もあり、知力あり、色々な可能性があるので、希望をもって歩む事が出来ますが、年を重ね高齢者になって、体力が落ち、耳が遠くなり、目も霞、知力も衰え、やるべきことが少なくなり、連れ合いもなくなってしまうと、孤独や不安が支配し、死にたいと思ったりすることが多くなります。そうした、不安と孤独と希望もなく死にたいという否定的な思い支配されて死んでいく哀れな人の最後を伝道の書12章の1節の後半と2節では「災いの日」とか「なんの喜びもない日」とか、或は、「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう」と言う心が暗くなる日だと、教えています。そのような日が来る前に、あなたの若い日に愛と正義と知恵と力に満ちた、あなたの創造主を信じて、創造主と共に歩む事を勧めています。
2、12章3節~6節の解釈
3節から6節は、「何の楽しみもない」というその老年期の日を更に象徴的に教えています。
①「家を守る者は震える」
家を守っていたお父さんが年老いて体力の減退からくるからだを震わせながら弱弱しく日々を生きている様子を教えています。。
②「力ある男たちは身をかがめ」
若い時は大変元気だった男の人たちが、年老いて足腰が弱くなって身をかがめながら歩く様子、腰が曲がってよぼよぼとしている様子を表しています。
③「粉ひき女たちは少なくなって仕事を止め」
「粉を引き女たち」とは、“歯” を象徴しています。「粉を引く」と訳されているヘブル語トーンは “臼歯” を象徴しています。そして、「少なくなって仕事をやめ」とは、歯が抜けてしまうのでかみ砕けず、消化できない様子を表しています(歯が “嚙む” という仕事ができないということ)
④「窓からながめている女の目は暗くなる」
年老いて「視力が低下している状態」や「何を見ても刺激を受けない(楽しめない)様子を表現しています。
⑤「通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり」」
「通りのとびら閉ざされて」は、聴力の衰えを象徴的に教えています。老いると耳の聞こえが聞こえづらくなり、朝食の準備等で臼を引く音も聞こえなくなっている様子を表しています。
⑥「鳥の声に起き上がり」
年老いると鳥が鳴く早朝に目覚てしまう(眠りが浅い)様子を教えています。
⑦「歌を歌う娘たちはみなうだれる」
歌う女性たちががっかりするほど、年老いた人が聴力の衰えによって、若時は楽しんでいた女性たちの美しい歌声が聞こえず楽しめない様子。
⑧「彼らは高い所を恐れる、道で怯える」
若い時には「高い所」が何でもなかったにもかかわらず、体力や反射神経の衰えによって高所恐怖症や、道を歩くことも怖く感じる様子を表しています。
⑨「アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、」
白い花のアーモンドは老人の白髪を象徴しています。「アーモンドの花は咲き」は、若い時には誇っていた黒髪がすっかり白髪となった老人の寂しい様子を表しています。「いなごののろのろ歩き」は、若いいなごは元気でぴょんぴょんと飛び跳ねていますが、寿命が近づいて元気を失ったいなごがのろのろ歩くように、老人もそのようにのろのろと元気なく歩いている様子を教えています。
➉「ふうちょうぼくは花を開く」
この植物の若芽は漬物にされ,食欲を刺激する香辛料として食用にされます。ふうちょうぼくはそのような特質があることで古代から知られてきましたので「ふうちょうぼく」と訳されるヘブル語のアビオナは「欲望を刺激するという意味でも使用されています。それで,「伝道の書」の筆者は,老人の味覚が衰え,食欲が減退すると,ふうちょうぼくの実の刺激をもってしても食物に対する欲求を呼び覚ますことはできない、楽しみがなくなる様子を表しています。
⑪「人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」
老人になって死んで行った人を悲しんでいる葬送の列を表現しています。
⑫「こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。」
「銀のひも・・・金の器」は、当時の吊り下げ式の照明器具のことで、明かりは “いのち” を表し、それが「切れ・・・打ち砕かれ」るとは、もう火が灯されない(輝かない)状態なので、“死” を表しています。
「水がめが泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる」とは、どちらも水(=いのち)を汲むことができない状態なので、これも “死” を表します。
3、人間の肉体の死後、その霊はどうなる
伝道の書の著者は、若い時に創造主の愛と正義は人間にとって最高最善の喜ばしい事だという真理を受け入れいないで、創造主を無視して歩むと、老人になってから、老衰の為に寂しさ、孤独、悲しさなどを多く体験しながら、わびしく死んで行きますよ。そうならない為に、若い時に愛と正義をもって知恵と力をもって一人ひとりを個性豊かに、尊い神の形に似せて創造された創造主を創造主として喜び、創造主と一緒に人生を歩んで行きましょう。そうすれば、この地上の生活だけでなく、死後においても喜びに満ちた幸福な永遠の世界が待っていますよと教えているのです。創造主を否定して、老人になってわびしく死んでいく人の肉体はちりで出来ているのでちりに帰り、霊はそれを授けて下さった創造主に帰ります。しかし、その霊が、この地上で創造主に罪赦されて創造主と共に歩んだ人であれば、その霊は神さまがご準備下さった平安と喜びに満ちたところへ導かれますが、そうでない人の霊は、地球の真ん中にある苦しみが永遠に続く「陰府」へと落とされます。ルカによる福音書16章で、キリストは貧しいラザロは死んでから彼の霊はアブラハムの懐と呼ばれる平安な場所へ導かれ、貧しいラザロを一つも顧みず、創造主と共に歩まなかった冷酷な金持ちは死んでから、苦しみの陰府に落とされて苦しんでいる事を実話として教えられました。「16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると・・」。詳細は時間の都合でお話できませんが。是非ルカ16章を読んで見て下さい。又、へブル書でも9章27節で次のように教えられています。「9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と。
創造主と共に歩まない間違った人生は、老人になって不幸になるばかりでなく、永遠に不幸になるというのが聖書の教えです。その事を、伝道の書の著者は良く知っていましたので、若い人たちに向かって「あなたの若い日にあなたの創造主を覚えなさい」と、愛をもって叫び呼びかけたのです。
4、私達の創造主は誰か
では、私達を創造されたのは誰でしょうか。それは、私たちの罪の赦しの為に、十字架で私達の全ての罪を背負って身代わりの刑罰を受けて死なれたイエス・キリストです。イエス・キリストは父なる神のご計画とアイディアと御心によって考案された人間を全て、父なる神の命令に従って一人ひとりをそれぞれの母の胎内で創造された創造主です。新約聖書は繰り返し、キリストが私達全てのものの創造主だと教えています。その代表的な聖句をお伝えします。
①神の御子イエス・キリストが天地万物を創造した事を教えている聖句
◆「ヨハ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」、
◆「コロ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
◆「Ⅰコリ8:6・・また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」
◆「ヘブル1:1b神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」
ヨハネによる福音書ではキリストは、人となられた神である独り子の神の御子だと教えています。
◆「ヨハ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
キリストは全知全能の偉大なる創造主であり同時に偉大な人であるのです。キリストは偉大なる人であり同時に全知全能の偉大なる創造主の神なのです。その創造主の神さまは宇宙に満ち満ちている方で、何処にでもおられるお方なのです。
②創造主の御子イエス・キリストを讃える聖句
1)詩篇8篇1節と9節
「詩 8:1 【主】よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。」
「詩 8:9 【主】よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。」
2)詩篇139篇7-12節:
「主よ、あなたが去ってどこへ行けばよろしいでしょう。あなたが私を追い出せば、どこへ逃げればよろしいでしょう。もし私が天に昇っても、あなたはそこにいらっしゃいます。私が冥府に沈んでも、あなたはそこにいらっしゃいます。もし私が東の果てに飛んで行っても、あなたがそこにもいらっしゃいます。あなたの右手が私を導いてください。私が暗闇の中に行っても、光はあなたのものであるでしょう。夜は光のように、暗闇はあなたに覆われています。暗闇と光はあなたに変わりません。」
3)イザヤ書66篇1節
「天はわたしの座であり、地はわたしの足元の踏み台である。」
4)使徒17章28節
「・・『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。
③御子イエス・キリストは万物の超越と貫通と内在と偏在の神
◆「エペソ4:6すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」
以上の聖句は、父なる神の万物に対しての超越性、貫通性、内在性(偏在性)という特性を教えている聖句ですが、それは同時、御子イエス・キリストの特性でもあるのです。それは、キリストと父なる神は一体だからです。
人となれたキリストは神である事をやめられたのではありません。神でありつつ人となられたのです。聖書の神さまは、父なる神と子なる神と聖霊なる神の三つの神さまでありつつ一つの神です。切っても切っても切り離されない一体の関係をお持ちです。ですから、キリストはいつも父なる神と聖霊なる神とご一緒におられます。父なる神が全ての場所におられれば、キリストも聖霊も全ての場所におられるのです。
キリストは人として地上におられながらも、同時に神として父なる神と共に全ての場所に臨在されている偏在の神です。キリストは死んで甦って天におられますが、同時に、あらゆる所におられる父なる神と共にあらゆる所におられる偏在のお方です。キリストは偏在の神であり、普遍的な神なのです。
④キリストは今も人間を創造されている創造主
ですから、キリストは、天地万物を父なる神の命令に従い創造されただけでなく、万物を保持されています。万物を保持されている事は、同時に人類の歴史を統治されているお方でもあるのです。人類の歴史、地球の歴史を統治されている事は、アダムとエバ以外の、過去、現在、未来の全ての人を、それぞれの母の胎内で、父なる神の命令と設計に従って創造された一人ひとりの創造主だという事を教えています。創造主の神と共に歩むという事は、十字架で罪の身代わりに死んで三日目に甦り、天の昇られたイエス・キリストと父なる神と聖霊なる三位一体の神さまと共に歩む事を意味しています。直接、私達を創造されたのは、十字架で私達の罪を背負って身代わりの刑罰を受け、罪なき尊い血をお流し下さったイエス・キリストなのです。十字架で命がけの犠牲の愛を示されたお方が、あなたの創造主です。わたしは、18歳から20歳にかけて、キリストを信じ、創造主を信じましたが、当初は、キリストと創造主は別々の存在として認識していましたが、聖書を学ぶうちに、キリストが父なる神の設計と命令に従って天地万物を創造され、保持され、歴史を統治され、私を母の胎内で創造されたおかただとさらにキリストに対して親近感がわいてきたのです。
創造主と共に人生を幸せに歩んで行くには、十字架で私達の罪を背負って死なれたキリストが、わたしの救い主であり、わたしの創造主だと信じる信仰が必要になります。パウロが誰でも、聖霊によらなければイエスを主という事は出来ないと教えました。その意味は、人となられ十字架で人類の罪を背負って死なれたお方が「わたしの創造主」だと信じる事が出来るのは、聖霊によって諭されて初めて信じる事ができるという意味です。
キリストの謙遜、キリストの御教え、キリストの奇跡は、キリストが全知全能の神だと教えています。キリストが全知全能の神だという事は、キリストは人でありつつも、万物に内在されつつ何処にでも偏在され、宇宙に満ち満ちているお方であり、アダムとエバのみならず、彼らから生まれて来た、あなたのお父さん、お母さん、あなたの兄弟、そしてあなたも母の胎内で創造された創造主である事を教えています。キリストは、約2000年後に生まれる、わたしやあなたの創造主として、あなたやわたしの全ての事を知ったうえで、また、あなたやわたしがどのような罪を犯すか全てご存知の上で、その全ての罪を十字架で背負って父なる神から身代わりの刑罰をお受け下さって死んで下さったのです。
キリストが私の創造主であり、救い主だと信じるその信仰だけで、全ての罪がすぐに永遠に赦され、永遠の命が与えられ、決して裁かれない者となります。また、父子聖霊の三位一体の神が、永遠にあなたの霊の中にお住い下さいます。それが、キリストを信じる者が創造主である父なる神、創造主であるキリスト、創造主である聖霊と共に人生を歩んで行くために不可欠な恵みなのです。キリストを救い主だと信じた人は永遠に罪が赦されて、永遠の命が与えられ、永遠に創造主との和解、平和、愛の交わりの中に置かれた者となったのです。
5、創造主と共に歩む具体的な在り方
最後に、創造主の神との和解、平和、愛の交わりの中にある者として、創造主と共に、日々を歩んで行くとはどういうことなのか具体的な在り方お話をしたいと思います。
それは、キリストのようにいつも自分を無にする事です。自分の持っている知恵、力、体験、年齢、能力、賜物を
先ず、傍らにおいて自分を無にしてゼロにして、神さまに助けを祈り求める事です。私達は、全知全能でないので、失敗や過ちを犯す可能性がいつもあります。例えば、車を運転する時の事を考えてみましょう。自分が事故らない、事故に遭わないという絶対的な確実性をもっている人は一人もいません。人間は、失敗をするものです。それは絶対的なものです。何故人は標識を見誤ったり、気が付かなかったりして逆走し大きな事故を起こすのでしょうか。なぜ人は大きな事故に巻き込まれるのでしょうか。その他、思いがけず色々な事故を引き起こしたり、事故に遭遇します。夏休みでは、しばしば海や川で水の事故で人が亡くなります。自分では、大丈夫だと思って車を運転したり、レジャーを楽しんだりしていますが、思いがけない事で事故に遭遇して命を殺めたり、失ったり、大けがをすることが多々あります。全知全能であれば、そうした事故を避ける事が出来ますが、残念ながら人は全知全能ではありません。ですから、私達は、自分の知恵や、能力や、体験や、賜物を先ず、傍らにおいて、自分を無知な者、無能な者、無体験な者として、全知全能の愛に満ちた偉大な創造主の神さまに祈り助けを求める事が必要なのです。つまり、神さまの助けがなければ何もできない者だと思って、産まれたばかり赤ちゃんのように思って、神さまの知恵、力、愛に徹底してより頼んで祈りをもって、日々の生活を、仕事を、奉仕を、運転をする事です。そうすると、永遠に共にいて下さる創造主の神さまが愛をもって、色々な失敗や過ちや危険から守って下さるのです。
ヤコブ書でその事を次のように教えています。
◆「ヤコブ4:13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。 4:14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。 4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」 ですから、私達は詩篇121篇の作者のように創造主の絶対の助けを信じて祈るべきです。
◆「詩121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 121:2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。 121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。・・」
創造主の愛と正義と約束を信頼して、日々、いつも祈りながらことをなす人は幸いです。詩篇2篇12節で「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人はと教えられています。
創造主の神さまであるキリストは、あなたの祝福と幸福を願ってあなたを創造され、又、あなたの罪の赦しと救いを願って十字架であなたの全ての罪を背負って身代わりに刑罰をお受けになった救い主です。伝道の書3章では、キリストのなさる事は、いつも時に叶って美しい(最高最善)と教えられています。
6、創造主のなさることは全て時に叶って最高最善である
◆「伝 3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。」
キリストはキリストを信じているあなたの頭のてっぺんからつま先まであなたを覆うっているあなたの霊と共に永遠に共にいて下さって、あなたの悲しみや苦しみ、又、喜びをご自分の悲しみ、苦しみ、ご自分の喜びとして共有されながら、日々あなたをあらゆる危険から守り、平安と喜びを与えようとされています。その恵みと祝福を受けるには、先ず、あなたがご自分を無にして、無知無能の立場において、産まればかりの赤ちゃんのようになる事です。その上で、毎日、毎日体験する全ての出来事が、初めて体験する神が与えて下さった最高最善の喜ばしき出来事して感謝する事です。その感謝の内に、何事も神さまの助けを求めて祈り頼る事です。されに、神さまの細き導きの御声に従って日々を生きる事です。それを伝道の12章13節で次のように教えています。「12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 12:14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」
私達が日々、自分を無にすると言う謙遜をもって、神に祈りつつ、神に聞き従って事をなす時に、必ず神さまから幸福と祝福が与えられて生かされて行きます。逆に、傲慢になって自分の知恵や、体験や、能力に頼って生きて行く時には、その間違いを正す為に、神さまの愛の訓練としての試練や苦難を通過させられるのです。神を恐れつつ、日々神様に祈り聞き従いましょう。それが本来の人間の正しい在り方なのです。
【終わりに】
創造主の愛と力を信じて穏やかにして信頼しているならば力を得ると聖書は約束しています。今日産まれたばかりの赤ちゃんのようになって全ての事に感謝しながら、全ての事で主に頼って、主の導き従って日々を歩んで行く時に、間違いなく、主は聖霊を働かせて力を与えて下さるのです。その力は時に爽快な風のように心に吹いてきて、大変爽やかな気持ちをもたらし、私達の心身を力づけるのです。 若い時から、心を込めて一人ひとりを創造して下さった愛と正義の創造を、自分にとって最高最善の喜ばしきお方だという真理を受け入れ、創造主を心から喜び賛美する心の習慣を身につけましょう。また、日々創造主に頼りつつ、その導きに従う生活習慣を身につけましょう。そのような生き方を創造主は大変喜ばれ、間違いなくあらゆる事で祝福して下さるのです。 あなたを設計されたのは父なる神ですが、父なる神の設計に基づいてあなたを直接あなたの母の胎内で創造されたお方は、あなたの罪の赦し為に十字架にかかり、三日目にご復活をされたイエス・キリストです。その事を是非信じて下さって、キリストを「わが神、わが主」として受け入れ、キリストを讃えて下さい。
間は、母の胎内でキリストによって創造されたのですが、罪の性質を持ったまま創造されています。ですので、産まれてから、間もなく親が教えないのに嘘をついたり、喧嘩をしたり、物を盗んだり、貪欲の故に多くの罪を犯し始めます。それは、親から罪の性質を遺伝によって受け継いでることにあります。預言者エレミヤが次のように教えています。
◆「エレ 13:23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。」 クシュ人と言うのはエチオピア人の事です。そのクシュ人の皮膚は遺伝ですので、性質になっています。又、雹の斑点も遺伝による性質です。そのような遺伝による性質は、変える事はできません。そのように、ユダヤ人の行う悪や罪はアダムからの罪の性質によるものなので、ユダヤ人は自分を善を行う者に変える事は出来ない」とエレミヤは教えています。
その事を、パウロも教えています。
「ロマ3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
